2006年05月19日
9時前に帰れた幸せ。
シャワーを浴びてPCに迎えたのが夜の9時過ぎ。こんな時間に、家にいられて、こんなことができること自体が珍しいことなので、妙にありがたい気分になる。
とはいえ、これから金曜日の夜は、何かイレギュラーな仕事が入らない限り、8時前後には帰ってこられそうである。そのリズムで、夜、自分の仕事ができるようにしていきたいと思う。
とにかく、自分のスケジュール管理をなんとかしなくては(^^;)
今日の午後は、I村さんが「学校」に来てくれて、いくつか作業を行う。彼女は、掃除をするつもりで洗剤を持参してくださったのが、カラーボックスやらスチールラックやらが届いてきていたので、その組立の仕事をお手伝いいただく。カラーボックスが5個、スチールラックが2本なので、結構大変な仕事なのである。
2時間弱、仕事をして、半分くらいが組み立て終わる。まあ、残ってしまったけれど、机と椅子も入ったので、それらしくは見えるでしょう。
I村さんともう少し話もしたかったのだけれど、時間切れ。彼女の修士論文の作業が進むことを祈るばかりである。もう少し時間が取れるようになったら、ちゃんと論文検討会を開いてあげたいと思う。
I村さんからは、素敵な紫陽花の鉢植えの「開校祝」をいただく。
ずっとお花はほしいと思っていたし、季節のお花だし、本当にありがとう。
入り口のところに飾らせていただきました。
やっと時間が取れたので、1週間くらい前からたまっていたメールの返事を順番に書いていく。一応律儀に、届いた順に返事を書こうとする。
今回、「学校」をやってみて、皆さんの暖かいお気持ちに触れ、本当にありがたいなあと思う。
まだ、「本校」の備品も揃っていないし、入学願書も出来ていないというのに、勝手に「分校」3校の話も出てきている。信じられないことですが。
私の時間があれば、この3校も、ぜひやってみたいと思うものである。
物事は、一つ動き出すと、自然と回転していくもののようである。
他にもやらなければいけないこともないわけではないのだが、この動きに私自身が乗り遅れないでいようと思う。
とはいえ、これから金曜日の夜は、何かイレギュラーな仕事が入らない限り、8時前後には帰ってこられそうである。そのリズムで、夜、自分の仕事ができるようにしていきたいと思う。
とにかく、自分のスケジュール管理をなんとかしなくては(^^;)
今日の午後は、I村さんが「学校」に来てくれて、いくつか作業を行う。彼女は、掃除をするつもりで洗剤を持参してくださったのが、カラーボックスやらスチールラックやらが届いてきていたので、その組立の仕事をお手伝いいただく。カラーボックスが5個、スチールラックが2本なので、結構大変な仕事なのである。
2時間弱、仕事をして、半分くらいが組み立て終わる。まあ、残ってしまったけれど、机と椅子も入ったので、それらしくは見えるでしょう。
I村さんともう少し話もしたかったのだけれど、時間切れ。彼女の修士論文の作業が進むことを祈るばかりである。もう少し時間が取れるようになったら、ちゃんと論文検討会を開いてあげたいと思う。
I村さんからは、素敵な紫陽花の鉢植えの「開校祝」をいただく。
ずっとお花はほしいと思っていたし、季節のお花だし、本当にありがとう。
入り口のところに飾らせていただきました。
やっと時間が取れたので、1週間くらい前からたまっていたメールの返事を順番に書いていく。一応律儀に、届いた順に返事を書こうとする。
今回、「学校」をやってみて、皆さんの暖かいお気持ちに触れ、本当にありがたいなあと思う。
まだ、「本校」の備品も揃っていないし、入学願書も出来ていないというのに、勝手に「分校」3校の話も出てきている。信じられないことですが。
私の時間があれば、この3校も、ぜひやってみたいと思うものである。
物事は、一つ動き出すと、自然と回転していくもののようである。
他にもやらなければいけないこともないわけではないのだが、この動きに私自身が乗り遅れないでいようと思う。
2005年12月06日
届かない言葉;他者への敬意。
久々に「腹が立つ」思いをした。自分が一人の人間として「敬意」を持って対されていない、と感じたからだ。
社会的立場や、その他諸々のことから、「敬意」を払ってほしいとは思わない。しかし、人間としての「敬意」は払われてよいのではないだろうか。
それなりの時間、精神を割いて私自身は相手のために向かっているのに、当の本人からは、「へらへらした」印象しか受けることができなかった。
自分には、自分がどうしていいかわからないから、「教えてほしい」と言われたので、率直に申し上げると、どうもそれはお気にめさないらしい。
そして、最後の5分で、自分はこうしたいとおっしゃり、それ以外は受けつけないというような発言をされる。
それなら、そこに至るまでに発することを求められた私は何だったのか?
私の思いが受けとめられなかったという問題ではない。
そうではなくて、この、はぐらかされた感覚がなんとも不快である。
そして、そのことによってどれだけ私が傷つき、怒っているかを当の本人は気づかれていない。
相手に誠実に向かうということ。そのことだけは自分に課していきたい。
社会的立場や、その他諸々のことから、「敬意」を払ってほしいとは思わない。しかし、人間としての「敬意」は払われてよいのではないだろうか。
それなりの時間、精神を割いて私自身は相手のために向かっているのに、当の本人からは、「へらへらした」印象しか受けることができなかった。
自分には、自分がどうしていいかわからないから、「教えてほしい」と言われたので、率直に申し上げると、どうもそれはお気にめさないらしい。
そして、最後の5分で、自分はこうしたいとおっしゃり、それ以外は受けつけないというような発言をされる。
それなら、そこに至るまでに発することを求められた私は何だったのか?
私の思いが受けとめられなかったという問題ではない。
そうではなくて、この、はぐらかされた感覚がなんとも不快である。
そして、そのことによってどれだけ私が傷つき、怒っているかを当の本人は気づかれていない。
相手に誠実に向かうということ。そのことだけは自分に課していきたい。
ヴォルテールの言葉。
たまたま新聞で見たヴォルテールの言葉。
「あなたが言っていることに、わたしはまるで同意しませんが、それを言うあなたの権利のためには、体を張ってでも戦います」
いい言葉ですね。
このようなこと、ヴォルテールも言っていたんですね。
私は、まずは、オルテガのイメージでありました。
「あなたが言っていることに、わたしはまるで同意しませんが、それを言うあなたの権利のためには、体を張ってでも戦います」
いい言葉ですね。
このようなこと、ヴォルテールも言っていたんですね。
私は、まずは、オルテガのイメージでありました。
2005年11月26日
交流研、北海道集会が終わる。
北海道集会、お疲れさまでした。
集会を準備されたO口さんはじめ北海道の皆様、
また交流研事務局の皆様、本当にありがとうございました。
参加してよかったなあと思える集会でした。
個人的には、学習1/3、販売1/3、引率1/3といった感じだったのですが
それはそれで良いものです(^^;)
分科会の報告は、第3分科会のAさんの報告しか(それも後半のみ)、
お聞きできなかったのですが、個人的には感動ものでした。
個人的にAさんにお世話になっているということと、
私自身が抱えているものとが重なったという、
多分に個人的な受けとめではあるのですが(^^;)
販売では、『現代と教育』は、かなり苦戦ではあったのですが(^^;)
でも、あの大量の『現代と教育』の「売れ残り」を
O口さんと道民教書籍部がお引き受けくださったのです。
なんと、道民教書籍部は、「買い取り」です!
本当にありがたいことです。
今回の販売状況では、往復の送料を考えると赤字は必至でしたので(^^;)
ほんとありがたかったです。
プロポリスもそこそこに売れたので、
A藤先生、今度お会いしたときに、交流研へのカンパ分をお渡ししますね(^^)
引率では、一緒に行った5人の学生・院生たちは皆、
とても満足したようでした。
速報に自分の感想が載ったとか、
交流会のときにおにぎりを焼こうと言われたとか、
まあ、いろんなことを言ってました(^^;)
集会で何を感じ、学んだのかについては、
これからサークルの例会で、「北海道報告」の日を設けて
交流したいと思っています。
何か面白い話があったら、書きたいと思います。
集会を準備されたO口さんはじめ北海道の皆様、
また交流研事務局の皆様、本当にありがとうございました。
参加してよかったなあと思える集会でした。
個人的には、学習1/3、販売1/3、引率1/3といった感じだったのですが
それはそれで良いものです(^^;)
分科会の報告は、第3分科会のAさんの報告しか(それも後半のみ)、
お聞きできなかったのですが、個人的には感動ものでした。
個人的にAさんにお世話になっているということと、
私自身が抱えているものとが重なったという、
多分に個人的な受けとめではあるのですが(^^;)
販売では、『現代と教育』は、かなり苦戦ではあったのですが(^^;)
でも、あの大量の『現代と教育』の「売れ残り」を
O口さんと道民教書籍部がお引き受けくださったのです。
なんと、道民教書籍部は、「買い取り」です!
本当にありがたいことです。
今回の販売状況では、往復の送料を考えると赤字は必至でしたので(^^;)
ほんとありがたかったです。
プロポリスもそこそこに売れたので、
A藤先生、今度お会いしたときに、交流研へのカンパ分をお渡ししますね(^^)
引率では、一緒に行った5人の学生・院生たちは皆、
とても満足したようでした。
速報に自分の感想が載ったとか、
交流会のときにおにぎりを焼こうと言われたとか、
まあ、いろんなことを言ってました(^^;)
集会で何を感じ、学んだのかについては、
これからサークルの例会で、「北海道報告」の日を設けて
交流したいと思っています。
何か面白い話があったら、書きたいと思います。
2005年11月09日
養老孟司、2003『バカの壁』を読む。
今更ながら、養老先生の『バカの壁』を読む。ブックオフで100円だったので。
まあ、いろいろあるでしょうが、「共同体というのは絶対に人を追い出さない」という指摘は、なるほどと思いました。そのルールが常識ではなくなったのが、団塊の世代以降、とか。
例で引かれているのが、旧制高校の先生で、ストをした学生50名以上を退学処分にしたが、校長は、放校者を対象とした高校卒業検定試験を実施し、各大学を訪問して、スト処分されたことを理由に入学忌避をしないよう、懇願してまわったとか。
その一方で、自分は責任をもって学校をやめた、と。
なるほどね。
確かに、私の周りでも、団塊の世代以上は、絶対に人を見放さないという安心感があります。
でも、このことからもちろん共同体礼賛には回りたくはありませんが。
共同体の閉鎖的な側面もありますからねえ……。
まあ、いろいろあるでしょうが、「共同体というのは絶対に人を追い出さない」という指摘は、なるほどと思いました。そのルールが常識ではなくなったのが、団塊の世代以降、とか。
例で引かれているのが、旧制高校の先生で、ストをした学生50名以上を退学処分にしたが、校長は、放校者を対象とした高校卒業検定試験を実施し、各大学を訪問して、スト処分されたことを理由に入学忌避をしないよう、懇願してまわったとか。
その一方で、自分は責任をもって学校をやめた、と。
なるほどね。
確かに、私の周りでも、団塊の世代以上は、絶対に人を見放さないという安心感があります。
でも、このことからもちろん共同体礼賛には回りたくはありませんが。
共同体の閉鎖的な側面もありますからねえ……。
2005年10月14日
交流研北海道集会。
「交流研」の現地実行委員の方がブログに実行委員会のことを書かれたというので、早速訪問。初めまして(^^)
これは、北海道教科研のブログなんですね。
そういえば、道作も道民教もサイトを持っておられたと思います。
北海道の方々って、こういうところのフットワークが軽い方が多いのでしょうかね。
いいですね〜。
北海道教科研のブログへのコメントでもいいかなあと思ったのですが、「宣伝」も兼ねて、私のブログでも紹介します。
交流研の北海道集会とは、11月18日〜20日にかけて、北海道で行われる大きな集会です。
子どもや教育をめぐって、いろいろな学びできる集会です。
(どこかに、日程等がUPされているかしら??)
まず、ブログの記事から。
交流研はそもそも教師のあり方を探究してきた貴重な団体であり、教師への国民の思いが高まる中、宣伝が広がっていく条件ができてきているのではないかということでした。教師としてどうしていくのかを考えている方、交流研に参加してみませんか?
そうなんですよ。
交流研で出会う先生方は魅力的な方も多いので、行くと本当に行って良かったなあと思える集会です。
ブログにつけられていた大口さんのコメントから。
「交流研」は、子ども・学校・地域をバラバラに見るのでなく、絶えずその関連を見据えながら教育研究をしてきた全国的な団体です。
「子どもって何?」「学校ってどういうところ?」「子ども・学校をとりまく地域はどうなっている?」そのようなことを全国から集まった参加者が交流しながら、自分の目の前の子ども・学校・地域のことを深く見つめる目を研ぎ澄ましてきました。教職員のみならず学生さんや市民の方々も大歓迎です。興味のある方は以下にメールください。開催要項のファイルを送付します。
大口久克(札幌) rtxdw692@yahoo.co.jp
何よりもまず、皆さんにお会いしたくて、北海道に行こうかと、今、迷っています。
集会を作ることは本当に大変なことだと思います。
北海道の皆さんや交流研の皆さんのご苦労に頭が下がります。
これは、北海道教科研のブログなんですね。
そういえば、道作も道民教もサイトを持っておられたと思います。
北海道の方々って、こういうところのフットワークが軽い方が多いのでしょうかね。
いいですね〜。
北海道教科研のブログへのコメントでもいいかなあと思ったのですが、「宣伝」も兼ねて、私のブログでも紹介します。
交流研の北海道集会とは、11月18日〜20日にかけて、北海道で行われる大きな集会です。
子どもや教育をめぐって、いろいろな学びできる集会です。
(どこかに、日程等がUPされているかしら??)
まず、ブログの記事から。
交流研はそもそも教師のあり方を探究してきた貴重な団体であり、教師への国民の思いが高まる中、宣伝が広がっていく条件ができてきているのではないかということでした。教師としてどうしていくのかを考えている方、交流研に参加してみませんか?
そうなんですよ。
交流研で出会う先生方は魅力的な方も多いので、行くと本当に行って良かったなあと思える集会です。
ブログにつけられていた大口さんのコメントから。
「交流研」は、子ども・学校・地域をバラバラに見るのでなく、絶えずその関連を見据えながら教育研究をしてきた全国的な団体です。
「子どもって何?」「学校ってどういうところ?」「子ども・学校をとりまく地域はどうなっている?」そのようなことを全国から集まった参加者が交流しながら、自分の目の前の子ども・学校・地域のことを深く見つめる目を研ぎ澄ましてきました。教職員のみならず学生さんや市民の方々も大歓迎です。興味のある方は以下にメールください。開催要項のファイルを送付します。
大口久克(札幌) rtxdw692@yahoo.co.jp
何よりもまず、皆さんにお会いしたくて、北海道に行こうかと、今、迷っています。
集会を作ることは本当に大変なことだと思います。
北海道の皆さんや交流研の皆さんのご苦労に頭が下がります。
石原千秋、2005『国語教科書の思想』を読む。
面白い本でした。
文学作品の批評についてのテクスト論的分析ももちろんなんですが、
端々に見える、(ポスト)構造主義的なスタンスが
私には心地よく感じられました。
例えば、39頁の「まちがいはコミュニケーションのはじまり」は
内田樹さんの師弟論に重なりますね。
間違い方の独自性によって、弟子は個性を持つことができる、とか。
66頁や99頁の、細部や「断片」に意味を読み込みあたりは
バルトの『第三の意味』を思い出します。
こういった物事の見方、今の私には、フィットします。
よく、「そんな些細なところではなくて、構造を転換すれば……」と
某氏に批判されたものですが。
110頁の言葉の話もいいですね。
言葉で分節化することによって、初めて意味が立ち上がるわけですよね。
その他、複数の自我、他者と倫理等、読んでいて安心できる本でした。
教科書のテクストの持つ思想性の検討部分については、
また機会があったら書きたいと思うのですが、
グローバル・スタンダードと個性を
国語教科書に対峙するものとして持ってくる点については、
やや疑問を感じます。
グローバル・スタンダードに合わないということが
批判の根拠になるとは思いませんし、
個性についても、私は懐疑的な部分がありますので……。
もちろんこのことによって、
この本の価値が大きく変わるということでもないと思いますので、
早速明日の講義のネタにしようと思います(^^)
文学作品の批評についてのテクスト論的分析ももちろんなんですが、
端々に見える、(ポスト)構造主義的なスタンスが
私には心地よく感じられました。
例えば、39頁の「まちがいはコミュニケーションのはじまり」は
内田樹さんの師弟論に重なりますね。
間違い方の独自性によって、弟子は個性を持つことができる、とか。
66頁や99頁の、細部や「断片」に意味を読み込みあたりは
バルトの『第三の意味』を思い出します。
こういった物事の見方、今の私には、フィットします。
よく、「そんな些細なところではなくて、構造を転換すれば……」と
某氏に批判されたものですが。
110頁の言葉の話もいいですね。
言葉で分節化することによって、初めて意味が立ち上がるわけですよね。
その他、複数の自我、他者と倫理等、読んでいて安心できる本でした。
教科書のテクストの持つ思想性の検討部分については、
また機会があったら書きたいと思うのですが、
グローバル・スタンダードと個性を
国語教科書に対峙するものとして持ってくる点については、
やや疑問を感じます。
グローバル・スタンダードに合わないということが
批判の根拠になるとは思いませんし、
個性についても、私は懐疑的な部分がありますので……。
もちろんこのことによって、
この本の価値が大きく変わるということでもないと思いますので、
早速明日の講義のネタにしようと思います(^^)
「座礁した船」
内田樹さんの「座礁した船」話は、結構好きだ。
どうしようもない「窮地」に陥ったときに、「原因究明」という名のもとで、「犯人探し」が行われる。私自身、何度もその場に立ち会わされたが、その犯人探しによって、事が前進したという記憶はほとんどない。
以下、内田さんのブログから。
こういうときは「どうしてこんなことになったんだ」とか「誰の責任だ」とか言っても仕方がない。
与えられた状況でベストを尽くすしかない。
船が座礁したときに、「誰のせいでこんなことになったんだ」と他責的な文型でことばを連ねても事態は改善されない。それより、手持ちの資材で「座礁した船」をどうやって動かすか考える方が前向きである(と池上先生に教えて頂いた)。
ブリコラージュというのは、こういう「あきらめ」方のひとつの様態でもある。
で、手持ちの資材でオレたちには何ができるの?
そう考えることにしよう。
だって、「オレたち」がやらなかったら誰もやってくれないんだから、リメディアル教育なんて。
私の意見は「座礁した船」を救う場合と同じである。
使えそうなものは救い出す。使えないものは棄ててゆく。
「すべて」を救うことはできない。
だって、もう「座礁」しちゃってるんだから。
ありあわせの資材を集めて「救命筏」を組み、積み込める限りの資産を救うしかない。
これは、大学での補習教育での文脈だが、事はそれに限らない。
「誰のせいでこんなことになったんだ」という他責的な言葉が充満した後、「犯人」とされた人物は、「謝罪」をするまで、「原因追及」を受ける。「原因究明」が、同じ「過ち」を繰り返さないために必要だから、という「前提」のもとで。
確かに、明確な「犯人」や「原因」がわかっている場合には、そのような方法も有効であろう。
しかし、そのような一因的な「原因」で船が座礁することは少ない。
「犯人」を探して「謝罪」させることよりも、複雑な現実を丁寧に解きほぐしていくような作業の方が重要ではないかと思うのだが。
どうしようもない「窮地」に陥ったときに、「原因究明」という名のもとで、「犯人探し」が行われる。私自身、何度もその場に立ち会わされたが、その犯人探しによって、事が前進したという記憶はほとんどない。
以下、内田さんのブログから。
こういうときは「どうしてこんなことになったんだ」とか「誰の責任だ」とか言っても仕方がない。
与えられた状況でベストを尽くすしかない。
船が座礁したときに、「誰のせいでこんなことになったんだ」と他責的な文型でことばを連ねても事態は改善されない。それより、手持ちの資材で「座礁した船」をどうやって動かすか考える方が前向きである(と池上先生に教えて頂いた)。
ブリコラージュというのは、こういう「あきらめ」方のひとつの様態でもある。
で、手持ちの資材でオレたちには何ができるの?
そう考えることにしよう。
だって、「オレたち」がやらなかったら誰もやってくれないんだから、リメディアル教育なんて。
私の意見は「座礁した船」を救う場合と同じである。
使えそうなものは救い出す。使えないものは棄ててゆく。
「すべて」を救うことはできない。
だって、もう「座礁」しちゃってるんだから。
ありあわせの資材を集めて「救命筏」を組み、積み込める限りの資産を救うしかない。
これは、大学での補習教育での文脈だが、事はそれに限らない。
「誰のせいでこんなことになったんだ」という他責的な言葉が充満した後、「犯人」とされた人物は、「謝罪」をするまで、「原因追及」を受ける。「原因究明」が、同じ「過ち」を繰り返さないために必要だから、という「前提」のもとで。
確かに、明確な「犯人」や「原因」がわかっている場合には、そのような方法も有効であろう。
しかし、そのような一因的な「原因」で船が座礁することは少ない。
「犯人」を探して「謝罪」させることよりも、複雑な現実を丁寧に解きほぐしていくような作業の方が重要ではないかと思うのだが。
2005年10月10日
自殺。
8月末に従兄が自殺をしたのでお線香をあげてきた。その記憶が薄れない前に、9月末に同級生のお母さんが自殺したらしいという連絡が入った。ご遺族は、亡くなった理由を語っておられないので、自殺かどうか、本当にはわからないが。
更に、先週の土曜日、教師の集まりに行ったところ、職場の30代の先生が自殺したと、知人の教師から聞かされた。
3人、それぞれへの私の思いや関係性はまったく異なるものであるが、こう立て続けに自殺の話が身近で起こってしまうとは。まだその現実を私は受け入れられないでいる。
自分自身が大人になって、様々な人間関係を構築する中で、知人の自殺に直面する機会が増えているのだろうか。それともやはり、近年、自殺が増えているのだろうか。
これだけ生きづらい現代において、自殺をしたいと思うくらいに心を悩ましたり、あるいはリストカット、自殺未遂を試みるくらいのことは、珍しいことではない。
けれど、本当に死ぬということに至るまでには、大きなハードルがある。
例え、自死を試みたとしても、意識の及ばないところでセーブしているのか、完全に命を絶つところにまでは至らない。
けれど、3人は、その大きなハードルを越えた。
更に、先週の土曜日、教師の集まりに行ったところ、職場の30代の先生が自殺したと、知人の教師から聞かされた。
3人、それぞれへの私の思いや関係性はまったく異なるものであるが、こう立て続けに自殺の話が身近で起こってしまうとは。まだその現実を私は受け入れられないでいる。
自分自身が大人になって、様々な人間関係を構築する中で、知人の自殺に直面する機会が増えているのだろうか。それともやはり、近年、自殺が増えているのだろうか。
これだけ生きづらい現代において、自殺をしたいと思うくらいに心を悩ましたり、あるいはリストカット、自殺未遂を試みるくらいのことは、珍しいことではない。
けれど、本当に死ぬということに至るまでには、大きなハードルがある。
例え、自死を試みたとしても、意識の及ばないところでセーブしているのか、完全に命を絶つところにまでは至らない。
けれど、3人は、その大きなハードルを越えた。
2005年10月09日
「大石先生体質」
内田樹さんのブログを読む。
「大石先生体質」、わかるなあと共感。
先日、私の誕生日のとき、学生は、サプライズで、素敵なプレゼントをくださり、「ハッピーバースデイ」をご唱和くださった。
ちょうど、学生と合宿をしていた2日目のことだったので、1日目の夜、私を含めた打ち上げが終わった後、深夜2時過ぎに、携帯メールで「集合」し、何がいいか、相談したという。
私が使っている鞄が、あまりにぼろぼろなので、「鞄がいいよ」という意見が出たら、「でも、あそこまで使うなんて、何か、思い入れがあるかもしれないから、他のものがいい」「何か育てられるものがいい」「でも、先生は枯らしちゃうかもしれない」「なら、日陰でも育つカイワレがいい」「普段使えるものがいい」「じゃあ、靴下」という、なんともほほえましいやりとりがあったということを、後日聞かされた。
自分が教師になるなんて、これっぽっちも考えていなかったのだが、やはり私も「大石先生体質」。密かに目には涙、である。
本当に、先生冥利に尽きることである。
大学生と付き合うようになって3年目。年々、学生がかわいくなってくる。
おそらく私には、ノーベル賞を取るような研究はできないだろう。
けれど、港で送り出す人として、彼らと関わっていきたいと思うのだ。
彼らのよって、私自身が、「先生」にしてもらっている。
本当に、感謝、なのだ。
「大石先生体質」、わかるなあと共感。
先日、私の誕生日のとき、学生は、サプライズで、素敵なプレゼントをくださり、「ハッピーバースデイ」をご唱和くださった。
ちょうど、学生と合宿をしていた2日目のことだったので、1日目の夜、私を含めた打ち上げが終わった後、深夜2時過ぎに、携帯メールで「集合」し、何がいいか、相談したという。
私が使っている鞄が、あまりにぼろぼろなので、「鞄がいいよ」という意見が出たら、「でも、あそこまで使うなんて、何か、思い入れがあるかもしれないから、他のものがいい」「何か育てられるものがいい」「でも、先生は枯らしちゃうかもしれない」「なら、日陰でも育つカイワレがいい」「普段使えるものがいい」「じゃあ、靴下」という、なんともほほえましいやりとりがあったということを、後日聞かされた。
自分が教師になるなんて、これっぽっちも考えていなかったのだが、やはり私も「大石先生体質」。密かに目には涙、である。
本当に、先生冥利に尽きることである。
大学生と付き合うようになって3年目。年々、学生がかわいくなってくる。
おそらく私には、ノーベル賞を取るような研究はできないだろう。
けれど、港で送り出す人として、彼らと関わっていきたいと思うのだ。
彼らのよって、私自身が、「先生」にしてもらっている。
本当に、感謝、なのだ。
ボツになった雑誌の特集企画案。
編集に携わっている某教育雑誌の特集企画案を作成したが、編集会議で、ボツになった。
まあ、その会議に私は出席しておらず、他の担当者にプレゼンをお願いしていた状態だったので、仕方がないかもしれない。
でも、3つ作成した案のうち、通ったのは、ほとんど思考の作業をしていない第3案。どう考えても「手抜き」の企画案だし、具体性も無いものなのに、これが通るとはねえ。どういう話し合いが行われたのか、その議論の水準が気になるところです。
まあ、私がこの3つの案を作成した段階で、こうなる結果は「見えていた」のではありますが(^^;)
採用された第3案は、雑誌が今後販売されることを考えると、支障がでる可能性があるので、残り2案を以下に貼り付けます。
今でも、この2案、特に第1案は、今、教育雑誌で特集する価値があると思っています。どこかの雑誌で、取り上げていただけないでしょうか(^^;) こういう特集だったら、私は必ず買います!!
●
第1案
特集:他者の声を聴く、身体のメッセージを聴く
−−生活綴方と現代思想(身体論・言語論)との対話
特集主旨
生活綴方が行ってきた仕事は、様々な活動を有機的に統合する教育の方法であるのではないだろうか。また、生活綴方が手法として選んだ「表現」という行為行為は、自らの主体を確立する上で、重要な役割を果たしている。
作品を綴る中で、子どもたちは、自らの体をくぐった言葉を紡ぎ出している。その過程は、未分化な感情・認識を分節化することでもある。こうして自らの言葉を獲得することによって、子どもたちは現実を把握していく。また、そうして表現された言葉は、現実を変えていく力さえ持つ。だからこそ、自らの発する言葉を敏感に聴き、表現する力を子どもたちにつけていきたいと思う。
では、言葉は自らの内面に向かうことだけで生まれてくるのだろうか。おそらく、それだけではないであろう。他者との対話を通じて、生成/立ち上がってくる側面もあろう。だからこそ、生活綴方の実践で行われている作品を読みあう実践を、捉えかえしてみたい。
特集では、自らの内面を、自分が直面する現実を、他者の声を、「読む」「聴く」ということの意味を考えていきたい。生活綴方でこれまで大事にしてきたこのような仕事を、近年の身体論(コミュニケーション論、言語論)との対話を通じて、理論的・実践的に捉えかえしていきたい。他者とコミュニケイトするためにも、また自らの存在論的安心を獲得するためにも、他者との関係性の中で、自己の主体を立ち上げることが急務であると考えるからである。
構成
巻頭:内田樹インタビュー
実践記録:Iさん、Gさん、あと1本あってもいいかも
論文:庄井良信
●
第2案
特集:身体と言語
身体論ブームです。
もちろん、この身体論には納得のいかないものも少なくないのですが、これだけ身体が注目されているので、「身体と言語」という感じで特集を組みたいと思います。
自分の内面の感情や身体感覚は、言葉の形を与えることによって初めて認識することができます。逆に言えば、言葉が無いところでは、自分の内面の感情も、また、身体感覚すらも捉えることはできないのです。それぐらい、身体と言語は密接な関係にあります。
また、強い言葉には現実遂行力や、新たな身体感覚を呼び起こす力もあります。
子どもたちの身体をめぐる様々な課題に、言葉から何かアプローチができるかもしれません。
やや広めに「身体と言語」の幅をとって、特集を組みたいと思います。
巻頭:内田樹インタビュー
実践:
かつて、奈良一清さんが、
身体の解放から表現の解放という道筋があるのではないか、
というようなことを提起されていたと思います。
そのような実践があればなおいいです。
文献改題:身体論の現在
まあ、その会議に私は出席しておらず、他の担当者にプレゼンをお願いしていた状態だったので、仕方がないかもしれない。
でも、3つ作成した案のうち、通ったのは、ほとんど思考の作業をしていない第3案。どう考えても「手抜き」の企画案だし、具体性も無いものなのに、これが通るとはねえ。どういう話し合いが行われたのか、その議論の水準が気になるところです。
まあ、私がこの3つの案を作成した段階で、こうなる結果は「見えていた」のではありますが(^^;)
採用された第3案は、雑誌が今後販売されることを考えると、支障がでる可能性があるので、残り2案を以下に貼り付けます。
今でも、この2案、特に第1案は、今、教育雑誌で特集する価値があると思っています。どこかの雑誌で、取り上げていただけないでしょうか(^^;) こういう特集だったら、私は必ず買います!!
●
第1案
特集:他者の声を聴く、身体のメッセージを聴く
−−生活綴方と現代思想(身体論・言語論)との対話
特集主旨
生活綴方が行ってきた仕事は、様々な活動を有機的に統合する教育の方法であるのではないだろうか。また、生活綴方が手法として選んだ「表現」という行為行為は、自らの主体を確立する上で、重要な役割を果たしている。
作品を綴る中で、子どもたちは、自らの体をくぐった言葉を紡ぎ出している。その過程は、未分化な感情・認識を分節化することでもある。こうして自らの言葉を獲得することによって、子どもたちは現実を把握していく。また、そうして表現された言葉は、現実を変えていく力さえ持つ。だからこそ、自らの発する言葉を敏感に聴き、表現する力を子どもたちにつけていきたいと思う。
では、言葉は自らの内面に向かうことだけで生まれてくるのだろうか。おそらく、それだけではないであろう。他者との対話を通じて、生成/立ち上がってくる側面もあろう。だからこそ、生活綴方の実践で行われている作品を読みあう実践を、捉えかえしてみたい。
特集では、自らの内面を、自分が直面する現実を、他者の声を、「読む」「聴く」ということの意味を考えていきたい。生活綴方でこれまで大事にしてきたこのような仕事を、近年の身体論(コミュニケーション論、言語論)との対話を通じて、理論的・実践的に捉えかえしていきたい。他者とコミュニケイトするためにも、また自らの存在論的安心を獲得するためにも、他者との関係性の中で、自己の主体を立ち上げることが急務であると考えるからである。
構成
巻頭:内田樹インタビュー
実践記録:Iさん、Gさん、あと1本あってもいいかも
論文:庄井良信
●
第2案
特集:身体と言語
身体論ブームです。
もちろん、この身体論には納得のいかないものも少なくないのですが、これだけ身体が注目されているので、「身体と言語」という感じで特集を組みたいと思います。
自分の内面の感情や身体感覚は、言葉の形を与えることによって初めて認識することができます。逆に言えば、言葉が無いところでは、自分の内面の感情も、また、身体感覚すらも捉えることはできないのです。それぐらい、身体と言語は密接な関係にあります。
また、強い言葉には現実遂行力や、新たな身体感覚を呼び起こす力もあります。
子どもたちの身体をめぐる様々な課題に、言葉から何かアプローチができるかもしれません。
やや広めに「身体と言語」の幅をとって、特集を組みたいと思います。
巻頭:内田樹インタビュー
実践:
かつて、奈良一清さんが、
身体の解放から表現の解放という道筋があるのではないか、
というようなことを提起されていたと思います。
そのような実践があればなおいいです。
文献改題:身体論の現在
2005年05月15日
床に臨む
最近はやりの「臨床」とは、死の床にある人の床に臨むという意味にクリニコスが原義らしい。
死を意識した人のかたわらに臨んだときに、私はどうふるまえばいいのだろう。
しっかりとした意識があればあるほど、明るく元気になることを意識したふるまいに、罪深さを感じる。
いったい、どう振る舞えばいいのだろう。
死を意識した人のかたわらに臨んだときに、私はどうふるまえばいいのだろう。
しっかりとした意識があればあるほど、明るく元気になることを意識したふるまいに、罪深さを感じる。
いったい、どう振る舞えばいいのだろう。
2005年01月08日
嫌いな人とのつきあい方
内田樹さんのブログを読む。
「嫌いな人とのつきあい方」について書かれていた。
以下、引用。
「嫌いな人とは付き合わない、というのが私から学生諸君へのアドバイスである。
つねづね申し上げていることだが、そばにいるだけで疲れる人、こちらの生命エネルギーが枯渇してくる人というがたしかに存在する。
そのような人間とも「共に生きる」というのはなかなか立派な心がけであるが、「共に」というのにはかなり解釈の幅があるわけで、必ずしも「べったり一緒に」という意味ではない。適正な距離を置き、できるだけかかわりにならない「共に」というのもだって「あり」だと私は思う。」
このような内田さんの指摘は、『死と身体』にも書かれていて、いたく共感したのを覚えている。
嫌いな人間関係に耐えることによって、自分の感覚がどんどん鈍くなっていくとの指摘、まったくその通りだと思う。
「教育」的な考え方では、「みんな仲良く」が疑うべくもない「倫理」とされ、それができないと、人格的に劣っていると見られ、自分でもそのように捉えていく。だから、無理をして、そのために、どんどん人間が鈍感になっていく。
まったく共感。
自らが「道徳」的であろうとし、そのために、自分が鈍感になるだけでなく、どんどん自分が嫌な奴になっていくことを、私は痛感している。
もっと自分は、いい人だったと思う。
でも、不快な体験を重ねるために、どんどん自分が、嫌な奴になっていると思う。
そうだったのか。
確かに、私の周りには、嫌いな人がたくさん。
だからだったのね。
無理して「仲良くしよう」なんて思わずに、親密圏は大事にしながらも、嫌いな人とは適正な距離を取っていこうと思う。
●
ところで、その「嫌いな人」の代表は、内田さんのブログの後半部分と真っ向から対立する人。
「矛盾」に耐えられない、単純な、子どもの思考をする人々。
やっぱり、素の自分をいつでも出していこうというメッセージは、おかしいんじゃないかな。
「嫌いな人とのつきあい方」について書かれていた。
以下、引用。
「嫌いな人とは付き合わない、というのが私から学生諸君へのアドバイスである。
つねづね申し上げていることだが、そばにいるだけで疲れる人、こちらの生命エネルギーが枯渇してくる人というがたしかに存在する。
そのような人間とも「共に生きる」というのはなかなか立派な心がけであるが、「共に」というのにはかなり解釈の幅があるわけで、必ずしも「べったり一緒に」という意味ではない。適正な距離を置き、できるだけかかわりにならない「共に」というのもだって「あり」だと私は思う。」
このような内田さんの指摘は、『死と身体』にも書かれていて、いたく共感したのを覚えている。
嫌いな人間関係に耐えることによって、自分の感覚がどんどん鈍くなっていくとの指摘、まったくその通りだと思う。
「教育」的な考え方では、「みんな仲良く」が疑うべくもない「倫理」とされ、それができないと、人格的に劣っていると見られ、自分でもそのように捉えていく。だから、無理をして、そのために、どんどん人間が鈍感になっていく。
まったく共感。
自らが「道徳」的であろうとし、そのために、自分が鈍感になるだけでなく、どんどん自分が嫌な奴になっていくことを、私は痛感している。
もっと自分は、いい人だったと思う。
でも、不快な体験を重ねるために、どんどん自分が、嫌な奴になっていると思う。
そうだったのか。
確かに、私の周りには、嫌いな人がたくさん。
だからだったのね。
無理して「仲良くしよう」なんて思わずに、親密圏は大事にしながらも、嫌いな人とは適正な距離を取っていこうと思う。
●
ところで、その「嫌いな人」の代表は、内田さんのブログの後半部分と真っ向から対立する人。
「矛盾」に耐えられない、単純な、子どもの思考をする人々。
やっぱり、素の自分をいつでも出していこうというメッセージは、おかしいんじゃないかな。
2005年01月04日
帰省してテレビを見る。
31日から3日まで帰省。昨年末に亡くなった祖父のお線香だけはあげておきたいと思い。
今、私の自宅にはテレビが無いので、帰省して、久々にテレビを見る。
「マイ・フェア・レディ」は、イギリスの階級文化を象徴するものとして、非常に面白い。
労働者階級出身者が、中産階級の文化を身につける。そのこと自体は、階層の上層移動だから、好ましいことなのかもしれない。
しかし、そのときには、彼女の生まれ育った場所には、彼女の居場所は無い。
懐かしいはずのものが、自分にとって「よそよそしいもの」になってしまう切なさ、悲しさ。
知らなければ、このような感情を知ることは無かったであろう。
その切なさが印象に残る。
また、中産階級になって、「金」を失うことへの恐怖を覚えてしまった父親の姿も象徴的だった。
2日は、「踊る大捜査線」。
いるよね、こういう女性の上司、と苦笑い。
あまりにリアルなので、笑ってもられないか。
まあ、反面教師ということで、ああはならないようにしよう、と。
今、私の自宅にはテレビが無いので、帰省して、久々にテレビを見る。
「マイ・フェア・レディ」は、イギリスの階級文化を象徴するものとして、非常に面白い。
労働者階級出身者が、中産階級の文化を身につける。そのこと自体は、階層の上層移動だから、好ましいことなのかもしれない。
しかし、そのときには、彼女の生まれ育った場所には、彼女の居場所は無い。
懐かしいはずのものが、自分にとって「よそよそしいもの」になってしまう切なさ、悲しさ。
知らなければ、このような感情を知ることは無かったであろう。
その切なさが印象に残る。
また、中産階級になって、「金」を失うことへの恐怖を覚えてしまった父親の姿も象徴的だった。
2日は、「踊る大捜査線」。
いるよね、こういう女性の上司、と苦笑い。
あまりにリアルなので、笑ってもられないか。
まあ、反面教師ということで、ああはならないようにしよう、と。
2004年12月28日
身体感覚。
「仕事」がらみでFAXを送信しようとしたら、どうもうまく送れない。
さんざん試行錯誤したあげく、なんとか復活。
感謝。
一度、電源を抜いて休ませると、復活することがあるらしい。
なるほど。
●
昨日は一日、会議。
最高に最悪の会議だった。
自分の身体感覚に根ざして考えると、そろそろ限界かもしれない。
今の状態では、どんどん嫌なことが増え、自分が嫌になってしまうからね。
この数年間の自分を否定することになっても、これ以上、深みにはまらない方が、自分を守るためには、良いのかもしれない。
リスペクトが無いことが最大の原因。
仕事が多くたって、大変だって、リスペクトがあれば、たいていのことはこなせる。
しかし、決定には関われず、非民主的な組織運営では、当然、それは望めない。
自分の能力が無くて、嫌われているからかなあ、と自分を責める思考回路に入るが、他のところではそんなことは無いのだから、相性が悪かったのだ、と思うことにしよう。
まあ、やめるとなったら、あらいざらいぶちまけます。
わくわく。
さんざん試行錯誤したあげく、なんとか復活。
感謝。
一度、電源を抜いて休ませると、復活することがあるらしい。
なるほど。
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昨日は一日、会議。
最高に最悪の会議だった。
自分の身体感覚に根ざして考えると、そろそろ限界かもしれない。
今の状態では、どんどん嫌なことが増え、自分が嫌になってしまうからね。
この数年間の自分を否定することになっても、これ以上、深みにはまらない方が、自分を守るためには、良いのかもしれない。
リスペクトが無いことが最大の原因。
仕事が多くたって、大変だって、リスペクトがあれば、たいていのことはこなせる。
しかし、決定には関われず、非民主的な組織運営では、当然、それは望めない。
自分の能力が無くて、嫌われているからかなあ、と自分を責める思考回路に入るが、他のところではそんなことは無いのだから、相性が悪かったのだ、と思うことにしよう。
まあ、やめるとなったら、あらいざらいぶちまけます。
わくわく。
2004年12月25日
遠く離れた「第三者の視線」
平川克美さんと内田樹さんの「東京ファイティングキッズ」を読みました。
再開第1回目は、平川さんのご執筆。ざっと一読して、これも、はまりました(^^;)
コミュニケーションおいて、一対一のコミュニケーションにおいても、第三者の視線がなければ、コミュニケーション自体が成立しない、というようなことが書かれております。
その「第三者」は、実在するほうが、より容易なのだと思います。
私も、よくメールで、友人たちと長文のやりとりをします。「議論」という言葉にイメージされるような相手と相対立するようなものではなく、情報交換をしながら、お互いの考えを深めていくようなやりとりです。
そのときに、ほとんどメールで発言されることはない方にも、たいてい一緒にメールを送信します。その方からのレスポンスは無いだろうけれど、その方の視線も意識しながら、いつもレスポンスをしてくださる方宛に、私自身は、メールを書くという作業を繰り返しているわけです。
平川さんは、
「ぼくも内田君も、お互いの声と同時に、この「対話」が公開されるということを十分に意識していたと思います。第三者の目というものを常に意識しながら、お互いがお互いに語りかけるというかなり不思議な経験をしていたのだと思います。
しかし、よく考えてみると、この第三者の視線というものがなければ、コミュニケーションというもの自体がうまく成り立たないことがわかります。」
と書かれています。
私自身も、頻繁には「議論」に参加されない第三者の友人の視線を意識しながら、返信をくださる方に語りかけるという書き方を常にしていました。
だからこそ、返信を下さる方と私の間のコミュニケーションが深く広がっていったのではないかと思います。
常に、返信を下さる方の方を向かってコミュニケーションをしていたら、そのコミュニケーションは閉じてしまいます。第三者にあたる友人がいてくれたからこそ、コミュニケーションがより深く、広がっていったのではないかと思うのです。
でももちろん、このような「第三者」が常に実在するとは限りませんから、第三者の視線を内面化できることが大切なんですよね。
そして、この第三者の視線を、どれだけ自分から離れたところに措定できるかということが「知的肺活量」だと平川さんは書かれています。
「別の言い方をするなら、共同体の中にではなく、外部に判断の規範というものを措けるかどうかということが、大変重要なことだろうと思うのです。」
納得しました。
共同体の内部、すなわち「神話」の世界の住人にとって、その外部に判断の規範を置くことは至難の業です。
だから、共同体の内部に「天皇」を作りあげ、安心できる規範を作り出さずにはいられないのでしょう。
その共同体がとりわけ、何かに「対抗」することを目指すものであるほど、自らの拠り所として、判断の規範となる第三者の視線を、身近なところに置かずにはいられないと思うからです。
こうして、共同体内部に判断の規範を置き、「単独に耐える」ことをしなかったことが、現在の、ある部分の「対抗」イデオロギーの弱体化の構造的要因である、と言ってしまうのは言い過ぎでしょうか。
安易に自分の依拠できるところを求めずに、この不安定さに耐えながら、「共同体」の構成員であることができるのかどうか、身を挺して考えていきたいと思います。
再開第1回目は、平川さんのご執筆。ざっと一読して、これも、はまりました(^^;)
コミュニケーションおいて、一対一のコミュニケーションにおいても、第三者の視線がなければ、コミュニケーション自体が成立しない、というようなことが書かれております。
その「第三者」は、実在するほうが、より容易なのだと思います。
私も、よくメールで、友人たちと長文のやりとりをします。「議論」という言葉にイメージされるような相手と相対立するようなものではなく、情報交換をしながら、お互いの考えを深めていくようなやりとりです。
そのときに、ほとんどメールで発言されることはない方にも、たいてい一緒にメールを送信します。その方からのレスポンスは無いだろうけれど、その方の視線も意識しながら、いつもレスポンスをしてくださる方宛に、私自身は、メールを書くという作業を繰り返しているわけです。
平川さんは、
「ぼくも内田君も、お互いの声と同時に、この「対話」が公開されるということを十分に意識していたと思います。第三者の目というものを常に意識しながら、お互いがお互いに語りかけるというかなり不思議な経験をしていたのだと思います。
しかし、よく考えてみると、この第三者の視線というものがなければ、コミュニケーションというもの自体がうまく成り立たないことがわかります。」
と書かれています。
私自身も、頻繁には「議論」に参加されない第三者の友人の視線を意識しながら、返信をくださる方に語りかけるという書き方を常にしていました。
だからこそ、返信を下さる方と私の間のコミュニケーションが深く広がっていったのではないかと思います。
常に、返信を下さる方の方を向かってコミュニケーションをしていたら、そのコミュニケーションは閉じてしまいます。第三者にあたる友人がいてくれたからこそ、コミュニケーションがより深く、広がっていったのではないかと思うのです。
でももちろん、このような「第三者」が常に実在するとは限りませんから、第三者の視線を内面化できることが大切なんですよね。
そして、この第三者の視線を、どれだけ自分から離れたところに措定できるかということが「知的肺活量」だと平川さんは書かれています。
「別の言い方をするなら、共同体の中にではなく、外部に判断の規範というものを措けるかどうかということが、大変重要なことだろうと思うのです。」
納得しました。
共同体の内部、すなわち「神話」の世界の住人にとって、その外部に判断の規範を置くことは至難の業です。
だから、共同体の内部に「天皇」を作りあげ、安心できる規範を作り出さずにはいられないのでしょう。
その共同体がとりわけ、何かに「対抗」することを目指すものであるほど、自らの拠り所として、判断の規範となる第三者の視線を、身近なところに置かずにはいられないと思うからです。
こうして、共同体内部に判断の規範を置き、「単独に耐える」ことをしなかったことが、現在の、ある部分の「対抗」イデオロギーの弱体化の構造的要因である、と言ってしまうのは言い過ぎでしょうか。
安易に自分の依拠できるところを求めずに、この不安定さに耐えながら、「共同体」の構成員であることができるのかどうか、身を挺して考えていきたいと思います。
言葉の力
内田樹さんのブログを読んでいたら、「「ことば」のもつ現実変成の力」について書かれていた。
なるほど。
すとーんとわかったような気がした。
内田さんは、『死と身体』の中で、「言霊」について書かれていたが、それと重なるのだろうなあと思うのですが。
書きながら、前向きな自分の生き方を見つけていくこともあるかもしれない。
けれど、例えばネガティブな感情を書くことによって、そのことがより深く、刻印されてしまうこともあるのではないのか。
それを、「「ことば」のもつ現実変成力」と言ってもいいのではないか。
もちろん、内田樹さんが書かれているような「つよいことば」(集合的、無意識的順位で読む人にふれることば」というのとはずれるかもしれない。
けれど、詩人のように「つよいことば」を探りあてることができなくても、一人ひとりが、自分ので、自分を支えるという意味で「つよいことば」を持つのではないだろうか。そしてそのことばによって、現実を変成していくこともあるのではないか。
佐世保の事件でも、加害児は、たくさんの「ことば」をつむいでいた。
バーチャルな世界と現実の世界の混同、といった単純な二項対立的な次元ではなくて、そもそも、彼女がつむいだ「ことば」が、彼女の現実に影響を及ぼした、と考えるのは乱暴だろうか。
「ことば」によって、人は世界を認識するのだから。
ただ、だからと言って、「言葉の乱れは心の乱れ」みたいな話にもしたくはないのですが……(^^;)
なるほど。
すとーんとわかったような気がした。
内田さんは、『死と身体』の中で、「言霊」について書かれていたが、それと重なるのだろうなあと思うのですが。
書きながら、前向きな自分の生き方を見つけていくこともあるかもしれない。
けれど、例えばネガティブな感情を書くことによって、そのことがより深く、刻印されてしまうこともあるのではないのか。
それを、「「ことば」のもつ現実変成力」と言ってもいいのではないか。
もちろん、内田樹さんが書かれているような「つよいことば」(集合的、無意識的順位で読む人にふれることば」というのとはずれるかもしれない。
けれど、詩人のように「つよいことば」を探りあてることができなくても、一人ひとりが、自分ので、自分を支えるという意味で「つよいことば」を持つのではないだろうか。そしてそのことばによって、現実を変成していくこともあるのではないか。
佐世保の事件でも、加害児は、たくさんの「ことば」をつむいでいた。
バーチャルな世界と現実の世界の混同、といった単純な二項対立的な次元ではなくて、そもそも、彼女がつむいだ「ことば」が、彼女の現実に影響を及ぼした、と考えるのは乱暴だろうか。
「ことば」によって、人は世界を認識するのだから。
ただ、だからと言って、「言葉の乱れは心の乱れ」みたいな話にもしたくはないのですが……(^^;)
2004年12月23日
Kさんの死
Kさんのお嬢さんから、喪中葉書が届く。
お嬢さんのEちゃんともお付き合いがあるので、何の気無しに目を通して愕然とする。
Kさんの死を告げる喪中葉書だった。
数年前、Kさんには本当にお世話になった。
このような言葉では済まないくらい、Kさん無しでは、今の私がないくらいに。
ただ、私自身の多忙さから、だんだんと会う機会が減り、Kさんがブラジルに帰国してからは、ほとんど連絡を取っていなかった。
まさか、Kさんが亡くなっていたとは。
こんな後悔の、どうしようもない気持ちを持つことは、初めてかもしれない。
Kさんには、いつか、恩返しをしたいと思っていた。
再会できることを信じていた。
でも、もうそれは決してかなわない。
まさか、亡くなっていたなんて。
Kさん、ごめんなさい。
お嬢さんのEちゃんともお付き合いがあるので、何の気無しに目を通して愕然とする。
Kさんの死を告げる喪中葉書だった。
数年前、Kさんには本当にお世話になった。
このような言葉では済まないくらい、Kさん無しでは、今の私がないくらいに。
ただ、私自身の多忙さから、だんだんと会う機会が減り、Kさんがブラジルに帰国してからは、ほとんど連絡を取っていなかった。
まさか、Kさんが亡くなっていたとは。
こんな後悔の、どうしようもない気持ちを持つことは、初めてかもしれない。
Kさんには、いつか、恩返しをしたいと思っていた。
再会できることを信じていた。
でも、もうそれは決してかなわない。
まさか、亡くなっていたなんて。
Kさん、ごめんなさい。
2004年12月22日
樋口裕一、2000『ホンモノの文章力』を読む。
樋口裕一、2000『ホンモノの文章力−−自分を売り込む技術』(集英社新書)、を読む。
まあ、この手の本は、「文は人なり」「生活綴方」批判から出発するのは当然かな。
「日本の作文教育において、何よりもまず、内容的に嘘をつかないこと、自分らしい言葉で綴ることが求められてきた。作り話や小説の真似などは論外、背伸びせず、工夫もせずに、現在の自分を表現することが求められてきた。」[18]
「生活綴方運動の歴史的役割は高く評価するべきだろう。だが、そうした考え方が、今もまだ続き、あいかわらず「ありのままに書け」「自分の言葉で書け」と指導している状況には、問題があると言えないだろうか。」[19]
これが樋口の提起。
書くことの意味については、以下のように述べられている。
「題材を与えられる前には、実は考えというものには形はないのだ。むしろ、書こうとすることによって、自分の感想がはっきりしてくる。だから、「自分の考えを素直に書け」ではなく、「書くことによって自分の考えを作り出せ」と言うほうが、書くという行為にふさわしい。「書く」と「考える」を別のこととみなし、「考えた結果を書く」とみなすよりは、「書く行為=考えること」とみなすほうが、現実に近いのではあるまいか。」[20]
「手さぐりで、少しずつ字を埋めていってこそ、文章ができあがっていく。不定形な、もやもやとしたものを形にする段階で、ある事実を強調したり、誇張したり、脚色したりする。そして、だんだんと自分の考えが成り立っていく。それが書くということなのだ。
そうした「書く」という行為の本質を、「ありのままに書け」「自分の考えていることを素直に書け」という理念は無視している。」[21]
「書く」という行為の本質を、「ありのままに書け」が無視しているとは思わないけれど(^^;)
でもまあ、樋口が言っている「書く」という行為の本質には共感しました。
まあ、この手の本は、「文は人なり」「生活綴方」批判から出発するのは当然かな。
「日本の作文教育において、何よりもまず、内容的に嘘をつかないこと、自分らしい言葉で綴ることが求められてきた。作り話や小説の真似などは論外、背伸びせず、工夫もせずに、現在の自分を表現することが求められてきた。」[18]
「生活綴方運動の歴史的役割は高く評価するべきだろう。だが、そうした考え方が、今もまだ続き、あいかわらず「ありのままに書け」「自分の言葉で書け」と指導している状況には、問題があると言えないだろうか。」[19]
これが樋口の提起。
書くことの意味については、以下のように述べられている。
「題材を与えられる前には、実は考えというものには形はないのだ。むしろ、書こうとすることによって、自分の感想がはっきりしてくる。だから、「自分の考えを素直に書け」ではなく、「書くことによって自分の考えを作り出せ」と言うほうが、書くという行為にふさわしい。「書く」と「考える」を別のこととみなし、「考えた結果を書く」とみなすよりは、「書く行為=考えること」とみなすほうが、現実に近いのではあるまいか。」[20]
「手さぐりで、少しずつ字を埋めていってこそ、文章ができあがっていく。不定形な、もやもやとしたものを形にする段階で、ある事実を強調したり、誇張したり、脚色したりする。そして、だんだんと自分の考えが成り立っていく。それが書くということなのだ。
そうした「書く」という行為の本質を、「ありのままに書け」「自分の考えていることを素直に書け」という理念は無視している。」[21]
「書く」という行為の本質を、「ありのままに書け」が無視しているとは思わないけれど(^^;)
でもまあ、樋口が言っている「書く」という行為の本質には共感しました。
仕事が終わった。
1月上旬までの講義ノートづくりが終わった。
いつも自転車操業状態の私が、この時点で、ノートづくりを終えてしまうなんて、画期的なことである。
これで心おきなく、自分の仕事をすることができる。
こういう仕事って、最初にやってしまう方が、精神衛生上、かなりいいかもしれない。
北海道のOさんから、冊子が大量に届く。
最新号以外は、贈呈というありがたいお言葉。
ざっと目を通す。
その時どきの課題に具体的にアプローチする記事が続く。
定期購読を申し込んだので、これからはちゃんと追いかけていこう。
それにしても、こういうものの刊行が難しくなっているご時世、やっぱりまずいよね、と思う。
いくつか雑務を片づける。
やっぱり、納得がいかないことも。
私の「上司たち」ってば、「俺がルールブックだ」状態で、指示に一貫性が無いことが一番困る。
以前、私に対して言ったことと、ご自分がなさっていることが、正反対だったりする(^^;)
どうしてこうなんだか。
前に言ったことって、忘れちゃってるのかなあ?
あまりにもしょっちゅうなので、気にしないことにする。
それにしても、人間って自分勝手なものだと思う。
「忙しい」から、雑務は断る。
しかし、おいしい仕事は、引き受ける。
その結果更に忙しくなり、雑務は人に押しつける。
あ〜あ、その雑務ばっかりやってる私ってば。
「仕事」でお金をもらっているなら、まだしも、ね。
雑務の押しつけ方も、実に中途半端。
まかせてくれればまだやりやすいのだけれど、一部に手をつけ、途中で、「思いこみ」による指示が多発。
なんだか、ね。
いつも自転車操業状態の私が、この時点で、ノートづくりを終えてしまうなんて、画期的なことである。
これで心おきなく、自分の仕事をすることができる。
こういう仕事って、最初にやってしまう方が、精神衛生上、かなりいいかもしれない。
北海道のOさんから、冊子が大量に届く。
最新号以外は、贈呈というありがたいお言葉。
ざっと目を通す。
その時どきの課題に具体的にアプローチする記事が続く。
定期購読を申し込んだので、これからはちゃんと追いかけていこう。
それにしても、こういうものの刊行が難しくなっているご時世、やっぱりまずいよね、と思う。
いくつか雑務を片づける。
やっぱり、納得がいかないことも。
私の「上司たち」ってば、「俺がルールブックだ」状態で、指示に一貫性が無いことが一番困る。
以前、私に対して言ったことと、ご自分がなさっていることが、正反対だったりする(^^;)
どうしてこうなんだか。
前に言ったことって、忘れちゃってるのかなあ?
あまりにもしょっちゅうなので、気にしないことにする。
それにしても、人間って自分勝手なものだと思う。
「忙しい」から、雑務は断る。
しかし、おいしい仕事は、引き受ける。
その結果更に忙しくなり、雑務は人に押しつける。
あ〜あ、その雑務ばっかりやってる私ってば。
「仕事」でお金をもらっているなら、まだしも、ね。
雑務の押しつけ方も、実に中途半端。
まかせてくれればまだやりやすいのだけれど、一部に手をつけ、途中で、「思いこみ」による指示が多発。
なんだか、ね。