家の中にある大量の未読本を見ると暗澹とした気分になってしまいます。
そもそも、それらを購入した当初からそんな気持ちを抱えていたわけじゃもちろんなくて、
かつては「その本を読みたい」という純粋かつ前向きな気持ちがあったはずなんです。
なのだから、そんな「読みたくて読みたくて仕方がないもの」が視界の端に映るたびに
憂鬱な気分になり、溜息をつき、加えて謎の罪悪感に駆られるというのは
完全にどうかしていて、条理に反しているとしか言いようがないのだけれど
そんなことを言っても、思ってしまうものは仕方がありません。
僕はもうそういう人間として生きていくしかないのです。生きていきます。
さて、こうしたアンビバレントな感情がどうして発生してしまうのかというと、
当初の、純粋だったはずの「やりたいこと」に対して、いつの間にか
「やらなくてはならない」という義務感が付随してくるからに他なりません。
これは、「いっぱしの本読みであるならば当然読んでおくべきものを、
未だに読み通せていない怠惰な自分」を意識することによって発生するのか、
あるいは「自分で計画したことであるにも関わらず、これを実行していない怠惰な自分」
を意識することによって発生するのか、なんなのかは人によって違うとは思いますが、
おそらくまあこんなところだと思います。
これは本に限らず、映画やライブやテレビについてもあてはまることですし、
また娯楽に対して義務感を覚える似たようなケースとしては
「せっかくの休日なのに無為に過ごしてしまった」という思考パターンが挙げられます。
僕も賃労働で人間からわけのわからぬことを言われ、ほうほうのていで帰宅し、
さあゆっくり本でも読むかとページを開いた瞬間眠ってしまって、夜中3時にハッと目が覚め、
1ページも進んでいない本を見つめながら今日一日を振り返り、
人生の意味とは、と思索に耽っているうちに出社時間を迎えたことは一度や二度ではありません。
そんな生活を送る中で今回の『読んでいない本について堂々と語る方法』という本を手に取りました。
この本ではまず、「読んだとか読んでないとかゴチャゴチャ言っているけど、
そもそも何をもって『読んだ』と言えるのか」というところから考え始めます。
私たちが一般に『本を読む』というとき、本に書かれている文章を
自分の感覚、価値観を通して受け取る一連の行為のことを指します。
文章の内容を本当に「ありのまま」受け取ることができるのなら話は別ですが、
ほとんどの人間は歪んだレンズを通すことでしか文章を認識できないわけで
真に客観的な読書なんてのは現実的にはほぼ不可能に近いです。
しかもその感覚、価値観がずっと同じならまだしも、時を経るにつれそれらはどんどん変わってしまうので
たとえ過去のある時にある本を『読んだ』としても、
それは今の自分の受け取り方とはまるで違う可能性さえ十分にあります。
それだけでなく、一回本を読んだにもかかわらずその内容を忘れてしまう危険性もあります。
この場合、『読んだ』という記憶だけはあるものの、内容はちっとも覚えていないのだから
実質的には『読んでいない』のとなんら変わらないといえるでしょう。
ここまで考えると、『読む』ということの中にあるあやふやさが明らかになり、
果たしてある本を『読んだ』ということと『読んでいない』 ということの間にどれほどの差があるのか、
そこに明確な境界線を引くことなど可能なのか、という疑問が湧いてきます。
そして、ではそれほどあやふやな『読む』という行為に意味などあるのでしょうか。
もし意味がないんだったら、はなっからそんなことに無駄な時間を費やさない方がよっぽどましです。
「私たちが死ぬまでの限られた時間の中で、何をすべきなのか」というのは
人生において非常に重要な命題ですが、本当に『本を読む』ことに時間を割くべきなのでしょうか。
この本ではそれについても検討されています。
まず大前提として、死ぬまでの間に世の中のすべての本を読むことは不可能です。
なのである本を読むという選択は、消極的に他の本を読まないという選択を意味しているといえます。
だとしたら、私たちは限りある時間を有意義に使う必要があります。
そして例えば「教養を身につける」という観点からいえば、
ここで重要になってくるのは「全体の見晴し」という概念だと筆者は言います。
限られた時間の中で日々増え続けていく膨大な数の本を読むのは現実的に不可能だし、
そんな中で一冊ずつ本を読み通そうとしたら、確実に志半ばで死亡してしまいます。
そこで、 個別の本に着目するのではなく「全体の見晴し」に着目するのです。
「全体の見晴し」 とは、本全体から見てある本がどういう位置にあるか、
また他の本とどういった関係にあるのかということを意味します。
このように、個別の本を読むことよりも、全体についての概観を把握する方が重要なのではないか
という可能性が示唆されています。
さて、この本からの長い引用はこれぐらいにして、
ここからは僕が最近生活している中で感じていることを書こうと思うんですが、
それにしても就職したらめちゃくちゃ時間がないですね。
僕は2016年の4月入社なんでそろそろ社会人になって1年ぐらい経つわけですが、
学生のときはジャブジャブ使えていた時間がまったくもってビックリするぐらい足りないわけで、
「これはもうこのペースだとボーっとしていたらすぐ死んでしまうな……」とか
どうしても思わされてしまいます。
だからその限りある時間の中で何をするか、ということについて否が応でも考えさせられてます。
で、その限りある時間の中で「教養を身につける」、「本について語る」という目的に対しては
「全体の見晴し」をつけるのが有効な手法なのでは、とこの本は提案しています。
正直なところ、この本はいわゆる「書物至上主義」、「読書コンプレックス」に対する
アンチテーゼとしての側面も多分にあるように思えるので、易々と鵜呑みにはできないですが 、
それでもこの主張には説得力があるように思えます。
今まで僕は、「ものを知っていなくてはならない」とか「いろんなものを見ていなくてはならない」という
強迫観念じみた考えがあるにも関わらず、そんなことをする時間的余裕もない、という中で
がんじがらめになっているような状態だったんですが、
「そもそもそんなことをする必要があるのか」とか
「なんのためにそうしないといけないと思っているのか」と考えると、正直なところよくわからない、
少なくとも現時点ではハッキリと回答できるような状態ではない、ということに気付きました。
だから、まず「本を読まなくては」と思っている人がいるとして
(前述の通り、これは映画、ライブ、テレビ等にも置き換えられます)、
「そもそも読書なんてそこまで絶対的なものではない」と認識した上で、
「なんのために、どういう目的で本を読むのか」ということについて
省みるのが重要なのでは、と思います。そうすれば「時間がない!」と無意味に焦ったりすることなく、
それぞれのパターンに応じた対処法に辿り着くのでは、という気がします。
例えば目的としては、賢い人間だと思われたいとか、ただただいろんなことについて知りたいとか、
それを通じて友達を作りたいとか、それについて話したいとか、文章を書けるようになりたいとか、
こんな風にいろいろ考えられます。
そしてそれが人生の目的である場合、それに特化した最適戦略をとることが
自分が生きる中で最も重要なことであるはずです。
だってそれが人生の目的だということは、それ以上に優先すべきことなんて
この世に存在しないということなんですから。
逆にそうでない場合、人生の目的が他にあるということで、それならば本を読むということに
そこまで執着する必要はない、もっと優先すべきことをやりましょう、ということです。
だから、生きる上でなにがなくとも優先しなくてはならないこととはなんなのか、ということを
表層的な行動のレベルではなく 、「その行動の裏にある目的は何なのか」
という観念的なレベルまで突き詰める必要があると思ってます。
そして、それだけは絶対に譲らないという意志を持って生活しなくてはならない、
と僕は勝手に思ってます。
そうしなければ、このクソみたいな生活の中で摩耗して、
朝起きて、出社して家に帰って、寝てまた朝起きて出勤して、という
生きてるのか死んでるのかわからない状態で、無意味に、ただただ無意味に消滅していくだけですし、
そんなことはあってはならない、なってたまるかボケ、という感じです。
そもそも、それらを購入した当初からそんな気持ちを抱えていたわけじゃもちろんなくて、
かつては「その本を読みたい」という純粋かつ前向きな気持ちがあったはずなんです。
なのだから、そんな「読みたくて読みたくて仕方がないもの」が視界の端に映るたびに
憂鬱な気分になり、溜息をつき、加えて謎の罪悪感に駆られるというのは
完全にどうかしていて、条理に反しているとしか言いようがないのだけれど
そんなことを言っても、思ってしまうものは仕方がありません。
僕はもうそういう人間として生きていくしかないのです。生きていきます。
さて、こうしたアンビバレントな感情がどうして発生してしまうのかというと、
当初の、純粋だったはずの「やりたいこと」に対して、いつの間にか
「やらなくてはならない」という義務感が付随してくるからに他なりません。
これは、「いっぱしの本読みであるならば当然読んでおくべきものを、
未だに読み通せていない怠惰な自分」を意識することによって発生するのか、
あるいは「自分で計画したことであるにも関わらず、これを実行していない怠惰な自分」
を意識することによって発生するのか、なんなのかは人によって違うとは思いますが、
おそらくまあこんなところだと思います。
これは本に限らず、映画やライブやテレビについてもあてはまることですし、
また娯楽に対して義務感を覚える似たようなケースとしては
「せっかくの休日なのに無為に過ごしてしまった」という思考パターンが挙げられます。
僕も賃労働で人間からわけのわからぬことを言われ、ほうほうのていで帰宅し、
さあゆっくり本でも読むかとページを開いた瞬間眠ってしまって、夜中3時にハッと目が覚め、
1ページも進んでいない本を見つめながら今日一日を振り返り、
人生の意味とは、と思索に耽っているうちに出社時間を迎えたことは一度や二度ではありません。
そんな生活を送る中で今回の『読んでいない本について堂々と語る方法』という本を手に取りました。
この本ではまず、「読んだとか読んでないとかゴチャゴチャ言っているけど、
そもそも何をもって『読んだ』と言えるのか」というところから考え始めます。
私たちが一般に『本を読む』というとき、本に書かれている文章を
自分の感覚、価値観を通して受け取る一連の行為のことを指します。
文章の内容を本当に「ありのまま」受け取ることができるのなら話は別ですが、
ほとんどの人間は歪んだレンズを通すことでしか文章を認識できないわけで
真に客観的な読書なんてのは現実的にはほぼ不可能に近いです。
われわれが話題にする書物は、「現実の」書物とはほとんど関係がない。(中略)あるいは、こう言ったほうがよければ、われわれが話題にするのは書物ではなく、状況に応じて作りあげられるその代替物である。(p.84)
しかもその感覚、価値観がずっと同じならまだしも、時を経るにつれそれらはどんどん変わってしまうので
たとえ過去のある時にある本を『読んだ』としても、
それは今の自分の受け取り方とはまるで違う可能性さえ十分にあります。
このことを理解するには、われわれが子どものときに好きだった本を「現実の」本と比べてみるだけで十分だろう。そうすれば、 書物についてのわれわれの記憶、とくに自分の分身といえるほど大事に思われた書物の記憶が、われわれがその時々に置かれている状況と、その状況が内包する無意識的価値によって、いかに不断に再編成されているかが分かるはずである。(p.86)
それだけでなく、一回本を読んだにもかかわらずその内容を忘れてしまう危険性もあります。
この場合、『読んだ』という記憶だけはあるものの、内容はちっとも覚えていないのだから
実質的には『読んでいない』のとなんら変わらないといえるでしょう。
私は、本を読む一方で、読んだことを忘れはじめる。これは避けられないプロセスである。このプロセスは、あたかも本を読まなかったかのように感じる瞬間まで続く。読まないも同然の状態、そんなことなら読まなかったのにと思う状態まで続くのである。 (中略)こうしてわれわれは、われわれ自身および他人と、本についてというより、本の大まかな記憶について語るのである。その記憶が、そのときそのときの自分の置かれた状況によって改変されたものであることはいうまでもない。(p.89)
ここまで考えると、『読む』ということの中にあるあやふやさが明らかになり、
果たしてある本を『読んだ』ということと『読んでいない』 ということの間にどれほどの差があるのか、
そこに明確な境界線を引くことなど可能なのか、という疑問が湧いてきます。
そして、ではそれほどあやふやな『読む』という行為に意味などあるのでしょうか。
もし意味がないんだったら、はなっからそんなことに無駄な時間を費やさない方がよっぽどましです。
「私たちが死ぬまでの限られた時間の中で、何をすべきなのか」というのは
人生において非常に重要な命題ですが、本当に『本を読む』ことに時間を割くべきなのでしょうか。
この本ではそれについても検討されています。
まず大前提として、死ぬまでの間に世の中のすべての本を読むことは不可能です。
なのである本を読むという選択は、消極的に他の本を読まないという選択を意味しているといえます。
本を読むことは、本を読まないことと表裏一体である。どんなに熱心な読書家においても、ある本を手に取り、それを開くということは、それとは別の本を手に取らず、開きもしないということと同時的である。読む行為はつねに「読まない行為」を裏に隠しているのだ。「読まない行為」は意識されないが、われわれはそれをつうじて別の人生では読んだかもしれないすべての本から目を背けているのである。(p.27)
だとしたら、私たちは限りある時間を有意義に使う必要があります。
そして例えば「教養を身につける」という観点からいえば、
ここで重要になってくるのは「全体の見晴し」という概念だと筆者は言います。
限られた時間の中で日々増え続けていく膨大な数の本を読むのは現実的に不可能だし、
そんな中で一冊ずつ本を読み通そうとしたら、確実に志半ばで死亡してしまいます。
そこで、 個別の本に着目するのではなく「全体の見晴し」に着目するのです。
「全体の見晴し」 とは、本全体から見てある本がどういう位置にあるか、
また他の本とどういった関係にあるのかということを意味します。
教養ある人間が知ろうとつとめるべきは 、さまざまな書物のあいだの「連絡」や「接続」であって、個別の書物ではない。(中略)これを敷衍していえば、教養の領域では、さまざまな思想のあいだの関係は、個々の思想そのものよりもはるかに重要だということになる。(p.32)
教養があるとは、しかじかの本を読んだことがあるということではない。そうではなくて、全体のなかで自分がどの位置にいるかが分かっているということ、すなわち、諸々の本はひとつの全体を形づくっているということを知っており、その各要素を他の要素との関係で位置づけることができるということである。(中略) したがって、教養ある人間はしかじかの本を読んでいなくても別にかまわない。彼はその本の内容はよく知らないかもしれないが、その位置関係は分かっているからである。つまり、その本が他の諸々の本にたいしてどのような関係にあるかは分かっているのである。ある本の内容とその位置関係というこの区別は肝要である。どんな本の話題にも難なく対応できる猛者がいるのは、この区別のおかげなのである。(pp.33-34)
このように、個別の本を読むことよりも、全体についての概観を把握する方が重要なのではないか
という可能性が示唆されています。
さて、この本からの長い引用はこれぐらいにして、
ここからは僕が最近生活している中で感じていることを書こうと思うんですが、
それにしても就職したらめちゃくちゃ時間がないですね。
僕は2016年の4月入社なんでそろそろ社会人になって1年ぐらい経つわけですが、
学生のときはジャブジャブ使えていた時間がまったくもってビックリするぐらい足りないわけで、
「これはもうこのペースだとボーっとしていたらすぐ死んでしまうな……」とか
どうしても思わされてしまいます。
だからその限りある時間の中で何をするか、ということについて否が応でも考えさせられてます。
で、その限りある時間の中で「教養を身につける」、「本について語る」という目的に対しては
「全体の見晴し」をつけるのが有効な手法なのでは、とこの本は提案しています。
正直なところ、この本はいわゆる「書物至上主義」、「読書コンプレックス」に対する
アンチテーゼとしての側面も多分にあるように思えるので、易々と鵜呑みにはできないですが 、
それでもこの主張には説得力があるように思えます。
今まで僕は、「ものを知っていなくてはならない」とか「いろんなものを見ていなくてはならない」という
強迫観念じみた考えがあるにも関わらず、そんなことをする時間的余裕もない、という中で
がんじがらめになっているような状態だったんですが、
「そもそもそんなことをする必要があるのか」とか
「なんのためにそうしないといけないと思っているのか」と考えると、正直なところよくわからない、
少なくとも現時点ではハッキリと回答できるような状態ではない、ということに気付きました。
だから、まず「本を読まなくては」と思っている人がいるとして
(前述の通り、これは映画、ライブ、テレビ等にも置き換えられます)、
「そもそも読書なんてそこまで絶対的なものではない」と認識した上で、
「なんのために、どういう目的で本を読むのか」ということについて
省みるのが重要なのでは、と思います。そうすれば「時間がない!」と無意味に焦ったりすることなく、
それぞれのパターンに応じた対処法に辿り着くのでは、という気がします。
例えば目的としては、賢い人間だと思われたいとか、ただただいろんなことについて知りたいとか、
それを通じて友達を作りたいとか、それについて話したいとか、文章を書けるようになりたいとか、
こんな風にいろいろ考えられます。
そしてそれが人生の目的である場合、それに特化した最適戦略をとることが
自分が生きる中で最も重要なことであるはずです。
だってそれが人生の目的だということは、それ以上に優先すべきことなんて
この世に存在しないということなんですから。
逆にそうでない場合、人生の目的が他にあるということで、それならば本を読むということに
そこまで執着する必要はない、もっと優先すべきことをやりましょう、ということです。
だから、生きる上でなにがなくとも優先しなくてはならないこととはなんなのか、ということを
表層的な行動のレベルではなく 、「その行動の裏にある目的は何なのか」
という観念的なレベルまで突き詰める必要があると思ってます。
そして、それだけは絶対に譲らないという意志を持って生活しなくてはならない、
と僕は勝手に思ってます。
そうしなければ、このクソみたいな生活の中で摩耗して、
朝起きて、出社して家に帰って、寝てまた朝起きて出勤して、という
生きてるのか死んでるのかわからない状態で、無意味に、ただただ無意味に消滅していくだけですし、
そんなことはあってはならない、なってたまるかボケ、という感じです。