※このテキストに、濡れ場──いわゆるエッチなシーンはありません。
物語に登場する母娘の間に、
今後、エッチなシーンが訪れるのか、どうか。
……は、今のところ、わかりません。

kei03

犬も食わない




「ケイちゃん。ケイちゃん! ねえ、聞いてよっ!」

入り口のドアを開けるなり、女の子が入って来た。
パタパタと騒がしい。
この落ち着いたレトロ風のカフェには、おおよそふさわしくない登場のしかただ。 

女の子は、カウンター席へすわ……。

いや、座ろうとしたが、
カウンター席の丸椅子は、彼女にとって少々高過ぎた。 
座席に手をやり、しがみつき、まるでアイガー北壁をはい登るかのよう。

背が小さいのだ。

そしてやっと頂上にたどり着き腰を落ち着けると、フウーッと息をついた……
……ところをよくよく見ると、どうやら「女の子」ではない。
 
デニムに、Tシャツという、ありふれた飾り気のない普段着。
短めにカットした素直な黒髪。
色白のまるっこい顔に、
大きな黒目がちな、まんまる目が特徴的で、クリンと可愛らしい。
一見すると、確かに「女の子」だ。
夜の暗がりで彼女を見かけたとしたら、たぶん90%の人が、
中学生の女子だと判断するに違いない。
残りの何%かは、小学生だと思うだろう。

しかし、よくよく顔を見れば、それなりの人生経験の年輪が
刻まれていることに気がつく。
よくよくからだを見れば、小柄な割にはなかなかのグラマーで、
中学生どころか、
ひょっとしたら20代──、
いや、20代でさえないかもしれないことに気づく。
年齢不詳。
TV番組の「年齢当てクイズ」などには、かっこうの素材だろう。

10

「もう、何よ。いきなりやって来て」

「ケイちゃん」と呼ばれた女性は、反対にすらりと背が高い。
カウンターの中で食器を拭いているところだった。

カフェがオープンする11時までには、まだ間がある。
ケイちゃんは手を休めずに言った。

「また、マコっちゃんのこと?」

「えっ? あら、よくわかったわね」

おチビな女性は、本気で眼をまんまるくしている。

「そりゃあ、わかるわよ。
貴女の悩みって、十中八九、マコっちゃんのことじゃない」

若干、皮肉混じりに言ったケイちゃんの言葉に、
おチビな女性は、素直にこっくりうなずいている。

「それで?」

「真琴ったらね、真琴ったらね……」

まんまるな瞳がウルウルと、ほとんど泣きそうな顔だ。

「なによ。マコっちゃんがどうしたのよ?」
 
「真琴ったらね、恋人がいるらしいの……」

おチビな女性は、この世の終わりというような顔つきでそう言うと、
はあぁーっとため息をついた。

「コーヒーはいつものでいいんでしょ?」

ケイちゃんは表情変えることなく言った。

「え? う、うん」

「それで?」

カウンターのケイちゃんは相変わらず手を休めない。
エスプレッソ・マシーンの台座にコーヒー・カップを置いてスイッチを入れる。

10

「ケイちゃん」こと、佐倉慶子。
この店──「さくら珈琲茶館」のバリスタ兼オーナーだ。

さらりとしたセミロングの髪をクルクルッとお団子にしてまとめている。
すらりと伸びやかな長身には、
白のYシャツと紺色のカフェの制服が似合っている。

清潔感のあるなかなかに整った美形。
が、色気のあるタイプではない。

この店には、アルコールも少々置いてある。
が、気軽に楽しめる本格的なコーヒー目当てのお客がほとんどで、
中には、彼女目当てのファンもいた。
が、浮いた話は聞かない。
男性ファンはむしろ、
彼女のサバサバした気っ風の良さに惚れて通ってくるらしい。

そして実は彼女のファンのお客は、男性よりも、女性が圧倒的に多い。
発するフェロモンの種類というのがあるのだろうか。
実を言えば、彼女自身も、恋愛の対象は男性ではなく、
女性の方なのだった。

そのモテっぷりは、学生時代からで、
彼女が通っていた女子高には、伝説があったくらいだ。

いわく「おケイのオーケイ伝説」。

当時、「おケイ」とよばれていた彼女に口説かれた女子は、
ビアンであろうが、ノンケであろうが、百発百中、必ず「オーケイ」するというのだ。
噂は、いつしか都市伝説のようになって、
約20年たった今でも、その女子高に語り継がれているらしい。

ところが、当時、“おケイ”が口説いて、オーケイをしない女子がひとりだけいた。

もっとも口説かれた当人は、自分が口説かれたとも、コクられたとも、
ぜんぜん意識していなかったらしい。
彼女は、こと恋愛については、ウルトラ級に鈍感であったのだ。

おケイこと佐倉慶子はその同級生にあっさりフラれたわけだが、
しかし友情をキョヒられたわけではなかった。
以来二人は、なぜか親友となる。

惚れた女性に、親友のつきあい以上を望めないというのは、
ビアンにとってはイバラの道だ。
それでもそんな選択肢を納得させ、それでもいいと思わせる何かが彼女にあったのだろう。
それとも、そうせざるを得ないとあきらめさせる彼女のキャラクターのせいだろうか。

当時は、しかしやはり、おケイは大きな枷を背負うことになった。
彼女に対する恋愛感情は、自分では整理できたつもりでいた。
けれど、新しい恋人(もちろん女性の)が出来ても、これがなかなか長続きしない。
自分では意識していないつもりでも、知らないうちに彼女と比べていたりする。
そこで結果的には別れることになる。
そしてまた、他の女性を口説くことになる。
それが繰り返される。
女性を口説き回ったという「おケイのオーケイ伝説」には、
そんな背景があったのだった。

それから約20年。
不思議な腐れ縁というのか、その友情は今も続いていた。
それでその彼女は、何か悩みやトラブルが持ち上がる度に、
ご近所にある慶子のカフェに押しかけては、話を聞いてもらう。

──そう。
長身の美人なバリスタと、
カウンターをはさんで向かい合うおチビな女性は、同い年。
遠目では小学生に間違えられることもある彼女は、36歳。
旧姓“二階堂姫子”、現在は“田代姫子”という。

10

「あら。マコっちゃんだって、もう高校2年でしょ?
恋人くらい、いたって当然じゃない。
むしろ、浮いた噂がひとつもない方が心配だわ」

言いながら、慶子がカップを姫子の前に置く。

「そうよ、そうなのよ。だけど、その恋人っていうのがふつうじゃないんだもの。
……あ、ありがとう」

白っぽいカフェラテから、本格的コーヒーの香ばしい湯気がくゆる。
姫子は、無造作に砂糖の固まりを4個、5個と放り込んだ。

最近でこそ、コーヒーの香りをちょっぴり楽しめるようになったが、
実は、コーヒーが苦手。
夕方以降に飲んでしまうと、その夜は眠れない。
姫子は三十路のくせに、そんな小学生のようなことを言う。

そこで慶子は彼女のために特別に、カフェラテを工夫した。
エスプレッソは、一般のコーヒーよりもカフェインが若干少なめだ。
苦みもちょっと少なめ。
そしてこの特製カフェラテは、さらにコーヒーの量も少なめだった。
その代わりに、ミルクがたっぷり。
そこで、小さなデミタス・カップではなく、大きなカップを使っている。

姫子のミルク好きは、中学の頃からだった。

毎朝,牛乳。
食後に牛乳。和食でも、牛乳。洋食でも、牛乳。中華でも、牛乳。
運動で汗をかいたときの水分補給は、牛乳。
汗をかかないときでも、牛乳。
「牛乳をたくさん飲めば背が伸びるんだよ」という、巷(ちまた)の説に、
彼女は一縷の望みの綱を託してきたのだ。

が、しかし、現在、姫子、36歳……。

この無惨な結果を見れば、
え? 牛乳飲めば背が伸びるなんて間違いじゃん。
──と、誰でも思うだろう。
けれど、そういうツッコミに関しては、姫子はスルーすることにしていた。

で、いまだにその(無駄な)努力を怠らない。
そんな姫子の生態を熟知している慶子が工夫した、これは姫子専用のカフェラテだった。



「ふつうじゃないって、どういうこと?」

「うん。それがね……あ。」

慶子の顔を見上げた姫子は急に口ごもった。

それから特製カフェラテにグビリと口をつけては、
「アチチ…」と、カップからあわてて口を離し、
「熱いね、これ。熱くて、美味しい……」などと言っている。

姫子はわかりやすい。
親友のその様子を見て、慶子はだいたい察しがついたが、
あえて、もう一度尋ねた。

「ふつうじゃないって?」

「いえ、あのね、……ううん、ふつうなのよ。ごくふつう。
ふつうなんだけど、何ていえばいいかしら、その……、
オーソドックスじゃないっていうの?」

「相手は、女の子なのね」

「えっ!?」

姫子は、慶子の答えに、それでなくても大きな目を、
いっそう大きなまんまるの目にして驚いている。

「よくわかったわね!」

「そりゃあ、わかるわよ。あなたの顔に書いてあるわ」

「え? 顔に?」

姫子はあわてて顔に手をやり、ゴシゴシこすり始めた。
その動作が、わざとボケているわけではないことは、
彼女の生真面目な顔を見ればわかる。
あいかわらずの天然は、36歳になっても変わらない。



女子校に一度でも通ったことのある女子であれば、
そのテの百合ばなしには、免疫が出来ているものだ。

たとえノンケであっても、うわさ話にはことかかないし、
AやBくらいの行為なら、日常茶飯事で目撃もしたりする。
だから、女子同士の恋愛ときいても驚かない。
一定の理解を示したりもする。

ところが、姫子は違った。

こと恋愛に関してはウルトラ級に鈍感な彼女は、女子同士の恋愛にも疎かった。
下ネタなど、もってのほかだった。

20年来の親友、慶子は、今はカミングアウトもしていて、現在、同性の恋人もいる。
姫子の周囲には不思議とビアンが多かった。
彼女は、そうした友人たちの生き方について、頭では理解を示してはいるものの、
恋愛の実態についてはよくわかっていない。
特にベッドの中でのいろいろなことについては何も知らないと言っていい。
その知識は、石頭な保守的一般人とあまり変わらない。

自分では偏見はないつもりでも、いざ自分の娘がビアンとなると戸惑ってしまう。
そんなところも、石頭な保守的一般人と変わらない。


「ふうん。マコっちゃんがねえ……。
でも、その話って、ほんとうに確かなの?」

「確かだわ。だって、わたし、見ちゃったの」

「見ちゃったって、何を?」

「メール…」

と、姫子が言い終わるか、言い終わらないかのときだった。

バタンッ!

と、カウンター奥のドアが勢いよく開いたかと思うと、
ポニーテールの少女が飛び出した。
赤いスクールリボンが特徴的な制服は、愛栄女子高校のものだとわかる。
佐倉慶子と田代姫子、ふたりの母校だ。

「やっぱり、そうだったんだ。お母さんったら、
ンもう、最ッッッッッッッッッ低(テェ)エーーーーッ!」

今にも中指を立てそうな勢いで、少女は吐き捨てるように言った。
もっとも、さすがに中指を立てるだなんてお下品なジェスチャーはしなかったが。

「な、なによ。なんで、あなたが今頃そこにいるの? 学校はどうしたの!?」

「今日は中間テストだから、お弁当もなしで早じまいって言ったでしょっ!」

「そ、……そうだっけ?」

と、姫子は気圧(けお)されるように、高い座椅子の上で口ごもった。

10

姫子がけたたましくカフェに飛び込んで来るその12分前。
ポニーテールの少女が制服のままで、
これまたパタパタとけたたましく飛び込んで来たのだった。

「おケイおばさん、おケイおばさん! ねえ、聞いてよっ!」

「なになに? どうしたの?」

と慶子が聞くと、ポニテ少女が語るには、
近頃の母親の悪行三昧(ざんまい)が目にあまるのだという。

ひとの部屋を勝手に掃除する。
ひとがスマホの動画を見ていると、「なに見てるの?」とのぞいてくる。
ひとが読んだ雑誌を勝手に見て、チェックする。

「でも、それって、母親だったらふつうなんじゃないの?
あなたのことが心配なのよ」

慶子がそう言うと、少女はブルンブルンと首を振った。

「お母さんには、16歳女子のデリカシーってものがわからないのよ。
いくら娘だからって、
プライバシーにズカズカ、土足で踏み込んでいいってわけじゃないでしょ?」

「そりゃま、そうだけど……」

「だってね、おケイおばさん。お母さんったらね、
わたしのスマホいじって、人のメール、勝手にのぞいてるのよ。
いくらなんでも、これはひどいでしょ?」

「う~ん、それはさすがにねえ……」

慶子がふぅーっと息をついた。
と、そのとき、
「ケイちゃん。ケイちゃん! ねえ、聞いてよっ!」
と、けたたましく姫子が入って来たのだった。
それでポニテ少女=田代真琴は
とっさに、隣りのスタッフルームへ身を隠したというわけだった。

10

「人のメールを勝手にのぞき見するなんて、最低よっ!」

「あなたこそ、お母さんに言えないこと、してるんじゃないの?」

「言えないことって、何よ?」

「だから、その、えっと……」

「わたしは、お母さんにだって他人にだって、天の神様にだって
顔向けができないことなんて、いっさいしてませんから。
もちろん、人のメールを勝手に見るなんて最ッッ低なこともしてないわ!」

「じゃ……。じゃ、じゃあ、『あの夜のことは忘れません』って、何なの?
『ゆみか』ちゃんって、あの娘(こ)でしょ?
いつか、バスケ部のみんなで家(うち)へ遊びに来たとき、
わたしのこと、『あら、小ちゃくてかわいい妹さんね』って言った娘(こ)」

「へえー。お母さんたら、気にしてるんだ」

「わたしのこと、真琴の妹って言ったのよ。『小ちゃい』って言ったのよ」

「だって、お母さんがわたしより『小ちゃい』ってのは、ほんとのことじゃない」

小さかった真琴がすくすく育って、
姫子の背の高さに追いついたのは、たしか小学校3年生の頃だったか。
以来、ぐんぐん追い越して成長し、娘の発育の健やかさを素直に喜ぶ一方で、
自分のコンプレックスを難なく超えていくわが子に
ちょっぴり嫉妬を覚えている姫子だった。
(ちなみに、真琴はなぜか牛乳嫌いだった。)

「そりゃ、確かにほんとのことよ。真実よ。
でもね、いくら『真実はいつもひとつ』って言ったってね、
言っていいことと悪いことがあるの」

「はん! お母さんなんか、『見た目は子ども、頭脳も子ども』なんだから」

そのとたん、
「ムキーッ!」
という、マンガのようなオノマトペはさすがに言わなかったが、
怒り狂った母親のその顔は、
いかにも「ムキーッ!」と言っているように、真琴には見えた。
その顔で、姫子が叫ぶ。

「真琴ちゃんのバカ! カバ! チンドン屋!」

姫子は、真琴が小学生の頃は、「真琴ちゃん」と、“ちゃん”付けしていた。
今でこそ「真琴」と呼んでいるが、何かのはずみで感情が昂ったりすると、
ときどき、「真琴ちゃん」という、昔言い慣れていた呼び方をすることがある。

「はん! 大人だったらね、大人らしくしなさいよ!
お母さんなんか、脳みそも発育不全で、面倒見きれないわ!」

「な、なによ! 真琴ちゃんのバカ! カバ! チンドン屋!」

こうなったら、どっちが母親で、どっちが娘だかわからないな。
──と、慶子は心の中で思いながら呆れている。
ここは口出ししない方がいい。

「お母さんね、もっと大人にならなくちゃダメなのよ。
お母さん、もうすぐアラフォーでしょ?
わたしも16になったんだから、ちゃんと子離れを覚えなさい!」

「うううう……」

何だか言い返せない気がして、それがまた口惜しくて、
地団駄を踏まんばかりに姫子は叫んだ。

「真琴ちゃんのバカ! カバ! チンドン屋! おまえの母さん、でーべーそっ!」


「へ?」

不意をくらって真琴は一瞬固まったが、すぐに「プーッ」と吹き出した。
真琴だけでなく、慶子まで腹をかかえて笑い出したのが不思議で、
しばらく姫子は二人をポカンと眺めていた。

が、やがて自分が思わず余計な言葉を口走ってしまったことに気づいて、
顔を真っ赤にしてモゴモゴ言った。

「わ、わたし……、でべそなんかじゃないからね」

「わかってるわよ、バッカねえ」

笑いがまだ治まらないまま、慶子が言った。

「さあさ。二人とも気がすんだ? 
そろそろ、お店開けるからね。
まったく、こういうのを『犬も食わない』っていうのよ」

「え? 『犬も食わない』っていうのは夫婦げんかのことでしょ?」

姫子が口をとがらせて抗議する。

「似たようなものよ」

「違うわ。ぜんぜん違うじゃない。わたしたち親子だもん。夫婦じゃないわ」

「わかった、わかった」

10

そうしてさくら珈琲茶館の営業はいつも通り、11時から始まり、
真琴は中間試験の勉強に取りかかるべく帰宅し、
姫子は出勤するべくパタパタと駆けていった。

姫子はこれでも、同じ商店街に居を構える「たしろ歯科クリニック」の院長なのである。
そこが、11時診療開始なのだった。
まあ、クリニックと言っても、医師は姫子ひとり。
あとは助手と看護師兼受け付け係の女の子という、
3人所帯の小さな「町の歯医者さん」なのだが。

その日、仕事を終えた姫子から、真琴のスマホに、
「今日はケイちゃんのところに寄ってくから夕飯食べててね」
とメールがあったのが、午後8時すぎ。
その約1時間半後に、慶子から電話が来た。

「また、弱いくせに飲んじゃってね、ひとりで歩けなくなっちゃったのよ。
試験勉強中に悪いけど、マコっちゃん、迎えに来てくれる?」

真琴が珈琲茶館に駆けつけると、席にちょこんと座った姫子がカウンターに伸びていた。

「ごめんね。止めたんだけど、またお酒飲んじゃって。
弱いんだから、もう、こうなるのがわかってるのにね」

姫子は、カフェインにも弱いが、アルコールにもめっぽう弱い。
コップに半分のビールでも酔っぱらうという体質だった。
350mlの缶ビールでもいい具合に出来上がって、そのまま眠り込んでしまうのだ。
そんな母親の体質と行動パターンに、真琴も慣れっこになっている。

「いえ、こちらこそ、いつもごめんなさい。
ほんと、おケイおばさんには迷惑かけてばっかりで…」

「ううん。迷惑はお互い様よ。けど、マコっちゃんも大変よねえ」

そう言いながら慶子は手助けをして、真琴の背中に姫子をおぶらせた。
さすが日頃からバスケット部で鍛えている真琴だ。
軽々と母親を背負ってみせる。
もっとも、おチビな姫子は体重も軽い。

「まあ、手がかかるんだけど、この寝顔見たら何にも言えなくなっちゃうのよね」

と、慶子は、
娘の背中で安心したようにグッスリ寝息を立てている姫子をながめて言った。

「……ええ」

真琴はしみじみうなずいた。
いつもケンカばかりしているが、
無邪気なその寝顔を見ると、確かに何も言えなくなってしまう。

店の扉で母娘を見送りながら慶子が言った。

「あ。そうだ。後輩の『ゆみか』ちゃんだっけ?
夜に、何かあったりしたの?」

「いいえ、別に。
その夜、みんなでいろいろガールズ・トークなおしゃべりしてて、
お互い、わだかまりがなくなって、距離が縮まったような気がしたんです。
由美香ちゃん、そのことを……」

「そうだったんだ。ウフフ、ごめんね、詮索するつもりはなかったんだけど」
 

10

真琴はちょっと遠回りをした。

商店街のすぐ脇にある小川を横切る橋を通る方の道。
春には桜の名所となる並木に、今は匂うような若葉が夜風にそよいでいる。

「あなたが赤ちゃんのときにはよく夜泣きしてね、
真夜中、グズるあなたをおぶって、よくこの辺を散歩したのよ」

と、姫子からよく聞かされたものだ。

真琴は、赤ん坊の時のことは、覚えていない。
が、母親に手を引かれながら、このあたりの夜道を歩いた時のことは覚えている。
その頃は、
「ねえ、お母さん、なんでなんで? なんでなの?」
と、やたらと、姫子を質問攻めにする年頃だった。
それでその時もきいたのだった。

「ねえ、お母さん、なんでなの?
なんでお月さまは、わたしたちの後をついて来るの?」

「んんーー……、なんでかなあ。
きっとお月さまは、真琴ちゃんのことが大好きなのよ」

真琴は、その回答に納得したのか、しなかったのかはわからない。
ただ、

「ふうーん」

と言った。



その頃、夜寝るときに、姫子がよく読んでくれた絵本()があった。

主人公の子うさぎが、あるとき、家を出てどこかへ行きたくなって、
「ぼく、にげちゃうよ」
と言う。
すると、母さんうさぎが「おまえが逃げても、母さんは追いかけますよ」と言う。

「魚になって逃げちゃうよ」と言うと、「漁師になって追いかける」と言う。

「母さんが来られないような高い山の岩になっちゃうよ」と言うと、
「登山家になって追いかける」と言う。

庭の花になって逃げるなら、母さんは庭師になって、必ず見つけ出すと言う。
小鳥になって逃げるなら、母さんは木になって、小鳥が止まりにくるのを待つと言う。
サーカスの空中ブランコで逃げるなら、母さんは綱渡りをして追いかけると言う。

そして最後に子うさぎが「人間の子どもになってお家の中へ逃げちゃうよ」と言うと、
母さんうさぎは言う。

「母さんは、人間のお母さんになってその子をつかまえて抱きしめますよ」

その場面に来ると、姫子は絵本のページを片手の指ではさみながら、
もう片方の手で真琴をギュッと抱きしめてくれた。
真琴は、その「ギュッ」が好きだった。
母親の懐かしいような匂いに包まれ、抱きしめられたときのあの柔らかなぬくもりは
今も覚えている。

そんなとき真琴は、どこまでも追いかけてくるお母さんうさぎは、
お月さまみたいだと思ったものだった。



赤ん坊の頃自分を背負ってくれたという母親を、今は真琴が背負っていた。
ふと桜並木の上を見上げると、今宵はいい天気で、十三夜ほどの月が冴え冴えと明るい。
真琴は幼い頃の記憶をたどり、
どこまで歩いても必ずつきまとってくる月は、ああ、確かに母親のようだと、ふと思った。

けれど。
子どもの頃と違って、今はそれがうっとおしい。

姫子は体重が軽いので、背負っていても別に負担ではない。
が、今は寝息をたてている母親のその背中のぬくもりが、やや汗ばむほどの温度に感じて、
それがうざく思えてきたりする。

(わたし、にげちゃいたい)

真琴が心の中でそうつぶやいたとき、背中でふいに姫子が言った。

「真琴ちゃんのバカ」

「え?」

と思わず振り向くと、どうやら寝言らしい。
何の夢を見ているんだか。 

「もう。お母さんのバカ」

真琴は思わずクスリと笑って、そっとつぶやいた。
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※ 絵本「ぼく、にげちゃうよ」
マーガレット・W. ブラウン著、いわたみみ訳、ほるぷ出版