豊田一夫関連事件




1954年12月16日、警視庁の武装警官隊が、殉国青年隊の本部と寮を捜索した。警視庁の狙いは、隊長の豊田一夫を拳銃不法所持の容疑で逮捕することだったが、豊田は既に乗用車で逃走していた。




豊田は1982年に出版した自叙伝『夢のまた夢』のなかで逃走の経緯に触れ、「実は数日前に警視庁がなにかやりそうだと私の耳に入っており(略)前日の夕方寮を抜け出し…」と、警視庁から捜査情報が漏れていたことを示唆した。




毎日新聞社会部『暴力新地図』によると、警視庁は1954年9月から、暴力団や右翼の一斉取り締まりを進めていたが、取り調べの過程で暴力団の幹部と昵懇となり協力者になってしまう捜査員がいたという。住吉一家の取り調べを担当した某警部補は、豊田の兄貴分で殉国青年隊の顧問を務める高橋輝男と関係を深めたという。




豊田が逃走に使った乗用車には、高橋輝男と関係が深い警部補が東京陸運事務所から入手した仮ナンバーが付けられていたという。豊田に捜査情報を漏らしたことを疑われた警部補は、1955年4月に警視庁を去ったが、その後も高橋や安藤昇といった親分衆と交際を続け、横井英樹襲撃事件などに関与したという。




豊田は1955年12月に警視庁に出頭した。豊田の取り調べに当たったのは、捜査四課の石村勘三郎警部補だった。豊田は自叙伝に「事件決着後、私は石村氏の人柄にひかれて交わりを持つようになり、現在に至るもなお御指導を頂いている」と記している。




1956年2月に保釈された豊田は、石村や高橋輝男らの支援を受けて、東京小平市で青年運動の拠点作りを開始する。石村はその後、警視庁を辞め、暴力団や右翼と関係の深い平和相互銀行の総務部長となった。




1983年3月、豊田は平和相互銀行の稲井田隆社長や伊坂重昭監査役と都内のホテルで会った。石村も同席したこの会合で、平和相銀の関連会社が所有する鹿児島県の馬毛島を国に買い上げさせるため、政界に金をばら撒くことが決まった。




1983年5月から84年6月にかけて、石村らが小平市の豊田邸に現金約20億円を運び込み、これを豊田が自民党の国会議員らに配ったという。86年7月に起きた平和相互銀行事件で、東京地検特捜部は豊田を事情聴取し、馬毛島に関して誰に金を渡したのか尋ねたが、豊田は「政界が大変な混乱状態になるので、一切いえない」と証言を拒否した。




1986年8月、東京地検特捜部は平和相互銀行事件の捜査を終結した。馬毛島と政界の関係は解明されなかった。特捜部の関係者たちは馬毛島に関して、「ある日突然、捜査が中止になってしまいました」、「あの事件のことは何も言いたくない。墓場までもっていく」とマスコミに答えた。豊田は「馬毛島問題は一切他言しないことにしている」と沈黙を続けた。









『夢のまた夢』『暴力新地図』『呪縛は解かれたか』『週刊文春1993年2月25日』『朝日新聞1954年』より


santama55santama55  at 22:00  | コメント(0)  |  この記事をクリップ! 

ヤクルトと右翼、総会屋




児玉誉士夫の側近で、日本政治文化研究所の理事長を務めた西山廣喜は、1970年代からヤクルトと関係を深めた。



1970年代前半、ヤクルト本社社長の松園尚巳に対し、総会屋やブラックジャーナリストがスキャンダル攻撃を始める。



対応に苦慮したヤクルト総務部は、西山廣喜と、その側近の松本勝雄、さらに住吉会の首脳陣に、総会屋対策を依頼した。



西山らはヤクルトの与党総会屋として、松園に対する攻撃を抑えた。ヤクルト本社に因縁をつけに行った総会屋が西山に殴打されることもあったという。



ヤクルトは見返りとして、西山らに利益供与を開始。商法改正後も利益供与は続き、警視庁が捜査を進めたこともあったが、立件は見送られた。









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santama55santama55  at 20:30  | コメント(0)  |  この記事をクリップ!