2023年04月03日
専科としての問題解決学習は!?(2)
だいぶ日にちがたってしまったが、ごめんなさい。一応前記事の続きである。
昨年度初め、6年生の社会科専科を仰せつかっていたが、ある事情があって江戸時代に入ったところでクビ(?)になってしまったことは、前記事に書かせてもらった。全員とは言えないものの、意欲的に学ぶ子たちとはいい関係を築いていたから、残念なことだった。子どもたちにとっても、同様だったのではないかと思う。
と言うのは、二人の子が以下のような感想、問題意識を持っていたからである。
Aさん 縄文時代までは戦いがなかったが、弥生時代からは戦いばかりだ。戦いに勝った人が権力を握る。そして、人々を従える。だけど今は民主主義だ。あまりにも違う。どのようにして民主主義の時代になったのだろう。
Bさん これまで学習してきて感じたのは、権力を持つと、人間は自分勝手になるのだなと思う。
わたしは現職時代、6年担任を6回やったが、このような問題意識を持った子はいなかったのではないかと思う。
ちょっと手前みそになってしまうが、お許しください。わたしに納得できる部分があるのだ。
今回、心した部分は、各時代を通し、一貫したテーマを設けることだった。例えば、『権力者の権力の強弱と人々のいきいき度との関連』、『文化とそれを担う階層の移り変わり』などだ。
前者で言えば、例えば古墳時代などは、権力者の権力の強い時代と言えそうだ。教科書には古墳づくりに人々を従事させる絵が大きく載っている。こういう時代、人々(もっとも全員農民と言えそうだが、)は権力に従うしかなさそうだ。とても《いきいき》とはならない。
それに対し、平安時代の後期は貴族の力が弱まり武士が台頭する。武士と言ってもこの時代の武士の多くはまだ農民との区別があまりつかなくて・・・、しかしだんだん力をつけていくことになる。歴史は権力の強弱とその裏返しである人々のいきいき度との繰り返しであることに気付かせたいと思う。
後者では、教科書に文化として最初に登場するのは、平安時代の国風文化のようである。しかし、古墳だって大仏だって文化には違いないだろう。もっと言えば土器も文化の所産ではないのか。
さて、土器は別として、古墳時代以降の文化は永く権力者の文化だったと言えよう。権力者だけでなく、人々の手にも文化がゆだねられるのは、教科書の記述からは、室町時代の田楽と祇園祭りのようである。前者は農民の手による文化、後者は町衆と呼ばれる町人の力によって生まれた文化とある。
初めて権力者の手から離れた文化が開花したと言えよう。
さて、授業だが、『権力者の権力の強弱と人々のいきいき度との関連』については、武士の台頭のときから扱うことにした。そして、古墳や土器などは時代をさかのぼるようにしてとり上げるようにした。
中央の権力を脱し地方が生き生きとしだしたことを印象付けたかった。
戦国時代はちょっと扱いに苦慮した。両面あると感じたからだ。
まず権力の強さを感じるのは、戦いに農民を駆り出す、田畑を荒らし家々を焼き尽くすなどといった点で、
逆に生き生きといった意味では、秀吉に象徴されるように可能性が無限だったこと、一揆が頻発するようになった点で、
権力の強い時代は、一揆など起こせなかったのだからね。
また、農民の文化ともいえる田楽も、人々の生き生きとした生活と関係づけられよう。
ここで悩ましいのは一揆の扱いだ。《生き生き》と結び付けていいか。
わたしはいいと考えた。先のAさんの問題意識に関わる。
ずっと民主主義ではなかったわけだ。《権力》はずっと人々から切り離され、人々を弾圧した。そんな時代、人々は一揆でしか政治的主張をすることができなかったのではないか。
ただし、これをとり上げるのは、幕末にしようと考えていた。幕末なら、それまでの一揆が頻発する時期とない時期とを、時の権力の強弱と結び付けて考えることができる。また強弱だが、政治体制がしっかりしている時期と権力の強さを結び付けて考えるようにもしたかった。
次に、Bさんの、『権力を持つと、人間は自分勝手になるのだなと思う。』について。
これも、Bさんがどういう気持ちで自分勝手と思ったのか、それを扱う際、問題にしようと思いとっておいたので、今となっては分からない。
そこで想像するのだが、大仏の聖武天皇は、教科書の記述によれば、《わたしは天下の富と力を独占している。》と言う。また、藤原道長は・・・、これはあまりにも有名だね。さらに秀吉の刀狩令もある。
大仏と刀狩は、権力者が、それらが人々のためになると言っている点、共通している。また別な観点では平安時代の寝殿造り、そこにおける貴族の生活など、贅沢の限りを尽くしていることも《自分勝手》に入るかもしれない。
さて、もう一つ、考えていたテーマがあった。
それは、女性と男性の関係だった。
これは、平塚雷鳥さんの『元始女性は太陽だった。』をとり上げる際、縄文弥生までさかのぼっていくつもりだった。
ややもすると、むかしはずっと男尊女卑。そう思いがちではないか。でも、そうでもない。平安時代の文化を見れば女性の活躍も顕著だ。また、昨年度の大河ドラマは鎌倉時代だったが、女性もかなりいきいきと描かれていたのではないか。
なお、平塚雷鳥さんのこの言葉の背景は、男尊女卑だけにとどまらない。冒頭書いたAさんの、『どのようにして民主主義の時代になったのだろう。』にもかかわる。
大正デモクラシー。
これを大切に扱わないと、太平洋戦争に負けたあと、連合国が日本にとった政策だったから。
それだけが答えになりかねない。日本自身にも民主主義を目指す営みがあったのだということも大切にしたい。
そうか。自由民権運動、普通選挙を求める運動なども、同時に大切にしないとね。
そして、人間は自分勝手なばかりではないということにも気づかせたかった。
そう。そう。
権力者の権力の強弱と人々のいきいき度との関連に関係するが、
かつては、権力者の権力が強い時代は、人々は押さえつけられていたよね。世の中は乱れていた方が人々は幸せだった・・・かな。
でも、民主主義社会では、それは逆だ。権力者は国民の代表なのだものね。
ああ。でもそれは、《原則的には》と、注釈が付くかな。
ああ。そんな展望をもっていたが、年度途中で・・・、残念な結果となってしまった。
昨年度初め、6年生の社会科専科を仰せつかっていたが、ある事情があって江戸時代に入ったところでクビ(?)になってしまったことは、前記事に書かせてもらった。全員とは言えないものの、意欲的に学ぶ子たちとはいい関係を築いていたから、残念なことだった。子どもたちにとっても、同様だったのではないかと思う。
と言うのは、二人の子が以下のような感想、問題意識を持っていたからである。
Aさん 縄文時代までは戦いがなかったが、弥生時代からは戦いばかりだ。戦いに勝った人が権力を握る。そして、人々を従える。だけど今は民主主義だ。あまりにも違う。どのようにして民主主義の時代になったのだろう。
Bさん これまで学習してきて感じたのは、権力を持つと、人間は自分勝手になるのだなと思う。
わたしは現職時代、6年担任を6回やったが、このような問題意識を持った子はいなかったのではないかと思う。
ちょっと手前みそになってしまうが、お許しください。わたしに納得できる部分があるのだ。
今回、心した部分は、各時代を通し、一貫したテーマを設けることだった。例えば、『権力者の権力の強弱と人々のいきいき度との関連』、『文化とそれを担う階層の移り変わり』などだ。
前者で言えば、例えば古墳時代などは、権力者の権力の強い時代と言えそうだ。教科書には古墳づくりに人々を従事させる絵が大きく載っている。こういう時代、人々(もっとも全員農民と言えそうだが、)は権力に従うしかなさそうだ。とても《いきいき》とはならない。
それに対し、平安時代の後期は貴族の力が弱まり武士が台頭する。武士と言ってもこの時代の武士の多くはまだ農民との区別があまりつかなくて・・・、しかしだんだん力をつけていくことになる。歴史は権力の強弱とその裏返しである人々のいきいき度との繰り返しであることに気付かせたいと思う。
後者では、教科書に文化として最初に登場するのは、平安時代の国風文化のようである。しかし、古墳だって大仏だって文化には違いないだろう。もっと言えば土器も文化の所産ではないのか。
さて、土器は別として、古墳時代以降の文化は永く権力者の文化だったと言えよう。権力者だけでなく、人々の手にも文化がゆだねられるのは、教科書の記述からは、室町時代の田楽と祇園祭りのようである。前者は農民の手による文化、後者は町衆と呼ばれる町人の力によって生まれた文化とある。
初めて権力者の手から離れた文化が開花したと言えよう。
さて、授業だが、『権力者の権力の強弱と人々のいきいき度との関連』については、武士の台頭のときから扱うことにした。そして、古墳や土器などは時代をさかのぼるようにしてとり上げるようにした。
中央の権力を脱し地方が生き生きとしだしたことを印象付けたかった。
戦国時代はちょっと扱いに苦慮した。両面あると感じたからだ。
まず権力の強さを感じるのは、戦いに農民を駆り出す、田畑を荒らし家々を焼き尽くすなどといった点で、
逆に生き生きといった意味では、秀吉に象徴されるように可能性が無限だったこと、一揆が頻発するようになった点で、
権力の強い時代は、一揆など起こせなかったのだからね。
また、農民の文化ともいえる田楽も、人々の生き生きとした生活と関係づけられよう。
ここで悩ましいのは一揆の扱いだ。《生き生き》と結び付けていいか。
わたしはいいと考えた。先のAさんの問題意識に関わる。
ずっと民主主義ではなかったわけだ。《権力》はずっと人々から切り離され、人々を弾圧した。そんな時代、人々は一揆でしか政治的主張をすることができなかったのではないか。
ただし、これをとり上げるのは、幕末にしようと考えていた。幕末なら、それまでの一揆が頻発する時期とない時期とを、時の権力の強弱と結び付けて考えることができる。また強弱だが、政治体制がしっかりしている時期と権力の強さを結び付けて考えるようにもしたかった。
次に、Bさんの、『権力を持つと、人間は自分勝手になるのだなと思う。』について。
これも、Bさんがどういう気持ちで自分勝手と思ったのか、それを扱う際、問題にしようと思いとっておいたので、今となっては分からない。
そこで想像するのだが、大仏の聖武天皇は、教科書の記述によれば、《わたしは天下の富と力を独占している。》と言う。また、藤原道長は・・・、これはあまりにも有名だね。さらに秀吉の刀狩令もある。
大仏と刀狩は、権力者が、それらが人々のためになると言っている点、共通している。また別な観点では平安時代の寝殿造り、そこにおける貴族の生活など、贅沢の限りを尽くしていることも《自分勝手》に入るかもしれない。
さて、もう一つ、考えていたテーマがあった。
それは、女性と男性の関係だった。
これは、平塚雷鳥さんの『元始女性は太陽だった。』をとり上げる際、縄文弥生までさかのぼっていくつもりだった。
ややもすると、むかしはずっと男尊女卑。そう思いがちではないか。でも、そうでもない。平安時代の文化を見れば女性の活躍も顕著だ。また、昨年度の大河ドラマは鎌倉時代だったが、女性もかなりいきいきと描かれていたのではないか。
なお、平塚雷鳥さんのこの言葉の背景は、男尊女卑だけにとどまらない。冒頭書いたAさんの、『どのようにして民主主義の時代になったのだろう。』にもかかわる。
大正デモクラシー。
これを大切に扱わないと、太平洋戦争に負けたあと、連合国が日本にとった政策だったから。
それだけが答えになりかねない。日本自身にも民主主義を目指す営みがあったのだということも大切にしたい。
そうか。自由民権運動、普通選挙を求める運動なども、同時に大切にしないとね。
そして、人間は自分勝手なばかりではないということにも気づかせたかった。
そう。そう。
権力者の権力の強弱と人々のいきいき度との関連に関係するが、
かつては、権力者の権力が強い時代は、人々は押さえつけられていたよね。世の中は乱れていた方が人々は幸せだった・・・かな。
でも、民主主義社会では、それは逆だ。権力者は国民の代表なのだものね。
ああ。でもそれは、《原則的には》と、注釈が付くかな。
ああ。そんな展望をもっていたが、年度途中で・・・、残念な結果となってしまった。
2022年12月12日
専科としての問題解決学習は!?
ずっとお休みしていました。申し訳ありません。思いたって再度入稿させていただきます。よろしくお願いします。
さて今年度は、ある意味、特別な年となった。A小学校で6年生の社会科専科を仰せつかっていたが、年度途中でお休みを余儀なくされてしまった。後述するように、一部児童は盛り上がり強い興味関心をもつようになっていたから、大変残念だった。
振り返れば、年度当初、学校が決まった時から、おかしなことが多かった。これまで多くの学校で気持ちよく仕事をさせていただいたし、またそれだからこそ、退職して17年も続けてこれたのだが、今年はなんかぎくしゃくしていた。詳細は省略させていただくが、最後のところだけ、書かせていただこう。
指導主事が来校したらしい。わたしは気づかなかった。
わたしの授業を見て、
〇学習問題が板書されていない。
〇問題解決学習になっていない。教師主導である。
そう言って帰ったらしい。
前述のようにぎくしゃくしていたから、それだけで退職を余儀なくされた。もっとも一か月休養させていただいて、今は、B小学校でまったく別な仕事をしている。
わたしは前記指導主事の言葉に、苦笑を禁じえなかった。『自分のクラスだったらちゃんと問題解決学習をするよ。でも、今は週3時間、社会科専科として6年生2クラスに入っているだけだ。発言する子は多くても10人程度。大部分の子は聞いているだけである。(もっとも6年生で10人発言していたら、よく発言するクラスとされるかもしれない。)
話を戻して、そうしたクラスで、子どもの発言を中心とした授業を進めた場合、多くの発言しない子にとっては、友達が何を言っているのか分からない。むずかしい話になりがちだ。
分からないから聞かない。その結果、つまらなそうにしている子が増えてしまう。寝ている子だっているものね。
だから、わたしの場合、教師主導といっても、授業がむずかしくならないように配慮したり子どもの関心を引くように矛盾点を浮き彫りにしたりして、子どもが興味関心を持ち、発言しやすくなるように配慮するのであり、教え込みにはならないように努める。また、教科書は大事な資料として活用する。
その結果、発言する子が徐々に増えたり、授業が終わるとわたしのところへ来て、授業で感じたこと、疑問に思ったことを言ったりする子が出てきた。
そこで前述の指導主事の一点目にふれるが、子どもが投げかける疑問でないと、学習問題として基本的にはとり上げないのがわたしの考えである。指導者が一存で、あたかも子どもが設定したかのように板書したのでは、欺瞞と思うからである。
さて、上記、授業が終わってからわたしに疑問などを言う子が出てきた件だが、これはわたしとしては授業中に発言してほしいわけだ。でも、なぜか言わない。授業で言うことではないと思っているのか、多くの子が発言しないから臆してしまうのか、それは分からない。
そこで、「それ、とってもいい疑問だよ。今度の授業で発言してよ。みんなで考えたいな。」などと言うが、それでも言わない。そこで、子どもの了解をとったうえで、「この前、Cさんがいいことを言ってきたんだ。今日はそれを取り上げて授業を進めたいと思うがいいかな。」などと言ったこともあった。でも、それでは《みんなで練り上げる学習問題》とはならないよね。
そんなこんなで発言する子は少しずつ増えていた。初めて挙手する子がいると、「おっ。うれしいな。言うか。」とか、「何を言うか、楽しみだ。」などと言って、喜びを表した。その結果、多くの子とは言えないにしても、授業中の表情も生き生きしてきたのである。
以上、徐々に問題解決学習らしくなるように心がけていたが、残念ながらその途上でクビ(?)になってしまった。
なお、蛇足だが、発言することだけを大事にしているわけではない。たとえ発言しなくても、共感や納得の表情があれば、それも指摘しほめるようにする。話を聞く態度も養うのだ。
それでも・・・、これは高学年の特性だと思うが・・・、
学級担任だったときなら高学年らしく、友達の発言に刺激されての深める発言とか、異論・反論とか、子どもの発言だけで価値を追求する話し合いも活発だったが、専科ではそれも期待できず、かなりの子はだんまりを決め込む。また、自分が慣れ親しんだ学習法でないと受け付けないといった感じの子もいる。
たとえば、板書だが、わたしは子どもの発言中心の板書なので、あえて、「これはどうかな。」と思うものも書くことがあるのだ。授業を盛り上げるため注目してほしいからだが、そういう場合、あえて、「これはノートに書かなくていいよ。それより今のCさんの発言についてじっくり考えてほしい。」
案の定、否定したり反対したりの発言が続くが、Cさんが落胆しないように、「この発言のおかげで学習が深まったね。発言する子が増えたしね。だから、授業を盛り上げたという意味で、殊勲賞ものだ。」などと言って励ましてから、その板書を消すのだ。
こういうのが、上記、慣れ親しんだ学習法でないと受け付けないといったタイプの子にとっては、苦手なようである。「板書が分かりにくい。」「何をノートに書くのか分からない。」などと言うらしい。そのくせ、ノートを見ると、きちんときれいに書いている。
こういう点、中学年は柔軟だ。まだ学びたてだからだろうね。
そんなわけで、全体的には、いきいきと学ぶ子が増えていたが、なかにはそうでない子もいるといった感じだった。
まあ、抵抗がある子もいるが、問題解決学習は徐々に浸透しつつあったのである。指導主事は気に入らないようだったけれどね。
さて、その浸透にかかわるが、次のような工夫もした。
これは6年生の社会科における問題解決学習的配慮なのだが、多くの子が歴史事象に興味を持ち、いきいきと学べるように、地域の歴史事象を大切にした。
たとえば、本記事冒頭の写真だが、これは、相模国分寺(海老名市にある。)の七重塔の3分の1の規模の復元である。実際は高さ約65mと・・・、これは残された礎石の規模からの推測だと思うが、そのように言われている。
65mというと、どのくらいの高さかな。A小の校舎は4階建てだが約15mくらいだろう。
すごいよね。当時・・・奈良時代だが、多くの農民(人民と言ってもいい。ほとんどは農民なのだから)は縄文、弥生と同じ竪穴式住居で生活していたのである。
そんな時代に、このような規模の寺院が突然、ある田舎に出現した。当時の農民はどのような思いで、この七重塔を見上げたのかな。
その資料はない。ないが・・・推測はできるよね。
さて、かつての我がクラスなら、このように学習を進めたら海老名市を訪れる子も複数いただろう。家族も子どもの思いに応えて、少なからず協力してくれたからね。
そして、指導者が言わなくても、子どもから多様な知識、考えなどが示されただろう。さらに、これを見上げる農民の思いにも、子ども自ら迫っていこうとしただろう。
でも、今は望むべくもない。指導者から提示し、発問し、進めなけならない。
ああ。それでも、冒頭の指導主事は教師主導というのかな。
そうか。これが指導主事発言の二点目への回答になるね。
さて、現実の授業はどう進んだか。
まず海老名市の場所だが、これは大きな神奈川県地図を示し、ほぼ県の中央にあることをとらえる。ただし、海老名はほとんどの子が知っていた。これは、東名のサービスエリアがあるからだろう。相鉄線、小田急線、JR相模線の海老名駅を知っている子は少なかった。
冒頭の写真は、国分寺の跡地ではなく、駅のそばに建てられている。案の定、見たことがあるという子は皆無だった。そして、みな一様に驚いていた。ただし、三重塔でも五重塔でもなく、七重塔というのに驚いていた子もいて、この辺、おもしろかった。
聖武天皇が奈良に東大寺の大仏をたて、全国の国々に国分寺を建てたことは教科書、資料集に出ているから、これは知識として持っている子もいる。持っているが、冒頭のこの段階では、写真で見る海老名国分寺とつながらない子は少数ながらいた。彼らは、「ああ。そういうことか。」とばかり、納得顔になった。
そして、七重塔の写真を見て、驚きの表情。
「よくこんな大きなものをつくったね。」「渡来人だ。」「渡来人が七重塔をつくったのだ。」「でも、聖武天皇は全国にこれを作ったのだから、渡来人だけでは無理ではないか。」「渡来人が日本人に教えたのではないの。建てる技術を。」「教えたにしても立派過ぎる。よくこんな細かなところまで行き届いた作り方ができたと思う。」しばらく感嘆の声が続いた。
渡来人がすぐ子どもから出たのは、これは古墳の学習でとり上げていたからだろう。「当時飛行機は当然ない。だから、この写真のようにして空から古墳を見た人はいなかったはずだよね。よくこんなふうに左右対称に巨大なものを作ることができたよね。」
わたしからそう投げかけると、渡来人というのは、この時も子どもから出てきた。渡来人がもたらした測量の技術のすばらしさ、すごさを押さえることができた。
さて、奈良時代に話を戻して・・・、当時農民がどのような思いでこの七重塔を見たか、そこに学習を進めたいのだが、子どもからは出てこない。貧窮問答歌など、子どもが持つ資料集には出ているのだけれどね。
そこでわたしから、投げかけた。
「当時の海老名にも農民はいた。広い平野があるから、田んぼもあった。条里制のもと、規則正しく区切られた田んぼだった。その農民の目の前に、ある日突然と言っていいだろう。何が何だかは分からなかったのではないか。すごいものが現れたわけだ。彼らはどんな思いでこれを見上げたのだろうね。」
それでやっと考えが出続けるようになった。
「すごい技術に驚いたのではないか。」「よくこんな高い塔をつくったなって思っただろう。」「自分たちは高い税を払って苦しい生活をしているのに、こんな贅沢なものを作るなんてって頭に来ただろう。」
活発になったから、いいぞと思ったが、出た意見は一面的で、そこでまたまたわたしから出てしまう。
「そうだね。そう思った農民も多かっただろうね。でも、逆にすごいのができたなと感嘆の声を上げた農民もいたのではないかな。死んでからいける極楽をこの世に生きているうちに見ることができたと思うことはなかったかな。」
『あっ。』と声こそ出さなかったものの、そのような表情をし、考え込む子どもたち。今度はそのような観点での発言が見られるようになった。
「お寺に向かって豊作を祈る農民がいただろう。」
「おがめば幸せになれる。ありがたいと思ったのではないか。」
「すごく高いから、かなり遠くからでも見える。おがむ人がけっこういたかな。」
「近くまで見に行きたくなり、ありがたくおがんで天国に行った気分になったかもしれない。」
さて、かなりいきいきと問題解決的に学習に取り組む雰囲気はできてきたが、それでも、3分の2くらいの子のいきいきだったかな。それも、毎時間というわけにはいかない。
ぼおっとした表情もあるので、そこでは机間巡視を多用することにした。例えば、上記の例なら、地図帳を開けさせ奈良や海老名をさがさせる。分からない子にはわたしが指し示す。中には地図帳を開けない子もいるから、そういう場合は一緒に開ける。目を覚まさせる効果はあっただろう。
さて、読者の皆さんの中には、郷土を大切にするのはいいが、奈良時代の学習なら東大寺の大仏を中心にとり上げるのが普通ではないか。そう思う方もいるかもしれない。
もちろんとり上げないわけではないが、導入はあくまで地域の歴史事象とする。
それはね。《身近》と《手近》の違いなのだ。
本記事もだいぶ長くなってしまった。これについては、次回に譲らせていただこう。
さて今年度は、ある意味、特別な年となった。A小学校で6年生の社会科専科を仰せつかっていたが、年度途中でお休みを余儀なくされてしまった。後述するように、一部児童は盛り上がり強い興味関心をもつようになっていたから、大変残念だった。
振り返れば、年度当初、学校が決まった時から、おかしなことが多かった。これまで多くの学校で気持ちよく仕事をさせていただいたし、またそれだからこそ、退職して17年も続けてこれたのだが、今年はなんかぎくしゃくしていた。詳細は省略させていただくが、最後のところだけ、書かせていただこう。
指導主事が来校したらしい。わたしは気づかなかった。
わたしの授業を見て、
〇学習問題が板書されていない。
〇問題解決学習になっていない。教師主導である。
そう言って帰ったらしい。
前述のようにぎくしゃくしていたから、それだけで退職を余儀なくされた。もっとも一か月休養させていただいて、今は、B小学校でまったく別な仕事をしている。
わたしは前記指導主事の言葉に、苦笑を禁じえなかった。『自分のクラスだったらちゃんと問題解決学習をするよ。でも、今は週3時間、社会科専科として6年生2クラスに入っているだけだ。発言する子は多くても10人程度。大部分の子は聞いているだけである。(もっとも6年生で10人発言していたら、よく発言するクラスとされるかもしれない。)
話を戻して、そうしたクラスで、子どもの発言を中心とした授業を進めた場合、多くの発言しない子にとっては、友達が何を言っているのか分からない。むずかしい話になりがちだ。
分からないから聞かない。その結果、つまらなそうにしている子が増えてしまう。寝ている子だっているものね。
だから、わたしの場合、教師主導といっても、授業がむずかしくならないように配慮したり子どもの関心を引くように矛盾点を浮き彫りにしたりして、子どもが興味関心を持ち、発言しやすくなるように配慮するのであり、教え込みにはならないように努める。また、教科書は大事な資料として活用する。
その結果、発言する子が徐々に増えたり、授業が終わるとわたしのところへ来て、授業で感じたこと、疑問に思ったことを言ったりする子が出てきた。
そこで前述の指導主事の一点目にふれるが、子どもが投げかける疑問でないと、学習問題として基本的にはとり上げないのがわたしの考えである。指導者が一存で、あたかも子どもが設定したかのように板書したのでは、欺瞞と思うからである。
さて、上記、授業が終わってからわたしに疑問などを言う子が出てきた件だが、これはわたしとしては授業中に発言してほしいわけだ。でも、なぜか言わない。授業で言うことではないと思っているのか、多くの子が発言しないから臆してしまうのか、それは分からない。
そこで、「それ、とってもいい疑問だよ。今度の授業で発言してよ。みんなで考えたいな。」などと言うが、それでも言わない。そこで、子どもの了解をとったうえで、「この前、Cさんがいいことを言ってきたんだ。今日はそれを取り上げて授業を進めたいと思うがいいかな。」などと言ったこともあった。でも、それでは《みんなで練り上げる学習問題》とはならないよね。
そんなこんなで発言する子は少しずつ増えていた。初めて挙手する子がいると、「おっ。うれしいな。言うか。」とか、「何を言うか、楽しみだ。」などと言って、喜びを表した。その結果、多くの子とは言えないにしても、授業中の表情も生き生きしてきたのである。
以上、徐々に問題解決学習らしくなるように心がけていたが、残念ながらその途上でクビ(?)になってしまった。
なお、蛇足だが、発言することだけを大事にしているわけではない。たとえ発言しなくても、共感や納得の表情があれば、それも指摘しほめるようにする。話を聞く態度も養うのだ。
それでも・・・、これは高学年の特性だと思うが・・・、
学級担任だったときなら高学年らしく、友達の発言に刺激されての深める発言とか、異論・反論とか、子どもの発言だけで価値を追求する話し合いも活発だったが、専科ではそれも期待できず、かなりの子はだんまりを決め込む。また、自分が慣れ親しんだ学習法でないと受け付けないといった感じの子もいる。
たとえば、板書だが、わたしは子どもの発言中心の板書なので、あえて、「これはどうかな。」と思うものも書くことがあるのだ。授業を盛り上げるため注目してほしいからだが、そういう場合、あえて、「これはノートに書かなくていいよ。それより今のCさんの発言についてじっくり考えてほしい。」
案の定、否定したり反対したりの発言が続くが、Cさんが落胆しないように、「この発言のおかげで学習が深まったね。発言する子が増えたしね。だから、授業を盛り上げたという意味で、殊勲賞ものだ。」などと言って励ましてから、その板書を消すのだ。
こういうのが、上記、慣れ親しんだ学習法でないと受け付けないといったタイプの子にとっては、苦手なようである。「板書が分かりにくい。」「何をノートに書くのか分からない。」などと言うらしい。そのくせ、ノートを見ると、きちんときれいに書いている。
こういう点、中学年は柔軟だ。まだ学びたてだからだろうね。
そんなわけで、全体的には、いきいきと学ぶ子が増えていたが、なかにはそうでない子もいるといった感じだった。
まあ、抵抗がある子もいるが、問題解決学習は徐々に浸透しつつあったのである。指導主事は気に入らないようだったけれどね。
さて、その浸透にかかわるが、次のような工夫もした。
これは6年生の社会科における問題解決学習的配慮なのだが、多くの子が歴史事象に興味を持ち、いきいきと学べるように、地域の歴史事象を大切にした。
たとえば、本記事冒頭の写真だが、これは、相模国分寺(海老名市にある。)の七重塔の3分の1の規模の復元である。実際は高さ約65mと・・・、これは残された礎石の規模からの推測だと思うが、そのように言われている。
65mというと、どのくらいの高さかな。A小の校舎は4階建てだが約15mくらいだろう。
すごいよね。当時・・・奈良時代だが、多くの農民(人民と言ってもいい。ほとんどは農民なのだから)は縄文、弥生と同じ竪穴式住居で生活していたのである。
そんな時代に、このような規模の寺院が突然、ある田舎に出現した。当時の農民はどのような思いで、この七重塔を見上げたのかな。
その資料はない。ないが・・・推測はできるよね。
さて、かつての我がクラスなら、このように学習を進めたら海老名市を訪れる子も複数いただろう。家族も子どもの思いに応えて、少なからず協力してくれたからね。
そして、指導者が言わなくても、子どもから多様な知識、考えなどが示されただろう。さらに、これを見上げる農民の思いにも、子ども自ら迫っていこうとしただろう。
でも、今は望むべくもない。指導者から提示し、発問し、進めなけならない。
ああ。それでも、冒頭の指導主事は教師主導というのかな。
そうか。これが指導主事発言の二点目への回答になるね。
さて、現実の授業はどう進んだか。
まず海老名市の場所だが、これは大きな神奈川県地図を示し、ほぼ県の中央にあることをとらえる。ただし、海老名はほとんどの子が知っていた。これは、東名のサービスエリアがあるからだろう。相鉄線、小田急線、JR相模線の海老名駅を知っている子は少なかった。
冒頭の写真は、国分寺の跡地ではなく、駅のそばに建てられている。案の定、見たことがあるという子は皆無だった。そして、みな一様に驚いていた。ただし、三重塔でも五重塔でもなく、七重塔というのに驚いていた子もいて、この辺、おもしろかった。
聖武天皇が奈良に東大寺の大仏をたて、全国の国々に国分寺を建てたことは教科書、資料集に出ているから、これは知識として持っている子もいる。持っているが、冒頭のこの段階では、写真で見る海老名国分寺とつながらない子は少数ながらいた。彼らは、「ああ。そういうことか。」とばかり、納得顔になった。
そして、七重塔の写真を見て、驚きの表情。
「よくこんな大きなものをつくったね。」「渡来人だ。」「渡来人が七重塔をつくったのだ。」「でも、聖武天皇は全国にこれを作ったのだから、渡来人だけでは無理ではないか。」「渡来人が日本人に教えたのではないの。建てる技術を。」「教えたにしても立派過ぎる。よくこんな細かなところまで行き届いた作り方ができたと思う。」しばらく感嘆の声が続いた。
渡来人がすぐ子どもから出たのは、これは古墳の学習でとり上げていたからだろう。「当時飛行機は当然ない。だから、この写真のようにして空から古墳を見た人はいなかったはずだよね。よくこんなふうに左右対称に巨大なものを作ることができたよね。」
わたしからそう投げかけると、渡来人というのは、この時も子どもから出てきた。渡来人がもたらした測量の技術のすばらしさ、すごさを押さえることができた。
さて、奈良時代に話を戻して・・・、当時農民がどのような思いでこの七重塔を見たか、そこに学習を進めたいのだが、子どもからは出てこない。貧窮問答歌など、子どもが持つ資料集には出ているのだけれどね。
そこでわたしから、投げかけた。
「当時の海老名にも農民はいた。広い平野があるから、田んぼもあった。条里制のもと、規則正しく区切られた田んぼだった。その農民の目の前に、ある日突然と言っていいだろう。何が何だかは分からなかったのではないか。すごいものが現れたわけだ。彼らはどんな思いでこれを見上げたのだろうね。」
それでやっと考えが出続けるようになった。
「すごい技術に驚いたのではないか。」「よくこんな高い塔をつくったなって思っただろう。」「自分たちは高い税を払って苦しい生活をしているのに、こんな贅沢なものを作るなんてって頭に来ただろう。」
活発になったから、いいぞと思ったが、出た意見は一面的で、そこでまたまたわたしから出てしまう。
「そうだね。そう思った農民も多かっただろうね。でも、逆にすごいのができたなと感嘆の声を上げた農民もいたのではないかな。死んでからいける極楽をこの世に生きているうちに見ることができたと思うことはなかったかな。」
『あっ。』と声こそ出さなかったものの、そのような表情をし、考え込む子どもたち。今度はそのような観点での発言が見られるようになった。
「お寺に向かって豊作を祈る農民がいただろう。」
「おがめば幸せになれる。ありがたいと思ったのではないか。」
「すごく高いから、かなり遠くからでも見える。おがむ人がけっこういたかな。」
「近くまで見に行きたくなり、ありがたくおがんで天国に行った気分になったかもしれない。」
さて、かなりいきいきと問題解決的に学習に取り組む雰囲気はできてきたが、それでも、3分の2くらいの子のいきいきだったかな。それも、毎時間というわけにはいかない。
ぼおっとした表情もあるので、そこでは机間巡視を多用することにした。例えば、上記の例なら、地図帳を開けさせ奈良や海老名をさがさせる。分からない子にはわたしが指し示す。中には地図帳を開けない子もいるから、そういう場合は一緒に開ける。目を覚まさせる効果はあっただろう。
さて、読者の皆さんの中には、郷土を大切にするのはいいが、奈良時代の学習なら東大寺の大仏を中心にとり上げるのが普通ではないか。そう思う方もいるかもしれない。
もちろんとり上げないわけではないが、導入はあくまで地域の歴史事象とする。
それはね。《身近》と《手近》の違いなのだ。
本記事もだいぶ長くなってしまった。これについては、次回に譲らせていただこう。
2022年04月10日
思考力を養うことは大切ですよ。
昨年度は、B小に勤務。初任者指導に携わった。5年生担任C先生の指導である。
さて、本日とり上げるのは、昨年末の算数。速さの単元である。この単元の授業を終えて感じるところがあったので、C先生に質問をした。
「この単元の教科書の記述で、不思議に思うことはなかったかい。」
toshi先生は何を言おうとしているのだろうとばかり、怪訝そうな表情を浮かべ、
「はい。特になかったですけれど。何か。」
とのこと。
「それは先生だけではない。多くの先生は疑問を感じないだろう。・・・。それはね。知識習得中心の授業をしているからなのだよ。思考力を養う授業を心がけるなら、引っ掛かる思いになっていいはずだ。」
以下、C先生に話した内容は・・・、
と、その前に、お断りしておかなければならないことがある。
近年多くの小学校が採り入れていると思うが、B小も教科担任制を導入している。そして算数は能力別学級編成だ。C先生は、学力の高いクラスを担当している。そこで、冒頭のような思いがあり、このクラスで授業をさせていただきたいと思った。
「Aクラスだからやりたいなと思う授業がある。もう速さの学習は終わってしまったけれど、この内容で一時間示範授業をさせてね。」
思考力を養う授業をということで快諾いただいたのだが、突然やれないことになってしまった。
それは、ご多聞にもれず、このB小もコロナにかかる子が増え数学級閉鎖される事態となり、教科担任制は一時断念、算数も普通級で行うようになったからである。
それで、どんな授業をやろうと思っていたか概略、C先生に話すことにした。それが冒頭の会話である。
さて、それではやろうとしていて、できなくなってしまった授業の概略だが、
この単元、教科書の最後の方で、
速さは、距離÷時間でも、時間÷距離でも出すことができる。そして、距離÷時間なら出た数値が大きくなるほど速い、時間÷距離なら出た数値が小さくなるほど速い、
と、そこまで記述してある。それなのに、最後のまとめと言っていいかな。そこでは、距離÷時間しか書かれていないのだ。
それを言うと、C先生。
「それはでも、距離÷時間には、時速とか分速とか速さを示す言い方がありますが、時間÷距離には、速さを示す言い方はないじゃないですか。」
確かにそうだね。一定の距離を進むのに何時間かかるかなどということを速さとして示す言い方は確かにないよね。
だけれど、ほんとうにそうだろうか。
時速、分速というなら、さしづめメートル速、キロメートル速となるかな。時速が一時間当たり進む距離を示すなら、キロメートル速は1キロメートルあたりかかる時間ということになろう。でも、そんな概念はない。
では次はどうだ。
100メートル速、200mメートル速、400メートル速・・・、まだけげんな表情のC先生。しかし、42.195キロ速。
「あっ。」と声を上げたC先生。「マラソンですね。確かにありますね。」
いや。『100メートル速』など。これらは知識として押さえるべき内容ではない。こうした授業をしたとして、その教室だけに通用する言い方だ。
さらに言えば、時速分速はあくまで瞬間、瞬間の速さを示しているのであって、実際に一時間、一分間進むわけではない。それに対し、『100メートル速、200メートル速』の方は、実際それだけ進むわけだよね。
一方が『速さ』を示しているのに対して、もう一方は『記録』と言っていいかな。つまりまとめとしては、
算数的にはどちらも速さを表すことができる。しかし実際の生活面では、表す概念が異なる。
そこまで子どもたちの主体的な学びのなかで獲得させたい。また獲得できるはずだ。教え込みではなくね。
最後に言わなければいけないのは・・・、こうした授業は、能力別編成のAクラスだからできるのか。普通級では無理なのか。
そんなことはないはずだ。次回はその辺のことを書いてみたい。
さて、本日とり上げるのは、昨年末の算数。速さの単元である。この単元の授業を終えて感じるところがあったので、C先生に質問をした。
「この単元の教科書の記述で、不思議に思うことはなかったかい。」
toshi先生は何を言おうとしているのだろうとばかり、怪訝そうな表情を浮かべ、
「はい。特になかったですけれど。何か。」
とのこと。
「それは先生だけではない。多くの先生は疑問を感じないだろう。・・・。それはね。知識習得中心の授業をしているからなのだよ。思考力を養う授業を心がけるなら、引っ掛かる思いになっていいはずだ。」
以下、C先生に話した内容は・・・、
と、その前に、お断りしておかなければならないことがある。
近年多くの小学校が採り入れていると思うが、B小も教科担任制を導入している。そして算数は能力別学級編成だ。C先生は、学力の高いクラスを担当している。そこで、冒頭のような思いがあり、このクラスで授業をさせていただきたいと思った。
「Aクラスだからやりたいなと思う授業がある。もう速さの学習は終わってしまったけれど、この内容で一時間示範授業をさせてね。」
思考力を養う授業をということで快諾いただいたのだが、突然やれないことになってしまった。
それは、ご多聞にもれず、このB小もコロナにかかる子が増え数学級閉鎖される事態となり、教科担任制は一時断念、算数も普通級で行うようになったからである。
それで、どんな授業をやろうと思っていたか概略、C先生に話すことにした。それが冒頭の会話である。
さて、それではやろうとしていて、できなくなってしまった授業の概略だが、
この単元、教科書の最後の方で、
速さは、距離÷時間でも、時間÷距離でも出すことができる。そして、距離÷時間なら出た数値が大きくなるほど速い、時間÷距離なら出た数値が小さくなるほど速い、
と、そこまで記述してある。それなのに、最後のまとめと言っていいかな。そこでは、距離÷時間しか書かれていないのだ。
それを言うと、C先生。
「それはでも、距離÷時間には、時速とか分速とか速さを示す言い方がありますが、時間÷距離には、速さを示す言い方はないじゃないですか。」
確かにそうだね。一定の距離を進むのに何時間かかるかなどということを速さとして示す言い方は確かにないよね。
だけれど、ほんとうにそうだろうか。
時速、分速というなら、さしづめメートル速、キロメートル速となるかな。時速が一時間当たり進む距離を示すなら、キロメートル速は1キロメートルあたりかかる時間ということになろう。でも、そんな概念はない。
では次はどうだ。
100メートル速、200mメートル速、400メートル速・・・、まだけげんな表情のC先生。しかし、42.195キロ速。
「あっ。」と声を上げたC先生。「マラソンですね。確かにありますね。」
いや。『100メートル速』など。これらは知識として押さえるべき内容ではない。こうした授業をしたとして、その教室だけに通用する言い方だ。
さらに言えば、時速分速はあくまで瞬間、瞬間の速さを示しているのであって、実際に一時間、一分間進むわけではない。それに対し、『100メートル速、200メートル速』の方は、実際それだけ進むわけだよね。
一方が『速さ』を示しているのに対して、もう一方は『記録』と言っていいかな。つまりまとめとしては、
算数的にはどちらも速さを表すことができる。しかし実際の生活面では、表す概念が異なる。
そこまで子どもたちの主体的な学びのなかで獲得させたい。また獲得できるはずだ。教え込みではなくね。
最後に言わなければいけないのは・・・、こうした授業は、能力別編成のAクラスだからできるのか。普通級では無理なのか。
そんなことはないはずだ。次回はその辺のことを書いてみたい。