愛田武さん亡くなる

 歌舞伎町のホスト王と呼ばれた、愛田武さんが亡くなられた。涙が止まらない。

https://www.tokyo-sports.co.jp/entame/entertainment/1167760/

 愛田さんは、私が「AERA」の人物ルポ「現代の肖像」で最初に書かせていただいた人だった。店にも自宅にも通い、幼なじみの方にもお話をたくさん聞いた。

 愛田さんは新潟県出身で、家出をして東京に出てきた。ホストをするまでいろんな職業を転々として、お金を儲けては新しいビジネスを初めて失敗することを繰り返した。彼の履歴を辿っていくと、結局、成功した仕事の共通点は「女の人からお金を貰うこと」だった。天性のホストだったと思って間違いない。

 最盛期には歌舞伎町にホストクラブ三軒、「おなべクラブ」も一軒経営していた。「おなべクラブ」とは、女性が男性の格好をして女性を接待する店で、今で言えばトランスジェンダーの人たちが働いていたのだろうか。「おなべクラブ」は基本給がホストクラブよりかなり高く、働いている人から
「自分たちは仕事を見つけるのも苦労する。ちゃんとした金額を貰えて嬉しい」
 と話していた。そもそも「完全歩合制」のホストクラブで、日給の最低保障制度を最初に作ったのも、たしか愛田さんだった。

 おかしな人だった。店で飲むのは必ず「ビールのお湯割り」。一度飲ませて貰ったが、なにがおいしいのかわからなかった。刺身の醤油には必ず味の素を入れた。自分の醤油皿に入れるだけでなく、一緒にテーブルを囲んでいる人の醤油皿にまで、嬉しそうに味の素を振りかけた。あまりにも愛田さんが嬉しそうに小指を立てて味の素の瓶を振るものだから、誰も「止めてください」とは言えなかった。愛らしい人だった。

 歌舞伎町で愛田さんの隠し子を名乗るキャバクラ嬢を名乗る女性が現れたこともある。「確認しに行こうか」。私と愛田観光のホスト10人ぐらいがズラズラと区役所通りを歩いて、キャバクラに突撃した。もちろんキャバクラは大騒ぎ、というか、空気が止まった。
 店の中でその子を指名すると、ミニスカートのギャルっぽい子が現れて、
「お母さんが昔、社長とやったって言っててぇ」
「たしかにやったけどなあ」
 何の会話だよこれは、と隣に聞いてておかしくてしょうがない。周りのホストたちが「絶対違う」と愛田さんに手を振った。
 30分もいなかったと思う。愛田さんは10何人分の料金、たぶん2、30万円を現金で支払った。
 自分の娘を自称することを否定も怒りもせず、ただ「ふーん、そうかい」という感じで店を出た。あれはたぶん、「この街で俺の娘を名乗るからには覚悟して生きろ」というメッセージだったと思う。

 小さな寂れたスナックに連れて行かれたこともある。愛田さんと私の2人なのに、頼んでもいないフルーツやらなにやら、勝手にいろいろテーブルに運ばれてきた。ここも30分くらいで、この勘定は覚えている、7万円だった。
「昔、ママにお世話になってね」
 そうやって財布を広げると、札束が詰まっていた。
「毎日こうやって回るから、必要なの」

 愛田さんの記事が載った「AERA」をお店に持っていってお渡しした。

 原稿を書いてからそれが載るまでの間に、年末、私は父を亡くしていた。私が海外取材に行っている間に突然亡くなり、私は成田から関西の実家から直行した。父は孤独な人だった。父の死を誰に報告しようかと父宛の年賀状を調べたが、全て宣伝用のものばかりで、プライベートなものは1枚もなかった。私自身も、父を亡くしたことに涙ひとつ出ないことにおののいた。

 自分は冷たい人間だから、父のように誰からも悼まれることなく、野良犬のように死んでいくのだろう。

 愛田さんに父が亡くなったことをなんとなく伝えると、「そう……」といって、ホストになにか耳打ちした。そしてホストが持ってきたのが、コンビニで買ってきた香典袋と筆ペンだった。愛田さんが筆ペンでさらさらと表書きをして、金を入れ、渡してくれた。
「これからは、私のことを歌舞伎町の父だと思いなさい」

 恐縮しながらそれをいただき、ホストクラブ(愛田観光本店、通称「アイホン」)の階段を上って外に出る。
 ネオンの光に照らされた、握りしめた香典袋を見て、突然、涙が滝のように出てきた。それが父親のために初めてもらった香典だった。

 やっと、父の死を悼んでもらえた。父親が真人間になった、と思った。そして初めて父のために流す自分も、愛田さんのおかげで真人間になれたと思った。

 もう、泣けて泣けてしょうがない。そのころの区役所通りは客引きがいっぱいで、まともに歩けるところではなかった。だがさすがに香典袋握りしめて号泣しながら歩いている奴に声を掛けるバカはいない。自分の前を人並みがサッと左右に分ける中を歩いて行った。

 水商売で成功した人間は愛田さんのあとにも何人もいる。だが、人の心臓を鷲づかみするようにして気持ちを動かせ、「この人のためなら」と思わせる人は、たぶんもう出ないんじゃないかな。怪人であり、傑物だった。
 愛田さん、ありがとうございました。

「横浜vs.PL学園」、11年ぶりの増刷

 こんなことがあるんだなと驚いた。
 家に帰ると朝日新聞出版から、「増刷見本」と表書きした本が送られていた。最近はとんとご無沙汰なので、ハテなと思いつつ開いたら、「横浜vs.PL学園」の4刷だった。

 3刷が2007年だから、11年ぶりの増刷ということになる。もちろん、松坂が日本プロ野球に復活して、あんだけ頑張っていることのおかげだ。
 増刷分には、初刷のときと同じ帯があり、そこにコピーが踊る。

《僕にとって、生涯忘れることのない特別な試合です 松坂大輔》

 文章を読んで当時のことを思いだして、涙腺がゆるんだ。

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 「横浜vs.PL学園」は最初は単行本で出して、それが売れて文庫本にする計画になった。その宣伝の帯の文を松坂から貰おうと、2000年の初夏、私と編集者が西武ライオンズまで赴いた。

 文章をもらうといっても、本人に書いてもらうわけではない。すでに西武のエースとして活躍しており、シーズン中である。私がいくつかの文案を用意して、
「松坂さんに選んで貰ってください」
 と広報に託した。

 そのあと、広報から電話が来た。
「大輔が自分で文章を考えたいと言ってるんで、お待ち願えますか」
 えっホンマに!?松坂本人が考えてくれんの!?私と編集者は狂喜乱舞した。いやマジで(笑)

 そうやってきたのが、
《僕にとって、生涯忘れることのない特別な試合です 松坂大輔》
 というコピーだ。素朴だけど、20歳の松坂が真剣に考えた、嘘偽りのない言葉です。
 彼はいつも人に対して誠実な男でした。11年ぶりに復活したコピーを見て、日本に帰ってきてから彼の苦難を思う。お帰り、松坂。

ライター交流会に登壇してきました

 先日、中川淳一郎さんからお声がけしていただき、「ライター交流会」というイベントで登壇して来ました。趣旨と内容についてはこちらでレポートが読めます。

 もともと私はライター同士の飲み会とか交流会はあまり好きではない。若いころに参加した飲み会は傷のなめ合いと出世した同業者への悪口。そして酔いが回った先輩からのいいがかりみたいな説教。赤い顔しながらしたり顔で説教垂れる中年男の醜さといったらない。
 そもそも私はフリーライターの魅力のひとつが「一人でいられること」だと思っているので、知らない人(自分の興味の無い相手)と積極的に集まって話をして何が楽しいのかわからない。また最近のwebライターの方たちはタレント的というか、「テキスト版YouTuber」みたいな感じで、私がしてきたライター仕事とはずいぶん仕事が違う。

 そんなわけで若干引き気味だったのですが、来場参加しているライターの方たちと少しずつ話をして、見識が改まりました。これは現代の「編集部機能」を担っているのだなと思いました。
 若いころはよく編集部に遊びに行きました。X編集部のAさんと打ち合わせが済むと、同じ編集部のBさんと喫茶店で無駄話をして、隣のY編集部のCさんと将棋を指したり。そういう無駄の中で最近読んだ面白い本とか、ムカつくニュースなどの「情報交換」をしていた。通りすがりに耳に入ってきたベテランライターの電話取材の下手さにホッとしたりもした。
 最近はwebメディアと名のつくところがやたら多いですが、たぶん、物理的な編集部を有しているところは少ないのではないかと思います。いや、編集している部署も机はある。でもそれは編集スペース的なもので、私がいわんとする編集「部」ではない。訪れた人間が誰でも座っていいソファとか山積みされた読み放題の雑誌とか、なによりちょっと暇こいた編集者がいない。ライターさんと打ち合わせも近所の喫茶店で1時間話をして、ハイよろしくね、ではないだろうか。
 紙メディアの衰退は、ライターと編集者の場としての機能を持っていた編集部の消失につながっていると思う。交流会でちょっとした意見を求められたり、相談されたりして、「これは昔の編集部とそっくりだな」と感じた次第です。

 自分が学んできたものが「消失」していると感じたのは、昨年、若いライターさんに原稿の書き方をアドバイスしていたときだった。私は今あるウェブメディアでデスクの真似事をして、外部のフリーライターさんにお仕事をお願いしている。恐縮ながら何回も書き直しをお願いすることも多い。その中のある方に、メールだけのやりとりでは心許ないので会社に来て貰った。モニターにその方の原稿を写しだして「この一文は紙でOKだけどスマホ向きにこうなります」と目の前で書き直したり、構成についてノートに図を書いて説明した。要はおっきいところから小さいところまで全部ダメ出しをしているわけで、指摘しているこちらも辛い。
「だいたいこんな感じなんですが……」
 と説明を終えて、「怒ったかなー」「ショック受けてるかなー」とビクビクしていると、その方の第一声に驚いた。目をらんらんと輝かせて、こう叫んだ。
「面白い! こんなこと教えて貰ったの、初めて!」
 それを聞いてホッとして嬉しくて、少しせつなかった。しょせん私がアドバイスすることなんて、今まで編集者さんから聞いてきたことの受け売りである。いまはそういうことを誰も教えてくれないんだな。

 かつてあった場がもうないのなら、敢えてそういう場所を作り出すしかない。ちょっと偏見があったライター交流会ですが、今回の機会をいただき、気づきを得られました。ありがとうございました。




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