September 21, 2020

Apple Boutique アップル・ブティックは何故短命だったか?

appleboutiqueのコピー


みんな大好きApple Boutique、彼らの作品の全フォーマット。

オリジナルは1988年Creationからリリースされた『Love Resistance』の12インチのみ。自分はリアルタイムで札幌のUKエジソンで4月23日に購入と当時のレコード購入履歴にはあるけれど、そのアナログは発売枚数が少なかったのか、すぐにレア化。
現在北海道の某FM局に勤務しているフォロワーのW君などは何とかして我が家からこのシングルをこっそり持ち出せないかと企んだくらい。今考えると大学の先輩でエジソンの店長をやっていたNさんの勧めで労せず入手していたことは幸運としか言いようがない。

それから時は流れ2011年、この『Love Resistance』は何故かドイツで突如12インチ収録曲3曲各々のデモトラックを追加して全6曲入のミニCDRとして再発された。しかしそれは59枚限定で、すぐにレア化。写真にあるのは【Gold6】版で緑文字のリイシューの方(これも59枚限定発売)。

時は同じく2011年これまたドイツの他のレーベルからリリースされたのは、未発表トラック集『Paraphernalia』。
それまで彼らの曲は3曲しか聞いたことがなかったにも関わらず、たった1枚のデビューシングルから23年後にいきなりスタジオ・トラック、ライヴ、デモ曲など計15曲も収録されたコンピレーションアルバムがリリースされ、もちろん我々ABファンを狂喜乱舞させたのだけれど、この編集盤もわずか200枚限定発売で、おまけにアナログ起こしの悪音質のデジパックCDでの発売のみで、やっぱりすぐにレア化。

そして記憶に新しい2018年、Optic Sevensの記念すべき第一弾として『Love Resistance』はカラー盤の7インチとして再リリース。しかし何だかんだでこちらも500枚の限定プレスで、予定調和的にすぐにレア化。

そもそもApple Boutiqueとは、ビートルズの設立会社アップル・コアの5大事業の一翼を担った洋装店の名前であり、一年も持たずに閉店を余儀なくされたことで有名で、同じように短命で終えてしまおうという当初からの思惑があったのかもしれない。もしかしたら始めから一枚だけの企画モノ、あるいは『Love Resistance』をリリースしたかっただけのバンドだったかもしれないとまで思う。ここまで言うにはそれなりに深い理由があるのだけれど、それは後述することとして。

結局南極放送局からコマーシャルというわけで、作品をリリースしてはすぐにレア化してしまい、なかなか入手困難となってしまうアップル・ブティックは、Philip Kingが盟友John MohanやOwen Seymour(ドラム)、Hangman's Beautiful DaughtersのEmily Brown(バックヴォーカル)と結成した奇跡のような刹那的存在のバンド。
ご存知のようにPhil KingはThe Servants、Felt、Biff Bang Pow!、そしてLushなどを渡り歩いた多才なベーシストで、John MohanもThe Servants、Feltに在籍したソロ作ミニCDRもリリースしている繊細なアルペジオを奏でる名ギタリスト。
まぁいわゆるFelt一派ではあるけれど、意固地なLawrenceのエゴが強すぎたせいでFeltがどうしても打ち破れなかった殻とどうしても越えられなかった壁を、たった一枚のシングルで突破した功績とポテンシャルは計りしれない。

🍏 🍏 🍏 🍏

ここから先に記すことはあくまでも個人的な見解で、Feltにまつわるちょっとシリアスな考察になってしまうけれど、実はApple BoutiqueこそがFeltの未来形だったんじゃないかと勝手に思っている。

やっぱりバンドというものはメンバーの総意と目指すべき方向性が一致してこそ最強なのであって、事実上Lawrenceが仕切っていたFeltというバンドにはついぞその気概が感じられなかった。
クリエイション期にはもうそんな淡い期待は失せていたものの、最大のチャンスだったチェリーレッド期、それもJohn A. RiversやJohn Leckieではない全く外部からのプロデューサーを迎えて制作された4作目『Ignite The Seven Cannons And Set Sail For The Sun』がリリースされた1985年が彼らにとって大きな変化を遂げられるべき時期だったはず。
まだギタリストのMaurice Deebankも健在だったし、キーボードにはMartin Duffyも参加していたし、何と言っても収録曲『Primitive Painters』と『The Day The Rain Came Down』ではあのCocteau TwinsのElizabeth Fraserがヴォーカルで招聘されてもいた。つまり新しい風を取り入れながらバンドとして音楽的にも進化/深化/神化できる好機だった。
プロデューサーをRobin Guthrieにした時点でやっとLawrenceも外部からの空気、つまり変化を受け入れるのかと当然周囲は思っていたことだろう。ここで彼の心境に大きな変化がありさえすればうちの家内にも「全部同じ曲に聞こえる」とのたまわれることもなかっただろう。それなのに彼はそういった声に耳を塞ぎ、次作の5作目から所属レコード会社をCreationに変えることで何とか自分の従来のポジションを守ろうとした。保身こそがバンドの致命的終焉に直結すると知ってか知らずか。

さらにLawrenceは本来Feltがこの時期に取り入れるべきだった共生/共作/共演という道を選ぶことをせず、挙句の果てにはFeltの心臓部とも言えるMaurice Deebankを脱退させてしまうという暴挙にも出てしまった。最も選択してはいけない変化をLawrenceは選んでしまった。その成れの果てがLawrence不在のCreation期でのインストアルバムであり、Flyであり、Denimであり、Go-Kart Mozartだ。そこにFeltの真髄はない。

もしこの時期にMaurice Deebankが在籍し続け、そこにたとえばPhilip KingとJohn Mohanが新たなFeltの血となるよう加入したとすると、どうだろう。Martin Duffyのキーボードにギターはツインリードで厚くなり、楽曲のレパートリーも格段に広がり、Feltというバンドの可能性は無限に広がったに違いない。ただそれはそれで別な問題が勃発する可能性は大いにある。いわゆるバンド内の主導権争いだ。音楽的センスに欠ける典型的なロックミュージシャンであるLawrenceはバンドのイニシアチブを他のメンバーに奪われるのはやっぱり面白くない。どうしてもFelt=Lawrenceという図式は守りたかった。だからこそ自分の味方になる者(ドラムのGary Ainge)だけを傍に置き、自分を守ってくれるような存在(プレイングマネージャーのAlan McGee)に身を寄せ、ひたすら従来のFeltを拡大再生産すればいいと守りの姿勢に入ってしまった。当時は変化することで自分の存在を危うくなることを恐れていたのだ。「10枚のシングルと10枚のアルバムを発表して解散する」と豪語していた偏屈者ならば何も恐れることなどなかろうに、結果的に変化することは本格的な迷走に繋がってしまったことから、やはり変化せず同じような曲を延々繰り返すべきだったかもしれない。ただ歴史的に鑑みると、いつ壊れるかいつ消失するかわからない不安定さ/危うさこそがFeltの最大の魅力と言えないこともないのだ。

しかしながらこれだけは言える。Deebank、ひいては外部の人間だったKingとMohanにはFeltの未来が見えていた。刻々と様相を変える時代の変化に追随できず衰退していくFeltの未来が。だからこそ態度には出さずともおそらくは作曲や演奏を通してLawrenceに訴えかけ続けてきただろうし、いわんやLawrenceに音楽的に変化する気がさらさらないと感じるやいなやパーマネントなメンバーとなることを選択せずに脱退したり、存在そのものが緩いBiff Bang Pow!や自らのバンドであるApple Boutiqueとして活動することにしたのだ。それは一人のミュージシャンとしての選択としては火を見るより正しく、それ以上に一人の人間の矜持にも似た情操からの決断であったに違いない。

あるいは、そもそもバンドの立ち上げに参加しキャリアの出発点でもあったThe ServantsにもDavid Westlakeというこれまた癖の強いヴォーカリストがいて、彼との間にも何らかの軋轢が生じた可能性も否定できない。とどのつまりKingとMohanの二人は最適なセンターポジションに恵まれなかった助さん格さんのような永遠のバイプレイヤーだったのかもしれない。
後にJohn MohanはFeltのラストアルバム『Me And A Monkey On The Moon』でリードギターを担当し華麗な演奏を披露し一矢報いることができたが、一方Phil Kingに至っては、1987年Primal Screamの『Gentle Tuesday』のミュージックビデオにドラマーとして出演したり、The Jesus And Mary Chainのツアーベーシストとして仮メンバー入りしたり、最も有名なLushの活動でも終盤はあっさりバンドを見捨てたりと、生まれつき自由気ままに動きたい我儘な性分のベーシストだったのかもしれない。
もちろんそれはすでに還暦を迎えたコックニーのとるべき行動ではないのは明らかだけれど、彼にはNMEのリサーチャーという別な側面もあることから、プロのミュージシャンや本職としてのベーシストに本腰を入れていなかった可能性もある。
「こんな曲も書けまっせ!」とLawrenceにさり気なくアピールできるほどの人間関係構築能力やプレゼン能力も持ち合わせていなかった上、逆にうだつの上がらない儲け度外視のロックミュージシャン達の動向を冷ややかな目で分析しつつ、自分が最も輝ける場所をその時々で見つけていた、ある意味ではKingもしたたかな利己主義者だったのかもしれない。

king2king


とにもかくにも1988年、KingとMohanは自ら有するポテンシャルを最大限に引き出し「これぞ本来Feltのあるべき姿だ」と言わんばかりの名曲『Love Resistance』を世に送り出した。それもFeltがその時期所属していた同じCreationからのリリースだったことはやはり恣意的な何かを感じたし(そう言えばWestlakeもソロ作をCreationから出していたし)、The Servants〜Feltといった人間絵巻においては非常に象徴的な事件だったのは言うまでもない。
「聴いたか、Lawrence!貴様にこの曲が作れるか!」と、明らかにギターサウンドが鳴りを潜め叙情性を著しく欠いたFelt最大のウイークポイントを一撃で突いたこの曲のリリースは、本質的にはFeltよりもFeltっぽい、いやApple Boutiqueこそが別次元のFeltなのだということを最も的確に表現していて、そして幸か不幸か見事に結実してしまっていた。
それはおそらくFeltというバンドそのものやFeltの行く末(個人的にはネオ・アコースティックの在り方)に一石を投じたいという彼らの強い意志表示であり、言い換えると、それは音楽関係者としてFeltというバンドを様々な意味で愛していた、彼らなりのささやかな抵抗=Love Resistanceだったのだ。

本来進化したFeltが演るべき曲だった『Love Resistance』を今一度聴いてみよう。Apple Boutiqueの4分間に渡る「愛するがゆえの抵抗」がきっと感じ取れるはず。



最後に『Love Resistance』のリリースと同じ1988年、CreationがリリースしたFeltの8作目『The Pictorial Jackson Review』のオープニング曲、その名も『Apple Boutique』の歌詞の掲載でこの壮大な楽曲発表での応酬を締めくくりたい。たった2分弱の楽曲に込められたLawrenceの自己省察とも呼べる渾身の抵抗を肌で感じてほしい。

I said where you going どこへ行くの?と僕は言った
With that halo stuck around your golden head 金色に輝く頭の周りに光輪を纏ったまま
You said what's the point in talking その話のポイントは何?とあなたは言った
Everything has already been said すでに何もかもが話されているんだ
I don't know why わけがわからないよ
You said seasons change I hope I never will 季節は変わるってあなたは言うけど、僕は全然望んでいないのさ

You said why you carrying that mirror どうして鏡を動かすの?
Always looking at yourself いつも自分を見られるため?とあなたは言った
I said while you're up there あなたがそこにいるのを感じながら僕は言ったよ
Can you get me that old book down from the shelf その古い本を棚から取ってくれないか?
I don't know why わけがわからないけれど
You said what's the point in talking to yourself あなたは自分と対話することの意味を言っていたんだね
All the time どんなときもそれが大切だってことなんだね




【参考翻訳インタビュー】「モーリス・ディーバンクが感じていたこと」
http://blog.livedoor.jp/muselection-music/archives/53071883.html  
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July 25, 2020

ネオアコ宝箱

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LOVE ME OR LEAVE ME  そう言って彼女は...

1998年6月、札幌INAX SPACEで開催した展覧会【real muselection〜宮田ひろゆきの言葉によるコラボレイション】。
そこで展示された逸品は『and she was...』という冒頭の拙詩を視覚化したオブジェ。

このオブジェは1996年に制作し第一詩集に収蔵した自分がこよなく愛したものを言葉と小物で凝縮表現した作品ではあるものの、そもそもの外側の箱は確かジャムかジュースの木箱に何とNME(New Musical Express)を全面コラージュで貼り付けてアンティーク風にペイントした代物。
今ではそれほどオシャレではないけれど、当時は海外の新聞や雑誌を包装紙にしたりするのが流行っていた。
PCもインターネットもない時代だったから海外製の紙なんてそんなにたやすく手に入るわけでもなく、札幌のレコードショップに少数入荷したNMEを我先にと購入することは情報収集だけでなく資源収集においても非常に重要なライフワークだったことがうかがえる。

このオブジェには『and she was...』というTalking Headsの曲から拝借したタイトルよろしく、主に恋愛に関する様々な思い出がつまっているのだけれど、今では儚く霧散した想い以上に当時のNMEのコラージュの方が自分の過去を形成した尊い遺産のように感じられて、内部の小物は各々の場所に帰還したもののずっと箱だけが自室のいつも視界に入る場所に結果的に24年間も飾られている。
この連休の最中、部屋の模様替えにあたり、久々にこの遺産オブジェ箱を手にとったけれど、どうしてもコラージュされたNMEの記事や広告に目を奪われてしまう。
それはまるで片付け最中に昔の写真や手紙を懐古するのと同じような感覚。
そしてその中身があまりにも興味深かったのでこの際なので箱を写真に撮ることにした。

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これが現在の箱の正面。まず右上にあるINDEPENDENTチャートがとても気になる。

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アップで撮影。3枚目のシングル部門のチャートではインディーズチャートでは常連だったThe Smithsの『Sheila Take A Bow』が初登場で1位。The Chesterf!eldsの代表曲『Ask Johnny Dee』が前週の8位から7位にアップ。そしてみんな大好きThe Pastelsの『Crawl Babies』が前週と変わらず13位とある。

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LP部門では期待の新人だったThe Railway Childrenのデビュー盤『Reunion Wilderness』が4位から首位にアップしていたり、The Smithsが複数作チャートインしていたりと非常に多彩だが、各リリース時期から鑑みて1987年の春のNMEチャートの切り抜きだということがわかる。

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以降は箱の部分ショット。
箱のど真ん中には「SMITHS ALERT EURO FANS」の文字。東京アラートならぬスミスアラートがこの時期ヨーロッパのファンに発令という記事があり、その横にひっそりFaith BrothersのライブがSOLD OUTとあるのが何とも微笑ましい。

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箱内部には、Cocteau Twinsの『Treasure』の広告やThe Durutti Columnの文字、そしてPrefab Sproutの名作『Steve McQueen』のジャケットが当時付き合っていた彼女と聴いた記憶と共にどっしりと鎮座している。

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またライブ広告で4月24日金曜日にFeltとThe Wishing Stones、House Of Loveの共演ライブがあったことからこれは1987年のNMEの切り抜きだとわかる。

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5月25日土曜日にThe Go-BetweensとThe Jazz Butcher、The June Bridesという夢のような対バンがあった広告からこれは1985年のNMEの切り抜きだということがわかる。
※検索したところ同じNME広告のTwitter投稿を発見!
→  https://twitter.com/nothingelseon/status/1266654571025203200

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その他にも、The Smiths『Queen Is Dead』の広告がTom Waitsの渋い写真等と共にあり、箱の裏面にもEverything But The Girl、Robert Smithらの顔が所狭しと貼り巡らされている。

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これらの撮影やら状況証拠収集やらで、すでに3時間半が経過。部屋の模様替えはどこへやら。こうして連休はあっという間に過ぎてゆく。光陰矢の如し。ネオアコースティックの回想力恐るべし。

このNMEコラージュ箱ならぬ、ただのネオアコ宝箱に貼られてあるものも昨日のことのように思い出せてしまう。自分は過去にとらわれすぎているのだろうか。いやただ記憶力が良すぎるだけだろう。そして物持ちが良すぎるのだろう。どう転んでも葬ることができないものが多すぎる。そして追憶するのも好きすぎる。

個展や恋愛など数々の思い出と相俟ってこの箱も永遠に捨てられないよなぁ、きっと。

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May 05, 2020

Ravishing Beauties 〜「魅惑的な美しさたち」の物語

Ravishing Beauties

昔々あるところに、Virginia Astley(ヴァージニア・アストレイ)という女学生がいました。

ヴァージニアは、Nicky Holland(ニッキー・ホランド)ともう1人、
大学の友人であるKate St. John(ケイト・セント・ジョン)を誘って、
Ravishing Beauties(魅惑的な美しさたち)という
(自分でよくそんな名前をつけたもんだと皆が思ったであろう)バンドを結成しました。

3人は1981年の冬にリバプールにあった伝説のクラブZOOで初めてプレイし、
1982年初頭にはThe Teardrop Explodes(ティアドロップス)のUKツアーサポートを行いました。

全くの余談ですが、(キテレツ)Julian Copeや(ワイルドスワンズの名物おじさん)Paul Simpson、
(後にローイーにも参加する)Ged Quinnなど錚々たる顔ぶれとのツアー中、
彼女らはどのように重宝されていたのかは気になるところではあります。

さらに彼女らは音楽学校での演奏実績を買われて、Echo&the Bunnymen(エコバニ)や、
Siouxsie and The Banshees(スジバン)らと共にレコーディングもしました。

Ravishing Beautiesではヴァージニアがほとんどの曲を書きましたが、
結局バンドとして正式な作品をリリースできませんでした。
ただ、1982年4月のBBCラジオ1のJohn Peel Session(ジョンピールセッション)を含む
ラジオ番組には何度か出演しており、その模様は今では
動画サイト(https://youtu.be/5jggu4EsV9g)で楽しむことができます。



唯一無二の録音曲『Futility』が、記事の上に貼った写真の左上にあるNMEの1982年のコンピカセット
『Mighty Reel』に収録された以外、フォジカルはこの世に存在していません。
https://nmecassettes.wordpress.com/nme-004-mighty-reel-1982/

あぁ何とも残念なことでしょう。
「魅惑的な美しさ」の所以はそういったベールに包まれた部分にもあったのかもしれません。



Ravishing Beautiesは短命でした。
「女三人寄ればかしましい」とはよく言ったもので、きっと鬼のように破茶滅茶だったのでしょう。
何せ80年代初頭です。あの80年代初頭です。80年代初頭ですよ!
一芸に秀でた美女三人はそれぞれの個性を活かすため、各自の道を歩んでいくのでした。

ヴァージニアは牧歌的な曲調を奏でるアーティストとして
日本でCMソングに起用されるなどして大ブレイク。
1986年の坂本龍一プロデュースの名作『Hope In A Darkened Heart』(写真左下)を含む
ソロアルバムを現在まで4枚発表しています。
このアルバムではDavid Sylvian(デビシル)とのデュエット曲
『Some Small Hope』も聴くことができます。



1996年のソロ4作目『Had I The Heavens』では仲睦まじく娘さんともデュエットしていて、
きっとその後も幸福な人生を歩んでいることでしょう。
ちなみに以前家人が手術をする際、
「緊張を抑えるために麻酔が効く間に何か好きな曲をかけてもいいよ」
という執刀医師の心優しい申し出に、ヴァージニアのソロデビュー作
『From Gardens Where We Feel Secure』をリクエストしたことがありましたが、
小鳥のさえずりが聴こえただけで麻酔が効いてしまったという過去を思い出しました。



閑話休題。
ニッキーはバンド活動終焉後、セッション作業を多数行い、Tears For Fears(ティアフィア)で
(ほぼ主要メンバーと言ってもいいくらいの)大活躍をしました。
ソロアルバムも現在まで2枚発表しています。
そういえば、Tears For Fearsは今いったい何をしているのでしょうか?
一発屋と呼ぶにはあまりにも惜しい才能だと思うのですが。



一方、ケイトはモデル業を行うため一時音楽界から去りましたが、すぐに復帰し
あの『Life In A Northern Town』で有名なThe Dream Academy(ドリアカ)のメンバーになりました。
またMorrissey(森)やBlur(ブラ)、Everything But The Girl(イービーテージー)など
多くのアーティストの作品に主にオーボエ奏者として参加し、
さらにはChannel Light Vesselのメンバーとしての活動もしています。
彼女の主な活動は自作のネオアコZINE3(https://bit.ly/29VHciW)に詳しく掲載していますので
興味のある方は是非ご一読を。



また、ケイトもRoger Enoとの共作を含むソロアルバムを3枚発表しています。
2016年には再結成したドリアカ(ニック+ケイト)として来日し、
写真右下の『Second Sight』のジャケット上のサインは
その時に(先のZINEと引き換えに)ご本人から直接いただいたものです。
さすがモデルをやっていただけあって、
スラリと背が高くスレンダーで演奏や歌もうまい才色兼備の非常に魅力的な美女でした。
面と向かって直接会話した外国人女性の中では間違いなく最も美しい方でした。
ですので「魅惑的な美しさたち」(の一部)は
非常に正確な命名だということが結成から35年も経った2016年に立証されたわけです。

生きている間に他の「魅惑的な美しさたち」も
この目でしっかと確認することが今の老爺の(きっと叶わない)夢です。

これが、Ravishing Beauties 〜「魅惑的な美しさたち」の物語。




  
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August 26, 2019

エヴァーグリーンな特権

バッジ

音楽も映画も同様に、
ポスターやパンフレットやTシャツやポストカードやバッジなど
表現者のオリジナル作品以外のグッズを求めたいという衝動は、
その表現者と同化して彼/彼女のことを
もっと知りたいという恋愛にも似た欲求の現れだと思う。


その感情は表現者との物理的距離感に比例していて、
日本人であれば欧米への憧憬を伴って増幅するし、
逆に欧米人は日本に対して然り。
それは未知のものへの純粋な好奇心とも言いかえることができる。
なので「サイン」は当人に会ったという証明になり
現実化/可視化したことで一気に魔法は解けてしまう。


遠く離れ会えない彼/彼女をもっと知りたいと願う欲求は、
なかなか会えないからこそ幻想やあらぬ期待をも孕んだ至極神聖なものと化し、
彼/彼女がどういう想いでどういうことを伝えたくて
どういう人達とどうやって表現したのかを知ることは、
表現者を知るに最も枢要な手がかりとなり得る。


日本人は執拗かつ勤勉な性質を活かし
労苦を惜しまず表現者の情報を収集することで
表現者のすべてを知ったような知的快感を覚える。
また日本は言語が固有というハンデを逆手に、
独自の解釈と加工術をもってコレクターやオタク、
いわゆるサブカル的コスモポリタンを構築するのに恵まれた環境にある。


「ライナーノーツ」(や映画におけるパンフ)は
その性質や欲求や民族性を満たす最たるもので、
彼/彼女の背景にあるものを簡便に知ることができるという
極めて有効な日本固有の文化だろう。
そこに対価を払ってまでも読みたい/知りたいという欲求が
サブスク世代にはないのかと嘆くのはよしたい。


何故なら一方で「帯(OBI)」や「ボーナストラック」、
「(紙ジャケ等での)再発」、そして「ライナーノーツ」等、
オリジナル作品にエクストラを付与するという
日本的な加工文化に依存した経済が蔓延しているからだ。
そこに違和感を感じ純粋に作品だけに触れたくなるという欲求は無論否定できない。
ただ世界の距離は急速に縮まり、憧憬や幻想は崩壊寸前まで来ている。


伝説のミュージシャン、非現実的な表現者、雲の上の存在だった彼/彼女から、
ある日突然SNSでメッセージやフォロー申請がやって来る現実を眼前にして、
それでもなお「フィジカル」優先、「モノ」至上主義と言えるだろうか。
実際に交流できるアイドルに会わずして作品だけを聴き続けられる信念と勇気が。


残念ながら自分はそういった強固な姿勢を持ち合わせていない。
未知のものを知りたいし会えるなら会いたいし作品以外のモノも可能な限り所有したい。
でもそれは「〜したい」という欲求を有している証しであって、逆に誇らしくも思える。
人間は欲求を失っては生きていけないとまで思っているからだ。


そういった意味では、
余計なモノはいらないから「オリジナルな作品をただ聴きたい」
という欲求があるだけまだ救われる。
言い換えれば「聴きたい」という欲求すら湧かない輩よりは数千倍マシだ。
そこには期待と幻想と希望がある。
それは冒頭で述べたエクストラグッズへの欲求と根源的には同類のものだ。


日本人である自分は日本固有の文化を
楽しみたいし楽しむ権利があるし楽しまなければ勿体ないとまで思う。
だから知りたければ「ライナーノーツ(パンフ)」を欲するし、
表現者に一歩でも近づきたければエクストラグッズを購入するし、
表現者との時間を少しでも分かち合いたければライブに会いにも行く。


表現者と同化して彼/彼女のことをもっと知りたいという欲求を失わないのは、
サブカルに一度は魂を鷲掴みされた者、
心に茨を持たざるを得なくなった者にだけ許された
枯れることのないエヴァーグリーンな特権であり、
それを推進力にして生き続けるに値するだけの作品に出会えたことへの
感謝の想いの顕現に他ならない。

_______________________

というわけで、Prefab Sproutでアナログ化を待望していたアルバム
『Andromeda Heights』のLPが2019年10月25日発売される際も上記の通り購入します。
彼にはお会いしたことがありますし、サインもいただいたのですが、
まだ魔法は全然解けていませんし、永遠に解けるはずもないとまで思っていますので。

https://www.sproutology.co.uk/collecting-2/next-batch-of-vinyl-reissues-25th-october/

全世界で5名
  
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August 25, 2018

自分にしか聞こえない音

先日、住んでいるマンションの屋上と思われる場所から、ブーンというノイズが聞こえ始めた。
すぐ階下に住んでいるため、天井づたいに聞こえるその音がどうにも気になって仕方がない。
灯油の配管工事を行ったことは知っていたけれど、
工事の後に騒音が出るなんて全然聞いていなかったし想像もしていなかったので、
すぐ後の休日、管理人室へ問い合わせに向かった。
一時的な騒音ではなくて24時間鳴りっぱなしのブザーのようなノイズで
耳障りで夜も眠れないほどだったからやむを得ない措置だ。
まぁ世間一般的には苦情の類いに分類される住民行動だろう。


管理人室の入口に着くと、日勤の管理人と僕と同階の真向かいに住んでいる初老の男性がいて、
煙草を燻らせながら世間話に花を咲かせていた。
二人とも「おや、珍しい人がやって来たぞ」というような顔をしてこちらに視線を向けた。
非喫煙者の僕はニコチンの匂いが充満する管理室内へ数年ぶりに入った。
管理人室なんて特に用がない限り行く機会がない、あたかも近所の交番のような場所だ。


「すみません、水曜日頃からブーンという音がおそらく屋上から聞こえるんですけど、
他の住人からは何も声は挙がっていませんか?」
「いやぁ聞いてないなぁ」と管理人。
すると真向かいの住人が「あ、そういえば変な音、するなぁ。
冷蔵庫が古くなったから、ついに買い替えの時が来たかくらいに思ってたよ、ハハハ」
「それは冷蔵庫からじゃなくて、明らかに屋上から聞こえてますよ」と僕。
「夜もうるさくて気になって眠れないんです」
真向かい男「いやぁそれはね、気にし過ぎだよ。
まだ若いから聴こえるだけで、俺は全く気にならないし、まぁ酒でも飲んで寝るしかないね」
その発言に非喫煙者かつ下戸の自分はちょっとだけ不愉快な気分になったけれど、
人それぞれ気になる音の度合いが違うということはよくわかるので、その場では黙っていた。
場の空気を察した管理人が「でもどんな音がするかちょっと行ってみますか」
と言ってくれて、現場検証を了解してくれた。
真向い男は「じゃ私はこれで」と行ってそそくさとその場を去っていった。
そして54歳と65歳過ぎと思われる痩せ型男性2名が真夏の日差し降り注ぐ土曜日の午前11時に、
築40年を迎えるマンションの壁に垂直に設置されている鉄のはしごをせっせと登ることとなった。
それだけでも大層な話だけれど、
登り切った後に聴こえてきた異音はその比ではないほど大層けたたましかった。
余談になるけれど、自分が暮らすマンションの屋上からの眺めが素晴らしいことを初めて知った。


「あれ? あそこからブーンって、音、しますね」と素っ気ない管理人。
どうして他の住人が気にならないかが不思議なほど、
屋上の機械室からはブーンというノイズが僕の耳にははっきり聞こえた。
それは自室で夜な夜な聞こえていた音と同じ周波数の異音だった。
そして僕以外の管理人の耳にもその音は確実に届いていた。
どうやら配管工事と一緒に万が一に備えての非常用の装置を新設したらしい、
という話をその場で管理人から聞かされて、その機器からの騒音だと100%確信した僕は
「この音、何とかなりませんか? 業者に来てもらって直してもらいましょうよ」と提案した。
「だって今まで聞こえなかった音がこの機械をつけたから聞こえてるわけで、
これが原因としか考えられないじゃないですか?」
「そうですね」と管理人。僕は「お願いします」と言い残し、
その場で音問題は解消されないまま、一旦絶景の屋上にて現地解散となった。


それから数週間後、帰宅すると天井からの異音がしなくなっていた。
自宅の留守電には管理人からのメッセージが残されていた。
「屋上のブーンという音の件、すみませんでした。業者に機器を直してもらいました。
音、もうしませんよね? よろしくお願いします」


♪ ♪ ♪ ♪ ♪


この一件で僕は住人を代表してマンションの管理側に苦言を呈したことになるわけだけれど、
他の住人からは一切苦情も声も挙がらなかったらしい。
確かにマンションに居を構えているのは定年後の耳が遠い年配者がほとんどで、
本当に若い者にしか聞こえない周波数だったのかもしれないとは思う。
しかしそれにしても何故あれほどの大きくて耳障りな異音を
数日間、誰も気にならなかったのだろうという漠然とした疑問が残った。
何と言っても僕よりはるかに若い家人ですら、何も気がつかなかったという素っ気なさだったのだ。
100世帯以上が暮らしているマンションで、僕だけが大騒ぎしているのはどう考えても異常過ぎる。
管理人は音が発生する場所に行ってはじめてその音を認識した。
行くことがなければきっと誰もがあの音の存在すら知らなかった。


もしかして、あの音は「自分にしか聞こえない音」だったんじゃないか?


そもそも管理人は同じマンションの違う棟に普段はいるので、あの音は聞こえない。
でも真向男には絶対に聞こえているはずだ。
それなのに「古くなった冷蔵庫の音かと思った」という、まるで部外者かのような発言に加え、
「気にし過ぎ」や「酒飲んで寝れば気にならない」という僕に対しての
一連の発言には、半分(というかほとんどが)冗談だとは思うにせよ、
何かしら看過できないものがある。
別にその発言に対して腹を立てているわけではなく、
「音」に対する自分の向き合い方を指摘された気がしたのだ。


つまり僕には「他の人には気にならない/聞こえない音が聞こえる」というおかしな特性があり、
それは他の人には「家庭用電化製品からの異音程度の音」だったり、
「気にしなければ聞こえない音」程度しか聞こえないのかもしれないということ。
そして僕はその特殊な「音」にずっと固執して(表現を変えれば「気にし過ぎて」)、
そのことについて声をあげて、さらには自分以外の者にその「音」を聞かせに行くことまでして、
同意を求めて、それなりの時間と手間をかけて事態の終結にまで至らせたということ。
そうまでして僕はこの本来は聞こえてはいけない「音」を無音にさせたかったということ。
僕は「音」に対して人並み以上に何らかのこだわりを持っているのかもしれないということ。
「自分にしか聞こえない音」に対する思いは他者には理解不能なレベルかもしれないということ。
そのようなすべてを真男にあげつらえ一蹴された気がしたのだ。
極端な言い草になるけれど、音楽好きな僕の人格までも全否定されたように感じていた。


やっぱりあの音は「自分にしか聞こえない音」だったんじゃないか?
自分にだけ問題になる音だったんじゃないか?
僕以外の人にとっては、もしかして異音という感覚がなかったんじゃないか?
いや、音としてすら認識されていないんじゃないか?


例えばこれを音楽に言い換えるなら、
「僕にはこのペイル・ファウンテンズの曲中のトランペットが素晴らしい音に聴こえます」
「ほらどうですか? 聴こえるでしょう?」
「この音に対して何か意見があったら教えてくださいよ」というのが自分のスタンス/生き様で、
「同感です!いいですよね!」という稀有な人がいて、
「確かに聴こえるね。それで?」という大勢の人がいて、
「いやこれはレコード盤からのノイズじゃないの?」というヘソ曲がりな人もいて、
さらには「全然聴こえないよ」という変人までいる。つまりはそういうことだ。


「音」に対峙する際の感覚は十人十色、三者三様なのはこれまでの人生経験上わかっている。
でも僕はたとえ酒を一升飲んだとしても
心に残った「音」を絶対に忘れないし忘れられないし(そもそも酒が一滴も飲めないし)、
一旦気になった「音」は気になって仕方がないし、
その「音」を自分以外の他者に言葉にして何とか伝えたいし、
伝えたことを認めてもらえれば幸福だし、
そういった一連の情動を有意義だとも思っているし、
この動きがなくなると自分が自分でなくなるとまで思っているし、
これこそが自分自身なのだという考えに至りました!というだけの話なのだが、
マンションの屋上からの異音がそこまでの話かい!と思った人は、
きっと永遠に管理人のような部外者的立場を貫くだろうし、
男(最終的には男まで短縮された)のような傍観者でしかいられないだろう。
本当に聞こえなかった人々は論外として。


表現欲とか当事者意識過剰とか自己正当化とか発言しない者不要論とかの問題ではなく、
このような役回りを自分側のものとした僕には、もうそういう道しか歩けないんだなということ、
そして問題提起を怠りあらゆる場面で思考を停止させることだけは多分しないだろうなということ、
さらには、これからも音楽が奏でる「音」(特に「ネオアコースティック」)に、
自分の耳で反応し、感動し、言葉にし、喧伝し、伝達し、表現する役割を果たしていきたいなと
強く思うに至った夏の出来事だった。


「自分にしか聞こえない音」は確実にある。

「自分にしか聴こえない音楽」があるのと同じように。  
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July 02, 2018

19860702 Prefab Sprout LIVE in JAPAN

1986年7月2日(水)東京厚生年金会館ホール。
EPIC SONY系の洋楽新人バンドを招待して開催された
【NEW ARTIST SHOWCASE】を観に札幌から長雨で蒸し暑い東京へ上京。
お目当ては勿論Prefab Sproutの初来日公演。
チケットは今では信じられない破格の2000円。
当時のプリファブは前年に2ndアルバム『スティーヴ・マックイーン』(日本ではデビュー盤)が
発売されたばかりで、まだ知る人ぞ知る的な地味な存在だった。

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新人バンドのプロモーションが主な目的だったため、おそらくは招待客も多かったのだろう。
客席はよくわからないニューキャッスルからの新人の
盛り上がりに欠ける聴いたことのない奇妙な音楽を前に、異常なほど静まりかえっていた。
演奏、拍手、演奏、拍手の繰り返し。
僕の隣の席の女性はライブ終盤に名曲『Cruel』が演奏される頃には
大きないびきをかいて寝ていたほどだった。
(この日の模様は録音されFMで放送され、詳細は以下のサイトにある)
http://www.sproutology.co.uk/concerts/prefab-sprout-kousei-nenkin-hall-tokyo-july-2nd-1986/

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1st『Swoon』、そして奇跡の名作2nd『Steve McQueen』で完全にノックアウトされ、
インディーズ時代のシングルを含め、すでに10枚を超える彼らの音源を入手済みで、
日本一のプリファブファンを勝手に自称していた僕にとっては、
新宿5丁目の大ホールという場で、全くもって信じられない光景が次々と繰り広げられていた。
のちにブライアン・ウィルソンと並ぶ
稀代のソングライターの一人と称えられることになるであろう男が
目の前で生でギターを弾いているというのに、この冷ややかな空気は一体なんだ?

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そんなわけで怖いもの知らずでこのあと就職試験を控えていた札幌の一大学生だった僕は、
演奏以外のメンバー紹介の時にでも、大声で「ウェンディー!」と絶叫し
静寂の場を打ち破ってやろうとひそかに考えていた。
けれども絶好のタイミングの直前になって、やはり恥ずかしさが先に立ち、
扁桃腺あたりまで出ていた声を直前でこらえてしまった。
今となってはあのとき大声で叫んでおけば、
ある意味「お宝音源」になっていたのにと超がつくくらい激しく後悔している。

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結局事実上これが最初で最後のPrefab Sprout来日公演となった。
そして彼らがヨーロッパ以外で演奏したのも最初で最後のこととなった。
CXのYさんに『Cruel』を生で聴ける機会は二度と訪れなかった。
僕にも世界最高のバックヴォーカリストを目にすることも
ミドルズブラ出身の女性の名前を大声で叫ぶ機会も再び訪れることはないだろう。
それだけの歳月が流れてしまった。

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30年以上経ったというのに今でも、
メトロファルスやバービーボーイズのメンバーも鑑賞していたあの夜の奇妙な静けさと、
冷ややかな場の雰囲気を変えられなかった自分の不甲斐なさが忘れられないでいる。

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January 23, 2018

Alvvays について語るときに我々の語ること

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Alvvaysはリリースから時が経っても聴く機会が殆ど減らない希有なバンドだ。
挨拶代わりの1stから完全にメタモルフォーゼした2ndが超名盤なのは衆知の事実だけれど、
何がそんなに我々を惹きつけるのかずっと考えている。
本当は何も考えず奏でられる音にただ浸っていたいのだけれども、
彼女達の圧倒的な魅力がそれを許してくれないので少々語ることにする。

思うにAlvvaysは、
これまで幾つもの支流によって形成されてきた
インディーロックという一本の大河の集大成的アイコンになった。
たった2枚のアルバムで。
それはもしかしたら早合点かもしれない。あるいは幻想かもしれない。
でもそもそもロック自体が共同幻想であり、音楽は夢を見る装置ではなかったか。

現時点においてのインディーロックの「完成形」が今、我々の目の前にある。
その同時代的な喜びから味わえる多幸感はPains of Being Pure at Heart以来ではなかろうか。
そしてそれを供与しているのが英国ではなく
米国やカナダのバンドなのは非常に興味深い顕れで、
そこにこそAlvvaysが集大成的存在になり得た鍵が隠されていると思う。

60年代的ポップ感、ポストパンク的独創感、ネオアコ的叙情感、
シューゲイザー的耽美感、ドリームポップ的浮遊感。
これまで多くのバンドから供与された音楽から僕達が愛し体感してきた恍惚の感覚。
そしてこれから先も希求し続けるであろう新たな感覚。
Alvvaysはその感覚を全方位的に包含している。

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先ほど我々の目の前にあるものを「完成形」と表現したが、
もっと的確に言い換えれば我々は今、色彩豊かな「地層」の前に屹立している。
綿々と受け継がれてきた音を堆積してできたインディーロックの「地層」。
様々な支流を受け入れ流れ続けてきた大河の対面に垂直にそびえ立っている青史の「地層」。
Alvvaysの奏でる音が「音層」や「史層」に反響し、重なり合う。
あまりにも美しいレイヤードの光景に
もはや我々は赤子のような出で立ちで恍惚するしかなくなっている。
それはあたかも2ndアルバム『Antisocialites』のジャケットのように。
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恍惚感が良質なメロディーに乗って我々に降り注いで来る。
さらにその表現様式は美女の危うげなヴォーカル。
極上の贅沢を目の前にして、我々はいつまでもAlvvaysから耳も目も心も離れられない。
一度味わってしまった恍惚の快楽から片時も逃れられない。

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おそらくAlvvaysを解く鍵は、
前述の感覚を臆することなく自らのスタイルに取り込めるだけの
「純粋性」と「度量」を有していたかどうかにあるのではないだろうか。

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Weblog Broken English Version is HERE...
  
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August 27, 2017

ROUGH TRADEと徳間ジャパンと1983年/第4章

1983年という年は多くが劇的に変化した特別な年であり、
音楽シーンがアコースティック系へと本格的に舵を切った画期的な年であり、
その大きな潮流をリアルタイムで体験できた大変幸福な年でもありました。
その年の徳間の合併は偶然ではなく必然で、時代の流れの中に否応なく組み込まれていたのです。

確かに日本での発売は英国よりも遅れます。
ただインターネットも、もちろんネットショッピングもなく、
CDやビデオすら一般にそれほど普及しておらず、物資輸送だってままならなかった時代に、
遠隔地の英国で発売された輸入盤を我々が入手すること、
それ以前にリリース情報を正確に知り得ることの困難は計り知れなかった。
それを数々の試行錯誤を繰り返しながらも流通し伝搬した徳間の企業行為はまさに偉業とも言えます。

生半可な気持ちで英国のインディーポップを日本で支援はできません。
それは今でも同様です。規模は違えど我々も人生を賭けているのは相違ありません。
1980年代前半のROUGH TRADEと徳間ジャパンの捨て身とも呼べる覚悟や信念は凄まじかった。
それが1983年に一旦結実した。この史実は肝に銘じておくべきだと思います。

1983年という地殻変動的な時代の空気感を的確に読み取ったラフトレの大英断と、
それを日本で後方支援した徳間の心意気がなければ、
おそらくThe Smiths以降のC86やギターポップなどはそれほど響き渡ることもなく、
現在のシーンの風景やアーティストの顔ぶれも全く違うものになっている可能性だってありますし、
もしかすると「ネオアコ」という言葉自体、この世に登場することはなかったかもしれません。

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最後に【25RTL-3】RADIO TWELVEのライナーノーツに記されている、
1983年11月の鳥井賀句さんの名文を紹介します。

ここには「ネオアコ」はもちろん、「ネオアコースティック」という言葉すら欠片も出てきません。
ここにはただシンプルな時代洞察があります。冷静さの中に垣間見える期待と興奮とともに。

極めてパーソナルで、だからこそリアルな同時代的共感。
深淵な森の中で、何かをもがきながら掴み取ろうとする焦燥感。
そして森の中を駆け抜けたのちに、きっと訪れるであろう漠然とした希望感。

これこそが心から伝えたかった1983年の空気感であり真理なのです。

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最近某国内レコード店らの強力プッシュによってある種の隠れた流行音楽となった感じもある、
これらのモダーンなアコースティック・ミュージックのことを、
現在のインディーズ・ニューウェーブの新たな時代的潮流と見るか、
ポスト・モダーン現象、あるいはモダーン・フォークロア・ミュージックと名づけるか、
単に家内制ニューウェーブのポップ化、フォーク化ととるか、
ネオ・フォーク・リバイバルと見るか、安易なノスタルジア回帰ととるか、
軟弱趣味音楽、エレクトロニクス音楽の反動とみるか、
それとも個への回帰、内省的自己憧憬と自己洞察として積極的に時代論の中に位置づけるか、
今はそれは各聴き手個人の判断に任せたい。

時代論の中にこれらアーティスト達の極めて個的な歌をはめこむことよりも、僕は今、
ひとつの風景論の中に彼らの吐息にも似た歌の息づかいを流し込んでみたいと思っている。
Weekendの見た「部屋からの風景」とは何か?
ロバート・ワイアットの歌う「君の想い出」は苦いか甘いか?
それぞれのアーティストがそれぞれの戸口を開けて、
僕達自身の姿を映し出しているかもしれないから。

「僕らのことを淋しがり屋と呼ぶけれど、僕らは単にひとりきりでいるだけさ」
アズテック・カメラ『思い出のサニー・ビート』より


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August 26, 2017

ROUGH TRADEと徳間ジャパンと1983年/第3章

ROUGH TRADE(通称:ラフトレ)の歴史や作品については周知の事実なのでここでは割愛します。
ただポストパンクを中心に良質なインディーポップを送り届けてきた老舗にも
やはり「経営」と「インディーの火を消せない使命感」の狭間で苦悩した時期があり、
ショップから独立した1982年直後はまさに直面していた時期なのです。

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本国英国の音楽シーン自体が、当時話題を振りまいたシンセサイザーを使用した
ダンスミュージックやエレポップなどのニューウェイヴの興隆と共に、
ポストパンクさえも様々な形に変容し枝分かれしていった1983年です。
世界のいたるところでマイケル・ジャクソンの『スリラー』がメガセールスを記録していた1983年です。

徳間ジャパンが『ラッキー・ビートニクス』だ! これからは『ダンス』だ!と煽ってみても、
全世界的なシーンの趨勢に立ち向かえるはずがありません。
ラフトレも同様に、やはりマイケル・ジャクソン的ではない、
いわゆる「ニッチ」な「コア」な「マニアック」な路線に活路を見出すしかなかったのです。
そもそもがインディー精神の権化だけに、その方向性を見失うことは考えられませんでしたが、
そんな渦中にインディーシーンでは、ポジパンやゴシック、ネオサイケなどの支流に混じって、
新たな風=アコースティック系が登場してきたのです。

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1983年末発売の徳間ジャパン第3弾日本編集盤LP 【25RTL-3】が新風の到来を象徴しています。
【25RTL-3】V.A. / RADIO TWELVE
帯文/ロンドンライフは新陳代謝(アコースティック)しています。
   シティーナチュラリストがオンエアする

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Weekendの『A View From Her Room』から始まり、
Strawberry Switchbladeの『Trees and Flowers』、
そしてAztec Cameraの『Walkout To Winter 12"』『Queen's Tattoos』と続き、
Robert Wyattの『Round Midnight』で終わる全12曲のラジオ番組仕立てのコンピレーション。
まさに帯文にあるように「アコースティック」系「新陳代謝」を生んだかのように感じたものです。

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80年代的な仕様はともかく、そこにはもうゴリゴリのポストパンクはいませんでした。
必然的に徳間ジャパンも時代の風や空気感を感じ取ったのです。
そう、時代は静かに密かに確実にアコースティック系に移行していました。
振り返ると、ラフトレにおけるその先駆者はYoung Marble Giants〜Weekendであり、
ポストカードからの使者Aztec Cameraだったのでした。

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そして深い混迷を吹っ切ったのが1983年にデビューしたThe Smithsのその後の大躍進であり、
セールス的にも経営的にもラフトレの窮地を救ったのがスミスでした。
ラフトレの全てとまでは言えませんが、
間違いなくスミス作品のリリースがラフトレのその後の動勢を決定付け、
その結果、徳間ジャパンが向かう道も定まったように当時は思えたものです。

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あれからもうじき35年が経とうとしているにも関わらず、
こうやって当時の音楽シーンを題材に大好きな文章を書ける自分の核になる部分を形成したのも、
間違いなくYoung Marble GiantsやAztec CameraやThe Smithsなどの素晴らしい曲、
ひいてはROUGH TRADEや徳間ジャパンが育んだ1983年の矜持があったからこそだと信じています。

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August 20, 2017

ROUGH TRADEと徳間ジャパンと1983年/第2章

1983年は我々インディーポッパーにとって非常に重要な年です。
それは徳間音楽工業とジャパンレコードが合併し
徳間ジャパンになった年だからだけではありません。
前述のAztec Cameraが『High Land, Hard Rain』をリリースした年。
もちろんそれも枢要です。でももっと重大な出来事が。

そう、The Smithsが『Hand in Glove』をROUGH TRADEからリリースしたのが1983年なのです。
《RT131》は5月に英国で発表されたものの、残念ながら日本国内盤の発売はありませんでした。
それは多分7インチというフォーマットでもあり徳間の合併混乱期でもあったからでしょう。

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1983年当時ディスコミュージックを中心に世界の音楽界を席巻していた商品仕様は12インチでした。
新生徳間ジャパンでの初の12インチ【15RTL-1】は先述のWeekend。
続く【15RTL-2】はAztec Camera『Oblivious』。
今では「ネオアコ/ネオアコースティック」と呼ばれる作品が先陣を切りました。

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そしてその流れは翌1984年にもThe Smithsの『This Charming Man』【15RTL-3】、
『What Difference Does It Make?』【15RTL-4】でさらに加速し、
未発売の憂き目にあっていた『Hand In Glove』は、Sandie Shawとの共演【15RTL-5】となって日本発売されました。
英国でのリリースは一部1983年でしたが、日本での発売はすべて1984年です。
このThe Smithsの一連の12インチのリリース状況を鑑みれば、趨勢が決したのは1984年とも言えます。

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一方、徳間ジャパン発売のLPの方は、1983年という時代に即し【25RTL-4】でJazzateers、
【25RTL-5】でRaincoats『Moving』、そして翌年満を持して『The Smiths』【25RTL-6】と続きます。
繰り返しになりますが、【25RTL-1】はVirgin Prunesの『...If I Die, I Die』でした。

ここまで述べてきて何故【25RTL-2】【25RTL-3】を抜かしたのか?
実はそれが今回の本題です。

本題に入るまでにこれだけ数多くの言葉を重ね、積もりゆく時代考証を必要としているのは、
それだけ事実や真実を伝えたいという意識の顕れだと思っていただいて結構です。
1983年がどういう時代だったのかを知り、ひいては当時の空気感が伝わることで、
我々が現在好んで聴いている音楽の聴こえ方すら変わってくると信じているからです。

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閑話休題。
既述のように1983年、新生徳間ジャパンのラフトレ紹介第一弾LP【25RTL-1】は
ポジパンのVirgin Prunesで、【25RTL-4】はPaul Quinnも在籍したJazzateersでした。
さて、その間の【25RTL-2】と【25RTL-3】はいったい誰の何という作品だったのでしょうか?

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【25RTL-2】V.A. / LUCKY BEATNIKS
帯文/今夜の気分は全身ダンス感覚!!
解説文要約/ラフトレを中心にジャパンレコード発売の洋楽の中で
      リズム重視・楽しいビートなど、ここ数年の音作りのサンプル。<日本編集盤>

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はぁ?
ポジパンとポール・クインの間の【25RTL-2】が『ラッキー・ビートニクス』?
「ダンス感覚」? 「ビート」って何? おまけに収録メンバーもバラバラですよね?
Scritti Polittiはまだしも、Aztec Cameraの『Oblivious』や『Walk Out To Winter』でビートを感じろ?
挙げ句の果てには、Mackey Feary? ハワイのカラパナっていうバンドの人じゃん!

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この意味不明の暴挙から読み取れるのは、
英国を含め全世界的に音楽シーンの変革が同時発生的に1983年に起っていたため、
誰彼構わず万人が未来を予測しかねていたということです。
これまでなかった新しいセンスや新たな風が吹き荒れる予感だけは感じ取れる。
何かが変わり始めていることだけは予測できる。でも何がどう変わるのかが読み取れない。

ROUGH TRADEにしても「これからシーンで何が流行るのか」がさっぱり見当がつかない。
そのラフトレ作品を日本に紹介する立場の徳間ジャパンに至ってはなおさらのこと。
えい、ディスコも流行ってるし、試しにガバッとこれでくくってみるか!が、「ビート」だったのです。
まぁ、かなり早い「マンチェスタームーブメント」を起こそうとした、と考えるのが妥当です。
しかしそれにはあまりにも強引すぎましたし、何せ時代の趨勢と役者が圧倒的に不足していましたが。

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ただとにかくレーベル内の曲を集めてショーケース的に紹介する方法は
好敵手のCHERRY REDが実証済で、当時の流行でもありました。
日本でもトリオによって、前年の1982年に「新感覚派音楽大集合」と謳われた
『Pillows & Prayers』【AW-20005】が、セールスはどうあれ話題性では確実に成功していたのです。

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この『ピロプレ』の再現を『ラッキー・ビートニクス』で徳間が狙ったことは容易にうかがえます。
しかしながら二匹目のドジョウにも二番煎じにもならなかったことは時代が証明しています。
1983年のこの企画は確かに先鋭的ではありましたが、残念ながら「ラッキー」なことは皆無でした。
いやはやラフトレも日本独自でこんな無茶な企画を打ち出した徳間にはさぞかし驚いたことでしょう。
そして「アンラッキー...」とボヤいたかもしれません。
ただ繰り返し言えることは、それほどまでに当時のシーンは混迷を極めていたということです。
この史実だけは記憶にとどめておくべきだと思います。

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August 19, 2017

ROUGH TRADEと徳間ジャパンと1983年/第1章

1983年当時、ROUGH TRADE作品を日本国内で発売していたのは
徳間ジャパンというレコード会社でした。
当時はCD普及前でアナログのLP/EPが大部分。
帯やライナー付の販売価格は2500円だったので【25RTL-XXX】という品番でした。

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そのラフトレ紹介第1弾、徳間での品番【25RTL-1】は、Virgin Prunesの『...If I Die, I Die』。
初回から何とも微妙な選択。
まぁダブリンの一応ポストパンクバンドなので大きな方向性は間違ってはいませんが。

このVirgin Prunesの1st、プロデュースはWireのColinNewmanで、
当時興隆していたポジティブパンク(通称ポジパン)に括られていました。
徳間の当時のポリシーは「英国での流行を日本に伝えたい」一心だったのです、きっと。
だってのっけからポジパンだったのですから。



ちなみに12インチ邦盤は1983年には1500円が相場で、
徳間もその第1弾に【15RTL-1】としてWeekend『Live At Ronnie Scott's』を発売しています。
ラフトレの紹介を始めていきなりLPがポジパンで、
12インチがアリソン・スタットンだなんて節操なさすぎですよね?

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徳間ジャパンだって著名なレコード会社です。
ラフトレとのライセンス契約はあったにせよ、発売作品を選ぶ権利くらいあったはず。
それでもこの節操ないラインナップで品番のスタートを切ったのは、あえてそうすることで
英国で起こっているシーンを直接紹介するというポリシーを遵守しようとしたのでしょうか?

実はこれには裏事情があって、
徳間ジャパンは元々「徳間音楽工業」と系列会社の「ジャパンレコード」とが1983年に合併してできた会社で、
元来こっち系の音源を扱っていたのはジャパンレコードの方で、
徳間は島倉千代子などあっち系?ばかりだったので、合併の影響でチョイスが多少混迷していた模様。

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更に言うとラフトレ作品も徳間ジャパンより先にジャパンレコードが
すでに1980年から【RTL】シリーズで発売していたのです。
【RTL-1】はPop Group、【RTL-2】はCabaret Voltaire、
【RTL-3】はYoung Marble Giants『Colossal Youth』という強力布陣でした。

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ジャパンレコードは矢野顕子など異色の邦楽の他、
1982年までFallやRaincoatsやRobert WyattやScritti PolittiやGist等のポストパンク作品を、
半ば売上度外視で次々日本国内に流通していました。
最早先見の明というより、ラフトレと心中していたようなもの。合併もやむなしです。

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ところが1982年の後半、ラフトレの趣向が変わってきて、
先に登場したWeekendが『La Variete』を発表。
ジャパンレコードも【RTL-31】として翌年追随しましたが、
従来のゴリゴリのポストパンクとは全く雰囲気が違うアコースティック系。
おまけに会社自体にも合併の噂が浮上。

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そして運命の1983年、ジャパンレコードが【RTL-34】として日本発売したのが
Aztec Camera『High Land, Hard Rain』。
これが実質的な真打ちとなり、その後シリーズコンピ『Clear Cut』をリリースし、
合併前の最後っ屁ともいえるThis Heatでジャパンレコードの【RTL】シリーズは幕を閉じました。

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こういった経緯があって1983年途中に徳間ジャパンは、
その前身であるジャパンレコードの遺産をそのまま引き継ぎ、
当時英国で流行していたポジパンやアコースティック系、
つまりはラフトレの時代に即したリリース作品を日本で発売することになったのです。
ただこの「時代に即した」という点がミソなのですが。

何故「時代に即した」がミソかと言うと、
一介のインディーズだったROUGH TRADEの重大な転換期と、
ジャパンレコードと合併して徳間ジャパンとしてスタートを切ったタイミングが絶妙に一致しており、
それが1983年という「ひとつの大きな時代的分水嶺」だったからです。
これは音楽の神様のいたずらか?と思うほど。

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June 20, 2017

北欧ポップ 棚卸し2017

ABBAやa-haやRoxetteやCardigansやCloudberry JamやRay WonderやClub 8や
CessnaやLake HeartbeatやLoch Ness MouseやSondre Lercheなどなど、
とにかく北欧には星の数ほどたくさんいいバンドやミュージシャンがいるけれど、
そりゃあUKとは近いし、スウェーデン、ノルウェー、フィンランドの他に
デンマークを含めれば4ヵ国にもカテゴリーが及ぶから、それだけ多いのは当然とは思いつつ、
どれもこれも好きでたまらないので、時間を作って棚卸ししてみたら案外壮観でして。

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Peter Bjorn & John   Team Me     Lacrosse
Pacific!         SiN     I'm From Barcelona

大好きな北欧ポップを並べてみたら、ジャケットは何故か全部イラストもの。
2006年作なのに、すでに軽い懐かしさ。

♪ Young Folks



From Sweden

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■Eggstone
Eggstoneを聴くとちょっと暖かくなる気がする。
札幌より北国の彼らが「Winters do〜」って歌ってるのに何故かほっこりするのは、
それだけハートフルな音を奏でてるって事だよね。

♪ Marabous


EggstoneのCrunchy Frogからの再発アナログを買おうかどうか迷ってる。
でも迷ってる時点で答えはもう決まってる。
あとはタイミングだけ。ベルが鳴るのを待っている。

♪ Waiting For The Bell


■Wannadies
スウェーデンのパワーポップバンドWannadiesのオリジナルアルバム&編集盤。
シングルを含め作品発表の時期毎に異なるシリーズのアートワークが曲と共に楽しめた、
絶えず疾走感を携えた素敵なバンドだった。いつかひょいと復活してほしいなぁ。

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■Blissful
スウェーデン史上空前絶後のポップバンド、
Blissfulのオリジナルアルバム3作『Greatest』『Orchestra』『Vitamins』。
問答無用のメロディー。魂の叫びにも似たトランペット。つまりは最強のネオアコ。

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■Happydeadmen
スウェーデン至高のバンドはやっぱりHappydeadmen。
ネオアコ/ギタポの金字塔『Science Fiction』など元祖直系のハイクオリティな名曲群。
4thはレアで未所有だけど、他作は絶えず心の中で響いてる。

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♪ Science Fiction


■This Perfect Day
スウェーデンのバンドの中でも最上級に好きだった、This Perfect Day。
個人的に何故かしっくりくるバンドで、それはきっと同じ北国の田舎育ちだから。
素直で純朴でメロディー重視の曲は、90年代のDJの際に北欧の爽風を吹かせた。

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■Acid House Kings
スウェーデンのAcid House Kings、
1st『Pop, Look & Listen!』はドイツのMarsh-Marigoldから1992年発表のネオアコ名盤。
CDのみでも四半世紀も経てば結構貴重盤。素朴で晴天の休日には最適!

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■Red Sleeping Beauty
ユニット名の由来はMcCarthyの曲、2015年復活したスウェーデンのRed Sleeping Beauty。
復活前2作とシングル集は90年代インディーの宝箱。
晴天にふさわしいハッピーチューンばかり。まさに好日のサウンドトラック。

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■Atomic Swing
スウェーデン出身Atomic Swingの1993年1st〜1997年3rd。
同じ北方圏に位置する札幌で2回もライブをしてくれた彼ら。
ほとばしるグルーヴが堪らなかった。
2006年に復活したようだけど残念ながら未聴。買ってみっかねん。

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■Beagle
良質なメロディー満載!スウェーデンのギタポバンド、Beagle。
全2作のLPとCDでは配色や質感や裏面意匠が微妙に違うワン。
さすが北欧モノはデザインにこだわりがあるワン。
『Within』の方はエンボス加工のジャケットで手触りが最高だワンワン。

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■Grass~Show
スウェーデンのGrass~Show。
DJで御用達だった唯一のアルバム『Something Smells Good In Stinkville』と
日本編集盤『Vertigo』。
美メロ+パワーポップ=魔法的!長い人生を乗り切りまShow!

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■Sambassadeur
スウェーデンのポップバンド、Sambassadeur。
脱ネオアコのアルバム『Migration』『European』は
北欧の自然を想起させるサウンドに純朴な声質の女性ヴォーカルが絡み、
独自の世界観が広がる名盤。

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■Seashells
スウェーデンのポップバンド、Seashells。
1995年の2nd邦題『恋の銀行強盗』にはネオアコ名曲の『Lovebirds』が口笛と共に収録。
後にQuinceやCloudberryがフォローしたのも大いに頷ける清新なポップセンス。

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♪ Lovebirds


■Merrymakers
トランポリンズと共にセコハン安価棚の常連、スウェーデンのMerrymakers。
「ビートルズを神とジェリーフィッシュを父と崇めて」いた彼らが
現実にアンディをプロデューサーに迎えたのはまさに乾坤一擲。
夢叶い二作で散ったのはきっと本望。

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■Popsicle
スウェーデンのインディーポップバンド、Popsicle。
1995年セルフタイトル内の『Not Forever』が名曲すぎる。歌詞にも感涙。
  I can change I'm not the same
  Not forever

♪ Not forever


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■Cinnamon
スウェーデンの女性voバンド、Cinnamonの2ndを。
セシルカットが似合うFridaの歌声はキュートな魅力全開。
ストックホルムの街を歩いた時「パッパッパッパ〜♪」が脳裏に蘇ってきて妙にほっこりしたっけ。

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♪ The Missing Persons File


■Excuse
スウェーデンのバンド、Excuse。
1996年の1st『Century』はビートルズ直系のポップソングが13曲も。
あのトーレヨハンソンが共同プロデュース。ライナーはあの仲真史さん。
メロディアスな曲群に溺れてみては。

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■Drowners
Suedeの曲がバンド名のスウェーデンのDrowners。
1996年のデビュー盤『Destroyer』はさすが北欧だけあって
ジャケットやフォントの使い方などデザインが洒落ていた。ラウドな音も◎。

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■Eskobar
スウェーデンの美形トリオEskobar。
2001年の2nd『There's Only Now』には
北海を越えるのに10年かかったマンチェスタービート名曲『Move On』が収録。
あぁ「マッドチェスター」という物言いはやっぱり嫌いだ!

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■Whipped Cream
スウェーデンのレーベルSNAP。
Eggstone『In San Diego』とWannadies『Aquanautic』のカタログ間の
Whipped Cream『Tune In The Century』が不出来なわけがなかろうもん。

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■Scents
スウェーデンのSoap〜Snapで密かに野に咲いた花、Scents。
『タンポポ』と『ポピー』の2枚のシングルにはあのトーレヨハンソンがハーモニカで参加。
黄と赤の色彩鮮やかなジャケットが表裏とも美しすぎる!
Scents=香り。フローラルないい香りが漂いそうな清涼メロディーが最高!

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■Loudean
スウェーデンのオルタナ女性voバンド、Loudean。
ワナダイズ等のSoapからの1997年作1st傑作シングル『Stereo』の子供ジャケットを見開きで。
童心に返って滑り台滑りたい!

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■Tribeca
マンハッタンの南街と同じ名前のスウェーデンのバンドTribeca。
2002年のデビューアルバム『Kate−97』は
(裏面掲載不可なくらい)やさぐれたジャケットから想像できない程小粋なシンセポップ満載。
テイクミーアウトトゥナイトって!

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■Easy
またまたスウェーデンのSnap Recordsから。
カタログ【SNAP12】は同国出身、Easyの2nd『Sun Years』。
彼らどうやらルックスに大いに自信があるようで。
さて盤を含むアートワークにメンバーの顔は一体何個あるのかな?

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■In Elvis Garage
スウェーデンのギターポップバンド、In Elvis Garage。
高らかにホーンが鳴り響く爽快感溢れる唯一のアルバム『winning by cheating』は
タンバリンスタジオ全盛期作品!

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From Denmark

■ Gangway
デンマークのポップ職人、Gangwayのオリジナルアルバムと編集盤。
解散前の意味深な題名の最終作『That's Life』が1996年だから
2017年に新作発表だと何と21年ぶりの復活!10月にはライブ予定!
頭皮と作曲センスが再び光り輝くね!

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Gangway復活のデンマーク語のニュースサイトが全然理解不能だったので、
ググッと翻訳したら、とんでもない和訳だった。
まぁギリ何とかわかるけど、左下の「それでもはげ」って。。。
全世界ポップファンの期待を一身に背負っての再結成だっていうのに
「それでもはげ」って。。。あんまりな翻訳!

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■Northern Portrait
デンマークのインディーポップバンド、Northern Portraitの全作品。
基本姿勢は言わずもがな80年代のSmithsだけど、
その姿勢を貫く愛と勇気と純粋性に対して猛烈なシンパシーを感じてやまない。

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■Mew
通算7作目の新譜が出たデンマークのバンドMew。
2003年頃の作品の一連のアートワークに今でも惚れ惚れしている。
凛とした佇まいがあり、音もそれに拮抗するように魂へ直接響いていた。
やはりアートワークは感性や姿勢の象徴であるべきだろう。

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■Birgit Lystager
デンマークの歌姫、Birgit Lystager。
1970年のセルフタイトルは北欧産ジャズボッサの最高峰。1983年の共演盤(右)も名盤。
心おどる音楽と共に「いい感じ!」で毎日を満喫しましょう!

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♪ Christina (Tristeza)



From Norway

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どちらかというと冬に聴くのはやっぱり北欧モノだな。
北欧でもノルウェーだな。
ノルウェーと言えばフラリッポリッピかキングスオブコンビニエンスかアーランドオイエか
ロイクソップかアーハかポゴポップスかディランモンドグリーンかソンドレラルケかセリアだな。
あれ?Team Meはどこさ行った?

■Dylan Mondegreen
いつも急に聴きたくなる。それは北海道の夜道でよく見かける光景だからではない。
ザ・スミスっぽいギターと哀愁のトランペット。歌詞も素晴らしい最高の一曲だから。

♪ Deer In Headlights


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■Askil Holm
ノルウェー出身のAskil Holm。
2003年邦盤アルバム『Seven Days In The Sun』は、
北欧の澄んだ空気に満ちた陽気と元気と勇気を届けるナンバー満載の傑作。
青空続きだったあの頃を振り返るにはぴったり!

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■Pogo Pops
Kings of Convenienceと同郷ノルウェーはベルゲンのバンド、Pogo Pops。
1993年日本オリジナルジャケデビュー盤『Pop Trip』。
普遍的ポップが満載でも札幌ライブは売れ行き不振で公演中止。ポポポ。トホホ。

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From Finland

■Poverty Stinks
フィンランドのサイケポップバンド、Poverty Stinks。
1993年日本独自発売の編集盤にはBlack Sabbathの1970年の名曲『Paranoid』のカヴァーが収録。
他の北欧のバンドとは一風異なったセンスが光っていた。

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■Tigerbombs
ハはのヒにフぃんらんどのヘっホ°こばんど、Tigerbombsを。
持ち味は恥ずかしげもないおふざけニューウェイヴ魂。
マジで2001年結成のバンド?と疑う位の直球性/純粋性は
北欧の虎爆弾を名乗る輩の常識にトラわれないポップの真剣解釈?

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でも何だかんだ言って北欧ポップで
最も良質で、最も心の琴線に触れて、最も好きなのは、ノルウェーはベルゲン出身の
■Kings Of Convenience ではないかと。活動を再開してくれないかなぁと願うばかり。

Kings Of Convenience

  
Posted by muselection at 21:30Comments(0)TrackBack(0)music | life