2021年12月01日

音楽やライブについての備忘録

一回しか経験できない、ということはそれだけで価値があるなあと。

何度も見ることのできるYouTubeではなく、生、ライブ、というのは、その場にいないと共有できない。

その場にいる人たちが、その空気を共有して、その空気を作っていき、それを体験する、というのは、その時一度しか経験できない。
この時代、それが当たり前ではなくなってしまって、いつでも見れるアーカイブ、配信、等で、地方在住の身としてはただただ便利だなと思っていたけれど、
その場を共有する、生、というのには、ものすごい力があるのだな、と。


カメラによって、視点を固定されるのではなく、自分自身がどこに注意を向けるのかを決めて、周りの観客の雰囲気を肌で感じて、というのはDVDではできない。


その場で感じたことを、その場にいなかった人に伝えるのは難しい。
いくら言葉を尽くそうとも、伝わりきらないからこそ、その場に一緒にいる、ということもまた、それだけで価値を持つのだなと。




2011年の石巻で、あまりに凄惨な情景を目の前にして、それでもチャリティーコンサートをする、音楽に何ができるのかと疑問に思いながらも、それでもそんな時に弾きたい曲があった、と。
記憶をたどりながら走り書くようにおこした楽譜を、いつもコンサートの最後に見ながら弾いている、と。
もともとは、残された人たちが、戦地に赴いた人たちの無事を祈っている、という場面を想いながらかいた曲が、震災によって大切な人を失い、残された人々への曲として、重なるところがあった、と。
2011年のチャリティーコンサートで号泣しながら弾いた、大切な曲です、と。



ただただ話を聞いたり、本を読んだりするだけでは感じられないことを、音楽の力を通して感じることができるのだと思う。

ことばを越える何かがあるからこそ、音楽や芸術は必要なのだろう。
ことばは便利だけれども、完全ではないのだ、ということを思い出させてくれた。


私がたくさんのことを学ばせてもらっている気がする。


lightheartedness at 23:08|PermalinkComments(0) 日常 

2021年03月10日

a decade

あれから10年、という言葉が耳にされます。
テレビも見ないし、最近はSNSも見ないし、そんな私でも耳にするし目にしてしまうということは、世間ではもっと意識をせざる得ないムードになってるのでは、などと思ってしまいます。

2年前までその地にいた自分としては意識したい、けど何かに流されるように意識するのは嫌だ、みたいな気持ちになってて、どう折り合いをつけるべきかわからず、とりあえず久しぶりにブログでも書きつつ、考えを進めてみるか、という感じで一年ぶりの投稿です。



2011/3/11やその直後あたりはどんな気持ちだったのかとこのブログを振り返ってみても、特に何も投稿されてない。
けど、このことがあったために、私の人生は大きく変わったのは確か。

2011年6月に教育実習があり、東京で日々のことに追われながら過ごすうちに、震災のことを落ち着いて考えられない自分に気づき、ちゃんと考えたければとの土地に行くしかない、と思ったのがそもそものきっかけ。
その後その地をまわる機会が何度かあり、行くたびにその姿が変わっていく様子を目の当たりにし、今この時でないと、わからないことがある、という気持ちを抱き。
その二年後に就職を考えなければならない直前あたりに、ノブレスオブリージュ的な思想を持ち、大都市で働きたくないという気持ちを強く持ち、選択への一歩を踏み出したわけです。
最後までもう一つの選択肢もあったけれど、「今だからこそ意味がある場所」という選択肢を取ってみたいと考えて、就職を果たした、と。

震災以外にも、とある親族がその地にゆかりがあり、多少の興味があり、その親族と逆の道をたどってみたいと思った、ということもありましたね。


就職前は、「自分の目でその様子を見てみたい」「もし自分にできることがあればやりたい」といったような殊勝な考えを抱いてはいたのですが、実際は新社会人ということで、目の前の業務に追われるばかりで、落ち着いて客観的に何かを考えたり、観察したり、プラスアルファのことをしたり、などは全くできない毎日でした。
もったいないことをしたな、という気持ちは今でももちろんあるのですが、それが自分のキャパシティだった、ということなのでしょう。

せめても、ということで、休日ごとに車を走らせ、定点観察的に写真を撮ったりはしたけれど、記録としてまとめているわけでもなく。
どんどん小さくなっていってしまった自分がいたような気もします。


最初の勤務先での任期終了を意識するようになって、次はどこで働くか、を考えるようになりました。
それを考えてみると、この最初の勤務先というのが、その当時取り得る選択肢の中で、一番いい場所で、これ以上を望むことはできないのではないか、次の勤務先は今の勤務先の二番煎じ以下になってしまうのではないか、という気持ちが大きくなってしまったのです。
だからといってここを辞するというのは、不義理に感じるように思い、いったんこの地を離れられるような選択肢をとってしまった、というのが実情ですね。

そして今、ここでの勤務先での任期終了を少し意識し始めて、次をどうするか、と。

10年経って、大学・大学院時代の自分の気持ちはどう変わって、どう変わってないのかを少し考えたいな、と。



私は一体何を目指しているのか・・・


私の力では、目の前のほんの少しの人の、ほんの少しの力をちょっと伸ばしてあげられることしかできないし、できている、と思っているのも幻想かもしれない。
たとえ私がいなくても、別の方法で彼らは同じ結果に至っているかもしれない。
この面における、私の力はゼロに近いような、微々たるものなのかもしれない。

私がある場所にいて意味があるかもしれないのは、「こういう選択をする人がいる」というようなその存在を目の前に現わすこと、なのかも、とはたまに思います。
それを少し思って、文章に残して提示してみたりはしたけれど、それでも自信を持って、自分を出すことは難しいし、なによりそれに値する人だともあまり思えない。
そこのあたりをもう少し自分の中で踏ん切りをつけられれば、「ここにいることに意味がある」と思えるのかもしれない。

数年前にそれをきちんと言語化されている方がいて、そうあれる自分であれば、と思ったのを思い出しますね。


それ以外で、私がその地に心残りのようなものがあるとすれば、先述の親族の生家がある土地でなにもできていないし、離れてしまうと定期的に訪れることすらできなくなる、ということでしょうか。
普段は家とか親戚とか血縁みたいなことを全く考えないのですが、もし私が完全にその地とは無縁の生活を送ることになったとしたら、だれもその親族のことを考えなくなるのか?と思ったりはします。
恐らく学術的には興味を持って温存等される方はいるとは思いますが。



その地以外に住むことにしたら、日本全国にいる、「忘れゆく人々」の一人、になってしまうのではないか、あああなたもその一人なのね、と思われるのではないか、とも。



人生において何を成し遂げたいか、成し遂げるとまではいかずとも、何に挑戦していきたいか、ということがまだ明確ではないですね。

でも少なくとも、仕事やまあボランティアでもいいですけど、何かしらの社会的活動をせずに人生を送る、という方向性は考えられない気がします。
幻想だとしても、「自分が何かの役に立っている」という感覚が得られないまま、人生を送るのはつらそうだな、と。
でもまあそれは広い範囲でなくても、身近な範囲でもいいのかな。
そうすると仕事に限らずともできることなのかもしれない。
自分がどの程度で満足するのかがわからない。


目指すべき方向性が明確でないと、努力する方向性も作りづらく、結局は現状維持という名の衰退の道をたどるだけなのかもしれない。


新しいなにかに触れない限り、次の一歩への結論が出せないのかもしれない。
ということは、もう少しこの日々の生活だけではない何かに挑戦してみるべきなのかもしれない。

lightheartedness at 22:44|PermalinkComments(0)

2020年03月18日

自分という人生の一貫性

今年度の4月に引っ越しをし、また新しい環境で1年を過ごしていました。
ふとしたきっかけで、このブログの存在を思い出したので、備忘録というか、人生の記録として残しておこうと投稿に至りました。

そら恐ろしいことに、このブログの開設が2005年なので、もう15年もたってしまうのですね、、毎度の投稿でこの話題に触れていると思いますが。
でも、15年というのは自分の人生のほとんど半分なので、そうやって考えるとものすごいことなのかなぁなんて思ったりしています。

ところどころ記録が抜けているのがもったいないような気もしますが、2005年前後のブログブームに乗った人の中で、いまだにそれを維持して、細々ながらも更新し続けているのは、なんというかかけがえのないものなのかもしれません。


このブログ以外にもネット上に様々な記録が残っていて、それを見返してみると、大学入学以降は自分のコアの部分は大きく変わっていないようだ、ということを確認しました。
浪人時代を境に、何らかの物の考え方が変わっているような気がして、それが浪人生活のせいなのか、京都での大学生活のせいなのかがわかりません。
もしくは年齢的なものなのかもしれないし、周囲にいた友人のせいなのかもしれません。


理由はともあれ、そうやって、今後の人生においても、どこかの段階で自分の中での変化が生まれて、それ以前とそれ以後においては、考え方やものの見方が変わるのかも、なんていう想像をしたりします。
もしかしたらそれが今なのかもしれない。
この数年でもしかしたら人生が大きく変わるかもしれず、その決断をもししたのであれば、それは、過去の自分にはそんなことをするなどとは想像もできなかったことなのだろうと。

少なくとも6年前の私にはできなかったし、なんなら逆の方向にすら動いてしまっていた気もする。
その私が、そういう決断をするということもありうる、というのは、本当に、人生どう転ぶかわからない、という感じなのだな、と。

でももしかしたら、明日にはその決断をすることをあきらめてしまっているかもしれないし、どうなのかわからない。
「それも人生」ということなのかもしれないけれど、でもどちらにせよ、そこまで達観はできない。


その人が歩む人生は一度きりなのであって、自分の人生の形を他人に強要することはできない。
ある人がある段階でとある方向に進み始めたとして、それはその人固有のことであって、一般化はできないし、「そうあるべきだ」とほかの人に押し付けることもすべきではないと思ってる。
ある人固有の人生の事象を、他人にある程度の説得性を伴って響かせるためには、その人と相手の信頼度の問題なのかもしれない。



いずれにせよ、人生についての自分の考えは結局、去年の今頃に生徒に配布された文章の言葉に尽きるのかもしれない。今のところは。

きっと皆さんの人生も、気づけば思いもよらない方向に進み、しかし振り返ってみるとこの道を歩むことは決められていたようにも感じるはずだ。どのような道を進もうと、それまでの人生の堆積物が、その時点でのその人そのものなのだ。人生とは「今ここ」という瞬間の連続であり、この刹那こそが過去と自分を作っていく。日々なにかを選択し、それを生きることで、自分が形作られるのだ。



こういう感じで、自分がこれまでに紡いできた文章に気づかされたり救われたりしてきているので、こうやって明文化して残すことには意味があるのだと思う。


lightheartedness at 23:43|PermalinkComments(0)

2019年01月17日

受験生を励ますということ

年に数回しか更新しないようなブログになってしまっていますが・・・

世間的には今週末がセンター試験となっています。
高校3年生に関わる身として、自分にできることはなにかと考え、受験生であった当時の私はどういう感じだったのかと、このブログを読み返してみたりしていました。

予備校に通っていた自分は、講師の先生方の最後の講義の言葉を記録として残していて、その言葉を見直しては励まされ、がんばってこれた、という面があるような気がします。

こんな感じの記事を書いていたようです。まあ12月ですが。
http://blog.livedoor.jp/lightheartedness/archives/50773879.html


予備校の先生方熱いな、、と思うのと同時に、こういう言葉に出会えていたからこそ、最後まで受験を頑張り切れていた、というのもあるのかも。

そして、こういう言葉を素直に聞き入れて、大事にしたいと思って、こうやってブログとして残していたことで、受験生を支える立場にある今の私の役に立っている。
私が彼らに語りかけることで、彼らの数人は救われるのかもしれない。

そうやって考えていくと、人生は人との関わり合いでどんどん変わっていくし、
何かを誰かに施したことがまわりまわってまた自分に返ってきたりする、というのはやっぱりありうることなんだな、と。


明日はどんなことを彼らに語ろうか。
あれこれ考えながら眠りにつこう。

lightheartedness at 23:48|PermalinkComments(0) 受験とか 

2018年09月30日

ブロガー

場所を選ばず、どこか一定の場所にいなくてもできる仕事は、ここ最近はたくさん出てきているんですよね。
そこらへんの状況に疎くて、詳しく調査してもないからなんともなんだけど、ブロガーもその一つだということで。

このブログ、2005年からやってるからもう13年も続いてるわけで、、もしもう少し定期的に更新してたり、あるコンテンツを深めていったりしてたら、ちょっとした小遣い稼ぎにはなりえたのかなーとか。

浪人時代の受験記録はまとめてあるから、その記事は使えると思うけど、同じように院試の記録とか教員採用試験の記録とかもとってたらよかったのかなーとたびたび考えますね。

身バレしたくないという思いが途中から強くなってきて、そういうことはあんまり書かないようにしようと思い、まとめることをやめてしまったのだけれども。


とにかく日々の業務がどんどん多忙化してきてて、毎日ゆっくりと文章を書く時間なんて取れないですよねー

でも記録を取るのは好きだから、やっておきたいなーという気持ちは常にあり、でも行動には移せないという・・・なんだかなー



年末年始にかけて書かなきゃいけない文章の依頼がくるはずで、昨日今日とちょっと時間があったから先回って書いてみたのだけど、自分の文体ってなんかあるよなーと思った。
3年ほど前にも「本」「読書」について書く機会があったのだけど、その時の文体からあんまり変わってない。
誰かに読ませ、語るときの文章の文体ってこういう感じなのかなーという発見。
普段の話し言葉からはかけ離れているし、このブログでの文体でもない。

なにに影響を受けてるのかなー。
なんとなく、湯川秀樹の『旅人』の文体に近いような気はしてるのだけど、意識的に真似をしてるつもりはないし。けど好きな本を上げろと言われたらすぐに出てくる一冊。


書く、ということを定期的にこれからもやっていけたらなーとは思った土日でした。

lightheartedness at 22:06|PermalinkComments(0) 日常 
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