ROTTERS'PAPER

ROTTERS'PAPERは 1992年から2001年まで発行した音楽ミニコミ印刷物で2001年8月HP移行、2010年ブログ化、2016年2月にこのブログに引っ越しましたが旧コンテンツの画像リンク等が不十分です。音楽以外では毎年夏休みのバリ島旅行メモを自分用に記載していましたが、定年退職を期に増加した映画を見たメモを追加するようになっています。外食ランチを中心としたそれ以外のメモ書きはインスタグラムに外出します https://www.instagram.com/tomi.takayuki/。2024年3月からXへのポストも始めました。

旧作聴き直し(26)-1 VAN DER GRAFF Part 1(2000年 BOX-SET記載ブックレットヒストリーの翻訳)

旧作聴き直し(26)-1 VAN DER GRAFF Part 1(2000年BOX-SET記載ブックレットヒストリーの翻訳)
Vdg四人
VAN DER GRAFF(以下VdG)のライヴ&ラストアルバム「Vital」(1979年録音&発表)、が2024年3月に新リマスターで再発(Esoteric Antenna/Cherry Red:2CD-5曲45分+5曲41分)となった。この再発のマーキー/ベル・アンティーク国内流通盤 https://marquee.co.jp/belle_antique/mar-244023-4/ のライナーを私が担当したのだが、概要と各曲紹介で文字数がいっぱいになり、ライナーに盛り込めなかった内容が結構あるので、「Vital」に限らず、この時代のVdG(及びハミル)について今一度全体を見つめ直して、本ブログで何回かに分けて残しておくことにする。

そもそも、今回のCherryRed版においては添付ブックレット内容が新たなものとなることが予告されているがライナー執筆に際しては内容が事前確認できなかったので、ライナー執筆にあたっては、まずは既存の公式的なヒストリー文書などを参照するところから始めたが、原稿締め切りまでには参照が中途半端に終わってしまった。なので原稿提出後に改めて資料の訳出に改めて取り掛かっている。今回のパート1では、その中の一つで、2000年にリリースされたVdGG 4CD-BOX SETのブックレット記載のバンドヒストリーやメンバーの発言のうち「Vdg期のもの」に関しての翻訳文を記すこととした。なお、私自身は英語翻訳力には自身がなく、グーグル翻訳のリライトという形なので、疑問を感じた方はぜひ原文を参照していただきたい。

まず「VdG期の前段」のヒストリーサマリーだが、ピーター・ハミル(vo/key/g)、ガイ・エヴァンス(ds)、ヒュー・バントン(org)、デヴィッド・ジャクソン(sax/fl)の四人編成による黄金期VdGGのラストアルバムとなった「World Record」は1976年5月に録音され同年10月にリリースされている。この録音~発売の合い間の1976年6月27日から7月4日にかけて、ハミルはエヴァンス、ニック・ポッター(b)、グレアム・スミス(vln)と共にソロアルバム「Over」の録音を行っている(Overのリリースは結構遅くて1977年4月だった)。この段階ですでにハミルがVdGGのメンバーチェンジを考えていたのかどうかはよくわからないが、ツアーの多いバンド活動を継続していては家庭との両立が困難だと考えたバントンの脱退表明があったのは、Over録音後の1976年10月のWorld Record発売に合わせたVdGGとしても初めてとなる北米ツアーを終えた後とのことだ。バントンの脱退表明の後も、11月から12月のヨーロッパツアーが残っておりこれにはバントンも参加し1976年12月9日のドイツでのライヴがバントン参加のラストライヴとなった。以降のVdGの始まりからを以下に引用する。(※は訳注)
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1976年12月、長く続いた四人編成から三人が残された。何らかの形でバンドを継続することだけは決定されたが、HB1(※VdGG用にカスタマイズされたオルガン)をバンドンの代わりに演奏できそうなオルガニストはいなかった。そこでVdGGからGeneratorを取り去ることを決め、VdGが誕生した。

VdGの新メンバーにはSTRING DRIVEN THEINGのヴァイオリニストのグラハム・スミスと、ニック・ポッターの復帰を依頼した。

1977年1月から2月にかけて、ハミル、エヴァンス、ジャクソン、ポッター、スミスによるリハーサルが始まった。

「デイブ、ニック、グラハムと一緒になったリハーサルはとても良かった。特にニックが気合を入れていて凄いものを出してきたのを覚えている。」 GE

この時点になってジャクソンは家族的なコミットメントと経済的な安定の必要性から脱退することを決意。 Vdgのライヴツアーもすでに予約されている中、それは大きな打撃だった。ハミルは自分がさらに一層のフロントマンとなったことに気づく。

「僕らはたくさんのジャムをやって、とてもうまくいった。(ジャクソン脱退後の)四人編成は非常に強力なユニットで尖っている。当時は僕はいくつかの異なる新しいベース・サウンドを開発していた。」 NP

「これまでのギタリストとしての自分の役割が大きく変化したと感じた。このグループ全体の基本的な倍音構造を自分が提供しなけばならず、さらに歌うということが必要になる。だからShirley Basseyの時間はもうなくなった(※007ゴールドフィンガーの映画主題歌などで有名なイギリスの国民的な女性歌手~ヴォーカルに専念できる環境ではなくなったことを言いたいのだろう)。」 PH

VdGのライヴは、VdGG、VdG、ハミルソロ曲を組み合わせたセットリストとなる。

  ・2月20日から3月25日にかけてイギリスとヨーロッパ各地での7回のライヴ。
 ・4月にハミルソロ「Over」リリース
 ・4月13日 BBC John Peel Session(Betrayed/Afterwards/Autumn)録音
  ※内容的にはVdGとしてではなくハミルソロとしての出演で、器楽サポートはスミスだけではないかと思われる。初回放送は4月21日。

 「当時、僕らは素材的には余裕があると感じていたので、いくつかの曲ではたくさんの実験をしたし、それがピーターのソロ曲であるかどうかは気にしなかった。あのバンドでは’とにかくまずやってみる’感じだった。 」 GE

 ・5月13日から6月12日まで「The Quiet Zone/The Pleasure Dome」レコーディング

「コアなVdGGファンはハマるまでに時間がかかったけど結局うまくいったよ。」 GE

 ・6月から7月にかけてスイス、オランダ、イビサ島でのライヴ

「ローマの悪事はすべて現世的なものだったがイビサではそうではないものもあった。」 GE

イビサ島で行われたプリモ・フェスティバルに招待されライヴを行う。

「私たちはピックアップキットとアンプを使った。マトモなギャラは支払われなかったけど、ここのコテージに1週間滞在した。非常にパワフルなセットだったので、また演奏するように頼まれた。」 PH

そこではすべてがかなり奇妙なものとなった。

「僕らが行った2回目のライブは並外れたものだった。ハイパワーなヴァイブが溢れていて、ベースアンプのボリュームが勝手に変化して、猛烈な音量からゼロまで変化していた。周りには奇妙で邪悪なエネルギーが漂っている。とても怖かった。ステージを降りたとき、私は震えていた。ピーターがギターを投げつけたのを覚えている。」 NP

「僕らは集中していたけど、ステージに上がるとき、僕は足場のポールにぶつかり、ほとんど気を失った。」 GE

彼らのドレッシングルームは実際に闘牛場だった。

翌日、グラハム・スミスは強い流れで海で危うく溺れそうになった。 意識を失ったスミスは引きずり出されて蘇生した。エヴァンスも岸に戻るのに苦労した。

その時、UFOが現れ、島にいた大勢が目撃した。

「みんなが空を見上げていたのを覚えている。そして、私たちの真上で巨大な明るい白い光が動き回っていた。そしてガイはそれを島の反対側から見た。」 NP

「夕方の着替えをしようとコテージに戻り、出てきたらみんなが空を見上げていた。それはが何だったのが説明できない。」GE

・9月「The Quiet Zone/The Pleasure Dome」リリース。

「ストレスなく制作できたアルバムの1つだった。ヒット曲の可能性があるという点でのCharismaレーベルの要求を満たしており、非常に現代的にも感じていた。」 GE

イギリスに戻ってチェリストのオーディションが行われた結果、チャールズ・ディッキーが新メンバーに選ばれ、活動を再開する。

・9月3日 オランダ Scheeel Open Air フェスティバル

新編成のVdGはScheeelフェスティバルで10,000 人以上の観客の前で演奏した。ディッキーはステージに向かう途中でチェロの弓を曲げてしまい悪夢のようなギグをすることになり、ポッターはいつものスタッフが来ていなかったため、小さな練習用アンプからマイクで音を拾い上げなければならなくなった。

・9月16日~10月23日 ポルトガル、オランダ、ベルギー、イングランド、ウェールズで14か所のライヴ
・10月24日 BBC John Peel Session(Cat's Eye/The Sphinx in the Face)
※VdGでの出演~BOX-SETのヒストリーにはこの2曲しか記載がないが2015年のCD「At The BBC」ではA Plague Of Lighthouse Keepers/Sleepwalkers抜粋メドレーも同日の演奏として収録されている。

・10月25日~11月12日 イングランド、スコットランドで13か所のライヴ

「かなり危険な状況にあったのが、五人編成になったことで強烈なエネルギーの多くが拡散した。」 GE
「この段階からCharismaは再び坂道を下っていた。」 PH

・11月13日~12月末 イングランド、フランス、スイス、ドイツ、オランダでのライヴ

・1978年1月8日から14日までスタジオでのリハーサル
・1月15日と16日にロンドンマーキークラブでのライヴ。16日のライヴは録音され、2月にミックスされる。

プライベートジェットや出費がかさみすぎて財政的に赤字になったため、バンドはライブアルバムをリリースすることで、次の新作アルバムの資金を調達する計画だった。

・2月2日~2月18日 ハミルソロ アメリカツアー
・3月18日~4月26日 ハミルソロ「Future Now」レコーディング
・4月4日 ロンドン VdG レインボウシアター ライヴ
・4月27日~5月3日 ハミルソロ「Future Now」ミキシング
・5月12日~6月5日 イングランド、ウェールズ、フランスでのライヴ
・6月9日~6月10日 ハミルソロ カナダでのライヴ
・6月17日 オーストリア VdG Kohfidischフェスティバルでのラストライヴ
・7月 「Vital」リリース

何曲かでジャクソンをフィーチャーした、VdGの2枚組ライヴアルバム「Vital」は、ライヴバンドとしての側面を示した...ドラムスティックが燃えそうなほどに。

Vitalのリリースの時点で、VdGは終わりとなっていた...最後に。

「実際のところ僕達は調子が良かった。自分たちでコントロールできていると感じているうちにVdGを終わらせることに決めた。」 GE

「僕も同意。これだけだった。」PH
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※2000年BOX-SETのバンドヒストリーの中でのVdG時代のものは以上なのだが、BOX-SETにはハミルによるBOX-SET収録曲に関するコメントが別項で記載されているので以下に訳出しておく。なお、最後の部分はVdG時代を指しているのかVdGG全体のことなのか意味合いからしてもよくわからないのだが(VdGGとVdGとは表記が使い分けられているがその後のVan der Graffの表記がなにを指すのかがわからない)ここではそのまま記載しておく。
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1976年12月に4ピースからヒューとデイビッドの車輪が外れた。これによってVdGGの楽曲作成の最後の期間は、再び未知の世界に足を踏み入れることになった。実際にやってみるまで、我々がどんなグループになるのかは不明だった。人生は真っ逆さまで「The Quiet Zone」を構成するVdGの曲は非常に主観的で、グループが経験したことについて書かれていた。

そして最後に....

この作品で私は「私、私、私...」と頭を叩いていることに気づく。 私の経験では作曲は孤独な(そして逆説的にエゴのない)活動で、作詞を始めるとどうやらエゴメーターが上昇するようだ。 単純な事実として、VdGGでの私の主な仕事は、自分で作成するか、他のメンバーと共同で作成するかにかかわらず、素材を考え出すことだった。もう1つの単純な事実は (上記のすべてから明らかだと思いますが)、Van der Graffがなかったら、私はこれらの曲を思いなかっただろうということだ。他のメンバーからのインスピレーションを受けた演奏やアレンジメントがなければ、曲に命が吹き込まれることはなかったはずだ。

では、曲はどの段階からVan der Graffのものになったか? グループのスピリットが注入されたときなのか。パーツなどが合わさった時なのか……。

博士の異常な愛情

博士の異常な愛情(1964年スタンリー・キューブリック)2024年3月26日早稲田松竹
ストレンジラヴ 特集「ニューハリウッドアメリカ映画傑作選60~70's」からの続きなのだが、本作はイギリス/アメリカ合作で撮影もイギリスで行われているのでちょっと定義が違うような気もする。93分、モノクロのブラックコメディ映画、ブルーレイ上映だったが画質音質共に良好だった。
 私が初めてキューブリック作品に接したのは「シャイニング」(1980年)の封切時で、その後に本作を含めた旧作群の特集上映を文芸座などの名画座で見て特に「時計じかけのオレンジ」(1971年)には衝撃を受けたのだが、社会の危うさへの意識が浅かった20歳前後の私には本作の魅力を感じ取るには至らなかったように記憶している。。。というか当時は白黒の旧作映画は特にプリント状態の悪いものも多くてすごく苦手だった。もしかすると世界の不安定化があちこちで広がっている現在、見直してみたかった作品だったわけだが、期待値以上の凄い内容だったことが再確認できた。
 舞台となっているのは、公開時リアルタイム、冷戦状態にあるアメリカとソ連。陰謀論に精神を支配されてしまったアメリカ空軍の基地司令官が「ソ連の先制攻撃を受けて政府が機能しなったため現場指揮官が独自判断でソ連に報復核攻撃を行う”R作戦”」の実行命令を部隊に指示しソ連へのB52の出撃が開始される。作戦が開始されると部隊には司令官のみが把握しているパスワードがないと現場への直接通信もできないため、司令官を飛び越えた停止命令も出せないという仕掛け。非常事態を把握したアメリカ大統領はペンタゴンでの対策会議室にソ連大使を呼び寄せた上でソ連首相に電話し事態を説明。ソ連首相は自国の軍事施設が攻撃された場合には全世界を壊滅させられる最終兵器を自動的に発射するメカニズムが発動することを伝える。。。というようなやや極端な話ながら今の国際情勢からすれば似たような事態が十分に考えられそうな設定。
 主役のピーター・セラーズが、「アメリカ空軍の基地に副官として派遣されているイギリス空軍の大佐」「アメリカ大統領」「兵器開発局長官のストレンジラヴ博士」の三役を演じ、後半になって事態が悪い方向に向かうにつれてストレンジラヴ博士のコメディ怪演のやりすぎ感がエスカレートしていくというなど、冒頭からエンディングまで散りばめられた奇妙なエンタメバランス~見る側の政治的な立場がどうであろうと引きこまれてしまう反戦映画~がキューブリックならではの素晴らしさだと感じた。

ナイト・オブ・ザ・リブング・デッド

ナイト・オブ・ザ・リブング・デッド(1968年ジョージ・A・ロメロ)2024年3月25日早稲田松竹

リビングデッド 早稲田松竹の旧作洋画上映特集「ニューハリウッドアメリカ映画傑作選60~70's」6本上映の中からのまず1本。なのだが、正直”ハリウッド映画”という印象が全くない、ロメロの長編デビュー作にして、現在まで続く各種ゾンビ映画の”ルール”を定めてしまった歴史的な作品。2016年の4Kリマスター版での上映でモノクロ96分。
 私自身最初に接したロメロ作品は1979年の「ゾンビ」を国内封切時に見て圧倒されたので、その後本作を含むそれ以前の初期作を連続して見たという記憶なのだが、ウィキを見たところ本作の国内劇場初公開はこのリマスター版の2022年上映ということなので、私はこれまでビデオしか見ておらず、映画館では初めて見たということになる。まあまあ典型的なホラーサスペンスストーリーをなぞりながらも、絶妙な登場人物の配置と仕掛けで展開を盛り上げていきつつ、結局はゾンビよりも人のエゴや権力の横暴の方がもっと怖いという絶望的な突き放したラストには感心。初期作品はエンタメファンタジーというよりも、アメリカの狂気~ベトナム戦争やらなんやらの事情で精神を病んだ人の心象風景的なリアル~を優先して反映しているように当時感じたことを思い出した。他の初期作品も映画館で見れないかな。

VESPERO - I De Ludo Globi

VESPERO - I De Ludo Globi(2023年 VMS)40分

vespero 2022年の12月にデジタルダウンロードで発売 https://vespero.bandcamp.com/album/de-ludo-globi されたVESPEROの新作は2023年1月にCD&LPでもリリースされた。CDに関してはマーキー/ベルアンティークから2023年3月25日に日本国内流通仕様でも「ヴェスペロ 球の遊びについて」として発売され https://marquee.co.jp/belle_antique/mar-244020/、私がライナーを担当させていただいた。たぶん初めての国内流通仕様でもあり、ライナーを書くにあたっては私もいろいろと下調べをしたのだが、データ的なことを中心にしてライナーの文字制限から盛り込めなかった部分も多かったので、こぼれたところをを盛り込んで全面的に書き直した「2倍強の文章量の冗長バージョン」として以下に紹介させていただく。

■VESPEROについて

 VESPEROのHP https://vespero.ru/ によるとVESPEROは2003年にロシア南部のアストラハンで結成されている。現在まで活動の本拠となっているアストラハンは、私もVESPEROを聴くようになってからはじめて意識した場所だが、地図を眺めてみると、モスクワからはボルガ川が南に延々と流れて世界最大の湖であるカスピ海に流れ込むその河口近くにある都市だ。直線距離だけを比べてみるとアストラハンからはモスクワよりもキーウやテヘランなどの方がより近い。アストラハンからはカスピ海を挟んでトルコがほぼ真向い、斜め向かいにアゼルバイジャン/カザフスタン/トルクメニスタンが位置するというようなまさにヨーロッパとアジアとアラブが接しているところにある。古くはアストラハンが独立した国家の首都となったこともあるようだが、16世紀以降は継続してロシアの支配下にあってトルコやイランなどに対するロシアにとっての要衝的な役割を果たしてきたらしい。ただこれら隣国でVESPEROがライヴを行ったりすることはあまりなさそうで、YouTubeの彼らの公式チャンネルではこまめにライヴ映像がアップされているのだが、ロシア内のものばかりでほとんどがアストラハンで時折モスクワが混じっている様子である。

 冒頭に記載したBandcampのVESPEROのページのディスコグラフィーを見ると本作を含めて27作品が出てくるのだが、これにはダウンロード限定/ライヴ録音作品/リマスター再発/OCTOBER EQUUSのアンヘル・オンタルヴァを初めとした他アーティストとのジョイントやスプリットなどを含んでいる。『スタジオ録音・CDフォーマット・単独名義・フルアルバム』という条件下では本作は2年振りの12作目ということになる。12作品を発表年順に一覧すると以下の通り。

 1)2007:Rito
 2)2009:Surpassing All Kings
 3)2010:By the Waters of Tomorrow
 4)2012:Subkraut: U​-Boats Willkommen Hier
 5)2013:Droga
 6)2015:Fitful Slumber until 5 A.M.
 7)2016:Lique Mekwas
 8)2017:Shum-Shir 
 9)2018:Hollow Moon
10)2020:Four Zoas
11)2021:Sonĝo
12)2023:I De Ludo Globi※本作

 CDの発売元は1)から7)まではモスクワのR.A.I.Gレーベル。8)12)はVESPERO自身で運営していると思われるAMS。9)10)11)はドイツのTONZONENからのリリースでこの3作品に関してはマスタリングにこのレーベルのアルバムの多くを担当しているグローブシュニットのエロックがクレジットされているのが目を引く。上記12枚以外にCDフォーマットでリリースされているライヴアルバムとしてはAMSから
・Azmari: Abyssinian Liventure(2015年のライヴ・2016年発売)
・Liventure N19(2008年のライヴで同年CDRリリースされたものに2009年のライヴを追加&リマスターして2019年CD発売)
の2作品が存在する。

 本作を含んで近年のVESPEROの正式メンバーとしては、ドラムのイワン・フェドトフ、ベースのアルカディ・フェドトフ、ギターのアレクサンダー・クゾブレフ、キーボードのアレクセイ・クラブコフ、ヴァイオリンのヴィタリー・ボロディンという5人編成で固まっていて、アルバムによりゲスト的なメンバーが加わるという形態が続いている。ちなみに1stメンバーには一部曲参加を含めて7人が同列でクレジットされているが、全曲に参加しているのは、リズムセクションのフェドドフ兄弟とギターのクゾブレフの三人だけなので、当初はこの三人がコアメンバーだったのだろう。キーボードのクラブコフは1stでは一部曲の参加で、2ndから四人目のコアメンバーに昇格したように見受けられる。当初はこの4人をコアに、女性ヴォーカル、ヴァイオリン、チェロ、サックス、パーカッション、追加キーボードなどのメンバーを入れ替えた編成をアルバムによって変化させつつ、1~2年毎のコンスタントなアルバムリリースを続けてきた。現在のヴァイオリン奏者のヴィタリー・ボロディンは2016年7th「Lique Mekwas」からは全作に連続参加している。

 初期段階から他バンドとのジョイント活動なども積極的に行っていた彼らだか、その中でも特筆すべきは、スペインのOCTOBER EQUUSのギタリスト、アンヘル・オンタルヴァとのプロジェクトだろう。ここでもCDでリリースされたスタジオ録音アルバムだけを紹介しておくが、オンタルヴァ&VESPERO名義では2018年「Carta Marina」と2020年「Sada」の2作品を発表。また、オンタルヴァとVESPEROのリズムセクションのフェドドフ兄弟のトリオプロジェクトSEAORMは2020年「Olkhon」、2021年「Forgotten Shrines」(OCTOBER EQUUSのキーボードでオンタルヴァの弟であるヴィクトル・ロドリゲスが参加した四人編成)の2作品を発表済みで、3rdアルバムも制作中で完成に近いとのこと。また、オンタルヴァの2023年のソロ作「A Haunted,Hiddem World of Caves」においても、ドラムはイワン・フェドドフが全面参加し、一部曲ではヴァイオリンのボロディンも加わっていた。。。という密接すぎる関係が近年継続している。

 VERPEROのHPトップページには『Kraut space psychedelic』とある。おそらく結成当時の方向性として示されたものなのだろうが、当初から決してそれだけには留まっていなかった。基調はテクニカルジャズロック、リズムは打ち込みやドラムパットも導入して変幻自在、浮遊感のあるスペイシーなシンセの多用、メロディラインにおける中央アジア~中近東アラブ風味の混在...というあたりは一貫した特徴。既聴のバンドで私が連想していたのは、マハビシュヌ・オーケストラ、キング・クリムゾン、オズリック・テンタクルズ、そして私が最も近いと感じるのはROVOだが、これらの先達ともまた異なる独自性がある。私が初めてVESPEROに接したのはユーロロックプレス誌70号のディスクレビューが回ってきた2016年の7th「Lique Mekwas」なのだが、この作品及び2017年の次作8th「Shum-Shir」にかけての時期はアフリカンなモチーフが軸となったリズムの躍動と疾走感が凄まじく強調されてバンドとしての頂点にいったん達したように思われた。続く2018年の9th「Hollow Moon」から作風がやや変化したのだが、オンタルヴァとのコラボが直接間接に影響したのかもしれない。よりメロディラインとアンサンブルを重視した楽曲の割合が増えた。これに合わせてコアメンバーが使用楽器を複数持ち替えることも目立ち始め、ゲストの有無などでアルバム毎に相違と変化を持たせながらも、マンドリン、サズ、アコーディオンなどが加わることが本作を含めた近年の特徴と言える。

■「De Ludo Globi」について

 VESPEROは基本的にはインストバンドだがアルバム制作においては古い書物などにインスパイアされた作品とすることが過去作にも何度か見られていた。本作もそれに習って、ドイツ出身の15世紀の哲学者・神学者であったニコラウス・クザーヌスの1463年の同名著作がテーマとなっている。グサーヌスの書籍はいくつか邦訳本が刊行されているが「De Ludo Globi」に関しては邦訳本がなく詳しい内容がわからないのだが複数の英文情報からすると、当時新しく登場した球技をグサーヌスがプレイする中、使われたボールのバランスの悪い動きが神によって動かされた人間の魂に例えられるように感じた、というようなことをテーマに、グサーヌス本人が居住地の領主であるバイエルン公とその弟との2つの対話を行った内容が2部構成で文書化された、というものらしい。VESPEROがこの著作のどのような点に魅かれたのかについてバンドHP等では全く手がかりがないのだが、クザーヌスは様々な先駆的な思想の持ち主で、ローマカトリックと正教会との調整を図ろうとしたなど当時における様々な対立構造の融和に尽力しした人らしい。ということで、近年の国際情勢の影響もあるのかもしれない。

 本作の参加メンバーは前述の5人に加え、ゲスト扱いで過去作にも何度が参加しているサックスとフルートのアレクセイ・イーシンが加わっている。キーボードのクラブコフがトランペットを兼任することに加えて管楽器のアレンジを担当していることがクレジット上の注目点で、実際過去にない厚みのある管楽器パートが目立つ場面が多い。収録曲はタイトルナンバーをパート1とパート2に分けただけの実質1曲ともとれる計40分。これまで中尺曲中心だった彼らのアルバム構成からすると極めて異例だが、スペースサイケデリックバンドの大曲によくあるような音響ドローン/スペース垂れ流し展開は限られていて、変化のあるメロディ展開と丁寧なアンサンブルの組み合わせを中心としたパート1と、疾走要素を盛り込みつつ親しみやすい主題に落着させるパート2と、大曲における見事な構築力を見せてくれる。

■最近の活動について

 前作2021年11th「Sonĝo」から本作発表までの間、ダウンロード限定ながら内容・音質・ボリューム的にもフルアルバムスタジオ作と遜色ない2作品がアルバムリリースされているので抑えておく。
 まず2022年11月に発表された「Isosessions」https://vespero.bandcamp.com/album/isosessions は、録音時期としては「Sonĝo」よりも若干前にあたる2020年4月から6月の録音もの。2020年前半のコロナ過の行動制限の中でVESPEROは前述のコアメンバー5人と曲替わりゲストを加えたリモートセッションを行っていて(内容から察するに基本はリモートライヴセッションで一部オーバーダビングではないかと推定)、その映像(各メンバーがワイプで抜かれて複数人写されたりソロ的なパートではソロで抜かれたり)がYouTube公式チャンネルで毎週中尺曲1曲づつ8曲公開された 
https://www.youtube.com/watch?v=2I63_j6kLKc&list=PLIm0OsXHdqpntuxaS47PGlDJ72Ec643wS のだが、その内容をそっくりデジタルアルバムとしたもの。「Sonĝo」はこの2020年4月-6月のセッション曲の約半分の曲のバーション違い+未発表の新曲が追加されて2020年(月日のクレジットはない)にスタジオ録音されたもの。。。というわけで、「Sonĝo」のボーナスディスク的な位置付けが「Isosessions」ということになるだろう。映像版でイワン・フェドドフのドラムとデジタルドラムの使い分けが確認できるのが特に興味深いと感じた。

 一方、本作「De Ludo Globi」のボーナスディスク的なものは、2023年8月に発表された「Insomnia Liventure」https://vespero.bandcamp.com/album/insomnia-liventure となるだろうか。2023年7月にモスクワ郊外で行われた Insomnia festival なる野外ライヴイベントでの演奏を全10曲60分弱収録していて、録音時期からすると2022年の録音である本作よりも後だ。ここではキーボードのクラブコフが不参加の四人編成で、本来クラブコフのキーボードのソロ的なパートはボロディンがヴァイオリンの合い間に演奏している。初期曲もかなり含んだセットリストで手っ取り早いベスト盤的にも聴け、たぶん未発表の新曲と思われる曲も数曲含まれ次作の予告編も兼ねているようなオイシイ内容だった。
YouTube公式チャンネルではこのライヴの映像がそっくりアップされている https://www.youtube.com/watch?v=A1APrcE7DHk

 YouTube公式チャンネルではその後のライヴが2023年9月と10月、さらには2024年3月の3か所が短い断片ながらアップされている。この範囲ではコアメンバーからの参加はギターのクゾブレフとリズムセクションのフェドドフ兄弟の3人のみで、9月はサックス&フルートが、10月と3月は2ndギタリストが加わった、それぞれ四人編成となっており、メンバー構成が見直されている時期なのかもしれないということで、定期的にBandcampやYouTube情報をチェックし続けるつもり。

粛清裁判★

粛清裁判★(2018年セルゲイ・ロズニツァ)2024年3月23日モーク阿佐ヶ谷

粛清裁判 ウクライナ出身で現在はドイツ在住というロズニツァの作品を私が見たのは今のところ2018年5月のカンヌで発表された「ドンバス」のみで、ロシアのウクライナ侵攻を受けて日本では2022年5月に公開された時に見た。この前後に別作品も立て続けて何本か日本初公開されたのだが、上映期間も短くて私は見逃していた。3/22からMorcでドンバスも含む7作品の連続上映が始まったので、この機会にドンバス以外の作品を見るつもりでまずこの作品を見に行く。123分、モノクロ、英語タイトルは「The Trial」(裁判)。
 日本初公開時のHP https://www.sunny-film.com/sergeiloznitsa に記載されている本作のストーリーをそのまま引用すると以下の通り
『1930年、モスクワ。8名の有識者が西側諸国と結託しクーデターを企てた疑いで裁判にかけられる。この、いわゆる「産業党裁判」はスターリンによる見せしめ裁判で、90年前に撮影された法廷はソヴィエト最初期の発声映画『13日(「産業党」事件)』となった。だが、これはドキュメンタリーではなく架空の物語である——— 発掘されたアーカイヴ・フィルムには無実の罪を着せられた被告人たちと、彼らを裁く権力側の大胆不敵な共演が記録されていた。捏造された罪と真実の罰。スターリンの台頭に熱狂する群衆の映像が加えられ再構成されたアーカイヴ映画は、権力がいかに人を欺き、群衆を扇動し、独裁政権を誕生させるか描き出す。』とある。
 以下、完全ネタバレで、この映画の構造を推察を交えて上記文章を自分なりにわかりやすくリライトしてみると。。。元になっているのは1930年に撮影されその時代に実際に存在していたドキュメンタリー風のプロパガンダ映画で、ロズニツァがそれを再編集しラストの解説の字幕をオリジナルで付けた、ということなのではないかと思われる。映像は電力供給などを含めたソ連国家の基幹産業を運営することに関わっているエンジニアや産業分野の大学教授など8名が「産業党」を結成して資本主義寄りの反革命活動を行いフランスなどからの資金援助を受けて、産業発展の妨害活動を行っていたとの罪に問われ、最高裁の特別法廷における罪状認否から判決に至る約2週間に渡る裁判の様子を描くもの。裁判の内容そのものは面白くはないというか、はっきり言ってすごくつまらない。起訴された罪を被告全員が個々に認め、自らの誤りと、ソ連の現状の体制が正しく、裁判の決定には従うがもしも許されれば国家のために今後は尽くしたいと恭順なコメントが連続する。裁判シーンの合い間には裁判所の外の通りを埋め尽くす、裁判の被告に極刑を求める群衆の群れが何度も映し出される。裁判は大きなホールで公開で行われて、傍聴する一般市民は黙って聞いているが、検察側から「全員銃殺刑」という求刑のくだりと、裁判長から半分くらいの特に指導的地位の高い立場の人が銃殺刑(残りは10年間自由を奪われるというような内容)という判決主文の際には、拍手喝采となった。。。で2時間の映像本編が終わった後でロズニツァが加えたと思われる字幕解説が出てくる。実際にはこのような産業党による反革命運動は行われておらず、この映像はでっち上げ事件の、作り上げられた裁判であること。この裁判の主な関係者のその後の足跡を調査したところ、有罪の被告となった8人は一部は不明だが、多くは秘密警察で何らかの仕事に関わった後、銃殺刑の判決を受けたものの中にも恩赦を受けて釈放となったものがいたこと。求刑した検事はその後(たぶん別件の理由で)銃殺刑になっていること。判決を下した裁判長はその後も重職を歴任しソ連の国連大使になったこと。。。などが示されて終わる。
 私は冒頭記載の「ストーリー」をちゃんと読まないで映画を見たので、最後の最後までこの裁判映像は実際におきた反革命運動に関わるガチなものだと思い込んでいて、映像が終わった後に裁判全体が作られたものだということを初めて認識したのですっかり混乱してしまい「被告人も全部シナリオ通りに演じているだけ? 傍聴する多数の一般人はリアルな反応なのかこれも仕込みなの? そもそも被告の人達は本当は裁判の前から秘密警察の人なのかそれともグレーな立場だったのでこの機会に初めて権力側についたのか?」とかの疑問をいろいろ感じながら映画館を後にして今でもモヤモヤしているのだが、これがまさに作った側の狙いではないかという気もする。今回の上映の他作品もなるべく見るつもり。

プロスペローの本★

プロスペローの本★(1991年ピーター・グリーナウェイ)2024年3月21日渋谷・シアターイメージフォーラム
スクリーンショット 2024-03-22 081937今回の「無修正での劇場初公開」グリーナウェイ上映特集https://greenaway-retrospective.com/の最後の4本目。4本の中では最も年代が遅いこともあってか(制作費に余裕があったのかもしれないが)エキストラ的なバックの男女群の全裸の溢れ度合が今回の他3本と比べても各段に凄まじい。私は本作は日本封切時(1992年)に映画館で見ていて、たぶん初めて映画館で見たグリーナウェイ作品だったのだが、当時はとにかくあまりにもボカシばかりの映像にそれはそれで衝撃を受けた記憶は残っている。18歳以上推奨だが実際の全裸の人物があくまで背景のように使われているだけで映像的には直接的に性的な場面も暴力場面も描かれていない。2011年のHDリマスター版での上映とのことだったがあんまりクリアーな感じはしなかった。126分。
 HP記載のあらすじをそのまま引用すると『シェイクスピアの戯曲テンペストが原案、24冊の魔法書を手にした男の壮大な復讐劇-ミラノ大公プロスペローは、ナポリ王アロンゾーと共謀した弟アントーニオに国を追われ、娘のミランダと共に絶海の孤島に幽閉される。アロンゾーへの復讐を片時も忘れなかったプロスペローは友人ゴンザーローから譲り受けた24冊の魔法書を読み解き強大な力を得て、島にいる悪魔の力を持つ怪物キャリバンや妖精エアリエルを操り、魔法の力で復讐を実行する。』
 壮大なおとぎ話でオペラ劇、豪華絢爛な作り物~ディスニーランドの室内アトラクションを美しさの観点とグロテスクな視点と両面でひたすら拡大したようなありえないやり過ぎの世界観に圧倒される。ラストは(昔見たのにストーリー忘れていたのだが)もっと破滅的残虐的な展開を期待していたのに、シェイクスピアの原作に沿ったものなのかもしれないがなんだか丸く収まってしまったのは意外な感じ。
 今回4本見た印象としてストーリー展開含めた全体ではZOOが一番好みかな、ただ映像表現としては本作がより凄まじい過剰ぶりで説得させられた、とこの2作品が特にお気に入りです。

デューン 砂の惑星PART 2

デューン 砂の惑星PART 2(2024年ドゥ二・ヴィルヌーヴ)2024年3月19日TOHOシネマズ錦糸町オリナス
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 3月15日公開の新作。https://wwws.warnerbros.co.jp/dune-movie/166分。戦争映画でもあるのでエンドロールの中でPG-13記載があったけど国内では一般指定みたい。前作はアメリカでも日本でも2021年10月の公開だったので、今回もアメリカでも日本でも3月公開、ということで2年半ぶりの続編となる。HP等に記載の短縮版のあらすじをそのまま引用すると『惑星デューンをめぐる宇宙戦争が勃発!ハルコンネン家の陰謀により、アトレイデス家は全滅。しかし、最愛の父とすべてを失うも、後継者ポールは生きていた。ついに復讐の時―。運命の女性・砂漠の民チャニとポールの、全宇宙を巻き込む最終決戦が始まる。』とある。私自身は原作本にはまだ手を付けていないのだが、この2作品でフランク・ハーバートによる1965年刊行の小説「デューン砂の惑星」の内容まではようやく行き着いたのかな。しかし主人公のポールの夢の中の話の伏線が全然回収されていないので、この映画がそこそこヒットすれば、1969年から1985年にかけて刊行された原作本の続編5シリーズを題材にしたパート3以降が出てくるんだろう。
 思い起こすと前作2021年10月の公開時というのは2022年2月のロシアのウクライナ侵攻以前であり、見る側としてもかなり印象を異にする。アドレイデス家とハルコンネン家の2者対立がほとんどだった前作に対し、本作では惑星の先住民にして宗教心の強い砂漠の民フレメンの描写の割合など相互関係軸が複雑化してくることもあって、それぞれのグループには少しづつ、パレスチナとイスラエルやアラブ全体やロシアやウクライナやアメリカやEUが投影されているようにも思ってみてしまう。後半になって核兵器が出現してくるあたりになるとなおさらだが、核の話も原作通りなのかがとても気になったので今更ながら読んでみようかな。
 もともと1970年代にアレハンドロ・ホドロフスキーが映画化を企画した際には10時間以上の構想だったわけで前作155分と合わせて計5時間21分という尺はこの材料を盛り込んだ中ではよく整理されていたように思われ、「宇宙大戦争映画」としてはストレスなく見れた。ヴィルヌーヴの作家性とかはよくわからないんだけど。
 残念だったのは私から見れば悪役陣が期待したよりは魅力がなかったこと。デヴィッド・リンチの1984年版でのスティングに相当する水準は期待しすぎだったかな。またこのシリーズ、結局のところ帝国全体を支配する皇帝以上のラスボスは教母グループになるのだが、その世代交代的な描かれ方も印象的だった。これからこのような精神的な深い闇を背負う役回りはシャーロット・ランブリングからレア・セドゥに移っていくのかな。

青春ジャック 止められるか、俺たちを2

スクリーンショット 2024-03-19 213044青春ジャック 止められるか、俺たちを2(2024年井上淳一)2024年3月18日菊川・ストレンジャー

 3月15日公開の新作。119分の一般映画。2018年公開の「止められるか、俺たちを」(監督:白石和彌、脚本:井上淳一、主演:門脇麦)の続編という位置づけの井上淳一の脚本&監督作品。前作が1969年から1972年に若松プロの助監督を務めていた実在の女性が明確な主役だったのに対し、本作の主役は今一つはっきりしない群像劇となっている。中心的なストーリーは1983年に若松が名古屋で立ち上げた今も現存する映画館シネマスコーレの設立時からの数年間。前作に引き続いて若松孝二を演じる井浦新と映画館の支配人の木全純治を演じる東出昌大の二人が立ち上げ時のやりとりを引っ張るが、ここに架空の人物として芋生悠演じる映画館でバイトをする在日韓国人の女性を組み込み、さらに1965年生まれでシネマスコーレ設立時は名古屋の高校生でその後若松プロの助監督となる杉田雷麟が演じる井上淳一脚本&監督本人の私小説を絡めた上に、若い男女の恋愛ドラマ要素もフィクションとして持ち込む、ということでこの四人が主役格となっている。
 当然だが、三島が自決し足立がパレスチナに行き主人公は事実に基づいて意外なラストを迎える事実に基づいた重い「1」の舞台に対して、こっちは名古屋の赤字映画館という味わいがありながらも地味すぎる設定なのだが、事実とフィクションを組み合わせた多角的な視点がそれぞれに私には刺さった。私は井上淳一よりも4つ上なのだが世代的には完全にフィットする感覚で、1980年代前半の可能性があるのかないのかよくわからない曖昧な時代の空気とその時代に20代であった自分を思い起こさせてくれた好きな作品だった。

止められるか、俺たちを

止められるか、俺たちを(2018年白石和彌)2024年3月15日菊川・ストレンジャー
止められるか
 本日公開の新作「青春ジャック・止められるか、俺たちを 2」は近日中に見るつもりなのだが、5年前のパート1作品である本作を見る機会がずっとなかった。ご近所でもあるストレンジャーでは「2」に合わせて本作の上映があったので優先して見ることに。119分。一般映画。HP http://wakamatsukoji.org/tomeoreweb/index.html 記載のストーリーは結構長文なのだがそのまま引用する。
 『吉積めぐみ、21歳。1969年春、新宿のフーテン仲間のオバケに誘われて、"若松プロダクション"の扉をたたいた。当時、若者を熱狂させる映画を作りだしていた"若松プロダクション"。 そこはピンク映画の旗手・若松孝二を中心とした新進気鋭の若者たちの巣窟であった。小難しい理屈を並べ立てる映画監督の足立正生、冗談ばかり言いつつも全てをこなす助監督の ガイラ、飄々とした助監督で脚本家の沖島勲、カメラマン志望の高間賢治、インテリ評論家気取りの助監督・荒井晴彦など、映画に魅せられた何者かの卵たちが次々と集まってきた。 撮影がある時もない時も事務所に集い、タバコを吸い、酒を飲み、ネタを探し、レコードを万引きし、街で女優をスカウトする。撮影がはじまれば、助監督はなんでもやる。現場で走り、 怒鳴られ、時には役者もやる。 「映画を観るのと撮るのは、180度違う…」めぐみは、若松孝二という存在、なによりも映画作りに魅了されていく。 しかし万引きの天才で、めぐみに助監督の全てを教えてくれたオバケも「エネルギーの貯金を使い果たした」と、若松プロを去っていった。めぐみ自身も何を表現したいのか、何者に なりたいのか、何も見つけられない自分への焦りと、全てから取り残されてしまうような言いようのない不安に駆られていく。 1971年5月カンヌ国際映画祭に招待された若松と足立は、そのままレバノンへ渡ると日本赤軍の重信房子らに合流し、撮影を敢行。帰国後、映画『PFLP世界戦争宣言』の上映運動の為、 若松プロには政治活動に熱心な若者たちが多く出入りするようになる。いままでの雰囲気とは違う、入り込めない空気を感じるめぐみ。 ひとり映画館で若松孝二の映画を観ているめぐみ。気付かない内に頬を伝う涙に戸惑う。 「やがては、監督……若松孝二にヤイバを突き付けないと…」』

 描かれているのは若松プロの助監督を1969年から1972年までつとめた実在の人物、吉積めぐみを主人公とした物語。すべて実在の人物を実名で登場させる本作での脚本を担当したのは「2」では脚本&監督を担当している1965年生まれの井上淳一。前述にある当時の若松プロに関わった面々に取材をして(荒井晴彦は自分役のセリフを自ら指摘したようだが)まとめられている他、オープニングから劇中に至るまで、若松や足立の映画シーンそのものだったり新たに撮影されたその再現が頻繁に挟み込まれる。1961年生まれの私としては、リアルタイムでは体験できなかった時代だし、劇中の若松や足立の作品も(機会があれば極力見るようにはしているのだが)ざっくり1/3くらいしか見れていないのだが、見れば激しく心は揺さぶられるので、若松プロのこの時代の映画は永遠の宿題のような領域であり、興味深く見れた。ラストに向かうストーリー展開は意外でモヤモヤしたものも残ったのだが(見終わってから調べたら)吉積めぐみの生涯に基づいているということで一応納得。主演女優の門脇麦は期待通りこの時代の空気を絶妙に体現、若松孝二役の井浦新は割り切ったモノマネ演技?がなんともユーモラスで見事。足立正生役の山本浩司、オバケこと秋山道男役のタモト清嵐など、キャラの立った濃かったりダルかったりの主要人物も時代性を強調していて見ていて楽しい。確かに続編が見たくはなる。

THE KEITH TIPPETT GROUP – How Long This Time? Live 1970

THE KEITH TIPPETT GROUP – How Long This Time? Live 1970(2022British Progressive Jazz)6/50

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 キース・ティペット(p)、エルトン・ディーン(sax)、マーク・チャリグ(コルネット)、ニック・エヴァンス(トロンボーン)の四人をコアメンバーに活動していたKTGの未発表放送用スタジオライヴ発掘ものhttps://britprogjazz.bandcamp.com/album/how-long-this-time-live-1970 。20223月にリリースされていたことに気がつかず最近になって購入したもの。KTGはスタジオ録音アルバムとしては1970年にジェフ・クライン(b)とアラン・ジャクソン(dr)を加え1stYou Are Here..I Am There」を、1971年には7名のサポートメンバーを加えて2ndDedicated To You,But You Weren’t Listening」を発表しているが、本作の録音時期としてはその間の時期になるのだろうか。19701月と8月の録音が3曲づつ収録されているがうち1曲は重複しているので実質5曲だが、うち3曲が2nd曲の初期バージョンで残り2曲が完全な未発表曲らしい。サポートメンバーは1月がジェフ・クラインとトレヴァー・トムキンス(dr)8月はロイ・バビントン(b)とブライアン・スプリング(dr)。発売元からのコメントには「オリジナルのオーディオソースは状態が悪く、リスニング可能な水準にするため大幅な修復が必要だった」とあるが、この時期の発掘ものとしては十分に良い音質。楽曲と演奏は予想通り申し分なく...というか2nd曲の初期バージョンはラスト曲の即興パートとか凄まじくて期待値以上。近年の発掘ものの中でも大当たりの1枚。

DANIEL SCHMIDT – Cloud Shadows

DANIEL SCHMIDT – Cloud Shadows(2022 Schmidt Recital)10/59

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 2019年発表「In My Arms, Many Flowers」(1978-1982年録音) 、2020年発表「Abies Firma」(1976-1991年録音)の2枚のアルバムを聴いてかなり気に入っていたアメリカのガムラン現代音楽家ダニエル・シュミット(スイスの映像作家とは同名異人)の作曲集の3枚目が出ていたことを最近になって知って(アバンギャルドの中古コーナーで見つけて)購入したものhttps://recitalprogram.bandcamp.com/album/cloud-shadows 。これまでの2作が3040年前の過去の活動アーカイブの集成だったのに対し、本作は2017-2019年に録音されているまあまあ新作で、前掲HP記載やブックレットの曲目解説からしても作曲時期も最近のものがほとんどのようだ。また、過去2作は基本インスト作品だったのだが、本作は約半分の曲が歌ものとなっていて、シュミットの妻によるテキストだったり、ルー・ハリソンと並んでシュミットの師匠格の一人であるジョン・ケージの誌を使ったりもしている。反面で、過去作品は一部曲では笛や弦楽器(ルバブ)が使われていたり、スタジオ作品では音響効果を重ねたりというバラエティ性があったのだが、本作ではほとんど鍵盤打楽器だけで器楽演奏が構成されているようで枠組みは絞り込まれている、というあたりが特徴的なところ。シュミットの正確な年齢はわからないのだが、HPやブックレット記載によると録音時期に80歳を迎えたらしいので、青年期のより多様な音楽性を絞り込んで成熟させた結果、ということで納得。ジャワやバリの青銅製ではなく、独自に製造されたアルミ製の楽器の不思議な響きは相変わらず心地よい。ジャケットには最終曲のみ譜面(数字譜?)が掲載されているのは、ガムラン入門初心者(※)の私としてはありがたく、より楽曲を興味深く聴ける。

4年前からバリガムラン教室に入って練習し続けているのですが、来月からジャワガムランの教室にも通うことにしました。

数に溺れて

数に溺れて(1988年ピーター・グリーナウェイ)2024年3月14日渋谷シアター・イメージフォーラム
imgl4 グリーナウェイ上映特集https://greenaway-retrospective.com/から見る、今回の特集上映で私の未見作品はこの3本目で完了する。118分。上記HPに記載されているアオリ文句とあらすじをそのまま引用すると『英国サフォーク州の水辺に暮らす同姓同名の3人の女性シシー・コルピッツは、愛の冷めてしまった夫をそれぞれで殺そうとする。1人目のシシーは若い女と浮気している夫を湯に沈め、2人目のシシーは自分に関心のない夫を海で溺れさせ、3人目のシシーは、新婚早々熱が冷めた夫をプールで溺れさせた。検視官のマジェットは3人から一連の出来事を全て事故死として処理するように脅されるが…。』とある。性と死をシュールなブラックコメディ的に突き放したねじれた視点、美しい風景に熟した果物に這いまわる虫や蛾という基本ビジュアルなどはいつも通りの世界観で、本作では数字と水(あと庭に溢れる羊というのも数のつながりなのかな)が特に繰り返し登場することが特徴。マイケル・ナイマンの音楽がミニマル的な奇妙さがなんだか洗練されて聴きやすい室内楽となっているような気がする。数を重ねていくというコンセプト故か、後半になって想定した以上の殺人や自死が頻発したので後味が良くないなあ、と思ってしまったのだが、私が世界に今一つ入り込めていなかったということなのかも。見た三作品の中ではZOOがベストでした。

BONDAGE FRUIT – VII

BONDAGE FRUIT – VII2024年まぼろしの世界)8/62

B-Fruit7thp ギタリスト鬼怒無月のリーダーバンド、19年振りとなる7作目の新作。加わるメンバーは(もう27年前にもなるわけだが)1997年のサードアルバム以来変わっていない、勝井祐二(vln)、大坪寛彦(b)、高良久美子(vib/per)、岡部洋一(dr/per)の五人編成。1990年の結成~1994年の1stアルバム~1997年からのインスト化~と激しい変化を重ねて、19年前の「VI」ではずいぶん落ち着いて良い意味で余裕のある円熟ぶりを見せた後で沈黙してしまったわけので、もう活動しないのではないかと近年思い込んでもおり、古くからのファンとしては嬉しいリリースである。テクニカルジャズロック、ブルースハードロック、アコースティックチェンバー、フォークトラッド、カントリー、ミニマル、脱力ユーモラスなどの交錯。温かみに溢れるキャッチーなメロディラインを中心に時折挟み込まれる印象的なダークネス。。。といった鬼怒ワールドの引き出しは19年前とそんなに変わっているとは思わないが、より幅広く柔軟性を高めているというところだろうか。前作のオープニングナンバーだった”Three Voices”を本作ラストにボーナストラック名義で再録していることも前作からの継続性の印象を強めている。一聴では新鮮さに欠けると思ったのだが、聴き込むにつれて次第に説得されてきた。アルバムリリースに合わせて再開してくれたライヴにも期待。

HENRY COW –Glastonbury and Elsewhere

HENRY COW –Glastonbury and Elsewhere2023ReR5/61

 

 a1087528450_16このアルバム202212月にリリースhttps://henrycow.bandcamp.com/album/glastonbury-chaumont-bilbao-and-the-lions-of-desireされていたことに私が気がついておらず、20242月のマーキーベルアン国内流通盤の発売告知で初めて認識して詳細情報をあんまり認識せずに輸入盤購入してみたもの。ブックレット記載コメントによると2019年発売の50周年記念「Cow Redux Box」後に発見されたBoxセットの追加版という位置づけということなのだが、調べてみると同じような性格の「Ex Box: Collected Fragments 1971-1978」も20224月にリリースされているhttps://henrycow2.bandcamp.com/album/ex-box-collected-fragments-1971-1978 ので、追加版のさらに続編というところなのだろうか。

 全5曲は1972年から1977年までで収録時期も参加メンバーもバラバラ、音質的にもまずまずだし内容的にも一番興味を引いたのが、オープニングのM1)Glastonburyでの“Poglith Drives a Vauxhall Viva”(ホジキンソン作)17分。クリス・カトラーが加入前時期ということでこのライヴではドラムはマーティン・ディッチャムが担当し、フレッド・フリス、ジョン・グリーブス、ティム・ホジキンソンとの4人編成。この曲は「Collected Fragments 1971-1978」にも11分版が収められているが、こっちの方がインプロ的なパートを中心にした長尺バージョン。初期のソフト・マシーンやキャラバンというかワイルド・フラワーズというか、少しブルース風味のあるカンタベリー系ジャズ・ロックが延々と展開されるが、初期ピンク・フロイドのライヴに共通するようなサイケデリック要素もある。グリーブスのベースとホジキンソンのサックスとオルガンには傑出した個性はまだ見出しにくいがフリスのリードギターにはすでにそれらしき独自の魅力が見える。個人的な好みとしてはかなり好きですね。ところでこの曲、クレジットでは19726月とあるのだが、これまで語られてきたカウのヒストリーではディッチャムが脱退する前のGlastonburyでのライヴと言えば19716月だったはずで合わない。クレジットの印刷ミスなのかな。。。

 M2)1973年の” Half Asleep, Half Awake”(グリーブス曲:1974年の2ndアルバムUnrest収録)の一部(2分)、クーパー、カトラー、フリス、グリーブス、ホジキンソンの5人編成。M3)1976年の即興的な楽曲“The Road to Ruins11分、グリーブスがボーンに交代した5人編成。フリス既存曲の断片とセロニアス・モンク曲を組み合わせたM5)13分も同様の5人編成で1977年。とこの3曲はまあまあ想定通り。

M4)1977年の”The Lions of Disire” 18分で、カトラー、フリス、ホジキンソンにヴォーカルとトランペットでフィル・ミントンが加わったHENRY COWと呼んでよいのかどうかよくわからない四人編成で、ブックレット解説によるとHENRY COWMile Westbrook Brass BandとのジョイントユニットTHE ORCKESTRA用の楽曲をこの編成で演奏している、ということなのかな。ミントンの個性の付加が新鮮。

ラストエンペラー

ラストエンペラー(1987年ベルナルド・ベルトリッジ)2024年3月12日新宿ピカデリー

T0006165_leafletimg_r_l 昨年に坂本龍一追悼ということで戦メリと一緒に4Kレストア版が国内公開されていたのを見逃してしまったのだが、再上映ということで見に行く。163分。PG12のレーティングなのは控え目ながら多少の性的な場面があるためかな。私は公開時に映画館で見ているので35年振りくらいに見るが、最初見た時の記憶はあんまりない。この35年間で私もそれなりに歴史認識を深めたつもり(北京にも2005年に行って紫禁城~故宮博物館も訪れたし)なので、改めて見直してみたかった作品ではあった。
 ジョン・ローンが演じる清朝最後の皇帝&関東軍傀儡政権であった満州国の皇帝の溥儀(1906-1967)を主人公とした歴史映画。私が知っているような史実ともいろいろと異なる脚色が恋愛パートナーのペアリングなどで施されていることは気になるのだが、そもそもが宮廷内での会話も中国語ではなくて英語で行われているくらいなので、細かいことは気にしてはいけないのかもしれない。
 実際の紫禁城を使ったロケを生かしたスケール感は素晴らしいし、皇帝溥儀の生涯を「1950年に中華人民共和国の戦犯収容所に身柄を移されてから1967年の死去まで」と「1908年の2歳での清朝皇帝即位から1945年の日本の敗戦に伴う満州国の崩壊までの皇帝時代」の2つのストーリーを小刻みにいったりきたりする展開も飽きさせない。重要な脇役として前半部分での家庭教師役のピーター・オトゥールの存在感はサスガだが、後半部分で満州国の実質的な支配者ということに映画の中ではなっている(史実では諸説あるが映画の描き方はたぶん相当に異なる)甘粕正彦役の坂本龍一は典型的な腹黒い日本人悪役という表現すぎでちょっとヒドすぎる。良くも悪くもベルトリッジがこの時代の中国を描くとこのレベルに留まったというのがちょっと残念な反面、そのわかりやすさ故にアカデミー賞作品賞・監督賞を含めた9部門受賞を初めとした海外での評価とヒットにつながったということでもあるだろうか。前半から中盤くらいまでに何度か挟み込まれる性的な場面は控え目ながらいろいろ想像させられるのはさすがはベルトリッチというか上手い。
 満州は私の母親が幼少期に親(私の祖父母)と短期間滞在して帰国したという話は聞いているのだが、あまり深い話を聞けないまま母を失くしてしまったこともあって、個人的に特に引っかかっている歴史テーマなのだが、日本映画では正面からはほとんど取り上げられていないように感じている。最近見た1960年の「流転の王妃」(監督:田中絹代、脚本:和田夏十)が、溥儀の弟の溥傑(演じたのは船越英二)と結婚させられた侯爵家の嵯峨浩(演じたのは京マチ子)などは凄く興味深かったし、本作で扱われていない溥儀の主要な歴史的なエピソード(皇帝時代と東京裁判での日本訪問とか、戦犯として最初に捕らえられたソ連から中国に移された経緯とか)だけでも別の映画が数本撮れるだろうし。不安定な世界情勢の中で、ぜひ日本映画の新作としてスポットを当ててほしいものだ(が資本がつかないだろうなあ)。
 ところで、てっきりアカデミー賞で作曲賞を(モリコーネを差し置いて獲得した)本作の音楽は坂本龍一が全面的に担当しているのだと思い込んでいたが、クレジットをちゃんと見たらデヴィッド・バーンと蘇聡を含めた三人が担当していたのであった。サントラをちょっとだけ聴いてみたがと坂本とバーンがほぼ半々でメイン担当という感じでそれぞれ味わいあり。

UNIVERS ZERO-Lueur

UNIVERS ZERO-Lueur(2023SubRosa)11/48

UZ 202311月にSubRosaから発売 https://subrosalabel.bandcamp.com/album/lueur され、ディスクユニオン流通盤(帯解説付き/邦題「閃光」)では12月に発売されたUZ10年振りとなる新作。UZの場合Crawling Windとかをどうカウントするのかという問題から何枚目のアルバムなのかのカウントが難しいが前作「Phosphorescent Dreams」(邦題「燐光」)リリース時に13枚目という明確なアナウンスがあったのでそれに従えば14枚目。私は国内発売時にCDを買いそびれていたらすぐに売り切れてしまいなかなか入手できなかったので購入が遅れてしまったもの。

 クレジット上の注目点は、録音年月が2020-2023年の長期に渡っていることと、何より固定メンバーによるバンド形式にはなっていないこと。UZ名義作としては(コロナ影響とは言え)これまでなかったことだ。全曲ダニエル・ドゥニの作曲で、全曲参加はダニエルのみでドラムとパーカッションとキーボードのマルチプレイ。これに全11曲中6曲と過半曲への参加なのはベースとパーカッションとボーカルでダニエルの息子ニコラのみということなので親子プロジェクト的な性格が強い。少数曲参加はあと2人で2010年以来のメンバーであるクラリネットのクルト・ヒュデが2曲、前作から参加のギターのニコラ・デシェンが3曲(ギターが聴こえる曲はもっとあるのでクレジットが合っているのかどうかはちょっと疑問)、という形態。ロックバンド展開がしっかり聴きとれる楽曲はざっくり半分くらいに限られているので、UZ名義よりもソロアルバム名義にしてもらった方がしっくりきた。とは言っても、作曲的にも演奏&アンサンブル的にもしっかり練り込まれた楽曲が揃っていてアルバムトータルとしては聴きごたえのある好作には仕上がっているのは、過去の2枚のソロ作同様。ヒュデのクラリネットを生かしたチェンバー曲2曲は安心して聴ける想定通りのアンサンブル、デシェン参加の3曲は冒頭曲が暗黒エレクトロニクスで始まるがそれ以外の2曲はなかなかに軽快なジャズロックの要素も盛り込んでいる。この2人が不参加曲では音響チェンバーパーカッション曲というかドゥニ参加時期のART ZOYDを思わせるような楽曲も混じってこれも懐かしさとエレクトロニクス処理の新鮮さが交じり合って興味深く聴けた。UZ/ドゥニの最高作更新にはいたらないが、期待値水準は上回った、ということで、本作参加メンバーフル参加バンド形式での次作があったら良いね。
 なお、本作購入が遅れたことの反省から、今月末発売のPRESENTの新作は予約しました。

アメリカン・ユートピア★

アメリカン・ユートピア(2020年スパイク・リー)2024年3月11日菊川・ストレンジャー

アメリカン・ユートピア 日本では2021年に公開され https://americanutopia-jpn.com/、今年になってからトーキング・ヘッズのライヴ映画「ストップ・メイキング・センス(1984年)」のリマスター上映に合わせて再上映されている、トーキング・ヘッズのリーダーだったデヴィッド・バーンのソロ・プロジェクト・パフォーマンスのブロードウェイでのライヴ映画。107分。本作公開時には(私はデヴィッド・バーンのファンというわけでもないので)特に関心がなかったのだが、トーキング・ヘッズは一時期聴いてはいたので「ストップ・メイキング・センス」のリマスター上映は先日見たところ予想外に素晴らしかったので、こっちも見る気になったものである。で、こっちも予想外に素晴らしかった。
 まずちゃんと認識したい基本データ的な内容が前掲HPには見当たらないので英語版のウィキペディアなどから情報を抜粋して整理すると、バーンの8枚目となるソロ・スタジオアルバム2018年3月リリースの「American Utopia」発売後のライヴツアーが次第にミュージカル舞台化して、2019年10月からブロードウェイで長期連続公演が行われたその模様を収録したもの。
 セットリスト的には新作アルバムを含むソロ曲と、聴き覚えのあるトーキング・ヘッズの曲とがほぼ半分。ステージに登場するのは12人。共通のグレーのスーツを制服として、全員がワイヤレス、全員が立って演奏し、常に動き回り踊り回るパフォーマーを兼任。一応の担当楽器としては、バーンのヴォーカルとギターに加わるのは、ギター、ベース、キーボード、ダンス2名、パーカッション6名の計12名で、ダンサーも器楽演奏者のほとんどもコーラスも兼任。パーカッションの6名は曲による持ち替えも多いがおおよそほぼ半分のメンバーはフルドラムセットを解体したパーツをしょって叩きまくる。音だけ聴くととてもとても動き踊りながら演奏しているとは気がつかない見事なものだった。カメラワーク的にも天井を含んだ様々な角度のショットを組み合わせてメンバー12名の動きを印象的に見せるカットがリズミカルに切り替わる、視覚的にも申し分なし。
 今の自分の好み的には「Remain In Light」あたりのトーキング・ヘッズは(リアルタイムでは私自身がファンク的なものがダメだったのがその後耐性がついたので)ディシプリン・クリムゾンの先駆的なところを中心に相当に良いと感じており、この作品でも代表曲が何曲も新アレンジで聴ける。新アレンジは悪くはないんだけどやっぱり原曲は超えてないようにも思う。一方で、最新ソロ作の社会性の強いメッセージ曲がそのような器楽的に尖った曲に挟み込まれているステージの構成バランスは自分にも良かった。なにより映画だと歌詞翻訳字幕がありがたい。

AMOEBA SPLIT-Quiet Euphiria

AMOEBA SPLIT-Quiet Euphiria(2023āMARXE)6/40

a3883352084_16 前作を聴いて好盤だと感じていたスペインのユニットの7年ぶりの新作3rd。前作は正式メンバー6人(b&g/key/dr/sax/sax&fl/tp)に加えて曲替わりの弦楽器などを含むゲストが8人クレジットされていたが、本作では前回ゲストの中からセカンドキーボードとヴィヴラフォンが正式メンバー扱いに昇格したクレジットで8人のみの編成となっている。「ホッパー&ディーン在籍時のソフトマシーンとジェンキンス在籍時のニュークリアスのエッセンスを現代的なセンスで(ジェンキンス加入後のソフトマシーンとは風合いがなんとなく違うような気がするのだが別アプローチで)フュージョン化したカンタベリージャズロック」という基本線は変わらずだが、当然ながらツインキーボードの音色の多様性と、フロントのメロディラインを管楽器アンサンブル中心だけではなくキーボードとヴィヴラフォンが交錯しあって展開する場面がアルバム全体に拡大。小曲と中尺曲でバラエティに富んだ6曲の構成力も申し分なく40分あっと言う間に終わる。前作よりもより軽い印象で最初に聴いたときは物足りないかとも感じたが、聴き返すにつれて味わいの増す、前作に匹敵する好盤だった。ストリ-ミング視聴/直販サイトは以下

https://amarxe.bandcamp.com/album/quiet-euphoria

なお、Tubeの公式チャンネルで最近のライヴ映像を探したところ、本アルバムM3)20236月ライヴ映像があったhttps://www.youtube.com/watch?v=2Lv6H5PlbVo。雰囲気的にはアルバム同様ではあるがtpvibがいない6人編成となっている。ちなみにこのチャンネルでの過去のライヴ映像では発表済みアルバムでの路線とはかなり異なるプログレスタンダード曲のカバーも多く収録されていて意外性があって面白い。

RHÙN – Tozïh

RHÙN  Tozïh2023Baboon Fish Label3/38

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  2013年にALTROCKから1stフルアルバム(2008年と2012年に自主製作でリリースしたもののカップリング)を発表していたZEUHL系バンドの10年振りとなる2nd。リーダーのCaptain Flapattak(dr/vo)以外はそっくり前作からメンバーが入れ替わり、key×2、b、sax、vlnを加えたギターレスの6人編成となっている。過半メンバーが兼任するたぶん基本的にはフランス語で一部リフレインでコバイア語に近いような造語のヴォーカルによるMAGMA~高円寺百景的なしつこい繰り返しコーラスが全編で目立つ(素朴な感じはDAI KAHTにも近いかも)が、真っ当なジャズロックやフリージャズやトラッド風味のインストパートもしっかり取られている。悪魔的なものがテーマとされているようなのだがその割には表面的には暗黒要素は少なく、メロディーラインは結構キャッチー。長尺曲を飽きさせない構成的な魅力が目立った。ストリーミング視聴/直販サイトは以下

https://rhunmusic.bandcamp.com/album/toz-h

 

20242月末発売のユーロロックプレス誌100号のディスクレビュー原稿を加筆

英国式庭園殺人事件

英国式庭園殺人事件(1985年ピーター・グリーナウェイ)2024年3月8日渋谷シアター・イメージフォーラム
 グリーナウェイ上映特集https://greenaway-retrospective.com/から見る2本目。この作品も私は初めて見る。107分。上記HPに記載されているアオリ文句とあらすじをそのまま引用すると『殺したのは誰?12枚の絵の中に隠された、完全犯罪の謎。英国貴族の表と裏を描くグリーナウェイ初期の傑作ミステリー!~17世紀末の英国南部ウィルトシャー。画家のネヴィルはある屋敷へ招かれる。主人のハーバード氏は不在で、代わりに出迎えたヴァージニア夫人は、夫が戻るまでに屋敷の絵を12枚完成させること、報酬は一枚8ポンドに寝食の保証、そして夫人はネヴィルの快楽の要求に応じると言う。ネヴィルは不審に思いながら絵を描き始めるが、何者かが絵の中に本来そこにあるはずのない、何かを暗示する異物を紛れ込ませようとする。』とあったり、この邦題もあって、犯人捜しミステリーなんだと想定して見ていたのだが、全然違っていて、謎が謎のまま殺人が連続して話が終わってしまい、表面的には全く伏線回収がなされない。そもそも原題が「The Draughtsman's Contract」とあって、内容を踏まえて直訳すると「デッサン画家の契約」ということになるだろう。夫人とその娘との間で何度も契約を交わすことがストーリー展開の中心となり、最後の契約がエンディングにつながっていくということになるのでこの直訳タイトルだったらしっくり見れたかも。噛み合っているのかいないのかよくわからない会話の連続、映像美、提示され続ける伏線、全裸の道化師、冒頭はチェンバロのみを伴奏とした歌曲で次第にいつものミニマルオーケストラに変わっていくナイマンの音楽。。。とストーリーにはついていけなくても損した感じがしないのがグリーナウェイ作品だとは言え、正直私の読解力では辛かったかな。

ペーパーシティ~東京大空襲の記憶★

ペーパーシティ~東京大空襲の記憶★(2021年エイドリアン・フランシス)2024年3月5日菊川・ストレンジャー

 最近ストレンジャーにおいてあったチラシを見て初めて認識した作品 https://papercityfilm.com/jp/ なのだが、2021年から国内外の映画祭や自主上映の形で限定的な上映がされていて一般映画館でのまとまった公開は2023年が初?だとしたらキネ旬の2023年ベストテンリストに全く入っていないのは腑に落ちない...と感じた私としては近年のドキュメンタリー映画の中では最も刺さった作品だった。
 1945年3月10日の東京大空襲がテーマとなっていて、オーストラリア出身の長い監督がクラウドファンディングやオーストラリアの公的機関みたいなところの資本で自主制作したらしい80分の作品。東京に長年住み続けてきた監督の視点は「東京大空襲は1日にして10万人以上という広島・長崎に匹敵する死者を出した出来事なのに、その痕跡が東京にはどこにもないことの違和感」にある。監督が日本語でインタビューする相手は日本人ばかりで日本語には英語字幕付き、戦争当時のアーカイブ映像はアメリカのものが多いがその英語には日本語字幕付き、という2か国語仕様で仕上がっている。
 ドキュメンタリーの対象の中心は現場で経験し家族を亡くしながらも生存した方々で、特に3名~当時21歳浅草の女性/当時16歳江東区森下の男性/当時14歳墨田区押上の男性。時間軸としては前半の方には「東京大空襲70年の記念イベント」が紹介され、後半はその数年後の同日の様子が描かれるので、2015年から2018年くらいの範囲なのだろう。カメラが向けられている中心的な3人は「生き残り被害者への補償・空襲被害の実態調査・追悼施設の設置」の運動で、生き残り遺族や被害者団体が国を訴えた裁判で2013年に最高裁判決で敗訴(最高裁のコメントは司法判断の問題ではなく適切な立法措置を行って対応すべき問題)した後の国会議員への働きかけ活動がなかなか進まない中で運動に関わる人々が高齢化して身動きできなくなっていくもどかしい様子が見て取れる(実際にエンドロールの字幕では映画の最終的な完成の前には3名のうちの2名がお亡くなりになったことも示される)。
 いろんな事実やエピソードは私もNHKのドキュメンタリー番組で見て知っている内容も多かったのだが、3人に個人的に長期に密着したことで掘り下げが深く、かつ繰り返し紹介される現在の映像が圧倒的に近所(墨田区の言問橋や錦糸町駅すぐ近くの錦糸公園や両国の東京都慰霊堂)で震災当時のアーカイブ映像や写真と切り替えで示されるので説得力が違っていた。一番印象的だったのは当時14歳押上の男性が空襲後に憲兵隊の命令で(私が毎日橋の上を私が歩いているような場所の)水路に埋まった死体を引きずり上げて今の錦糸公園の場所(私が保育園時期の娘を休日に良く遊ばせていたブランコやすべり台のあたり)に運んで深く掘られた穴の中まで運ばされた。その後燃やされた死体の遺骨は掘り起こされて(昨年秋に引っ越してきた自宅からすぐ近所の)東京都慰霊堂に運ばれている。。。という証言だった。引っかかりを覚えた場面もいくつかあって、例えば登場した遺族会の支援を行っているような人からの集会場面での「戦前の権力者がそのまま残っているような今の政権(岸信介の孫の安倍内閣)だから戦争の責任を取ろうとしない」というような主旨の発言を拾っているのはちょっと単純すぎる気もしたが。東京大空襲のテーマは当時についても現在まで続く問題についての多くの要素を含んでいるので他の映像作家の方々にも、フィクション/ノンフィクションに関わらず様々な角度でもっと取り上げてほしいとは強く思った。
 なお、この作品、ストレンジャーでは3/1~7までの1週間限定上映で毎回上映終了後にミニトークショーが入る。初回2日間は監督が登場したらしい(行こうと思ったのだが数日前に完売だった)が、この日は「大空襲当時は5歳で家族の中で一人だけ茨城に疎開していて母と兄弟を大空襲で亡くした女性」と「SNSなどで平和問題について発言している女性タレント」の組み合わせだった。時間が15分くらいだったのがちょっと残念。

ZOO★

ZOO★(1985年ピーター・グリーナウェイ)2024年3月4日渋谷・シアターイメージフォーラム
3月2日から3月29日まで4作品の上映特集https://greenaway-retrospective.com/。グリーナウェイ作品は1990年代のものを中心に何本か国内封切時に見たが、性的な行為を伴わない場面でもやたらと全裸の場面が多くその結果ボカシがあまりにもひどくて、あまり深入りできずに当時は終わりそのままになっていた。昨年6月に初期作品の「ザ・フォールズ(1980年)」を見る機会があってその難解さの再確認とマイケル・ナイマンの音楽に懐かしさを感じていたところで、今回は4作品共に「18歳以上の鑑賞推奨」の「修正無し」リマスター上映ということで、まずは未見の本作から見に行った。116分。
 HP掲載のストーリーを引用すると『オランダ・ロッテルダムの動物園で働く双子の動物学者オズワルドとオリヴァーは交通事故で同時に妻を亡くし、車を運転していた女性アルバは一命をとりとめるが片足を失う。事故後、オズワルドとオリヴァーは何かに憑かれたように動物の死骸が腐敗していく過程を映像に記録する事に没頭する。やがて2人はアルバと親しくなり、アルバも2人に好意を抱き始める。その様子は外科医メーヘレンと助手のカタリーナに監視されていた。』と、双子男性と足のない女性との関係性の変化を話の軸としつつ、周辺の人物群の奇怪な振る舞いや、博物学的な知識の引けらかしを交えながら進行していく。話の転換の節々には腐敗が進行する映像の高速な早送り&早回しがナイマンの音楽を伴って印象的な間奏曲パートとして挟まれ、双子男性の配置を含めてシンメトリーな映像世界の不思議さを強調し、やっぱりラストはそうなるのか、というような「ハイセンスでグロテスクな悪趣味」が満載で、「ザ・フォールズ」と違って全く飽きなかった。他の上映も見なくては。でも嫌悪感も持つ人も多いんだろうなあ。

落下の解剖学★

落下の解剖学(2023年ジュスティーヌ・トリエ)2024年3月1日TOHOシネマズ錦糸町オリナス
 国内では2024年2月23日公開 https://gaga.ne.jp/anatomy/。2023年のカンヌ映画祭で、審査員賞「枯れ葉」(アキ・カウリスマキ)、脚本賞「怪物」(是枝裕和※脚本坂元裕二)男優賞「PERFECT DAYS」(ヴィム・ヴェンダース※主演役所広司)などを抑えて最高賞のパルム・ドールを受賞した作品。152分。
 見る前は「なんだかよくわからない邦題だな」と思っていたが、英題はAnatomy of a Fallでグーグル翻訳をかけると「転倒の構造」と出てくる。映画を見た上で訳するとすれば「転落の分析」になるだろうか。新作でもありあらすじ紹介はHP記載情報の以下引用に留めると『人里離れた雪山の山荘で、男が転落死した。はじめは事故と思われたが、次第にベストセラー作家である妻サンドラに殺人容疑が向けられる。現場に居合わせたのは、視覚障がいのある11歳の息子だけ。証人や検事により、夫婦の秘密や嘘が暴露され、登場人物の数だけ<真実>が現れるが──。』というもの。場面は一家が暮らす山荘からはじまり、中盤以降はこの事件を巡る法廷での長期間にわたるやりとり~状況証拠から妻の殺人を主張する検察側と、夫の自殺を主張する弁護側~が中心となる。細かいエピソードの積み重ねと、五月雨的に明かされていく新たな状況証拠(最後まで決定的な証拠は出てこない)の数々で、直接的な暴力場面も性的なシーンもないG扱いの3時間の長尺作品だったが全く飽きなかった。夫婦共に小説を志すものの妻のみが成功し、夫は家事育児の分担が不当だと感じるなどの、夫婦間のズレと愛情。。。みたいなものが、法定上での掛け引きとその裏側での割り切れない思いなどを丁寧に重層的にでも曖昧に描いていて私には刺さりまくった感じ。主演女優のザンドラ・ヒュラーは同年のカンヌでグランプリ(パルムドールに次ぐ次点扱い)を受賞した「関心領域」(日本公開は5月予定)にも主人公(ルドルフ・ヘス)の妻役で出演しているとのことでこっちも見逃さないようにしたい。

苦い涙

苦い涙(2022年フランソワ・オゾン)2024年2月29日阿佐ヶ谷Morc

 ファズビンダーによる1971年の戯曲を1972年にファズビンダー自身が映画化した「ペトラ・フォン・カントの苦い涙」(1972年)のリメイク作品 https://www.cetera.co.jp/nigainamida/。PG12、85分。昨年2023年6月の日本公開時には(合わせて日本劇場初公開となったファズビンダー版の方だけは見たのだが)新作のこっちは、オゾン作品にこれまでなじみもなかったため見逃してしまった作品である。なお、両作品の原題を比較すると、ファズビンダー版は「Die bitteren Tränen der Petra von Kant」で直訳で「ペトラ・フォン・カントの苦い涙」となるが、本作の原題は「Peter von Kant(ピーター・フォン・カント)」で”苦い涙”の方をカットしていて、日本語タイトルは逆のカットをしている。
 基本的なストーリーはファズビンダー版をほぼそっくり踏襲しているものの、主人公の職業がデザイナーから映画監督に代わり、6人の登場人物(主人公/古くからの友人/友人から紹介を受けることで主人公が熱烈に恋愛する相手/主人公の娘/主人公の母親/主人公から終始パワハラを受けているとしか思えないアシスタント)の関係性はそのままだが、6人全員を女性でキャスティングしたファズビンダー版に対し、オゾン版では6人の中でも比重の高い主人公と恋愛相手とアシスタントの三人を男性に変えて男女の割合を半々としている。主人公の容姿や体形や細かいセリフのやりとりなどから、主人公はファズビンダーをかなり直接的にモデルにしているようにも取れる。最近カンヌで評価されたというようなくだり(実際には1974年に受賞)とか。イザベル・アジャーニが演じる古くからの友人はデビュー作で主演女優を演じていて主人公とも恋愛関係にあったのだがその後主人公との恋愛関係を解消してハリウッド女優になったが友人関係は続けている、というようなくだりはオリジナルなエピソードになっているが、アジャーニの雰囲気はイングリッド・カーフェンを少し思わせる。何より母親役を(50年前は恋愛相手の若い女性役を28歳で演じていた)だったハンナ・シグラが担当していて見事にその昔の面影を残しつつ年輪を重ねていることも印象的だった。
 私としては主人公とその恋愛対象が「十分に魅力を感じる」から「私的には全く魅力を感じない」に変化したことは当然マイナスポイントだったし、「ファズビンダーはおそらく顕著だったのであろうが映画監督のセクハラパワハラ要素」が強調されていることも前作比でさらに不快感を増加させるところでもあるが、ファズビンダー映画はこのような背景の中から生まれてきたことでより深みを感じさせてくれたことも確かだろう。。。というわけで、見て良かった映画ではあった。

 ところで阿佐ヶ谷Morcは最近オープンしたんだっけ?二番館としてはチケット料金も特に安いわけでもないので、これまで訪れる機会がなく今回初めて利用したのだが「毎月1日と毎週月&木はサービスデーで1,000均一」とサービスデーの範囲がずいぶん広い設定であることを行ってみて知った。今後のプログラムを見ても興味はあったのに見逃した作品がかなり控えているので月&木を狙ってまた訪れたい。

一月の声に歓びを刻め

一月の声に歓びを刻め(2023年三島有紀子)2024年2月25日シネスイッチ銀座

 2024年2月9日公開の新作 https://ichikoe.com/。118分。過去作品での高評価から気になっていた監督だったがこれまで機会がなくて初めて接する。新作でもあるのでネタバレに配慮してストーリー紹介はHPからの引用に留めると
『北海道・洞爺湖。お正月を迎え、一人暮らしのマキの家に家族が集まった。マキが丁寧に作った御節料理を囲んだ一家団欒のひとときに、そこはかとなく喪失の気が漂う。マキはかつて次女のれいこを亡くしていたのだった。それ以降女性として生きてきた“父”のマキを、長女の美砂子は完全には受け入れていない。家族が帰り静まり返ると、マキの忘れ難い過去の記憶が蘇りはじめる……。
 東京・八丈島。大昔に罪人が流されたという島に暮らす牛飼いの誠。妊娠した娘の海が、5年ぶりに帰省した。誠はかつて交通事故で妻を亡くしていた。海の結婚さえ知らずにいた誠は、何も話そうとしない海に心中穏やかでない。海のいない部屋に⼊った誠は、そこで手紙に同封された離婚届を発見してしまう。
 大阪・堂島。れいこはほんの数日前まで電話で話していた元恋人の葬儀に駆け付けるため、故郷を訪れた。茫然自失のまま歩いていると、橋から飛び降り自殺しようとする女性と出くわす。そのとき、「トト・モレッティ」というレンタル彼氏をしている男がれいこに声をかけた。過去のトラウマから誰にも触れることができなかったれいこは、そんな自分を変えるため、その男と⼀晩過ごすことを決意する。やがてそれぞれの声なき声が呼応し交錯していく』
 という短編が切り替わる三部構成で、三作品は少なくとも表面的にはつながってはいない。身近な人の死ということは三作品の共通テーマだが、その周りに家族・性・暴力・犯罪といった要素が置かれる。印象的だが曖昧ではっきりしないところも多いストーリーがそれぞれ少し展開してこれからどうなるのが興味がわいたところで終わってしまうというのは、まあ短編というものはそういう余白の多いものなのかもしれないけど。。。という盛り足りなさも感じる中で★付きとした要因のほとんどは洞爺湖編の主人公に配されたカルーセル麻紀の存在感の重さ深さ~娘が性暴力によって殺されたことで父親として男性であることを止めて性転換したという人物設定を自身に中に落とし込んだ上で、性転換後に女性として日常を生きている所作と死んだ娘のことを思う男性の父親となっているという重層構造をセリフのない場面で表現する凄み~だった。年間最優秀俳優賞(男優賞・女優賞はそろそろなくなるべきなのかもという思いも含めて)という感じです。

動乱

動乱(1980年森谷司郎)2024年2月24日池袋・新文芸座
 226事件の映画化作品。リアルタイムでも、これまでも全く見る機会がなかったこともあり見に行く。脚本は山田信夫。150分の長尺大作。高倉健(※公開時48歳)と吉永小百合(※34歳)の初共演作品、というのが売りらしい。226事件の基本フレームは生かしつつも「フィクション作品」であることがエンドクレジットで明記されており、226事件を起こした加害者全員と関係者の多くには変名が与えられている。例えば高倉健が演じる主人公の陸軍青年将校で事件の中心人物である「宮城大尉」の描かれ方は、多人数の部下を率いる中隊長であり人格者として部下からも同僚からも信頼されていたというようなようなところは明らかに「安藤大尉」だが、事件鎮圧後に自決を促されても拒んで獄中で事件の全体像を記した日記を書いて後世に残したというようなくだりは「磯部主計」のものなので、複数の史実と完全なフィクションとが高倉健にごちゃ混ぜになって投影されている。この226事件の軸と、高倉健と吉永小百合のなんとも昭和なじれったいメロドラマとが絡み合うストーリーは、226事件の歴史的な重要性を考えるとおそらくは批判的な意見も多かったのだろう。実際この年のキネ旬ベストテンでは(1位がツィゴイネルワイゼンだが)本作は26位と評価が低い。
 農村の貧困とその反面での権力者や財閥への富の集中が事件の背景にあることをしつこく描いている一方で、この事件で私がずっと抱いている基本的な疑問「どうしてこの程度のシナリオでクーデターが成功すると考えていたのか」にはこの映画も答えてくれていないのはやっぱり残念。また、さすがの高倉健も「青年将校」にはちょっと厳しい年齢に差し掛かっていることも引っかかる。一方で今更ながら凄いなあと感心するのは吉永小百合で、映画前半の登場場面では20歳前後なのだろうが(10代かもしれないが)全く違和感なく、後半の実年齢相応の魅力も素晴らしかった。

キャメラを持った男たち

キャメラを持った男たち(2023年演出:井上実)2024年2月23日曳舟文化センター
 「2023年キネマ旬報ベストテン」で「文化映画第一位」となった本作を私は見逃していたのだが、キネ旬ベストテン特集号の巻末案内で近所で無料上映が行われることを知って見に行った。。。のだが上映環境としては悲惨で残念なものだった。。。無料なのであんまり文句も言えないんだけど。。。曳舟文化センターは1階の大ホールには娘のピアノ発表会を初めとして何度か訪れたことはあるのだがこの上映は「2階レクリエーションホール」で行われ「墨田区耐震化推進協議会」が主催する「すみだ耐震化フォーラム2024」というイベントの中の一部分。イベント冒頭には区長と区議会議長の挨拶があり、映画の後には「建物の耐震事例紹介」が行われるのはよいとしても、イベント中は映画上映中を含めて遮音されておらず間仕切りだけのホールの後ろ側で「たてもの無料相談(相談された方には粗品進呈)」が行われていて相談の話し声が気になるし、上映の画質も音質もクリアーではなかったし、座席とスクリーンの位置の配慮もあんまりされていないので前の人の頭でスクリーンの一部が必ずさえぎられる、というもの。作品のHP https://kirokueiga-hozon.jp/movie/camera/#section-top を見ると、都内の劇場公開は2023年8月26日からポレポレ東中野で行われていたようなのでここで見のがしたのがいけなかったところである。
 でもまあ、映画の全体像はつかめたので内容に話を戻して...本作の製作は一般社団法人記録映画保存センターによるもの。尺としては81分。関東大震災100年に合わせたアーカイブフィルムの発掘がベースとなっているのは、2023年9月2-3日に前後編で放映されたものを私自身も興味深く見たNHKスペシャル「映像記録 関東大震災~帝都壊滅の三日間~」と共通していた。NHKスペシャルは「AIによるカラー彩色化」と「研究者によるアーカイブフィルムの場所の特定」が特徴となったまとめられ方であったが、本作でも「研究者によるアーカイブフィルムの場所の特定」はNHKと完全に重複して取り上げられていた。本作のNHKにない特徴としては、関東大震災直後には数多くのニュース映画が上映されたのだがその中でも撮影者が明確である3人~岩岡巽(1893–1955)、高坂利光(1904–1968)、白井茂(1899–1984)に特にフォーカスをあてて、子供や孫なとからのインタビュー映像を交えて当時のキャメラマンの状況を明らかにするものだった。関東大震災も(東京大空襲もだか)今住んでいる地域のまさにその場所の話なので、どのような仕掛けであったとしても、新たな視点で当時の出来事を伝えてくれることはすごく響く。本作で気になったのは、震災の慰霊祭の映像(2022年のものかな?)においては在日朝鮮人に関してスポットが微妙にあたっていながらそこを全く突っ込んでくれなかったことに違和感を感じたことなのだが自主規制が働いているのだろうか。。。

西鶴一代女★

西鶴一代女(1952年溝口健二)2024年2月17日神保町シアター

 特集上映『女優魂・忘れられない「この1本」』から。溝口健二(1898-1956)の晩年の傑作群の中で53歳時の作品である本作はこれまで見逃していたこともあって見に行く。白黒、デジタル修復版、137分。脚本:依田義賢、監督・構成:溝口というクレジットで、表面的なエピソードの多くは原作の井原西鶴の「好色一代女」から取られているものの、人物描写的な部分ではかなりの脚色が加えられているように思われる。。。というか表現的には全く「好色」というような要素は感じられず、時代的な制約や父親が決めてしまったことに振り回され続けつつ、その中で気丈に生き続ける女性を10代前半くらいから50代過ぎくらいまでを描くもの。主演を演じるのは公開時42歳となる田中絹代(1909-1977)ということで、正直なところ、10代のやたらとモテモテとなる状況にはちょっと微妙なものも感じなくもなかったが、中盤以降の汚れ役でのたたずまいの中にかすかに残る魅力には改めてひきつけらるものがあった。

ボーはおそれている★

ボーはおそれている(2023年アリ・アスター)2024年2月16日 TOHOシネマズ錦糸町楽天地
 アリ・アスターの「ミッドサマー」に続く長編三作品目。179分。暴力場面も性的なシーンもあるためかR15+指定。公開日に見に行く。公式HPは以下 https://happinet-phantom.com/beau/
 現実と空想と悪夢とが最初から最後まで混ぜこぜにされ、意外な展開を繰り返しながら、期待と予想を裏切るラストに到達する作品のため、ネタバレにつながるコメントは特に控えるが、母による息子への強い支配が中心軸にありつつ、母も息子もその周りにいる人たちも全員が歪んでいる。。。のかもしれないし息子の空想が歪めさせているだけなのかもしれないしよくわからない。。。わかるようにも作られていないのだが、丁寧なつくりでやりすぎブラックコメディ映画として笑えて楽しめると共に、人間や社会の危うさや怖さも伝わってきた。

風よ あらしよ 劇場版

風よ あらしよ 劇場版(2024年 演出:柳川強)2024年2月15日 菊川・ストレンジャー

 2022年にNHK-BSで放映されたテレビドラマの127分劇場版(監督のクレジットがない)2月9日に公開された。テレビ版は気が付かなくて見ておらず劇場版とテレビ版の違いはよくわからないのだが、公開情報からするとエンディングのテーマ音楽が劇場版で新規に追加されたくらいみたい。原作は2020年に刊行された村山由佳の、伊藤野枝(1895-1923)を主人公とした同名の評伝小説。取り上げられるエピソードは、私が過去読んだ本とか映画(吉田喜重の監督作品「エロス+虐殺」1970年公開)とかで知る範囲内のものばかりで特に新ネタはなかった。野枝について知られている有名な史実を、17歳で福岡での最初の結婚~東京での平塚らいてうとの出会いと辻潤との二回目の結婚と二児の出産と離別~大杉栄を巡る四角関係と日蔭茶屋事件を経て大杉との生活に入り五人の子供を設けた中で関東大震災直後に憲兵の甘粕大尉によって大杉と共に殺害~というような代表的なトピックを中心に28歳の生涯を終えるまで、10数年間(大正元年から大正12年まで)を描いているもの。主演の吉高由里子のキャラクターもあってストーリーの割にはドロドロした要素が少なくすんなり見れてしまったのが良し悪しというところ。

ROLLING STONE ブライアン・ジョーンズの生と死

ROLLING STONE ブライアン・ジョーンズの生と死(2020年ダニー・ガルシア)2024年2月12日新宿K'sシネマ

 2024年1月27日に国内公開となった、ローリング・ストーンズの結成メンバーで初期においてはリーダー格だった1969年に27歳で亡くなったブライアン・ジョーンズのドキュメンタリー映画 https://www.curiouscope.co.jp/brian/ 。原題は Rolling Stone: Life and Death of Brian Jones。98分。
 私自身には特段ブライアン・ジョーンズへの思い入れはないのだが、近年見たジャン=リュック・ゴダールの1968年製作公開映画「ワン・プラス・ワン」におけるストーンズの「ベガーズ・バンケット」のレコーディング風景におけるブライアン・ジョーンズのバンドにおける不思議な扱いに興味を持っていたこともあって、見に行った次第。映画としては、ブライアン在籍時のストーンズのアーカイブ映像、当時のブライアンを知る人達への最近のインタビュー(ただしストーンズのメンバーは不在)、そしてブライアン自身や関係者の当時の発言などの紹介ナレーションなどで構成。次々と垂れ流される情報を観客が読み解くしかない感じで進行していく。ざっくり整理すると、1962年に結成されたストーンズというバンドは元々ロックンロール志向が強いミック・ジャガー&キース・リチャードのコンビと、リズム&ブルース志向が強くスライドギターの名手でありながらシタールなどギター以外の楽器を積極的に導入する反面でオリジナル曲作りにはあまり興味がなかったが自身ではバンドリーダーである意識が強かったブライアンとの微妙なバランスの中で初期の活動が行われていき、ミック&キースが次第にオリジナル曲作りにおいてもキャッチーなソングライティングチームとしても開花してバンド内での存在感を増してブライアンはこれに合わせてドラッグとアルコールに依存しバンドに関われなくなったことから1969年にブライアンは他のメンバーから解雇され(公式発表としては脱退)、その直後に亡くなることになる。
 映画後半部分は自宅プールでの死の真相~ドラッグとアルコールによる自ら招いた事故死というような形で処理されたが実際には自宅の修復を担当していた住み込みの建築家への解雇トラブルによるケンカの上の殺人という可能性が高い/しかし当局はドラッグが身の破滅を招くと世間に示したかったので殺人事件としての捜査を行わなかった~という証拠資料やインタビューを念入りに示していたことが印象的だった。その反面で、ブライアンの音楽的なユニークさや人間的な魅力みたいなものは今一つ私にはつかみきれずにモヤモヤ感は残ってしまった。

イディオッツ

イディオッツ(1998年ラース・フォン・トリアー)2024年2月10日早稲田松竹
 昨年のトリアー旧作特集上映で見逃していた作品の二番館上映を見る。114分、R18+相当。トリアーらがデンマークの映画運動として1995年に提唱した、スタジオでのセット撮影の禁止やカメラは手持ち限定というような、映画製作において様々な制約を課す「ドグマ95」に沿って作られたもの  http://www.dogme95.dk/idioterne/。ということもあって、私がこれまで見たトリアー作品の中でも最もエンタメ的要素は少ない気がした。ストーリー的には、知的障がい者を装って周囲を欺きながらコミューン的な共同生活を送る男女の集団を、前述の通りの制約もあり、ドキュメンタリー的なタッチで描いていく。。。というようなことになるのだろうか。キワドイ題材は新鮮なのだが、人物個々がこの活動を行うようになった背景などはラストに1人だけちょこっと描かれるだけであり、劇中ではほとんど説明がなく、観客としては納得いかないまま不愉快なエピソードを延々見せられている中で、集団のリーダー格の男性が段々精神を病んでいき集団が壊れかける途中で話が終わってしまって、見る側としてはさんざん揺さぶられたあげくにいろいろモヤモヤが残る不快感もトリアー作品らしいと言えば言えるか。トリアー自身が精神状態的に境界線にあることを自分の武器にして映画を作っているのだろう。唯一無二かつ私自身にとっても見逃せない存在であることを改めて評価できた作品。

鬼畜

鬼畜(1978年野村芳太郎)2024年2月9日 神保町シアター

 特集上映『女優魂・忘れられない「この1本」』から。松本清張が検事から聞いた実話を基にした1957年発表の短編小説が原作となり、井出雅人脚本による独自のストーリーがかなり付加されている。緒形拳(※公開時41歳)が演じる主人公は川越市で小さな印刷屋を妻(岩下志麻※37歳)と開いているがが、火事に見舞われたことと周りの印刷屋が大規模化してお得意先を取られて苦しい経営状態にある中、三人の子供を抱えた愛人の小川真由美(※38歳)が手当がもらえなくなったことから緒方と岩下が住む印刷所に押し掛けてきて三人の子供を押し付けて自分は去ってしまう。岩下は他人の子供の面倒を見るつもりはなく、1歳の子供は衰弱死し、3歳の子供は緒方が東京タワーに置き去りにし、最後に緒方は6歳の子供と新幹線に乗って北陸地方を旅しながら、能登半島に行きつく。。。というようなストーリー。公開時リアルタイムでは見ておらず、今回全く初めて見たわけだが、1957年でも1978年でも今現在でも社会全体としてセイフティーネットのない(公助が徹底的に後回しの)日本社会の危うさというものにしみじみしてしまう。にしても、岩下志麻を妻として小川真由美が愛人というのはなんとも大変としか言いようがないけど。元ネタの実話は西伊豆がエンディングらしいが、本作では「ゼロの焦点」同様に能登半島(能登金剛・現在の住所だと地震でなにかと話題の原発のある志賀町に位置します)に辿りつくのが、(地震でこの断崖風景がどうなってしまったのかが気になってしまい)見ていて複雑な気持ちになった。

女囚さそり701号怨み節

女囚さそり701号怨み節(1973年長谷部安春)2024年2月8日 神保町シアター 
 『女優魂・忘れられない「この1本」』とのタイトルが付いた特集上映から。映画館でもビデオでも見ていなかった作品を見る。梶芽衣子の代表作である「女囚さそり」(1972年~)シリーズの四作目で梶主演ものとしては最終作となる。このシリーズの監督は三作までが伊藤俊也で本作のみが長谷部。前作の撮影前に梶がスタッフの交替を出演条件としたとのことで(それでも三作目は伊藤監督作品として完成し1973年7月に公開)梶と東映との関係が微妙なものとなったとのことで、本作前に東宝で梶主演の「修羅雪姫」(監督:藤田敏八)が撮影され1973年12月1日に公開、その後本作が撮影され1973年12月29日に公開、という、当時26歳の梶には密度の濃い年となっている。
 本作では(観客が過去シリーズを見ていることを前提としているようで)主人公の松島ナミ(通称さそり)が何故警察関係者を多数殺害した死刑囚なのかというような背景的な説明は省略され、護送中の逃走~潜伏~捕まって刑務所~脱獄。。。といった反権力暴力闘争にフォーカスしたストーリー展開。ナミをかくまって一時的に恋人関係となるのが元革命闘争に参加し公安による拷問で仲間を裏切ることになったことをトラウマとしている田村正和なのだが、警察組織の細川俊之と合わせて、サブキャラの描き方が単純すぎるのが映画全体としての難点とも言えるが、主役の梶の魅力にひたすらフォーカスをあてる演出はこれはこれでありかも、と納得させるだけのものはあった。

八つ墓村

八つ墓村(1977年野村芳太郎)2024年2月6日池袋・新文芸座

 橋本忍脚本特集から。1976年の「犬神家の一族」(角川春樹製作・横溝正史原作・市川崑監督・石坂浩二主演・東宝配給)のヒットで、同じフォーメーションで1977年には「悪魔の手毬歌」「獄門島」も公開されるが、横溝の「八つ墓村」については映画化権が松竹をそれ以前から所有していたということで、野村芳太郎監督・橋本忍脚本、主演の金田一耕助を演じるのは横溝からのリクエストもあって公開時48歳の渥美清、と、市川/石坂の金田一ものとは風合いの異なる作品となっている。151分。
 岡山県の山奥に巨大な山林を有する名家にまつわる過去と現在に発生する連続殺人事件に巻き込まれてしまうストーリー上では主人公となるのが公開時27歳※の萩原健一で、これに絡むのが40歳の山崎努、37歳の小川真由美、35歳の山本陽子、27歳の中野良子、40歳の市原悦子などの、濃厚濃密な演技と、渥美の淡々としたたたずまいが程よく進行する。。。のだが、長尺の割には、最終的に殺人犯が明らかになる段階で、いろんな疑問が残されたまま(オカルト怨霊ものの要素を強めるためにあえて現実的な謎解きは控え目にしたのかもしれないが)なのはちょっと消化不良感は残った。個人的な思いとしては10代の頃から、テレビドラマなどでも、中野良子への素直な好感(憧れ)と小川真由美への妖艶さへのタジロギをずっと感じていたのだが、本作でも同じ思いを再確認した次第。

ストップ・メイキング・センス★

ストップ・メイキング・センス★(1984年ジョナサン・デミ)2024年2月3日TOHOシネマズ日比谷

 4Kレストア版が2月2日に日本上映封切となったので見に行く https://gaga.ne.jp/stopmakingsense/。TALKING HEADSの1983年12月のライヴ映像映画、89分。私自身にとってのリアルタイムでのトーキング・ヘッズは、ブライアン・イーノがアルバムプロデュースを担当していた時代のものを「Remain in Light (1980)」など何作か聴いたが(振り返るとたぶん当時の私はファンク~ソウル的なものが苦手だったのでそのためか)継続して聴き続けるには至らず。本映画公開時は関心を失っていて映画館でもビデオでも未見、今回が完全な初見ということになる。が、今見ると、本作についてはゴメンナサイの傑作だった。映画館で見た音楽ものとしては史上ベスト作品かもしれない。
 前掲HP掲載の基本情報を(自分のために)要約しておくと、1973年にロードアイランドのアートスクールで出会ったデイヴィッド・バーン、ティナ・ウェイマス、クリス・フランツがバンド活動をはじめ、1974年にニューヨークでトリオ編成でのトーキング・ヘッズを結成。1977年にジェリー・ハリスンを加えた四人編成となり1stアルバムをリリース。1980年の4th「Remain in Light」以降はサポートメンバーを加えた大所帯となっていく。。。以下個人コメントに戻るが「Remain in Light」ではスタジオでもライヴでもサポートにエイドリアン・ブリューも加わっていてYouTubeにアップされていた当時のライヴ映像を見るとほとんどディシプリン・クリムゾンの先駆(もしくはそのまんま)のような楽曲もあったりする(アフリカンリズムの扱いがこっちの方がより真っ当でありより大人数でパワフルでクリムゾンよりカッコ良いかも)。本作ライヴ時期はディシプリン・クリムゾン以降なのでブリューの参加はないわけだが、サポートメンバーとしては、パーカッション、キーボード、ギター、女性コーラス×2を加えた、計9人編成となっている。
 ステージはラジカセのカセットテープ再生によるリズムトラックをバックとしたバーンのアコギ弾き語り(サイコ・キラー)から始まり、次の曲ではティナのベースのみが加わったデュオ・チェンバー編成、と1曲つづメンバーが増えていくステージ演出。中盤以降はフル編成でのバーンのシアトリカルなパフォーマンスと器楽&コーラスの全力疾走が続き、後半には1曲だけバーンがお休みの「トム・トム・クラブの時間」を挟んで、ラストまでの全力疾走に戻る。メンバーのインタビューとかバックステージ映像とかは皆無でノンストップでのライヴ映像に絞った89分で構成されているのだが全く飽きることなく圧倒される。病的なフォーク・ポップが根っこにあって、パンク~ニュー・ウェイヴを通過した後に、上物にアフリカンポリリズムとベストヒットUSA的なアメリカンロックの不思議な交差が乗っかっている、と言う構造は、今現在向かい合ってみて素直に楽しめたし、圧倒された。

哀れなるものたち

哀れなるものたち(2023年ヨルゴス・ランティモス)2024年1月30日TOHOシネマズ錦糸町オリナス

 1月26日国内公開の作品。141分、R18+。原題は「Poor Things」。予告編を何回か見た範囲では当初は特に関心を覚えなかったのだが、公開開始後にR18+指定になっていることに気づいて「あの雰囲気でR18+っていうのはよくわからないなあ」ということで興味を持ったもの。https://www.searchlightpictures.jp/movies/poorthings ちなみに映倫のHPにあった本作に関するコメントをそのまま引用すると『ビクトリア朝時代の英国を舞台に、夫の虐待から逃れたい一心で入水自殺を図るが、エキセントリックな天才科学者によって蘇生され、身ごもっていた子の脳を移植された若き女性ベラ・バクスターの物語。ドラマ。極めて刺激の強い性愛描写がみられ、標記区分に指定します。』とのことです。(ラストの文はR18+指定映画のテンプレートですね)
 冒頭部はバクスター博士の家で進行し映像はモノクロ。ベラは成人女性の肉体に胎児の脳が移植されてまだそんなに期間が経っていない状態なので排泄もフロアに垂れ流し状態となる。博士の助手としてベラの観察日記をつけるために雇われたマックスと婚約するものの、家に縛られていることに耐えられず弁護士のダンカンと駆け落ちし、リスボンで性的な快楽に溺れるが、クルーズ船で本を読みふけったり寄港したアレクサンドリアで貧しい人の存在を知ったり、パリで無一文になってダンカンと別れて娼館で働いた末、博士が危篤だという知らせをマックスから受けてロンドンに帰りラストまでいろいろ急展開する。。。というようなストーリー。外に出ると映像は急にカラーに変わり、何故か街中では都市交通としてケーブルカーが行きかっているという不思議な映像。音楽は終始歪んだ不協和音。。。善悪の概念を揺さぶられるダークファンタジーということになるのかな。好みとしては好きな部類なんだけど、確信犯的に過度な性的描写についてはちょっと苦手かも。これだけねじれたテイストの本作がアカデミー賞11部門にノミネートされている(オッペンハイマーの13部門に続くノミネート数)ことにはちょっと驚き。

ノスタルジア

ノスタルジア(1983年アンドレイ・タルコフスキー)2024年1月26日Bunkamuraル・シネマ渋谷宮下
 私としては封切り時に見て以来40年ぶりに見る。126分。この日が日本での劇場初公開になるらしい4K修復版での上映は陰影が多くなるタルコフスキーの後期作品群ではありがたい。タルコフスキーが初めてソ連の国外で製作した作品(イタリア=ソ連合作となってはいる)。モスクワから来た詩人と通訳が、18世紀の音楽家で一時期イタリアを放浪した後ロシアに帰国した音楽家の足跡を辿る旅の途中の古い温泉地で世界の終末の訪れを信じる男と出会うというような流れでセリフはイタリア語とロシア語が入り混じる。撮影はイタリアで行われたということだが廃墟的な場所も多く、水とか犬とかの印象的な素材を含めて、全体的な雰囲気は前作の「ストーカー」(1979)とそんなには変わらない。通訳がやけに艶っぽい女性で主要登場人物で唯一世俗的な発言をしてくれたりするあたりは大きな変化点ではあるが、それ以外の会話やつぶやきはほとんど哲学的な妄想だったりなので、ストーリー展開を理解することはあきらめて、光と闇ともやが交錯する映像に身を委ねることを軸にしていくと、まあまあ場面も展開してくれて、納得できるような納まり方で終わる。「絵画的な映像美」という観点では高く評価。次作&遺作の「サクリファイス」(1986)も4K修復されたらすぐ見ます。

怪盗ジゴマ音楽編★/怪盗ルビイ

怪盗ジゴマ音楽編★/怪盗ルビイ(1988年和田誠)2024年1月27日国立映画アーカイブ

 昨年末から3月24日まで国立映画アーカイブ展示室の企画展では「和田誠 映画の仕事」をやっているが、その連動企画ということだろうか、「NFAJコレクション冬」のプログラムの中に和田誠の監督作品作品が含まれていて(監督長編デビュー作の「麻雀放浪記」は見ているので)これまで全く見ていないこっちのプログラムに足を運ぶこととした。掲題2作品は封切り時にも同時上映されたらしい。
 「怪盗ジゴマ 音楽編(22分)」はミュージカルアニメーション。脚本寺山修司、劇中歌の作詞も寺山で作曲が和田、音楽としてクレジットされているのは八木正生。主役?の怪盗ジゴマの声を担当するのは斎藤晴彦で、怪盗ジゴマから歌を盗まれるヒロイン役の声と歌を担当するのは由紀さおり。。。と、1983年に没している寺山が脚本クレジットとなっているのがそもそも年代的に合わないが、寺山の戯曲に和田が音楽を付けてアニメ映画化した、ということになるのだろう。というわけで、年代的には平成10年の作品なのだが、私的には完全な昭和30~40年代(1960~70年代)ノスタルジア~シャボン玉ホリデー、ゲバゲバ90分、みんなのうた~みたいな要素のエッセンスを和田誠イラストワールドに引きこんだ凄い短編アニメの傑作。なお、元々「ジゴマ」は、フランスで1909年に刊行された小説で1911年に映画化され、大正初期(1912年~)の日本でも大ブームになり、月光仮面や江戸川乱歩の少年探偵団にもそのエッセンスが引き継がれている。。。というのは映画の後で調べた話です。
 と、前座が素晴らしすぎたので、本編のコメディ「怪盗ルビイ(96分)」は割りを喰ってしまったかも。こっちの原作も海外小説となっているが、和田誠脚本は主人公を男から女性に変えるなどの大幅な変更を加えているらしい。脚本執筆時は大竹しのぶ:主人公、相棒役:野々村真、だったらしいのだが、最終的には小泉今日子と真田広之に変更されている。実写となるといろいろとリアリティのなさすぎる設定の連続にいろいろと引っかかり続けてしまったが(私自身当時も今も小泉今日子には特別な思い入れはないけど)公開時21歳の小泉今日子なのでなにをやっても納得させられてしまうことは確かではあるかな。

キラーズ・オブ・ザ・フラワームーン★

キラーズ・オブ・ザ・フラワームーン(2023年マーティン・スコセッシ)2024年1月25日早稲田松竹
 スコセッシ上映特集からの続き。2023年10月に公開された新作 https://kotfm-movie.jp/ だが、見逃してしまっていたもの。206分、殺人のシーンが多く出てくることもあってかPG12。
 原作は2017年刊行のデヴィッド・グラン著によるノンフィクション「Killers of the Flower Moon: The Osage Murders and the Birth of the FBI」で国内では2018年に「花殺し月の殺人──インディアン連続怪死事件とFBIの誕生」のタイトルで刊行されている。早川書房のサイトに掲載されているこの書籍 https://www.hayakawa-online.co.jp/shopdetail/000000013884/ のあらすじをそのまま引用すると『1920年代、禁酒法時代のアメリカ南部オクラホマ州。先住民オセージ族が「花殺しの月の頃」と呼ぶ5月のある夜に起きた2件の殺人。それは、オセージ族とその関係者20数人が、相次いで不審死を遂げる連続殺人事件の幕開けだった――。私立探偵や地元当局が解決に手をこまねくなか、のちのFBI長官J・エドガー・フーヴァーは、テキサス・レンジャー出身の特別捜査官トム・ホワイトに命じ、現地で捜査に当たらせるが、解明は困難を極める。石油利権と人種差別が複雑に絡みあう大がかりな陰謀の真相は? 米国史の最暗部に迫り、主要メディアで絶賛された犯罪ノンフィクション。』というもの。
 脚本をエリック・ロスとスコセッシが共同で担当している映画でもこのストーリーに沿って展開されるが、いくつかのネット情報によると、原作本では捜査官のトム・ホワイトが主人公格だったのが、映画では実際の事件に関わった三人を中心として描かれているという視点の変更が行われたということのようだ。映画での主人公はレオナルド・ディカプリオが演じるが、第一次世界大戦からアメリカに帰還し、特に仕事のあてもないということで、オクラホマ州で牧場を経営する地域の有力者である叔父(ロバート・デ・ニーロ)の家を訪ねるところからが始まる。この地域では先住民のオセージ族が、アメリカ開拓(彼らにとっては侵略)で元の居住地から荒野に追い立てられて生活していた場所で大規模な油田が見つかり油田の利権を得て金銭的には豊かになるものの、差別的な待遇を受け、かつその利権保有者が次々と怪死を遂げ、利権が徐々に白人側に移ろうとしている。その中で叔父から利権者の先住民女性へのアプローチを指示された主人公はその意に沿って女性(リリー・グラッドストーン)に近づき、双方共にある程度素直な恋愛感情を持って結婚する。。。というところまでが導入部。その後も続く殺人、告発、裁判、主人公と妻と叔父との関係の複雑さを丁寧に描いている。この三人のキャラ設定と奥行のある演技がなかながに凄い。
 第一次世界大戦後の1920年代というと現代にかなり近いような先入観をなんとなく持ってしまうのだが、いわゆる主要先進国はどの国もいろんな歪みを抱えながら国力・権力・軍事力を高めていった時代なのだろう、ということを、日本の福田村事件もそうだが、ほぼ同時期の本作も、歴史の暗部として、知られていないことはあまりにも多いのだと気づかされる。本作中にちょっとだけ登場するKKKはこの時代のエピソードとしては広く知られていても、先住民に対する大量の組織的な殺害がこの時代にほぼ同時に起きていたという知られざる深刻な史実がハリウッドでちゃんと映画化されそこそこヒットする(たぶん3月のアカデミー賞でもいくつかの受賞もあるだろう)というあたりに、やっぱり見過ごせないアメリカの良心みたいなものも感じる。にしても、本作におけるアメリカの事例は地域ぐるみの隠ぺい連続殺人を連邦政府(FBI)が暴いてくれたわけだが、日本の1920年代以降終戦までは国家一体総動員の闇なわけで日本は同時期に関しても連続している現在に関してもより問題は深刻なのかも。

グッドフェローズ

グッドフェローズ(1990年マーティン・スコセッシ)2024年1月22日早稲田松竹
 1週間のスコセッシ作品特集三作品上映の中から、これまで未見の作品を見る。145分、暴力&殺人シーンも多いためかR15+。1955年から1980年までニューヨーク・マフィアで活動していた実在の人物に関するノンフィクション作品が原作で、映画脚本クレジットは原作者のニコラス・ピレッジとスコセッシの共同名義となっている。子供の頃からマフィアにあこがれていた少年が11歳の時からアルバイトでマフィアの使い走りとなり、次第に大がかりな現金強奪などにも関与するようになるが、ここまではどちらかというと兄貴分格のリーダーの指示に従ったグループの下っ端(運転手役)みたいな役回り。とは言え、ボスや兄貴分からはそこそこ可愛がられている。そこから欲が出て地域のマフィアのボスから厳しく禁じられていた麻薬取引に独自で手を染めたあげく当局に逮捕されてしまい、マフィア組織からから自身の身を守るため、司法取引でかつての仲間を裏切る証言を法廷で行うに至る、というようなストーリー。同じマフィア映画で、組織内での殺し合い場面が多いことでも共通するゴッドファーザーとは真逆の視点になっていることが新鮮だし、主人公、その妻、愛人、ボス、兄貴分、それぞれのキャラクターがしっかり描き込まれていて、2時間半の長尺作品だが密度高く、マフィア映画の名作として名高いことも納得。描かれている年代にかなり沿っている当時のヒット曲でつづられる音楽も印象的だが、静かな生活を送らざるを得なくなったラストの後のエンドロールの最初で音楽がシド・ヴィシャス(マイ・ウェイ)になったのが意外性がありつつ納得の選曲だとも感じて絶妙だった。

奇跡の海★

奇跡の海(1996年ラース・フォン・トリアー)2024年1月16日池袋・新文芸座
 トリアー特集上映からの続き。本作もこれまで私としては未見。4Kデジタル修復版、158分、性的な場面の表現方法故と思われるがR15相当。原題は「BREAKING THE WAVES」。邦題は内容的な印象からすると、ちょっと違っているような気もする。旧作特集上映 https://synca.jp/LvT_Films/retrospective/#modal サイトに記載されていたあらすじをそのまま引用すると『1970年代初頭、プロテスタント信仰の厚い無垢な女性ベスは、油田で働くよそ者のヤンと結婚する。遠く離れた油田へ仕事に行ったヤンの帰りが待ちきれず、彼が早く戻ることを神に願うが、その願いは思わぬかたちで叶えられる…。』となる。
 見終わった結論的な感想から言うと、これまで見たトリアー作品の中ではベスト。トリアー特有の悪意に満ちた視点から、恋愛、家族、宗教、女性問題などが微妙にねじ曲がりつつもそこそこ本質を捉えて描かれており、登場人物のわかりやすいキャラクター設定もあって見るものにザワザワした感じはなんどもしつこくストレートに伝わってくる。冒頭から最後まで、主役のエミリー・ワトソンによる、精神的に不安定な女性を視線の不安定さを軸にした見事な演技に圧倒される。また、劇中のラジオで流れたり章立ての各章冒頭タイトルバックに流れたりするBGMが、Tレックス/デヴィッド・ボウイ/プロコル・ハルム/ディープ・パープル/ロキシー・ミュージックなどの1960年代後半から1970年代前半のブリティッシュロックの渋い選曲だったのも印象的だった。私よりもトリアーは5歳年上でもあるので、トリアー本人が中学高校生くらいの時に好きだった音楽なのかな。
 なお、昨年2023年から、特に印象に残った作品についてはタイトルに★を付けて識別していましたが、本2024年も継続することにしました。本作が今年最初の★です。感覚的には「年間ベスト10入り」レベルのものを対象とします。

ヨーロッパ

ヨーロッパ(1991年ラース・フォン・トリアー)2024年1月15日池袋・新文芸座
 昨年7月のトリアー監督作品の旧作特集上映 https://synca.jp/LvT_Films/retrospective/#modal では、私が未見の全作品までは見ることができなかったのだが、その後も一部作品は二番館的な再上映がなされており、見逃していた初期作品~長編作品としては三作目~を見に行く。107分、場面場面でモノクロとカラーがころころ入れ替わる(はっきりとした入れ替わりの法則性とかあるのかどうか見破れなかったがより感情的な場面ではカラー化される傾向が強いような印象)、上記HPの作品紹介では”PG-12相当”とされていたのだが、あからさまな暴力もしくは性行為的な場面はないものの、自殺場面とかの描写がしつこかったりしたのでそのためかな。
 舞台は1945年第二次世界大戦敗戦直後のドイツ。父親がドイツ出身のアメリカ人青年が主人公。ドイツの復興に貢献したいと叔父が勤務している鉄道会社で夜行列車の車掌の見習い研修業務を始めるのがオープニング。鉄道会社の社長やその娘、占領軍であるアメリカ軍、アメリカ占領軍に対するドイツの抵抗勢力(字幕上は”人狼”と翻訳されていた)がそれぞれ主人公を利用しようとする中、社長の娘との恋愛も絡めて展開していくストーリー。
 「人狼」について知識がなかったので映画の後でウィキペディアで確認してみると、第二次世界大戦末期にナチス親衛隊関連で組織された連合国側に対抗するゲリラ部隊(ヴェアヴォルフ)。史実としては1945年のドイツは4月末にヒトラーが自殺し、5月に正式な降伏文書への署名が行われ、6月から占領行政が開始された中で、ヴェアヴォルフはナチスが解体された後も何か月かは活動を継続していて1945年末頃に活動がほぼ無力化された、とのことだ。映画のテーマとしては扱いづらいで時代背景のような気もするが、トリアーの暗くねじれつつも奇妙なお笑い感覚も時折挟み込んでくる彼らしい世界観にはがっちりハマっていた。デビュー作の「エレメントオブクライム」もそうだったが全編トーンが暗いので、映画館で見ることは必須だったとも感じた。

緑の光線

緑の光線(1986年エリック・ロメール)2024年1月13日北千住・シネマブルースタジオ

 シネマブルースタジオでここ数か月続いているロメールの連続上映から見る。たぶんロメール作品は1980年代以降その存在はリアルタイムでは知っていたが、なんとなく自分の好みからは外れるような先入観で接する機会がなかった。少なくとも本作は全く初めて見る。98分。パリの事務所で秘書をしている女性が最近恋人と別れたばかりでこれからの長いバカンスを一人で過ごしたくないということで、フランスの海や山を女性の友人と一緒だったり一人だったりで訪れては行く先々でナンパされるものの拒絶を繰り返しながら(でも周囲のいろんな人と噛み合わない会話は続けたいらしい)孤独の深まりに涙を流す。。。というような、ややこしくめんどくさい女性の話が延々と続く話。全面的に共感はできないけど(当事者だったらあんまり関わりあいたくはない類)、多少はわからなくもない、という微妙な人物設定と、すれ違いの会話の面白さ、フランスの海や山の風景には単純に魅了される、という、あまり経験のない個性的な作風は新鮮だったので、見れて良かったかな。

殺人狂時代/斬る

殺人狂時代/斬る(1967/1968年岡本喜八)2024年1月12日池袋・新文芸座
 岡本喜八(1924-2005)生誕100年記念の特集上映から、私自身これまで全く見たことのなかった2作品を続けて2本見る。特に狙ったわけではないのだが、この2作品は代表作の一つであり私も既見の大作「日本のいちばん長い日(1967)」の前後に公開されたものだった。
 まず「殺人狂時代」(99分白黒)は当時東宝における興行の最低記録となったという作品。都筑道夫の原作小説を小川英・山崎忠昭の脚本で日活での映画化を予定されていたものを東宝が権利を買い取り、岡本が脚本に手を加えた(脚本クレジットは3者名義)ものとのこと。犯罪コメディですね。一応は現代劇。主役となるのはゲシュタボの残党であるブルッケンマイヤーに命を狙われている仲代達矢演じる犯罪心理学の大学講師、その敵役になるのが天本英世演じる入院患者を殺し屋として育てている精神病院の院長。ブルッケンマイヤーから仲代の殺害を依頼された天本は何人もの刺客を送り込むものの次々と返り討ちにあってしまい、最終的には仲代と天本の対決の場面を迎える。。。というようなストーリー展開。あまりにも進みすぎていたと思われる美術や音楽、カット割りのカッコよさ。また天本の存在感は私が子供の頃のテレビ(仮面ライダーでショッカーを率いた「死神博士」)でも認識していたが、本作での魅力はそれを上回って突き抜けていた。私が知る限りの天本出演作としての最高作品であった。
 続く「斬る」(1968年)は、山本周五郎原作の時代劇映画、114分白黒。三隅研次監督市川雷蔵主演の1962年の同名映画とは原作も異なっておりストーリー的にも全く異なる別もの。内容的には本作に関してはもちろん殺陣の場面もあるのだが、それ以外の要素の方が強い(銃で殺される場面も多い)ので、タイトルそのものが内容とあんまりあっていないような気もする。舞台は江戸時代中後期の上州、主演は2年前に侍を辞めたヤクザを演じる仲代達矢で、共演は侍にあこがれるバカ力の元百姓の高橋悦史で、この二人のコミカルの掛け合いが全編の軸になる。これに藩の家老暗殺を決行した若手藩士のリーダーが中村敦夫、次席家老の悪役が神山繁、神山によって幽閉される筆頭家老が東野英治郎、神山の傘下の浪人衆の親分が岸田森と、それぞれわかりやすい魅力的なキャラの脇役を絡めながら、藩内部の抗争が描かれていく。黒澤時代劇とはかなり共通するテーマを扱いながらトーンを大きく異にする、しかしエンタメとしての完成度の高い仕上がりだった。

春の画

春の画(2023年平田潤子)2024年1月9日シネスイッチ銀座
 2023年11月24日に公開されていた121分の春画をテーマにしたドキュメンタリー映画https://www.culture-pub.jp/harunoe/。私自身特別に春画に強い興味があるというわけではなかったのだが、全然知識もないし、劇場公開されたR18+指定のドキュメンタリー映画というのも聞いたことがなかったこともあり、封切館での上映が終わる前に見ておこうという気になったもの。
 内容的には多面的かつ丁寧なものだった。歌麿や北斎などの著名な浮世絵版画本や貴重な肉筆春画を無修正で取り上げつつその解説や本に添えられたセリフの音声付き(森山未来と吉田羊)アニメ化したものなどが軸。これに、国内海外の研究者や愛好家や春画に影響を受けた画家などへのインタビューや、現在に春画を復刻させる老舗の版元や制作職人(彫師・摺師)の取り組みなどが絡めて紹介される。時間軸としても、江戸時代中期の(なんとなくイメージしていた)典型的なものから、江戸時代末期のドロドロしたものまでの変化を実際の画で見せつつ、その歴史的な背景も丁寧に解説してくれており、ドキュメンタリー映画の構成として、飽きることなく見れて、良くできた作品だったとは感じた。自分としても、ポルノグラフィーでありながら絵画技術的にも版画技術的に際立った芸術性を有するユニークな江戸文化の一断面という新たな認識はしっかり得れたことは良かったかな。

こんにちわ、母さん

こんにちわ、母さん(2023年山田洋次)2024年1月8日菊川・ストレンジャー
 2023年9月公開作品https://movies.shochiku.co.jp/konnichiha-kasan/、封切時山田洋次91歳、主演の吉永小百合78歳。元々は永井愛により2001年に舞台公開された戯曲(クレジット上は原作扱い)が、山田洋次と朝原雄三により改変(クレジット上は脚本扱い)されたものらしい。110分。
 ストーリーは、ダブル主演的な大泉洋が演じる大企業(自動車メーカーっぽい)の人事部長が会社でのリストラ実行・妻との別居-離婚・大学生の一人娘の家出などで神経をすり減らして、久しぶりに母親が一人暮らしをしている向島の実家を訪ねると、娘が住み着いていて、母親はホームレスを支援するボランティア活動に熱心に取り組んでいて恋愛中でもある。。。というところから始まり、シリアスなこととかをそれなりに散りばめながら、隅田川の花火でまとめられて終わる。
 展開的に一番抵抗感を覚えたのはリストラを巡る人事部長の立場にある大泉洋のキレイごと過ぎる行動だった(私自身もそこそこの大企業で管理職でリストラの連続にさらされてその経験はトラウマ的になっているので)が、このあたりは制作側の確信犯なのだろう。また、ちょっと前に見たPERFECT DAYS同様に田中泯がホームレスとして映画中で象徴的な脇役として登場してくるのだがいくらなんでも短いスパンで重なりすぎではないかと引っかかった。とは言っても基本的には吉永小百合の持つ不思議なパワーで全部丸め込まれてしまったことも確かだし、ここで描写される向島の風景も映画として記録されていることも意味があるとは感じたので、見て良かったとは思う。

無防備都市

無防備都市(1945年ロベルト・ロッセリーニ)2024年1月6日京橋・国立映画アーカイブ
 年初1/5から2/4まで行われる国立映画アーカイブでの上映特集は、イタリア・ボローニャで1986年から行われている復元映画祭「チネマ・リトロバート映画祭」でこれまで上映された作品の中から25プログラムをセレクションするもの。その中から歴史的名作として名高いもののこれまで全く未見の作品を選んで見に行く。本作の公開は1945年9月27日、99分。
 冒頭、映画のキャプションで「本作はフィクションであり史実と一致する点があってもそれは偶然に過ぎない」という主旨の断りがあった。見始めてすぐに基本となる歴史前提を自分が理解していないことから最初のストーリー展開で混乱した。舞台が明らかにイタリアなのにどうしてナチスドイツが支配しているのか?というようなところからである。ヨーロッパにおける第二次世界大戦の史実では、イタリア視点の知識は自分には極めて薄かったことに気づかされたので、見た後で調べた情報を今更ながら再整理すると。。。第二次世界大戦でのイタリアの敗色が決定的になったのは1943年7月の米英軍によるシチリア上陸で程なくイタリアのファシズム大評議会でムッソリーニが解任されて代わりにバドリオが新政府の首班となり、1943年9月にバドリオ政府が連合国に無条件降伏するが、これと同時にドイツがローマを含む北イタリアに侵攻してドイツによって救出されたムッソリーニの下に傀儡政権が樹立するが、その後1944年6月に連合国軍によりローマが解放される。本作はローマ解放後に制作されたもので、1943年後半から1944年前半におけるローマでのナチスドイツとイタリアのレジスタンス勢力とその協力者とを巡るいくつかの史実を基に組み合わせて構成脚色されたフィクション映画、ということらしい。
 ナチスドイツが悪玉でレジスタンス側が善玉、という一応の括りではあるのだが、ナチス将校の中にも自己批判するものがいたり、レジスタンス側にも目先の利益のために密告があったり、誰もが期待するであろうハッピーエンドまで行きつかずに終わってしまうエンディングなど、意外性に富んだストーリー展開が見事だった。

アラビアのロレンス

アラビアのロレンス(1962年デヴィッド・リーン)2024年1月5日池袋・新文芸座

 大昔にテレビ放映では見たことはあるが、映画館のスクリーンで見ることが必須の作品だとは当時から感じていたもののなかなか機会がなく、パレスチナ問題への今更ながらの興味の高まりとかもあり、新文芸座の新春特別上映企画の1本に含まれていたことを発見して初めて見ることに。上映されたのは1962年の207分オリジナル版に対して、再編集&一部音声の追加収録を行った1988年の227分完全版(途中休憩あり)のさらに4Kレストア版。オープニングをはじめとして、テーマ音楽だけが映像のない状態で数分間の間流れた場面が何度かあって、最初は映写トラブルがあったのかと勘繰ったのだが、後で調べたらこの当時の大作映画では珍しくない手法、ということを初めて知った。
 実在の人物であるイギリス軍人のトーマス・エドワード・ロレンス(1888-1935)が1926年に発表した著書に基づいた歴史大作。映画上で中心的に描かれるのは1916年から1918年の間、ロレンスがイギリスの軍と外務省の命を受けてオスマン帝国に対するアラブの諸勢力の状況把握のためアラビア半島の砂漠内に派遣されるところから始まり、互いにけん制し合っている諸勢力を束ねる存在となってオスマン帝国の支配拠点を次々と攻略し、重要地ダマスカスをイギリス陸軍と共に占領した後、イギリスに帰国するまでとなっている。砂漠での移動シーンの美しさと過酷さ、戦闘シーンのスケールの壮大さも、映画館のスクリーンでの説得力の強さは期待値以上だったが、やっぱりそれ以上に印象的だったのは(史実に沿った部分と極端に強調された部分とがあるのだろうが)強靭さと脆弱さが交互に現れてくるような複雑怪奇なロレンスの精神的な変化をピーター・オトゥールが見事に表現していることだった。

火だるま槐多よ

火だるま槐多よ(2023年佐藤寿保)2024年1月4日新宿・K'Sシネマ

 今年は元旦から実家(石川県七尾市)のある能登半島の地震で落ち着かないが、実家に一人暮らしの父親は元気との連絡が様子を見に行ってくれた金沢在住の妹からあり(ただし断水は続いている)私には現実何もできないこともあって割り切って日常生活を送ることにする。今年初めて見る映画は昨年12月23日に封切られていた佐藤寿保 (さとう・ひさやす)の新作。102分。ピンク四天王として知られるが、本作は一般映画扱いの様子。
 HP https://hidarumakaitayo.com/ 記載のあらすじをそのまま引用すると以下。
『大正時代の画家・村山槐多の「尿する裸僧」という絵画に魅入られた法月薊(のりづき・あざみ)が、街頭で道行く人々に「村山槐多を知っていますか?」とインタビューしていると、「私がカイタだ」と答える謎の男に出会う。その男、槌宮朔(つちみや・さく)は、特殊な音域を聴き取る力があり、ある日、過去から村山槐多が語り掛ける声を聴き、度重なる槐多の声に神経を侵食された彼は、自らが槐多だと思いこむようになっていたのだった。
 朔が加工する音は、朔と同様に特殊な能力を持つ者にしか聴きとれないものだが、それぞれ予知能力、透視能力、念写能力、念動力を有する若者4人のパフォーマンス集団がそれに感応。彼らは、その能力ゆえに家族や世間から異分子扱いされ、ある研究施設で”普通”に近づくよう実験台にされていたが、施設を脱走して、街頭でパフォーマンスを繰り広げていた。研究所の職員である亜納芯(あのう・しん)は、彼らの一部始終を観察していた。
 朔がノイズを発信する改造車を作った廃車工場の男・式部鋭(しきぶ・さとし)は、自分を実験材料にした父親を殺そうとした朔の怒りを閉じ込めるために朔のデスマスクを作っていた。薊は、それは何故か村山槐多に似ていたと知り…』
 私自身も初めて知った実在の人物である村山槐多(むらやま・かいた1896~1919)の絵画やテキストが映画の中にもふんだんに盛り込まれていてツカミとしては魅かれるものが多々あった。これだけでまあまあチケット代相当ではあったかな。ただ、これを現在の寓話として説得力あるエンタメ映画作品にブローアップできたかどうかというと。。。ストーリー的に音響サイキックに持っていくのは悪くない(音楽担当はキャラの異なる2人を起用して良く出来ていた)と感じたのだが、エフェクト含めた映像的な弾け方が足りないような気がしたというのが率直な印象。
ギャラリー
  • 旧作聴き直し(26)-1 VAN DER GRAFF Part 1(2000年 BOX-SET記載ブックレットヒストリーの翻訳)
  • 博士の異常な愛情
  • ナイト・オブ・ザ・リブング・デッド
  • VESPERO - I De Ludo Globi
  • 粛清裁判★
  • プロスペローの本★
  • デューン 砂の惑星PART 2
  • 青春ジャック 止められるか、俺たちを2
  • 止められるか、俺たちを
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