43

ゆずのこと

 白い網の真ん中に貼りつけてある丸いプレートには、崩した文字で「YZ」と書かれていた。水色の涼やかな文字だ。おそらくは社名の頭文字からとったロゴなのだろう。彼女は「YZ」の文字を頭に思い浮かべながら、ゆず、と小さく呟いた。まるで親しい女の子の名前を呼ぶかのように。
 そのゆずは去年の秋口から押し入れに仕舞われていた。カバーもなく、半年以上も眠っていたので、埃が被っており、薄汚れた印象が強い。彼女はゆずを引っ張り出し、まずは板張りの廊下に置いた。それからいそいそと、水を張った洗面器とタオルを用意する。廊下に膝をついて、タオルを濡らし、キュッと絞った。
 正面の網を拭いていく。すすすと網の線をなぞり、細い溝に挟まった埃も、タオルの端をこよりのようにしてこそいでいく。綺麗にしたあとの線に指を滑らせ、少し濡れた、つるりとした感触を味わう。彼女は気分をよくして、プレートから放射状に延びている網の線を一本一本、丁寧になぞっていく。
 一通り正面の網を拭いてしまうと、彼女は網を止めている小さな留め金を外し始めた。留め金には少しかたいのもある。四つの留め金、すべてを外し終えて、正面の網を外すと、青みがかった半透明の羽が現れる。遮るものは何もなく、けれど、その四枚の羽にもうっすらと埃が被さっていた。
 タオルを濡らして絞り、綺麗な面を外にして折り畳む。そのまま当てるけれど、羽はまるで嫌がるように滑って回る。彼女は下方の羽を手で押さえ、もう一度タオルを押し当てた。風もない部屋の中、彼女はただゆずを拭いていく。外された白い網がゆずの足元にある。無造作に。まるで脱ぎっぱなしにされたシャツのように。
 彼女は額に滲む汗を手首で拭い、ふっと息をつきながら肩の力を抜いた。タオルを濡らして絞り、またゆずに押し当てる。羽が次第に艶やかさを取り戻していく。一枚ずつ、ゆっくりと、彼女は表も裏も変わりなくタオルでなぞる。羽の根元の溝は、ゆずの身体の隙間のように、ゆずの腋や膝の裏のようにも思えた。
 彼女は羽を拭き終えると、今度は後ろの網を拭いていく。網の線を一本ずつ丁寧に。下方の網には首と重なっているところがあり、彼女は二本の指で上を向かせると、ゆずの首元を、時間をかけて綺麗にした。くすぐったそうにする、ゆずという女の子を思い浮かべると、何となく暑さが紛れる気がした。
 ゆずの身体と足元を拭いて、外していた白い網を着せると、彼女は少しだけ名残惜しそうに留め金を嵌めた。ひと仕事を終えたときの息をつくと彼女は立ち上がり、ゆずを抱えて部屋に連れ込んだ。
 部屋の真ん中にゆずを座らせると、コンセントを入れて、彼女自身はゆずの正面で正座した。「中」のスイッチに指をかけ、様子を窺うようにYZのロゴを見る。躊躇うように指を離し、また触って、息を吐きつつ、カチンと音がするまで押し込んだ。
 艶やかな半透明の羽が回り、部屋の中に風が生まれた。彼女は気持ちよさそうに目を瞑り、床に片手をついて正座を崩すと、またよろしく、と胸の中で呟いた。

五時二分

 ぽつん、ぽつん、と点滴が落ちている。耳を澄ますと彼女の静かな呼吸音が聞こえる。白いシーツに覆われた胸が微かに上下している。窓の外にはカーテンを閉めたくなるような青空が広がり、その下にミニチュアのような町がある。左下に学校の校舎と校庭が見えるけれど、あそこは私の通っている高校とは違う。ジャージ姿の生徒が部活に励んでいるのが遠く望めた。
 病室に置いてある折り畳み椅子は、講堂で使うようなパイプ椅子よりも座り心地がよいのだけれど、それでも腰かけると、きしりと小さな音を立てた。腰かけたあとはつい彼女のほうを見てしまう。今の音で彼女が目を覚まさなかっただろうかと。
 最初は四人で訪れた。それは三か月ほど前のことで、そのときの彼女は口に酸素マスクを被せられていた。ずっと目を瞑って、呼びかけても返事はなく、けれどただ静かに胸を上下させていたのは今と変わりなかった。
 私と彼女は同じグループに属していたけれど、それほど親しくはなく、話したことも数回ほどしかない。今ここで彼女が目覚めたとしたら、戸惑いの表情を浮かべる自信があった。
 膝の上に鞄を置いて中から単行本を取り出す。鞄を床に降ろして単行本を開ける。本のページを捲る音はこの病室の静けさを壊さないだろうか。横にいる彼女に聞いてみようかと口を開けて、またゆっくりと閉じた。文字に目を滑らせて、けれど大抵は内容が頭に入ってこない。本のページを捲る。紙の音を聞く。ドアの向こうから話し声が聞こえてくる。談話室で患者さん同士が話しているのだろう。医師や看護師の人の足音も聞こえる。忙しそうだったり、そうでもなかったり。でもそれらはやっぱりドア越しに聞こえてくるもので、こことは違う場所での出来事に思えた。
 テレビの横に置いてある時計はマイメロのもので、彼女のことはよく知らないけれど、マイメログッズをあげたら喜ぶのかもしれない。時計の針は五時二分を指していた。私は立ち上がり、彼女のそばに歩み寄った。長かった彼女の髪は、手入れのためか短くされていた。
 病室を出て通路を歩きながら、大人になってからも彼女の病室で同じように本を開く自分と、突然目を覚ましてお互いに戸惑う二人を想像した。
 エレベーターには私一人が乗り込み、壁に肩を預けて、そっと目を瞑った。短くされた髪の端に触れる、自分の指先を思い出した。まるで大切なものを扱うかのような、どこか怯えた指先だった。

夜祭り

 夜祭りの灯りはぼんやりと白く、にじむように闇の空に溶けてく。五月は初夏だろうか。だったら夏祭りなのかもしれない。わたしは夜空を見上げながら夜店で買ったフランクフルトを齧る。ケチャップと油と肉の雑でジャンクで非常に身体に悪そうな味わいが懐かしくて素敵だった。
 肉を噛みしめてミンチにしながら、右手に持ったフランクフルトを左のてのひらに押しつける。するとてのひらの真ん中にある唇がうっすら開いて、てのひらもフランクフルトを一口齧った。交互に食べていく。こうしないとわたしのてのひらは機嫌が悪くなる。難儀なものだ。
 フランクフルトを食べ終えて、ミルクせんべいに心惹かれて歩き出そうとしたところで、誰かに呼び止められた気がした。左手を見ると、「違うよ」というふうに唇を尖らせる。視線を滑らせ周りを見て、何となくの視線を感じて目を落とす。幼い子供がいるような高さにまで下げると、幼い子供がいた。小走りで駆け寄ってきた様子で立ち止まる。五歳くらいだろうか。子供の年齢はよくわからない。女の子。肌色の素足をさらして、夜風はまだ寒いからかパーカーを羽織っていた。わたしを見上げると、きょとんとした。
 再び辺りを見渡しても、幼女の保護者らしき人物はどこにも見当たらなかった。これは迷子だろうか。そして人違いだろうか。わたしは人違われたのだろうか。
「何か、ご用でしょうか?」
 わたしが慎重にそう聞くと、幼女はふるふると首を振った。横に。
「迷子?」
 次いで短絡的に聞くと、幼女は眉間にしわを寄せて少しの間考えたのちに、小さく頷いた。

「きみは、わたしを誰と間違えたんです?」
「……お姉ちゃん」
「お姉ちゃんときたの?」
「うん」
 想像力を駆使した結果、この幼女ははぐれて迷っていたところ、姉の姿に酷似したわたしを見つけ、しかしよく見ると違うのがわかって立ち尽くした、ということらしい。
「まあ、君の姉を探しながら祭りを見回ってみましょうか?」
 迷子センターとかあるのかな、と思いながらわたしは幼女に右手を伸ばす。幼女は「うん」と素直に頷いて、わたしの手を取った。

 幼女がミルクせんべいを齧るのを横目で見ながら、自分と酷似した姿を探す。ときどき「あれじゃない?」と指差すけれど、幼女は首を振るだけだった。
「ミルクせんべい、おいしい?」
「うん」
 それは何よりです。と思うものの、幼女の表情は少しこわばって曇り始めていた。何でもないように見えても、やっぱり不安は不安らしい。
「……うーん」
 わたしは立ち止まって、幼女の頭に手を置いた。幼女も立ち止まってわたしを見上げる。わたしは一つ頷いてから、幼女の頭からゆっくりと手を離していく。手を広げたまま。するとその手に幼女の髪が一房くっついてくる。わたしのてのひらの唇が彼女の髪を食んで、そのまま持ち上げる、というトリックだった。
 周りの空気を撫でるようにしながら彼女の目の前にわたしの手を持っていく。唇のある左手。唇は彼女の髪を食んだままで。幼女の髪はそこそこに長く、耳元からゆるやかな弧を描いている。
 幼女は一旦固まって、それから五秒後に解凍し、てのひらの唇が食んでいた髪に手を伸ばし、指を引っかけて、引っ張ることで自由にした。髪は流れる。唇はにたりと笑う。引きつる感触で何となくわかる。幼女はおずおずと、けれど興味津々な様子で、わたしの左手に両手を伸ばしてきた。

 幼女とわたしは手を繋いでいる。彼女は左手を握っている。ときどきてのひらの唇に指を押し当て、ふにふにして弄ぶ。幼女の不安は解消されたようだけれど、迷子センターもしくは彼女の姉がなかなか見つからなくて、わたしのほうが不安になってきた。
「どこですかねえ」
 幼女の姉は。
「うん……」
 んっ、と彼女は持っていた牛串をわたしのほうに差し出した。優しい肉食系女子だ。少し屈んで、肉の一片を歯に挟んで串から引き抜く。奥歯でむぐむぐする。安物の肉だけれど、でもこういう場所では安物だからよかったりするのだ。
「早く見つけないと、食べちゃうのにねえ」
「……うん?」
「君を、ね」
 わたしがそう呟くのと同時に、てのひらの唇がうっすら開いて、繋いでいた彼女の指を食んだ。舌先で舐める。彼女はくすぐったそうに口元で笑った。冗談だと思ったらしい。
 わたしの伸ばした右手が、幼女のさらりとした頬に触れたところで、「あっ」と彼女はわたしの反対方向を向いた。視線を追うと、そこにはわたしとよく似た立ち姿があった。幼女はたたっと駆けて、指は唇から離れた。

 何度も頭を下げる姉と、ゆらゆらと手を振る妹の姉妹と別れ、わたしはまた夜店を巡る。たこ焼きを買って、一つを左手の唇の隙間に押し入れる。熱かったらしく、はふはふとして熱を逃していた。


晴れた日の地下

 ビルとビルの隙間を抉り取るように、半地階の憩いの場がある。そこから地上にも出られるし、地下の街にも入れる。青や灰の空が望め、昼間は日も差し落ちて、春には桜の花びらがひらひらと舞い、それなりに気温が高いと、休憩を取りにきたスーツや制服の男女の姿も見られる。ベンチと生垣を兼ね備えたような場所に腰かけ、植えられた緑を背にパンを齧る大学生風の人もいる。
 わたしはそこで、仕事のお昼休みにパンを齧りながら本を読む。雨と曇りの隙間にあった晴れの日で、朗らかというよりも少し暑いくらいだった。広げた文庫本に光が反射して眩しい。白い。部屋の中で読むより文字が色濃く見えた。
 口の中の焼けたチーズの風味に牛乳を混ぜる。本の中では何人もが人を待っている。待ちながら、その人のことを話している。小学生のころのエピソードを、夜の酒場で。それを昼間に読むのもそんなに悪くない。と思う。
 スズメが足の先で遊んでいたので、小さくパンを千切る。本を読みながら、パンを千切りながら、パンを齧りながら、スズメにパンをやりながら、休憩を勤しむ。そのうちにハトが舞い降りて、スズメとハトの大群になる手前でパンはなくなった。
 デザートのなめらかプリンを食べ終えてから、わたしは本を閉じつつ立ち上がった。卵を扱うかのようにやわらかく本を持ち、地下に潜る階段のほうに進む。階段の前には両開きのガラス扉があり、それは少し重い。本をやわらかく持った理由は特にない。単にやわらかく持ちたかっただけだろう。深層において、誰かに叩き落とされたかったのかもしれないけれど、そんなことをする人をわたしは一度も見たことがない。
 地下に降り立つと、視界は赤く染まっていた。まるで薄く血を塗ったサングラスをかけているかのように。本で反射した日の光が網膜に焼きついた結果だった。通りゆく人が赤く、地下の街に建つショップのワンピースも赤い。通路に椅子とテーブルを展開した喫茶店も赤いし、そこを利用する客の横顔も赤い。心躍る。
 わたしは辺りを見渡しながら歩く。きょろきょろと、まるで初めて訪れた場所のように。赤い光景を心にとどめる。目が慣れるまでの、網膜の焼きつきが消えるまでの、数分だけの楽しみだ。じわじわと赤が薄れていく。光の跡が薄れていく。できるだけ長く焼きついて、わたしの視界を赤く染めていてほしいなと思う。

夢の中の少女

 歩道橋の階段を見下ろしていた。細かな雨がパラついて、薄灰色のコンクリートを濃いものに染めていく。滑り止めにも水の膜が貼りついて、リップを塗った唇のようで、滑りそうで、それも楽しそうで、怖い。
 わたしの後ろ姿は今よりも幼くて、たぶん小学校低学年くらい、薄ピンクのパーカーを着て、おかっぱだった。ふっと右側に影が差して、何かが通り過ぎていくのが視界の端に映った。女の子だった。幼いわたしと同い年くらいの女の子。ゴムで縛られた長い髪が、彼女に引っ張られるように流れていく。ゆっくり落ちる。ゆっくりと階段を落ちていく。
 落ちながらの彼女の顔はわたしのほうを向いていた。そこに表情はなく、ただわたしを見つめていた。わたしも彼女を見つめ返していた。感情らしい感情は何も浮かばず、ただ見つめ返していた。
 彼女がどうなったのか、わたしは知らない。いつもここで夢から覚めるから。


 香野に夢の話はしていない。香野とは同じクラスで、席が近くて背の高さも近かったので、掃除の時間で一緒になったり、体育の時間でペアを組んだりしていくうちに仲良くなった。わたしよりも少しばかり気安く、人懐っこい。だから、二人でいるとき、わたしは比較的落ち着いたほうになり、香野は比較的はしゃぐほうになる。
  香野の髪は中学までは長かったそうだけれど、高校では校則の関係で肩までの長さにしている。縛るのがあまり好きではないそうだ。左のこめかみに、言われないとわからないくらいの小さな傷跡がある。小学一年生のとき、河川敷の砂利道で壮絶にこけた跡だと香野は言っていた。派手に血が出て母親を顔面蒼白にさせたらしい。
「その傷」
「ん?」
 放課後、駅までの帰り道、香野はわたしの斜め前をゆらゆら歩いていた。大通りを渡り、ファミレス、業務用スーパーを過ぎて、大きな児童公園横の歩道。公園の中では小三くらいの女の子が、力いっぱいブランコをこいでいた。ブランコの脇のところで弟と思しき小一くらいの男の子が、はしゃいだ歓声を上げ、でも少し不安そうにしていた。わたしはそれを横目で見ながら、指先で自分の右のこめかみに触れる。
「こめかみ」
「うん」
 香野は後ろ歩きをしながら頷いて先を促した。わたしを真似るように指先で左のこめかみを触る。
「本当に砂利道でこけたの?」
 香野はわたしがチラ見していていたブランコの女の子を見つけると足を止めた。わたしも香野の一歩手前くらいで立ち止まる。二人して揺れるブランコの女の子を見ながら話す。
「んー、うちのハハはそう言ってたけどね」
「憶えてないの?」
「あたし、子供のころは落ち着きなくて、けっこう怪我しまくってたみたいだから。また違うときの怪我だったのかも」
 ブランコはキシキシと鎖を鳴らしながら、勢いよく揺れ続ける。女の子は全身をいっぱいに使って、元気そうだ。
「そうなの?」
「傷、目立つ?」
 わたしの問いに別の問いで返した香野に目だけを向けると、彼女はブランコの女の子を見つめたままだった。わたしもブランコのほうに視線を戻して言う。
「ううん。よく見ないとわからない」
「そっ。よかった」
 そう小さく頷くと、香野はまた後ろ向きに歩きはじめた。わたしも一瞬遅れて香野の斜め後ろを進む。今のところ公園横の歩道に人通りはなく、香野が後ろ向きでも誰かとぶつかることはなさそうだ。
 冬だし寒いしやる気もないしで、ぼんやりした欠伸を漏らすと、ちょうどそのタイミングで女の子がブランコの鎖から手を放した。飛んだ。
 短い息が漏れた。宙にいる女の子に、その瞬間見とれた。元気だな、危ないよ、と思いながら。日曜の朝のアニメに出てくる変身ヒロインみたいだった。
 長い一瞬のあと、女の子は両足で着地して、しかし勢いは止まらず、二、三歩足を踏み出してから尻餅をついた。ブランコの脇にいた男の子が慌てて駆け寄っていく。
「こわぁ。あの子、怖いものしらっ」
言葉の途中で、香野は歩道の端の段差で足を滑らせた。「おぅ」と間抜けな声を上げ、しかし体を反転させ、アキレス腱を伸ばすような体勢で踏みとどまる。
「あー、びっくりし……するなよ」
 香野はまた体を反転させ、わたしの顔を見るとそう語尾を変化させた。
「ふぇ?」
 わたしはどんな顔をしたんだろう。香野はわたしのどんな表情を見たんだろう。心臓がどくどくと鳴っていた。ブランコから飛んだ女の子と、歩道橋の階段を落ちる女の子の夢、歩道の段差で足を滑らせた香野、それらが一緒くたになって、頭の中でぐるぐるした。
「ねえ」
 わたしは肩の力を抜くようにして息を吐きながら呼びかける。
「何?」
 香野はどこか照れくさそうにしながら小首を傾げた。
「もう一度、よろけてみて」
「へ?」
「もう一回」
「ん、いいけど」
 香野はぶっきらぼうに言って、そろそろと体を後ろに傾けた。倒れそうなところで、わたしは彼女に手を差し伸ばした。香野はわたしの手に目をやり、ふっと小さく笑って、でもちゃんとわたしの手を取った。少し引っ張られる。でも倒れないし、落ちないし、飛ばない。
 公園のほうに目を向けると、またブランコに向かおうとする女の子を、弟らしき男の子がその腕に掴まって、ブランコとは反対方向に引っ張っていこうとしていた。
「気が済んだ?」
「うん、まあ」
「何これ?」
 ただの茶番だよ。
「さあね」
 するりと手を放して、また帰り道を歩きはじめる。
「ふうん」
 香野は半後ろ歩きから、ゆっくりと前歩きに変えて、わたしの隣に並んだ。

りう

 傾けたポットの端からお湯がこぼれる。お湯はゆるやかに暴れながら流れ落ち、白い湯気をふわりと立ち上らせ、備前焼風のマグカップの底を叩く。そうしてカップの底と縁によって55℃の角度を保持していたティーバッグを濡らすと、砕かれ詰め込まれ哀れ細かな葉に成り果てるも未だ紅茶という名を冠するものから琥珀色を染み出させた。
 紅茶のおいしい入れ方。カップを温め、ティーバッグを配置し、お湯を注いでから蓋をして、二、三分待って、そのあとティーバッグは五回揺らしてから取り出す。
 ティーバッグの箱の裏面に書いてあった入れ方である。やってみると確かに紅茶の味と香りが濃い気がした。気持ちの問題かもしれない。
 二口飲んでから、わたしはまたノートPCに向かった。ネットで予約してコンビニで料金を払う。あまりやったことのない作業なので、それなりに手間取っており、面倒くさくなってきていた。
 申し込みのボタンを押し、これでPCでの作業は終わりのはずだ。目が疲れたので、顔を手で覆うようにして閉じた瞼の上から眼球を押さえた。暗闇の中に光の残像が浮かび上がる。
 残像は基本白く、丸い光で、チカチカと淡い虹色を瞬かせていた。目を開けてもそれは残っており、今、右下から攻撃を受けると窮地に立たされること請け合いである。しかしだからこそ左上からの攻撃に備えるべきなのかもしれないどうでもいい。
 しばらくしたら消えるだろうと気楽に考えてぼんやりしていると、逆に段々はっきりと見えてきた。残像にしては少々おかしかった。
「……何だかな」
「何が?」
 独り言に女の子の声が返ってきた。内心の動揺を抑え、声のしたほうに目を向ける。左下だった。同居している七歳の神様がそこにいた。神様なので常識がなく、何もなかった空間に突然現れることがある。心臓に悪いからやめてほしい。
「ん?」
 彼女はテーブルに手を置き、小首を傾げながら私を見上げた。
「ああ、うん。右下のほうがチカチカしてて」
「どこ?」
「いや、目の中でね。残像だろうけど、なんか消えなくて。段々はっきり見えて……」
「んー……、あー、これ?」
 そう言って彼女はすっと手を伸ばした。右下に。そうして彼女はわたしの目の中だけにあるはずの光を掴んだ。掴まれた光はその瞬間ビクリと震え、彼女の手の中で形を変えながらじたばた暴れる。丸い光は淡い七色を瞬かせたまま、細長くうねうねとした、蛇のような形になっていた。
「……何、それ?」
 わたしは常識さんの背中を追い求めながら聞いた。
「ん? ……りう」
「りう?」
「うん、りう」
「……りゅう?」
「うん、りうの子供」
 龍の子供、らしい。舌足らずだ。
 光をよく見てみると、四本の足と、角らしきものが生えているのが何となくだけれどわかった。確かに龍のようだ。そういえば今年は辰年だったなと思う。
「その龍、どうするの?」
 途方に暮れた気分で聞いた。
「食べる?」
 その選択肢はなかったな。
「いや、食べませんよ」
「飼う?」
「飼いませんね」
「じゃあ、放す?」
「うん、まあ、それがいいかな」
 それが無難なところでしょう。
「うん」
 彼女は頷くと、てとてとと部屋を横切り、窓のところにいって、開けるとすぐに龍の子供をブン投げた。今年の干支に対する敬意は一切見られなかった。龍は放物線を描きかけるものの、持ち直して身体をうねうねさせながら夜空を泳いでいく。特に名残惜しそうにもせず、ただ単にわたしの目をチカチカとさせた。
 また部屋を横切って戻ってきた彼女が、得意げな顔をして私を見上げたので、わたしは「ありがとう」と礼を言いつつ彼女の頭を撫でる。彼女は口元をもにょもにょさせながら、照れくさそうにはにかんだ。
「あっ、そうそう。今度、旅行いこうか」
「旅行?」
「うん、温泉。いかない?」
「温泉! いく!」
「ネットで申し込むと25%オフなんだってさ。だからさっき申し込んでてね」
「そっか、ありがとう!」
 そう言って彼女はわたしの頭のほうに手を伸ばしてきた。背伸びするように。わたしは一瞬「ええー?」と思うものの、「まあいいか」と、小さな彼女の手がわたしの頭にまで届くように軽く身を屈めた。わたしの頭を撫でる彼女が満足そうに微笑む。

閑話

mistoa vol.8に参加しています。
『頭蓋骨型捨て猫』という話を書きました。
よければどうぞ。

エチュード

 ひらひらとしたゴスロリ風のメイド服を着た妹が、ベッド脇の丸椅子に座り、ぼんやりと窓の外を眺めていた。猫耳をつけていた。ツインテールではなかったが、それはたぶん、そこまでするとやり過ぎだからだろう。
 天井はうっすらクリーム色がかった白で、暖かい印象にしてあるようだった。シーツや枕カバーは真っ白で、清潔で、逆に少し冷たい感じがした。病室っぽいなと思いつつ、仰向けに寝たまま目だけ動かして辺りを見渡す。白い壁。縦長の殺風景な部屋。頭の方向に窓。足のほうにドア。ベッドと壁に挟まれるようにある何かの機器。やはり病室のようだ。そういうドラマや舞台のセットとかじゃなければ。生活感のない白い部屋。病院独特のにおい。
 肘をついて身を起こしかけると、微かな衣擦れの音がした。部屋には僕と妹しかおらず、音楽もなく、だから相対的にその微かな音だけが響いた。妹が僕に気づいて目を向ける。満面とまではいかない、それ相応の笑みを浮かべるところを想像したけれど、妹の表情はほとんど変わらず、ただ角度にして五度くらい首を傾げた。
「起きた?」
 妹はそう掠れた声で言ってから、「ううん」と一度咳払いをし、「起きましたか、ご主人様」と言い直した。……何故言い直した?
「妹?」
 聞きたいことや突っ込みたいことは他にもいろいろとあったが、僕はまず一番気になったところを聞いた。一番気になったところ。妹の胸元。妹は僕の視線を追って自分の胸に目を落とす。そこには名札がついていた。ローソン店員がつけているような名札だ。ローソン店員のように黒マジックで名前らしきものが書かれていた。ただ一文字、『妹』と。
 そういう苗字だろうか。いや、もしかすると下の名前かもしれない。昔、妹を欲していた一人の少年がいた。七夕の日に『いもうとがほしいです』と短冊に書くような、クリスマスイブの夜に『サンタさんへ いもうとをください』という手紙を枕元に置いておくような少年だ。しかし、少年の母親は体が弱く、少年以外の子は望めなかった。やがて少年は成長し大人になり、また幸運な出会いがあり、そして自らが親になるときがやってきた。かつて少年だった彼には心に決めていたことがあった。生まれてくるのが女の子だったら、『妹』という名前にしよう、と。
「これは……」
 妹は名札の左下を持ち、傾けるようにして持ち上げる。名札が窓から差し込んだ光を反射し、斜めに白い線が走る。安全ピンがメイド服の胸元を引っ張っていた。妹の胸は妹らしく、ささやかだった。いや、妹らしく、というのは違うかもしれない。この世界には様々な妹がいる。そう、はち切れんばかりのお胸をお持ちの妹もいらっしゃるだろう。そしてそんな妹を持つ姉の胸は逆にささやかだったりするのだ。だがそれがいい。だがそれがいいのだ。
「記号です」
 妹は僕の思考など当然ながら無視し、短く言葉を紡いだ。
「記号?」
 僕はそう聞き返す。
「そうです。妹という記号」
「……えーと? つまり君は僕の本当の妹じゃない?」
「今のところ妹設定を押し通す所存ではありますが」
「妹設定ってどういうこと?」
「そう言いながらも本当に妹であるというのも今後の展開によってはありでしょう」
「……どゆこと?」
「詳しくはこの参考資料をご覧ください」
 妹設定さんはそう言いながら自分のお尻の下から、つまりメイド服スカートと丸椅子の隙間から、四つ折りにされた紙の束を抜き出し、僕のほうに差し出した。僕はそれを自然と受け取っていた。そのことに何か引っかかるものを感じつつも、僕は妹設定さんの言う参考資料を広げた。また何かが引っかかる。この動作に。彼女が紙の束を差し出し、僕が自然と受け取り、広げる。この動作がひどく身体に馴染んでいる気がしたのだ。まるで何度も繰り返して慣れてしまった動作のように。
 参考資料はずっと彼女のお尻の下に敷かれていただけあって、生温かく、今のよくわからない状況と相まって、よくわからずどぎまぎした。それを誤魔化すように僕は資料の内容を目で追っていく。どうやら何かの病気の説明らしいが、堅苦しい表現と細かい字でびっしりと書かれているため、段々と詐欺まがいの契約書を読んでいるような気分になった。
 眉間にしわを寄せながら読み進めるうちに、何か不穏な気配を感じ、顔を上げると彼女がビクッとして止まった。そのとき彼女は中腰になっていた。彼女の両手にはさっきまで彼女の頭に嵌っていたはずの猫耳があり、そしてそれは僕の頭のすぐそばまできていた。
 僕は『メリーさんの電話』という有名な感動巨編を思い出した。あたしメリーさん、今あなたの後ろにいるの。
「……チッ」
「舌打ち?!」
 彼女は何事もなかったかのように猫耳を再び自分の頭に装着し、腰を下ろすと、わざとらしく「オホン」と咳払いした。
「その資料、長いので三行でまとめますと、
ある日キミは事故にあった。
その事故のせいで記憶が一日しか持たなくニャッた。
今のところ治療法は見つかってないニャー」
「今すごい重要なこと言ってるよね?! なんで猫語なの?!」
「こう……、深刻になるのを避けた……的な?」
「おおぅ、隠す気もなく今考えたよ」
「すまない、深刻になるのを避けたのだ」
「今さらキリッとして言われても」
「深刻になるのを避けたのニャー」
「……どうしろと?」
「ニャー」
「ニャー」
「理解していただけたようで何よりです」
「何が何だか……」
 僕はそう頭を抱えるものの、無表情気味だった彼女の口元にはニヤニヤ笑いが貼りついており、ある種の満足感も胸の奥から湧き上がっていた。
「ところで確認なんですが、昨日のことは憶えていますか?」
 彼女がニヤニヤを抑えつつ上目づかいで言う。
「ん?」
 僕は記憶を探るように天井と壁の境目辺りに視線を泳がせる。じっと見つめると禍々しいものが這い出てきそうで、期待と不安が胸の中で渦巻いた。
「……いや、憶えてない」
 這い寄る混沌への期待と不安は一先ず脇に置き、僕はぼんやりとそう答えた。
 憶えていなかった。探っても何も掴めない。記憶がない。昨日記憶も、一昨日の記憶も、その前も。子供のころの記憶もない。幼稚園、小学校、中学校……。何もない。何も憶えていない。どうして? 忘れてしまった? 事故で? どんな事故? わからない。まるでわからない。記憶が一日しか持たないと彼女は言った。今日のことも明日になれば忘れてしまうのか? どうして? 何故? わからない。何だよそれ? 意味がわからない。
「そうですか、残念です。いえ、むしろよかったのかもしれませんね。まさかキミにあんなマニアックな性癖があったなんて。……まさかフライパン返しであんな」
「意味がわからない! フライパン返しで何したの?!」
「何をしたか……、妹にそんなことを言わせようとするなんて、ご主人様は鬼です。鬼畜です」
「せめて妹なのかメイドなのかはっきりさせてくれ」
「過去にこだわっていても仕方ありません。わたしたちは未来に生きるべきです。また新しい性癖を開発すればいいじゃないですか。ピンヒールとか」
「開発しないから! ピンヒールはあきらかに踏まれる感じだよね! 嫌すぎるよ!」
 僕がそう言うと、彼女は表情を凍らせ、歯を食いしばりながら俯いた。そうしてふーっと深く深く息を吐く。
「……残念です」
 まるで最後の希望を絶たれたときのような、低く掠れた声だった。
「……その、心底残念そうな顔するのやめて。泣きたくなるから」
 俯いたままの彼女の顔を覗き込むと、微かなニヤニヤ笑いが口の端に貼りついているのが見えた。ある種の満足感が胸の奥から湧き上がってくるのがくやしい。


記憶喪失の患者とメイド

スズキさんとタナカさん

『リストカット』と枠の中に打ち込んで、画像検索する。ゼロコンマ何秒かで、生々しい傷の画像が呼び出される。肌色に赤い線。紫。青。その色のイメージだけで言うと、鮮やかで綺麗な気もする。ある意味予想通りで、ある意味期待外れの画像の群れに気圧されるように、わたしはマウスを操作してウィンドウを閉じた。ずっと下にスクロールしていけばわたしの目的のものはあるのかもしれないけれど、そこまでするだけのこだわりも気力もなかった。
 傷跡が好きだった。さっきまで映っていた生々しい傷跡ではなく、ふさがったあとの、少し盛り上がった皮膚が好きなのだ。そうした傷跡は白く、目を引いて、その周りの皮膚が少しだけ濃い。イメージすると少しばかり鼓動が早まった。
 理由、あるのかな、と考えたりもする。傷が好きな理由。幼いころのトラウマを引きずっているとか。好きだった男の子に大怪我をさせて、ショックで忘れてしまったとか。あるかどうかわからない記憶を掘り起こし、でもそんな重たい過去は影も形もなく、ただ、ずっと子供のころ、幼稚園とか小学校低学年のころ、ころんで膝や脛にすり傷を作っていたのを思い出した。ころんだのに泣きもせず、その傷跡を、特に手当をしているところを、じっと見つめていたらしい。ちょっと怖かったよ、とは母の言葉。
 弟と共同で使っているので、履歴を消してからノートパソコンの電源を落とす。はずみのように欠伸が漏れた。時間を確認するのを忘れたけれど、眠るのにはちょうどいい時間に思えた。
 居間から自分の部屋に戻り、布団を敷いて、長袖のTシャツと短パン姿で寝ころがる。今の季節は日によって暑かったり涼しかったりするから、服や布団の厚さが難しい。喉がどことなくざらついていて、でも風邪を引いたかどうかは微妙なところだった。
 少し重たい掛け布団を二の腕に感じながら、わたしは自分の手の甲を見つめる。夏の部活の名残で浅黒い。そこに白い傷を思い浮かべて、幻の痛みに顔をしかめた。
 白い傷。白と黒。
 友達の日焼けあとにドキッとしたこともある。あれと同じなのかもしれない。そういう、フェティッシュな感じに近いのかもしれない。そう思うと気持ちの重たさが減り、でも少し残念にも感じた。
 ぼんやりと眠たい。眠たいのだけれど、寝入るにはまだ時間がかかりそうだった。布団の中でゆるく体を丸めて、素足の膝を触る。もう小さな子供じゃなくなって、ころばなくなったから、膝に傷跡はない。撫でてみても、遠い昔のすりむいた跡なんてわからなかった。


 公園の灯りに照らされて、手に持ったあんまんがうっすらとオレンジに染まっていた。少しずつ夜が早くなっていく。わたしはベンチに座り、二十メートルほど先にあるコンビニの明かりを、見るともなしに見ながらあんまんを齧っていた。
 ぼんやりとした何もない時間だった。仕事帰りの疲れもある。ぐったりの二歩手前くらい。静かに息を吐きながら肩の力を抜く。目を瞑ると、昔見た傷の画像が瞼の裏に映る。何の脈絡もなく思い出すことがあった。高校のとき、画像検索して眺めた画像の群れが、軽くトラウマになってしまったのかもしれない。
 あんまんを齧りながら空いている左手の指をすり合わせていた。特に意味のない無意識での行動だった。秋の虫の鳴き声が聞こえる。指をすり合わせても虫の音のような音は出ない。視線を滑らせて、自分の手首を見つめた。そこに傷跡はない。青い静脈がうっすらと透けて見えた。夏の名残も何もない、ただの肌色の手首だった。
 つまらないような、別につまらなくてかまわないような気持ちで、はふっと欠伸した。
「肉まん、半分ちょうだい」
 声と同時に腰かけるスカートの音が聞こえた。ちらりと目を向けると、気取った顔をしたタナカがいた。もう少し気配を感じさせてほしいものだと思う。
「あんまんだよ」
「……スズキさん、あんまん好きだね」
 最初に会ったとき、彼女は「じゃあタナカで」という名乗り方をしたので、わたしも適当な名前を名乗っていた。一瞬ビクついてしまったわたしに、タナカは楽しそうな笑顔を見せる。
「そうでもないけどね」
「甘党?」
「別に。どっちも好きだよ」
 甘いのも辛いのも。
 タナカとは初夏のころに知り合った。ちょうどこのくらいの時間に。初夏のこの時間は今よりもずっと明るかった。彼女はわたしが数年前まで通っていた高校の制服を着ていて、ベンチに座って、コンビニで売っている北海道の模様が入ったチーズケーキ風の蒸しパンを食べていた。
「四分の一、ちょうだい」
 いいよ、と言って、わたしはあんまんをメリッと千切って、彼女のほうに差し出した。彼女はというと、口を開けて待っていたので、途中で方向転換して指先のそれを彼女の口の中に押し込んだ。彼女はむぐむぐしながら自前のコンビニ袋からペットボトルのお茶を取り出し、口をつける。口を放すと、ん、と鼻を鳴らして、わたしの膝の上に空いているほうの手を投げ出した。
 細く深く息を吐く。
 わたしは彼女の手に自分の手を添え、そろそろと袖口のほうに指を滑らせる。紺色のブレザーと白いブラウスの袖口が手首を覆っている。初夏のころの彼女は半袖で、大きなリストバンドが手首を覆っていた。やけに目を引いた。
 話しかけたのはわたしのほうからで、自社商品のマーケティングという形だった。それは嘘の理由でもなかったけれど、本当の理由でもなかった。それからこの場所で何度か会って話をした。
 ブラウスの袖口にゆっくりと人差し指と中指を差し入れる。指先が皮膚の盛り上がった感触を伝えた。ほんの微かな感触なのだけれど、わたしの鼓動を早くした。お茶を飲む彼女の、喉を鳴らす音が聞こえた。前に見せてもらった傷跡が思い浮かぶ。二本の線は色鮮やかでも生々しくもなく、むしろ目に優しい気がした。少しだけ日に焼けた肌に、白い線。それでも幻の痛みに顔をしかめた覚えがある。線は今もその二本から増えていなくて、触るたびに何となくほっとした。
 ペットボトルをベンチに置く音が聞こえ、すぐに彼女がわたしの空いているほうの手を引き寄せようとする。わたしは食べかけのあんまんを自分の膝の上に落としてから、手を彼女のされるがままにした。彼女はわたしの指の背に手を添え、何かを選ぶように自分の指を滑らせていく。
 人差し指。中指。薬指。小指。
 小指を摘むと、遊ぶように、関節の反対側に引っ張る。軽く痛いくらいで放す。そのまま彼女の手はスカートのポケットに向かう。彼女が息を吐くようにして微笑む。わたしもつられて微笑んでいた。チキチキチキ、と聞き覚えのある音を聞いた。カッターナイフを滑らせる音だ。白い線のあるほうの手が、わたしの膝から離れ、彼女の膝の上にあるわたしの手を触った。小指を固定するように持ち、それから、小指の先にカッターナイフの刃が当たった。
 チクリとした痛みに奥歯を噛みしめる。注射は人並みに嫌いだった。中学のころ、注射で貧血を起こす同級生を見たことがあるけれど、わたしはそこまでではなかった。
 小指に丸く赤い血の粒が浮き上がる。彼女はわたしの手を持ち上げながら軽く身を屈め、血の粒に口をつけた。舌が指先をもてあそぶ。ゆっくりと、ゆるやかに。
 役目を終えたほうの手が、またわたしの膝の上に投げ出された。わたしは彼女の手首をもてあそぶ。ゆっくりと、ゆるやかに。どの程度なのか、許される範囲なのかわからないけれど、歪んでいるとは思う。
「スズキさんの」
「ん?」
「痛そうな顔、好きだよ」
「そう?」
「うん、エロい」
「……どう答えていいのかわからない」
 あはは、とタナカは愉快そうに笑って、横目で見ながらまた唇と舌でわたしの指先をもてあそびはじめる。わたしはそっぽを向いて、彼女の手首から手を放し、膝の上の少し冷めかけたあんまんの一切れを口の中に押し込んだ。

お留守番

 ドアを開けるとむわっと熱気があふれ出て、ほのかな汗のにおいもした。自分のにおいは気にならなくても、人のにおいは気になるものだと言われるけれど、彼女のはそう不快ではなかった。
「おかえり」
 掠れた声がした。喉が渇いていそうだ。前髪が汗で濡れて額に貼りついている。つうっと頬からあごの先まで流れたそれを、彼女は人差し指の根元で拭った。
 窓の横の壁に背中を預け、足を崩れた「4」の形にしている。スカートは短く、ゆるく曲げた右足の膝横に蚊に刺された跡がある。
「クーラーつければいいのに」
 わたしは部屋に上がって台所に向かう。シンクの籠からグラスを取りつつ冷蔵庫を開け、ペットボトルのお茶を取り出す。
「人の部屋だし」
「気にしなくていいのに」
 グラスに注いだお茶を差し出すと、彼女は少し気だるそうにしながら受け取った。制服のブラウスも汗で濡れて肌に貼りついている。ボタンを三つ開けた胸元からは水色のブラが覗いていた。
 喉を鳴らす音が響く。両手でグラスを傾ける仕草は上品に見えた。わたしは彼女の両手首を縛っている縄をぼんやりと見つめた。
「何?」
 頬でグラスの冷たさを味わいながら彼女は小首を傾げる。
「手錠のほうがよかったかなって。革のやつとか」
「うーん、革だとベトつくし。それにこの感触、私好きだよ」
「飲んだらシャワー浴びる?」
「あ、うん」
 彼女はまたグラスに口をつける。わたしは彼女の額に貼りついた前髪を指先で横に流した。彼女は少し照れくさそうな、親が子供の悪戯に対して見せるような笑みを零した。

 二つのグラスをシンクに置き、わたしも彼女を追ってバスルームに入った。
「スカート脱ぐ?」
「ん?」
「スカートだけ脱ぐ?」
「どっちでも」
 彼女は迷った末にスカートのまま湯船の縁に腰かけた。わたしはシャワーのノズルを持ち、水のほうの蛇口を捻る。無数の線がタイルの上で弾け、細かな粒が足を掠めていく。彼女が心待ちにしているようなので、わたしはノズルを上に向けて少し傾ける。
「つめたっ」
「水だからね」
「水責めだ」
「そ、水責め」
 滑らかに濡れたブラウスが白い半透明越しの水色と肌色を作る。彼女の体の線を描き出していく。手首の縄も水を吸って色が濃くなり、ほどきにくそうになっていた。乾くのにどのくらいかかるだろう。でも夏だから、わりとすぐかもしれない。
 彼女は特に気にする様子もなく、ただ気持ちよさそうに水の感触に目を閉じている。

Info
西直が書いています。

連絡先
nishina043@mail.goo.ne.jp
メールフォーム

41というところで黒いほうがあまり趣味のよくないものを書いています。

mistoa”vol.8に参加しました。


Archives
記事検索
  • ライブドアブログ