2023年11月08日
2023年08月27日
2023年06月07日
味寿食堂:二度と行きません
味寿食堂
食べログにたまに記事を書いたりしてるのですが、とにかく店の悪いことは言ったら弾かれるということが分かりました。もう食べログでは書きません。食べログは元々悪い噂が多く、自分でもどうかと思ったのですが、今や他を圧倒するサイトとして最低限の信用をしていたんですが、それが裏切られました。やたらとお店のちょうちん持ちみたいなレビューしかないのは、こういうことだったんですね…全く信用できなくなりました。以下は弾かれた内容をそのまま書いています。
ちゃんぽんを玉子とじ野菜を食べ、みそ汁を飲みました。
ちゃんぽんは、とにかく味が薄くて塩味がしない。でも、ちゃんぽんに醤油を大量にいれる訳にも行かず、塩を貰いました。とにかく具がショボくて、スープが上手くなくて、麺もグダグダ。本当に酷いものでした…
他のレビュワーが進めるメニューにちゃんぽんはないので、とにかくこれだけが酷かったのかもしれません。ただ、玉子とじ野菜もちゃんぽんの具とほとんど同じ。こっちは味はマシでした。まあ、こんな昭和からある時計の止まったしょうもない店なら具材の種類を求めるのが間違っているのでしょう。
味噌汁だけは美味しかったです。合わせ味噌らしく、白みそか麦みそだと思います。
最悪なのは店の親父でした。自分たちが入った時に、隣に昔気質のおっちゃんがいました。自分がお茶がなくなったときに、おかみさんにおかわりをお願いしたのですが、そのおっちゃんが「後ろに給水機があって、自分で入れられるよ」と教えてくれました。確かに店も混んでたし、自分で入れた方が店の人も助かると思って普通に自分で継ぎました。そのおっちゃんにはお礼を言っておきました。
そしたら、そのおっちゃんに気に入られたらしく、やたらと話しかけられます。別に自分はそういうのは嫌ではないので普通に受け答えしていました。途中でそのおっちゃんが、「この店は夜は居酒屋だから」と言うと、急に店主が厳しい言葉で「うちは定食屋です」と強く否定してきました。確かにビールや焼酎のメニューが無かったので、それが店のポリシーなのでしょう。多分、常連には酒を進めるということなのでしょう。ただ、新参者は食い物だけ食ってさっさと帰れと言わんばかりで、非常に不愉快な気分になりました。また、常連らしきそのおじさんに、そんなキツい言い方で言わないでも、とも思いました。まあ、割とうるさいタイプの客なので、うっとおしいと思っていたのかもしれません。
しかも余計に感じが悪いことに、そのおっちゃんの向こうに別の老夫婦がいて、小さな声でしたが、はっきりとそのおっちゃんに「余計な口を叩くな」と言っていました。非常に閉鎖的な印象です。
そのおっちゃんは、飲んでた焼酎を空にすると、いそいそと店を出ていきました。
TVで野球を流して、常連限定かもしれませんがビールだけでなく焼酎まで出してるような下町の大衆店で、静かにしろという方がどうかしてると思います。
最後に、自分の方に向かって「隣に客がいるから、もう少し静かにしてくれ」とまた無表情で怖い感じ言われました。確かに声が大きかったのかもしれません。しかし、真ん前のTVの音のせいで会話が難しかったのも事実です。しかも、明らかに自分以上の大声ではなしていた最初のおっちゃんには注意しなかったことも不愉快でした。
とにかく店主が気に入るような静かに食べる客だけ来い、と言わんばかりでした。よっぽど大声で「ごちそうさま!!!」と叫んでやろうと思いましたが、大人げないのでか細い声で「失礼します」と言って店をでました。感じが悪いのは親父だけで、女将さんは非常に感じよく送ってくれました。親父の注意にハラハラしていたのかもしれません。感じが悪いのは親父だけです。
長々とした文章になってしまいましたが、どうして自分が非常に不愉快になったのかをきちんとお伝えしたくて詳細に書きました。
もちろん、TVが大音量でも店主に嫌われないように静かに食べたい人は問題ないと思います。ちゃんぽんと野菜は最悪でしたが、他のモノはマシなのかもしれません。ただ、自分が行くことは絶対ないと思います。
食べログにたまに記事を書いたりしてるのですが、とにかく店の悪いことは言ったら弾かれるということが分かりました。もう食べログでは書きません。食べログは元々悪い噂が多く、自分でもどうかと思ったのですが、今や他を圧倒するサイトとして最低限の信用をしていたんですが、それが裏切られました。やたらとお店のちょうちん持ちみたいなレビューしかないのは、こういうことだったんですね…全く信用できなくなりました。以下は弾かれた内容をそのまま書いています。
ちゃんぽんを玉子とじ野菜を食べ、みそ汁を飲みました。
ちゃんぽんは、とにかく味が薄くて塩味がしない。でも、ちゃんぽんに醤油を大量にいれる訳にも行かず、塩を貰いました。とにかく具がショボくて、スープが上手くなくて、麺もグダグダ。本当に酷いものでした…
他のレビュワーが進めるメニューにちゃんぽんはないので、とにかくこれだけが酷かったのかもしれません。ただ、玉子とじ野菜もちゃんぽんの具とほとんど同じ。こっちは味はマシでした。まあ、こんな昭和からある時計の止まったしょうもない店なら具材の種類を求めるのが間違っているのでしょう。
味噌汁だけは美味しかったです。合わせ味噌らしく、白みそか麦みそだと思います。
最悪なのは店の親父でした。自分たちが入った時に、隣に昔気質のおっちゃんがいました。自分がお茶がなくなったときに、おかみさんにおかわりをお願いしたのですが、そのおっちゃんが「後ろに給水機があって、自分で入れられるよ」と教えてくれました。確かに店も混んでたし、自分で入れた方が店の人も助かると思って普通に自分で継ぎました。そのおっちゃんにはお礼を言っておきました。
そしたら、そのおっちゃんに気に入られたらしく、やたらと話しかけられます。別に自分はそういうのは嫌ではないので普通に受け答えしていました。途中でそのおっちゃんが、「この店は夜は居酒屋だから」と言うと、急に店主が厳しい言葉で「うちは定食屋です」と強く否定してきました。確かにビールや焼酎のメニューが無かったので、それが店のポリシーなのでしょう。多分、常連には酒を進めるということなのでしょう。ただ、新参者は食い物だけ食ってさっさと帰れと言わんばかりで、非常に不愉快な気分になりました。また、常連らしきそのおじさんに、そんなキツい言い方で言わないでも、とも思いました。まあ、割とうるさいタイプの客なので、うっとおしいと思っていたのかもしれません。
しかも余計に感じが悪いことに、そのおっちゃんの向こうに別の老夫婦がいて、小さな声でしたが、はっきりとそのおっちゃんに「余計な口を叩くな」と言っていました。非常に閉鎖的な印象です。
そのおっちゃんは、飲んでた焼酎を空にすると、いそいそと店を出ていきました。
TVで野球を流して、常連限定かもしれませんがビールだけでなく焼酎まで出してるような下町の大衆店で、静かにしろという方がどうかしてると思います。
最後に、自分の方に向かって「隣に客がいるから、もう少し静かにしてくれ」とまた無表情で怖い感じ言われました。確かに声が大きかったのかもしれません。しかし、真ん前のTVの音のせいで会話が難しかったのも事実です。しかも、明らかに自分以上の大声ではなしていた最初のおっちゃんには注意しなかったことも不愉快でした。
とにかく店主が気に入るような静かに食べる客だけ来い、と言わんばかりでした。よっぽど大声で「ごちそうさま!!!」と叫んでやろうと思いましたが、大人げないのでか細い声で「失礼します」と言って店をでました。感じが悪いのは親父だけで、女将さんは非常に感じよく送ってくれました。親父の注意にハラハラしていたのかもしれません。感じが悪いのは親父だけです。
長々とした文章になってしまいましたが、どうして自分が非常に不愉快になったのかをきちんとお伝えしたくて詳細に書きました。
もちろん、TVが大音量でも店主に嫌われないように静かに食べたい人は問題ないと思います。ちゃんぽんと野菜は最悪でしたが、他のモノはマシなのかもしれません。ただ、自分が行くことは絶対ないと思います。
2023年06月02日
山城新伍
2009年8月12日
平成21年8月12日
山城新伍
現役時代は、バラエティに出てくるエッチで面白いオジサンでした。
その後、時代劇でカッコいい役をするのをみて、こっちが本職だと後から知ることに。
楽しそうなオジサンだっただけに、晩年が可哀そうでした…
平成21年8月12日
山城新伍
現役時代は、バラエティに出てくるエッチで面白いオジサンでした。
その後、時代劇でカッコいい役をするのをみて、こっちが本職だと後から知ることに。
楽しそうなオジサンだっただけに、晩年が可哀そうでした…
2023年05月30日
カフェイン錠剤比較
◆楽天
・オールマックス カフェイン
100mg=4.25円
・ピュア カフェイン
1錠200mg×200錠=40000ml、2980円。100mg=7.45円
・カフェイン100+PLUS
10000mg、1478円。100mg=14.78円
・カフェイン10000EX
一袋あたりカフェイン10000mg配合、1480円。100mg=14.8円
◆Amazon
・カフェイン200
200mg×100錠=20,000mg, 1000円。100mg=5円
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2023年03月22日
ロールズ批判
自分の最大の社会契約系の議論への批判は、コミュニタリズム的なもの、というか、世代間の継承。酷い言い方をすれば、新メンバーを予め洗脳しておいてメンバーにしておきながら、それで社会の原理の正当性を主張するのはどうなのよ、と。
普通の批判ポイントは、実証・経験的な所になるだろう。
・歴史性(あんたがどれだけ歴史知ってんの?)
・相補性(どうやって証明すんの?
普通の批判ポイントは、実証・経験的な所になるだろう。
・歴史性(あんたがどれだけ歴史知ってんの?)
・相補性(どうやって証明すんの?
2023年01月27日
なぜ異世界転生モノは大ブームなのか?
異世界転生モノ自体は昔からある。
すやまたくじのアニメ・漫画ブログやハイトの記事にその歴史が記されている。
ただ、ここ10年弱で異世界モノが圧倒的に人気になって増えているのは間違いない。だが、なぜそうなのかはよく分からない。ハイトの記事が説明しているが、意味が分からない。
あと、「異世界」といっても、大抵はDQ的な世界だというのは作者の手抜きだという指摘もあるが、やっぱり「なぜ今」なのかは分からない。
一番単純で、それでいて一番ありそうなのが、現実社会がつまらないから、というものだろう。昔からSFや異世界転生モノはあった。だが、それを楽しんでいるのは「オタク」という非リア充に過ぎない。ところが、日本経済・社会が停滞して、結婚できない男性が人口の3分の1になり、恋人もいなければセックスするのも大変な社会になると、「非リア充」の割合が圧倒的に高まる。そんな可哀そうな人への慰めが異世界転生モノという訳だ。
これは、異世界転生モノのメディアがアニメになったことにも表れている。少数のオタクが楽しむモノなら小説でも良いし、マンガでも良い。しかし、現代は「マンガの字すら読むのがめんどくさい」人が大量発生している時代だ。また、昔に比べてアニメ制作のコストが下がったし、AMEBAなど地上波以外の放送媒体も増えた。まあ、AMEBAがあること自体「非リア充」が増えているのが原因なのだろう。もちろん、そもそも趣味の多様化もあるとは思うが…
あと、表現形式として異世界転生モノは、世界観の説明を自然にやりやすいというメリットもある。転生モノではなくガチのSFだと、その世界を分かりやすく提示しなければならないし、消費者側にも読解力が必要とされる。だが、異世界モノだと、主人公がその世界を理解していくプロセスを追えば、消費者も自然と理解できる。ここでも安直さが流行の原因になっている。
安直さがその発生原因なのだから、当然面白い作品は極めて少ない。というか、面白い作品というのを見たことがない。まあ、昔の小説、マンガやアニメを知らない世代には、これでも十分面白がれるのかもしれない…それに、今のアニメは絵が奇麗だし…(笑)
要は日本でAVが異常に普及しているのと同根である。併用している人も多かろうと思う。彼らの老後はどうなっているのだろうか?
すやまたくじのアニメ・漫画ブログやハイトの記事にその歴史が記されている。
ただ、ここ10年弱で異世界モノが圧倒的に人気になって増えているのは間違いない。だが、なぜそうなのかはよく分からない。ハイトの記事が説明しているが、意味が分からない。
あと、「異世界」といっても、大抵はDQ的な世界だというのは作者の手抜きだという指摘もあるが、やっぱり「なぜ今」なのかは分からない。
一番単純で、それでいて一番ありそうなのが、現実社会がつまらないから、というものだろう。昔からSFや異世界転生モノはあった。だが、それを楽しんでいるのは「オタク」という非リア充に過ぎない。ところが、日本経済・社会が停滞して、結婚できない男性が人口の3分の1になり、恋人もいなければセックスするのも大変な社会になると、「非リア充」の割合が圧倒的に高まる。そんな可哀そうな人への慰めが異世界転生モノという訳だ。
これは、異世界転生モノのメディアがアニメになったことにも表れている。少数のオタクが楽しむモノなら小説でも良いし、マンガでも良い。しかし、現代は「マンガの字すら読むのがめんどくさい」人が大量発生している時代だ。また、昔に比べてアニメ制作のコストが下がったし、AMEBAなど地上波以外の放送媒体も増えた。まあ、AMEBAがあること自体「非リア充」が増えているのが原因なのだろう。もちろん、そもそも趣味の多様化もあるとは思うが…
あと、表現形式として異世界転生モノは、世界観の説明を自然にやりやすいというメリットもある。転生モノではなくガチのSFだと、その世界を分かりやすく提示しなければならないし、消費者側にも読解力が必要とされる。だが、異世界モノだと、主人公がその世界を理解していくプロセスを追えば、消費者も自然と理解できる。ここでも安直さが流行の原因になっている。
安直さがその発生原因なのだから、当然面白い作品は極めて少ない。というか、面白い作品というのを見たことがない。まあ、昔の小説、マンガやアニメを知らない世代には、これでも十分面白がれるのかもしれない…それに、今のアニメは絵が奇麗だし…(笑)
要は日本でAVが異常に普及しているのと同根である。併用している人も多かろうと思う。彼らの老後はどうなっているのだろうか?
2022年11月22日
身体検査
大臣になると特別な法・道徳上の調査が必要とされる様。
およそ真面な国の国民は皆法律・道徳に従って生きるものだと思われるが、なぜか大臣にのみこれが必要とされ、大臣を辞めれば国会議員は辞めなくてもよい。不逮捕特権の裏返し。
およそ真面な国の国民は皆法律・道徳に従って生きるものだと思われるが、なぜか大臣にのみこれが必要とされ、大臣を辞めれば国会議員は辞めなくてもよい。不逮捕特権の裏返し。
2022年11月17日
世界や日本は100人の村、ではない
以前同様のことを書いた気もするのだが、念のために書き置く。
『世界がもし100人の村だったら』という本がある。
「ちょっと何言ってるか分からない」という人も多いと思うが、説明するより現物を見てもらった方が早いかもしれない。
自分の様に数字が好きな人間にとっては、なんで60〜80憶の人類や1億2500万の日本人に直さなければならないのか直感的には分からない。この本は2001年に出版されたのだが、人気が出たことに味をしめたのか、2008年に「総集編」というのまで出た。中身は内容を水増ししただけで、しかも後半には「1000人の村」と企画が結構変わってくる(笑)。まあ、そこに「大人の事情」があるのは容易に想像できるが、実は100人の村と1000人の村では本質的に異なる、というのが今回の話のテーマである。
ここで使うツールは進化心理学という学問である。これは人間を対象としたものだが、似たような発想を動物全般に広げたものとして社会生物学というのもある。
話をどこから始めたらよいか難しいが、今回のテーマに即して、「なぜ人間は100人の村で生きてきたか」というのが一番分かりやすいと思う。「100人というのは比率(%)というのを使いこなせない子供や残念な大人のための方便でしょ」と思われるかもしれない。
いや、実際に人類というのは、それこそ、その圧倒的な歴史を100人ぐらいの集団で過ごしてきたのだ。となると、そもそも「人類」の定義が必要になる。これまた厳密な学問的な議論はめんどくさいが、ここではおよそ600〜500万年前に登場したヒト亜科という霊長類ということにしておこう。特徴は二足歩行である。
なぜ、腰に負担をかけてまで(直立)二足歩行をするようになったのかには議論もあるが、元々アフリカにいた祖先のお猿様がいたのだが、地殻変動で山ができ、山の片方には雨が降らなくなって草原になり、今の猿が暮らしている森が減った・無くなったからだという説が有力だ。実際に、今でもアフリカには広大なサバンナが広がっている。
二足歩行は負担も多いが、なにより前足(手)が自由になり、その手が器用になって道具なんかを作って使い始めたのが人類と他の動物との差になった、という話は南部アメリカでも育ってなければ聞いた人は多いだろう。ここでも、そのストーリーに乗っかることにする。
初期の人類が脆弱な存在だったことは想像に難くない。なんせ、そこはアフリカのサバンナである。今と全く同じものかどうかは分からないが、ライオンだのトラだのハイエナみたいのがウロウロしていたはずである。そこにサルを放ってみれば、あっという間にエサになるのは目に見えている。
では、なぜ「我々」はすぐに滅びなかったのか。多分、「森が減った・無くなった」というペースがゆっくりだったためだろう。いきなりサバンナに放り出されてしまっては獰猛な肉食獣のエサになるしかないが、「ゆっくり」と森が減っていったのであればなんとかなる、というか運よくそうなった。ここでの「ゆっくり」は、「進化」という観点からの表現だ。動物は進化する。その進化は、ハエとかを特殊な環境で育成しない限り、普通人間の寿命に比べて相当遅い。多分100年や1000年では普通ほとんど変わらないだろう。だから、キリスト教とかで今の動物が神様によって作られた、と教えられても違和感は全くないのである。
ただ、最初に確認したように、今回の話は数百万年のスケールの話だ。「人類の誕生」のwikiにあるように、例えば初期人類の脳味噌の容量は400〜500ccぐらいだったと見積もられている。これは現生の最も「賢い」動物であるオラウータンと大体同じだ。それが、今の人類は大体1400ccぐらい、ざっと3倍ぐらいに増えた。だから「3倍賢くなった」という訳ではないが、大分「賢く」なったのは、我々とオラウータンを比べてみれば分かる。
ところで、脳というのはやたらとエネルギーを消費する。体重の2%ぐらいしかないのに、全エネルギー消費の18%も使うという。もし脳が生きるのに役に立たないのだとしたら、こんな石潰しを抱えていた生物は一発で滅んでしまったに違いない。もちろん、それだけエネルギーを使うからには、それに見合った効能があり、それが「賢さ」とう訳だ。
サバンナに放り出されたサルは、すぐにエサになってしまうと言った。それでは人類はどうやって凌いできたのだろうか? まあ、今のサルの行動から推測するに、最初はなるべく森の近くに住み、危険な肉食獣が来ればキーキー警戒音を出して、仲間は木の上に逃げたのだろう。
安全面はこれで良いとして、食料はどうやって調達したのか。もちろんサルなら木の実、それから場合によってはもっと小さい動物を食べればよい。しかし、状況は今の日本に似ていて、徐々に食い扶持が減っていった時代だ。それに対応しなくてはならない。
ちょっと話は逸れるが、人間というのは自分ではそう思ってないと思っていても自尊心というのを持っている。その証拠の1つが、初期人類の食糧問題だ。最初は、人類は石器や弓矢を使って動物を狩っていたのだろうと言われていた。しかし、サルから狩猟者になるのは相当な飛躍がある。最近では、我々のご先祖の新たな食い扶持は死骸だったと考えられている。
死骸漁りなんてハイエナみたいな嫌らしい動物がやるものだ、と思われるかもしれない。まあ、現実にはライオンとハイエナで、どっちが狩って、どっちが相手の獲物を奪っているのが状況によるのだが、とりあえずハイエナは骨まで砕いて食べてしまう強靭なアゴと消化力の強い内臓を持っているらしい。
だが、どんなにハイエナが死骸を漁っても、やっぱりちょっとは残っているブツがある。食べられない皮のすぐ近くの部位や、大きくて固い骨の中の骨髄だ。どうも我々のご先祖様は、その前足の器用さを活かして、こういう部分を食べてて糊口を凌いでいたらしい。
実は私も魚の皮や、鶏肉の骨の周りの軟骨が大好きだ。日本人としてのルーツみたいなことは考えたことはないが、こうした魚の皮や軟骨を食べている時はご先祖様の事を思う。やっぱり、生き物は食べてこそナンボである。
話を戻すと、こうやって死骸漁りをしていたご先祖様方は、その内にどんどん器用になっていったらしい。そりゃそうだろう。より器用で死骸からより多くのごちそうにありつけた奴が生き残る。適者生存。まさに進化の力が発揮された訳だ。
そうして賢くなっていったご先祖様方は、少しずつ新し食い扶持を増やしたり、生活を便利にしていった。水や食料を保管する器を作ったり、死骸分解や固い木の実を割るのを効率的にする石器を作ったのだろう。
それがどんどん進むと、とうとう本当に狩猟する側に代わってくる。とはいっても、たぶん最初は防衛能力の構築だったのだろう。適当な木の棒とかで抵抗していたものが、その先に石器を付けて斧にできれば上等だ。石器を括り付けるには紐が必要で、このためには適当な草や細い木の枝を使わなくてはいけない。弓矢となると相当難易度が上がるから、たぶんこの斧ぐらいの段階で、団体で装飾動物を狩るぐらいのことをしていたのだろう。あと、罠とか作って捕獲したりしたりもしたのだろう。
よく「狩猟採集時代」と言うが、実際にエネルギー源として大きかったのは狩猟より採集だろうと思われる。これだって、賢くなれば効率も上がる。季節によってどういう場所にどういう生物が生えるかとか、何なら食べれるかなどの知識を蓄積する。生では食べられないものでも火を入れれば食べられるようになるものもある。最初は直接火にくべていたのだろうが、水で似た方が効率が良くてアクも出る。となると、木の器では燃えてしまうので土器が必要という話になる。生より煮た方が消化効率も良く、これまた都合がいい。
ここまで来てしまえば、実際のところもうほとんど我々と変わらないニンゲンだ。だが、人間になったとたん、大きな問題を抱え込むことになる。人間が一番恐るべきものは何か? 別に比喩でもなんでもなく、それは人間自身である。自然界最強の生き物が一番怖いに決まっている。
もちろん、最初は集団で逃げれば良かった。人間がアフリカから脱出したのが大体10万年前ぐらいだったと言われている。なんと人類500万年の歴史の490万年、98%はアフリカだけで暮らしていたのだ。ただ、いったんアフリカから出たら、その後世界に広がるのは相当早かったと見られている。新しい環境に生物が慣れるは相当大変で、進化のスピードではそれこそ万の単位かそれ以上の時間がかかってしまう。しかし、人類は知恵を付けていた。寒くなればあったかい服を作ればよいし、新しい動物もその生態を調べれば狩ることができるし、新しい植物もちょっと調べれば食べられるかどうか分かる。そのスピードは進化とは、本当の意味で桁が違った。
しかし、である。逃げると言っても限界がある。人類が狩猟採集で生きるとして、大体人口当たり〇〇程度の土地が必要だということになる。これは、他の動物と同じだ。最初はどんどん逃げるのがメインだったかもしれないが、そのうち世界中に人類が溢れてしまう。いろいろな説があるが、大体500万人ぐらいが狩猟採集というスタイルの限界だったらしい。このサイズの動物としては相当な数だが、今の基準からしたら相当少ない。
そして、人間の争う相手のメインは人間になっている。このプロセスは想像してみるしかないが、最初は血統の近いグループだったのではないかと思われる。最初の方に出た社会生物学の理屈を使って考えると、我々は自分と近いDNAを持つ人間には優しくなる。というか、近いDNAに優しい生き物が適応的なのである。
ただ、このロジックだけでは規模の限界がある。そして、あれこれやった結果、人類が辿り着いた最適な集団の規模が最初の約100人ぐらいらしいのである(ひょっとすると300人ぐらいまでOKだったのかもしれない)。集団の数は多ければ多いほど強い。しかし、集団内のイザコザが増えれば、逆に肥大化した集団は生き残れない。そのバランスが取れるのが100人ぐらいだったらしいのである。
人類は、食料を得て他の動物や自然環境から身を守ると同時に、その集団の維持のためにも賢くなった。集団の維持という問題が無ければ、こんなに言語を発達させる必要はなかっただろう。アニミズムだったとしても素朴な宗教もなかっただろう。道徳心を促す教育だって必要だ。あと詳細は説明しないが性淘汰、要は色恋沙汰をどうやって上手くやっていくかというのも大事になる。こうやって人間はどんどん賢くなり、どんどん脳は大きくなっていった。
現代社会でも、人類はほとんど進化してないなと思わせられることは多い。例えば喫茶店でコーヒーを飲んでいて、隣の席のOLの話を聞けば、ほぼ間違いなく恋愛とか家族とか職場の人間関係、年齢が上がれば子や孫の話である。立派なべべを着ているだけで、数万年前のご先祖様や、今でも世界にわずかであっても残っている「原住民」という人たちと何の違いもない。もちろん、ごくまれに世界政治や経済の話をしている人もいるが、これなんかは例外だ。地球の裏側では核戦争が起きて人類が崩壊するかもしれず、地球のこっち側でも人口が1位か2位の国が同族が住んでいる島に攻め込んんでやっぱり大戦争からの核戦争となって人類が滅びるかもしれないのに、人間様は飽きもせず自分の半径3mの話ばかりしている。あと、違いがあると手れば趣味の話題というのもある。こういうオタクも比較的新しい存在だろう。そんな中で著者はオタクにも成れない半端ものである。喋る相手もいないから、こんな駄文を書いている…
別に私は男尊女卑の人間ではない。男だって似たようなものだ。夜の宴会で話す内容は、職場の人間関係である。男性の傾向としては、誰誰が出世したとかいう話の割合が多いかもしれないが、これもご先祖様たちも村の中で誰誰が威張っているという話と同じだ。私も学者という職業にありついて、酒の席でもちったあ知的な話ができるのかと期待したが、結局話しているのは職場=大学の話が大半で、これじゃあサラリーマンと変わることは何もない。社会の中で最も知的であるべきはずの人間どもがこのザマなのである。
多分誰もちゃんと調べたことはないが、こういう人間関係の話の対象は、たぶん100人ぐらいに収まっているはずだ。それを大きく超えると、情報の供給が極端に難しくなるのである。人間が2人なら関係は1つだ。人間が3人だと関係は3つ、4人だと6つと、どんどん割合が増えていく。数学に覚えがある人なら nC2 という奴だ。ちなみに100C2は約5000である。
「あなたは約5000の人間関係を考察しながら生きている」と言われると、とてもそんな気がしないという人が大半だろう。人間関係が大事だといっても、普通は10人ぐらいのことしか考えてないし、10C2でも約50である。50の人間関係を考えていればお腹一杯かもしれない。
もちろん、ここの5000とか50とかいうのはフェルミ推定という適当で簡便な数に過ぎない。実際に100人と関わっていても、その人たちは家族とか職場とかサークルとか教室とか、適当にグループ分けされている。そのグループを跨いだ人間関係というのは、あんまり多くないかもしれない。そうすると、100人と関わっていても人間関係5000と言うのは多分誇大広告だ。
そういえば100人と言えば「100人乗っても大丈夫」というCMがある。まあ、ここではそれはどうでもいい。あと100人と言えば「友達100人できるかな」というのがある。ところが、彼・彼女が所属するのは大体40人弱のクラスである。ちょっと話を膨らますと、団塊世代の就学時代には施設・教員が足らず1クラス50人とか60人があったらしい。逆に、最近の先進国では少人数クラスというのがありがたいらしく、1クラス30人とかもあるという。ただ、多少変化があるといっても1クラス1000人なんてのは、マンモス大学の大人気授業以外には聞いたことがない。逆に1クラス数名とかいうのも、統廃合寸前の小学校以外では聞いたことがない。やっぱりせいぜい20〜50ぐらいの数に収まるのだ。
学校のクラスというのは社会の縮図で、社会性を養う場だ。それがなぜ100人ではなく20とか50人なのだろう。教育を受ける側から見れば、まだ子供で社会性能力が未熟なので、100人というのは厳しいのかもしれない。また、教育する側からすれば、担任の先生が、学校の他の先生や親類縁者とは別に、管理できる人間の数が40ぐらいなのかもしれない。もちろん、この能力にも個人差があり、能力(か倫理観、情熱など)の劣る先生だと、いじめなどの人間関係の問題を放置してしまうことになる。多分、こういう理屈が本来ならあると思うのだが、教育学というのは高尚な学問で、どれだけ立派な子供を育てるかという有難い話をしている。子供により目が届くから少人数クラスが望ましいとおっしゃる方も多い。でも、少なすぎたら社会性の学習に問題があるんじゃないですか、なんて質問をしてもマトモな答えは返ってこない。それは彼らの高尚な議論には関係ないからだ。
100人ぐらいが適正規模だというのは、原住民の調査や、人類学の発掘などによって確認されてる。もちろん、幅があるので実際には数十人の集団もあれば、数百のもある。しかし、数人で集団を維持するのは不可能だろうし、逆に1000人を超えるというのも相当難しいようだ。
大分前に、100人ぐらいだったら人間は集団を維持できると言った。別の言葉を使えば「顔の見える範囲」とも言える。私の偉い経済学の先生が教えてくれた。経済学のいう「市場」とは「顔の見えない関係である」と。実際、狩猟採集時代に市場はない。
これが、たぶん「つい」1万年ぐらいまでの人類の生活だった。しかし私は「狩猟採集というスタイルでは100人」と言った。つまり、狩猟採集ではないスタイル、つまり農業というスタイルになると話が変わってくる。念のために書くと、昔ほど狩猟採集と農業の時代と言うのは大きな断絶があった訳ではないと考えられるようになっている。確かに狩猟採集と言っても時期によって数カ所を移動していただろうから、適当に食べ残しを蒔いておけば、次来た時に生えている、という発見はあっただろう。そこから農業が少しずつ本格化し、農業・狩猟・採集をバランスさせた時期もしばらくあったのだと思う。
だが、やっぱりその内に農業がメインの社会になってくる。そして、農業がメインの社会というのは100人では済まない。用水路の整備、収穫された農作物の管理と配分といった仕事は、100人とかでは難しい。難しいというより、上手くやればもっと大きな単位でできたと言った方が正しいのだろう。そして、人間集団の力関係は数が全てだ、というのは変わらない。たぶん、100人とかよりは桁の違う規模を成立させた集団が勝ち残っていった。
しかし、それは大体1万年ぐらい前の話である。人類の脳が進歩するにしては時間が短すぎる。そもそも、100人規模よりもっと大きな集団を作れる脳を進化が生み出せるのだとすれば、狩猟採集でもそれをやっていたはずだ。そこは例の100C2=4545という数字の制約があり、規模を拡大するメリットよりも、脳を維持し消費するエネルギーのコストの方が大きくなってしまったのだ。
脳というハードでどうしようもないなら、ソフトでどうにかするしかない。そこで生み出されたのが制度化された宗教、階層化された社会、もっと進めば法ということになる。もう滅んでしまったが、アステカ文明とかインカ文明というのは、そうやってできていたのだろう。
農業は単位面積当たりのカロリー生産が狩猟採集に比べてはるかに大きい。要するに、地球上で生きていける人類の数が500万人よりもはるかに大きくできるようになったのだ。人類自体の数が大きくなり、人間が所属する集団でも100人なんかとは比べ物にならない大きなものが出て来た。その中でも特大のものが4大文明といわれるやつである。
ここから先は、人類史というよりは歴史の分野になる。ごく簡単に説明する。農業を主力産業とする巨大文明の時代がしばらく続いた。その間、わずかずつだが科学技術が進んだ。そして約200年前に人類は狩猟採集から農業への移行に続く、また大きな変化を迎えることになる。変化は2つある。1つは経済で、ちょっと前に書いた市場経済というヤツに移行した。
なぜ約200年前に変化したのかは定説はない。ここは私の自説になるが、たぶんアメリカなど新大陸の発見と、ウクライナ・ロシアのあたりで遊牧民族が追い出されていったのが大きい。世の主流経済システムは農業になっていたが、未開の巨大な空間が残されていたのだ。細かい説明は省くが、少人数で農業をやると平均的には食べきれないぐらいの生産物ができる。これを放っておけば、カツカツになるまで人口が増えてしまう。有名なマルサスの罠というやつだ。ところが、一気に巨大空間が生まれたおかげで、人類がマルサスの罠にハマるまでに時間の猶予ができた。この間に人類は産業革命をなしとけげた。農業以外の産業の割合がどんどん高まった。普通なら生活水準の上昇で出生率は上がる。産業革命が始まったイギリスもそうで、産業は発展するものの人口も同じペースで増え、大体1800年頃に産業革命が始まったと言われているが、19世紀後半になるまで実は1人当たりの生活水準はあまり上がらなかった。
ところが、である。人類は延々と出生率を高止まりさせるものではないらしかった。そのうち、経済成長とともに出生率はむしろ低下していくのである。これを人口転換という。衛生状態が良くなって幼児死亡率が下がるのは分かるのだが、なぜ子供の数が減るのかも、実はよく分かっていない。子供の数だけではなく質、つまり教育を重視するようになるからだという理屈もある。女性の教育水準が上がって、子供を産んで育てるだけではなく、社会に出て働くようになり、近現代人として他の楽しみを見つけるようになったからかもしれない。多分、全部それぞれそれなりに正しいのだと思う。とにかく、出生率は近代的な衛生状態・幼児死亡率の中で人口を維持する2.08程度まで下がり、さらにそれを下回った。ようやく人類はマルサスの罠から完全に逃れたのである。
大体200年ほど前にもう1つ大きな変化が起きた。この2つのタイミングが重なったのが偶然なのかどうかは私にも分からない。とにかく、社会が王様がいる封建社会から民主主義社会へと移行した。それに伴い、従来からあった法が進歩し、人権などの概念も生まれた。国民国家が生まれ、国民を作るための教育が普及した。2つの変化の関係は分からないといったが、教育の(特に女性への)普及が出生率を下げたのは間違いないと思う。女性はより自由になった。
もちろん、国民国家からその先のストーリーもあるにはあるのだが、今回の話としてはもう十分である。というか、約200年前に起こった大きな2つの変化も実は必要ない。ただ、話を現代に繋げるために必要だったというだけだ。
大きなポイントは、もう我々は100人の村には住んでいないということである。より正確に言えば、100人の村で完結する社会には生きていない。実際に100人ぐらいの村に住んでいる人は、未だに多くいるだろう。しかし、その100人の村の中だけで経済が完結するということは、ほとんどない。また、その集団の維持を集団内の論理だけで済ませているということも、まずありえない。農業社会では制度化された巨大宗教や巨大な王権が出て来たし、現代では憲法を中心とする法と、それを実施する行政で社会は運営されている。
「100人の村というのはお互いの顔の見える関係だ」と先に書いた。そして、数十万、数百万、数千万、どうかしたら数億の社会というのは、当然当事者全員の顔が分かる訳がない。そして、その集団を統治するのは、巨大宗教でも、現代の法・行政であっても、匿名化されたシステムである。例えば憲法は「国民」とか「人民」を対象にすると書いている。どこそこ家では、とかではない。経済も国の単位になり、現代ではグローバル化している。もう、我々が消費する財のほとんどの生産者の顔は分からない。
いろいろな人がいるこの村では
あなたと違う人を理解すること
相手をあるがままに受け入れることが
とても大切です
『世界がもし100人の村だったら』で最も重要なのはこの部分である。これは、まさに、現代の匿名化された巨大集団においてこそ重要な原理なのだ。我々が昔過ごしていた本当の100人の村ではこんなことはなかった。全員が同じ信仰をして、集団の原理に従わないか害を与える者は容赦なく追い出された。とても相手を「あるがままに受け入れる」余裕などなかったのだ。
それではなぜ、この本はそれでもなお、世界を100人の村と捉えようとするのか。それは、100人というサイズであれば、我々人類の脳の力で、お互いに顔の見える情の通じた相手として考えられるからなのである。100人の村はあるがままの相手を受け入れるような寛容な社会ではない。しかし、同じ秩序を受け入れるのであれば、それは暖かく優しくお互いを守り合っていく社会でもある。マンションで隣に誰が住んでいるか分からないとかいう現代社会とは全く異なる。
要は、この本は欺瞞である。巨大文明社会の利益を享受しながら、その運営を100人の村の原理で行おうと言っているからだ。それは端的に不可能である。巨大文明社会は、匿名化された法・行政、経済では市場を中心とした自由経済で運営されなければならない。お互いの情や共感ではなく、論理、法が優先される。そうでなければ、この巨大な社会は運営できない。
念のために言っておくが、現代社会において情とか共感がもう要らない、と言っているわけではない。やっぱり我々の脳は100人ぐらいの集団で生きるように設計されている。多くの人はそれぐらいの規模の集団の中で、顔の見える関係の中で、情とか共感で生きている。しかし、ひとたびその関係から外に出ると、非人格的な論理の世界で運営されている、というだけだ。
「100人の村」の原理による社会の運営が欺瞞だとすれば、どうすればより良く社会を運営できるのだろうか。その答えはもう出ている。民主主義という、最低ではあるが人類が発見した中では最善の政体を用い、なんとかかんとか利害調整を行い、多少は理想に訴えて人の倫理・道徳心を作用させ、市場経済を基本としながらそこに部分的に修正を加えていく。そう、我々が日々ニュースで目にすることである。これを効率的に、それでいて着実に丁寧に、そして質を保って進めていくしかない。
それをするには、我々はもっと賢くならなければならないのかもしれない。進化による脳機能の拡大が間に合わないのであれば、ソフトウェアをアップデートするしかない。それは教育だ。もう先進国においては経済的には割に合わなくなってはいるが、よりよい社会の運営のためには民度を上げるしかないのだろう。また、特に難しくて重要な社会問題の解決のための専門家の養成も進めなければならない。端的に言えばもっと勉強しなければならない。そうでなければ、社会運営に不満を募らせるしかない。それが、民主主義というものなのであり、そこに代替案は今のところないのである。
『世界がもし100人の村だったら』という本がある。
「ちょっと何言ってるか分からない」という人も多いと思うが、説明するより現物を見てもらった方が早いかもしれない。
自分の様に数字が好きな人間にとっては、なんで60〜80憶の人類や1億2500万の日本人に直さなければならないのか直感的には分からない。この本は2001年に出版されたのだが、人気が出たことに味をしめたのか、2008年に「総集編」というのまで出た。中身は内容を水増ししただけで、しかも後半には「1000人の村」と企画が結構変わってくる(笑)。まあ、そこに「大人の事情」があるのは容易に想像できるが、実は100人の村と1000人の村では本質的に異なる、というのが今回の話のテーマである。
ここで使うツールは進化心理学という学問である。これは人間を対象としたものだが、似たような発想を動物全般に広げたものとして社会生物学というのもある。
話をどこから始めたらよいか難しいが、今回のテーマに即して、「なぜ人間は100人の村で生きてきたか」というのが一番分かりやすいと思う。「100人というのは比率(%)というのを使いこなせない子供や残念な大人のための方便でしょ」と思われるかもしれない。
いや、実際に人類というのは、それこそ、その圧倒的な歴史を100人ぐらいの集団で過ごしてきたのだ。となると、そもそも「人類」の定義が必要になる。これまた厳密な学問的な議論はめんどくさいが、ここではおよそ600〜500万年前に登場したヒト亜科という霊長類ということにしておこう。特徴は二足歩行である。
なぜ、腰に負担をかけてまで(直立)二足歩行をするようになったのかには議論もあるが、元々アフリカにいた祖先のお猿様がいたのだが、地殻変動で山ができ、山の片方には雨が降らなくなって草原になり、今の猿が暮らしている森が減った・無くなったからだという説が有力だ。実際に、今でもアフリカには広大なサバンナが広がっている。
二足歩行は負担も多いが、なにより前足(手)が自由になり、その手が器用になって道具なんかを作って使い始めたのが人類と他の動物との差になった、という話は南部アメリカでも育ってなければ聞いた人は多いだろう。ここでも、そのストーリーに乗っかることにする。
初期の人類が脆弱な存在だったことは想像に難くない。なんせ、そこはアフリカのサバンナである。今と全く同じものかどうかは分からないが、ライオンだのトラだのハイエナみたいのがウロウロしていたはずである。そこにサルを放ってみれば、あっという間にエサになるのは目に見えている。
では、なぜ「我々」はすぐに滅びなかったのか。多分、「森が減った・無くなった」というペースがゆっくりだったためだろう。いきなりサバンナに放り出されてしまっては獰猛な肉食獣のエサになるしかないが、「ゆっくり」と森が減っていったのであればなんとかなる、というか運よくそうなった。ここでの「ゆっくり」は、「進化」という観点からの表現だ。動物は進化する。その進化は、ハエとかを特殊な環境で育成しない限り、普通人間の寿命に比べて相当遅い。多分100年や1000年では普通ほとんど変わらないだろう。だから、キリスト教とかで今の動物が神様によって作られた、と教えられても違和感は全くないのである。
ただ、最初に確認したように、今回の話は数百万年のスケールの話だ。「人類の誕生」のwikiにあるように、例えば初期人類の脳味噌の容量は400〜500ccぐらいだったと見積もられている。これは現生の最も「賢い」動物であるオラウータンと大体同じだ。それが、今の人類は大体1400ccぐらい、ざっと3倍ぐらいに増えた。だから「3倍賢くなった」という訳ではないが、大分「賢く」なったのは、我々とオラウータンを比べてみれば分かる。
ところで、脳というのはやたらとエネルギーを消費する。体重の2%ぐらいしかないのに、全エネルギー消費の18%も使うという。もし脳が生きるのに役に立たないのだとしたら、こんな石潰しを抱えていた生物は一発で滅んでしまったに違いない。もちろん、それだけエネルギーを使うからには、それに見合った効能があり、それが「賢さ」とう訳だ。
サバンナに放り出されたサルは、すぐにエサになってしまうと言った。それでは人類はどうやって凌いできたのだろうか? まあ、今のサルの行動から推測するに、最初はなるべく森の近くに住み、危険な肉食獣が来ればキーキー警戒音を出して、仲間は木の上に逃げたのだろう。
安全面はこれで良いとして、食料はどうやって調達したのか。もちろんサルなら木の実、それから場合によってはもっと小さい動物を食べればよい。しかし、状況は今の日本に似ていて、徐々に食い扶持が減っていった時代だ。それに対応しなくてはならない。
ちょっと話は逸れるが、人間というのは自分ではそう思ってないと思っていても自尊心というのを持っている。その証拠の1つが、初期人類の食糧問題だ。最初は、人類は石器や弓矢を使って動物を狩っていたのだろうと言われていた。しかし、サルから狩猟者になるのは相当な飛躍がある。最近では、我々のご先祖の新たな食い扶持は死骸だったと考えられている。
死骸漁りなんてハイエナみたいな嫌らしい動物がやるものだ、と思われるかもしれない。まあ、現実にはライオンとハイエナで、どっちが狩って、どっちが相手の獲物を奪っているのが状況によるのだが、とりあえずハイエナは骨まで砕いて食べてしまう強靭なアゴと消化力の強い内臓を持っているらしい。
だが、どんなにハイエナが死骸を漁っても、やっぱりちょっとは残っているブツがある。食べられない皮のすぐ近くの部位や、大きくて固い骨の中の骨髄だ。どうも我々のご先祖様は、その前足の器用さを活かして、こういう部分を食べてて糊口を凌いでいたらしい。
実は私も魚の皮や、鶏肉の骨の周りの軟骨が大好きだ。日本人としてのルーツみたいなことは考えたことはないが、こうした魚の皮や軟骨を食べている時はご先祖様の事を思う。やっぱり、生き物は食べてこそナンボである。
話を戻すと、こうやって死骸漁りをしていたご先祖様方は、その内にどんどん器用になっていったらしい。そりゃそうだろう。より器用で死骸からより多くのごちそうにありつけた奴が生き残る。適者生存。まさに進化の力が発揮された訳だ。
そうして賢くなっていったご先祖様方は、少しずつ新し食い扶持を増やしたり、生活を便利にしていった。水や食料を保管する器を作ったり、死骸分解や固い木の実を割るのを効率的にする石器を作ったのだろう。
それがどんどん進むと、とうとう本当に狩猟する側に代わってくる。とはいっても、たぶん最初は防衛能力の構築だったのだろう。適当な木の棒とかで抵抗していたものが、その先に石器を付けて斧にできれば上等だ。石器を括り付けるには紐が必要で、このためには適当な草や細い木の枝を使わなくてはいけない。弓矢となると相当難易度が上がるから、たぶんこの斧ぐらいの段階で、団体で装飾動物を狩るぐらいのことをしていたのだろう。あと、罠とか作って捕獲したりしたりもしたのだろう。
よく「狩猟採集時代」と言うが、実際にエネルギー源として大きかったのは狩猟より採集だろうと思われる。これだって、賢くなれば効率も上がる。季節によってどういう場所にどういう生物が生えるかとか、何なら食べれるかなどの知識を蓄積する。生では食べられないものでも火を入れれば食べられるようになるものもある。最初は直接火にくべていたのだろうが、水で似た方が効率が良くてアクも出る。となると、木の器では燃えてしまうので土器が必要という話になる。生より煮た方が消化効率も良く、これまた都合がいい。
ここまで来てしまえば、実際のところもうほとんど我々と変わらないニンゲンだ。だが、人間になったとたん、大きな問題を抱え込むことになる。人間が一番恐るべきものは何か? 別に比喩でもなんでもなく、それは人間自身である。自然界最強の生き物が一番怖いに決まっている。
もちろん、最初は集団で逃げれば良かった。人間がアフリカから脱出したのが大体10万年前ぐらいだったと言われている。なんと人類500万年の歴史の490万年、98%はアフリカだけで暮らしていたのだ。ただ、いったんアフリカから出たら、その後世界に広がるのは相当早かったと見られている。新しい環境に生物が慣れるは相当大変で、進化のスピードではそれこそ万の単位かそれ以上の時間がかかってしまう。しかし、人類は知恵を付けていた。寒くなればあったかい服を作ればよいし、新しい動物もその生態を調べれば狩ることができるし、新しい植物もちょっと調べれば食べられるかどうか分かる。そのスピードは進化とは、本当の意味で桁が違った。
しかし、である。逃げると言っても限界がある。人類が狩猟採集で生きるとして、大体人口当たり〇〇程度の土地が必要だということになる。これは、他の動物と同じだ。最初はどんどん逃げるのがメインだったかもしれないが、そのうち世界中に人類が溢れてしまう。いろいろな説があるが、大体500万人ぐらいが狩猟採集というスタイルの限界だったらしい。このサイズの動物としては相当な数だが、今の基準からしたら相当少ない。
そして、人間の争う相手のメインは人間になっている。このプロセスは想像してみるしかないが、最初は血統の近いグループだったのではないかと思われる。最初の方に出た社会生物学の理屈を使って考えると、我々は自分と近いDNAを持つ人間には優しくなる。というか、近いDNAに優しい生き物が適応的なのである。
ただ、このロジックだけでは規模の限界がある。そして、あれこれやった結果、人類が辿り着いた最適な集団の規模が最初の約100人ぐらいらしいのである(ひょっとすると300人ぐらいまでOKだったのかもしれない)。集団の数は多ければ多いほど強い。しかし、集団内のイザコザが増えれば、逆に肥大化した集団は生き残れない。そのバランスが取れるのが100人ぐらいだったらしいのである。
人類は、食料を得て他の動物や自然環境から身を守ると同時に、その集団の維持のためにも賢くなった。集団の維持という問題が無ければ、こんなに言語を発達させる必要はなかっただろう。アニミズムだったとしても素朴な宗教もなかっただろう。道徳心を促す教育だって必要だ。あと詳細は説明しないが性淘汰、要は色恋沙汰をどうやって上手くやっていくかというのも大事になる。こうやって人間はどんどん賢くなり、どんどん脳は大きくなっていった。
現代社会でも、人類はほとんど進化してないなと思わせられることは多い。例えば喫茶店でコーヒーを飲んでいて、隣の席のOLの話を聞けば、ほぼ間違いなく恋愛とか家族とか職場の人間関係、年齢が上がれば子や孫の話である。立派なべべを着ているだけで、数万年前のご先祖様や、今でも世界にわずかであっても残っている「原住民」という人たちと何の違いもない。もちろん、ごくまれに世界政治や経済の話をしている人もいるが、これなんかは例外だ。地球の裏側では核戦争が起きて人類が崩壊するかもしれず、地球のこっち側でも人口が1位か2位の国が同族が住んでいる島に攻め込んんでやっぱり大戦争からの核戦争となって人類が滅びるかもしれないのに、人間様は飽きもせず自分の半径3mの話ばかりしている。あと、違いがあると手れば趣味の話題というのもある。こういうオタクも比較的新しい存在だろう。そんな中で著者はオタクにも成れない半端ものである。喋る相手もいないから、こんな駄文を書いている…
別に私は男尊女卑の人間ではない。男だって似たようなものだ。夜の宴会で話す内容は、職場の人間関係である。男性の傾向としては、誰誰が出世したとかいう話の割合が多いかもしれないが、これもご先祖様たちも村の中で誰誰が威張っているという話と同じだ。私も学者という職業にありついて、酒の席でもちったあ知的な話ができるのかと期待したが、結局話しているのは職場=大学の話が大半で、これじゃあサラリーマンと変わることは何もない。社会の中で最も知的であるべきはずの人間どもがこのザマなのである。
多分誰もちゃんと調べたことはないが、こういう人間関係の話の対象は、たぶん100人ぐらいに収まっているはずだ。それを大きく超えると、情報の供給が極端に難しくなるのである。人間が2人なら関係は1つだ。人間が3人だと関係は3つ、4人だと6つと、どんどん割合が増えていく。数学に覚えがある人なら nC2 という奴だ。ちなみに100C2は約5000である。
「あなたは約5000の人間関係を考察しながら生きている」と言われると、とてもそんな気がしないという人が大半だろう。人間関係が大事だといっても、普通は10人ぐらいのことしか考えてないし、10C2でも約50である。50の人間関係を考えていればお腹一杯かもしれない。
もちろん、ここの5000とか50とかいうのはフェルミ推定という適当で簡便な数に過ぎない。実際に100人と関わっていても、その人たちは家族とか職場とかサークルとか教室とか、適当にグループ分けされている。そのグループを跨いだ人間関係というのは、あんまり多くないかもしれない。そうすると、100人と関わっていても人間関係5000と言うのは多分誇大広告だ。
そういえば100人と言えば「100人乗っても大丈夫」というCMがある。まあ、ここではそれはどうでもいい。あと100人と言えば「友達100人できるかな」というのがある。ところが、彼・彼女が所属するのは大体40人弱のクラスである。ちょっと話を膨らますと、団塊世代の就学時代には施設・教員が足らず1クラス50人とか60人があったらしい。逆に、最近の先進国では少人数クラスというのがありがたいらしく、1クラス30人とかもあるという。ただ、多少変化があるといっても1クラス1000人なんてのは、マンモス大学の大人気授業以外には聞いたことがない。逆に1クラス数名とかいうのも、統廃合寸前の小学校以外では聞いたことがない。やっぱりせいぜい20〜50ぐらいの数に収まるのだ。
学校のクラスというのは社会の縮図で、社会性を養う場だ。それがなぜ100人ではなく20とか50人なのだろう。教育を受ける側から見れば、まだ子供で社会性能力が未熟なので、100人というのは厳しいのかもしれない。また、教育する側からすれば、担任の先生が、学校の他の先生や親類縁者とは別に、管理できる人間の数が40ぐらいなのかもしれない。もちろん、この能力にも個人差があり、能力(か倫理観、情熱など)の劣る先生だと、いじめなどの人間関係の問題を放置してしまうことになる。多分、こういう理屈が本来ならあると思うのだが、教育学というのは高尚な学問で、どれだけ立派な子供を育てるかという有難い話をしている。子供により目が届くから少人数クラスが望ましいとおっしゃる方も多い。でも、少なすぎたら社会性の学習に問題があるんじゃないですか、なんて質問をしてもマトモな答えは返ってこない。それは彼らの高尚な議論には関係ないからだ。
100人ぐらいが適正規模だというのは、原住民の調査や、人類学の発掘などによって確認されてる。もちろん、幅があるので実際には数十人の集団もあれば、数百のもある。しかし、数人で集団を維持するのは不可能だろうし、逆に1000人を超えるというのも相当難しいようだ。
大分前に、100人ぐらいだったら人間は集団を維持できると言った。別の言葉を使えば「顔の見える範囲」とも言える。私の偉い経済学の先生が教えてくれた。経済学のいう「市場」とは「顔の見えない関係である」と。実際、狩猟採集時代に市場はない。
これが、たぶん「つい」1万年ぐらいまでの人類の生活だった。しかし私は「狩猟採集というスタイルでは100人」と言った。つまり、狩猟採集ではないスタイル、つまり農業というスタイルになると話が変わってくる。念のために書くと、昔ほど狩猟採集と農業の時代と言うのは大きな断絶があった訳ではないと考えられるようになっている。確かに狩猟採集と言っても時期によって数カ所を移動していただろうから、適当に食べ残しを蒔いておけば、次来た時に生えている、という発見はあっただろう。そこから農業が少しずつ本格化し、農業・狩猟・採集をバランスさせた時期もしばらくあったのだと思う。
だが、やっぱりその内に農業がメインの社会になってくる。そして、農業がメインの社会というのは100人では済まない。用水路の整備、収穫された農作物の管理と配分といった仕事は、100人とかでは難しい。難しいというより、上手くやればもっと大きな単位でできたと言った方が正しいのだろう。そして、人間集団の力関係は数が全てだ、というのは変わらない。たぶん、100人とかよりは桁の違う規模を成立させた集団が勝ち残っていった。
しかし、それは大体1万年ぐらい前の話である。人類の脳が進歩するにしては時間が短すぎる。そもそも、100人規模よりもっと大きな集団を作れる脳を進化が生み出せるのだとすれば、狩猟採集でもそれをやっていたはずだ。そこは例の100C2=4545という数字の制約があり、規模を拡大するメリットよりも、脳を維持し消費するエネルギーのコストの方が大きくなってしまったのだ。
脳というハードでどうしようもないなら、ソフトでどうにかするしかない。そこで生み出されたのが制度化された宗教、階層化された社会、もっと進めば法ということになる。もう滅んでしまったが、アステカ文明とかインカ文明というのは、そうやってできていたのだろう。
農業は単位面積当たりのカロリー生産が狩猟採集に比べてはるかに大きい。要するに、地球上で生きていける人類の数が500万人よりもはるかに大きくできるようになったのだ。人類自体の数が大きくなり、人間が所属する集団でも100人なんかとは比べ物にならない大きなものが出て来た。その中でも特大のものが4大文明といわれるやつである。
ここから先は、人類史というよりは歴史の分野になる。ごく簡単に説明する。農業を主力産業とする巨大文明の時代がしばらく続いた。その間、わずかずつだが科学技術が進んだ。そして約200年前に人類は狩猟採集から農業への移行に続く、また大きな変化を迎えることになる。変化は2つある。1つは経済で、ちょっと前に書いた市場経済というヤツに移行した。
なぜ約200年前に変化したのかは定説はない。ここは私の自説になるが、たぶんアメリカなど新大陸の発見と、ウクライナ・ロシアのあたりで遊牧民族が追い出されていったのが大きい。世の主流経済システムは農業になっていたが、未開の巨大な空間が残されていたのだ。細かい説明は省くが、少人数で農業をやると平均的には食べきれないぐらいの生産物ができる。これを放っておけば、カツカツになるまで人口が増えてしまう。有名なマルサスの罠というやつだ。ところが、一気に巨大空間が生まれたおかげで、人類がマルサスの罠にハマるまでに時間の猶予ができた。この間に人類は産業革命をなしとけげた。農業以外の産業の割合がどんどん高まった。普通なら生活水準の上昇で出生率は上がる。産業革命が始まったイギリスもそうで、産業は発展するものの人口も同じペースで増え、大体1800年頃に産業革命が始まったと言われているが、19世紀後半になるまで実は1人当たりの生活水準はあまり上がらなかった。
ところが、である。人類は延々と出生率を高止まりさせるものではないらしかった。そのうち、経済成長とともに出生率はむしろ低下していくのである。これを人口転換という。衛生状態が良くなって幼児死亡率が下がるのは分かるのだが、なぜ子供の数が減るのかも、実はよく分かっていない。子供の数だけではなく質、つまり教育を重視するようになるからだという理屈もある。女性の教育水準が上がって、子供を産んで育てるだけではなく、社会に出て働くようになり、近現代人として他の楽しみを見つけるようになったからかもしれない。多分、全部それぞれそれなりに正しいのだと思う。とにかく、出生率は近代的な衛生状態・幼児死亡率の中で人口を維持する2.08程度まで下がり、さらにそれを下回った。ようやく人類はマルサスの罠から完全に逃れたのである。
大体200年ほど前にもう1つ大きな変化が起きた。この2つのタイミングが重なったのが偶然なのかどうかは私にも分からない。とにかく、社会が王様がいる封建社会から民主主義社会へと移行した。それに伴い、従来からあった法が進歩し、人権などの概念も生まれた。国民国家が生まれ、国民を作るための教育が普及した。2つの変化の関係は分からないといったが、教育の(特に女性への)普及が出生率を下げたのは間違いないと思う。女性はより自由になった。
もちろん、国民国家からその先のストーリーもあるにはあるのだが、今回の話としてはもう十分である。というか、約200年前に起こった大きな2つの変化も実は必要ない。ただ、話を現代に繋げるために必要だったというだけだ。
大きなポイントは、もう我々は100人の村には住んでいないということである。より正確に言えば、100人の村で完結する社会には生きていない。実際に100人ぐらいの村に住んでいる人は、未だに多くいるだろう。しかし、その100人の村の中だけで経済が完結するということは、ほとんどない。また、その集団の維持を集団内の論理だけで済ませているということも、まずありえない。農業社会では制度化された巨大宗教や巨大な王権が出て来たし、現代では憲法を中心とする法と、それを実施する行政で社会は運営されている。
「100人の村というのはお互いの顔の見える関係だ」と先に書いた。そして、数十万、数百万、数千万、どうかしたら数億の社会というのは、当然当事者全員の顔が分かる訳がない。そして、その集団を統治するのは、巨大宗教でも、現代の法・行政であっても、匿名化されたシステムである。例えば憲法は「国民」とか「人民」を対象にすると書いている。どこそこ家では、とかではない。経済も国の単位になり、現代ではグローバル化している。もう、我々が消費する財のほとんどの生産者の顔は分からない。
いろいろな人がいるこの村では
あなたと違う人を理解すること
相手をあるがままに受け入れることが
とても大切です
『世界がもし100人の村だったら』で最も重要なのはこの部分である。これは、まさに、現代の匿名化された巨大集団においてこそ重要な原理なのだ。我々が昔過ごしていた本当の100人の村ではこんなことはなかった。全員が同じ信仰をして、集団の原理に従わないか害を与える者は容赦なく追い出された。とても相手を「あるがままに受け入れる」余裕などなかったのだ。
それではなぜ、この本はそれでもなお、世界を100人の村と捉えようとするのか。それは、100人というサイズであれば、我々人類の脳の力で、お互いに顔の見える情の通じた相手として考えられるからなのである。100人の村はあるがままの相手を受け入れるような寛容な社会ではない。しかし、同じ秩序を受け入れるのであれば、それは暖かく優しくお互いを守り合っていく社会でもある。マンションで隣に誰が住んでいるか分からないとかいう現代社会とは全く異なる。
要は、この本は欺瞞である。巨大文明社会の利益を享受しながら、その運営を100人の村の原理で行おうと言っているからだ。それは端的に不可能である。巨大文明社会は、匿名化された法・行政、経済では市場を中心とした自由経済で運営されなければならない。お互いの情や共感ではなく、論理、法が優先される。そうでなければ、この巨大な社会は運営できない。
念のために言っておくが、現代社会において情とか共感がもう要らない、と言っているわけではない。やっぱり我々の脳は100人ぐらいの集団で生きるように設計されている。多くの人はそれぐらいの規模の集団の中で、顔の見える関係の中で、情とか共感で生きている。しかし、ひとたびその関係から外に出ると、非人格的な論理の世界で運営されている、というだけだ。
「100人の村」の原理による社会の運営が欺瞞だとすれば、どうすればより良く社会を運営できるのだろうか。その答えはもう出ている。民主主義という、最低ではあるが人類が発見した中では最善の政体を用い、なんとかかんとか利害調整を行い、多少は理想に訴えて人の倫理・道徳心を作用させ、市場経済を基本としながらそこに部分的に修正を加えていく。そう、我々が日々ニュースで目にすることである。これを効率的に、それでいて着実に丁寧に、そして質を保って進めていくしかない。
それをするには、我々はもっと賢くならなければならないのかもしれない。進化による脳機能の拡大が間に合わないのであれば、ソフトウェアをアップデートするしかない。それは教育だ。もう先進国においては経済的には割に合わなくなってはいるが、よりよい社会の運営のためには民度を上げるしかないのだろう。また、特に難しくて重要な社会問題の解決のための専門家の養成も進めなければならない。端的に言えばもっと勉強しなければならない。そうでなければ、社会運営に不満を募らせるしかない。それが、民主主義というものなのであり、そこに代替案は今のところないのである。