中央フリーウェイ

自分の感覚を信じている。

若いとき特有の自分探しの中に、自分に何か特別なものが備わっているはず、だから、それを社会に出したい気持ちを自己顕示欲とか承認欲求とか、言葉にしたらそういうものなのだけども、その辺りのものは私のイメージ上、ここではない自分を想像することで、決して生活を工夫して努力の結果にもたらされるものではなかったんだなぁと今、大人になって思う。つまり実現させるつもりは毛頭なくって、現実から逃げて妄想の中のできるチャンな私をひたすら大事にすることが私の全てだったような気がする。


なんでそんなことを今更思うかといえば、夢を見たことはあるのかと思い返していたときにそういえばそんなこと思ってたなぁと。こんなふうに暮らしていきたいって考えてたら現実からものすごくかけ離れたレールはピカピカ光って想像できたから。とりあえず毎日楽しくてそれで今が一番満たされている、それ以上を望むなんて馬鹿げている気がしていた。夢見心地で生きていきたい。私の中の夢見る乙女(!)がふわふわ心地よく暮らせるような努力だったらできるな。人の目気にせず自分の得意な努力をしていこう。と思う。それなら出来そうな気がする。みんなと同じ様なことができなくても、私にはコレがありました、と言えたら良い。そんな素敵なことができるならわたしは最高に幸せです。心地よく心豊かに生きていく努力をする。楽しいことを大事にする。それを大好きだと自分であっためる。好きな人と楽しい話をしてお互いに丁寧に接して支え合っていく。そういうことを大切にしていく。例え心の底から望むものが手に入らなかったとしても、悔やむばかりでない毎日を愛でたい。それはそれで努力がいるから。そう言うことに気がついた。




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変えたてのシーツに寝転ぶのが好き。シーツを変えた日の夜は新しい部屋に来たみたいで気分が変わって良い。見慣れた寝室がシーツを変えただけで知らない雰囲気を漂わせる感じも好き。


無印のベッドフレームの上にベッドマットを置いて、その上に敷布団を置いている。そこに敷布団パッドをつけてさらにシーツをかける。冷感パッドがあったのに、すっかり忘れて綿のシーツを取り出してきてしまった。それぐらい久しぶりに変えるシーツ。

枕と布団はサッと干してから、布団カバーと枕カバーを新しく変える。正直すごく面倒くさい。やりたくなる時まで基本的にこまめに変えたりはしない。気が乗っていて、大変な晴天の場合でなければシーツなんて変えたくない。特にここ最近はお天気が続いていて気温が高すぎる。しかしだからこそ洗ったシーツが2時間もかからず乾くのが気持ち良い。夏の唯一の良いところは洗濯物が乾きやすいところだと暑いのが苦手なわたしは富に思う。冬は冬で絶対乾ききらないのが分かっているので面倒だが何回かに分けて乾燥まで洗濯機に働いてもらっている。


今年の夏は暑すぎる。生きてるのが嫌になる。

もう直ぐ9月になると言うのに連日35度を超える。家の中の温度が下がらず体がほてってぼうっとしてくる。涼しい夏の朝だけは脳が体が思い通りに動くので生きてる感じがする。こんな涼しくなるのが楽しみな夏はなかったな。あとちょっと、あとちょっと。海にも友達にも会えない夏が、もうすぐ、終わる。


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自分が大事にしたいところはもしかしたら幼児性なのかもしれないな。
いつか夢が叶うと信じてやまない少女がいて、それを無意識に大事にしすぎてて、必要かどうかが判断つかないことがある。物が捨てられないのだよ。

いつか何かを作る時にいるもの、とか納期なかったらやらないし、趣味だったら自分で使うか人にあげるかだろ?優柔不断なんだよ、人生に対して自分に対して物に対して。ちゃんと責任とろうと思った。やらないなら手放せばいい。やりたくなったら大事にすればいいだけ。
書いてたら大したことないのにものすごく自分の中の何かが減って行くようで慌ててしまった。
変化を嫌うのと、惰性で過ごすのはまた違うのにね。私は違うと思ってたのか、ほんとどうしようもないロマンチストなところを認識してびっくりした。ここじゃない、もっと良くなれると足掻くのは方向性を誤ってはいけないんだ。




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仕事行って帰ってご飯食べて寝るっていう活動を一生懸命してる。
この毎日に意味は見いだせなくても、それは自分の望む大事な今日なので、
大事に過ごすことを心掛けているけれど、毎日を今日を一日こなすのにこんなに疲れるとは。

あと何を怖がっているのかわからないけれどものすごい人と付き合うのが苦手だ。
仲良くする人を新規で作りたくない笑 マジで誰にも関心持たれたくない。
そして誰にも興味がない。職場の人は機械か何かかなぐらいに思ってる。
別に今の職場に不満はないのだけど、だからたぶん自分の問題なんでしょう。
日常生活に文化は要らないって思ってそうな人とはつきあいたくないの。
それってすごく贅沢らしくって、いやな顔されたり驚かれたら居心地が悪くなって
話すのが嫌になるんだ。わかってるよ、そのくらい。だからそういうことなんだよ。

だから飲み会とか無くなってある意味ほっとしてる。今の私に酒は不要なので…
特に不満を抱くほどの仕事はしていないし…あ、、ダイジョブです。。的な……
家にいて時の番人になるよりは一時間が金になるなら行きます。。
という動機で仕事をしている。
そんな話誰にもしたくないので私はホントダイジョブです・・・



Vulfpeckのライブがレキシ・・・?ってなって好きになった。




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むしゃくしゃしてるのに、この写真みたら心にジュワッと牛脂の香りが広がってまた生きる意味を思い出させてくれたょ。

私の怒りが牛脂を超えられない程度でよかったです。

今日もありがとうね。


冬瓜のスープを作ろうと思っていたけど気が変わって翡翠煮というものにトライしてみることにした。母がくれた雑誌の切り抜きの通りに冬瓜を下処理していく。わたを取って表面の皮をこそげて、面取りして5ミリの隠し包丁をできるだけ細かく…という死ぬほど面倒なことをした。冬瓜の緑が褪せないように皮を下にして塩と重曹を少し入れた沸騰したお湯で下茹でする。綺麗な透明と、鮮やかな緑が綺麗でやって良かったと思った。150円の冬瓜の、食べられるまでが遠い。茹でた冬瓜は少し柔らかくなりすぎてしまった。氷水に浸してよく洗いまた水気を切る。冷凍してあった出汁を温め直し、レシピでは貝柱だったけどないので干し海老を火にかける。少し濃いめに味をつけた出汁を沸騰させ、しばらく経ったら冬瓜を入れて紙蓋をし3分。煮たら鍋ごと氷水につけて完全に冷えるまでしばらく待つ。冷えたら最低10時間はそのままに、時間をおいていただくようです。明日のお楽しみ。そういうことが楽しい。時間がかかるけど、面倒な料理が楽しいのは気持ちが元気な証拠だから。FullSizeRender





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くよくよして、忘れた方がいいような事を根に持って思い巡らして、答えが出る事を期待してあれこれ考える事をやめようと思えるようになった。だって、答えが出ないんだもの。答えが出ないことがあるんだ。世の中には。どうもそうみたいだ。答えを見つけられるかも、というのは期限付きの時間の中だけにしないといけない。そんな曖昧な事案は、明日の朝考えた方がいいに決まってるし寝る前なんてその日あったいい事思い返さないと精神不衛生まっしぐらだし。もう、全て、いい巡りの中に居たいんだ私は。自分の首を絞めるような悩みを作りたくないんだ。などと言い聞かせてモヤモヤしたものをそっと空に放つ。君とはきっと一生の付き合いになると思うから、一旦手を止めさせてくれ。私の生きる気力を奪わないでおくれ。タンパク質も沢山とるし、お願いだから今日はいい気持ちで眠らせてくれ。



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びっくりする、もう今11月になった。
変わらず家で腐ってる。
こちらの更新が滞ってるってことは、落ち着いてるか、本当に何もないかのどちらか。
辛くなってパンパンになった脳みそを放つ場所になりつつある。有難い。

やりたいことがあったけど、どうにも勇気が出ないのだ。没頭したい気持ちと不安を天秤にかけてうんうん考えていたら風邪をひいてしまった。

社会の仕組みを知れば知るほど、自分の存在がどんなにちっさくて微力なんだと思い知る。そのぐらいの方がうまく行くこともあれば、もちろんもっと自信を持っても良いところもある。

人間関係は煩わしいのが基本で、全くないとなるとそれはそれでストレスになる。適度なストレスも生きていくには少しは必要なのだけど、ストレスの種類と程度は自分では選べない。そうなると自衛を極めるしかないのだ。自分の快適と好きを大事にして、辛くなったらそれらが満ち満ちになってる宝箱をぱかっと開いてリフレッシュする、って言うのが大人の解決ほーほーなんでしょ?それは知ってる。

誰かに会いたい。人の気配があるところでなにかの作業をしたい(仕事したい)がなんで叶わないのか。夢を見れない自分をいつも責め立てていて、挽回しようとして挫けた。いつもそう。自分の夢は世界の中で後回し。夢を叶えるモチベーションも、悪い妄想で不安を掻き立てるあの悪い癖が出たのです。でも、昔よりは自分のことこき下ろさずに済んでるかな?でも勇気がなくて臆病なのは変わらない。ひとりぼっちの自分はおとなしい。誰か向けの態度を取るって、こう見られたいってのを自分で操作してるってことで、それはとても疲れるんだ、疲れない程度に調整したい。

でも、もう、そんなやり方忘れてしまった。もはや外の世界が全部怖い。怖いことしか起きないんじゃないかって妄想が続いてて参ってる。そんな世界はわたしのことどうでも良いことも分かってるのに気持が萎えてどうしようもない。楽しいこともあるよ。友達に会うのはとても嬉しいし、楽しい。しかし、友達に会うのにも電車に乗るのにもお金がかかるじゃないですか。ましてや外でご飯食べようもんならええ?!ってことでしょ。
非労働者(家事労働はGDPを発生させないって言うのがこたえる)(最終的には巡り巡って生きていく為に必要なんだけどね)は思考も貧弱にしていく。それが何よりよくない。夫に、環境に、とても感謝している。それとは別にふつふつと心に沸くものは止められないの。そしてやっぱりひとりぼっちにはいつまでも慣れない。世界と乖離していくのもどんどん太っていくのも自分で自分の動きを止めているせいなのも頭ではわかっているのにつらくて仕方ない。
大好きな料理も材料が貧困だと急に嫌になる。全てが完璧でなくても良いって、だいぶ大人じゃないとできないよ。と、大人のふりした小さいわたしがたいそう騒いでいるのを背中で感じている。年末まであと一ヶ月ちょっと。














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同じところをぐるぐるしている、自分以外のすべてがうまくいってるような気になる。
満月のせいにしよう。そうに決まってる。
急にいろんなことがいやになってきた。
なんでこうなった。何をどうしたら私は満足なんだ。どうしたいんだ。どうすれば正解なんだ。全部自分が望んだはずなのに、逃げたくなるって何なんだ?どうしようもないことがすべて嫌だ。変えたい。脱したい。逃げたい。生きていく事に荷が重い。健康も清潔な暮らしも元気も投げ出したい。でも出来ないから辛い。幸せを放棄したくてたまらない。どうしよう、困った。めちゃくちゃにしたい。やっぱり駄目だったか、とか言って自分でがっかりしたくてたまらない。頭が重くて胸が苦しい。あー久々に厭だ。昔に比べたら本当にこういう気持ちが減った。こういう時、感情を無にしておかしくなった。かといって受け止めて「嫌だなあ」って浸るのも嫌だ…もう全部嫌だ…ダメだとは思わないからすごい進歩……楽しい気持ちになりたい……夏が終わりに差し掛かっているこのタイミングはきつい。まだ毎日35℃あるよ。だからまだ夏だけど。あの楽しい気持ちはどこに行った、また会いたい。すごく会いたい。





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一人で過ごす時間が辛くなくなってきた。
というか、一人で過ごす時間に慣れてきてむしろそれが普通に思えてきた。人といるのが好きだったんじゃ無いのか?ってよぎるけど、慣れるんだよ、人間って。一人でいたら誰も私を傷つけないが人に合わせるのが難しく感じてしまって逆に慣れない。あと会う人会う人に変わってるって言われるのなんで?そんな私迷惑かけてるのですね。あなたの価値観揺さぶってすみません。これでも一生懸命に生きてるんです。私と会ったり一緒にいる時間ぐらい楽しく過ごしたいって思うのは普通じゃ無いんですね。まだまだ世の中知らないことばかりです。教えてくださってありがとうございます!今日も軽快に奇怪に過ぎていってます!


一人遊びの毎日に、なつの予定が入ると楽しいなぁって思う時が増えてきた。
夏がこんな楽しいのはいつぶりか。

体重が二年前と比べて5キロ確実に太ったのとか全然無視できない事もありますが、寂しくて千切れそうな気持ちが減ってきてるみたいで嬉しい。

海で遊んだのが特に楽しかった。田舎のおばあちゃんの家に行ったら夏は海に行ってたから、色々思い出した。
海水の中でさっと洗ってかじるちょっとしょっぱい桃とか、休憩に頬張るいびつな形に割れたスイカとか。それを弟たちと再現できたのが一番嬉しかった。もう元に戻らない事も沢山あるけど、心穏やかに浜辺を走り回って、楽しい家族の思い出があった事を思い出せて、心底ホッとした。もう嫌な気持ちで家族と向き合いたくない。退屈なのはまだ良い。お互いえぐり合うような傷つけあいはもう二度とない様にしたい。


毎日の事で言えば、家事がんばっても、毎日ご飯作っても、結局自分でよしと思わない限り、満たされる事はない。誰かに良くやったね!って言ってもらいたい人生が変わってきたのかな。とか思えてきた。ほんとは言ってもらって、社会的に生きている実感も欲しいけど、弱くて適当な自分そのままで、無理せず暮らせる毎日を過ごしている今がとても尊い。色んな人に支えてもらって生きていると思う。もうそれで良いや。家事なんかやってられるかバカやろう。しかし感謝は忘れないようにしたい。
そして自分を信じて勇気出して一歩踏み出したい。頑張るのは自分の夢を叶える時だけで良い。それも世界平和のためだから。その様な意識で今後自分を引っ張って行きたい。




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珍しく思い出に浸っている。

家に引きこもっている日々の中で、人と関わっていた時のことを仕切りに思い出すようになった。

あまり思い出を引っ張り出してうっとりすることはなかったのだが、そういえばこんなことあったなってフッと記憶が蘇ってきたりするから不思議なの。

高校時代、三年になった時、入学当時どうだったかを鮮明に記憶している友達が居て、なんでそんなこと覚えているのか、どうしてその記憶が尊いのか全く共感出来なかったのも思い出した。

具体的な事案でなく、後輩とのやりとりとか、昔好きだった人との関わりとか、ふいに黙り込んだ瞬間とか、人のいる気配をよく思い出す。当時は無理して楽しい私を演じていたので、疲れやすくてとにかく早く家に帰りたかったから、思い出も置き去りにしてとりあえず駆け抜けたというか逃げ切ったようなそんなうずらぼんやりとした記憶しかない。でも、いつも友達がそばに居てくれたし、寂しい思いはせずに済んだので、失敗しまくったりしたけど楽しかったことも多かったのだと思う。

学校って窮屈だったけど、大人になったらある程度パーソナルスペースを確保することにも長けてくるからあの当時の感覚で人と付き合うことはもう出来ないなぁと思う。

ちょっと無理したり背伸びしたりして相手に合わせたり狭い中で競い合ったり挫けたり励ましたり自信喪失したり復活したり賑やかだったことよ。ひとりぼっちでうちに居てるのは安全だけど1日が長くて退屈だ。もっと一人遊びをエンジョイ出来ると思って居たのだが、とんだ思い違いだったなぁ。こんな日々もいつか思い出して良い思い出になるように頑張ろう。最近そういや死にたいって思わなくなったな。ええ歳になってきて、薄く長く生きる為に自分で自分を守る方法は無いかを必死で考えようとしている感じ。どうしても生きないといけないということに気づいたというか、ストレスは回避できる事を知ったというか、辛い時は休めばいいということがわかった(みんなそうしてる  からか、時間感覚がきちんと今に居る感じがして辛くないのが嬉しい。いつかこの時間がすぎるからそれを待つ、というときもあるけども、どう工夫して楽しくするかって、全力で逃げ切ったり向き合ったりするだけじゃないんやなと。その時に最適な判断はできるんだし、自信もっていこうや、悠々とした大人になろう。自分の人生に責任を持つんだ、という気持ちでゆるく過ごしてるのがリハビリになると信じて今日も一人で思い巡らす正午前である。





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幸せって何ですか。幸せを感じる瞬間はあっても、幸せである状態…ブランドものの小物を着て街を闊歩したり、帯状の何かに包まれたり、霧が出てきたり、目に見えたものではないということじゃないらしい、という事を思い知る日々である。
しかも、それは人それぞれで比較しようがないらしい。
今更過ぎる。でも知りたい、自分が今幸せかどうかと、人が何に幸せを感じるかを。
その違いが素晴らしいしそれは完全に独立しているし、お互い大事にしたいものであり、
その人を表すカギになるだろうから。

自分では幸せかどうかわからないことが多いけど、できるだけ幸せになりそうなものを
選んできたと思う。選べるのは選べないより幸せだから。

そうそう、私、ずっと幸せになろうと努力するのはダサいと思っていた。
自分が努力できないのを棚に上げるためにそんな風に自分を慰めたりして
みっともなかったなあと今では思う。

経験したことのない事に挑戦するのは勇気がいる。
結果幸せになれなかったとしても、そのプロセスはその人それぞれの力や知識になるし
同じことで困っている人がいたら優しく話を聞けるかもしれない。
子供がいる人生が自分にも起こると思っていたけれど、
子供がいない人生を否定するのも違うと思って、
いろいろ妄想するのだけれど、それこそ起こっていない事に備えるのは
性に合わないみたいで、そのための余白、子供のための余白、夫婦二人だけの余白、
と考えたら何もできなくなった。何もしてはいけないような気がして毎日家で日々の暮らしを徹底していた。
でも、それも自分で望んだことだから、幸せの枠の中の出来事なのである。
幸せってなんだろう、ふと思った次第である。

だから何かのための余白を用意するのはやめようと思う。
自分のための余白、
明日自分や家族が穏やかに過ごせるための準備ができること
毎日の食事に困らない事
清潔な暮らしと質の良い睡眠
最低限だが最高の毎日がなにより最優先だとしたら、
その幸せの為に自分の余白を残しておくことにする。


幸せはつくずく地味でわかりにくいところにあるなあと思える。
キラキラしていて派手でたくさんお金を使う事が幸せのような気がして
手に入らないなんて絶望したりもしたけれど、
たとえば洗濯物が最高に乾ききったピークに取り込める事に幸せを感じる。
夏のいいところの一番はそれかもしれない。
そんな風に地味なところにも転がってて、踏んだリ蹴とばしたりしてもまだ丈夫で
こっちを見上げて鈍く光ってたりするから、拾い上げて大事に抱えて持って帰って
あっためたり洗ったり乾かしたりしてなんだか手にじっくりなじんだリして手放せない、
そういう幸せに気づけて私は幸せなんだとじわじわ胸が熱くなる。いや、暑いのは気温のせいか。
35℃近くあるので息も苦しい。はあはあはあ、今日の晩御飯何にしよう?とか思いを巡らせることとか。
まだまだ知らないことがあるし、作ってみたい料理があるから、私は幸せになっていい。
幸せすぎることに不安になることがあるけど、それはなってみてから考えたらいいと思う。
幸せで困ったらいいと思う、むしろ、そういう人生にしていきたい。





とはいえ、子供いない/いつ引っ越すかわからない/日中一人/働いてないって
真剣におもんないです。

やりたいことやりたいけど、どの程度やりたいことをやるのか決めるためにも
自分のことがわかっていないとできないという思い込みから身動きが取れない。
運気悪い6月ももうすぐ終わるから、動き出すよ!!毎日面白くしたい。充実させたい。幸せに過ごしたい。
いろいろ感謝してる、それと同時にどつまらん毎日をどつまらんたらしめてる自分に
腹が立つ。しっかりせんかい!!!!!!!!





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具合のいい日を待つのではなく、作れるのではないかと思えてる。

体調がいい日。頭がさえていて、やる気があって、元気で、集中できる日。

そんな日が少ない気がする。がんばれるぞ!という気持ちの日。

たいてい不安ごとが頭から離れなかったり(晩御飯なにしよとか)

体の具合が悪かったり。(生理前後だったり)

気分がもやもやしていたり。

どうにも良い気分の日がすくないから、よい気分になる方法を探してみようと思ってやってみてるけど…。


1.食べるタイミングを自分で決める

 夫に食べるタイミングを合わせず、決まった時間に食べれるならそうする。


2.朝がだるいのでだるさが抜けるまで二度寝をする

 どうせ起きてても何もすることがないのだから、しんどい時は寝るのを良しとした。

3.食べたいものが見当たらない時に困らないようにしておく

食欲がないというか、準備するもの買いに行くのもめんどくさい時がある。 

自分の世話を自分でできないときにアレとコレとコレくっとキャなんとかなる。

という食べ物を考えておく。


4.今の自分の気分をきちんと捉える、それを否定しない。

つい、「今日も何もしなかった…」等と思いすぎるので、

そもそも何もするつもりがなかったのに、自分を責めようとするから、

何もしないことを頑張った、何かしたいことができるのを待った私えらい!

とか、なんでもいいから誉めて、気持ちを上向きにするように努めた。

5.新月・満月の日は諦める/ぜんぶ生理のせいにする

タイトルの通り。無理しても全然いいことない。何もしてもしなくても気持ちが落ち込んだり逆にテンションがたかかったり、必要以上にアクションしてしまうので、新月・満月はあきらめる。生理前も生理中も生理後も、いつもの私ではない生き物と思っていい。全部生理のせいにしてしまってさらっと受け流すべし。

6.低気圧や風の強い日も無理しない。

低気圧が近づくと頭痛がするし、体がだるくなる。なので何もしようがないので無理をしない。できるだけじっとする。かぜが強い日も体がだるい。体にダメージのある時は無理しない。

たまに、高気圧の日もダメなときある!まれだけど。油断できない。





会社員だったころ、祝日がある週はなんだか気が散るなあ、という印象があった。連休を挟んだその週の次の週に様々がテンポよく動いた気がする。休みがあるから集中力を切らさないようにできたのかもしれない。休みがないと持たないけど、休みがあるからもたつくこともあって、そう思えば「世の中のリズム」って絶対あると思った。

良い流れの雰囲気がある時と、自分が失敗するわけではないが何やってもうまくいかない雰囲気の時。

私一人が「今日絶好調!あるいは結構いい気分の日!よくはないけどやる気はかろうじてある日。。」

ってのがあるように、動かす我々全員のそういうモードが作るうねりがばちっと合う日がある気がしてた。

それが年に何回かあって、そういう日は気持ちよく一日が終わる。休日かもしれないし、仕事の日かもしれない。そういう時はグッと良い一日が過ごせる。そういう日があらかじめ分かればいろいろ予定が決めやすいなあ、って思った。旦那も私も良い気分の日、という日があまりにも少ない。どっちかが具合が悪いと伝染して片方の元気がなくなっていく。でも、そんな日もある、と思う。できる範囲で過ごせばいい。そう思うようになった。だって、多くの人の気の流れがあって、その中で私たちも一つの生き物としてリズムを持っているし、それに左右されないわけがないと思うから。そう思わないと説明がしにくいなあなんて最近思ったりしてる。ただ私の調子がいい日なだけじゃないか?とも思うけど、それだけじゃない気がしてならない。そういうこともあるかもね〜って思っているとつじつまが合うなあと。どうあがいても全然進まない時と、するするとうまく進む時があって、それは自分の努力とか、そういうことじゃない、運とかタイミングとかあるいはそれ以外の何かが関わっている気がする。



うまくいくときもあればうまくいかない時もある。それでいい。今日もがんばった。って思うようにしようとしている。たぶん私の良くないところは他者評価に頼りすぎるところ。自分がいいと思う事にもっと責任をもって向き合って、自分で大事にしないと、生きづらさは変わらないんじゃないかなあと思う。だから今なにもせずに向き合っているのが、大変につらい。何かしたいけど、何をしたらいいのか勇気が出ない。したいことはあるのに体がついていかなくてつらい。だから少しずつ向かう先を目指して自分で進めていかない事には、もやもやが晴れることはないんだわ。


自分から逃げるために頑張って結果を出したとしても、続かない。

頑張ることが逃げることなら、頑張るのをやめたら相容れないと感じてる自分が出てきてしまう。

だから頑張るけど、必要以上に頑張っているのでものすごく疲労している。

疲労しているけど頑張らないともっとつらい気分になるので頑張って動けなくなる。他人のせいにして切れる。

だから、最初がまずかったんだわ。自分から逃げないでその時やれることをやれるようにやるだけにしようと思った。頑張らなくても私は存在して大丈夫なんですよ、それをしっかり心に刻む。がりがり。生きるのを簡単にしていきたい。やりたいことをやらないと、どんどん腰が重くなっていってる。動くなら今、自分を変えるやり方は良くなかった。そっから逃げないでやりとげたい。


こんなふうに自分の考えを自分でないことにせずに、思ったことを書き起こしてみるととてもすっきりする。そして書き起こせるときは調子がいい時だと思う。

何も思わない時でもきっと細かく何かを感じてるはずで、それを拾わなくて機嫌が悪くなっている場合もありそう。

とにかく全部うまくやろうとし過ぎなのだわたしは。失敗をとても恐れている。だれに叱られる訳でもないのに強く思っているようで、そのあたりが自分で苦しいなと思う。失敗することで自分の価値が変わったり、悪くなるような妄想が引っ付いてそう。失敗したって、自分を必要以上に責めないで、失敗を繰り返さないように方法を考えるだけにしよう。失敗しない事なんてない。失敗する余白を持つこと。そんな日もあるよって、そうやって毎日を乗り越えていこう。と頭で思って、ちょっとずつ軌道修正している。







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約一か月が経ちました。梅雨に入りました。ごきげんよう。いかがお過ごしでしょうか。
ピレア達、どう、立派に根が生えてまいりました。嬉しい。そろそろ新しい鉢に入れ替えたい。愛おしい。愛おしいではないか。ああ。わりと強い植物じゃないと育てられない。多肉が苦手です。

こうして植物が育っていくのを眺めるのは心が落ち着いてくし、たまらん良い!って思う。

毎日、こつこつ積み重ねるのが苦手な私ですが、こうも植物がいい子たちなのに救われる。うちに来てくれてありがとうという感じ。

暮らしって、地味じゃないか。毎日飽きずに暮らす工夫って、こういう事なのかもしれないね。
とってもわかりにくい。だから、嫌になることが多い。つい目先のいらだちにすべてを支配された気になって、全部ほおり投げたくなったり、たくさん食べすぎたりふて寝してしまう。私は。
やりたいことを実現するコンプレックスをこんがらがらせて温めてしまっているので、計画的に何か目標をもってやることに異様に苦手に思ってしまう。就職したときも、結婚したときも、なんとなくではじめちゃうから、つじつまが合わなくなってくるわけ。で、切り抜ける。それを繰り返していた。いいところでも悪いところでもある。そして今は六月。占いの本の中で、年間通して運勢が最強に良くないというのをうのみにして、微動だにできない。お金も使いたくない。でも、必要なものや欲しいものはあるわけで。たまには外食したいし。となると何も制限してないことになる。どういうこっちゃ。そんな、我慢してなくて、いいのか、等と自問自答するけれど、今はこれでいいとしか言えない。こんな時間とお金の使い方、慣れるわけないよ。働いて、稼いだ金でビール飲んだほうがうめえよ。だからかみしめて過ごす。バッと動けるための準備をしていると思ってやり過ごす。でも、日々悔いないように、それが何より難しい。金がないと楽しく過ごせないなんて、そんなことわしゃ聞いてないぞ。ってな。
いまが続くと思えない。そんな贅沢な日々を持て余している。頭の端で、葛藤する。こんなんで人生過ぎてってたまるか、という気持ちと、感謝が足りない、贅沢だぞ、こんな暮らし。というやり取りが忙しい。どっちも本音だから、どっちの話も聞いている。そんな日々。


雨は少ないけど、晴れの日も少ない、まだ梅雨のはじめだからかね?

ところでまた、いいの知りました!
Kidori Kidori/なんだかもう
2015年の作品みたい。ジャケットもいけてる〜〜。


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 ようやくピレアの植え替えをしました。 
 はちぎちぎちに根っこがはってて、窮屈だったろう。すまなかった。
 水差しもやっとできる!冬に手に入れてから、やっとできた。 
 毎日まだまだ寒いなあと思ってたのに、もう日中は30度近くなってきた。 
 毎日、なにかしなければ・・と思いながらやっと過ごす日々、しかし気づけば
 時間は過ぎているようで、体感している時間と物質の時間にずれがある。
 焦る、何もしていない、いや、毎日頑張って生きてる、何もしていないわけでは・・ない!
 けれど、焦るのです。家の中も落ち着いてきたのだし、そろそろバイト探そう。
 陰鬱な気持をきっちり受け止めるのも大事だけど、前向きにいってみようや。


 それはそうと、インターネットに入り浸る毎日、ネットで見もしない人の
 ひっそりとしたためる文章がとても好き。書きたいから書いてる、そのほかはない。
 その潔い気持ちがとても救われる。ああ、こういう事思う事、みんなあるんやなあ、と。 
 ひそやかな応援のように自分の心に響く。だから、これも、まず自分の為にかいてるけど 
 今が辛い人の何かの気がまぎれるならとてもいいなあと思った。
 普通の気分の時に普通の事を書く、それがどこかで自分の癒しになることを願う。
 そして誰かの役に立つことを願う。的確な癒しが無くてもできることがあると思っているから。誰かと会ってドーパミンドバドバ出すのも、お酒の力でガーっと騒ぐのも、どれも良いけど普通の気持ちの自分がいたことも、きっといつか自分の励みになると思って。誰かのためじゃなく生きる、尊い命をそれぞれがゆったりと自分の時間を過ごせますように。







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ぬるい春の雨の日。

自分の中のガボッと欠けたところから嫌な思い出がスルスルと出て来て困る。雨のせいか春のせいか、何がきっかけでも無くもやもやと始まった。

今晩は一人飯の夜なので、夕方の始まりから寂しくて時間も持て余していた。寂しい気持ちが悲しみを連れてきて気持ちが落ち込んでくるのがわかる。三本だけって決めてビールを買って帰ろうと思いつき家を出る。ショート丈の上着で外へ出ても思ってたより寒くなくなっていた。きっとじっとしてるから家の中の方が寒いんだ。ご飯を作ろうと思っても、何が食べたいのか思いつかなくて、好物の餃子をコンビニで買うことにする。そして冷蔵庫に前の日の残りがあるからサラダでも作ろう。帰宅して冷蔵庫を開けると酸っぱくて忘れてた八朔を見つけたので、ほぐしてサラダに混ぜる。そういやアボガドもあったな、と、切って並べる。買ってあったししゃももついでに焼いて、目の前に置いた。座って缶ビールのプルタブをプシッと開ける。立派な夕飯ができているではないか。アボカドに山葵醬油をのせてほうばるとさっきまでのいじけた気持ちが遠のくのがわかった。アボカド、ししゃも、餃子にサラダ、どれもちゃんと味がして美味しかった。食べ物の味がすると、そうでない日が際立つ。美味しいはずのものを美味しく食べられないと気持ちが沈む。

さっきまで寂しくて悲しくてパニックになりそうだったのに。変なの。今の美味しい気持ちは幸せだ。寂しさも悲しさも悪いやつじゃ無いのに、ビビってんだ。自分の中で悪さしないか気にしすぎてパニックになってたのはもう昔の事なのに、時折脳みそが間違って今を惑わせる。

しかし今日の私は昔と違う。うっとりと落ち着いてビールを飲めるわけです。みんなで。寂しさ悲しさも幸せも、みんなで輪になってしっとりと酒を交わす夜。こんな日が来るなんて思わなかった。寂しさは怖いもんじゃない。ずっと勘違いしてた。フォーカスするから怖くなる。別にそこに居るくらいいいじゃないか。結婚してもひとりの夜はあるし、ただ、ひとりというだけ。寂しくてもそれに乗っ取られたりしないで済んでいるし、かき消すようにアルコールを摂取しないで済んでいる。もうそれだけで恐ろしく満たされているのに気づいて、心の中で、小さく自分に乾杯した。



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自分が産まれたこと、今まで元気に過ごせたこと、結婚して好きな人と今暮らしていること、なんとなく将来のことを思い描いて、そうなったら良いなぁということを2人で考ええられていること、それが今までずっと、「ただ奇跡の連続」だった、ということに気づいてしまった。(そして人はそれを幸せと呼ぶ。と言うことも)


心の底から望んでた、あるいは不本意の中の微かな納得を前向きに捉えたのだとしても、そう決断して進むこと自体がたまたまうまくいってただけなのなら、私は自分のことを幸運な人間だと思えて嬉しくなった。同時に私に関わる全ての人にも同じような感覚を持ち始めて、それは決して入れないそれぞれの領域を持って産まれてきていること、そして誰も同じもののない尊いもの、生きていることとは私が思っていたよりはるかに掴めないものだという実感がして、とても気が楽になった。そんなこと、どうしようもない要素が多すぎて、思い通りになってもならなくてもそもそもが大いなる奇跡のかたまりだったら、うまくいってもいかなくても、あまり気にしなくても良いものなんだろうとも思い始めた。今まで人の目を気にしていたところがあったのは、何だったのかと思うくらい。

だからどうなっても良いや、ではなくてもっと前向きで、だったら大丈夫な気がする、と言うものです。これか、これが私が喉から手が出るほど欲しかった自尊心というやつか。すがすがしい、何とすがすがしい春であるか。それだけでもう嬉しい気持ちになっている。

同時にこんな風に思えるのもありがたくってたまらなくなった。ありがたい。生かせてもらえてることに感謝がとまらない。そして自分を大事にすることがどう言うことか分かった。簡単だし、すごく難しい。自分以外の人と分かり合えないことを嘆くより、分からないって分かったことを喜ぶべきだった事にも、気付いた。





羊文学のマフラーという曲かお気に入りです。

シューゲイザー、鳴りがいつ聞いてもすべて気持ちいい。聴くと夜明け前のような、マジックアワーのような、そんな感じがする良い曲です。昼間でもどんな天気でも合う、私のいちばん好きな時間の流れを感じられる曲。フワフワした気持ちを土に戻す、そんな力があるように思う。




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わたしは天才です。補足すると天才の要素しか、ないという事です、
使い始めた日記帳に写真の通り、記述があって、ずっとそのことばっかり考えていたことを思い出しました。
何かに感動したらそれを伝えたいと思うし、それが普通の感覚だと思っていたし
その感動の衝動みたいなのも自分の言葉で置き換えると体の一部になっていく感覚があってそれがとても面白くて好きだったのです。またそれは日々の穏やかな暮らしからくる
とてつもない退屈の積み重ねの上で光ってくるものだというのも忘れかけていたところ
昨年一年の引きこもり生活でより一層強く思い出すことになりました。ありがたい。


そうそう、何か生きる為の活動をもたらす衝動は、些細な感動からくるものだったのです。
刺激は平凡な生活の楽しみで、それが自分を豊かにすることだったのに、いつの間にかたくさんお酒を飲んで現世からぶっ飛ぶこととすり替わってしまっていたなあ。
それはただ体を疲れさせて考えることをただなくすだけのものなのに、大事な刺激だ・・なんて勘違いしていたので気づけて良かったと思う。美味しいお酒とお料理に申し訳ないことをした。
自分をなくすようなストレスにはもう近づきません、だからまた美味しく頂かせておくれ。お願い。
嫌いになんてなれない・・良い距離でうまくやっていこう・・。

朝起きて、さて何しよう、楽しい事がもしかして起こるかもしれないという予感がするなんてそんな日が来るなんて思ってもみなかったので生きていると良いこともあるなあと思う。
自分の体が思いのほか冷えやすくて疲れやすい事がよく分かったので、メンタル面に影響が出てしまうほど頑張らないようにしないとすぐやりこんでしまうから注意しないと。あと自分の事知らない人の前で喋らないようにしよう。誰も興味ないし、結局知らんがなって話だから。

最初の話に戻るとですが、今年一年はもっと自分の表現方法を探そう。
そうするともっと楽になれる気がするから。自分の中で大事にすることを手放さない。
他人にあれこれ言われても無視、自分で決めたことを頑張ること。
ずっと頑張らないための言い訳を唱えてやってきて、これまではそれなりにやれたんだけど、それでは何も達成できないことに気がついたので、これからは自分の人生をしっかり責任を持ってちょっとテキトくらいでやってきたい。それが私の今の希望で願いになってる。そのために目の前の事をしっかりこなしていこう。うまくいかないことがあっても、それが私の価値を揺るがすものではないのだから、堂々としていよう。私が楽しくのびのびする以外、何もやるべきことはねえ。
今年も良い歳になるワ!きっと。あなたもね。






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クリスマスは今年もやってきましたがサンタは来ませんでした。
ブッシュドノエル作ったんぞ〜っつうことで一人静かに準備している間
夫はホットカーペットの上で背中を丸めまるでダンゴムシのように
横たわっていました。何もしないというぜいたく。かみしめている日々であります。

トップスのケーキのように、チョコクリームにくるみをしのばせたり
かざりがないから作らなきゃ♪と嬉しがって札など作ったりしましたが
どうなん?こんなまずそうな見た目って何なんという出来上がりです。
味は美味しいのですけど・・・
敗因を夫に尋ねますと、木株なのに全部クリームぬるからじゃない?と
至極まっとうな意見を得まして、こぶしが震えました。(聞くなよw
でも喜んで食べてくれるので嬉しみの限りであります。やっぱり年一回しか
ケーキ作らないのは上手にでけんよなあ。と思いました。精進が足りない。
ケーキに限らず、予定も何もない私、気が付けば一日ずっと「次何作るべきか」考えていて
気分が変わらず辛くなってきた。なので、出来るだけ別の事、家の事以外の別の事、
テレビを見る以外の事を積極的に考えるようにしている。次に買い物で何買うか、とか、
靴下の穴をふさいだりとか、洋服の整理とか、そういうの。
気分が変われば料理も楽しめる。そう思うのです。力量のなさは言わずもがなだけど
やらないと先に進めないから苦しいところであります。そう、生きることは修行。

暇なのは自分のせい。暇なのは暇をしようとしているから。
暇を堪能した一年だった。何も積極的にかかわろうとせず
ひたすら家に籠って家の事をして、ずっと体を休めていた。そのおかげで
去年から比べてずっと睡眠の質が向上したし、こんなに寝れるんですねってくらい寝れた。
今まで体を動かしてきた様々をシャットダウンして、
ゆっくり暮らすことをメインに過ごした一年になった。
本当に何もする気になれなくて、故郷の事がずっと気になっていたし、心はここになかったけど、
遊びまくって、旅行に何度も行ってお金が無くなってやっと気づいた事はやりたいことを
じつはやれていたという事。誰かのせいにもしたし、色んなことで悲しいことも嬉しいこともあって
さまざまな経験ができたってことを前向きに振り返ってみれて良かった。
ネガティブでいるのは楽だけどもう辛くて疲れてしまったのだ。これからは自分に合った
心が悲鳴をあげずに生きる方法を選ぼうと決めた。暇だったら何かしよう♪ってとこまで快復した!
いやほんとにすごい事なんですよ!!本当に絶望的だったけど、それも必要だったんだと思える。
昨日できなかったことが今日できるようになる、やりかけだったことが完成する、
苦手だった料理から逃げずに向き合った、自分の欲望をコントロールすることに勤めた、
自分の気持ちに正直にむきあった、夫と平和に毎日を過ごせた、
そんな取るに足らないけど、よく見たらそれだけで宝物ばかりの毎日だったって
いま思えることが尊いんです。
幸せなのは退屈です。退屈なのは平和だから。どの刺激をどういった形で必要にしてるかを見て
暮らしに花を添えるのが来年の目標。落ち着いた心で幸せに暮らせること以外、
もうほしいものはない!とまあのんきな年の瀬であります。




 




世界は広いのに、見えてる範囲は凄く狭い。
飛行機に乗って知らないところに行くと、違う風景と匂いと人が生きてるそれぞれの見えてる範囲に触れられて、自分の持ってる世界のイメージに沿うから、ああ、世界は広いんだなぁ、知らない世界や様々な人種がそれぞれの文化を大事に毎日暮らしているんだなぁと分かる。その日々の暮らしをまた細分化していくと、狭いコミュニティでの普通の日常をそれぞれが淡々と努力しこなしている。何をやってるかとか、何年やってるかの違いで、日常を暮らしていくための内容は世界中大差ないはずなのに、引いて考えると違いがあらわになって、分かり合えなかったりする。水を汲むのに五時間かかってるのに、それのどこが一緒なの?とかそういうそれぞれの生活の問題を言いたいのじゃなくて、寝て起きてご飯食べて排泄して性的な活動をしてって人がやることなんかだいたい同じような事なのに、それぞれ個性があって、国によって違ってて、どれもこれもそれぞれがとても良い存在であって、そういう意味ではダメなことなどないはずなのに、コミュニティや社会の中で、そのままにできない事もあるから、不思議だなぁと思う。

私一人が突然生まれてきた気になって、寂しくて苦しくなる時があったら、それは大いなる勘違いで、間違いという事にその瞬間は気づかない。そのくらい一人になることは少なかったし、そう思わないようにしていたから良くなかったとも言える。母親と父親はそれぞれの家族が居て、またその家族がいて、そのまた先に家族がいて、それをどんな形であれ受け継いでいってしまってる。突然生まれたわけじゃ無いのに、どうして孤独と思う必要があるのか。 個人はどうしても個人でしかいれない。それを思えるから他人と協力したり出来るのかもしれない。その違いを楽しまないと。脈々と続くものをひたすら憎んだら、恨み切ったら次はもうぱっと切り替えて目の前の事を楽しむしかない。どうしたって思ってしまうのだとしたら、孤独も含めてやったるしかない。ってことに最近気が付いた。
悲しい事や孤独を追い払うことに私はずっと必死だったけど、どうしようもない時があってしんどいと夫に相談したらしんどいことをしんどいって思って好きなことして早く寝たらいいんだよ。だって!本当にすごい人と結婚できたと私は膝を打った!孤独や悲しみから向き合うだなんて、なんて男前なんだ。すごい。などと感心したのだった。違う人同志がのらりくらりやっていくには、それぞれがそれぞれの気分を良くする方法で整えておくことが必要で、それが実は人が集まると急に難しくなるから不思議だなあとも思う。そういう意味で人と過ごす時間は面白い。今は引きこもりなので特に思う。ひとりでやれることと、だれかとやれることの、違い。



人生ってすごく長いと感じるようになった。お金のことをどういうものとして自分の中で扱っていくか考えてた時にふと思った。お金の管理が出来てなくて赤字続きなのが不安に繋がってきて妄想が止まらなくなってしんどいってなってしまったので早速お金のやりくりの本、FPの人が書いたものを読んで思ったけど、人生は長いみたいですね。実感が湧いた。
ずっとその場しのぎで仕事もやっつけて来てしまったから、人生が長いなんで思えなかったし、それこそ全力出してこそ人間なんつって自暴自棄気味でしたので、そりゃ嫌になるわって話で。すぐ辞めたいとかしにたいとか呟いてたなぁ。だからゆっくり今これからのことを考える時間が出来たのは私にとってとても良かったんだと思う。そして私は心底休みたかったのだ。だからその願いがこの一年ずっと叶ってた。すごいじゃん、ゆめ、叶ってんじゃん(  
人生の話しに戻すと、今30代半ばで、60歳あたりが定年だとしたら、すぐ子供が出来ないと、夫の定年になったら資金繰りが難しいんじゃない?とか、その後の資金も置いておかないと、介護費用もかかるわけだから、今気付いて始めないと、時間は取り戻せないんだなぁって。当たり前のことに目がいくようになった。例えばね、例えばそんな風に、暮らしていけたら幸せだなぁと思う、例えばを望めるって尊い。そうならなくてまそうなっても、イメージ出来る精神が尊い。それに、大人に向かっている気がしてすごく誇らしい。ただ、家計は赤だし、とりあえず、節約が何につながるか全然イメージできてなかったヤバイ主婦から、節約を意識できるようになったけど変わらずヤバイ主婦に少しシフトしただけだ。いかん。これではいかん。もっと心を落ち着けなければならない!心の安定が家計の節約に繋がるはず!!やればできる子、、そう私のこと!でも頑張るな!頑張ったら見栄はってぱつんぱつんで続かない!懲りているなら頑張るな、私!



色んな事をやらないといけないと思ってた。今のままではだめだから、もっと頑張って何かにならないととも思ってた。何かにもなれないことは大罪で、何かになっている人が素晴らしいと思ってた。
自分以外の人はもっと、うまくやってると思ってたし、その妄想でずっと自分を責めていた。
でも、そんなことはなく、みんな習慣で悩むし、習慣にならなくて悩むし、慣れたら飽きて嫌になるし、新しいことをやるには勇気とお金がいるし、って思って毎日それでも楽しいこと見つけてやってるはず。職業を持っていない人は生きている価値がない!でも私はそんなやりたいことを一つに決める決定的なことに出会えてない。という妙な壺の中でゴンゴンと頭を打ち付けていた。そう、今の今まで。でも、わたしは一つ諦めたのである。何かになるのはあきらめた。主婦になれたけど、主婦にだけなりたい訳じゃなかった。でも、なっている。そんなものかもしれないことに、執着するのはやめようと思う反面、でも、今は主婦のカードだけである。なんと、強欲なのかと思った。
それの、何が悪いのか?主婦は、悪者なのだろうか。涅槃像のように、ドラマの再放送を見ながらせんべいを食べる、あの昭和の主婦像になぜ寄ろうとしているのか。あんな風にはなりたくないッ!って拳を握りしめているが、実態はそうである。要は、見られていないから作業以外の時間は、横になっても良いからだ。なぜ、意識するだけでそうなれるのか。人間というのは、いいことも悪いことも思ったら叶うようになっている。その意識をきっかけに、無意識に様々を選んでいる。ただ、それを悪者にするのが私の悪いところだった。悪くない、よいのだよ。自分の時間を好きに使って、よいのだよ。
食べたかったらせんべい食べたらいいんだ。リラックスする方法はひとそれぞれなんだからさ。
とまあ、こんな具合にその認識を新たにする必要がある。まず、私が毎日生きやすくいるためには固定観念を崩すことからかもしれない。どうだっていいし、どうなってもいいんだ。穏やかに日々を暮らすやりかたはひとそれぞれ違うから。そのために自分のやりたいことをやっていったらいいんだ。とはいえ、そんなにたくさん時間がないし、言ってもみんなたくさんの事をやれているわけじゃない。人の事を気にするのをやめて、今自分の目の前の取り組まないといけないことをやることが大事なんだし、それの積み重ねで夢をかなえることができているのだ。それを、なんとなくわかっているのにずっと見ようとしてなかったなあ、と思った。それをするかどうかを決めれる限りこの世にダメな生き方はない。

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