何のために読むのか。『読んでいない本について堂々と語る方法』

家の中にある大量の未読本を見ると暗澹とした気分になってしまいます。
そもそも、それらを購入した当初からそんな気持ちを抱えていたわけじゃもちろんなくて、
かつては「その本を読みたい」という純粋かつ前向きな気持ちがあったはずなんです。
なのだから、そんな「読みたくて読みたくて仕方がないもの」が視界の端に映るたびに
憂鬱な気分になり、溜息をつき、加えて謎の罪悪感に駆られるというのは
完全にどうかしていて、条理に反しているとしか言いようがないのだけれど
そんなことを言っても、思ってしまうものは仕方がありません。
僕はもうそういう人間として生きていくしかないのです。生きていきます。

さて、こうしたアンビバレントな感情がどうして発生してしまうのかというと、
当初の、純粋だったはずの「やりたいこと」に対して、いつの間にか
「やらなくてはならない」という義務感が付随してくるからに他なりません。
これは、「いっぱしの本読みであるならば当然読んでおくべきものを、
未だに読み通せていない怠惰な自分」を意識することによって発生するのか、
あるいは「自分で計画したことであるにも関わらず、これを実行していない怠惰な自分」
を意識することによって発生するのか、なんなのかは人によって違うとは思いますが、
おそらくまあこんなところだと思います。

これは本に限らず、映画やライブやテレビについてもあてはまることですし、
また娯楽に対して義務感を覚える似たようなケースとしては
「せっかくの休日なのに無為に過ごしてしまった」という思考パターンが挙げられます。
僕も賃労働で人間からわけのわからぬことを言われ、ほうほうのていで帰宅し、
さあゆっくり本でも読むかとページを開いた瞬間眠ってしまって、夜中3時にハッと目が覚め、
1ページも進んでいない本を見つめながら今日一日を振り返り、
人生の意味とは、と思索に耽っているうちに出社時間を迎えたことは一度や二度ではありません。

そんな生活を送る中で今回の『読んでいない本について堂々と語る方法』という本を手に取りました。
この本ではまず、「読んだとか読んでないとかゴチャゴチャ言っているけど、
そもそも何をもって『読んだ』と言えるのか」というところから考え始めます。
 
私たちが一般に『本を読む』というとき、本に書かれている文章を
自分の感覚、価値観を通して受け取る一連の行為のことを指します。
文章の内容を本当に「ありのまま」受け取ることができるのなら話は別ですが、
ほとんどの人間は歪んだレンズを通すことでしか文章を認識できないわけで
真に客観的な読書なんてのは現実的にはほぼ不可能に近いです。

われわれが話題にする書物は、「現実の」書物とはほとんど関係がない。(中略)あるいは、こう言ったほうがよければ、われわれが話題にするのは書物ではなく、状況に応じて作りあげられるその代替物である。
(p.84)


しかもその感覚、価値観がずっと同じならまだしも、時を経るにつれそれらはどんどん変わってしまうので
たとえ過去のある時にある本を『読んだ』としても、
それは今の自分の受け取り方とはまるで違う可能性さえ十分にあります。
 
このことを理解するには、われわれが子どものときに好きだった本を「現実の」本と比べてみるだけで十分だろう。そうすれば、 書物についてのわれわれの記憶、とくに自分の分身といえるほど大事に思われた書物の記憶が、われわれがその時々に置かれている状況と、その状況が内包する無意識的価値によって、いかに不断に再編成されているかが分かるはずである。
(p.86)


それだけでなく、一回本を読んだにもかかわらずその内容を忘れてしまう危険性もあります。
この場合、『読んだ』という記憶だけはあるものの、内容はちっとも覚えていないのだから
実質的には『読んでいない』のとなんら変わらないといえるでしょう。

私は、本を読む一方で、読んだことを忘れはじめる。これは避けられないプロセスである。このプロセスは、あたかも本を読まなかったかのように感じる瞬間まで続く。読まないも同然の状態、そんなことなら読まなかったのにと思う状態まで続くのである。 (中略)こうしてわれわれは、われわれ自身および他人と、本についてというより、本の大まかな記憶について語るのである。その記憶が、そのときそのときの自分の置かれた状況によって改変されたものであることはいうまでもない。
(p.89)


ここまで考えると、『読む』ということの中にあるあやふやさが明らかになり、 
果たしてある本を『読んだ』ということと『読んでいない』 ということの間にどれほどの差があるのか、
そこに明確な境界線を引くことなど可能なのか、という疑問が湧いてきます。 

そして、ではそれほどあやふやな『読む』という行為に意味などあるのでしょうか。
もし意味がないんだったら、はなっからそんなことに無駄な時間を費やさない方がよっぽどましです。
「私たちが死ぬまでの限られた時間の中で、何をすべきなのか」というのは
人生において非常に重要な命題ですが、本当に『本を読む』ことに時間を割くべきなのでしょうか。
この本ではそれについても検討されています。

まず大前提として、死ぬまでの間に世の中のすべての本を読むことは不可能です。
なのである本を読むという選択は、消極的に他の本を読まないという選択を意味しているといえます。

本を読むことは、本を読まないことと表裏一体である。どんなに熱心な読書家においても、ある本を手に取り、それを開くということは、それとは別の本を手に取らず、開きもしないということと同時的である。読む行為はつねに「読まない行為」を裏に隠しているのだ。「読まない行為」は意識されないが、われわれはそれをつうじて別の人生では読んだかもしれないすべての本から目を背けているのである。
(p.27)

だとしたら、私たちは限りある時間を有意義に使う必要があります。
そして例えば「教養を身につける」という観点からいえば、
ここで重要になってくるのは「全体の見晴し」という概念だと筆者は言います。
限られた時間の中で日々増え続けていく膨大な数の本を読むのは現実的に不可能だし、
そんな中で一冊ずつ本を読み通そうとしたら、確実に志半ばで死亡してしまいます。
そこで、 個別の本に着目するのではなく「全体の見晴し」に着目するのです。
「全体の見晴し」 とは、本全体から見てある本がどういう位置にあるか、
また他の本とどういった関係にあるのかということを意味します。

教養ある人間が知ろうとつとめるべきは 、さまざまな書物のあいだの「連絡」や「接続」であって、個別の書物ではない。(中略)これを敷衍していえば、教養の領域では、さまざまな思想のあいだの関係は、個々の思想そのものよりもはるかに重要だということになる。
(p.32)
教養があるとは、しかじかの本を読んだことがあるということではない。そうではなくて、全体のなかで自分がどの位置にいるかが分かっているということ、すなわち、諸々の本はひとつの全体を形づくっているということを知っており、その各要素を他の要素との関係で位置づけることができるということである。(中略) したがって、教養ある人間はしかじかの本を読んでいなくても別にかまわない。彼はその本の内容はよく知らないかもしれないが、その位置関係は分かっているからである。つまり、その本が他の諸々の本にたいしてどのような関係にあるかは分かっているのである。ある本の内容とその位置関係というこの区別は肝要である。どんな本の話題にも難なく対応できる猛者がいるのは、この区別のおかげなのである。
(pp.33-34)

このように、個別の本を読むことよりも、全体についての概観を把握する方が重要なのではないか
という可能性が示唆されています。


さて、この本からの長い引用はこれぐらいにして、
ここからは僕が最近生活している中で感じていることを書こうと思うんですが、
それにしても就職したらめちゃくちゃ時間がないですね。
僕は2016年の4月入社なんでそろそろ社会人になって1年ぐらい経つわけですが、
学生のときはジャブジャブ使えていた時間がまったくもってビックリするぐらい足りないわけで、
「これはもうこのペースだとボーっとしていたらすぐ死んでしまうな……」とか
どうしても思わされてしまいます。 
だからその限りある時間の中で何をするか、ということについて否が応でも考えさせられてます。

で、その限りある時間の中で「教養を身につける」、「本について語る」という目的に対しては
「全体の見晴し」をつけるのが有効な手法なのでは、とこの本は提案しています。
正直なところ、この本はいわゆる「書物至上主義」、「読書コンプレックス」に対する
アンチテーゼとしての側面も多分にあるように思えるので、易々と鵜呑みにはできないですが 、
それでもこの主張には説得力があるように思えます。
今まで僕は、「ものを知っていなくてはならない」とか「いろんなものを見ていなくてはならない」という
強迫観念じみた考えがあるにも関わらず、そんなことをする時間的余裕もない、という中で
がんじがらめになっているような状態だったんですが、
「そもそもそんなことをする必要があるのか」とか
「なんのためにそうしないといけないと思っているのか」と考えると、正直なところよくわからない、
少なくとも現時点ではハッキリと回答できるような状態ではない、ということに気付きました。

だから、まず「本を読まなくては」と思っている人がいるとして
(前述の通り、これは映画、ライブ、テレビ等にも置き換えられます)、
「そもそも読書なんてそこまで絶対的なものではない」と認識した上で、
「なんのために、どういう目的で本を読むのか」ということについて
省みるのが重要なのでは、と思います。そうすれば「時間がない!」と無意味に焦ったりすることなく、
それぞれのパターンに応じた対処法に辿り着くのでは、という気がします。
例えば目的としては、賢い人間だと思われたいとか、ただただいろんなことについて知りたいとか、
それを通じて友達を作りたいとか、それについて話したいとか、文章を書けるようになりたいとか、
こんな風にいろいろ考えられます。
そしてそれが人生の目的である場合、それに特化した最適戦略をとることが
自分が生きる中で最も重要なことであるはずです。
だってそれが人生の目的だということは、それ以上に優先すべきことなんて
この世に存在しないということなんですから。 
逆にそうでない場合、人生の目的が他にあるということで、それならば本を読むということに
そこまで執着する必要はない、もっと優先すべきことをやりましょう、ということです。

だから、生きる上でなにがなくとも優先しなくてはならないこととはなんなのか、ということを
表層的な行動のレベルではなく 、「その行動の裏にある目的は何なのか」
という観念的なレベルまで突き詰める必要があると思ってます。
そして、それだけは絶対に譲らないという意志を持って生活しなくてはならない、
と僕は勝手に思ってます。
そうしなければ、このクソみたいな生活の中で摩耗して、
朝起きて、出社して家に帰って、寝てまた朝起きて出勤して、という
生きてるのか死んでるのかわからない状態で、無意味に、ただただ無意味に消滅していくだけですし、
そんなことはあってはならない、なってたまるかボケ、という感じです。

「え? あのー山里さんって、本人先頭走ってると思ったら周回遅れだったの?」

ミレニアムズって僕の中では決して手放しで褒めたくなるような番組ではないんですけど、
それでも気になる内容もあったりしてなんだかんだでよく見てます。
特にカスママのコーナーはけっこう好きで、何回か気になる回があったりしました。

このコーナーはカスママ(春日)のお店にミレニアムズのAD3人(山里、若林、村本)と
ゲスト1人が客として来てトークするっていうのが基本的な設定で、
だいたい話の内容は、たりないふたりとかで話してそうな
ネガティブなテイストのものがテーマになることが多いです。


ちょっと前にヒャダインがゲストに来た回では、ヒャダインが
芸人の真似事をする文化人や、失礼なことをすれば笑いがとれると思ってる女性アイドルに
虫酸が走るという趣旨の発言をして、メンバーと意気投合している場面がありました。
正直この光景は見ていてなんだか気持ち悪いなあと思ってしまったんですが、
多分これはテレビの中で“芸人のことを尊敬している方が正しい”という言説が
あまりに垂れ流されてしまったことが原因のような気がします。
もっと言うと、芸人の地位が上がってしまって、その中でもさらに“芸人さんってすごいんですよ!”
っていう空気感が芸人の間だけではなく、そうでない他業種の人の間でも
当たり前のものとしてまかり通ってしまっているのをまざまざと見せつけられたというか。
芸人の間でそれ言い合ってるだけならまあ愚痴というか、なんか腹立つこともあるんだろうし
そういうこと言いたい時もあるだろうって感じでそこまで違和感ないんですけど、
芸人じゃない人までがそういうこと言い出すようになってしまうと
もうそれこそが世間の空気、そういう感覚がスタンダードになってしまったんだなって感じるし、
それってホントに良いことなのか?っていう疑問が湧いてきてしまうんですよね。
そういう意味で、こことかでも散々言われてたけど自分としては今まであんまりピンときてなかった
“芸人の地位をもっと下げるべき”という主張の意味がこの放送を見てようやく理解できた気がします。
これを自分にとってわかりやすい言葉に言い換えると、
体制に逆らっていたはずのカウンターカルチャーが成熟によって権威的になってしまうと、
今度はそれ自体が打ち破られるべき体制そのものになってしまう
というあらゆる文化で見られる現象と同じってことかなと。

 
まあそんな回があったりもしたんですが、今回は柳原可奈子がゲストに来た回が興味深かったので
書き起こしとともに感想も書いていきます。

オープニングでは常連客の塙から「ドラGOいつも見てますよ」と
ナレーションの仕事について褒められる柳原w
 
柳原「代表作ってわけでもないんだけど」

そしてお決まりの、春日が飲み物を注ぐくだりがあっていよいよ本題へ。

春日「なんかでもぉ、ここ来たってことはさぁ」
柳原「うん」
春日「可奈子もさぁ、なんかそのー、悩みがあるんじゃないの?」
柳原「まあせっかくだからやっぱカスママだから聞いてもらおうかなー」
春日「なになに?」
村本「え? あるの?」
柳原「まぁ仕事でコント、まぁちょっとやってるんだけどさぁ」
春日「知ってるわよ」
柳原「なんか……まぁ人間観察的な、まあそういうまあちょっとさ、
人のことさ、まぁちょっとまあ、斜めじゃないけど?」
春日「うんうんうんうんうん」
柳原「まぁそういうようなネタをちょっと、まぁやらせてもらってるじゃない?」
春日「うんそうよね」
柳原「それをまあやってるー、からかぁ、取材とかぁ、ああいう打ち合わせとかでさぁ、
なんかぁ『どういう、女性が、ムカつきますぅ?』とか」
若林「う~ん」
柳原「『どういう時に、自分のこと、腹黒いなって、思いますぅ?』とか。
『もっと柳原さん斜めの目線ください』」
若林「あ~」
柳原「『もっと、意地悪な?」
春日「なるほどね」
柳原「目線ください』みたいな、疲れちゃった……(笑)」ww

冒頭からなかなかの告白に騒然とする一同w

山里「だってさあ、今もう相撲取りがさあ、これ以上太りたくないですってのと一緒だよ?」
春日「まあそうよ、それでやってきたわけだからね」
山里「だってすごいんだから」
春日「そうよそう」
山里「斜め目線のさあ、柳原さんの角度ってのが面白かった……」
若林「そうそうそうそうそう」
柳原「もともとぉ、私もうカスママがぁ、すごく、好きでぇ」
春日「あら嬉しいじゃない?」
柳原「わたしカスママのね、お店から出た時のぉ、一言がすーごい好きなの」
春日「あー、あの満月さんとの会話?」
柳原「そう」
柳原「で、私、土曜日のね、夜にこう見ててぇ、
『おーい! 花は上向いて育つんだぞー!』に、ちょっとホント、ウルッてきちゃって」
山里「思い出して泣きそうになってる!」
柳原「すぐメモしたの」
柳原「で、『こうこうこうでさ、カスママがこういう風に言ったこと、すごいアタシいいと思ったんだよね』
みたいなこと言うと、『また!」
若林「あー」
柳原「そういう風にバカにして! 斜めですか~!』みたいな」
春日「だから全部そうやって受け止められちゃって……」
柳原「疲れちゃったの!」
若林「でも昔からその、背後に底知れぬ闇は感じれるところはありましたよね?」
柳原「ハハハハハ!(笑)」
山里「あったあった」
柳原「またなんかでも、そのなんか、『闇が」
若林「うん」
柳原「ありますよね?』みたいなのもちょっとイライラしてきちゃって、ハッハッハッハッハ!(笑)」

そして自身についてからこの番組についての話へ移ります。

柳原「でも私すっごいー」
春日「うんうん」
柳原「あのミレニアムズっていう番組がすごい好きで」
山里「おぉ! 嬉しい!」
春日「ADさんよ?」
柳原「え? あ! そうなんですか!」
春日「そうなのよー」
柳原「すごい好きでー、よく見さしてもらってるんですよ」
春日「うん」
柳原「で、あのー、番組のメンバーって、けっこうなんか、卑屈?」
春日「うんうん」
柳原「みたいな感じでぇ、こう言われてるじゃないですか?」
若林「多いです」
柳原「で、なんか『卑屈なエピソードください』とかぁ」
若林「うん」
柳原「なんか『どういう時に自分のこと卑屈だと思いますか?』
『ちょっとねじ曲がってると思いますか?』みたいなことを」
若林「うんうん」
柳原「すごくまぁ、コーナーにされてて、すごく面白いなーと思って拝見してるんですけど」
春日「うんうん」
柳原「そんななんか、毎日毎日卑屈なわけないと思うんですよ」www
山里「ッ(笑)」
若林「わかる」
柳原「すごく、あ、空が綺麗だなっていう日もあると思うしぃ」
若林「もちろんね」
山里「ハハハハハ!(笑)」
柳原「たくさんの人とぉ、楽しいなってぇ、あのー、うん、
飲みに行ったりする日もきっとあると思うんですよ」
若林「そうそうそう、そうよね」
柳原「だけど、そういう風に卑屈ばっかり求められて、
絶対あいつら卑屈疲れしてると思うんですよ(笑)」
wwww

これはこの番組を非常に的確に表現したセリフで、
はっきり言って毎週毎週そんなコーナーばっかり流れてるんですよねw
そんでまたもうちょっと前だったらまだそういうネタも新鮮味があったんですけど、
最近色んなとこでそういう方向性の番組が散見されますし見てる方はけっこう食傷気味だと思います。
ただでさえそうなのに、依然として毎週けっこうな数のコーナーが
卑屈とかそんな感じのテーマだからそりゃ飽きますよねっていう。
ただ今まで積み重ねたそういうフリがあっただけに、このセリフはなかなか痛快でした。
 
春日「ハハハハハ!(笑)なにアンタ、それ見て笑ってんの?」
山里「なべこさん(若林)! ダメだよ! あのー、この船に乗ったらぁ、
ミレニアムズはちょっと終わるかもしれない」
山里「この船に乗っちゃダメ!」
村本「今その船、涙で水没しそうなんだけど」
山里「ダメダメ!」
山里「ちょっと待って、今日とんでもない客が来た!」
若林「一回船ぶっ壊してみようよ(笑)」
山里「なべこさん! なべこさんダメですって!」

もうこの時点で山ちゃんと若林のスタンスの違いが明白になってますねw
性格が出てるなあ。

春日「ほらさ、スタッフ、ADなんだからさぁ」
山里「はい」
春日「はたから見ててどうなのよ? 
その卑屈疲れしてるなーっていう風に、思ったりしたりするわけ?」
柳原「泉のように湧いてくるわけないと思う」
春日「要求する側なわけでしょ?」
山里「いや泉のように湧いてくると思いますよあの人達は。
卑屈を、ホント卑屈の、集合体ですからね?」
若林「いや、中にはぁ」
山里「いやってなんですか!」
柳原「キャハハ!(笑)」
春日「なになになに、なに?」
若林「やっぱり打ち合わせなんかでぇ、『これについてどう思いますか、ムカつきますよねぇ?』、
例えばハロウィン」
春日「うん」
若林「いやもう、ハロウィン仮装する人をぉ、イジっちゃうってことがぁ」
春日「うん」
若林「その斜め側からしたら王道過ぎて、それをやっちゃあもう王道過ぎるじゃない
っていうわけわかんないゾーンに入っちゃって(笑)」
春日「なるほどねー」

これも個人的にはすごくよくわかって、例えば最近だとセカオワなんかが
特にネット上ではバカにされてたり、実際そういう意見も見かけますけど
もうこんだけ世の中でやいやい言われてるという風潮の中で、
考えなしに自分も同じようなことを言うのは避けたいなと思っている節はあります。
ここに個人的な好き嫌いについての強い信念があったりしたら当然また話は別ですが。
ただ僕はそれほど音楽に詳しいわけでもないし特段セカオワのことは
好きでも嫌いでもないって感じだからこういうスタンスになってしまうのかなあと。

若林「でこないだ聞かれたのがぁ」
春日「うん」
若林「お正月にぃ」
春日「うん」
若林「子どもと撮った家族写真を年賀状に張ってるぅ、年賀状送ってくるヤツ
ムカつきませんかって言われてぇ」
春日「うん」
若林「それ嫌っちゃったらもう人として終わりじゃん(笑)?」
柳原「ハハハハ!(笑)」
若林「友達の、子どもの写真送ってきたのを、なんだコイツって思っちゃもうダメじゃん!(笑)」
春日「そうねー」
若林「それ元気だなって、そういうのがけっこうある。無理から」
村本「そうそうそう」

ここで柳原の話に戻ります。

春日「逆にさぁ? なんかあのー、普通の趣味はないわけ?」
柳原「……ホットヨガ(笑)」
春日「ッ(笑)」
山里「普通だ!女子だ」
若林「いや、いい。いいと思う、いいと思う」
村本「逆にいい、逆にいい」
柳原「いーい?」
若林「いいと思う」
春日「うん」
柳原「だから私もそれこそぉ、ハロウィンとかぁ、
ブログにこう、写真撮る、なんか女性とか、ホットヨガであるとかみたいな」
若林「ホットヨガは出てくるよね、その中のワードにね」
柳原「なんかさんざん色々一周バカにしてみてぇ、そこが一番居心地がいいの。ハハハハハ!(笑)」
若林「そうそうそう」
村本「なんだかんだね」
春日「結局自分でそうやっちゃって、やるのが」
柳原「ずっと憧れだったんだと思ったの」
若林「なるほどね!」
春日「食わず嫌いというか」
柳原「うん」

再び若林の話へ。

若林「若林さん、グアム行ったらしいんだけど」
春日「ああそうなの? うん」
若林「年始にね」
春日「うんうん」
若林「Tシャツで」
春日「ふん」
若林「『I LOVE GUAM』って、おもいっきり書いてあるTシャツ売ってて」
春日「あー、よくあるやつよね。『I LOVEなんとか』ってあるわよねえ」
若林「それをあのー、着てるやつをまずその、バカにしてきた人生なんだけど」
春日「うんうん」
若林「異様に心が惹かれて(笑)。あのー、どうしても欲しくなっちゃって。
でグアムでずっと『I LOVE GUAM』って書いたの着て」
山里「ふん」
若林「ジェットスキー乗ったら信じられないぐらい楽しかった」
山里「ハハハハハ!(笑)」
柳原「わかるー!」
山里「いやなべこさんそれは……。うわそれは……やだなぁ」
村本「あ!」
山里「あのー、まぁ! あのー、ね? 年は一番上ですけどぉ」
春日「うん」
山里「まだ私そこと闘っていきたいと思ってるの」
若林「いやそうなんだよ!」
村本「なるほどね、まだ負けるわけにはいかない」
若林「まだ若林さんは山里さんに対して内心思ってたらしいわよ?」
春日「なにを?」
山里「え、それは、聞かして! このタイミングで。なべこさん」
若林「いやなんかね、あのー、英字新聞とかぁ、こうなんかこうオープンカフェでね」
春日「うんうん」
若林「読んでるヤツら何なんだよみたいな、ことを山里さんが言ってたらしくて」
山里「そうそう言ってたねぇ、山里さん」
若林「若林さんは、内心では、『あ、まだそこなんだ』って思ったらしい(笑)」wwww
春日「ッ(笑)」
山里「いや、若林さんねえ!」
春日「うわ先行ってた! 若林先行ってる!」
山里「ちょっとねえ! あのーー……。まあまあ、ちょっとごめんなさいね」
春日「ううん、どした? いいよ?」

動揺する山ちゃんw

山里「なべこさん? ……それマジっすか?」ww
若林「ヒャハハハハハ(笑)」
春日「どうしたどうした! 興奮してるじゃない?」
若林「柳原さんね、例えばアメリ、をね、観るヤツはナシとか」
柳原「うん」
村本「フランス映画のね」
若林「そんなこと言うヤツが増えたのよ」
柳原「うん」
若林「で、そいつらに対しても斜めになってくるとぉ」
柳原「うん!」
若林「いいじゃん別にアメリ好きで、みたいな」
春日「うん」
若林「ゾーンに入ってきたらしいのよ、若林さんは」
春日「なるほどねぇ」
山里「えぇ?」
若林「でも山里さんはまだ、そこぉ、らしくてぇ(笑)」
春日「そこに留まってると」
若林「うん」
山里「え? あのー山里さんって、本人先頭走ってると思ったら周回遅れだったの?」wwwww
若林「ハハハハハ!(笑)」
柳原「そうそうそうそうそう!」
若林「いやこれ難しくなってるよね、今ね」
柳原「難しい! 今ね」
山里「ヤバい! ちょっと待って、すっっごく傷ついてる」w
柳原「それでもね、世の中的な問題だよ」

ここさらっと言ってるだけだからスルーしてしまいそうですけど、
別にこれどっちが上とかいうことじゃないんですよね。
“世の中的な問題”という言葉もありますし、単純に逆張りする人が多くなったから
逆張りの逆張りをするようになったというだけで。
確固たる意思があるわけじゃなく、単に多数派とは逆の選択肢を選びたくなる天の邪鬼ってのは
結果的にある意味自分がないとも言えるわけです。
でも多分山ちゃんはそのことには気付いてないように思えますw
 
山里「え、柳原さんも、じゃあ、や、俺、あのー、山里さんみたいな人って、
いや、もうこれ、絶対、私、本人じゃないから今回教えてほしいんだけど」
柳原「うんうん」
山里「もう、山里さんってぇ?」
若林「ククククク(笑)」
柳原「うん」
山里「ダサいの?」www
若林「ハッハッハッハッハ!(笑)」
山里「これ絶対怒ったりしない! 絶対怒ったりしない! 店の外には!」
春日「それ大丈夫ぅ?」
山里「いや、ごめんなさい! これホントに聞かして!」
春日「それ、受け止められんのか? それ」
山里「待って、逃げないで。柳原さん逃げないで」
山里「ぜったい店の外に持ってかないからぁ」
若林「うん」
山里「で! 若ちゃん、えー、あのぅ、……なべこさん! の!」
若林「若ちゃん(笑)」
春日「落ちつけ~!」
山里「違うの、(若林)にも絶対あの、飲む時にも『あれマジで?』って絶対言わないから教えて」
春日「なるほど、ここだけにして終わり」
村本「ここだけのやつね」
山里「正直、正直言います! 僕はもう……止まってるの?」
春日「ッ(笑)」
村本「成長がね?」
山里「いや僕っていうか、山里さんは、ダサいの? 
山里さんは全部今ぁ、噛みつきたくてしょうがないの」
若林「ハハハハハ!(笑)」
春日「なるほど、もう熱は……」
山里「山里さんはそういう人よ」
春日「あると。以前と変わらず持ってると」
山里「あのー、ケータイのメモにね」
若林「フフフフフ(笑)」
山里「そういう人たちをどう攻撃するかの、角度を、ビッシリ書いたやつを、持ってて
いつでも今日はストックでそれを出せる、らしいのよ」
春日「なるほど」
山里「それが今、恥ずかしくて、開けれないのよ(笑)」
若林「ハハハハハ!(笑)」
村本「皆が、皆が味方なのかどうかっていうことを確かめたいのね?」
山里「そうなの。そうなんです。怖いの! で怖いの! 怖いんです」
若林「怖いの(笑)」
柳原「やってたよね?」ww
若林「うんうん」
柳原「やってたよね?」
山里「え、ちょっと待って! いや! いや! 
柳原さん、『やってたよね?』はやめてもらっていいすか?」
若林「やってたねー?」
柳原「やってたよねー?」
山里「わ! あー……なべこさんね!」
若林「ハハハハハ!(笑)」
山里「いやそれはナシだわ!」
若林「懐かしい、懐かしいなー」
山里「じゃあ、これさあ、これ言っちゃったらこの番組大丈夫? コンセプト大丈夫?」
村本「大丈夫大丈夫」
山里「タク(?)さん!」
春日「アンタ誰と話してんのよ(笑)」
若林「落ちつけ~!」
春日「大丈夫かぁ? 変なもん見えてるぞ? まぼろし~!っつって」
村本「どうした?」
春日「それはまぼろし~!っつって」
若林「まぼろしはもうIKKOさんだから(笑)」
春日「そうね。(c)IKKOよ、(c)IKKO」
山里「ちょっと待って! ちょっと待って! いや~!」
若林「いや懐かしいね」
村本「なになになに! なにこの展開! 天の声が揚げ足取りまくってんじゃないの! 
天の声同士がこれー!」w
春日「そうよねぇ」
村本「どうなってんのよー」
山里「あのー、そうねってそういえば、なんか親近感あるなと思ったら」
春日「ねえ、神同士の対決よ」
村本「神同士の、天対天よこれは!」
春日「ホントよ、空が割れるぞ! 空が割れるぞオイ!」
春日「空が割れるぞ~! 海が泣くぞ~!」
山里「せっかくだから、あの、二人揃って大きな声で挨拶でもしてみる?」
春日「一回、一回落ち着いてみる?」
山里「じゃあ、せーの」
山里・柳原「「おーはようございまーす!」」
春日「いいじゃないのこれは、夜明け!」
若林「夜明けだ夜明け!」
春日「なかなか見れないわよ、急に朝になったわねぇ」
若林「斜めの夜明けだ!」ww
柳原「ッ(笑) 斜めの夜明けって!(笑) 斜めの夜明け!(笑)」
若林「ついにこの時代が来たか、いつ来るのかなと思ってたら」
春日「今日だった、今日だったよ!」

若林「いやだからさあ、なんかキューブリックの映画観るヤツはカッコつけてるとかもうやめなよ?」
山里「……」
若林「ヒハハハハハ!(笑)」
村本「それやっぱ思ってたの? それは、キューブリックのやつ思ってたの?」
山里「いや、ケータイ見したげるよ、それ書いてあるよ」
柳原「ハハハハハ!(笑)」
村本「えー!」
山里「え、もう、そういう、人たちに対して、やっかんだりとかぁ、噛みつくのって、
じゃあもう柳原さんはやらないんですか?」
柳原「えーでも、ぜんぜんコントはぁ、やります」
春日「うんうん」
柳原「ぜんぜんやりますけどぉ、なんか私生活の、こう、なんて言うんだろうなあ、避けてきたこと?」
若林「うんうん」
柳原「みたいなのを、やめようかなあみたいな」
若林「はいはい」
山里「あ! あ~なるほどね。だからその、ハロウィンに代表されるような?」
柳原「私がもし子どもが生まれたら積極的に、
あのー、子ども入りの、顔入りの年賀状を送ろうっていう」
若林「うんうんうんうんうん」
柳原「今気持ちになってるっていう」
春日「なるほどなるほど、とりあえずやってみるってことね?」
柳原「うん!」
山里「いや~……」
柳原「だからぁ、山里さんは早く楽になった方がいいよって伝えたかった(笑)」

ここまで。
多分山ちゃんは確固たる正解というものがどこかにあると思ってるんですよね。
不毛な議論のマツコがゲストの回でも「マツコさんは正解のコメントしかしないけど僕はぜんぜんダメ」
みたいな発言をしていましたし。
だから自分のコメントとかポジションというのでも正解を追い求めるんだろうけど、
おそらくそんなものはどこにも存在しないんですよね。 
途中でも書きましたけど“今の時代はベタなことする方が正解” というわけじゃなくて
そんなもんは見下し合いのポジショントークに過ぎないしキリがないとも言えるわけですから。
で多分若林とか柳原はそれに自覚的なんだろうけど、あえてそこでそういうことには触れずに
山ちゃんをダサいって追い込んでるんだろうなとw
その方が番組的に面白くなるのは目に見えてますからね。
放送上優勢に見えていたというだけでそっちが正しい、と鵜呑みにするのはちょっと早計に思えます。

ただ山ちゃんって相手からけなされてそれに対して言い返す、という立ち回り方が多いから、
構造的にはぞんざいな扱われ方をした方が流れとしては自然なんですよね。負け芸とでもいうか。
だけど最近はすっかり山ちゃんの能力が評価されて地位が上がってしまったので
そのやり方の中に自己矛盾が生じつつあるように感じます。
これは冒頭のヒャダインのところで触れた、カウンターカルチャー云々と似たような現象ですが。
そこでじゃあどうするのかっていうのを考えた時に、これも多分正解はないんですよ。
だったら自分に訊いてみるしかない、自分がどう思ってるのかを考えてみるしかないと思うわけです。
地位が上がってきたらイヤなことをされる場面も減ってくるだろうし、もしそうなんだったら
そこで無理矢理悪口を捻り出さなくても積み重ねてきたものを使えば十分だと思うんですよね。
でもこの放送での“噛みつきたくて仕方がない”という発言が真実だったならば、
世の中の流れも自己矛盾も関係なく、開き直ってバンバン言えば良いと思うんですよ。

山ちゃんが尊敬してやまない伊集院光も
童貞の魅力について語ったみうらじゅんとの共著『DT』を振り返ってこう語っていました。

――しかし絶賛もあれば、批判もあったと伺いましたが。
みうら 「みうらは童貞じゃないくせに、童貞を語るな」っていうね(笑)
伊集院 僕も言われましたよ。「おまえ結婚してるじゃねえか」って。でも最初にちゃんと、この本は童貞気質について語ってるんであって、やってもそれは変わらない奴がいる、変われない僕らがいる、って話だって書いてるのに。それで「みうらも伊集院もやってるくせに」って言われてもねえ。

(角川文庫『DT』収録 文庫化記念新規対談より) 

だから自分が面白いと思うことをやってる時に、人が何を言おうが関係ないんですよね。
そういうある種の開き直りが大切じゃないかなと思います。

自分を愛せない凡人に捧ぐ。『ちーちゃんはちょっと足りない』

いつだったか、深夜の馬鹿力の空脳のコーナーで、
 
「Twitterで、自分は相手をフォローしているが相手からはフォローされていない一方通行な関係の人に対して、相手のツイートにリプライを送りたいと思うことがあります。しかし私はフォローもされてないのに急にリプライを送るのは失礼かな、相手も知らない人からそんなことをされたら気持ち悪いんじゃないかと考えて、そういう時はいつもやめます。こう書くと相手のことをよく考えているように思えますが、これはつまり逆の立場になって、いざ自分が知らない人からリプライを送られた時、自分は相手のことを気持ち悪いと思うような人間であるということに気付き、どうしていいかわからなくなっています」
 
という主旨のメールが読まれて、その時伊集院が似たような話として
 
伊集院「若手芸人に番号を指定してロト6買ってきてよって頼んで、そいつが買ってきたやつが例えば3億円当たったとする。そしたら、お前俺にいくらくれって言う?みたいな話をすると、いやそりゃ伊集院さんのお金だからいいですってやつもいれば、これぐらい欲しいです、みたいなこと言うやつもいて。一見伊集院さんのお金だからいいですって言うやつがかっこよく見えるけど、お前それ逆の立場だったら一銭もくれないってことだよな、っていう。要するに、俺が買ってきてっておつかいを頼んだロト6で3億円当たりました。お前は自分がおつかいに行ってそれが当たったのも知ってる。その立場でいくらくれって言う?っていう。そしたらじゃあ1億円って言うやつはむしろその逆の立場の時も俺に1億円くれるやつだけど、いやいやそりゃ僕は買いに行っただけで僕が選んだわけじゃないですから一銭もいらないですって言うやつは殊勝に見えるけれども、結局逆の立場の時にお前は一銭もくれないやつだっていうことの裏返しだねっていう話をよくするんだけど」
 
と言っていたんですが、当然僕も年中こんなことばかり考えている人間です。そういう人は
 
伊集院「これはすごく、僕と性格がすごい似てるし、わかり合えると思うけれども、得はしない」w

んですけれども、そんな人が好きそうなマンガを最近読みました。
 
阿部共実の「ちーちゃんはちょっと足りない」っていうタイトルで、
この1冊だけで完結しているマンガです。
パッと表紙を見てみるとなんだかポップなデザインで、
キャラクター造形も、なんというかゆるい日常系ギャグみたいな絵柄なんですけど、
中身は完全に真逆で、むしろそういうのが嫌いそうな人こそ読むべき話でした。
実際、最初の方はなんてことない、たわいのない話が続いていて
「ああ、こういう感じ?」って思うんですけど、そうじゃなくて。
“落とす”ためには“フリ”が必要だっていうだけのことで。

このマンガを読んで、「コイツはクズだな」って平然と言い放てる人は
とても立派で、素晴らしい人間なのでしょう。
育ちも良く、温かい家庭で、両親からの愛情を一身に受け、
すくすくと真っ当に育ったのだろうと思います。
勿論その方がどう考えても健康的だし、幸せな人生を送れることには間違いありません。
誰だってそうなりたいに決まっています。だけど世の中のたいていの人はそうじゃない。
自分と他人を比較して劣等感に苛まれたり、
人からどう見られるかばかりを気にしてビクビクしていたり、
なによりそんなダメな自分が一番嫌いだったり。
このマンガはそういう“凡人”である私たちの醜悪さ、みっともなさ、どうしようもなさが
思わず目を背けたくなるほどはっきりと描かれています。
少なくとも読んでいて楽しい気分になれるマンガじゃありません。
自分の欠点をこれ見よがしに見せつけられているようなものですから。
ただ、読んでいて確かに辛いのは間違いないんだけれど、
その中にはある種の共依存的な快楽も同居しているように感じます。
社会から肯定されてこなかった自分の中にある醜悪な部分、
どうしようもない欠落を誰とも共有できず、
世の中で自分たった一人だけがどうしてこんなにダメなんだろうと思いつめている人にも。
あなたの存在自身を肯定することはフィクションの力ではできないけれど、
少なくともあなたのその悩みは孤独なものではない、同じようなことで悩んでいる人たちはいる、と
(それが健全な形ではないにしても)感じさせてくれるもののように僕には思えました。

ラストについてだけ言及しておくと、これをハッピーエンドと捉えるかバッドエンドと捉えるかは
個人の解釈によるのでしょうが、どちらにしてもわりとあっさりと終わっているのは事実です。
これだけ陰鬱な話だったら圧倒的なカタルシスのあるラストでも良かったような気がしますが、
そうしなかったのはおそらく、この物語は読者が感情移入して読むことを第一義に
作劇されているからじゃないかと思っています。
どういうことかというと、この物語には客観的に見るとどうしようもなくクズだけど
確実に自分の中にもいる、我々凡人が思わず自己投影してしまうキャラクターが出てきます。
そしてその一挙一動に読者は今まで共に煩悶してきたのに、
ラストで急にそのような現実離れした展開になると
私たちは物語の虚構性に気付き、我に返って冷静になってしまいます。
なぜなら劣等感や自己嫌悪に囚われている人の悩みがある日急に解決したり、
あるいは逆に救いようのない結末に陥ったりすることは、我々凡人にはまあないことで、
現実は“それでもただ日常が続いていく”というのが限りなくリアルでかつ残酷な結末なわけです。
物語はエンディングを迎えればそれで終わりだけれど、
私たちは(たとえ物語があったとしても、それが終わったところで)
ひたすら退屈でつまらない日常がずーーっと続いていく。
そして、この問題が何も解決されないままの宙ぶらりんのラストを見せられた私たちは、
「それで、あなたたちはどうするの?」という作者からの問いかけに、沈黙するしかないのです。
たまに書く。お笑い多め。