モンガ、西荻を歩く (序)

 西荻(西荻窪)に来てから、住んで、この三月で二〇年になる。会社勤務しているときは、家と駅の行き帰りで西荻という町を理解することはなかった。それでも休日に町をウロウロしたり、名所と言われるところに行ったりして徐々に西荻という町に馴染んでいった。


  西荻ブックマークのトークイベントを聞きに行った時、長年西荻に住まわれている平松洋子さんか角田光代さんが、西荻の商店街の人は最初は取りつくの大変だが一旦仲良くなってしまうととことんよくしてくれる、という話を聞いた。一見客には厳しい扱いなのだ。それを裏付けるように、以前、西荻には大手のチェーン店がないと言われることもあったようだが、現在は駅周辺に見かけられる。




 朝日新聞社会部編【中央線―東京の動脈いまむかし】朝日ソノラマ、発行昭和50年(1975)で西荻窪にこんなことが記されている。

 「清潔な駅」は、これといった名所もない同駅の苦心のセールスポイントになっている。「この駅に着任して、はたと困りましてね、何もないのなら、歴代駅長が心がけてきたきれいな駅のイメージを、定着させてやろうと思って」

 駅員や駅に対する苦情は少ない。近くに住む評論家の入江徳郎さんは「気持ちのよい駅を見たかったら、西荻窪駅へおいで、いいたい」と、ぞっこんのようだ。


 『西荻窪、「清潔な駅」が新名所』のタイトルになっているように、何もないところだったようだ。ちなみに、一日平均乗降が九万人、荻窪駅が二十三万四千人、阿佐ヶ谷駅が九万五千人となっている。2017年、一日平均乗車人員を見ると、45214人で乗降を入れて倍にすると、九万人ちょいで1975年と変わらないとなるが、この本に載っているのがアバウトな数字なのか、本当に43年まえと変わらないのか、不思議だ。西荻窪駅開業が1922年(大正11年)で、荻窪駅開業が1891年(明治24年)だから荻窪駅から31年後のことである。ちなみにもう一方隣りの吉祥寺駅開業が1899年(明治32年)である。

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西荻窪駅、北口アーケードのピンクの象(三代目)
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善福寺池
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井草八幡宮

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「サライ」1993.10.07
特集:老舗で味わう あの人の愛したライスカレー
松本清張 こけし屋 ビーフカレー

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「カルヴァドスの会」 
こけし屋で開催されていた、中央線沿線の文化人の集まり、交遊会。1949(昭和24)~1983(昭和58年)
石黒敬七、井伏鱒二、丹羽文雄、徳川夢声、東郷青児、鈴木信太郎、田川水泡、金田一京助、棟方志功、開高健、古谷綱武、高橋健二、小松清、細田源吉、福田清人、上林暁などなど。


こけし屋別館2階で
《こけし屋とカルヴァドスの会》
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杉並にあった映画館]図録より引用
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18:西武キネマ (戦前にできた映画館)
18:西荻富士館 (戦前にできた映画館)
19:横山座 (戦前にできた映画館)
  ⇒西荻日活館
  ⇒西荻劇場
  ⇒シネマ西荻
20:東宝西荻館 (戦前にできた映画館 )
  ⇒西荻東映 (戦後昭和30年代できた映画館)
21:西荻名画座 (戦後昭和30年代できた映画館)
21:西荻銀星座 (戦後昭和30年代できた映画館)
22:西荻セントラル (戦後昭和30年代できた映画館)





映画館が、南口の西荻シネマ、セントラル、名画座、銀星座,北口の西荻東映、5ヵ所あったようだ。昭和何年ころなのか、地図に銀星座が見える。今は、JR線の高架になっているが北口と南口が踏切になっている。1969年(昭和44年)に高架になったようだ。 

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≪南口に、映画館・銀星座があった頃の地図≫


地図に≪紅屋菓子店≫が見える。こけし屋で知り合いとお茶したとき、会計されている年配の方に≪紅屋菓子店≫のことを聞くと店を出て指さして教えて戴いた。『あそこにありましたよ』と、感慨げに話された。古書Sさんのおばあちゃんに≪紅屋菓子店≫のことを聞くと、『よく一緒の踊りを習いにいきましたよ』と懐かしそうに話された。≪紅屋菓子店≫、ここが書肆紅屋さんの実家があったところだ。素人の私に本のこと、古本のこと、書店のこと、古本屋のこと、出版社のこと、取次のことなどをご教示してもらえたので《古書西荻モンガ堂》があるのだ、と思う。


空想書店・書肆紅屋著【書肆紅屋の本 ―2007年8月~2009年12月】論創社
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モンガ、西荻を歩く 1

 いつも何かと気をつかって頂くKさんが来店され、折角古本屋をやっているのだから、こんな企画をと便箋に書かれたものを見せてくれた。西荻に住んだ人たちの跡地を巡り、同時に著書を載せるという案だ。著書というのがミソで少しでも店の宣伝と来店者が増えるという気づかいなのだ。中央線沿線で阿佐ヶ谷文士会のものがあるが、西荻付近限定にして作家、芸術家、作品など取り上げていく。その第一回として、瀬戸内寂聴【場所】を取り上げる。これもKさんに教わったものだ。





瀬戸内寂聴【場所】新潮文庫 2016 カバー装画:久村香織
場所の歳月:荒川洋治
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 父の故郷「南山」、母の故郷「多々羅川」、夫と娘を捨てて出奔した「名古屋駅」、作家としての出発点であり、男との複雑な関係も始まった「三鷹下連雀」そして「西荻窪」「野方」、ついに長年の出家願望を成就させた「本郷壱岐坂」。父、母を育み、様々な波乱を経て一人の女流作家が生み出されていった土地を、八十歳にして改めて訪ね、過去を再構築した「私小説」。野間文芸賞受賞作。
    (カバー裏面解説より)


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 まだ武蔵野の佛をとどめた善福寺周辺を歩き廻り、駅の横の踏切を渡って南側にあるこけし屋で、美味しいケーキを食べ、バス通りにある上野のうさぎやの支店で甘いお菓子を買って帰るのが愉しみだった。一人の恋人もなく、卒業の年の二月に、郷里で見合結婚し、入籍だけすませていた私は、卒業式にも出ないで、北京から迎えに徠夫と北京へ渡っていった。

 それから十一年の歳月が流れ去っていた。私は引揚げの苦労を共にした夫の家を飛び出し、京都で放浪の後、上京して小田仁二郎とめぐりあった。三鷹駅前通りのラーメン屋二階から追い出されて、周旋屋の世話で新しい部屋を見つけたのが西荻窪であった。生活の元手になっていた少女小説の売込や注文取りに、三鷹と水道橋を毎日のように往来しながら、私は西荻窪に降りたこともなかった。
小田仁二郎と二人で西荻窪の駅を降り、駅前広場に立つと、戦災をまぬがれたその町は、すべてが昔のままで気味が悪いほどだった。周旋屋に渡された地図をたどって、駅前広場のすぐ前の細い横丁に入っていく。バスの通る女子大へ向う商店から直角に通っているその小路は、二人並べば一杯のような道の細さで、商店街より、ずっと小さな狭い間口の店がびっしり道の両側を埋め尽くしていた。呑屋、焼き鳥屋、果物屋、パン屋、花屋、パーマ屋、めがね屋などが、無秩序に猥雑に並んでいる。どの店の中にも客らしい姿は見えないのに、何か妙に家々から活気のようなものが道にあふれていた。あらゆる店から発するそれぞれの匂いが風を染めていて、それが妙に肌なつかしく軀にまつわりついてくる。
 その小路を出ると、少し広い道に出て、商店ではない民家が並んでいる。道の左側に、教えられた黒板塀の家が見えてきた。その辺りでは最も広そうな家で、素朴な格子戸の門の脇に〇〇〇〇の表札が出ていた。
  こざっぱりした身だしなみのいい老女が出迎えてくれた。六十なかばの面長で鼻筋の通ったきん女は、眼鏡の奥の大きな目と、口元に愛嬌の滲む、老人にしては表情のいきいきした人だった。平屋のゆったりした家に一人住み、廊下つづきの離れを人に貸している楽隠居の身の上だった。二人兄妹の長男の一家は別の町に住み、長女も嫁いでいた。
 家じゅう風の吹き抜ける気持のいい住いで、掃除がゆき届き、柱も磨かれ、障子の桟も埃ひとつ止めていない。縁側が明るいからと、きん女は茶の盆を縁側に持ち出し、そこに私たちの座布団も並べてくれた。縁側のその位置から、離れが斜めに見渡せる。六畳の床の間つきに一間の広縁が庭に面してついていた。広々した庭にはきん女の丹精の花が植えられている。
 丁度牡丹が開きはじめたところで、白牡丹が二輪爽やかな五月の陽光をあつめていた。その向うにはもっと大きな大輪のダリヤの赤や黄の花々が丈長く群っていた。
「お花がお好きなんですね」
「ええ、何の花でもいいの、きれいだから」
 きん女はずっと庭を見ている小田仁二郎の横顔に目をあてていう。ふっと私の方に向いて、
「あたしは子供が嫌いでね。それで孫たちの面倒みるのが嫌だからこうして一人でいるんですよ。よかったらあなたたち、来て下さっていいですよ。あたり前の御夫婦はすぐ子供をつくってしまうからね」
 と笑いもしないで言った。つまり子供を産まないでくれという条件で、その日のうちに契約した。契約主が私でも、きん女は平然としていた。二人とも小説を書いていると聞くと、
「あの部屋は児玉希望が若い頃いたし、金子洋文が新婚時代いたから、縁起がいいんですよ。この前いた人もお妾さんだったのに、奥さんが急に亡くなって本妻に直って出て行ったんですよ。そりゃ縁起がいい部屋だから、あんたたちもきっと出世しますよ」
 とにこにこしている。どうやらきん女は私より小田仁二郎が気に入った様子だった。
 私はすぐそこに引越した。離れへは別に紫折戸の入口があり、その内側に郵便受けの箱が取りつけられていた。越して間もなく、小田仁二郎は湘南の海辺の家と私の部屋を半月ずつ二分して通うようになった。
 来ない日は必ず紫折戸脇の郵便受けに、こまかな字でびっしり書いた彼の葉書が入っていた。どちらにも電話はまだなかった。
 小俣家の邸は離れの裏に広い空地が広がっていて、三百坪余りの広さだった。
 その部屋で相変らず私は少女小説を書きつづけた。一人の時よりは経費も増え、生活費をいっそう稼がなければならなかった。
 西荻窪には小俣家というのが実に多かった。昔からこの地方に住みついていた一族なのだろう。歩けば小俣さんに当るというほど多いときん女は笑った。私たちの小俣家は、角地に位置していて、向い側の角地には八百屋があった。威勢のいい主人と、ふっくらした丸顔の愛想のいいおかみさんが、気が引けるほど、いつでも安く負けてくれ、これもあれもと、買物袋につっこんでくれるのだった。それをきん女に告げ、どう返礼したものかと相談すると、
「いいよ、いいよ、あの人たちは、あんたのファンなんだってさ、この間もね、風呂屋で、町内の人たちと話したんだよ。今にきっと瀬戸内さんは吉屋信子みたいになるよって、八百屋のおかみさんが一番しっかりうなずいてた。吉原信子の『良人の貞操』よかったよねえ」
 風呂屋は八百屋の真向いにあった。その頃家に内風呂のないのは普通で、銭湯は大繁盛していた。



    瀬戸内寂聴【場所】新潮社から引用


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 瀬戸内が初めて西荻窪の駅を降りたのが一九四〇年、十七歳で東京女子大を受験するために自分の目で見たいために来たようだ。それから十一年後、一九五一年に西荻窪に下宿するために再度のようである。十七歳で西荻窪から歩いて東京女子大までに町並みが故郷の徳島市内と変わらないので親近感をもったようだ。無事、東京女子大に合格し、寮生活をおくるのだが、大学生活は、この本には少しだけしか出てこない。一九四〇年に東京女子大に入学するというのは、実家、徳島でも裕福な商家なのだろう。
 三鷹に続いていた小田仁二郎との生活で、この地で小説家というより書くことで生きていけるのがある程度わかったのか。小田仁二郎は、月の半分を妻子のいる鎌倉で、半月を瀬戸内のいる西荻窪で生活している。小田仁二郎は、ほめ上手でもあり、何かを書かせることもうまかったようだ。小田仁二郎も作家であることも大きかったのではないか。下宿先の大家・きん女も、小田仁二郎をたいそう気にいったようだ。小田の写真を見ると、それはわかる気がする。優しくてあまいマスクなのだ。

 「場所」のために、この地・西荻窪を再訪したのは、五十年後とあるので、二〇〇一年くらいで瀬戸内が七九歳くらいなのか。三鷹や吉祥寺ほどに変貌してないが、それでも俤(おもかげ)がないと書かれている。それでも、表札を見て安堵したのか。きん女の娘さんと孫娘さんに向かい入れられる。この日が、きん女の命日で引き寄せられたのかと書いている。
 文章の終りに「こちらに置いていただいた頃が、私の生涯で、一番平和で、幸せだったかもわかりませんね」と、再訪して、きん女の娘さんと孫娘さんに語っている。
 西荻窪の地で何かのエネルギーをもらえたのか、それが何かの循環がうまくいったのか。




「あの部屋は児玉希望が若い頃いたし、金子洋文が新婚時代いたから、縁起がいいんですよ。この前いた人もお妾さんだったのに、奥さんが急に亡くなって本妻に直って出て行ったんですよ。そりゃ縁起がいい部屋だから、あんたたちもきっと出世しますよ」

  この一文が妙にリアルすぎて、きん女の言葉でなく、瀬戸内自身の言葉にも聞こえる。




 私は、この本にも書かれているが「子宮作家」という言葉があって、どうも読む機会の少ない作家だった。そういう宣伝文句に離させられていたのか。当時も、恋愛小説ものと伝記ものものを書かれているようだ。「場所」を読んで感じることだが、生きていくのに、時間別のなかに土地、場所も意味しているのか、と思ったりする。不思議な話だが、読んでいると私自身がそこに、その中「場所」に入っている感覚になってしまうのだ、もちろん、そこに行ったこともないのに。

 


 少しそれるが、二つ目「多々羅川」に、母方の祖父・富永和三郎の姓名が出てくる。こういう作品で、富永の性を見たのは、司馬遼太郎【世に住む日日】の中で、富永有隣が儒学者として出てくる。実在の人で、国木田独歩【富岡先生】のモデルにもなっているようだ。私も富永性なので小説の中で富永という文字を見るとゾクッとする。だが、富永の性は珍しくないが、何十年の会社員時代にも会ったことがない。古本道に入って「放浪書房」さんに会った。彼が唯一の富永性だ。




児玉希望:(1898-1971)日本画家、日本芸術院会員。
金子洋文:(1893-1985)小説家。

東京女子大学:1918年、東京府豊多摩郡淀橋町字角筈(現在の新宿)にて開学。
        1924年、 豊多摩郡井荻村(現在の杉並区善福寺)へ移転。
        2018年、創立100周年。



JR西荻窪駅        

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西荻窪
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西荻窪
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瀬戸内寂聴【場所】新潮社 装幀:横尾忠則 2001
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瀬戸内寂聴【夏の終り】新潮文庫 カバー装画:久村香織
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荒川洋治【忘れられる過去】みすず書房 2003
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◇文庫本の解説は、【忘れられる過去】みすず書房の中に書かれているのを一部あらためたものであると述べてある。【忘れられる過去】みすず書房を読んでから、瀬戸内寂聴【場所】に進んだ人が多いのかもしれない。それほど読みたくなる気持ちにさせるのだ。いやー、瀬戸内の作品はと思っていても、この解説を読むと、それじゃ、読んで見るかと。そして、読んだあとにもう一度、荒川さんの解説も読んで、荒川さんありがとうになる気がしてくる。私は、荒川さんのトークを3回くらいしか聞いたことがないが、トークの始まりが談志師匠のようなか細い声だが進んで行くうちに、文学、本への情熱が胸のうちにずしんずしんと伝わってくるのだ。イベントが終わって、さあー本を読もうと高揚感があるが、続かないのが私の難点だが。




荒川洋治【忘れられる過去】朝日文庫
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鈴木伸子【中央線をゆく、大人の町歩き】河出文庫 2017
*鈴木伸子さんも東京女子大卒業で、この本の中に「西荻窪」が載っていて、大学時代(1980年代)と現在(2000年代)の比較も面白い。東京女子大の住所は杉並区善福寺で、正門を出た吉祥寺側は武蔵野市で、キャンパス内の公衆電話は市内通話、十円で三分間話せたがキャンパス外の公衆電話では三十~四十五秒で途切れたと書いてある。入学式の次の日、山田太一作ドラマ『ふぞろいの林檎たち』のロケが正門前でやっていて、中井貴一と時任三郎がサークル勧誘のビラ配りを撮っていたとある。

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東京女子大学 (Tokyo Woman's Christian University)
・瀬戸内がチャペルの写真ポスターを見たことが東京女子大に入ることだった。

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◇東京女子大学の構内には二回入ったことがある。一回目は、西荻に引越しして何日後に家人b(娘)と辺りを探検、見て回った。東京女子大学の校門前から校舎(チャペル)を眺めていたら、『見学の方ですか』と守衛の方に声を掛けられて、『はい、そうです』と、すんなりと答えて、用意されているノートに記載してしまった。家人b(娘)を見て、大学の受験生と思われたのかも知れない。設計者(建築家アントニン・レーモンド)の意図がある校舎を感じて、そこを抜けて広々したグランドを目にすると環境のいい大学だなと思った。二回目は、古本道に入ってからだから十数年経ったとき、東京女子大学の文化祭のパンフレットに古本の文字を見つけたので出かけて見た。が、教室にいると何冊か並んだだけだった。構内には、若い男女が大勢で、早々に退散した。ここに掲載した写真を撮るために、今年(2018年)、夏の暑い日に、大学の周りを自転車で廻った。柵には、ほとんどが目張りしてあったが、隙間から見るとラクロスの練習だろうか、女子の歓声があがっていた。






◆神保町系オタオタ日記
http://d.hatena.ne.jp/jyunku/20110430/p1







モンガ、西荻を歩く 2

 近所を歩いていて不思議なことを感じる。近くに井荻小学校が善福寺一丁目にあり、遠くの西武新宿線に井荻駅がある。住所で言えば下井草五丁目だ。随分と離れている場所なのだからと思っていた。調べて見ると、1889年(明治22年)、東多摩郡下井草村、上井草村、下荻窪村、上荻窪村が合併して、井荻村となっている。今でいう杉並区の三割くらいか。その名残り、関係からだろうかと察しがつく。ちなみに、
井荻小学校が、1952年(昭和27年)に開校、井荻駅が、1927年(昭和2年)に開業している。


井伏鱒二【荻窪風土記 ―豊多摩郡井荻村】新潮社 1982
装画:吉岡堅二
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 昭和三十二年十二月三十一日、荻窪病院に行く――。
 盲腸の手術で麻酔にかけられるとき、病院裏手の観泉寺で除夜の鐘が鳴りだした。大晦日の晩、いよいよ押しつまつて手術してもらひに入院したわけであつた。
 医者は私が深酒するたちだから全身麻酔にかけることにして、看護婦が「入歯があつたら外して下さい」と言つた。私は上下の総入歯を外して手渡した。看護婦が私の鼻先に漏斗のやうな器具を近づけた。こちらの手術台に乗せられて、観念の目を閉ぢてゐた。
「一つ、二つ、三つ。ゆっくり数へて、この通り願ひます」
 看護婦はさう言つて、「ひとォつ……」と言つた。
 こちらも「ひとォつ」と言つたつもりだが、総入歯を外してゐるので「ひとォちュ」といふやうな声になつた。同時に観泉寺の鐘が「ごをん」と鳴つた。看護婦が「ふたァつ」と言ふので、その通りにすると「ふたァちュ」といふやうな声になり、観泉寺の鐘が「ごをん」と鳴つた。
 看護婦が、「みッつ」と言つた。私はもう沢山だといふ意味で手を振つたやうに覚えるが、後は細く光る一本の銀線か何かに伝つて奈落へ消えて行くやうな気がした。「これだ、これだ、これに限る」と思つたきり、意識が無くなつた。

 井伏鱒二【荻窪風土記】新潮社から引用



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 エッセイ、普通の人が書いたのは、いろいろな人を取り上げても読む方がその人々を知らなければ全くっていいほど読書は進みませんが、ある程度の認識のある有名人との関わりとかエピソードを書けば、読むのも飽きなくなります。あと、場所などもそうですね、自分が住んだことがあったり、親戚や友人がいたりすればなおさらです。この本は、その二つを兼ねていますから、読んでいて、なにかウキウキしてきます。西荻に住んで二〇年になりますが、この本に記されているところに寄ることがあれば、また、読み返すことになります。まして、関心のある阿佐ヶ谷文士会の皆さんが出てくれば当然ですが。



 余談だが、当店にふらふらして現れた老人があった。聞けば、起きて、今川図書館に行って本を借りて帰る。また返しに行って本を借りる。その繰り返しの生活だと言われる。当店の裏道を利用していて、何年ぶりに青梅街道に出てきたと言われる。青梅街道は、風がきつくて歩くのに厳しいと。古本屋が出来ていて、なおビックリしたとも。この老人に、この辺の昔のことを聞けるのが楽しくてしょうがなかったが、3、4回で見えなくなった。ある時、自分は井伏鱒二の息子と同級生でよく家に行って本を見せてもらったが機嫌をとらなくてならないので大変だったとも。もう少し、いろいろと順序立てて聞いて置けばと悔やんだものだが。


森泰樹【杉並区史探訪】より
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井荻町役場跡 (桃井第一小学校辺り)
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森泰樹【杉並区史探訪】より

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井伏鱒二【荻窪風土記】にも、森泰樹【杉並区史探訪】が利用されている。
森泰樹【杉並区史探訪】に、こんな記事があって、都会とのつながりが示されている。
『阿佐ヶ谷南一丁目横川春吉氏は、「大正五、六年頃の話ですが、農家は、新宿、四谷辺の町家に盆暮になると野菜や干大根を届ける事にして、下肥を貰って居りました。荷車に空の肥樽を載せてその上に杉の枯枝の把を積んで出掛け、杉枝を売って小遣銭を稼げるので、肥上は少しも苦になりませんでした。杉枝は火付きが良いので大変喜ばれました。出入り先のお座敷によい女中さんがいると、ただでせっせと持ちこんで、とうとうよい仲になったとの噂さ話もありました。
 鍋屋横丁のいちぜん飯屋では、丼飯一パイが二銭、煮〆一皿が二銭、六銭も出せば満腹になりましたので、帰り道が楽しみでした。また其の並びに山十と言う酒屋がありましたが、一升買うとコップ一パイの利き酒を、サービスしてくれるので、大変な評判で、阿佐ヶ谷近辺では皆買いに行ったものです。若衆の寄り合の時など、使いの希望者が多く、くじ引きにしたものです」と語られました。』

森泰樹【杉並区史探訪】より引用







観泉寺

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荻窪病院
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旧中島飛行機発動機発祥之地
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ロケット発祥之地
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桃井原っぱ公園一帯
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・観泉寺:

青柳いずみこ・川本三郎監修 【「阿佐ヶ谷会」文学アルバム】新潮社
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阿佐ヶ谷会の皆さん
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青柳いずみこ・川本三郎 【「阿佐ヶ谷会」文学アルバム】新潮社から引用



【井伏鱒二文集】1~4 ちくま文庫
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濱野修の葬儀のおりに弔辞を読む上林暁  (1957.6.26:雑司ヶ谷キリスト教会)
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濱野修と芹沢光治良

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井伏鱒二と木山捷平
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