2006年02月06日

ココログに行く

ライブドアブログは消えてしまうのだろうか。

「サーバーを管理をする人がいなくなったら当然消える」と聞いたが、そうなのだろうか。

私はもう随分書いた。1年7ヶ月も書いた。

愛着のある文章もある。それだけなら、コピー、貼り付けでなんとかなる。しかし、戴いたコメントは素晴らしいものばかりだ。失いたくない。膨大な量を一つ一つ移すか、悩む。

真魚さんにlivedoor Blog PRO(有料)に変えればexport機能があるのでそっくり引越し可能だと教えていただいたが、そのexport機能も現在働いてないようだ。

利用者に逃げられないようにするためか、それともアクセス殺到でパンク状態なのか。

しかし、担当の有賀さんは大丈夫と言っておられるし、応援コメントも多い。

どうか頑張ってほしい。せめて今までのものを消えないようにしてほしい。

・・・応援しておいてなんだが、これからはココログに書くことにした。コメント欄に字数制限がないのが良い。

これからも「幸か不幸か専業主婦」よろしくお願いいたします。
こちらになります。

  







robita_48 at 14:55|PermalinkComments(11)TrackBack(0)

2006年01月25日

お金がほしい!

ホリエモンは、お金をどっさり儲けていったい何をしたかったのだろうか。

広い家に住んで、おいしいもの食べて、美女と遊んで・・・、ただそういう贅沢をしたかったのだろうか。

「日本を改革する」と言っていた。
閉塞状態に風穴を開けてくれるのではないか、覇気のない近頃の日本の若者にやる気を起こさせてくれるのではないか、と人は思い、喝采で社会に迎え入れた。

私も「元気も勇気もあっていいじゃない」と思った。
昔の富豪だって、最初はどんな手段を使ったのか、とにかく財をなして、そのあと何代か経るうちに社会貢献をするような家柄になっていったのではないか、と思った。→(富豪のつとめ

誰だってお金はほしい。
自分が贅沢をしたいためでなく、「お金さえあれば、これだけ価値のあることができるのになあ」、と思っている人たちだって少なくないはずだ。

たとえば政治家は、「ずるいことをしてお金を儲けている」という印象を持たれがちだが、政治活動には莫大なお金が必要だし、お金をかけなければ選挙に勝って議員になることもできない。

それで、法の網を潜り抜けながらなんとか蓄財をしようと懸命になる。

私腹を肥やそうとしてそういうことをするだろうか。贅沢をしたいから政治家になるのだろうか。

そんなことのために政治家などという苦労の多い仕事に就こうと、いったい人は思うものか。

政治家になってこの国のここを変えてもっと良くしたい、普通はそう思って政治家を目指すのではないか。

そして、その活動のためにはお金がどうしても必要。ああ、お金がほしい、そう思うのは当然だと思う。

ホリエモンはいったい何をしたかったのだろうか。

2・3日前のワイドショーで、彼の父親が「息子が子供の頃に買い与えたものは、自転車と望遠鏡と百科事典。他の子の持ってるようなものほしがるままに与えているときりがないでしょ。だからこの三つだけ。」と言っていた。

それを聞いて、ホリエモンは「大人買い」をしたくて金儲けに走ったのではないかと思った。

「大人買い」というのは、子どもの頃に買えなかったあれこれ、ほしくても与えられなかったために押さえつけた物欲を、大人になって余裕ができてから満たそうとすることだそうだ。

私は「富豪」が生まれることに抵抗を感じない。
何か面白いことをしてくれそうだから。

ホリエモンが何をしようとしていたのかわからない。

しかし、30億円もする自家用ジェット機をまるでおもちゃでも買うようにポンと手に入れ、「安かったよ」とこともなげに言うのを聞くと、やはり「極めて個人的な物欲」を満たすためだけだったのかと思わざるを得ない。


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robita_48 at 11:54|PermalinkComments(14)TrackBack(0)

2006年01月23日

センター試験通過

息子がセンター試験で使った英語リスニングテストのICプレーヤーを持ち帰りました。
聴いてみると、音声は非常に鮮明。英語の素養のない息子も「なんとか聞き取れた」と言っておりました。

しかし、一部の受験生に配られた機械に不具合があったようで、さぞ、狼狽したことだろうと同情します。心の動揺が他の教科にも影響したかもしれません。

そもそも、センター試験にリスニングテストなんて必要なのかしら、と思います。

センター試験を受ける人数分、あの機械を用意し、持ち帰らせる、言わば使い捨てを毎年々作り続けるわけですね。

センター試験に英語のリスニングテストを導入することは随分前から検討されていたようですが、意図は、国際化が進む昨今、英語を聞く力を養うため、ということです。

ねらいはわかるのですが、学校でリスニングの授業をそうそう増やせるわけもないし、結局、帰国子女だとか、小さい頃から英語教室なんかに通っている時間とお金に余裕のある子たちに有利になるだけなんじゃないかなあ、と思います。

始まったばかりで、ケチをつけるのは申し訳ないけれど、ペーパーテストだけで充分じゃないかと私は思うんですけどねえ。

私もあまりこのことに興味がなかったので、どんな論議がなされていたのか全然知りませんが。


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robita_48 at 10:37|PermalinkComments(8)TrackBack(0)

2006年01月16日

甘〜い抱擁

前エントリーのSちゃんの話;

育児仲間ではよく子どもを預け合った。
ある日Sちゃんを預かった時のこと。何かの拍子にSちゃんが私のひざの上に来たので、両手で抱いてやった。すると、Sちゃんはうっとりと私の胸に頬をくっつけて気持ち良さそうに目をつぶった。Sちゃんのそういう表情を私は見たことがなかった。
しばらくそうやってお互いに心地よい時間を共有した。

Sちゃんのお母さんが帰って来てからそのことを話すと、「私あんまりそういうことしたことないのよねー」と苦笑いしていた。
彼女はとても活動的な人で、生後6ヶ月にはもう母子スイミングスクールに通い始めていたし、あちこちの公園に通って次から次へと友だちを増やしていった。

のろまの私の何倍もの活動量で子育てをしていたからこそ、Sちゃんは知識を沢山取り入れ、他の子より早く成熟していったのだろう。

彼女はよく「なにのんびりしてんのよ。あなたがそれやってる間に私はこれとこれとこれをやっちゃったわよ」という具合に私をからかった。

私は感心するばかりだった。

Sちゃんの振る舞いについて、「Sちゃん、欲求不満じゃないの?」というようなことも育児仲間のあいだで遠慮なく語られることもあったように思う。そういうことが言えたのもSちゃんのお母さんを始めとするみんなの大らかさの賜物であったと思う。

ところで、「たまごクラブ」「ひよこクラブ」のCMだったと思うが、若夫婦と赤ちゃんが3人でリビングに寝転んで、ママが「ねえ・・、私って育ててあげてると思ってたけど、育ててもらってたんだ・・・」(こういうセリフかどうか定かではないが、とにかく、こっちが赤ん坊に癒してもらってる、という意味の言葉だった)とつぶやくのがある。実に気持ち良さそうに赤ちゃんと向かい合っているものだ。

忙しさで余裕のない時は、こういう、うっとり、ゆったりしたひとときはなかなか生まれない。

もう何もかもほっといて、幼児の温かさ、柔らかさの中に自らを委ね、蜜のような至福の時間を二人で心ゆくまで味わったらどうだろうか。

忙しいお母さんには難しいことかもしれないが、一日に一回、そういう時間があってもいいではないか。

両手でふんわり抱いてやる時の幼児のうっとりとした表情は母親の心を幸福感で満たす。それは相乗効果をもたらし、幼児の心も満たされていくのではないか。

「抱きしめてあげてください」などと義務的なものを奨励する「公共広告機構」のCMのようなやり方はちょっとどうかと思うが、それでも、抱きしめることの大切さを訴えたいのだろうとは思う。

当然のことながら、「愛」は考えるものでなく、自然に湧き上がる感情だから、「技術を修得する」みたいなマニュアル的なものは変だとは思うが、「愛し方がわからない」と迷う母親が現に存在するのであれば、「まずは抱きしめてやる」ということを教えてあげるのも一つの方策ではないかと思う。

「型」から入るということも重要だ。
抱きしめているうちに、何かが芽生えてくるかもしれない。

しかし、ここではたと考えるのだが、われわれの世代の親は果たして子どもを抱きしめて親子ともどもうっとりする濃密な時間など過ごしていただろうか。
今よりずっと貧しく余裕の時間などなかった時代の母親たちがいったいそんなことを、・・・とは思うが、たぶんそれに変わるようなことをしてくれていたのかもしれない。

そして私は、子育てにおける父親的、母親的、祖父母的など、まわりの大人たちの役割分担の意味についても、もう一度考えて見る必要があるのではないかと思うのである。

「高校が崩壊する」という本のあとがきにこういうことが書いてある。長くなるが引用する。

【今日の学校で起こっている問題と、今後の対応を考えるにあたって、こんなエピソードを紹介してみたいと思う。
場面はデパートのキッズコーナーで、ある幼い子供が若い母親に対して、「あれが欲しい!」と駄々をこねている。しかもそれは、その幼い子供が手がつけられないほどに暴れまわっているとか、「何で買わないんだよォ」と母親を罵倒するとかいうような、きわめて不愉快な光景である。そして、こういう場面でのこの種の母親の対応には、いくつかのパターンがあるように思う。
第一は、子供に遠慮しながら、「また今度買ってあげるからね」とか、「おうちに同じのがあるでしょ」とかいうように、なんとか言葉で説得しようとする。ところが、子供の側は「あれが欲しい」という自分の気持ちに折り合いがつけられず、ますます激しく暴れることになる。
第二は、「しょうがないねぇ、これでおしまいだからね」などと言って、子供が欲しがっているものを買い与えてやる。しかしそれは、問題を先送りにしただけで、つぎの機会には、その子供はますます激しく暴れまわり、母親を罵倒することになるだろう。
第三は、「いいかげんにしなさい!」などと怒鳴りつけて、子供を無理やり引きずったり、首の骨が折れるのではないかと思うほど激しく叩いたりする。それはしかし、「あれが欲しい」という子供の気持ちをますますかたくなにさせるだけである。
以上の三つの対応は、今日の学校でなされていることよく似ている。

つまり、第一は人権弁護士たちの対応で、そもそも言葉には限界があるということがわかっていないために、「だめなものはだめ」と示すことができないのである。したがって、、母親のさまざまな言葉によって、子供はますます自分の欲望をもてあますことになってしまう。
第二は改革論者たちの対応で、子供たちの欲望には逆らってはならず、すべて満たしてやらなければならないと考える。
そして第三は、今日において「子供の虐待」とか「体罰」とか言われている対応で、ここにおいては子供はたんに憎悪の対象でしかない。

そしてこの三つの対応において共通していえることは、親子の関係そのものがすでに壊れてしまっているということである。つまり、「あれが欲しい」という子供の欲望を、子供はもちろんのこと、母親もうまくコントロールすることができなくて、泥沼化してしまっているのだ。それはようするに、今日における学級崩壊とか学校崩壊の状況そのものである。
ある意味でそれは、日本が豊かになったことの一つの帰結なのだろう。つまり、豊かであるがゆえに、今日の子供たちは昔の子供にくらべて、より多くの欲望をもたざるをえず、それゆえに、その欲望のコントロールがむずかしくなっているのである。

それでは、このようにむずかしい時代の教育とは、どのようにあるべきなのだろうか。たとえば、この場面において、父親が近づいてきてその子供を抱き上げ、父親らしい口調で「だめだよ」と言ったならば、どうであろうか。多くの場合、子供はハッと顔色を変えて、泣きやむということになるのではないか。これはなにも、その父親が特別に厳しかったり、立派であったりするからではない。それはようするに母親とはちがう役割をもった父親であればよいのである。
そして、そのようにしてちがう役割の人が出てきてくれることによって、子供もまた自分の欲望に折り合いをつけるきっかけを見つけやすくなるのである。
そのような意味で、母親がこの種の役割ができるのであるなら、本当はそれは母親であってもかまわないし、事実、そういう母親を私はたくさん知っている。
そして大切なことは、今日においてもまだ、この種の父親や母親のような振る舞い方をする親が世間では多数派なのであり、そのような常識的な親たちは、くだんの若い母親のように事態を泥沼化させないだけの知恵をもっているのである。
そして、この種の知恵とは、特別な能力などではなく、まさに常識的な生活者の知恵とでも言うべきものなのである。

今日の学校問題を考える場合、この種のきわめて常識的な生活者の知恵というものを、よく考えておく必要がある。真理というものはいつでも、このように常識的で単純なものである。その単純な真理にたちかえって、学校という場に何を期待していくのかということを、よくかんがえなければならないだろう。当たり前のことであるが、自分の欲望をコントロールできなくていちばん苦しいのは、当の子供たちなのであるから。】_____以上引用終わり。


これを読んで、そんなに簡単に事が運んだら苦労しないんだよ、という人がいるかもしれない。
たしかに、それはそうである。
しかし、子どもへの対処の仕方の一つの基本の「型」として、心に留め置いてもいいのではないかと思う。

「真理というものはいつでも、このように常識的で単純なものである。」と、著者の喜入氏は言う。

たしかに、子育てにおいて、なすべきことというのは本当はシンプルなことなのかもしれない。
その「シンプルなこと」を実行しやすい社会であってほしい、と思う。

そういう社会はいったいどうしたら作れると思われるだろうか。


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robita_48 at 11:46|PermalinkComments(11)TrackBack(1)

2006年01月09日

子どもはみんなで育てるもの

前エントリーへのととさんのコメント;
>haruさんやそのエントリーにコメントしていらっしゃる方々,もちろん私も,そんなことはわかっているんです.わかっているけど,瞬時に図々しくなれない自分がいるし,またそうできない空気というものを感じ取ってしまうのです.それで悩むのです.<

そうですよねえ。
haruさんへの返信文に「長くなるので」と書かなかったのを書きますね。

長男を育てていた時、社宅の育児仲間の他のお子さんとうちの子がおもちゃの取り合いをしたんですね。長男は腕力はだめなんだけど結構気の強いところもあって負けなかったんです。
でもその場の雰囲気で私は長男の手を叩いてしまいました。その時のなんとも言えない悲しそうな泣き顔を今でも思い出します。まるで「なんで僕だけ叱られるの」とでも言いたげな切ない表情でした。まだ1歳だったのに。後悔しました。
そういうことの積み重ねが子どもを気弱にするんじゃないかな、なんて思ったこともあります。

でも、あとで考えると育児仲間のお母さん達の雰囲気だなんて、私が勝手ににカン違いしていただけで、皆も同じように悩みはあっただろうし、みんなすごく良い人たちだったのです。今でもたまに集まれば昔に戻って楽しくお喋りします。
長男のちょっと押しの弱いところは私の子育ての結果なんです。
でもまだわかりません。ほんとに押しが弱いのかどうかなんて。優しそうに見えてけっこう底力を持ってるのかもしれないので、私はまだ楽しみにしています。

その頃の子育て仲間で、ものすごく強い女の子、Sちゃんがいました。
まさに傍若無人。友だちのおもちゃはひったくるわ叩くわつきとばすわ、子供たちもお母さん達も「恐怖のSちゃん」として警戒を怠りませんでした。もちろんその子のお母さんはそのたびにその子を叱っていたし周りに謝ってもいました。
それでも、みんな仲良く、よく集まっていました。
Sちゃんに辛うじて対抗できるのはうちの長男だけで、弱いくせに時々反撃していました。一度、痕がつくほど噛んだときには、こちらも平謝りでしたが、彼女のお母さんは実に寛容でした。
私は彼女と一番仲が良くなりました。ずいぶん年下だったけど。
Sちゃんとは、その後も時々会う機会がありましたが、勉学にスポーツに真面目に取り組み、3人姉妹の長女として家の手伝いも良くするとても良い子。医師になりました。
あのように手のかかる子というのは、それだけ、発信力も生命力も強いのかもしれません。
(これについては大事な言いたいことがあるけれど、別の機会に書きます)

>自分の子もよその子も関係ない、みんなちゃんと育てるんだっていう意識、皆が持てばすごい力が発揮できる。<

haruさんのこの言葉はほんとうに泣けてくるほど共感でき、私は、あの社宅の子育て仲間はすごくそれに近かったんだろうなあ、と懐かしく思い出します。

お母さん同士の息苦しさのみならず、子どものあたりかまわぬ振る舞いが周囲の大人たちのカンにさわり、睨まれる、というようなこともあると思います。

これらを、「無視する図々しさが必要」と私は言い、ととさんは、「それができないから悩んでいるんです」、と言います。

ととのいくじなし!あたしもう知らない!ととなんかもう知らない!・・・ってあたしゃアルプスの少女か。

私も経験してるからよくわかります。できないんですよね。

でもね、「その空気」と闘ってください。

「その厳しい空気」がないところなら私は生きていけます、っていうんじゃ、楽なら子育てしますが、苦労があるならしません、みたいじゃないですか。

そんなの口惜しいじゃないですか。

厳しいこと言いますね、私。

わかってるんですよ、お母さんたちが子育てがんばってること。苦労してること。我慢してること。でも、時々、「大変なの」って言いたいだけなんだよね。聞いて欲しいだけなんだよね。

私たちの時と同じです。みーんな同じ経験してるんですよ。

因みに私は、子どもの泣き声や走り回ること汚すこと、気になりません。こういうおばさんもたくさんいて応援してるから、頑張って。


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robita_48 at 11:41|PermalinkComments(18)TrackBack(0)

2006年01月07日

国家の構成員としての自覚

「変わってしまった子供たち」だとか「日本人の劣化」だとかが憂慮され、「あの誇り高かった日本人はいったいどこへ行ってしまったんだ」「昔の品格を取り戻そうではないか」などと叫ばれることが多くなってきた昨今です。

私もまあ、そう思わないことはないのですが、これって先進国共通の悩みじゃないんでしょうか。

ちょっと前まで、私も「小粒でも世界から一目置かれる立派な国になんとか再生できないだろうか」なんて思って掲示板などに意見を書いてきましたけれど、人間というものは欲望があるかぎりある程度の荒廃はあって当然のことです。また、その欲望こそが文明を発達させてきたのもまた事実です。

限りない欲望は人間を堕落させるからといって、「欲望はここまで」とストップをかけることはできません。できたとしてもそれは既に人間とは言えず、ある程度のところで欲望がストップするようにセットされたロボットのようなものでしかないでしょう。だから人間は法律や宗教で自制しようとします。偉いですね。

いのっぴさんにコメントを戴いたのを受けて、返信を書き連ねていくと、やはり、私が今までこのブログで書いてきたことの繰り返しになってしまうことに気づきます。

いのっぴさんの仰ることは非常によくわかります。

>彼らの幼児期になまはげはいなかったのか?オバケはいなかったのか?と思うと、いやいや、いたはずでしょうと思うんです。
そしてそんな若者の家にはすごく怖いお父さんやお母さんがいる可能性だって、あながち低くないと思うんです。<

これなんですが、やはり、「きちんと育てられていない」若者たちであることには誰しも異存はないと思います。

でも、仰るように昔とは明らかに違う社会生活を営むようになった現代では、単純に「怖い人」が昔みたいに増えればそれで子どもたちは健全に育つというわけではありませんね。

つまり、今の時代に合わせた規律が必要となってきます。

しかし、問題視しなければならないのは、実は「非行少年」より、ニート現象に見られるような「無気力な若者たち」です。

少年非行なんか昔から珍しくなかったし、むしろ、少年による凶悪犯罪は昔のほうが多発していたそうです。→「間違った思い込み

「子どもをどうしたらいいか」なんて悩みは、振り返ってみても、どの時代だってありました。おとなはいつだって子どものことで悩むものです。
でも、ニートのような現象はおそらく初めてではないのでしょうか。

こういう現象が日本だけのことなのか、それとも先進国では同様に起こっていることなのか、私は知りませんが、日本のこととして考えるに、昔と明らかに違うのは、昔は「社会の決まり」というものがもっと明確で、大人も子どももその決まりの範囲内で自分の行動を決めていた、ということがあると思います。

あまりにも個人主義が進み「自由」を追い求めるようになった結果、たががはずれてきたんですね。

昔は、理屈によらない社会の空気の範囲内でできることをやっていたけれど、いま、自由は歯止めがきかなくなっているような気がします。

しかし、「国家の品格」でも書いたように、世界中で価値観が変わってきているのに、日本だけ「武士道で行こう!」なんて張り切ったところで空回りするだけです。

昔のような社会規範を取り戻すなんてことがいったいできるものか。

子供も大人も、楽しく、ラクなことにどっぷり浸かりすぎてしまったのに、今さらそれらをやめることなんてできるはずがないのです。

革命的なことをやらない限り、いくら「国家の品格を取り戻そう!」と一部の人々が大声で叫んだところで、大人たちは株に狂奔することをやめないだろうし、小学生は化粧して渋谷をうろつくことをやめるわけがないのです。

教育を根本からくつがえすくらいの覚悟がなければそんなことは無理無理。
小泉さんほどの独裁者が出現して、有無を言わせず教育の建て直しを実行に移せなければ無理無理。

誘拐され殺される子どもは本当に可哀想だけれど、こういう事件は昔からあったのです。少年非行も猟奇殺人も昔からあったのです。

むしろ今の時代に起こっている憂慮すべき問題は、刹那的で享楽的で怠惰な若者の増加、ということではないのか、と私は思います。

しかし、もし、ほんとに、日本人が、昔のような子育てをしたいなら(昔に戻りたいなら)、色々な面で「覚悟」しなきゃいけないことがたくさんあります。

子どもに「大人の言うことを聞きなさい」という子育てをしたいなら、おとなの側だってぐうたらじゃいけないし、昔の人が我慢したようなことを、同じように我慢しなきゃいけなくもなります。→「ヨイトマケの唄

そんな覚悟が今の日本人にあるんですか、ということですね。

だから、人間が時代によって変わるのは仕方がないことなんだと私は思います。今の状態は、仕方がない、とも言えます。

それでも、少数の人は、「色々なこと我慢するから、素朴な時代に戻りたい」とか、「このままじゃ子どもはだめになる。国がだめになる」とか危機感を募らせ、世間にむかって警鐘を鳴らします。

それは非常に大事なことで誰かが言わなければいけないことだと思います。子供たちを立派な働き手に育て上げるということは国が豊かになるということですから。

子どもを教育するということは、豊かな国家を作るという意味があります。

国が豊かになるということは国民の幸せにつながります。つまり、自分の子や孫の幸せのためであります。

で、何を言いたかったかというと、「せめて学校の先生はもっと怖くていいんじゃないか」ということです。いまさら親を教育し直すなんてことはできないのです。
そして、いきなり先生たちが怖くなっても反発を買うだけですから、公教育を国がきちんと責任をもって立て直すということが必要だと思います。

つまり、「お前たちが国を作るんだぞ。そのために先生や親の言うことをよく聞いて一生懸命勉強するんだぞ」という明確なメッセージを子供たちに対して発することが必要なんじゃないか、ということです。
国をそういう体制にしなくていいんですか、ということです。
今、教育基本法に「愛国心」を盛り込むべきだ、という意見が強く叫ばれますが、それはそういうことです。

しかし、こういうことを言うと、「子どもの人権」だの「子どもの個性」だの「国のためより自己実現」だの、まあ、そういう当たり前のことを言って反発する頑迷な大人たちもまた多いので、やっぱり、無理ですなあ。

もうなるようにしかならないでしょう。本気にならないんだったら。

私は別にいいんですけど。
あと2.30年でこの世からいなくなるでしょうから。それにもう、子育て終わってるし。

そうです。子育て終わった人は自分には関係ないから、そういうことに関心を持たないんです。


・喜入克「高校が崩壊する」
・佐藤貴彦「大人の言うことをききなさい」
・藤原正彦「国家の品格」


この三冊を読めば、子供たちの現状はどうなのか、荒廃の元凶は何なのか、そしてたぶん、我々は何をすべきなのかがわかると思います。
これを国家再生の三部作、と私は勝手に名づけておるのです。

朝日新聞の年頭の社説に「国家の品格」が取り上げられて、「弱者を思いやる武士道精神の復活」に賛意を示しています。

まあ、別にそれはいいんですけど、教育から国家の視点を失わせた思想を先導した責任を少しは感じてほしいものです。
時代の流れというものがありますから、私は特に厳しく糾弾はいたしませんが、いつまでたっても目覚めないのはよろしくない。

さて、ここまで、一応「理想」を書いてはきましたが、ほんとうのところ、日本人が「品格ある国家」を作るために動き出す、なーんてことはまずないだろう、と私は思います。

「昔は良かった」なんて昭和30年代を懐かしむ団塊世代もいれば、戦前戦中の日本人の凛々しさを称えるご老人もおられることでしょう。

でもね、どう考えたって、今のほうが良いに決まってるのです。今の豊かさ便利さを手ばなすことなんかできっこない。

豊かで楽しいまま、「毅然として」「凛々しく」なんてできますか、あなた。

豊かさイコール享楽ですよ。

闘うコラムニスト勝谷誠彦氏の面白い日記を紹介します。

【 2005/12/25 (日) 例の四文字熟語に「少子千万」応募すりゃよかった。

 6時起床。あのそれぞれの部屋でどれほどの交尾が行われているのだろう。
耶蘇祭前夜祭の夜に何かに憑かれたように交尾の儀式にいそしむ人々で満室の巨大なホテルを見上げて昨夜の私は考えた。

家も倫理も何の束縛もなくかくもすべての階層の日本人が自由に日々交わっている時代は原始をおいてはなかったであろう。
しかも妊娠が結婚に先行する例が過半を越えようとするのでわかるように欲望の前では子供を作るというハードルは低くなっているものと見える。
それなのに少子化は深刻らしい。http://www.sankei.co.jp/news/051222/sha063.htm。
フェミニストや権利に敏感な人々は餓鬼の殺人鬼が増えたのと同様に少子化もまた社会のせいにしたがる。

一方で小泉さんはこう言った。<少子化「所得格差が原因ではない」/小泉首相が強調>。http://www.asahi.com/politics/update/1224/006.html。
この見出しは不完全で小泉さんの発言はよく読むと「必ずしも」という前提が入っている。
確かにそういう一面もあるだろうがそれだけではないとは私も考える。
試しに保育所やなんぞをもっと充実させてみるがいい。
誓って言うが人口は決して増えない。
それによって手にした自由を今の日本人は必ず日々狂っているような人生の無駄な消費へと振り向けるだろう。

小泉さんは言う。<「日本は明治時代からもともと子どもをたくさん産む社会で、ずっと生活水準が満たされていない段階でもたくさん育てていた」>。
こう書くと左巻きがそれは富国強兵のための産めよ増やせよと奨励されたからだと言うだろうがそれだけではあるまい。「家が栄える」ということへの誇りが日本人のひとりひとりの心の中にあったからに相違ない。
そしてその根底には「ちゃんとした家」が尊敬される世の中があったのだ。
今「ちゃんとした家」はむしろ嫉妬を浴びぬように頭を低くし顔を伏せる。___中略___

もし金まわりがよくて人口が増えるのならあの狂乱のバブルの時に人口の曲線はわずかなりとも下降から転じたはずだ。しかしそういうことはなかったではないか。
少子化を止めたければ小学校での道徳の時間を充実させ偉人の話をもっとちゃんと教えることだ。「家門の栄え」とは何かを知らしめることだ。
もっとも私は皇統すらきちんと守れぬ日本国が静かに消えていくことに何の痛痒も感じない。】


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________

>「脳を操作」でコメントくださったharuさん、

自分が子どもに愛を与えているかどうか自信がない、という感覚はわかるようなわからないような・・・。
私はとても単純に「この子たちが大事。この子たちに幸せになってほしい」、そんなのが愛かなと思っているのですが。

実はこれまで書いてきたような、「国家を豊かにするためにお国のために働く立派な人間になってほしい」などと思って子育てしてきたのではまったくありません。
でも、人に迷惑をかけないような人間、生き力のある人間にはなってほしいと願ってきました。その力がついているかどうかは全然わかりませんが、少なくとも人を困らすような人間に育っているとは思いませんので、一家庭の子育てとしては失敗の面も多くあるし、まあまあのところもある、といった程度です。

私は子供たちと格闘した経験があまりありません。
争うことが嫌いな私は、いつもいつも話し合いで子供たちを納得させてきたように思います。
しかし、それが良かったのかどうか今もわかりません。いや、たぶんそれは間違っていたのです。親という強固な壁を力ずくで壊すことに成長があることを考えれば、うちの子供たちはもしかしたら闘魂に欠けるかもしれません。

でも、険悪な関係にならなかったのは、私がよく失敗して「てへへ」と頭をかいたり、お笑い番組に一緒になって爆笑する威厳のない母親だからじゃないかなあ、と思います。

haruさんのブログの「育てあう社会」を読むと、若いお母さんの苦悩がよく伝わってきます。
これについても書きたいことがありますが、長くなるのでまたの機会に。
でも、結論を言うと、幼児の時期はあまりひどくないかぎり、他の人をおもんばかって子どもの行動を抑えないほうが良いと、私は思います。他人の厳しい目は時に無視する図々しさも必要です。

>親のほうは120%愛しているように思っていても子供の自尊心を粉々にしながら育てているという事もなくはないのです。<

いろんな家族の愛の表し方があると思います。子どもを120%愛していると思うなら、それはその親の愛だと思います。
「ほんとうの愛」だなんて、そんなに難しく考えることはいらないんじゃないかなあ。ほんとうの愛なんて誰にわかるんですか。時には、母親も疲れて子どもより自分のことを優先してしまうことだってあるし、ヒステリックに叱り付けてしまうことだってあるんですよ。幼児期には無条件に可愛かったのに、大きくなればなるほど(中学生くらいまでは)憎らしい面もでてきますよね。みんなそうじゃないんですか。

そして、子どもが親の愛を感じることが、その時はできなくたって、自立してからとか、または親を失ってからたいていの人間はそれを知ることになるんだと思います。

それでいいんじゃないですか。
人間はずうっとそうやって順繰りに親の愛に気づいてきたんだと思います。

その時になっても気がつかないような人間は、それこそ「豆腐の角に頭ぶつけて死んじまえ」ぐらいの気持ちでいたらどうかなあ。



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2005年12月31日

ちょっと暇な大晦日

晩御飯は終わったし、年越しそばまでには時間あるし、亭主は紅白歌合戦にくぎづけだし。
PCでも覗くか・・・、と来てみたらコメントがあるじゃありませんか。嬉しいな。

紅白は、さっき見たコブクロの歌が良かったな。楽しみにしてるゴリエの"Pekori Night"まではまだ間があるから、しばらくブログ散歩しよっと。




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2005年12月30日

幸せなあたたかさ

寒い台所で夕飯の後片付けをした後、居間のこたつにもぐり込む・・・、ああ、あたたかい。冷たかった手足がぬくぬくと温まって行き心までじわじわと幸福感に包まれる。ありがたい。温かいってなんて幸せなことなんだ。マッチ売りの少女だな。

水仕事を終えたあと、あたたまる場所がなかったらどんなに不幸なことだろう。
貧乏はいやだ。
貧乏な時代を知っているから貧乏は我慢できる、なんて大見得きってみたところで、所詮言葉だけのこと。
こごえるのはいやだ。その中で労働するのもいやだ。
温かいこたつの中で温かいお茶が飲みたい。
いつも温水の出る蛇口がほしい。

この電力エネルギーを生み出す資源確保のために、私たちの知らないところで誰かが他国と交渉し、奮闘努力してくれているのだろう。
きれいごとでない外交の手練手管のかぎりを尽くし、国民が生き延びるために、豊かになるために、時に汚い仕事、危険な仕事を必死にこなしてくれている誰かがいるのだろう。

エネルギーが乏しい貧しい国では、人民はさぞ寒かろう、辛かろう。
国際競争で生き延びるとは、かくも熾烈な戦いだ。

何も知らない私たちは、国をあたかも敵対する相手であるかの如く、横暴だとか陰謀だとか馬鹿だとか意気地がないとかの言葉で文句の言い放題だ。

私たちはこの国によって守られている。
私はこの国に生まれてきて本当に良かったと思っている。

国に文句を言うのは、この温かみの幸福感をじっくり味わってからにしよう。


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2005年12月24日

怖い人

年末になると、休みの日に主人は家の外回りをきれいにしてくれる。
午前中いっぱい使って、網戸をはずしてごしごし水洗い、ガラス窓はホースで水をかけて洗い流し、玄関の靴箱の下までデッキブラシで掃除する。

私は家のなかで通常の家事やその他もろもろの年末仕事などやっているのだが、主人がガラス窓の内側やサッシの隅のほうまで雑巾でキュッキュッと拭き始めるとにわかに胃のあたりが痛み始める。

なんだか「汚いなあ。普段掃除してんのかよ」なんて言われてるような気がして。

してません。そこまで手がまわらないの、・・・なーんて言うのは勝手な言い訳。

専業主婦なんだから、もっと家事に命をかけて普段から隅々まで磨き上げなきゃだめなのよね。

いつも思うのだ。年末が近づくと、「彼が掃除始める前に普段やってないところを済ませとかなきゃ」って。

でも、あれよあれよという間に年末は押し迫る。まったく学習しない私だ。

主人はきれい好きだけれど、私に「汚いぞ」と怒ったりすることはない。でも無言の圧力はある、ような気がする。

私の父も几帳面な人で、それを家族にも強要した。私たちはしょっちゅう叱られた。「だらしのないヤツは人間のクズだ」と。

厳しい父に叱られ続ける母はさぞかし苦しかっただろうと思う。

でも父の言うことはまことにもって正しく、私たちは怖い父のおかげでなんとか自分を律する心を作り上げてきたのではないかと思う。

「怖い人」がいなければ人間のたがははずれてしまう、と思う。→「哲学の時間

私たちは怖い人がいなくたって長い人生経験が自分を作り上げていくのだと思いがちだが、子ども時代に「有無を言わせぬ強制」を受けることは必要なことなのかもしれないし、ありがたいことだったのかもしれない。
昔は怖い人がまわりに沢山いた。怖い親、怖い先生、怖い警官、怖い近所のおじさん。子どもたちは叱られることを恐れていた。

私は主人の無言の圧力が怖い。でも、だからこそ、しっかりしなきゃ、と自分を鼓舞できる。(その時だけかもしれないが)

すみません。こんなところで国家なんか論じてる場合じゃないのよね。
専業主婦は家を快適空間にするという大切な仕事があるんだから。

主人、今日ゴルフ。だから書いてます。


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robita_48 at 10:37|PermalinkComments(7)TrackBack(0)

2005年12月20日

「国家の品格」

藤原正彦著「国家の品格」(新潮新書)を読みました。
遅読の私でも、三日で読めました。早い人なら一日で読めるでしょう。

読んでいた本が他にあったのですが、この「国家の品格」が本屋さんに積んであるのを、なにげなく手に取り買ってしまい読み始めてしまいました。

書いてあることはいちいちうなずけ、爽快そのものです。

でも、私としては、「でもねえ、そういう精神を取り戻すために具体的にどうするの」という突っ込みが浮かんできて、最後まで読んでも、「だからこうするしかないのだ」という提案がなかったので、「やっぱりね」というのが、感想と言えば感想です。

だって、これは民主主義否定の本だからです。

私はよく「国家の統制」「国家の強制」ということを書きますが、それは人々には絶対に拒否されます。
でも、効率よく国家を運営するには民主主義はやっかいなものです。
賢い王様が統治してくれればそれが一番良いのでしょう。

もちろん、「民主主義の否定」も「国家の統制」も、「ある種の」「ある程度の」という但し書きは当然つきますが。

しかし、考えてみれば、「そういう精神を取り戻すために国家が強制力を持つ」なんてことはできないのが当たり前のことであって、そもそも、国民が国家をつくるわけだから、自らを律するために国民自身がそのことに気づくことがなければ、品格ある国家を作ることなんて始めから無理なのです。

つまり、結論を言えば、国民全員がこの本を読めばいいのです。そして世論形成すればいいのです。国家の品格を取り戻したければ。

でも、もう世界を見てしまった、世界経済にどっぷり浸かってしまった私たちには、「過去の美しさ」は到達できない「憧れ」でしかないだろうなあ、とは思います。でも憧れを持つことは良いことですから。

この本に関して書きたいことは山ほどありますが、読んだ人がいたら、感想を聞きたいです。

先月出版で、もう6刷になってるので多くの人に読まれていることでしょう。

どなたか読んだかたはいらっしゃいませんか?
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因みに、中断した本は、「二人で紡いだ物語」。「サロンのススメ」でちょっと触れた物理学者米沢富美子さんの自伝です。

さ、続きを読もう。たぶん今年中には終わらないと思うけど。


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robita_48 at 16:22|PermalinkComments(2)TrackBack(4)