2022年10月09日

更新履歴(令和4年)

令和412日(日曜日
 三十年以上も前にある方から一枚のコピーを頂きました。「大船四季の順風」と題した倉田久五郎作のからくりぜんまい細工です。調べたところ、『武江年表』によりこれが天保7年であることが分かり、その項へ図版を入れました。その時「長崎ぜんまい人形大切ニ奉御覧入候」という小さいビラのコピーも頂いていたのですが、関連があるのかどうか分からないまま年代不明のファイルに閉じておきました。
 昨年の暮も押し詰まった頃、幸運にも「大船四季の順風」のビラを手に入れました。これだけでも喜びでしたが、なんとこのビラに「長崎ぜんまい人形大切ニ奉御覧入候」という小さいビラが貼りつけてあったのです。これには吃驚でした。これによってこの小さいビラが同興行のものであり、かつこの興行の表看板が長崎の雪遊びで、大切が長崎ぜんまい人形であることがはっきりしました。早速ブログに上げましたのでご覧ください。長年何んだが分からなくて不明のままだったものに突然光が差し込んだ瞬間でした。
 このブログも十一年目に入ります。お陰様でPVが300,000を突破しました。ご覧いただいた方々にこの場をかりて心からお礼申し上げます。今年も「上方落語史料集成」の方の作業(上方落語家事典)に時間を取られそうで「見世物」の方がお留守になりそうです。でも時々は更新するつもりなので、本年もどうぞよろしくお願いいたします。

令和424日(金曜日)
 新聞で編集のボランティア募集の記事を読み、木津川計氏が刊行されていた雑誌『上方芸能』の編集部を京町堀に訪ねたのは昭和48年(1973)の春でした。スタッフの一員に加えてもらってすぐの716日、三代目帰天斎正一師が亡くなられました。マスコミにはほとんど報道されませんでした。そこで編集長よりお悔やみ兼取材に行くように言われました。その頃の私は正一師が手品師であることすら知りませんでした。正一師のお住まいが旧猪飼野で、私の帰り道だったからとしか考えられません。ともかく近鉄奈良線の鶴橋で下りて、お供えを持ってご自宅をお訪ねしました。正一師の息子さんで後見をしておられた正楽さん、お弟子さんの正若さんが迎えてくださいました。その時伺ったいろいろのお話を短くまとめて『上方芸能』31号(19739月)の「白牡丹図」に写真を添えて載せてもらいました。

 それから七年たった昭和55年(1980)に白水社が刊行していた『芸双書』の第四巻「めくらます 手品の世界」に「上方の和妻」と題して何か書けるかという打診が木津川氏よりありました。あれ以来少し勉強もしたので、正一師のことなら何とか書けますとお答えし、有難くお受けしました。執筆に取りかかるにあたり、あの時名刺を頂いていた帰天斎正若(本名須原勝利)さんにお電話し、羽曳野のご自宅まで押しかけてさらに詳しくお話を伺い、女夫引出しや比翼の竹の実演まで見せて頂きました。帰り際、お茶を頂いていたときだったと思いますが、山本慶一さんの話になり、これはうる覚えで間違っているかもしれませんが、正若さんが「山本さんは中学の時の先生で、私が手品に興味をもったのも先生の影響です」と言われたように思います。そして「もしよかったら一度お会いになりませんか、紹介しますよ」とおっしゃってくださいましたので、あつかましくも紹介状を頂いて帰りました。そして昭和5577日の七夕の日に倉敷市下津井吹上自宅お訪ねしました。今回「上方の和妻」で帰天斎正一師のことを書かせていただくことになったことをお伝えし、手品の内容を紹介する時の心得などを教えていただきました。そのあと、怪談噺に使う龕燈の実物やのぞきからくりの資料などを拝見しました。のぞきからくりは子供の時から夏祭りの縁日などでよく見て、「三府の一の東京で…」のホトトギスは今も覚えていますとお話ししたところ、「よかったらお土産にどうぞ」と昭和48年にお作りになった『のぞきからくり』(私刊300部)の小冊子を下さいました。いまも大切に書架にしまっています。
 昭和56年(19816月に本(『芸双書』第四巻)が発行されました。その最後に山本さんの「手品からくり年表」が掲載されています。この原型は昭和2988日に刊行された『てづまからくり年表』です。謄写版(ガリ版)摺り、40頁、100

部限定のものです。図版も手書きで忠実に再現されており、なんとも滋味に富んだものです。最近古書店よりこれを入手し、資料というより記念品として懐かく繰り返し眺めています。

令和4109日(日曜日)

 川添裕氏が『江戸にラクダがやって来た 日本人と異国・自国の形象』(岩波書店)を刊行されました。

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  文政
4年(18217月、オランダ船に乗って雌雄二頭のラクダが長崎にやって来ました。それから天保4年(1833)に行方不明になるまでの13年間の軌跡をたどり、異国の珍獣ラクダが日本中にいかなる文化現象をひきおこしたかが興味深く描かれていきます。
 もともと江戸幕府への献上品としてもたらされたのですが、幕府は吉宗の享保の象で懲りていたのか「無用」と返答をしました。ただ幕府の返答が遅く、二年も長崎に留め置かれました。本書もなかなか前へ進めず、27頁~42頁まで長崎に留まったままでした。結局二頭のラクダは香具師に買われ、見世物として全国を廻ることになります。

 最初に向ったのは大阪です。初めて見る異国の珍獣に「えらいこっちゃ」と貴賤ともに詰めかけ、たいへんな騒ぎでした。それは次に行った京都でも同様で、いわゆる文人たちはラクダサロンのようなものをひらき、絵を描き、詩歌を詠んで楽しみました。本書もそのサロンに参加し、楽しみすぎたのか、42頁~76頁までそこにいました。

 名古屋に行くと見せかけて中山道を通り、一路江戸へ向いました。江戸に着き、西両国広小路で見世物となったのは文政7年閏8月です。当時文化の中心であった江戸でのラクダブームは京、大阪をはるかに凌ぐもので、文政8年春まで約六か月間続き、見世物史上空前のロングランを記録しました。浮世絵が出る、本が出版されるのえらい騒ぎで、それらはもちろん本書でも「ラクダ現象」として65頁(76頁~140頁)にわたって詳細に描かれています。あまりに熱心なため、ときにラクダの姿が消えてなくなるほどです。

 ようやく江戸を離れた二頭のラクダは地方巡業に出かけます。現在の栃木県大田原、茨城県水街道、東京都八王子で興行したのち、石川県金沢、福井県鯖江を廻り、尾張一宮より名古屋大須に入りました。ときに文政91110日のことです(146頁)。 

 名古屋では『見世物雑志』の小寺玉晁と『猿猴庵日記』の高力猿猴庵の二人が首を長くして待ち構えていました。本書でも詳述されていますが、この二人は私たちに素晴らしい記録を残してくれました。特に猿猴庵の『絵本駱駝具誌』は数あるラクダの本の中でも傑作中の傑作です。近年名古屋市博物館から「猿猴庵の本」の一冊として原本どおりに翻刻され、簡単に見る事ができるようになり、当ブログでも大いに活用させてもらいました。

 名古屋を出て岡崎、挙母と廻り、年があけた文政101月に津島で興行したあと、19日から再び名古屋大須で興行しましたが、さすがにこれは不入りだったようです。それは5月に大阪で興行したときも同様で、二度目は駄目だと思い知りました。そこでまだ足を踏み入れていない地を目指すことになります。
 ではどこへいったのか。実はここからが本書の本領発揮で、コロナ禍をものともせず現地に足を運び、いままでほとんど知られていなかった徳島県慈仙寺、広島県本覚寺、山口県岩国白山神社、鳥取県天神渡、岡山県津山徳守神社等で興行した事実が次々と明かになっていきます(
155頁~167頁)。これは実にうれしい発見で、さすが見世物探偵を自称されるだけのことはあります。

 このあと一頭が斃れ、その五年後に残りの一頭も行方不明になり、江戸の人びとに深い感銘を残したラクダ見世物も終焉を迎えます。そして本書もまた読者に深い感銘を残して175頁にわたるラクダの「日本人と異国・自国の形象」の旅は終わりを告げます。とてもすばらしい内容で、感服のほかはありません。ただ著者がいまだにラクダに憑りつかれたままなのではないかとちょっと心配しています。



misemono at 15:58|PermalinkComments(0) 更新履歴(令和4年) 

2021年09月19日

更新履歴(令和3年)

令和317日(木) 

ブログ開設十周年を迎えて


 なぜこのようなものを作ろうと思われたのですかと時々聞かれるのですが、そのきっかけは上方落語です。大学の時に落語が好きになり、熱が嵩じてその歴史を調べ出しました。しかしその当時は上方落語に関する資料はまことに少なく、とくに明治時代については肥田晧三先生の「明治の大阪落語」(『近世大阪藝文叢談』昭和483月)しか纏まったものはありませんでした。繰り返し読むうち、もっと知りたいという欲望が湧き、無謀にも肥田先生に直接面談を申込み、その旨を伝えたところ、それなら当時の新聞を丁寧に見ていくしかないだろう、大阪朝日新聞と大阪毎日新聞が大阪府立中之島図書館にあるから閲覧に行くといいとのご助言を得ました。

さっそく中之島図書館へ行き、まず大阪朝日新聞(明治12年創刊)から読み始めました。その時いきなり出てきたのは落語ではなく、松本喜三郎の「西国三十三所」の生人形の人気ぶりを伝える記事で、ほぼ毎日載っていました。もちろんこの時は喜三郎も生人形も何の知識も興味もありませんでしたが、何かの折にそのことを肥田先生に話したら、朝倉無声の『見世物研究』を御紹介くださり、大木透の『松本喜三郎』を貸してくださいました。両書ともなんとも面白く、貪るように読みました。これが「見世物」との出会いです。その時から興味のベクトルは落語から見世物へと大きく振れたのです。

仕事に就いてからはなかなか時間がとれなくなりましたが、数年かけてともかく大阪朝日新聞の明治時代を通読しました。関連記事を書き抜きながら、見世物の世界がどんどん広がっていくのを実感しました。その後多くの新聞記事を閲覧することになりますが、この時の体験がベースにあります。

数年間中断していた時期もありましたが、不思議と見世物に対する興味は途切れることなく、新聞や本などからコツコツとカードを貯めていきました。そして五十五歳で退職し、ようやく時間的な余裕ができた時、いままで調べてきたものをなんとか残したいという気持ちが湧いてきました。その方法を模索していたとき、友人からブログの存在を教えられました。いろいろ調べてみて、確かにこれが最適であると判断し、原稿の準備をすすめ、平成232011)年17日に第一回目の投稿をしました。

「この見世物興行年表は江戸から明治まで三百年余の間に行われた見世物興行を文献から抽出し、年表としてまとめようとするものです。江戸は後回しにしてまず明治元年から始めます」と第一回の「蹉跎庵だより」に書いています。

それから十年、我ながら飽きずによくやったと感心しています。お蔭で納得のいく年表を作ることができました。しかしまだまだやるべき課題はたくさん残っています。これからも、より高みを、より完璧を目指して、残る努力を傾けていくつもりです。

余談になりますが、今年丑年は私の当たり年で、三月がくれば七十二歳になります。東大阪市御厨の農家の子に生れ、中学生までは田圃や畑が生活の場でした。家には耕作用の牛も飼っていました。やがて都市化の波が押し寄せ、宅地化がすすみ、農地は借家(文化住宅)に変容していきました。我が家もその渦中に呑みこまれ、いつの間にか不動産賃貸業になっていました。書斎(という程のものではありませんが)にしているこの部屋も父が四十余年前に建てた賃貸マンションの一室です。

私の本名は樋口保美(ヒグチヤスミ)と言います。男性です(念のため)。「蹉跎庵主人」というブログネームは『徒然草』より採りました。

 「人間の儀式、いづれの事か去り難からぬ。世俗の黙しがたきに随ひてこれを必ずとせば、願ひも多く、身も苦しく、心の暇もなく、一生を雑事の小節にさへられて、空しく暮れなん。日暮れ途遠し。吾生既に蹉跎たり。諸縁を放下すべき時なり。信をも守らじ。礼儀をも思はじ。この心を得ざらん人は、物狂ひともいへ、うつつなし、情なしとも思へ。毀るとも苦しまじ。誉むとも聞き入れじ」(百十二段)

 若い時から世間の付き合いというのがとかく苦手で、昔からこの段がなんとなく好きでした。そして年齢を重ねるにつれ、増々これが心に響いてきます。ですから、ブログネームをつけるとき、「蹉跎庵主人」という名はごく自然に浮かびました。

 「ひとり灯のもとに文をひろげて、見ぬ世の人を友とするぞ、こよなうなぐさむわざなる」(十三段)も好きな段です。

日々変化する生駒山を眺めながら、ひとり、喜三郎や亀八や虎吉や藤治らのことを想い、ブログの構想を練っているときが一番心なぐさむる時です。

 

令和326日(土)

 この度国立劇場から「見世物資料図録」が刊行されました。

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  旧知の川添裕
(横浜国立大学大学院教授)のお声がかりで、私も少しお手伝いさせていただきました。国立劇場が四十余年にわたり収集してきた見世物関係資料五百余点をオールカラー(208頁)で掲載した図録です。自分で言うのもなんですが、一般的な図録(目録)とは違った、二人のこだわり満載のなかなかユニークな図録に仕上がっています。中味は見てのお楽しみ。ぜひ一度お手にとってご覧ください。
 お問い合わせ:文化堂オンラインショップ https://store.shopping.yahoo.co.jp/bunkadou/1-830.html

 

令和3221日(日)

国立劇場所蔵 見世物資料図録』が刊行されたのを機に、この図録に収載された資料の内、初見で、かつ年代が確定しているものを「見世物興行年表」に入れさせてもらいました。追加した資料は以下の64点です(番号は『図録』の図版番号)。これにより一段と「年表」が充実したものになり、この度の国立劇場の資料公開には感謝の念がたえません。またわずかながらそれのお手伝いが出来たことを光栄に思っております。

1、曲芸

 早竹虎吉    13118124128

 桜綱駒寿    136144

 竹沢藤治・万治 14547152160166169175183187

 力持      1971101

 養老滝五郎   1107109

 菊川伝吉    1110

 増鏡勝代    11271128

 立神徳寿    1138

 両国松之助   1163

 花川小鶴    1183

 エッチ・ゴチエ 1206

 アームストン  1217

 ノアトン    1233

 アボット    1234

 ジャグラー操一 1247

 松旭斎天一   1274276

 松旭斎小天一  1278

 松旭斎天勝   128028412933001302130513061309

2、細工見世物

 松本喜三郎   25211214216
 
木馬      285

 日本パノラマ  2110

4、その他

 蜘蛛男(養老勇扇) 435

 大男(詹五九)   433434

 浅草花屋敷     419421


令和3310日(水)

新聞等で報道されたのでご存知と思いますが、222日に肥田晧三先生が逝去されました。初めてお目にかかったのは昭和50年の夏だったと記憶しています。本格的に先生のご指導をうけるようになったのは昭和631月に大阪芸能懇話会が出来てからです。毎月一回、少人数で先生を囲んで、ご持参の資料を見ながらお話をたっぷり聞くという贅沢な会で、コロナで中断する昨年の2月例会まで休みなく続きました。本当にいろいろなお話を伺いました。秋には史蹟散歩に出かけました。倉吉や伊勢などへ一泊旅行したこともあります。語り出せば思いが溢れて止まらなくなるのでこの辺にします。お送りした「見世物資料図録」は220日に届いたそうです。間に合いました。お返事は224日に届きました。「立派にできました」と誉めてくださいました。

令和3311日(木)

日本手品の名作浮かれの蝶で知られる柳川一蝶斎の代々はずっと気になり、折に触れてメモしてきましたが、三代目と認定された青木治三郎以外の一蝶斎の実体はいまだに掴めないままです。とにかく難しい。調べれば調べるほど、下品な言い方ですが、ど壺に嵌まる感じです。そんな不完全なものをアップしてもいいのかとだいぶ迷いましたが、現在の私にはこれ以上の進展は望めず、とにかく今まで調べた分を列挙することにしました。今後歴代の一蝶斎の研究がすすみ、それぞれの履歴がしっかりと解明されることを願ってやみません。

令和343日(土)
 手品師・柳川一蝶斎につづいて養老滝五郎をまとめてみました。今回もまたすっきりしないままの発表となりました。一番すっきりしないのは弘化3年に江戸両国で刀の刃渡りを演じた養老滝五郎です。もっとも華々しい興行をした滝五郎が誰なのか確定できないというのは何とも情けないかぎりです。刃渡りの芸そのものも孤立化しており、伝承の影がみえません。前回に続いて願望ばかりですが、今後これに関する資料が発見され、すっきりと解明されることを願ってやみません。
 今回も長野栄俊氏の著作に大いに助けられました。この場を借りて感謝申し上げます。

令和3425 
 迷亭が買ったばかりの帽子をぐるぐる丸めてふところに入れた。それを見ていた細君は「不思議です事ねえ」と帰天斎正一の手品でも見物しているように感嘆した。右は『吾輩は猫である』第六章(明治
38年)の一場面です。
 この手品師・帰天斎正一をまとめてみました。柳川一蝶斎や養老滝五郎と違って、今回は本人一人だけなのでどの正一かと迷うことなく、その分とても楽でした。現時点でわかる範囲は全部詰め込んだつもりです。ただ没年がどうしても判明しませんでした。それだけが心残りです。

令和3919日( 
  文久
3年に江戸両国広小路で見世物になった象はたくさんの錦絵が描かれました。大判錦絵一枚摺に限ってみても、図録や古書目録、ネット検索等で確認できただけで芳豊20枚、芳盛7枚、芳形2枚、芳幾2枚、芳員1枚、二代広重1枚、了古1枚、合計34枚ありました。先日も東京の古書店より目録が送られてきたのを見ると、芳豊の象の錦絵が出ていました。こういう時はいつも切り抜いて象のファイルに貼り付けて値段の移り替りを眺めるというちょっと下卑た楽しみを持っています。今回も芳豊の所に貼り付けようとしてファイルを繰ってみたのですが、20枚の中に同じものがありません。「えー、まだ未知なのがあるの」と驚き、目録到着より一日遅れでしたが慌てて電話すると「まだ売れていません」というご返事で、すぐに注文して送っていただきました。今日ブログに21位枚目の芳豊の象をアップしました。どうぞご覧ください。それにしても一体象は何匹いるのやら。
  最近「見世物興行年表」の更新を怠っています。以下は言い訳になりますが、私がもう一つライフワークとしているものに上方落語史の研究があります。こちらも明治から昭和20年までの年表を丸屋竹山人さんと一緒にまとめていますが、その過程で上方落語家事典を作りたいという思いが日に日に強くなり、露の五郎兵衛から始めたところ、すっかり嵌ってしまいました。現在48名書き終えました。「上方落語史料集成」(リンクしています)にアップしていますので、よろしかったらこちらもご覧ください。最終的には百人前後になる予定で、まだしばらくは「見世物興行年表」は疎かになりそうです。



misemono at 15:20|PermalinkComments(0) 更新履歴(令和3年) 

2021年04月24日

手品師 帰天斎正一①

 帰天斎正一

IMG_20210423_0004本名波済粂太郎。天保14年(18439月、江戸浅草吉野町の古足袋屋の倅として生れる。

 『文之助系図』に「三代目正楽后ニ西洋手品トナリ」とあり、初めは林屋正楽という噺家だった。師匠は三代目林屋正蔵又は四代目正蔵のどちらかで、確定していない。因みに三代目正蔵は嘉永3年(1850)に三代目正蔵となり、安政4年(1857)に二代目左楽と改名している。明治初年に死亡。四代目正蔵は慶応元年(1865)ころ正楽から四代目正蔵となった。明治12年没。正一の年齢から考えると、弟子を沢山持った四代目正蔵の方が自然と思われる。

 いつごろ手品師に転向したのか詳しい年月は不明だが、晩年の大正4年に出した『和洋奇術種あかし』という本に、ヨーロッパで「バネツキ」の手品を見て、これを覚えて、明治7723日に帰国し、初めて西洋手品という看板を出して寄席へ出たとある。

 もちろん洋行話は営業上の法螺である。彼の言う「バネツキ」とはハンガリー人のヴァネク(Joseph  Vanek)のことで、明治73月に横浜ゲーテ座で公演している(当ブログ参照)。正一はそこでかれの手品を見たのであろう。正一が「帰国」した日付と何となく符号する。

 やや後年の資料となるが、雑誌『都の華』第58号(明治359月)に「それから明治十年ごろ英人夫妻の手品遣が来た、これは上品の側であツた、それを林屋正楽が直ぐ真似をして、帰天斎正一と改名して西洋手品をはじめて中橋の寄席に演じた」とある。

 この「英人夫妻」とはイギリス人のヴェルテリ夫妻(Mr.and Mrs. Vertelli) のことで、明治811月、12月に横浜、明治92月、3月に東京築地、101月、8月に横浜で公演した記録がある(当ブログ参照)。ともに影響を受けたのであろう。

 正一の初期の高座の様子を伝える最も古い記録は明治9724日の仮名読新聞で、「葺屋町大路次(九番地)の寄席高麗亭は、(ママ)天斎正一といふ者が出席で、其看板に基督が十字架を背負ひ、血だらけな姿を書き、木戸銭は八十(やそ)の八十文、耶蘇教の話しをするので、炎暑(あつ)い白晝(ひるなか)随分聴主が詰かけます。近日、彼正一先生が十字架に懸かり、見物に鎗で突かせるといふ触込みで大評判」とある。

 明治6年にキリスト教禁止令が解かれ、文明開化の流れをうけて劇場等で盛んに耶蘇講義が行われた。しかし庶民の間では依然切支丹伴天連の妖術のイメージが根深く、西洋手品師たちはその双方の流れをうまくミックスして、新時代の演出法を考案した。上掲の十字架磔とその復活の手品などはその典型であろう。

 もう一つ、正一の初期の高座を伝えるのによく引かれる記録に『芸術叢誌』23号(明治1111月)がある。洋服を来て登場し、言葉使いも西洋人の真似をして演じて、寄席の常連客から顰蹙をかっている。

「帰天斎正一の術は実に奇々妙々、一点の打ち所もないが、其口上に於て甚だ不都合、丁度日本へ来て三四月も居たと云ふ位の西洋人の仮声(こわいろ)で『アナタ見ル宜シイ』『疑(うたがい)アリマセンカ』の如き言詞(ことば)を態々遣ふには実に興がさめる。洋服で高座へ押上るさへ手品師にしてはドットせぬ所でコンな片言を遣ふは全体どうした者かと外神田の春田さんからお小言ですが敝社に於て此御答は何トモハヤ」

 日本に幻灯機が渡来したのは江戸時代後半だが、明治になると政府、民間とも多方面に使われるようになる。西洋手品師も従来の写し絵(上方では錦影絵)と区別して「西洋写し絵」と称してこれを用い、特に地方巡業の時は必ず持ち歩いて、手品のあとでこれを写した。明治1134日の東京絵入新聞に「写し絵(幻燈)」をしたことが記されており、正一も早くからこれを使用していることが分かる。

 東京の寄席で西洋手品の人気を確立した正一は、明治13年に大阪へ進出、正月元日より道頓堀中の芝居で幕を開けた。招聘したのは大阪の興行師竹市で、いきなりの劇場公演で危惧されたが、結果は大入り満員、初日より二十四日迄で三千円利益を上げる大成功だった。

 このころの帰天斎正一の人気は、明治15年に春木座初演の黙阿弥作の「魚屋の茶碗」のセリフに正一の名が登場するほどであった。また群馬県高崎、宮城県仙台、北海道函館などへ巡業し、成功を収めた。

 明治194月、京都四条北側劇場へ出演した。辛口の投書もされているが、皿廻し、火吹き術、時計の修理、不思議の徳利、写し絵等を演じ、おおむね好評であった。このとき同業の吉田菊五郎とジャグラー操一が3月より京都新京極で興行していたが、正一が舞台上で彼らの悪口を言ってしまい、大紛擾を引き起こした。当時を代表する手品師の三人だけに、新聞は恰好のネタを得たとばかり面白おかしく書立てた。正一の性根の一面が垣間見られてなかなか興味深い。

 明治20325日から525日まで上野公園内で東京府工芸品共進会が開催された。正一は閉会間際の5月の初めに手品で使用する器械を展示、実演したき旨を出願して許可された。よく許可されたものと思うが、どのようなことをやったかは残念ながら伝わっていない。

 従来、帰天斎正一が明治2057日に有栖川邸で天覧の栄誉を得たとされているが、それを報じたのは「時事新報」のみで、「郵便報知新聞」「東京日日新聞」ほかの新聞にはこの事実は見当たらない。伝聞による誤報であろう。実際の天覧奇術は明治222月である。

 明治217月、正一は宮城県仙台にいて「文明奇観術」と題して手品と幻燈をやっていた。その興行中の715日、福島県会津磐梯山が数回に渡って大噴火を起し、477人が犠牲になるという大災害が起こった。正一はすぐさまその写真を手に入れ、山形で幻燈会を催し、実況解説をやった。今でいうニュース速報である。

 同年11月、東京の寄席は三遊亭円朝の三遊派と柳亭(のち談州楼)燕枝の柳派の二派に分かれた。帰天斎正一は三遊派に所属した。

 明治22211日、大日本帝国憲法が発布され、宮中に於て式典が執り行われた。式典の後、いろいろな行事が行われたが、この時正一は学問所に召され、天皇、皇后の面前で西洋手品数番を演じた。正一は前代未聞の栄誉なりとて、224日、日本橋の柏木楼に寄席関係者、贔屓の旦那衆、新聞記者等を招待して盛大な祝宴をひらいた。まさに生涯の名誉であったろう。因みに松旭斎天一が天覧奇術を演じたのは明治2574日である。この時、間違って「帰天斎正一」と報じた新聞が多かった。

 この年の8月、長野県と新潟県へ出掛けた後は、地方巡業の記録は見つからない。東京で寄席に出る傍ら、様々な会に出席して得意の西洋手品を演じている。

 年月は過ぎて明治348月、「改良演芸」と銘打って、松林伯円と二枚看板で大阪へ来て、二十二年ぶりに道頓堀中座へ出演した。その後京都の笑福亭、金沢の福助座で公演した。笑福亭の高座では前口上で、「天覧を蒙りたるは芸人では市川団十郎と自分だ」と吹聴して大得意だったという。

 明治404月、三度来阪し、道頓堀弁天座で公演した。この時は既に引退していたのだが、モード・アンバー嬢という妖しげな一座に乞われて座長としてやってきた。京都の南座でも公演したが、座長とは名ばかりで、売りのモード・アンバー嬢とは給金、待遇その他は格段の違いで、嫌気がさし早々に帰京した。

 大正4年、『和洋奇術種あかし』という本を東京の三芳屋書店から出版した。この年数えて73歳である。上掲の写真はこの本の口絵に載ったもの。いくつか挿絵もついているが、禿頭白髯の好々爺である。
 いつ死亡したのか遺憾ながら分からない。岡鬼太郎「演芸当座帳」(文芸倶楽部・第
241号・大正71月)に、近頃信州長野に引籠って善光寺近くで売卜を業をして安住しているとあるが、真偽の程は確かめようもない。

 

【参考資料】帰天斎正一に関する資料一覧(年代順)

明治9

明治9724日 仮名読新聞

「葺屋町大路次(九番地)の寄席高麗亭は、(ママ)天斎正一といふ者が出席で、其看板に基督が十字架を背負ひ、血だらけな姿を書き、木戸銭は八十(やそ)の八十文、耶蘇教の話しをするので、炎暑(あつ)い白晝(ひるなか)随分聴主が詰かけます。近日、彼正一先生が十字架に懸かり、見物に鎗で突かせるといふ触込みで大評判」

〈編者註〉この記事は復刻版「仮名読新聞」に記載されておらず、『実証・日本手品史』より孫引きした。普天斎は帰天斎の誤記と思われる

明治98  番付「落語業名鑑」(『日本庶民文化史料集成』第八巻) 

 上等 帰天斎正一

明治91111日 仮名読新聞

「此頃浅草馬道の金龍亭で大入な帰天斎正一は、先月のはじめ駿州静岡石町の朝日亭といふ席へ出て、耶蘇教講談開化の早学文といふ招牌を掲たが、土地柄ゆゑか入が少く、底で正一も気を揉出し、近處の心安い百姓から馬を一頭借来り、其馬を木戸へつなぎ、馬の首切と云びらを出したゆゑ、其夜は来たとも〳〵、八百人程の入が有と、正一は高座へ上り、扨今ばんはお客様の目のまへで馬の首を断(きり)、すぐ継でお目に掛ます處なれど、薬が間に合ませんゆゑ、今ばんは半札でとお客を返し、また翌晩も馬の首見ようと云ので爪もたゝぬ程の入、その日も薬が間に合ぬと胡麻菓子て仕舞と、三日目の晩は又一層の大入で、正一が高座へ上ると、近村の若い者が十四五人立上り、サァ今夜は是非とも馬の首を断て目の前で継で見ろ、二晩己れにつられて居たが、今仕なければ踏殺すぞと大勢に責付られ、帰天にあらぬ不体裁、西洋手品も間に合ず、下から席亭が上つて来て、お客をなだめて居内に、正一は爰が切支丹の波天連流と、裏口よりドロン〳〵ときめ込んで、駿州を逃出し、東京へ来てはそんな真似も仕ないやうだが、あまり馬鹿〳〵しい咄しだから、チト遅まきながら報知(しらせ)ると浅草の八十郎さんから投書」

明治10

明治10320日 読売新聞

「西洋手づま遣ひの正一といふ男は、感心なことには浅草吉野町の開明学校へ子供の靴を十足寄付いたし、試験によく出来た生徒へこれを遣ッて下さいといひましたが、金持の大家でさへ学校資金の苦情をいふ中で」

明治1067日御届 番付「会華高名三業一覧」(国立国会図書館蔵「諸名家番附帖」)

 那[耶]蘇談 開化早学 帰天斎正一

明治10年中秋 番付「五光雷名競」(国立国会図書館蔵「諸名家番附帖」)

 耶蘇講義 帰天斎正一

明治101013日 かなよみ

「浅草新福井町の新福亭といふ寄席では、去る十日、総督の宮御凱旋のお祝ひと、二つには賊徒平定萬民鼓腹の惣名代、カンカラ〳〵太鼓を叩いて、見物は無銭で入れ、帰天斎正一が西洋てじなの大機械を見せ、大切には餅をまいて、定連には酒を振まい、おめでたい〳〵と祝したといふが、小川町の松風亭と一対の侠客肌、是からは猶大入でありませう、能い心がけだから」

明治101121日御届 番付「東京俳優落語高名競」(国立国会図書館蔵「諸名家番附帖」)

 開化□□ 帰天斎正一(西前頭十七枚目)

明治11

明治1136日 東京絵入新聞

「深川猿に寄席を渡世にして居る(富山亭)遠山鎌太郎の席では彼西洋手品をする芸名(帰天斎正一)通称波済粂太郎が出て、一枚の天保銭を目の前で幾枚にかして蒔たり、種々妙な事をして見せた末に、写し画をするとて席中の燈火を消たので、一昨日の晩、席亭は素より手品遣ひ正一も其筋へ拘引されたさうだ。予ての御布告(ふれ)もあるにネエ

明治1183日 なまいき新聞(『明治の演芸』)

「当世のきけもの流行子の巨魁(おやだま)を、古めかしいが五幅対にひっくるめて。

 手品 帰天斎正一 養老瀧五郎 柳川一蝶斎 菊川都雀 柳川文蝶斎」

明治11112日 東京日日新聞

「近ごろ、西洋てづまの招牌(かんばん)を掲げて世に行はるゝ帰天斎正一と云ふ者あり。去月二十六日の夜は、麹町三丁目の万吉亭にて鶏の首切を興行せしに、暗図(あいづ)にうつ短銃(ピストル)の中に小砂利が混り居りて、前に居たる同所の南方亀之助が忰の十になる銀二郎が左の目にあたりたり。アッと云ふ声に驚きて正一は高座より飛び下り、席亭も走り来りて種々介抱し、取敢ず医者を招きて療治させ、扨て正一より亀之助へ段々に詫び入しが、何分銀二郎の眼玉が助からぬとのことにて示談も調はず、昨今表沙汰になるべしとか云へり。ナンボ人の目を暗ますのが職業でも、正真(ほんとう)の眼玉を潰しては済むまい」

明治1111月 『芸術叢誌』23(『実証・日本の手品史』より孫引)

帰天斎正一の術は実に奇々妙々、一点の打ち所もないが、其口上に於て甚だ不都合、丁度日本へ来て三四月も居たと云ふ位の西洋人の仮声(こわいろ)で『アナタ見ル宜シイ』『疑(うたがい)アリマセンカ』の如き言詞(ことば)を態々遣ふには実に興がさめる。洋服で高座へ押上るさへ手品師にしてはドットせぬ所でコンな片言を遣ふは全体どうした者かと外神田の春田さんからお小言ですが敝社に於て此御答は何トモハヤ」

明治11128日 読売新聞
「昨日芝公園内の天光院にて催された海軍士官の水交会には河村海軍卿を始め榎本海軍中将、前島内務少輔、石井権中警視其ほかの方々も参られ、

福沢先生と松林伯円の演説が有ッたのち、帰天斎正一の手品や日吉吉左衛門の東能などにて大層盛んで有ッたといふ」

明治12

明治12年(1月) 番付「落語人名鑑」(『日本庶民文化史料集成』第八巻)

 帰天斎正一(上段)  帰天斎一学(最下段) 帰天斎正三(最下段)

明治12年夏 番付「東京名誉二個揃」(『日本庶民文化史料集成』第八巻)

 奇画 夲 々 猩々坊暁斎 

 奇芸 車サカ 帰天斎正一

〈編者註〉この頃の正一の現住所は下谷車阪町八十九番地。

明治13

明治13123  読売新聞

「東京でも大評判であッた西洋手品の帰天斎正一は此ごろ大坂へ行ッて道頓堀中の芝居で興行して居るが、例の妙芸に大坂の者は肝を潰し、魔法を遣ふかと疑ふほどにて、爪も立ぬ大入ゆゑ去る十八日には渡辺府知事も見物に参られたので、一層大評判でありますと」

明治13124日 郵便報知新聞

「道頓堀中芝居にて帰天斎といふ手品遣(てづまつか)ひが、今月一日より開場せしに、芸術の奇妙なること真に看客の目を驚かすを以て、初日より昼夜とも大入大繁昌にて、其評判全都に高ければ、去る日渡辺府知事にも一見されたりと」

明治13127日 朝日新聞

「一月一日より道頓堀中の芝居にて興行なす帰天斎正一の手品は、興行方と太夫元との歩持にて、非常に世人の喝采を得しより、既に去る二十四日迄、三千円の利益を占めしと。是が本年(ことし)の儲の一等」(朝日)

 【絵画資料】

①≪絵ビラ・木版墨摺・芳重画・出版人玉置清七≫(南木コレクション大阪城天守閣蔵)

明治13年 011

 (表題)「元祖 西洋手品」。表題下に「帰天斎正一・太夫元竹市」。

   (袖)「明治十三年辰一月一日より道頓堀中の芝居におゐて」。 

②≪絵ビラ・木版墨摺・出版人玉置清七≫(南木コレクション大阪城天守閣蔵)

めいじ 009
  

 (表題)「元祖 西洋手品」。表題下に「帰天斎正一・太夫元竹市」。

  年代、興行場所記載なし。絵柄は上記とは別。御霊神社へ移ったときに摺られたものか。

明治13131日 朝日新聞

「道頓堀中の芝居にて喝采取りし帰天斎の手品は、二月一日より御霊神社の境内の小家に於て興行なすとの噂」

明治13229日 京都日日新聞『近代歌舞伎年表・京都篇』より孫引

「彼西洋手品を以て国内に喝采を博したる帰天斎正一は、近々の内、四条南側にて其技を興行する由にて、既に其招牌を掲げたり」

〈編者註〉この興行に関するその後の新聞記事はなく、実際に行われたかどうかは不明。

明治13618日 読売新聞

「東京でも評判よく大阪でも当りを取ッた手術師(てづまつかい)帰天斎正一は、浅草吉野町の古足袋屋の倅にて粂太郎といひしころより器用なる性質ゆゑ、西洋手品を稽古して是までに成ッたが、まだ独身ゆゑ(編者註:女房を探すうち、お徳という女性と同棲するようになり、妊娠までさせたが、結婚する気はないと逃げをうっているという)。芸人の薄情なのは今さらの事でも無いが、不筋な事をしては夫ぎり芸は揚りませんよ」

〈編者註〉619日に続報あり。お徳にこの記事の訂正を求めたが断られ、暴力をふるって警察に拘引された。さらに625日に続報が出、正一ばかりでなくお徳もなかなかの者とわかりしゆえ、この一件はひとまず取り消しとある。

明治14

明治141月 番付「高名一覧」(『日本庶民文化史料集成』第八巻)

 西洋手品 帰天斎正一

明治14513日 郵便報知新聞

「西洋手品師帰天斎正一が、此頃上州高崎にて興行中、殊に得手なる縄脱けの技は衆人の喝采を得るゆゑます〳〵其奇を見せんとて、去る八日は背(うしろ)手に西洋錠を掛け、其上を長さ八尋もある太き縄にて厳重に縛らせ、イデ脱けてお目に掛んと云ふ處へ、警察署の吏員が立向ひしかば、帰天斎は驚いて、得手の縄脱けも急には施しかね、マゴ〳〵するゆゑ、吏員は打笑ひ、技芸とはいひながら手錠や縄脱けを見物させるは不都合なればそれだけ止めにすべしと云渡されるにて、まづ安心したりと」

明治1412月 番付「東京遊芸社会一覧」(『日本庶民文化史料集成』第八巻)

 西洋手品 帰天斎正一

明治15

明治15521日 読売新聞

「去る十九日の紙上に西洋手品師帰天斎正一が写絵の玉を島津公へ金二百円にて譲り渡したとしたは誤聞にて、全くは金千円にてお譲り申し上げ、直に金子をお渡しになりしゆえ、其金子にて公債証書を買入れ、泉屋両替店へ預けましたと本人よりの弁駁」

明治15年 春木座初演「三題噺魚屋茶碗」(『黙阿弥脚本集』第十八巻)

(二幕目:下谷坂本入口の場の最初)

 藤次 今夜は北風が吹くせいか、坂本の寄席の囃子が大層近く聞えるな。

 善吉 それに出物が西洋手品の帰天斎正一だから、囃子を聞いても面白さうだ。

 権太 西洋手品もいくらもあるが、人のしねえ事をするから、何所へ出ても帰天斎の、客の来ねえことはねえ。

明治16

明治16220日 読売新聞

「昨日は芝紅葉館の開館第三週年につき発起人より府知事、書記官と芝区長を招待して宴会を開かれ、余興に帰天斎正一の西洋手品など有りて大層盛宴なりしとぞ」

明治16316日 絵入朝野新聞(『明治の演芸』)

帰天斎正一は此頃おのが手品の品玉くしげ、箱館へ高砂丸で押渡り、同所宝町といふ席へかかり、例のシーピッポで看客沢山の大人気と、的が得意(おはこ)のカルタに似よった端書郵便で種を此方へ通はせました。カンカラ〳〵」

明治16726日 奥羽日日新聞

「大写真鏡 当仙台区東一番丁大新亭へ一昨日の夜より、東京下り帰天斎の大写真西洋手品が興行になりしが、大評判なり」

明治16728日 奥羽日日新聞

「西洋手品 前号にも記せし当仙台区東一番丁大新亭に興行の帰天斎正一が西洋手品は、存外の景気にて、手際の奇麗なるに人々目を驚かせり。又、三遊亭三朝の滑稽話しは中々面白可笑(おかしく)、実に幕代りのスケには惜いもの。『真実(ほんとう)に何云宜(なんちゅうえん)でがすべい。己等(おらあ)今夜も行て見る積り』『大切の写真鏡ばかりでも、三銭丈の物は有(がす)ぺッ茶』『中入前の茶番はお負けとは見えず、中々上手では有(があ)せんか』と、長家住居の娘(かかあ)連中が明朝(あした)の米(よね)をすましながら、井戸端評判を其儘写し絵」

明治168月 「新作咄面白雙六」(国立国会図書館蔵)

 画工:安藤藤兵衛 出版人:浅草・上村清左衛門・明治168月御届。

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【参考資料】

明治1631日 奥羽日日新聞(『明治の演芸』)

「大新亭 同亭に興行中なる元は印度のアレキハースン、今は日本の前田正二が手品は、中々の景気なりと。
  〔編者注=初日は二月十九日〕」

〈編者註〉この当時、西洋手品を標榜する連中がみんなやったように、彼もまた印度人アレキハースンと名乗って舞台に出ていた。このあと山形へ行き、四月十二日より丸万座で興行している。また翌174月より新潟永楽座の記録もある。以下の絵ビラ(「各国元祖 奇妙成手術 元インド国人アレキハースン 前田正二」河合コレクション)は年代・興行場所不祥ながら、彼の記録が以上の三か所しかなく、この時、これを持ち歩いていたと思われる。

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 同じく河合コレクション(『近代日本奇術文化史』所収)に「各国元祖 奇妙成手術 帰天斎正一」という絵ビラが存在する。ご覧になればお分かりのようにほとんど同じである。どちらが真似たかは言わずもがなであろう。「當ル九月十七日夜より晴天七日之間 下傳馬町旭亭」(現在の静岡市葵区伝馬町)とある。年代は書かれていないが、前田正二がこれを真似たとすれば逆にこの絵ビラの年代を推定できる。

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なお明治9年の仮名読新聞に「駿州静岡石町の朝日亭」とあり、「下傳馬町旭亭」と同じ席亭と考えられるが、いくらなんでもそんな昔のものを真似たまま使っているとも思われず、前田正二の活動時期も限られることから、明治145年頃と考えるのが妥当であろう。




misemono at 20:57|PermalinkComments(0) 手品師・帰天斎正一 

手品師 帰天斎正一②

明治17 

明治17127日 読売新聞

「起業会 昨日午後三時より神田明神社内の開花楼にて催されし写真器械薬種商浅沼藤吉氏の第三回起業会は府下有名の写真師、薬種問屋の人々等六十余名参会され、余興に帰天斎正一の手品、八平の福禄寿等あり。殊に会主の小林玄同氏の手品は愛嬌ありて人々も興に入りぬ」

明治171125日 今日新聞(『明治の演芸』)

「手品師の女房 遠からんものは人寄太鼓の音にも聞け、近くは寄て高座の下(もと)夜昼通ふ人々が奇異(ふしぎ)に眼驚ろかす奇妙化転の芸道は、吾国一流一人(いちにん)と寄席の牌(びら)にも一枚看板下谷区新黒門町三番地の帰天斎正一の女房お琴(三十四)といふは…(以下略)」

明治1712月 番付「落語鏡」(『落語の歴史』)

 西関脇 てじな 帰天斎正一

明治18

明治1814日 東京横濱毎日新聞

「万竹亭の騒ぎ 横浜馬車道の万竹亭にては、此一日より有名の手品遣ひ帰天斎正一が掛かりしにぞ、同夜は非常の大入りにて五百人ばかりの客ありしに、十一時過ぎ打出しになる折りしもあれ、三階上り口なる八畳敷計りの処の床が抜け落ち(編者註:数人が怪我をした)」

明治1811月 番付「落語家名誉競」(『明治の演芸』)

 東張出大関 西洋テシナ 帰天斎正一/中軸 テシナ 帰天斎正妙

 下段東関脇 テシナ 帰天斎正若/下段西前頭六枚目/テシナ 帰天斎正丸 

明治19

明治19116日 東京日日新聞

116日より上野広小路鈴本と通新石町立花亭の寄席に出席。

明治1939日 燈新聞(『明治の演芸』)

314日、東両国井生村楼にて第二十回亦有会を開催の余興に出演、「人体噴火の奇術」を演じる。

明治19331日 日出新聞

帰天斎正一 客年来、東京・横浜の間にありて久しく興行し、其都度大喝采を博したる手品師帰天斎正一は、近日京都に来り、四条北側劇場(しばゐ)にて、今度また更に外国人より伝習したる諸芸三百余種を悉く興行するといふ」

明治1946日 中外電報

帰天斎正一 数日前より四条北の劇場に於て興行する帰天斎正一の西洋手品は、兼て其名を聞き居たることゆへ如何なる妙術やあると昨夜両三名申し合せ右手品の見物に出掛けたるに、成程其術の敏捷にして鳥渡観客の目を誑かすに足るところなきにあらざれど、其演ずる所ろは大抵古めかしき事のみにて、先日来新京極に於て演ずるジヤグラー操一と一向変りし事なかりし、是に於て観客の中にはソロ〳〵帰り掛るものもあり、又其技の新奇ならざるを怒るあり、斯かる手品は既に五六十年前より演ずるものなり、太夫さんドーカ帰天斎正一ならでは出来ぬといへる技術を観せよと叫ぶものも聞えたるが、観客の悪口にや励まされけん、夫れより以後は漸く新奇なることを演じ、前の譏りに変へて名誉を回復したる如く、中に就て口より火を吹き、時計に発砲し、錦絵の打変へ、其他両三番は余程観客の喝采を得たり。

 然るに当夜最も可笑しきは一瓶の玻璃徳利より観客の望に応じて数種の酒を注ぎ分くるに、二箇(ふたり)の婦人(余り美くしからぬ御面相)ありて、一々飲まんとするものゝ手を握り、然る後瓶を傾て酒を出すを楽みてや、観客の中より我れも〳〵と其酒を請ひ、嬉しげに婦人の手を握るは例つもながら京都人種の鼻下長を嘆き、傍腹(かたはら)いたく思ひたり(嫉妬にてはなし)、観客の鼻下長は兎に角、帰天斎が其技術の巧妙を以て観客を引かずして婦人の手を仮りて人気を取らんとするはチト感心せざる所なり。ジヤグラー操一は却て婦人の手を用いずして六種に酒を注ぎ出すなり。

 偖て同手品を一二言に評すれば、技術が細かなることのみにて始終場所の広濶なるに釣合ず、今少し大きな手品をなしたき事なり。序に一言述べ置くは、同手品の桟敷代は二十銭、場代は十二銭とあれども、桟敷の如き何とか蚊とか名を付け外に二十九銭、合して四十九銭を貪り取れり。表に安く直段(ねだん)付を掲げ中に入て余計な金銭を貪るは京都の従来の悪弊ながら、二十銭の桟敷代に付加して二十九銭を貪るとは甚だもつて不都合なり。帰天斎の手品は如何に巧妙にても四十九銭に桟敷代とは少し高すぎの様に思はる。是は席元と太夫と協議の上直段を安くするか、中銭を貪らざる様にせぬと観客は聚(あつま)らざるべし云々と、昨日魔次九郎といへる人より小言たら〳〵の投書あり」

明治1948日 日出新聞

帰天斎正一 三日より北の芝居に木戸を開きし帰天斎の手品は、数年練磨の程ありて頗ぶる見物の目を驚かせり。一昨夜演ぜし中に皿廻しの一曲は、たゞ指頭運転の妙に有りて、思はず喝采の声を挙たり。幻燈絵(うつしえ)は鮮明にして着色の光彩真に迫り、尤とも美麗なりしは洋中汽船焼亡の図なりき。又天体星宿の運動は学童の見て可なるものなり。其他数番を演ぜしが、最期には例の火噴(ひふき)をなして人の気を寒からしめたり。尚、今明日よりは追々新奇の芸術を演ずるといふ」

〈編者註〉この興行中、正一が同じく京都で興行中のジャグラー操一と吉田菊五郎に対し、舞台上で悪口を言って、大紛擾が引き起こしている。以下はそのことを報じた記事。

明治19410日 日出新聞

手品師三人 四条北の劇場(しばゐ)の帰天斎正一が舞台にての口上に、道場の吉田菊五郎と笹の屋席のジャグラ操一を誹謗するの語気を演(のべ)たりとの事にて、操一より何かむつかしき手紙を送り、同業の好誼(よしみ)を破りたりとの言分を持込むと、正一は之に構はず、菊五郎の方へ立派な菓子箱を贈りたり。菊五郎は之を幾代席の文廼家文之助に語りて其扱ひ方を依頼せしかば、文之助が仲裁に立んとて、先斗町の席貸笹徳方へ三人の手品師を招き仲裁説を立たるに、一旦は三人とも承諾(うけひき)て、此後水魚の交りとか喃(なん)とか定文句の酒となりしが、酔ての上の言葉争ひから互ひに一つ二つ言募る處へ、正一の木戸の四郎音とかいふ者が入来りていよ〳〵喧嘩に花が咲き、其場は滅茶苦茶に立別れて、未だゴタ〳〵して居るよし。三人とも上手の手から水を洩して喧嘩したとてお客が来るでも有るまい。大抵にして止るがよいノサ。」

〈編者註〉仲裁に入った文廼家文之助(桂文之助)とはこの五月に曾呂利新左衛門と改名する明治の上方落語界を代表する噺家。

明治19413日 日出新聞

三人手品の余報 先に手品師三人が争論(いさかひ)を略記せしが、猶又委しく探り聞くに、文之助が仲裁せし其夜、北の劇場の木戸番四郎音が飛込み来りて中直りを滅茶々々にせしは、全く吉田菊五郎と四郎音が物言ひより双方に立上りて摑み合の喧嘩となり、此折、四郎音は頭と手に数ヶ所の疵を受たるよしにて、中直りも其処退(そこの)けとなり、追々むつかしき揉合となりしを、骨源と八ツ車と呼(よぶ)両人の侠客が仲裁に立入り、一昨夜は関係の者一同を円山の池庄に集めて、再たび仲直り酒宴を催ふし、漸々事済となりたるが、過日よりゴタ〳〵の入費と四郎音の療治代に充る為め、近々の内、北の劇場にて帰天斎正一、吉田菊五郎、ジャグラ操一の三人合併大一座の興行を催ふすといふ」

明治19414日 日出新聞

帰天斎正一とジヤグラ操一との間に争言(ものいひ)を始め、新京極幾代席の桂文の助が仲裁に入り、双方和解せしとのことは前号に掲げしが、今度四条北側劇場にて興行する帰天斎正一の席にては、人気を取らんため、手品の中入〳〵には幾代席より桂文三郎、同文二その他の落語家が交々(かわるがわる)出席して落語を演ずるよし」

明治19427日 日出新聞

「合併手品 過日来(このあいだより)かれ此れと噂さのありし手品師ジヤグラ操一、帰天斎正一、吉田菊五郎の三人はいよいよ来月一日より新京極道場の劇場にて合併興行する事に決り、已に招牌(まねき)をも出したり」

〈編者註〉この興行に関する新聞記事はなく、実際に行われたかどうかは不明。

明治20

明治2057日 東京日日新聞

帰天斎の手品 西洋手品の開祖帰天斎正一は、目下開会中なる工芸共進会場内に於て、手品の技芸を諸人に一覧せしめ度き旨を出願したるに、昨日、同会事務所より許可せられたり。其の故を聞くに、同人は明治の初年、我国の手品を以て欧州に渡航したるに、其術の拙劣なるよし同国人に嘲弄せられてこれを演ずること能はざるより、自ら其の及ばざるを知り、同国にて手術の伝習を受けて帰朝したるものにて、欧州の手品は皆な学理に基きたるものなれば、初学者を誘導し、人智を開発せしむるの益あり。故に、同術の器械を諸人に一覧せしめて之れが説明を為す時は、其器械に基きて新規の妙案を為すものもあるべし。是れ本会の意に適ふものなりとありて、会場中にて手術をなす事を許可せられたるなりと聞けり」

〈編者註〉東京府工芸品共進会は325日から525日まで上野公園内で開催された。正一は閉会間際になって手品で使用する器械を展示、実演したき旨を出願し許可された。

明治2059日 時事新報

「宮廷録事 ○行幸啓 聖上皇后には予て仰出されたる如く一昨七日午後三時御一列にて仮皇居御出門、霞ヶ関なる有栖川宮邸へ行幸啓在らせ給ひ、同九時過還御遊ばされたる由なるが、同夜御慰の為め帰天斎正一を召して西洋各国の手品等を御覧に供へたりといふ」

〈編者註〉「郵便報知新聞」「東京日日新聞」ほか数紙当ってみたが、この事実は見つからない。正一の天覧奇術は明治222月で、その時の大騒ぎの記事(下掲)をみても、この「時事新報」の記事は伝聞による誤報の可能性が高い。

明治20510日 朝日新聞

「東京通信(56日発) 西洋手品の開祖帰天斎正一は目下開会中の工芸共進会場中に於てその技術を公衆に縦覧せしめんと願出、昨日聞済になりしと。共進会に手品とは訝がる人もあらんが、手品の技術は多く学理に基きたるものにて、器械も構造も又他品と異なれば、演説しつゝ諸人に示すときは大いに智識を開発せしめ、新発明の媒(なかだち)ともなるべしとの意なりと」

明治2096日 東京日日新聞

「諸芸有志会 来る十八日東両国の中村楼に於て、出雲の大社保存寄付の為め題号の如き一会を催ほし、晴雨とも正午十二時より開演なすと云ふ。出席の輩は帰天斎正一、桂文治、麗々亭柳橋、三遊亭金朝、竹本綾瀬太夫、錦城斎一山、伊東燕尾等が得意の腕を振ひ、大切りは長唄の出囃し、余興として文治、柳橋、円遊が「靭猿」の所作事を演ずるよし。会費は一名五十銭なり」

明治20112日 東京絵入新聞(『明治の演芸』)

1113日正午より浅草須賀町の鷗遊館にて開催された高輪泉岳寺義士遺物保存会寄付の演芸有志会に出演する。

明治21

明治21115日 読売新聞

「宮廷録事 御慰み 皇后宮は明十六日芝公園内の弥生社へ行啓あらせらるゝに付、警視庁にては御慰みのため帰天斎正一、柳川一蝶斎の手品及び力持等を催ほさるゝやに聞けり」

〈編者註〉これも誤報で、実際に出席したのはジャグラー操一である。操一は418日より浅草文楽座で公演をするが、その時の広告文中に「本年一月十六日、芝公園弥生社ニ於テ、辱ケナクモ皇后宮陛下叡覧ノ光栄ヲ賜リ」と記している。この頃の宮廷録事は用心をしてかからないとえらい間違いを起す(自戒を込めて)。

明治2173日 奥羽日日新聞

「文明奇観術 今度、松島遊覧がてら来仙、東一番丁・高桑義守方に止宿中なる東京名題の手品師帰天斎正一は、元都川歌之助とは無二の中なりし故、来仙を幸ひ歌之助が催主となり、東座に於て愈よ本日より西洋手品及び教育幻燈会を催ほす筈なり。又、芸道に先立ち、松本順先生の衛生法並びに虎列剌予防の演説をもなすとの事なるが、一体、手品が本業なるより、惣体を文明奇観術と称する由なり」

明治2174日 奥羽日日新聞

文明奇観術 昨日を以て蓋を開る筈なりしも、道具荷物延着の為め一日丈け見合、愈よ本日より蓋を開ると云ふ。尤も帰天斎正一は東京にても有名なる手品と云ひ、一角の落語、林家の清本、何れも達者揃の上、都川と高桑の周旋故、定めて大入と思はる」

明治2178日 奥羽日日新聞

文明奇観術 器械不着の為め延引し居たる有名なる帰天斎正一の文明奇観術は愈よ一昨日六日より東座に於て興行せしが、初日なるにも拘はらず頗る上景気なりし」

明治21718日 奥羽日日新聞

帰天斎正一 同一座は一昨日より昼夜二度の興行に改め、昼は午前十一時より午后六時まで、夜は午后七時より同十一時とし、一層奇妙の術を演ずるとの事なり」

明治2184日 奥羽日日新聞

「帰天斎正一 仝一座には東一番丁の東座を打揚げし後ち松嶋地方を見物し居たるが、弥よ昨三日山形地方へ向け発途せり」

明治2188日 奥羽日日新聞

帰天斎正一 山形乗込みの事は前号に記載せしが、今度は磐梯山破裂の実況を幻燈に写し、其惨状を世間に知らしむる目的にて、愈々昨日が初日の旨、当地の知己へ報じ越せしと」

明治2189日 奥羽日日新聞

「◎山形通信 手品師来形 東京府に於て夙に芸名を馳せたる手品師帰天斎正一は昨日仙台より当地へ乗込み、今夕より七日町旭座に於て古今の珍説並びに磐梯山噴火の始めより破裂後までの景状を大幻燈に写映して観覧に供すと云ふ」

〈編者註〉仙台の東座で興行中の明治21715日、福島県会津磐梯山が数回に渡って大噴火を起し、477人が犠牲になった。正一はすぐさまその写真を手に入れ、幻燈で写し、実況解説をやったようだ。

明治2198日 奥羽日日新聞

東座の喧嘩 去る五日の夜、東座に大喧嘩があったと聞き、其起りを探偵せしめたるに、帰天斎の連中が山形よりの帰途、当地に立寄りし處、松島座にキントルの連中が興行中と聞き一寸覗きしに、帰天斎正一の芸道に付き穏やかならぬ口上のありしより、帰天斎連の一学は忌々敷き事に思ひ、其翌晩より東座に於て興行せし處非常の大入、中にキントル連も見受しかば、昨夜の仕返しせんと口を極めて同連を罵詈せしに、見物人は賛成して大に喝采し、キントル連の太神楽めきたる挙動とは雲泥の相違なりと叫ぶもあれば、彼の連が興行の初晩、焚火を誤て見物人の中に落し、迷惑を掛たる手際は何うだなぞと、口々に云ひ囃さるゝ處より、残念とや思ひけん、キントル連中十三名が見物人に紛れ込み、ハネルを待て突然楽屋に飛び込み、一学を手籠めにせんと暴れ廻るを、東座の若い者や座主高桑等も中に這入、取鎮んとする折柄、巡査も駈付し為め、別に怪我人もなく事済みしが、一時は中々の騒ぎなりしと。而して双方共、仙台警察署へ拘引取調中、示談の上、願ひ下げしより、別に興行に差支へず、益々帰天斎連の評判高く毎夜大入なる故、日延興行するよしなり」

〈編者註〉キンドルは東洋手品と称して明治二十年代に活動していた手品師。820日より仙台の東一番丁松島座で興行している。

明治211030日 東京朝日新聞

114日午前11時より浅草須賀町の鷗遊館にて開催された第三十一回亦友会に出演、墺国直授新手妻を演じる。

明治21119日 やまと新聞(『明治の演芸』)

◇東京の落語界が三遊派と柳派に分裂する。帰天斎正一は三遊派に属する。

明治211115日 「落語名前揃」(『日本庶民文化史料集成』第八巻)

 浅草区吉野町六十八番地 波済粂太郎 天保十四年九月生

 昔話 中(等) 芸名 帰天斎正一 

 右者 私義今般家督相続相成候間何卒私戸主御鑑札御書換願

 明治二十一年十一月十五日

明治211218日 読売新聞

1216日より芝公園内弥生社にて開催された山口県出身判任官以下の親睦会に出演する。

〈編者註〉松旭斎天一も122324日に弥生社祭典の余興によばれ、得意の奇術を演じて警視庁から賞賜を得ている。

明治22

明治22212日 毎日新聞

宮中の手品 昨日宮中にて憲法発布式の終りたる後、帰天斎正一を召させられ、手品を御天覧遊ばされたる由。其手品は最初陛下の御前三間を離れて真鍮の植木鉢を据へ、花の実を播くや否や忽然(たちまち)にして葉を生じたる二尺斗りの作り菊に化す。次は一尺斗りある真鍮の筒を出し、紅白の細かなる切地を筒の内に入れ、之を一間四方の国旗に化せしめ、又之を掲(かかぐ)るや、足毎に小国旗を付けたる五十羽の鳩現はれて空中に飛舞ひたり。次は硝子の小箱に綿にて作りたる鼠を入れ、一分時間にて真の白鼠となり、夫より御好(このみ)ありて金輪の遣ひ方、時計を鏡より出す術、皿の遣ひ方等を演じたり」

明治22213日 東京朝日新聞

「一昨日の盛式後、御余興として手品師帰天斎正一外一名を宮中に召され、御学問所に於て其技を演ぜしめられ、聖上、皇后両陛下にも叡覧あらせられたるが、その技芸の中、長(たけ)二尺許りなる真鍮の筒へ小裂(こぎれ)を入れ、瞬間にして国旗と変じ、此の国旗を一揮(ふ)り揮れば忽ち五十羽の鳩、空中に飛舞し、各々国旗を足に纏ひて飛去る技、及び一個の植木鉢へ洋菓の種物を蒔き、即座に生立ち、花を咲かせ実を持たせる技などは至極の妙曲にして、両陛下にも殊の外叡感あらせられたるやに承はる。帰天斎が光栄思ふべし」

明治22226日 東京朝日新聞

帰天斎正一の祝宴 去る十一日の紀元節即ち憲法発布式の当日、宮中に於て帰天斎正一の手品を天覧あらせられたる由は其の頃の新聞に記したるが、正一は自分の技芸の天覧を蒙りたるは願てもなき一世の名誉なりとて右の身祝ひの為め一昨二十四日午後日本橋萬町の柏木楼上に祝宴を開き、予てより贔屓を蒙りたる紳士、通客等を招待し、席上しんばの小安、家根屋弥吉の両侠客が周旋し、酒間太神楽の曲数番、日本橋おんど(芸妓の)などの興を添て頗ぶる盛宴なりし。尤も午前には府下各席亭主人および重立たる落語家等を招待したりと」

明治22226日 読売新聞

帰天斎の祝宴 西洋手品の元祖帰天斎正一は前に記載の通り去る十一日憲法発布の当日宮城に召され、畏くも 両陛下の御前に於て手品を叡覧に供へたるは実に空前絶後の栄誉なりとて一昨二十四日、日本橋萬町の柏木へ知己の人々、新聞記者等を招きて祝宴を開きたり。席上の余興として太神楽、日本橋芸妓の音頭踊を奏したるのみにて、正一自らの演芸なきは興薄しと呟きたるもありしが、同人は元来謙遜家にして、自ら主人となりて賓客を招じながら其技芸を演ずるは自負に似たりとて態と遠慮し、近日更に千歳座を借受け、此處にてあらゆる得意の技芸を演ずる由なり。同人は此前にも或るやごとなき邸に召れ演芸を為したるとき、其筋より徽章を拝受したる趣きにて胸部に佩用せり。世間に遊芸を以て衣食する者多しと雖も宮中に召れて其技芸を叡覧に供へし者は正一を除きてある事なし。同人の欣喜雀躍するも道理なるべし」

明治22227日 郵便報知新聞

「憲法発布の日、宮中に正一を召して其の手品を御覧になりしよしなるが、常時種々の術を演ぜるうち、正一が一個の壜をとり、之に紅色の水を注ぎ置き、喝一声、之を打砕すれば忽ち旭章の大旗となり、其の大旗を一飜すれば、大旗は消えうせて、颯然(さつぜん)忽ち五十個の鳩の各々其の足に旭章の小旗を結べるが飛び出だして、文色離披(りひ)としつゝ翺翔(こうしょう)したるときは、聖上にも御顔(おんかんばせ)を開かせられし由。又た金輪を使へるとき、最初あらためたるときは切目なしと見えたる環(たまき)の、自由に入違ひ繋がり聨(つら)なる不思議に御心動きけむ、御意ありて繋がりたる儘の金輪を召させたまひ、御手に取りて其の切目を御覧ぜられ、莞然(かんぜん)と笑を含ませたまひ、金輪は其の儘御留置きになりしよし。去る廿四日、正一が其の陛下に咫尺(しせき)し奉りし身の喜びを表するため、愛顧を蒙れる人々を請ふて宴会を催せるとき、其の席上にての物語なりき」

明治2243日 東京朝日新聞

「ボアソナード氏送別 かねて記せし府下代言人諸氏がボアソナード氏の為めに目論見中なりし大送別会は愈々一昨々日を以て芝公園の紅葉館に開きたるが、会するものは百余名にて会長元田氏の送辞、ボ氏の答辞、余興には帰天斎正一の手品及び紅葉踊等ありて、ボ氏にも殊の外満足に思ひ、午後八時に至り一同退散せし由」

明治22410日 東京朝日新聞

413から15日まで、東京上野華族会館にて養育院慈善会を開催。帰天斎正一は15日に出演する。

明治22413日 読売新聞

「演芸寄付 今日より上野華族会館に於て婦人慈善会の余興に出席する帰天斎正一と丸一仙之助の両人は新場の小安の紹介にてその演芸を寄付する事の承諾を得たりと云ふ」



misemono at 20:37|PermalinkComments(0) 手品師・帰天斎正一 

手品師 帰天斎正一③

明治2281日 信濃毎日新聞

帰天斎の手品興行 彼の東京に在つて有名なる帰天斎正一は、今度、正丸・小松・千朝・小市・柳之輔等を伴ひ来長し、明二日の夜より当地(長野)東町東亭に於て興行する由なるが、同人の手品に長じたることは今更ら云ふまでもなく、曩に憲法発布の節、宮中御学問所に於て畏くも 天覧の幸栄を辱ふせし抔、普く人の知る処なれば、定めて賑はしきことならん

明治2287日 信濃毎日新聞

帰天斎の手品 去る二日の夜より当地東町なる東亭に於て興行を始めたる帰天斎の手品は流石 天覧の幸栄を得て天下に名声を博せしだけに番数奇術も中々に多く、悉く意想外に出づるより毎夜〳〵の大入なりとぞ」

明治22818日 信濃毎日新聞

帰天斎正一 去る一日より十日前まで当所東町東亭に於て興行し、同じく十一日より公園地に移りたる帰天斎正一の手品は曩にも本紙に掲げたる如く在来の手品とは異なりて奇芸秘術に富みたるが故、初日より好評を遠近に博して興行の永きにも拘はらず連日連夜の繁昌なりしが、最早当地の興行も終期に近づきたるに依り、本十八日の揚り高は悉皆当所養育院へ施入せんとの慈善心にて、あるとあらゆる奇術を取立て観覧に供する由なれば、木戸銭四銭をより抛ちて定刻より見物し玉へとは頼まれもせぬが提灯持ち」

明治22820日 信濃毎日新聞

帰天斎の慈善会 当所養育院の為めに一昨夜公園地内に於て帰天斎の催したる慈善会は朝来雨催ほの天気にて人の出盛りと思ふ頃にはポツリ〳〵と降りたるにぞ、同人が折角の催しも如何ならんかと心配せしに、幸ひにして大降りもなく市中は勿論近在より出懸けたるもの数百人に及びて是迄になき賑ひなりし」

明治2294日 新潟新聞(『明治の演芸』)

「奇妙々不可思議なる手術を以て有名なる帰天斎正一の一行は、一昨夜より当市湊座に於て興行せしが、同夜は非常の大入りにて殆んど木戸を〆切るばかりの繁昌なりしと。〔編者注=十日まで。十三日から新発田で、二十日から三条でそれぞれ興行〕」

明治229月 番付「落語家一覧表」(『日本庶民文化史料集成』第八巻)

 帰天斎正一(中軸)  普天斎小正(中軸) 帰天斎正龍(東前頭三十二枚目)・帰天斎正好(東前頭四十九枚目)

明治22年改正 番付「落語家高名鏡」(『日本庶民文化史料集成』第八巻)

 西洋手品 帰天斎正一(中軸) 同 帰天斎小正(中軸) 

 ハナシ 帰天斎正鶴(西前頭三十三枚目)/ハナシ 帰天斎正丸(西前頭三十六枚目)

明治22102日 東京日日新聞

105日から7日の三日間、日本橋区蛎殻町三丁目に新築した東京改良演芸会友楽館の開業式を挙行する。帰天斎正一は初日の5日に出演、「帝国(みくに)の誉美術の手品」を演ずる。

〈編者註〉以後友楽館で改良演芸会は定期的に開催されている。帰天斎正一が出演したことが確かめられたのは以下の通り。

(明治22年)

 127日 第九席 不思議の手術 帰天斎正一

 1214日 第九席 西洋みやげ 帰天斎正一

(明治23年)

 29日  第六席 帽子の技術・三段返し魚鳥時計 帰天斎正一

 316日 第二席 開花牡丹指輪術・花瓶の骨牌 帰天斎正一

 420日 第三席 和洋手術 帰天斎正一

 427日 第八席 空中鳥籠の術・天神天降の松 帰天斎正一連中

(明治24年)

 111日~18日 夜に帰天斎正一及び同人社中出席。西洋手品及び幻燈。

明治22114日 読売新聞

119日午後1時より築地寿美家にて開催された京橋区民の大懇親会に出演する。

明治23

明治23323日 国民新聞

明治23年 013「上野精養軒新築落成祝は去廿一日午後六時より各新聞社員を招て開きたり。こは日本土木会社の引受て建築せし者の由にて、忍が岡を背(うしろ)にし、不忍の池を臨み、極めて眺望に富む。当日来会者は五十余名ありて、社員の至りし時は已に喫烟室にて碁盤に対する者、骨牌を弄する者等もありし。座席の装飾(かざり)には大瓶に松竹梅を挿(はさ)み、羽二重細工の丹頂鶴二羽を添へ、壁上には重價なる油絵を掲げ、食卓の一隅には遠州流のなげ入の花卉種々を置き、仏蘭西風の割烹を用ゐたる美味を饗せり。食し畢て別室に珈琲を出し、余興には帰天斎正一の手品数番ありたり。帰途に就きたるは殆ど十時頃にてありし。因に云ふ、昨日は同所に宮内省官吏の園遊会ありしと此に描けるは即ち精養軒入口の図(省略)及び帰天斎正一手品を演ずるの図なり」

明治231016日 東京朝日新聞

101819の両日、上野公園桜雲台にて開催された三遊亭円右会主の広名会に出演(18日)、「鶏卵小鳥がへし」を演じる。

明治231118日 東京朝日新聞

1123日、上野公園桜雲台にて開催された桜雲台周遊会に出演。

明治24

明治241月~12月 寄席案内(東京朝日新聞)

 1月下席 小石川区西江戸川町初取亭 帰天斎正一

 2月上席 浅草区阿部川町寿々木 帰天斎正一

 3月上席 神田区猿若町二丁目無名亭 柳桜・正一

 4月下席 麹町区元園町青柳亭 春錦亭柳桜・帰天斎正一

      四谷区十三丁目喜よし 柳桜・枝女子・柳條・帰天斎正一

 5月上席 浅草区茶屋町酒恵亭 鶴賀斎・柳桜・帰天斎正一

 5月下席 本所区東竹町若竹亭 今輔・燕枝・帰天斎正一 

 6月上席 神田区和泉町泉亭 柳窓・鶴枝・妻八・帰天斎正一

      本所区相生町萬喜亭 文治・ジョン・妻八・燕鏡・鶴枝・朝枝・猫柳・琴柳・帰天斎正一

6月下席 京橋区新富町新富亭 林家正蔵・帰天斎正一

10月上席 麹町区九段坂富士本 柳條・扇歌・帰天斎正一

10月下席 赤坂区一ツ木萬年亭 柳桜・燕路・京枝・咲太夫・帰天斎正一

      麹町区元園町青柳亭 柳橋・里朝・燕路・帰天斎正一

12月上席 四谷区十三丁目喜よし 帰天斎正一

(明治251月上席 神田区猿若町二丁目無名亭 帰天斎正一)

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〈編者註〉東京朝日新聞に載った「寄席案内」よりこの年帰天斎正一が出席した寄席をまとめてみた。本来こうした事は通年でやるべきであるが、取り敢えずは一年だけ試みた。上掲の絵ビラは3月上席無名亭に出演したときのもの。写真は明治222月の天覧の後と思われ、上野と浅草にパノラマ館がオープンするのが明治235月であるところから、明治24年以降と推定して寄席案内を調べたところ、243月上席の無名亭にその名があった。念のため25年~28年の3月上席を調べてみたが該当なく、明治28年後半以降からは無名亭そのものが寄席案内に出なくなる。年齢もこの年数えて49歳で、相応に見える。上掲の「国民新聞」の挿絵ともよく似ている。以上の理由よりこの絵ビラを明治243月と判断した。なおこの絵ビラは国立国会図書館蔵「張交絵美良」より拝借した。

明治241011日 時事新報

神田区錦町の錦輝館は一昨九日午後三時より開場の式を挙げ、余興に帰天斎正一の手品あり、楼上の宴席には手踊あり、一同歓を尽して散会せしは午後八時過る頃なりと云。(後略)」

明治241111日 東京朝日新聞

「八王子大尽の大失敗 鶏卵一個を帽子の中へ入れ、怪し気なる呪文を唱へ、再びこれを取出せば一羽の鶏となり、数羽の小雀となり、習々(ばたばた)と羽ばたきして席上を舞ふ、是れ帰天斎正一が手品なり。(編者註:あとは三面記事で正一と関係なし)

明治241112日 東京朝日新聞

1115日午前10時より蛎殻町友楽座にて開催された震災義捐金募集演芸会に出演。

明治241222日 東京朝日新聞

イヨー帰天斎 大岡育造氏、平均不平均の例を卓上の水差とコップに取り、右手(めて)に水差を持ち、左手(ゆんで)にコップを握り、目八分に捧げて水を注ぐ、イヨー帰天斎正一と評する者あり」

明治25

明治25年改正  番付「落語一覧」(『日本庶民文化史料集成』第八巻)

 西洋てしな 帰天斎正一(中軸中段) 帰天斎正丸(中軸・正一の下)

明治25130日 東京朝日新聞

13031の両日、友楽会にて開催された慈善演芸会に出演(31日)。

明治25228日 国会新聞

31日から15日まで愛宕町若竹亭と三田春日亭の寄席に出演。

明治25514日 東京朝日新聞

514日、木挽町厚生館にて開催された孤女学院義捐のための慈善演奏会に出演。

明治25821日 読売新聞

821日午後1時より神田錦輝館にて開催された渡辺大蔵大臣、渡辺内務次官の栄任祝賀会に出演(予定)。

明治251029日 読売新聞

中洲町の軽気人形 神田区佐久間町三丁目の大野甚七が製造する薄紙製の軽気球は、量目(めかた)極めて軽く、水素瓦斯を以て昇騰せしむるもの故に、危険のことなく、宴会の席などにて戯れに放つには至極妙なるものなるが、今度日本橋区中洲の顔役遠州屋が小屋主となり、帰天斎正一、乾坤斎唯一社中の奇術を演じ、其の技術中、此紙製の気球より案出したる方法を以て種々の形像を作り、譬へば自分の姿消え失せて製造人形に変じ、見る〳〵空中に昇騰すると云ふ如き新発明の技術を交へ、来十一月二日より七日間、正午十二時より中洲町広場に於て興行すると云ふ」

明治26

明治26年改正 番付「落語音曲技芸一覧」(『日本庶民文化史料集成』第八巻)

 西洋奇術師 帰天斎正一(中軸)

明治2659日 東京朝日新聞

56日、浅草鷗遊館にて開催された職工生命保険株式会社の開業式に出演。

明治26113日 東京朝日新聞

幻燈大演芸会 今三日より明後五日まで三日間、午後五時より木挽町厚生館にて松林伯遊が催しにかかるもの。幻燈は相馬事件関係者肖像、日本名勝風景、古今高名なる人物、教育滑稽画(技師帰天斎正一・説明松林伯遊)にて、又演芸の番組は……和洋大奇術(帰天斎正一)等にて、通券十銭、特別二十銭」

明治27年(1894

明治271月 番付「三遊社一覧」(『明治の寄席芸人』)

 同(下谷区)数寄屋町七番地波済粂太郎事 帰天斎正一

「明治時代の帰天斎正一という人は、西洋奇術で大変に人気もあり、大看板になった人で、藤浦富太郎さんに伺いましたら、西洋手品といっても洋服をきないで、しじゅう和服だったそうです。お納戸色の濃い着物とか、あるいは鼠色(ねずみ)といったような装(なり)で、西洋手品を使っていたそうで……。(後略)」(『明治の寄席芸人』)

明治274月 番付「東京落語家鑑」(『日本庶民文化史料集成』第八巻)

 西洋手品 帰天斎正一(行司)  テジナ 帰天斎唯一(中軸下段)

明治2781日 東京朝日新聞

82日、3日、神田錦輝館にて開催された実哲会に出演。奇術と朝鮮大幻燈(大切余興)を演じる。

明治271121日 国会新聞(『明治の演芸』)

1124日午後5時より本郷春木町二丁目中央会堂にて開催された山形県下震災救助慈善大演芸会に出演。

明治29

明治2918日 東京朝日新聞

正一手術をつかはる 売卜者(うらないし)は身の上を知らず、手術師(てじなし)は却て目を抜かれる事あり。下谷区北大門町六番地波済粂太郎事帰天斎正一が一昨日三田の某貴顕より御召に預かりしに付き、弟子正蔵に紋付紺甲斐絹の熨斗目小袖を包みの儘掻抱かせ車をつらねて駈出したところ、正一は京橋際にて正蔵に声をかけ、今お前の車の傍へ怪しい奴が立寄つたが何ぞ遣られはせぬかと云ふので、正蔵も心付き、毛布(けっと)の下の包みを見ると、種子は何處へ通つたやら、虚言(うそ)ない事拝見ありますと車の中を掻廻し、唯是は〳〵とばかり呆れて見ても詮が無いゆゑ、風呂敷ぐるみ熨斗目小袖紛失の旨其筋へ訴へ出づ」

明治29229日 中央新聞(『明治の演芸』)

「従来、各席亭へ出勤の芸人中、ややもすれば欠勤勝となりて席主の迷惑と客人の失望一方ならず、自然営業の上にも影響すればとて、今度、桃川如燕、三遊亭円遊、竹本播磨太夫、松林伯知、帰天斎正一等の面々、「演芸同盟会」なる者を組織し、一度(ひとた)び約束したる以上は決して欠勤せざる契約をなしたりといふ」

明治29416日 読売新聞

415日午後1時より芝紅葉館にて開催された第三回全国取引所聯会懇親会に出演。

明治2958日 東京朝日新聞

510日午前11時より午後6時まで神田錦輝館にて開催された麗々亭柳橋亡父春錦亭柳桜三年忌追善演芸会に出演。

明治2912月 「女学雑誌」432

「帰天斎正一 帰天斎正一の奇術を観るもの、皆其妙々不可思議なるに驚歎す。正一、時として、其術の秘訣を見(しめ)し、云々(しかじか)の筋道にて云々に運為すと言ふを聞けば、正に是れ尋常の手段、当然の人事、亦た何等の奇、何等の怪もあることなし。既に其の筋道を知れり。左らば、何人も能く正一たることを得べきかと試みに之を倣はんとせば、則ち依然たる門外漢たることを覚らん。看るべし、理を知るは未だ真に知るにあらず、自から知れりと感ずるも未だ真に知れるにはあらざりしことを。世の所謂る学問なるものは、単に理知に過ぎず、人未だ自得せずんば、遂に何の益あらんや」

明治32

明治32318日 毎日新聞

319日より3日間、本郷東竹町若竹亭にて開催された矯風大演芸会に出席。空中自在を演じる。

明治33

明治33619日 読売新聞

帰天斎正一泥棒に逢ふ 帰天斎正一事波済粂次郎(五十二年)は一昨夜午後一時下谷区上野町三丁目十七番地の別宅を出で谷中の墓所に参詣して同五時頃帰宅せしに、其留守中何者かゞ裏の板塀を乗越え、雨戸を外して忍入り、箪笥に入れありし衣類数点を盗去りたるに驚き、直に其筋へ告訴したりと」

明治34

明治3483日 大阪毎日新聞

IMG_20210423_0006「中座の改良演芸 一昨夜より中座に於て開演せし改良演芸は、松林伯円が一世一代の講演と、去る十三年に同座へ来りて喝采を博したる帰天斎正一が二十二年ぶりにて来阪せし事とて好人気なるが、同夜は何分初日の事とて芸人の取合せも整はず、看客に満足を与へ得ざりし為め、昨夜より左の通りに演芸者の順序を改めたる由。

演芸改良の趣旨(藤本紫水)、音曲(柏家真喜三)、滑稽演説(松の家若太郎)、落語(三遊亭円麗)、新内(橘家金之助)、人情噺(三遊亭金馬改小円朝)、三曲(福城可童、高橋清章外門人)、青年立志花は桜木人は実業家(松林伯円)、奇術(帰天斎正一改め一向)、中山大納言、松平越中守寛政公武問答(松林伯円)、大切皿の合回(松林斎若一・帰天斎英一)」

〈編者註〉広告は81日に掲載されたもの。「帰天斎正一改め一向」は最初で最後。大阪に二代目帰天斎正一(福岡正一)というややこしい弟子(?)がおり、それとの区別のために大阪にいる間だけ一向と名乗ったと思われる。

明治34810日 日出新聞

「笑福亭の一世一代 本日一日より大阪道頓堀中座に於て一世一代を興行せし松林伯円、帰天斎正一は本日午後六時より五日間、新京極笑福亭に於て一世一代の興行を催す。其番組左の如し。改良演芸の趣旨(藤本紫水)、第一・皿の曲(松林斎若一)、第二・音曲(柏家真喜三)、第三・滑稽演説(松の家若太郎)、第四・落語(三遊亭円麗)、第五・新内(橘家金之助)、第六・正史講談(松林伯円)、第七・人情噺(金馬改三遊亭小円朝)、第八・三曲(福城可童、高橋清章外門人)、第九・時世講談(若林若円)、…第十・奇術(帰天斎正一・門人帰天斎栄一)」

明治34814日 日出新聞

「笑福亭の帰天斎正一の前口上は天覧を蒙りたるは芸人では市川団十郎と自分だと吹聴して大得意の由。又同人は今度の改良講演会は番組等のビラ其他一切芸人風をなさず新聞で御案内申しますと毎夜いつて居るさうだが、新聞はお前連の丁稚ではないよ」

明治34823日 北国新聞

「福助座 伯円、正一一座の講談奇術は愈々本日より開演。その番組は、昼の部(午後一時より六時迄)滑稽落語(若太郎)、人情噺(小円朝)、青年立志花は桜木人は実業家(若円)、楠公記桜井駅子別迄読切(伯円)、夜の部(午後七時から十一時迄)改良演芸の趣意(紫水)、音曲(真喜三)、滑稽演説(若太郎)、落語(円麗)、新内(金之助)、人情噺(小円朝)、三曲(可童清章外門人)、星亭暗殺事件(若円)、奇術(正一)、中山大納言松平越中守寛政公武問答(伯円)、大切皿の合曲(若一英一)



misemono at 20:34|PermalinkComments(0) 手品師・帰天斎正一 

手品師 帰天斎正一④

明治35

明治359月 『都の華』第58(『実証・日本の手品史』より孫引)

「それから明治十年ごろ英人夫妻の手品遣が来た、これは上品の側であツた、それを林屋正楽が直ぐ真似をして、帰天斎正一と改名して西洋手品をはじめて中橋の寄席に演じた」

明治36

明治3616日 東京朝日新聞

「牛豚店の初荷 本郷春木町牛豚肉店三枝幷に芝愛宕下町四丁目山口、牛込津久戸前吉田、神田裏神保町木村にては、去る二日、音楽隊、都囃子、帰天斎正一一座を花馬車へ乗せ、数百の若者揃ひの帽子、袢天にて初荷を引出したりと云ふ」

明治40

◇明治4021日より東京新富座でジャグラー操一とモード・アンバー嬢の手品興行があった。その後横浜喜楽座、東京真砂座で打ったあと、大阪から買いに来たが、待遇の不満からジャグラー操一が抜けてしまった。そこで誰かないかと物色した結果、老齢で引退していた帰天斎正一を引つぱり出す事にした。「しばらく引退していた」では売り物にならないので、「欧米新帰朝」という事にして世間態をつくろった。

早稲田 弁天座

 
47日より大阪弁天座で興行が始まり、新聞は大々的に取り上げ、連日のように記事を出したが、帰天斎正一に関しては「正一は三十年前、今の浪花座で稀有の大入を占めたのち絶えて来阪しなかつたさうだが、記者も久しく見なかつたうちに大層年を取つたよ。併し奇術は相変らず水際の立つ奇麗事」(大阪毎日・49日)だけである。このあと京都の南座にも出たが、座長とは名ばかりで、売りはモード・アンバー嬢なのだから、宿所、給金その他で差を付けられ、面白くない帰天斎正一は東京へ帰ってしまった。

〈編者註〉この興行の裏側の事情は当ブログ「明治40年(特別編)」に詳しく書いたのでそちらを参照されたい。ポスター(早稲田演劇博物館蔵)は弁天座のもの。帰天斎正一の写真はない。

大正4

『和洋奇術種あかし』帰天斎正一(東京市芝区三田三丁目七番地)・三芳屋書店・大正4年。

「毎夜御光来下さいまして、誠に有難く存じます。何しろ私しは数ケ年間仏蘭西の巴里に居りまして、先日帰りましたのでございますから、何か御土産と存じましたが、別に之と云ふ御土産もございません。エー、ジアマンはボルシチのバヘツキと云ふものが、世界で手品の第一等としてございます。第二番はロンドンに居りまするマスコリンコク、之がバネツキに次ぐ手品師でございます。第三番は伊太利のネツボロスと云ふ所に居りますボロジンと云ふものでございます。何うも其内でもバネツキと云ふものが一番巧妙で、其人の手品を見まして、之を日本に持つて行けば定めし皆さんの御慰みにならうと存じまして、其れを覚えまして帰国いたしたは、明治七年の七月二十三日でございます。始めて西洋手品と云ふ招牌(かんばん)を揚げ、諸方の寄席へ出演いたした所が、幸いに御好評を賜はり、実に有難い事と存じます」(「口上」より)

「就ては此の奇術の本を御覧になつて万一判らぬ處があれば私共へお出下さいまし、御指南いたします」(最後の頁より)

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〈編者註〉「奇術の祖 帰天斎正一翁伝授 浪上義三郎速記」で41の奇術の種明かしが載っている。口絵に写真が出ている。上掲①頁説明枠にあるのがそれである。それよりここに掲げた四図のイラストの方が現時点の正一の姿をよく現していよう。さすがに和服である。

大正5

『文之助系図』26丁裏(大正5年)

 三代目正楽后ニ西洋手品トナリ  帰天斎正一  波済粂太郎

大正13

関根黙庵『講談落語今昔譚』(大正13年・雄山閣/東洋文庫652・平凡社)より

△アサヒマンマロ、それに萬国斎ヘイドン、此の二人は寄席に於ける西洋手品の極く古い処であったと覚えて居る。帰天斎正一が大評判となったのは、これより後の事である。

△西洋手品を流行(はや)らせたは、正一の功と云えぬ事もない。客から借りた手巾(はんけち)をアルコールを打(ぶ)っ掛けて燃して了い、それを外から取出す位が売物であった当時の西洋手品の上を行き、箱に女を入れて外から剣や槍で突いたり、客の時計を借りてガチャ〳〵に搗き砕き、これを短銃(ぴすとる)に込めてドンと打つと、的にした物の中から先の時計が現れたり、種々な目新しい事をした正一は、自分の名のみでなく、西洋奇術と云うものゝ名までを高く掲げたのである。トランプの使分けや財宝杖や、皆此の頃から演り慣らされて居るのであるが、それを思うと、奇術は一体に今まで根っから進歩していない。

△今でこそ活動写真などゝ云う面白いものがあるが、ズッと以前には幻燈と云う西洋映絵(うつしえ)があったばかり、からモウ心細いものであったが、それでも在来の日本の映絵ばかり見て居た眼には珍らしく面白いので、此の幻燈の勢力は大したものであった。

△正一や、其後現れた他の人々や、西洋奇術師は殆ど皆此の幻燈を見せた。今は此の式の幻燈は、小形でこそあれ、玩具屋にザラに売って居るが、其頃は何うして何うして、人物の肖像だの各地の風景だのが写真の如く映るのが、珍しくって誰も悉皆(すっかり)感心したものである。靴屋の職工の絵が映って、其の鉄槌(かなづち)を持ったる片手がギクシャクと一つ所を上ったり下ったりすると、これが大喝采を博したと云う始末。その癖こんなのは昔からの日本映絵にある型なのでありはするが、種油に燈心でやって居た日本映絵と違い、ブリッキの箱にランプの明るいのを入れて映すのからして、珍なり奇なりと云う時節であるゆえ、幻燈の人間の手が動くと来ては、実に一大事件であったのである。言添えて置くが、日本の映絵は、寄席に於ける西洋奇術師の此の幻燈に因って滅されたのである。

〈編者註〉関根黙庵(文久3年~大正12年)は演劇・演芸評論家。

 

【付録】帰天斎正一の弟子たち

〈編者註〉帰天斎正一を調べる段階で、番付、新聞等に正一の弟子と思われる名前を列挙してみた。それ以降の門人については触れていない。本当に名前だけであるが、唯一絵ビラのある帰天斎一学と美人の娘手品の帰天斎正若はいくらか具体的なイメージを持つことができる。なお大阪で二代目帰天斎正一を名乗った福岡宗兵衛については、当ブログ「二代目帰天斎正一興行年表」を参照されたい。

明治12年(1月) 番付「落語人名鑑」(『日本庶民文化史料集成』第八巻)

 帰天斎正一(上段)  帰天斎一学(最下段) 帰天斎正三(最下段)

明治131117日 新潟新聞(『明治の演芸』)

「去る六日の紙上に一寸掲載せし永楽座の機械手品・帰天斎一学の一座は、其初日より大当りにて、殆んど毎晩木戸を閉(う)つ程の大入りなり。さてその芸等は種々薩埵(ざった)なれども、其中に一本の徳利より西洋酒、日本酒の差別なく、来客の好みに応じて数品の酒を出しますと。弊社の穿作が見て来た上の直噺し」

明治161月 絵ビラ・出版人玉置清七(「見世物関係資料コレクション目録」303頁)

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 (表題)「欧州奇術 器械魔志久」。表題下に「帰天斎一学」。

 (袖)「来ル明治十六年 月日より」。

〈編者註〉「十五年 月 日御届」とあり、年末に届け出、正月より興行したと思われる。また場所を大阪としたのは出版人が玉置清七であることによる。

明治16124日 函右日報(『明治の演芸』)

「各国奇妙バネキ伝来と評判の高い娘手術、皆さん先刻御承知の帰天斎正若は、今度東京から当地(編者註:静岡市)へ乗込み、七間町の開情亭にて今晩より興行を致す由。大当りは触太鼓の様な判をドンと押て屹度受合」

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〈編者註〉この絵ビラは国立国会図書館蔵「張交絵美良」より拝借した。年代不詳。東京で作られたものであるが、参考としてここに掲げておく。

明治17213日 東海新聞(『明治の演芸』)

「手品 昨今、大須五明座に於て興行中なる帰天斎正若の手品は、美人の加減か、或は芸の目新らしき故か、近来の不景気にも拘はらず非常の大入なりと云ふ」

明治1823日 福岡日日新聞(『明治の演芸』)

「福岡大工町寄席喬鶯舎にて、今三日夜より帰天斎一学の一座にて、また〳〵西洋手品を興行するよし」

明治1811月 番付「落語家名誉競」(『明治の演芸』)

 東張出大関 西洋テシナ 帰天斎正一/中軸 テシナ 帰天斎正妙

 下段東関脇 テシナ 帰天斎正若/下段西前頭六枚目/テシナ 帰天斎正丸 

明治1918日 『近代歌舞伎年表・名古屋篇』

 18日より、名古屋若宮末広座にて、別嬪の帰天斎正若の西洋手品。

明治2198日 奥羽日日新聞

◇仙台の東座で帰天斎正一一座の帰天斎一学が松島座で興行中のキントルの連中を舞台上から誹謗中傷し大喧嘩になる。

〈編者註〉全貌は上掲の記事参照。

明治222月 「落語名前揃」

深川区裏大工町十二番地 江口国太郎 慶応三年四月生

昔話 下等 帰天斎正直

明治二十二年二月一日

明治222月 「落語名前揃」

浅草区馬道町八丁目七番地 八木沢由次郎 嘉永三年五月生

昔話 中等 帰天斎ジヨン

明治二十二年二月十五日

明治222 「落語名前揃」

神田区下白壁町五番地 岩崎太郎兵衛 天保十三年三月生

昔話 下等 芸名帰天斎正丸

明治二十二年二月二十日

明治22524日 山陰新聞

西洋手品帰天斎正学 今度此度、東京新下り欧州奇術の太夫帰天斎正学、養老滝三郎外十一名一座は、去二十四日、出雲大社の祭典を当込み杵築に至り、目下引続き興行中の処ろ、本月下旬当市(編者註:松江市)に入込み、来月上旬より興行相始むとの前触。帰天斎正学など其名を聞けば正一の門弟子にもやと思はれ、手練の程こそ天晴ならんと臆測するものもあれど、見ぬものは未だ評判にならずサ」

明治22625日 山陰新聞

「米子にての欧州奇術 先頃当地天神境内新梅楽に於て興行せし西洋手品は、当地を終て米子へ行き、同地朝日座劇場に於て七日間興行せしに、当地異なり至て不人気の上に雨天続きに由て受元は大失敗せし由なり」

明治229月 番付「落語家一覧表」(『日本庶民文化史料集成』第八巻)

 帰天斎正一(中軸)  普天斎小正(中軸) 帰天斎正龍(東前頭三十二枚目)・帰天斎正好(東前頭四十九枚目)

明治22年改正 番付「落語家高名鏡」(『日本庶民文化史料集成』第八巻)

 西洋手品 帰天斎正一(中軸) 同 帰天斎小正(中軸) 

 ハナシ 帰天斎正鶴(西前頭三十三枚目)/ハナシ 帰天斎正丸(西前頭三十六枚目)

明治23124日 九州日日新聞

「目下、市内(編者註:熊本市)川端町末広座に於て興行中なる帰天斎正玉一座の西洋手品は、開場以来人気つき、嬋妍たる少女を寝台に載せ、白刃を以て胸元を貫く手品の如きは頗る喝采を博し、其他、婦人焼殺、ヘラ〳〵の箱抜け等、種々目先の新らしき演技多きよしにて、昨日よりは昼夜興行する旨、其筋へ届出でたりと云ふ」

明治2324日 九州日日新聞

「末広座の次興行 市内川端町末広座に於て興行中なりし帰天斎正玉一座のマジツクは一昨夕を以て閉場せしかば、今夕より更らに東三光一座の浮かれ節軍談を興行すと云ふ」

明治235月 「落語名前揃」

牛込区岩戸町四番地森川勇次郎長女 森川よし

昔話 中等 芸名 古今亭志ん若 慶応元年十二月生

明治二十三年五月

〈編者註〉この時既に帰天斎正若と改名している筈だが、前名で申請する何か理由があったのだろう。『文之助系図』(大正5年)には二代目志ん生門人志ん若 后正若トナル/帰天斎正若 志ん馬娘初メ志ん若改」とある。

明治2378日 香川新報

「延寿閣にては本日より帰天斎一学帰天斎一翁の一座にて、様々なる西洋奇術と化学応用の大煙火を見せるといふ。

明治23715日 香川新報

延寿閣で焼傷 此頃大当込みの当市(編者註:高松市)片原町延寿閣の西洋手品を演ずる最中、一昨日看客(けんぶつ)の某に綱火が飛び掛りて微傷を負ひたる由。何誰(どなた)も御用心〳〵

明治2383日 香川新報

帰天斎一学 先頃延寿閣にて御贔負になりし同人の一座は那珂郡琴平にて興行中の所、昨日にて同地を打上げたれば、再たび当市に来り、明四日より以前の如く延寿閣にて相替らずの御贔負を仰ぐといふ」

明治24210日 香川新報

興行 本日より片原町延寿閣にて、帰天斎正玉の西洋手品、竹川寿鶴、寿恵子、小字の、駒治、八重鶴、小ふさ等の踊を興行する由。日限は来る二十三日迄十五日間なりと」

明治253月 「落語名前揃」

浅草区馬道町六丁目壱番地 山崎国太郎 慶応二年一月二十九日生

昔話 三等 帰天斎正好

明治二十五年三月

明治25年改正  番付「落語一覧」(『日本庶民文化史料集成』第八巻)

 西洋てしな 帰天斎正一(中軸中段) 帰天斎正丸(中軸・正一の下)

明治27年改正 番付「落語音曲実地腕競」(『日本庶民文化史料集成』第八巻)

 テジナ 帰天斎唯一(中軸下段)

明治271月 番付「三遊社一覧」(『明治の寄席芸人』)

 同北松山町一番地 福岡宗兵衛事 東京斎魚一

〈編者註〉大阪で二代目帰天斎正一を名乗った人物で、すでに明治20年の大阪の新聞にその名が見える。東京へ出たときはさすがに帰天斎正一とは名乗れず、東京斎魚一の名で出たのであろう。明治263月上席の恵智十に「魚一」と見える。初代との関係も今一つはっきりしない。

明治274月 番付「東京落語家鑑」(『日本庶民文化史料集成』第八巻)

 西洋手品 帰天斎正一(行司)  テジナ 帰天斎唯一(中軸下段)

明治27420日 大阪毎日新聞

西洋手品師の末路 ……当地にて名人の聞え高き帰天斎正一(福岡宗兵衛)さへ、帽子やコップより品物取出す如く容易(たやす)く金の儲からぬを憂ひ、先年、東京へ登りて家相易学を研究し、此ごろ帰阪して博労町の稲荷神社境内へ卜筮易学の廛(みせ)を開き、……帰天斎一学は備前の岡山へ赴きて某会社の書記となり、同正学は伊予の松山にて料理屋となり……(後略)」

明治32117日 海南新聞

西洋手品 昨六日より松山(編者註:愛媛県松山市)小唐人町の二丁目新栄座に於て帰天斎正学の西洋手術を興行せり。日数五日間開演の筈なり」

明治32119日 海南新聞

「前々号所載松山小唐人町新栄座西洋手術は一昨々日より開場に至らず、一昨夜より始めたり。一座は西洋奇術の外、桂文市の軽口噺も加はり居るものなり」

明治321110日 海南新聞

帰天斎正学 目今松山市小唐人町新栄座に於て興行中なる帰天斎正学の西洋手品は甚だ人気沢山の由なるが、同仁はかねて松山市正安寺町に於て割烹店を開業し居る酔月楼主人にして、西洋手品術に巧妙なるは人の知る所なり。今同仁が本社に寄せたる披露の文は左の如し。又同手品術の外に仁輪賀其他種々入れ事あり、いづれも面白しと云ふ」

御披露

秋冷之好時季に御座候處、益御堅勝被遊御座候段、恐悦至極に奉存候。随て私義是迄西洋手術相営、御贔負を蒙来たり候處、尚其後も諸宴会御取持席にも御召聘を忝ふせしに、今般各位様より久々にて興行の御勧を蒙り、御厚情に甘へ未熟不鍛錬、且つは進歩の今日到底御満足を充たす伎倆は無之も、来る七日より五日間、新栄座に於て興行仕候間、御贔負の余慶を以て御来観の栄を賜はらんことを希望仕候謹言

十一月五日 酔月亭 芸名 帰天斎正学

明治321115日 海南新聞

「新栄座 松山小唐人町新栄座に於て先日来興行中なりし奇(ママ)天斎正学、ジャグラー操光等の奇術は昨日限りにて打揚げ、本日より浮れ節芝居を始む」

明治38114日 大阪毎日新聞

○一月、大阪の手品師の現況。(大阪毎日新聞114

「当地の奇術師としては武田貞一、キリウサン、ずつと前には帰天斎正玉といふのが何れも千日前で打て居た。…正玉先づ何処へか消亡せ、次でキリウサン堺へ飛で女郎屋の亭主と化け、残る貞一ばかりが柳水亭金枝と改名して三年ほど以前に千日前の改良座へ来たのを見たばかり。(後略)

大正5年 『文之助系図』

26丁裏】

 正一門人楽 神田伯鯉後ニ正一門人 小正一父

 正好

 正一門人正丸

 正妙 少年手品

62丁裏】

 帰天斎ジョン 初メ口渡教授 正一門人

 帰天斎正若 志ん馬娘初メ志ん若改

 帰天斎小正一 初メ正一門人 円右門人正若改  

 魚一 后ニ大坂ノ正一トナル

大正121114日 読売新聞

小正一の追善 西洋奇術の元祖初代正一の高弟帰天斎小正一は永らく三遊派の古顔として高座を賑はして居たが、今回の震災に本所被服廠跡で焼死したので、落語講談の幹部連が同人追善の為め十八日正午、四谷の喜よし亭に有名演芸会を開催し、円右、伯山、左楽、馬生、円蔵、右女助、三語楼等が出演すると」

 




misemono at 20:28|PermalinkComments(0) 手品師・帰天斎正一 

2021年04月20日

二代目帰天斎正一①

二代目帰天斎正一 

本名福岡宗兵衛又は福岡正一。生年不詳。大阪府東区釣鐘町二丁目、河内屋という両替商の息子で、一時は長者番付にも載り、北浜株式取引所では福岡とさえ言えば誰知らぬ者もないほどであったが、その後破産、一家離散した。宗兵衛は東京へ出て初代帰天斎正一の弟子となり、東京斎魚一と名乗った。この名はかれが東京魚河岸の贔屓を得ていたからだという。

いつごろ帰阪したか不明だが、明治20年には二代目帰天斎正一を名乗って大阪の席へ出ている。先代が引退、あるいは死亡した後に二代目を襲名するのが常であるが、帰天斎の場合は初代正一(波済粂太郎・天保14年生)は明治後半まで現役で活躍している。往来が頻繁でなく、情報も伝わりにくかった当時は、東京と大阪で同名を名乗るケースは噺家でも時々あり、帰天斎も大阪だけの条件で二代目を名乗ることを許されたのか、或は勝手に名乗ったものか、その辺の事情は不明だが、とにかくこの間東京と大阪に初代と二代目の二人の帰天斎正一が存在することになった。

明治267年ごろ久々に東京へ行った。明治27年の『三遊社一覧』に「浅草区北松山町一番地 福岡宗兵衛事 東京斎魚一」とある。さすがに東京では帰天斎正一を名乗れず、もとの魚一で寄席へ出たのであろう。このとき易学を学んで帰り、筮易学の店を開いたりした。

明治24年頃から芸人周旋業(余興屋)の看板をあげ、各種の会へ芸人(二流・三流)を派遣するという今でいう芸能プロダクションのような仕事をはじめ、自身も出席して手品を演じた。この仕事は終生続け、むしろこれが彼の本業となった。

没年は山本慶一「西洋手品の開祖 帰天斎正一」(「奇術研究」51 昭和43年秋 力書房)に「明治43年」とあるが、明治445月の新聞広告に「福岡正一社中」とあって、確定するに至っていない。

 西洋手品の元祖として活躍した初代に比べて、二代目の資料は甚だ乏しく、手品史においても重要視されていないが、とにかく「帰天斎正一」の二代目を名乗った人物であり、まったく無視するわけにもいかず、わかるだけの記事(記録)を集めて一覧にしてみた。断片的で、理解に苦しむものも多いが、今後の研究課題としたい。

 

【参考資料】二代目帰天斎正一に関する資料一覧(年代順)

明治20

明治2029日 大坂日報

手品の人気 此程より北の新地裏町なる〇よし席に於て開場したる帰天斎正一の西洋手品は中々の大人気なるより、同所福井座に於て或る者が之と競争せんとて同じく帰天斎正一と云ふ名義を以て西洋手品を興行せしかど、一向人気も寄らずして、遂に〇よし席の方に圧倒されしとのことなるが、此帰天斎正一と云へるは元当府下東区釣鐘町二丁目に於て両替商を営み居たる福岡宗兵衛とて、一時は長者番付にも乗り、北浜株式取引所にても福岡とさへ言へば誰知らぬ者も無き迄に顔の売れたる者なりしが、其後不幸の打続き、遂に一家破産となりたるより、予て好める西洋手品を研究する為め間もなく東京の地に住み換て手品を稽古せし処、好きこそ物の上手なれ、存外技芸の上達せしかば、昨年は尾州名古屋に於て興行し、同地にても頗る好評を博したる者なりとぞ」

明治21

11日より京都桑原源之助席に足芸の女太夫と出演する。

明治23

明治23103日 大阪毎日新聞

「演劇交りの手品 御霊の社内の寄席で本月六日より興行する帰天斎正一の手品は、俳優を数名雇ひて手品てにはといふ一風変つた名で、演劇か手品か、手品か演劇か、何でも珍らしい狂言をする由にて、大切には正一が鉄輪を演じて正真の火焔を吹出すと云ふ」

明治231218日 大阪日新聞

「[広告]毎度御座敷之御招ニ預リ奉厚謝候。尚手品芸ニ不限、何芸ニテモ御招ニ応ジ御周旋仕候間、不相変御引立之程奉希上候 西成郡北野村千百八十八番屋敷但シ寺町木幡町北ヘ入 帰天斎正一」

明治25

明治25318日 大阪毎日新聞

帰天斎の引祝 西洋手品で有名な帰天斎正一は今回芸人仲間を脱し廃業して真面目な商業を営むに付て、明十九日より三日間東区御霊社内の席にて引祝の大集せを催し、二輪加、落語の切には目覚しき西洋手品を種々演ずると云ふ」

明治25318日 大阪朝日新聞

帰天斎の引祝 東京の帰天斎正一は西洋手品の元祖として世間に知れ今尚盛んに営業なし居るが、大阪にも帰天斎正一といふ西洋手品師ありしが、今度手品師を止めて実業に従事するよしにて、其引祝として明十九日より三日間御霊社内の尾野席にて大寄を催すよし」

明治26

1022日 共楽会に出演。口中火焔吐を演ずる。

明治261029日 大阪毎日新聞

帰天斎正一 一昨年より東京に行きて修業せし同人は今度帰阪し、明三十日より御霊社内の尾野席へ出勤して東京土産の西洋手品を演じて、是れに一座する俄師は円朝の三題話しを面白く二輪加に仕組みて見すると云ふ」

明治261113日 大阪毎日新聞

手品と俄の合併興行 平野町御霊社内の尾野席にて此中帰天斎正一の一座で西洋手品に俄を合併して興行せしが、明後十五日より芸題を取かへ、舌切雀の昔噺しを脚色(しくみ)て化物葛籠から景物を取出し、是れを看客の土産にするよし」

1119日 共楽会に出演。九重筒指輪投込を演ずる。

1217日 共楽会に出演。空中水の通いを演ずる。

〈編者註〉共楽会は歌舞、音曲、講談、落語等の技芸の発達、矯風を目的として設立された会である。会員制で、月一回南地演舞場で開催された。第一回は明治2635日で、同年30926日の48回まで続けられた。これ以降同様の趣旨で共遊会(のち共恵会と改称)、偕楽会、友楽会等が設立された。

明治27

11日より農人町善安筋へ新席を開く。富士川正朝の錦影絵を興行。

明治27420日 大阪毎日新聞

西洋手品の末路 …以前の如く客足の就ざるより孰れの手品師も困じゐるが、分て当地の同業者は困難の位置に陥り、廃業止業を為すもの多く、先づ当地にて名人の聞え高き帰天斎正一(福岡宗兵衛)さへ帽子やコツプより品物取出す如く容易く金の儲からぬを憂ひ、先年東京へ登りて家相易学を研究し、此ごろ帰阪して博労町の稲荷神社境内へ卜筮易学の店を開き(後略)」

527日 共楽会に出演。精神天降の鳩を演ずる。

81日より京都新京極角之家に出演。変幻奇術を演ずる。

明治29

927日 共楽会に出演。

明治31

11日より御霊裏長楽軒(ママ)に出演。

明治31127 大阪毎日新聞

○芸人めぐり(三十九) 柳水生 帰天斎正一の談話(一)

 帰天斎正一は西洋手品の元祖を以て鳴る初代帰天斎の撰ぶる所となり、実に其二代目を襲ひて当時斯道の家元たり。去れば石を叱して羊となし、豆を化して鶏に変ぜしむるの如き、術として究めざるなく、其場に上るや一掌反覆の間に於て生殺自在、変化縦横の妙を極む。而も其たねを洗ひ来れば単に耳目の虚実を利用するに過ぎずして、又其意外なるに驚かしむ。如何に其表裏の突飛に相異れるやは左の談話に依て之を見よ。

 西洋手品の元祖と申しますと初代の帰天斎でございまして、元は林家正楽と云た落語家でございました。慥か明治四年の頃と聞ました、何しろ維新後でございましてまだ血腥さい頃ですから芸人は仕方がございません、殊に初代は道楽でございまして、酷く借金をいたしまして東京にも居られない様になりましたから横浜へ逃て行きますと、折よく日頃贔負になりまする或外国人が帰国する折からで、同道に行て見ないかと勧められました。借金取が蒼蝿ツて始末の付ない折ではあるし、お供の洋行などは有難いと云んで二ツ返事で洋行をしました。根がソレ落語家でございますし、手品の心得もありましたものですから、何か帰国の土産にしたいものだと心掛けて居りまする内に、向ふの手品を見て是ならば持て帰られると感じまして、たう〳〵十種ばかり覚えて参つたのが抑々西洋手品の元祖でございます。

 尤も手品師や何かで初代よりは早く洋行したものもありましたが、夫は皆芸を売込で行たので、云ば抱への身分ですから、自分の芸を見せるばかりで向ふの手品を見る暇はありません。それに大金で抱へたものですから興行主が茲で五日彼所で十日と云た様に日割をしてあるから、左もありさうな噺で、向の芸を見る事も出来ないから、自然たねを持て来やう筈はありません。私の初代は只お供で連て行れたのですから先づ十種でも持て来られたのです。それは指輪の術とかトランプの術とかいふ新規のものばかりですな、恰好帰つたのは明治七年でしたが、十種のみでは仕様がありませんから在来の日本の手品も交ぜ、其内に発明した事もありますし、いろ〳〵のものを合せてマア今日の様なものになりました。

 ですカラ此の西洋の手品でも日本の手品にも行方は皆同じです。たねを聞ますと実に馬鹿気たものですよ。尤も御客様から見える様に白米が卵になつたり短銃から金の指輪が出たりする様な事が出来れば、何も手品師などを遣るには及びません。只お客様の眼を欺すのですな、然し只欺すと申した所がお客様も二つの眼で一生懸命見詰て入ツしやるのだから中々欺されるものではありませんが、其欺すには夫々法があるのです。詰り虚実を窺ふのですが、元来人間の眼といふものは二ツあるから離れ〴〵になつて右の眼が右を見れば夫と同時に左の眼で左りを見る様な働きをされさうなものですが、何も不自由なもので爾はいきません、右の眼で右を見れば左の眼も矢張り右に寄ります、其所が我々の付目ですな、左で事を仕様と思へばまづお客様の眼を右の方へ寄て仕舞ふのです。尤も大抵のお客様は夫れ位の事を御存じで入つしやるが、何しても右の方へ眼を寄せて左の方を虚にせねばならぬ様に仕掛けるのですな、一寸例を引いて申上ませう。

 

明治31128 大阪毎日新聞

○芸人めぐり(四十) 柳水生 帰天斎正一の談話(二)

 彼の茶碗の中に品物を通はせる手品ですな、初め茶碗を右の手に持て一応中は改めますと口上を云ながら客の方へグツと突出します。元より改めさせるのですから、怪い様なことはなく別に見なくとて好のですが、偖グツと突出されて見ると妙なものでお客様の目が皆其茶碗に集つて左の方はお留守になります。其所が付目で、手品師は左の手で中に打込むべき種を袂なり、洋服の隠しなりより取出て親指に押へたなり膝の所へ伏て置きます。ソレ伏せてあるからお客様には別りますまい。其所で今度は裏を改めますと云て客の方に小尻を見せる時分にチヨイと中に入て仕舞のです。然し是は種が小さいから宜ですが、雨傘とか提灯だとか大きい嵩張ものを出す時には其様訳には行ませんが、又夫々目を暗ます法があります。

 大体まづ爾いふ大きなものを出さうと思へば順序が極つて居りますな。最初細かに刻んだ紙切を取出して、春は三月落花の形とか云て扇で煽ぎますから紙切がバラ〳〵客の方に懸る。其内に今度は紙の長い旗を取出します。取出すのは前の手段と同じですな、デ、其紙旗を繰出して更に手元に繰戻す時に二三尺宛の長さにして工合よく膝位まで隠れる様にブラ下て畳むのです。夫で是からいよ〳〵大きいものを出すと云ふ場合になりますと其の紙旗の中に花火を打込むのです。夫に火を点ずると花火ですからシユー〳〵色火が飛出します。夫を右の手に持て振廻すから、客様は皆花火ばかりに眼を付けて、花火が右の方へ行ば矢張り眼が右の方へ寄ります。其所を見込んで手品師が左の手で後に用意してある雨傘なり提灯なりを手繰寄せ、今度は花火を左の方へ振ながら持て来る時にブラ下つてある紙旗の中へチヨイと入て仕舞ひ、又もや一品変ると云て中から取出すのです。詰り一方に客の眼を寄付て一方の留守になつた所を窺ふのですな。デスカラ種を聞て見ますと実に馬鹿々々しいものですよ。

 彼の昔の手品に三社札の当物といふものがございますナ。板の上に天照皇太神宮、春日大明神、八幡大菩薩と書た三枚の札を手品師が当るのです。お客様に三枚の札を渡て、其内の一枚を手品師に見せずに箱の中に入させます。夫に□せ蓋をして手品師に渡すのですから当りさうな事はありませんけれど百発百中チヤンと当ります。実に不思議ですな。けれども是は当らねばならぬ様に出来て居るのです。何故といふと其三枚の札の皆寸法を違て拵へて置のです。譬へば天照皇太神宮の牌は入物の箱へキツシリ嵌る様になつて居、春日大明神の牌は横幅が少し狭い又八幡様の牌は長が短く出来て居ます。デスカラお客様が何の牌でも一枚だけ中にソツと入れて手品師に渡すと振て見るのです。横の方へガタ〳〵すれば春日様、縦にガタ〳〵すれば八幡様、些ともガタ〳〵しなければ天照皇太神様と直に別ります。

 又水物を替ますな、茶碗なら茶碗、コツプならコツプを二ツ台の上に置き、一方へ水を入れ、一方を空にして置て夫を互違に入れ変るのです。即空の方へ水を入れ、水を入てあつたものは空になるのですな。是は水物だから六ケ敷だらうと思召ませうが是奴は又私の方で一番無雑作なものです。何故といふと、大に仕掛があるのですから、幾干技倆が能と云ても水を入たものは何したつテ抜取訳にはゆきませんから、是は仕掛に依らねばなりません。水を入てあるコツプは底に穴が明てあつて、是に鬢付油が付てあります是奴を台に載る時に指の先で剥して置と台の上にも穴があつてコツプの水は台の中に吸込む様になつてあります。又空のコツプの方は其蓋に水を仕込でありまして、是奴も鬢付油の止を剥すと中へチヤンと滴る様に出来て居ります。

 

明治31129 大阪毎日新聞

○芸人めぐり(四十一)柳水生 帰天斎正一の談話(三)

 たねを御噺まをせば未だ幾干もございますが、まア行方は似たり寄たりで同じものでございますネ。何の手品も皆お客様を胡魔化す様に出来て居るのです。

 彼の碁を打のに右を打ば左に手ありと知るべしといふ言葉がありますな。碁客が左の方に甘い手があれば敵手に悟られない様に反対の右の方を胡魔化して打て居ります。手品も右の手で何か遣て居れば必ず左の手で何か業をして居ると思へば間違なしですな。けれども手練が積で来ますと幾干客の方で爾思つた所が中々たねを見付られません。私共も最初まづ種を明して置て手品を遣ることも度々ありますが、偖て見破る人はありませんネ。尤も此手練といふものは怖いもので、掌に隠れる程のものなれば掌の表裏を改めますうちにグル〳〵ゴムで付けた様にクツ付て廻りますよ。

 夫から西洋手品と云ひますと今では看板の様になつて居ります磔けとか首切りとか、彼は一体引張りものと云て元は手品の内ではありませんでした。尤も彼様無雑作なものはありませんネ、手練も入ず只底抜をしさへすれば好のですから。夫に水芸、彼はゴム管を巧に遣ふだけです。

 爾々、此水芸に付て面白い事がありましたよ。一体私は元商人でございまして、一時堂嶋の仲買をして居りましたが、何いふものか天性手品が好でございますから素人の時分から手品の機械なぞを買ては楽んで居りました。其内に商売で失敗を取りまして、一旦東京へ参り、牡蛎殻町で叩いて居ましたが、是も思ふ様に参りません。スルト御当地の落語家で曽呂利さんが未だ桂文之助と云て居ました頃出京しまして私とは懇意な間柄ですから尋ねて来ましたが、座敷に手品道具のあるのを見て、此様に道具がある位なら何か私の席を助けてくれろと云はれましたから道楽かた〴〵助に出たのがそも〳〵席へ出る始めです。

 夫からいよ〳〵本物になりとう〳〵帰天斎を継ぐ様になりましたが、此後慥か明治廿一年頃でした田舎を興行して廻り〳〵て丹波の柏原の在で何とかいふ村で遣ることになりました、スルト折しも夏の事で加之も毎日の照続き、田畑も枯て仕舞といふ騒で、村中が雨乞ばかりに凝て居ますから中々興行物どころではありません。デスが此方も商売ですから水芸から思付て私は雨を降せる手品を見せるといふ触込で興行を遣ました。デ東西触には大業に雨を降せるから見物は雨傘を持て来いと触させますと、何しろ田舎ではあり、雨乞の最中ゆえ、雨を降せるといふ口上ばかりでも嬉しいと夕方から木戸を閉る程の大入です。 

 ナニ私の心では水芸の雨を降らせて落を取るといふ積なんです。デいよ〳〵大詰になり是から雨を降せるといふんデ先づ最初口中から火を吹く芸を遣ますと、同した加減か空が俄に掻曇つて来たかと思ふと雷光が間なく晃き、馬の背を分る様なドシヤ降になりました。まア天幸といふのでございますネ、水芸を遣所ではない、本物だから大喝采の内に仕舞つて宿に帰り、不思議な仕合があつたものだと一吹遣て居る所へドカ〳〵と巡査が三名這入て参りまして、私も吃驚して御用を聞と、強ちお前が雨を降せたのでない事は本官等も承知であるが、何しろ雨傘まで持て来と触を廻した上、彼様に雨が降たものだから愚昧の村のものは喜びの中に恐れを抱いて、彼様に雨を降せる様なことが出来るのは定めて魔法を遣ふのであらうから、蔵の中に仕舞てある大切のものでも自由自在に取かも知んと恐がるものばかりなら宜しいが、中には其様怪い奴は擲り殺して仕舞へなどいふものがあるらしい。別に本官から命ずる訳ではないが、不意の事のないうちに立退たが宜らうと思ふから注意を与へるのだと云れました。私も驚いて仕舞ました。幾干興行をしたくツても擲り殺されでもしたら取返しが付ないと夜の内に這々の体で逃出した事がありました。随分田舎には此様馬鹿気た事がありますよ。(正一の談話終り)

312日 友楽会に出演。

73日 友楽会に出演。

〈編者註〉友楽会は共楽会が終了したのち開催された会。場所は南地演舞場。第一回は明治31312日。この会は翌年6月で終了し、後は臨時で開催された。

明治311228日 大阪毎日新聞

「(投書)武田貞一さんを一銭五厘でとは余り安過ぎる、今少々値上げがしていたゞきたい。次に私も手品師の事を申さうなら、手品の元祖は江戸で近江屋庄次郎、名古屋で養老滝翁斎、浪華で柳川一蝶斎です。目下浪華で種を売らぬ手品師は二人しかありません。一人は福岡正一、これは以前両替屋の若旦那だけあつてチヨツと上品な処あり芸も其通りです。今一人は千日前奥田の軽業の中に東洋一郎とか云ふ人、元は久太郎町辺の某家の息子にて芸も相応に見られます。兎に角手品師払底の時節勉強し玉へ、上達すれば僕が幕をやる。(岸松舘二階生)」



misemono at 16:01|PermalinkComments(0) 二代目帰天斎正一 

二代目帰天斎正一②

明治32

514日 共恵会に出演。

713日 共恵会に出演。小鳥返しの手品を演じる。

8月 石川県金沢市稲荷座で帰天斎一座にて興行する。(北国新聞)

1021日 神港倶楽部での神戸共進会に出演。口中の火術の手品を演じる。

1025日 共恵会に出演。

123日 共恵会に出演。空中飛行術の手品を演じる。

122627日 共恵会に出演。

〈編者註〉共遊会は新町廓婦徳会場で明治28106日を第一回として月一回開催された演芸会。明治316月に共恵会と改称した。改称する前後から本来の趣旨が失われ、出演者の顔触れがめっきり落ち、穴を埋めるかのように正一の余興屋のメンバー(都若、金玉、延枝ら)が多く出るようになった、正一本人の出演も多いところをみると、或はこの頃からこの会を仕切っていたのかも知れない。

明治33

明治33130日 大阪朝日新聞

帰天斎の種なし 道修町五丁目御霊筋西へ入る処に「座敷諸芸周旋所」と筆太に記したる下に「遊芸舎」と小さく記したる看板を掲げてあるのは西洋奇術師帰天斎正一の宅である。こゝへ一昨々日の朝未(まだ)正一の寝て居る内に見苦しからぬ身形(みなり)をした三十歳ばかりの男が来て、手前は高麗橋二丁目の田島伝助といふ者だすが、今日午後六時から桃山の産湯楼にて百人ほど客をする筈につき、其席の余興として手品二番、軽口一番、落語一番、俄踊一番、都合五番だけ演じて貰ひたい、謝儀の処は五十円で引受て貰ひたいが何であらうと相談した。是は近頃にない好いお客さまが舞込んだと正一は大恐悦にて一も二もなく引受けた。けれど出方の間に差支があつてはならぬと朝飯も喰ずに人力車で駆廻り、軽口と俄踊は金玉に延枝、落語は都若、手品は大将自身に出馬する事に役割を定めた。彼是するうち約束の時刻になつたから右の四人と外に二人助手を伴れて六挺の車を威勢よく走らせ産湯楼へ乗り着けたが、同楼では高麗橋の田島伝助杯といふ人は来て居らぬといふ。ハテ左様いふ筈はないがと天一(正一の誤記。以下訂正)少(すこし)てれの気味で、夫ではお名前を聞違へたのかも知れぬ、お客は確か百人ほどの一座と聞ましたと云へど、夫も何かの間違ひでせう、百人はさておき十人と纏つた請取もないと云ふ。こりや変ぢやと正一頭を掻けば、外の連中は眉を顰め、其様な事なら茶漬でも喰うて来るのに、食事も酒も向ふ顋と聞たので腹の減たを我慢して来たと渋い顔して慄(ふる)へて居るに、正一は堪らず偶然(ひょっと)したら日を間違へたのかも知れぬから其様(そな)いに喧しう云ふなと連中の饑渇(ひも)じがるを制して其処を立去り、今日の損害は注文主へ浴せればよいから眞直(まんなお)しに鶏肉屋へでも行て温(ぬくも)らうと南地の鳥六へ車を着けさせ、此処で銘々腹一杯飲食した勘定が九円某(なにがし)となつた。なアに此位の払ひは高麗橋の檀那に逢て仔細を話したらまさか芸人に損をさせるやうな事はなさるまいと正一が立替へて仕払つた。左れど田島に会つて金の顔見ぬ間は安心がならぬと、鳥六を出て高麗橋二丁目に行き田島伝助さんのお宅は何処でござりますと派出所を始め近所近辺を尋ね廻つたが、二丁目には其様な姓名の者は皆無見当らぬ。即(やが)て漸う高麗橋丼池筋辺に田島といふがあつた、ヤレ嬉しやと其家へ行て尋ねると成るほど田島伝助は手前でござるが主人伝助は昨年相場で大損をした為に発狂人(きちがい)になり、此頃は用もないに車であちこち走り廻り、詰らぬ事を云歩くさうにござりますとの弁解、さては其狂人どのゝ調伏に罹り、此寒いのに空腹を抱へて産湯まで空(むだ)足をした上、九円余りの鶏肉代、悪(わる)行をしたとは何たる阿房な目に合されたものかとぼやきながら引上たは其夜の十二時頃、お蔭で一同風邪を引て鼻を詰らせたが、詰らぬは正一の懐中」

222日 和洋共遊倶楽部での演芸会に出演。

424日 共恵会に出演。水中の点火の手品を演じる。

明治33519日 大阪毎日新聞

「…次は帰天斎正一で、これは又御慶事(編者註:510日の皇太子結婚式)の当日、市参事会の催しに余興として招かれる約束なれば、何か見物の目を驚かさんと、老松の扇を持ち、各国の国旗を手の中へ揉込み日本の国旗を揉み出すといふ手品を考へ、それにしてはフロツクコートでもあるまいと新たに上下を十八円で注文した所、其催しがお廃になつて正一は自腹の切り損ないといふ手品の失策」

520日 共恵会に出演。不思議の筒の手品を演じる。

101415日 道頓堀角座での慈恵遊芸会に出演。

112324日 共恵会に出演。組蒸籠・小鳥返しの手品を演じる。

121819日 共恵会に出演。

明治34

12627日 新町婦徳会場での頌徳会寄付臨時友楽会に出演。

219日 共恵会に出演。花輪の布の手品を演じる。

421日 共恵会に出演。びっくり箱の手品を演じる。

512日 新町婦徳会場での慈善演芸会に出演。

722日 北新地永楽館での三遊亭遊輔お名残の諸芸大会に出演。

112425日 共恵会に出演。

122125日 共恵会に出演。

122223日 福井座での天王寺頌徳会寄付臨時友楽会に出演。

明治35

119日 共恵会に出演。

48日 共恵会に出演。

427日 南地演舞場での菅公千年祭演芸会に出演。主催中川芦月。

524日 共恵会に出演。

76日 共恵会に出演。錦魚移しの手品を演じる。

121516日 共恵会に出演。仙人酒の手品を演じる。

明治36

明治36111日 大阪朝日新聞

「新年怨の高下駄 …奇術師にして名を得たる帰天斎正一事福岡正一といふ男、東区土修町に住めり。三四年前より興行には出勤せず、手下に金玉、お福、徳丸等数名の芸人を抱へ込み、自分諸共開業式又は種々宴会の席へ聘ばれて余興を受持ち、観客にアツと云はせて口を開かせる傍ら、滑稽を交へて頤を解かせること誠に不思議なり。(後略)」

72627日 南地演舞場での慈善友楽会に出演。

明治37

明治37119日 大阪朝日新聞

「電話の必要はいふまでもない所に可笑味がある、一寸断つて置きますが是は・・付けた理屈でなし又無論タネもなし、御覧の通り東区道修町五丁目の路地口に和洋手品は申すに及ばず、二輪加、軽口、踊り、其他遊芸に関すること一切何んでも後注文に応じ、お座敷の余興に罷出づべしとの看板を掲げ居るは余興屋の帰天斎事福岡正一(四十年)なり。其手下には小蝶斎、〇〇亭都若の面々、俄師は田楽一座の者を集めたれば心太きこと心天(ところてん)を百本、縄に綯(な)ひたるが如し。

 さて去年の十一月の初め、帰天斎は手下を呼び寄せ、年末忘年会の余興、また新年の当込み是等の紋日に際し何か自分等に取つて至極便利な事と儲口の多い工夫はないかといふ問題を持出したり。その時鼻の高いので自慢の都若真先に進み出で、師匠イヤ議長、我輩熟々(つらつら)考ふるに、今こゝに一料亭に客があつて余興を所望するとせよ、そして早速俥で道修町の即ち此処へ知らせに来ると仮定せよ、我輩支度もそこ〳〵大急ぎで出掛けたところが、往復時間の長いのに退屈して客はモウ帰つた跡の祭り、踊るにも踊られず笑ふにも笑はれず、加之(おまけ)に料亭の不足を聞いてスゴ〳〵引下退る場合少からず、さればこの際大奮発、電話を設置し、チリン〳〵そら来た、モシ〳〵ハイ〳〵で飛出すやうにせば、時勢に伴うて利益亦多からんと云ふに、正一手を拍ち、賛成々々都若君の説大に我意を得たり、明日から早速電話の売物を各自尋ぬべしと云ふ、これにて議事終了。

 手下の議員退散した跡に正一の女房おあさが承知せず、電話の売買は百円とか百五十円とか聞く、其上に内へ引く手数が十五円もかゝるさうな、お前それでよろしいかと異議を唱へたり。正一勃如(むっ)とし、これは無礼、怪しからぬ、乃公(おれ)を発狂人思ふか、百円は愚か五百円、千円かからうと商売道具、女子の知る所ではないと叱責(たしな)め、いろ〳〵聞合せた揚句、南区順慶町二丁目中橋筋角の通名魚金といふ料亭の電話が不用で売りに出たから丁度幸ひ、その番号は東の三千九百二十五番といふ随分やゝこしき番号、直段は一百六十五円、それと極めて十五円の掛替料を出し、各料亭へは其番号を記した名刺に依頼書を添へて配布(くば)り、サアこれでよし〳〵、注文便利、儲口沢山、今に女房をアツといはせて見せうと掛替の番号帳が新調された十二月十日の翌日、電話を睨んで立つていると、果たせるかなチリン〳〵、オヤ朝からの呼び出し何処だらうと耳を当ると、モシ〳〵あの今晩お客が十五人。成程。一人前一円五十銭の誂へ。ヘイ一寸申上げます、手前方には別に一円五十銭と相場の定つた芸人は居りませんが、手下の者で精々間に合せませう。御注文は手品、二輪加、踊か種類は何、人員は如何程。モシ〳〵あなたは。ヘイ余興屋の帰天斎正一。何ぢや阿呆らしい、此方は魚金へ料理の注文。アヽさうですか、イヤ御尤も、昨日までは魚金の電話、今日は譲り受けて帰天斎正一方の電話番号。えらい間違ひぢや左様なら。チリン〳〵モシ〳〵又魚金だらう、ヤレいそがしや、耳が迷惑、手前方は余興屋でござい、帰天斎正一でございの弁解、女房之を見て、お金が掛つただけほんまにマアよう注文が来ますなアと冷笑(あざわら)ふ。

 正一帰す言葉もなく其侭新年を向へたが、雑煮餅の咽喉を通らぬ内からチリン〳〵、サア来た、今度は此方からモシ〳〵魚金と違ひますよと、先を越せばイエ私方は福岡さんを呼んで居るのですとの口上、飛び立つ程に嬉しく、ヘイ手品と踊りの芸者併せて七名、あなたは紡績会社さま、ヘイ毎度有難うと答へ、オイおあさ此通りだ、それから翌日も翌々日も午前午後もチリン〳〵引続いて繁昌、正一の得意、早や十何件の注文、全く電話のお蔭といへば女房遂に感服し、此程からは正一の余興場所に電話、あれば直ぐ呼び出して、モシ〳〵夕飯は内ですか、お昼に煮た大根を残して置きませうか、これには正一いさゝか閉口し、おあさ、電話も結構だが余興の演芸中にどうぞ大根、棒鱈など掛ける事だけは控へて呉れ」

316日より五日間、桂派各席での二代目桂文枝襲名披露興行に出演。

61314日、南地演舞場での諸芸大会に出演。

62526日、南地演舞場での大阪名人演芸会に出演。

721日より内本町平林座に出演する。

727日より三日間、堀江明楽座での慈善演芸会に出演。

明治38

明治38131日 大阪毎日新聞

「[広告]商号登録 余興屋 福岡正一 道修町五丁目 電東三九二五

420日 神港倶楽部での神戸共遊会に出演。

420日から五日間、三友派各席での三遊亭円若改め三笑亭可楽襲名披露公演に出演。

513日から三日間、中之島公会堂での義勇艦隊建設寄付大演芸会に出演。

明治39

7月末~8月にかけて朝日新聞社主催で日清・日露の戦跡をたどるクルーズ「満韓巡遊船」ロセッタ丸に乗船する。

明治3983日 大阪朝日新聞

730日 呉から門司へ向かう船中にて)…続いて現れたのはおなじみの帰天斎正一の手品、きせる飛ばし、比翼紐、次は玉子取出しの一曲、その玉子の入つたる大きな鑵の中から最後に引張り出したるは、三畳敷ばかりの大きなビラ紙にろせつた丸満韓巡遊壮挙を祝す、乗客諸君その字を肉太に書いてある珍趣向に拍手喝采鳴りもやまず、周防洋(なだ)の魚龍も踊り出でんばかりの好人気。…」

明治3988日 大阪朝日新聞

「(82日)…今宵の此月を皆々甲板の上に眺むる所に例の宝井琴窓甲板に現はれて快弁を揮へば、大阪の帰天斎正一も其次に現あhれて魔術の種子明かしを見せ大に喝采を博したり。…」

明治3993日 大阪朝日新聞

「(821日 佐世保)…時分は好しと宝井琴窓君、得意の義士伝の読みつゞき不破数右衛門の二齣(くさり)、つづいて帰天斎正一君が現れさうなものと楽んでいると、先生は長崎で左様ならであつたと。…」

〈編者註〉ロセッタ丸は823日神戸港着。

明治39828日 大阪朝日新聞

「本社催しのロセッタ丸に乗りこみたる東区道修町五丁目奇術師帰天斎こと福岡正一は、帰阪後満州土産の新奇術を演ずるより昨今諸方の座敷より引張凧となりて目を廻はすほど忙しきよし」

1124日より四日間、金沢亭、瓢亭、幾代亭、杉の木席での桂手遊改め二代目桂三木助襲名披露興行に出演。

明治391231日 大阪毎日新聞

「[広告]商号余興屋 大阪市東区道修町五丁目八番地 福岡正一 右余興屋ナル商号ハ前記福岡正一殿専用ニ候所、不注意ニ小生使用致、甚ダ不相済、依リテ今後ハ余興屋ノ商号ハ使用不致候 明治三十九年十二月卅一日 大阪市東区安土町弐丁目 福田新次郎 御得意様」

明治40

明治4029日 大阪毎日新聞

「芸人の募集 東区道修町五丁目余興屋福岡正一は何でも珍らしい芸のある(遊芸鑑札を所持する)者を募集し居る由」

315日 南地法善寺内紅梅亭での三代目金原亭馬生三十七回忌追善演芸会に出演。催主五代目金原亭馬生。

明治43

明治43514日 大阪毎日新聞

「[広告]総本家 余興屋 大阪道修町五 福岡正一 電話四〇六五

814日 大阪毎日新聞社主催浜寺デーの第一余興場で福岡正一社中が雑芸を披露。

明治44

567日 城東練兵場での招魂祭の余興に福岡正一社中が出演する。



misemono at 14:30|PermalinkComments(0) 二代目帰天斎正一 

2021年04月02日

手品師・養老滝五郎①

               手品師・養老滝五郎

一、初代養老滝五郎

 養老滝五郎は三代確認されている。二代目、三代目は確定されているが、初代は諸説あっていまだ確定するに至っていない。編者もあれこれ考えてみたが、結局分からなかった。なにがどう分からないのか、せめてそれだけでも提示して、後の解決に役立てたい。

 『本朝話者系図』(三世三笑亭可楽・明治四年頃成立/以下『系図』)から始めよう。養老滝五郎の項は以下のごとくである。

 養老滝五郎 青山ノサン。初メ春滝と云。幼年之時より其業ニ長。二代春五郎と云。旅行中ニ春五郎出来ニ付、滝五郎とす。明治四年春、尾州ニ剃髪して滝翁斎と改む。門人ヲ略ス。 

 同書の滝五郎の前に鈴木春五郎が立項されおり、滝五郎は鈴木春五郎の門人とある。はじめ春滝と名乗り、のち二代目鈴木春五郎を継いだ。しかしその後、旅興行へ出ている内に江戸で別の二代目鈴木春五郎ができたので、滝五郎と改名した。明治四年、尾張(名古屋)で剃髪して滝翁斎と改めたとなっている。

 いつ滝五郎と改めたのか、肝心の年代が記されていないので分からない。また滝五郎と改めた時に亭号も養老と改めたのかどうかも明記されていないが、おそらく滝五郎と改名したときに亭号も養老と改めたのであろう。

滝翁斎に関しては後回しにして、先に二代目養老滝五郎(西井庄吉)が明治十五年八月十九日付で警視庁に提出した「手品芸業元祖調記」(以下「調記」)を見てみよう。大化元年から享和二年までの記述は省略して文政元年から始める(句読点編者)。

 文政元年二月、鈴木伝五郎ヨリ代々仕来リ手品芸術、私師匠滝五郎エ譲リ渡シ置、祖師同八月ニ世ヲ去り、是ヨリ伝五郎其後数代ノ芸家名ヲ読ツギ鈴木滝五郎ト名紙書シ、其頃鈴木ノ弟子数名ニシテ規則不立、師匠家名ヲ養老滝五郎ト名紙書シ、大道具引移テ早替リ水カラクリノ一曲ヲ発明ス。

 二代目滝五郎のこの「調記」は文意もあやふやで、どこまで信じていいか分からないやっかいな文書だが、鈴木春五郎(鈴木伝五郎十二代目改め)が文政元年八月に死亡したのち鈴木滝五郎(『系図』では鈴木春五郎)となり鈴木の家をついだが、門人より故障が出て養老滝五郎と改めたとある。このことは書き方は違うが『系図』と共通している。そしてそれは文政元年(或は二年)であったという。

「調記」にはこのあと初代滝五郎が文政二年九月に将軍家斉の上覧に供したこと、天保八年六月に上野宮様の上覧に供したこと(共に事実関係は未確認)が記されている。

 右之通芸業ヲ営ミ、諸国ヲ渡世致居在内、師匠養老滝五郎世ヲ去リ、私其名儀ヲ請綴当今至リ二代目養老滝五郎、然ル処御改正ニ相成。(後略)

「師匠養老滝五郎世ヲ去リ」がいつなのか。「御改正」は明治維新そのものか、あるいは芸人の鑑札制度の改正等のことか、具体的に何をさすのか分からないが、明治以後であることは間違いないので、初代滝五郎は明治以前に死亡していたことになる。

 初代滝五郎が明治維新以前に死亡していた傍証として、慶応二年に海外渡航を願い出た隅田川浪五郎を取り調べた際の記録「市中取締書留」がある。それによると、浪五郎は「先代芸名養老瀧五郎」から手ほどきを受けたと語っている。慶応二年にはすでに二代目滝五郎がおり、浪五郎は当然それを承知していたので「先代」と語ったのであろう。

 以上のことから、二代目養老滝五郎(西井庄吉)の師匠初代滝五郎は明治以前に死亡しており、『系図』のいう明治四年に滝五郎から滝翁斎と改名したという記述は別人のものが混入したという結論に達する。

では滝翁斎と改名した滝五郎はだれなのか。それを考える前に、有名な弘化三年の江戸西両国での刃渡りの興行について述べておこう。

 実はこの興行を「弘化三年五月」としたのは朝倉無声で、『見世物研究』に「弘化三年五月に江戸両国広小路の観場で、養老瀧五郎が演じた刃渡りは、聊か趣向を凝らしたものであつた」とある。しかし引用文献は記載されておらず、無声が「弘化三年五月」とした根拠はいまだに不明である。

 下にこの興行のものと思われる一枚の絵番付と五枚の錦絵を掲げたが、そこにも年代は書かれていない。但し錦絵は名主一印で、天保十四年から弘化四年と推定され、弘化三年の可能性を裏付けている。一番不思議なのは絵番付で、表題・演者・年代・興行場所の記載が一切ない。通常これだけの興行ともなれば、最低限演者と興行場所が記載されていなければならない。口上だけ入っているというのも妙なもので、しかもおかしな所に配置されている。考えられるのはこの絵番付は二枚組の一枚か、あるいは正規の絵番付の便宜的な後摺ではなかろうか、ということである。なんとも謎の多い興行だが、大入り、大当りであったことは以下の絵画資料からも十分推測できる。
  

 【絵画資料】

  ①≪絵番付・木版墨摺≫(河合勝コレクション・「愛知江南短期大学」紀要37所収)

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  ②≪大判錦絵・国芳画・加賀屋安兵衛板≫(『国芳』339) 
 

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                「養老瀧五郎 釼の刃渡り 両国於広小路ニ興行仕候」

③≪大判錦絵・国芳画・加賀屋安兵衛板≫(『見世物資料図録』42頁)

国立 養老

         「無類大當り〳〵 養老瀧五郎 釼のはしごのり 両ごく於広小路ニ興行仕候」

④≪大判錦絵・国芳画・加賀屋安兵衛板≫(『見世物資料図録』42頁)

国立 養老2

              「養老瀧五郎 釼の刃渡り 両国於広小路ニ興行仕候」

⑤≪大判錦絵・国芳画・加賀屋安兵衛板≫(『見世物資料図録』42頁)

国立 養老3

              「養老瀧五郎 釼の刃渡り 両国於広小路ニ興行仕候」


 ⑥≪大判錦絵・山本屋平吉板≫(河合勝コレクション・『日本奇術文化史』所収)

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  「新つるぎの刃渡 東都両国広小路におゐて 大當り 太夫養老瀧五郎」

 さて、いよいよこの滝五郎である。告白すれば、編者はなんの疑問もなく『系図』や「調記」で見てきた江戸青山在の初代滝五郎だと思っていた。ところがこれは別人だという説を長野栄俊氏が『日本奇術文化史』(平成28年)のなかで提示された。その根拠は「口上」のなかに「養老の滝五郎、大坂表より罷下り」とあるに因る。残念ながら編者はこの絵番付の実物を見ていないのでなんとも言えないが、「大江戸繁昌の御見物様」という文字も見え、確かに大坂下りの口上に思える。

 しかし、弘化三年といえば江戸の初代滝五郎は健在のはずである。それなのに西両国という見世物のメッカによそ者が「養老滝五郎」の幟を立てて興行できたかどうか、しかも国芳の錦絵まで刊行して。どう考えても不可能としか思えない。かなり無理なこじつけをすれば、江戸を離れて「旅行」していた滝五郎がしばらくぶりで「大坂表より罷下」と読めないこともない。

 ところがこんな屁理屈が覆られそうな絵番付が橘右近『寄席百年』(小学館・昭和57年)に載っている(下掲)。

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 これにははっきりと「大坂下り 風流手品 養老瀧五郎」と書いてある。しかし年代・興行場所の記載はなく、演目もまったく違っているので、この滝五郎を弘化三年に刃渡りをした滝五郎と即座に同一視することは出来ない。また家紋も違う。そして絵師の芳輝(文化5年~明治24年)は浮世絵事典によれば天保四年に国芳の弟子となり、作画期は天保期とある。もしこれが天保期の絵番付だとすれば、話はますますややこしくなり、もうお手上げである。

 最後に、明治四年に滝翁斎と改名した滝五郎はだれなのかという問題だが、もちろん初代でも二代目滝五郎(西井庄吉)ではない。考えられるのは江戸とは別に名古屋をホームグランドに活躍した滝五郎がいたのではないかということである。もしそうなら、そもそも養老滝五郎の芸名は美濃の養老の滝からきているのだろうからこちらが本家といえなくもない。また長野氏が指摘された弘化三年の大坂下りの滝五郎(これは大坂下りの滝五郎が江戸の滝五郎と別人だという前提にたってのことだが)、あるいは上掲の「大坂下り 風流手品」の滝五郎(同一人かも知れない)も考えられる。考えられるというだけで、いずれもかすかな灯にすぎない。はっきりしていることは、滝翁斎は朝日新聞の記事により明治十三年二月二十六日に七十余歳で死亡したということだけである。




misemono at 18:00|PermalinkComments(0) 手品師・養老滝五郎 

手品師・養老滝五郎②

二、名古屋の養老一派──滝五郎、滝三郎、滝之助

 明治四年に名古屋で滝五郎より改名した初代養老滝翁斎の一門と思われる滝五郎、滝三郎、滝之助ら養老一派の名古屋での動向を、『見世物雑志』の小寺玉晁が書き残しておいてくれた記録(『勾欄雑集』『勾欄類見聞』『類雑反古』を中心に列挙しておく。滝翁斎は大阪へ移っていたのか、まったく出てこない。

明治2

『勾欄雑集明治29月の条

 「九月十日より若宮にて手つま 大夫養老滝之助、養老滝五郎、口上養老滝壽 評悪しき哉、直に仕舞」

明治6

『勾欄雑集明治61月、4月、6月、7月、12月の条

 「明治六年一月一日より伏見町々隠福泉寺にて、手妻早替り 養老滝三郎

 「四月 日より金橋座にて養老滝三郎

 「六月五日より本重町八百吉にて養老滝三郎一座」

 「同(七月)十日より(編者註:名古屋東本重町八百吉にて)養老滝三郎一座に成」

 「十二月四日より桜の時節[町筋](初ての小屋)安清院おゐて軍事講釈。右跡にて養老滝□郎(編者註:滝三郎ヵ)」

明治7

『勾欄類見聞』明治77月、8月、9月の条

 「七月一日夕より広小路神明にて、三笑亭扇雀・養老滝之助・養老滝五郎

 「同(八月)廿日より武平町千鶴座にて手品早替り 養老滝三郎一座」

 「九月三日夕方より穴門筋 養老滝三郎一座」

 「九月十七日夜より相生座にて、養老滝三郎一座」

明治8

『類雑反古』2月の條

「二月□日より、西魚町福亭にて噺 林家正三 養老滝三郎 桂文枝」

『類雑反古』2月の條

「二月十三日より、大須山門外北側にて噺 桂梅枡 林家正蔵 林家銀万 笑福亭梅鶴 養老滝三郎 スケ林家延吉  名古
  屋正三」

明治11

明治11425日 石川新聞(『明治の演芸』)

「明日より石川県金沢西御影町芝居座にては、養老滝五郎の一座が、芝居水芸といふ者を始めますから、皆さんお出掛なさへとは決して申上ませんぞ、新聞屋は」

明治12

明治12810日 愛知新聞

「兼て手品にて有名なる養老滝三郎は、近々に新工風の手品を拵て、三州豊橋、岡崎へ興行に行く由にて、其内には当所も追々寒冷になると流行病も撲滅するゆへ、興行も許可に成から、其時には一花咲かせるといふ」

『愛知県人物誌 第二編』(明治1212月発行・鶴舞中央図書館蔵)

 【手品】養老瀧五郎 名古屋乗名丁に住す

     養老瀧之助 槁木増太郎と称す、名古屋江川端丁に住す 

〈編者註〉この名古屋住の滝五郎は、二代目の滝五郎(西井庄吉)とは別人で、いわゆる名古屋の滝五郎と考えられる。下掲の大阪府立中之島図書館蔵の絵番付の滝五郎も名古屋の滝五郎であろう。その根拠は絵師の禮山で、明治時代に名古屋に住し、明治16年の絵に「名古屋 礼山画」と記し、明治27年の「名古屋市独案内」にも「浮世画師 白川町 市川礼山」とあることに因る。 

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なお、滝之助に関して、明治321010日付「大阪毎日新聞」に以下の記事が出ている。

「京都芸人諸芸大会 今明の両日午後四時より京都新京極大黒座に於て故養老瀧之助十七回忌追善の為め諸芸大会を催し、俄、落語、音曲噺し、講談、新内、浮れ節、浄瑠璃、娘軽業等の催しある由」

 十七回忌というから明治16年に死亡していることになる。これが名古屋の滝之助(槁木増太郎)かどうかは確定できないが、もしそうなら、十七回忌追善をしてもらうくらいの人気者(実力者)だったと想像される。

明治13

[番付]『楳の都陽気賑ひ』明治十三年一月一日新版

 養老瀧翁斎・養老滝五郎・養老滝三郎・養老滝蔵・養老卜瀧・養老滝之助・養老春滝  

〈編者註〉これは大阪の落語番付であるが、京都、神戸、和歌山、名古屋の落語家も数名載っており、上に「西京」「神戸」「紀州」「愛知」と記されている。因みに「愛知」は林家延玉、林家正三以下七名が載る。最下段に「別表・手品」欄があり、二十一名の手品師が載る。中で最も多いのが養老派で柳川派の五名を凌ぐ。滝翁斎を筆頭に養老一派が大阪、京都、名古屋の寄席で活躍していたことが窺える。

最後に養老滝三郎の絵番付(「東京 横濱登り怪だん早替りにて奉御覧入候/太夫養老瀧三郎・若太夫養老瀧之輔」『国立劇場所蔵 見世物資料図録』87頁)を掲げておく。

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のち二代目養老滝翁斎となった滝三郎と思われるが、「東京 横濱登り」となっていて、なんとなく違和感がある。上掲の滝五郎の絵番付と演目がよく似ており、若太夫の滝之助も同じことから、あるいは名古屋の滝五郎が滝三郎を名乗っていたことがあり(たとえば東京などで)、その時のものという可能性もある。もしそうならこちらのほうが時期が早い。


三、養老滝翁斎

結局どの滝五郎が滝翁斎と改名したのか分からぬままであるが、とりあえず「明治四年春、尾州ニ剃髪して滝翁斎と改」めた後、明治十三年二月二十六日に亡くなるまでの初代滝翁斎の記録、及びその後この名を継いだと思われる二人の滝翁斎をまとめておく。

◇初代養老滝翁斎

明治8

『浪花名所昔噺連中見立』明治八年七月 

  はなやかな涼のふねや花火上 水芸いろ〳〵大川の事  養老瀧翁斎

〈編者註〉噺家に大阪名所を見立てた狂歌を添えた見立番付。手品師は瀧翁斎と柳川夢丸の二人が載る。滝翁斎の水芸が大阪ですでに定着していることがわかる。

明治12

明治12215日 朝日新聞

「新町扇屋の席にて始めたる養老滝翁斎の水手品は、大評判にて大当り〳〵なりと」

明治12225日 朝日新聞

「常安橋南詰安楽席に於て、一昨日より養老瀧翁斎が出席して水芸手品を始め、曲舞は中村琴八、市川小君、市川小朝等の一座であります」

明治1236日 朝日新聞

「西区旧長州邸(やしき)の安楽亭にて、去廿四日より始まりし養老瀧翁斎の手品が大當りであり升が、中にも琴八と小朝の両別嬪は花道から押出して来ると、小朝の忠信より琴八の静が好ひ、イヤ小朝が好ひと、現(うつつ)になる青年(わかもの)は沢山あるものから、益々人気は盛んであります」

明治12626日 朝日新聞

養老滝翁斎は昨今難波新地法善寺境内の定席に於て、種々得意の手品を始めしが、実に奇曲でありしと」

明治12712日 朝日新聞

「水芸に名を得たる養老瀧翁斎は七十の坂を越し、又固有(もちまへ)多病にて、技芸(わざ)も捗々敷出来ぬ故、来る九月上旬より堀江の劇場にて一世一代の興行をなして、門下(でし)瀧三郎へ瀧翁斎の名を譲ると」

明治13

明治13131日 朝日新聞

「同所(しんまち)扇屋の席に於て一昨廿九日より養老瀧翁斎の水芸手品及び新発明の早業を興行するとか」

明治13229日 朝日新聞

「高名なる手品師養老瀧翁斎は、両三日前、死去しました」

明治1333日 朝日新聞

養老瀧翁斎の死亡せしは日外(いつぞや)記載せしが、其辞世なりとて去人より寄せられたれば、其儘掲ぐ。『水は水火は火に帰る事なれば我も冥途へ逆もどりハイ』」

〈編者註〉「国立劇場所蔵 見世物資料図録」(87に養老滝翁斎の絵番付(「太夫 エレキ・唐子 養老瀧翁斎」)が載っている(下掲)。

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年代・興行場所記載なし。このあと「養老瀧翁斎」の名を継ぐものが何人かいるので、れが初代と即断は出来ないが、絵師の六花園芳雪(天保6年~明治12年)は大阪の絵師で、作画期は文久~明治8年頃とあり、初代だと断定していいだろう。まさに水芸の滝翁斎の名に恥じない水だらけの絵番付である。


◇二代目養老滝翁斎

明治13

明治13423日 朝日新聞

「這回(こたび)種子家二代目養老瀧翁斎は、加賀の金沢より聘せられ、四五日の内に当地を発足なし、同地に於て五十日間興行するといふ。尤(もっとも)先代の瀧翁斎は、先年金沢にて非常の喝采を取し事ありしが、今の瀧翁斎も中々師に劣らぬ達芸ゆえ、這回同地へ赴きし上は先年師匠のせられし芸を演じて、一層喝采(ひょうばん)を得(とら)んと或人へ語りし由」

〈編者註〉これは間違いなく、初代の弟子であった滝三郎が死後すぐに継いだ二代目であろう。ただこの後の記録がない。


養老滝翁斎(万国斎総理・大鹿由三郎)

明治17

『近代歌舞伎年表・名古屋篇』明治17年の項

「四月二十一日より、名古屋五明座にて、養老滝五郎改滝翁斎の手品」

「六月四日より、名古屋広栄座にて、養老滝翁斎の手品」

〈編者註〉『近代歌舞伎年表』の四月の記録は明治17412日付「名古屋絵入新聞」(編者未見)がもとになっている。長野栄俊氏の『日本奇術文化史』(平成28年)によると、「名古屋絵入新聞」には、名古屋の滝五郎が四年間ほど東京にいたが、この度帰郷して師の名を継いで滝翁斎と改名した。この滝五郎改滝翁斎も「水芸をもて鳴滝の音に聞えし」と形容され、「一流手品の水尽し」を演じたと書かれているという。記事中の滝五郎として四年間東京にいたというのは何とも理解しがたい。東京の二代目滝五郎(西井庄吉)がこんなことを許すはずはあるまい。上掲滝三郎の絵番付でみたように、東京では滝三郎を名乗っていた可能性がある。或はまた東京は謳い文句で地方廻りをしていたのではないだろうか。

ともかくこの滝五郎は第二章の名古屋の記録に多く記された滝五郎であろう。滝翁斎と改めて、さらに名古屋に記録を残し、万国斎総理と改名したのち、明治20114日、神戸楠公社内戎座で縊死した。享年四十。本名大鹿由三郎(由太郎トモ)。

明治18

明治18728日 名古屋絵入新聞(『明治の演芸』)

「手品の隊長 是も名古屋の玉と評する水芸手品の中興開山・養老滝翁斎の一座が、来る二十八日より大須五明座にて興行。夏のあつさの折柄には目と身の涼い上手な水芸、定て毎日大入であるや必然(はっきり)で厶(ござ)い」

明治18729日 名古屋絵入新聞(『明治の演芸』)

「手品に二○カ 兼て五明座で興行するといへる養老滝翁斎の一座へは、南蝶、都蝶、市雀等の一座の二○カを加へ、手品と二○カを入れ違ひにし、又手品の中へ二○カ師が手伝ひに出て、いろ〳〵な芸をするとの事なれば、一層おもしろからう。(後略)

明治19

『近代歌舞伎年表・名古屋篇』明治19年の項

「九月十七日より、愛知県平田町大松座にて、養老滝翁斎の手品水芸」

明治20

明治20116日 神戸又新日報

手品師の首くゝり 此間中より楠社内戎座において昼夜とも興行せる手品師連中の一人、尾州名古屋門前町百八十一番地、当時大坂南区高津町八番丁十八番地寄留、大鹿由三郎(四十)といふは、一昨日の昼芸にて三度の手品に二度までも遣りぞこなひ、舞台にて恥を掻きしとて鬱(ふ)さぎ切て居り、女房のはやし方をして居るお何といふが色々に問慰めなどして居りしに、軈て夜芸の時分にもなり、九時頃には同人の舞台へ出る筈なるに、一向其姿の見へぬより、如何はせしぞと捜せしに、楽屋の片隅に引幕の麻の紐もて縊死なし居りければ、人々大に驚き、直ちに此旨を警察署に通じ、警吏出張の上、夫々手順をなしたりとか。此由三郎と云は元来神経質にて、極気の小(ちいさ)い男のよしなれば、果して右遣りぞこなひの事を深くも心に恥ぢらひて、斯の最期を遂げたるものなるか」

明治20118日 「浪華新聞」(『明治の演芸』)

「…元名古屋の手品師にて本名を大鹿由太郎(四十)、昨年まで養老滝翁斎と名乗て居た万国斎総理は、此頃、神戸楠公社内の戎座へ懸り、例の通り興行して居たところ、去る五日昼の部を仕舞ひ夜の興行に取懸る前、舞台上のブドウ棚へ登り、大道具の綱を以て一世一度の首釣と云ふ芸を演(やっ)たので、忽ち魂魄(たましい)が天上し遂々(とうとう)冥途へ出掛けた(後略)」

〈編者註〉最後に年代・興行場所ともにないが、この滝翁斎のものではないかと思われる絵番付(河合勝コレクション・「愛知江南短期大学」紀要37所収)を掲げておく。

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 今までは思ったこともなかったが、今回改めて上掲の「養老瀧五郎・瀧之助」(大阪府立中之島図書館蔵)と「瀧三郎・瀧之輔」(『国立劇場所蔵 見世物資料図録』)を眺めてみると、妖怪人形手品、龍宮浦島の曲、天竺徳兵衛妖術の曲、水からくりなど同じ手品を演じており、名前こそ違うが、この三枚は同じ演者ではないかという気がしてきた。すなわち滝三郎→滝五郎→滝翁斎→万国斎総理である。むろん想像(妄想)に過ぎないが。



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