2011年06月13日

新しく事業を始めることになりました!


モバイルとウェブを活用して、事業を始める事になりました!(・∀・)

Mowcomi World

今後、こちらのサイトでブログも始めようと思っていますので、
是非一度ご確認ください♪


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2010年05月23日

終わりのない旅

トウヒの木が流木となり、朽ちながら、周りの土壌に栄養を与え、
いつの日かそこに花を咲かす。

そう考えると流木の生と死の境目というものがぼんやりしてきて、
あらゆるものが終わりのない旅をしているような気がしてくる。

と星野道夫さんは言う。

そう考えると、星野道夫さんもまだ、終わりのない旅を
しているようなものだ。

死後にその存在を知った私も、未だに彼の言葉に感動している。
まだまだ沢山の人に影響を与え、夢を与えている。


小さい頃は、いつか本を書きたいというのが、一つの夢だったが、
私もまた、終わりのない旅をしたかったのかもしれない。

そう思うと、このブログでのふとした内容も、終わりのない旅を
はじめるのかもしれない。

私が死んだ何年も後に、ふとした拍子にたまたま誰かに読まれた時に
「あー分かる」って言われたら、なんとなく嬉しいかなって思う。

sfukuchan at 22:03|PermalinkComments(0)TrackBack(0)

2010年02月08日

善悪と権力 そしてマネジメント

先週のNHKの爆問学問は、過去の放送をいくつか取り上げていた。
その中の一つの話しだ。

「今まで悪とされてきたものは、生命的なものだ
 生きようとする意志が人やものを傷つけてきた」

と哲学者の木田元が言っていた。


これが、とても衝撃的だった。

確かに生きるのにあまりに必死になる必要がある世界では、
何が善で、何が悪かに構ってられないし、
周りがそれを見張ったり、抑制する事もできなかったのだろう。


思うに、殆どの王様や権力者は、殆どの庶民にとっては
悪でしかなかったのだろう。


高い志のない権力は、すぐに自分にだけ都合のいい世界作りに向かい、
悪と呼ばれるものに近くなってしまう。


人が瀕死なのを見捨ててまで、自分が食べ、自分の子孫を残そうと犯し、
自分の安全のために、人から全てを奪う。

自分を守ったり、心地よくするものだけを残そうとする。
自分に危害があったり、自分が手をかけていないのに光を放つ存在を
恐れ、闇に葬ろうとする。


人は権力があると自然とそうなるものだ。飢えた時代には特に。

権力を持っていないから、そうなっていないだけで、
飢えていないから、そうなっていないだけで、
今でも多くの人の胸の奥には、そんな悪が潜んでいる。


過去の教養人が読む書物の多くが小説であった理由の一つは、
手を変え、品を変え、そういう人間の本性を感情に訴えながら突きつけ、
人の気持ちに共感できる能力をつけさせる事にあったのではないかと思う。

それで、昔の教養人は小説をよく読んだ。本の多くは小説だったし、
科学が発達するまでは、実利的な知識など数少なかったのだから。
人の立場にたつという、たった一つの事を身につけるために。

それほど、権力者が社会や人のために志を持つという事は難しい。
今の政治家の政治と金問題を見ているとそれが良くわかるし、
多くの人はそれを簡単にあきらめる。

ならば、それを防ぐためにはどうしたらいいのか。
何らかの規制を掛けるしかないのか。

あるいは、ドラッカーの言うマネジメントなら何かできるのか?
つまり、自分のしている事がどう評価されているか、
という情報がフィードバックされれば、変わるのだろうか?

これは情報の伝達のコストが限りなく0に近くなってきた
今、試してみる価値のある事ではないだろうか?

sfukuchan at 00:46|PermalinkComments(0)TrackBack(0) テレビ番組 

2010年01月25日

リアルタイムのニコニコ動画のコメントのような使い方


ツイッターを使っているかという共通テーマがあったので、
それについて書いてみます。

最近ようやくtwitterでつぶやいたりするようになりました。

同僚や友人のつぶやきを見るのも楽しいですが、最近
TVを見ながらtwitterを見るのが気に入っています。

私は情熱大陸やNHKスペシャルといったドキュメンタリー番組が
すきなのですが、その番組を見てる時に「#jounetsu」や「#NHK」
などで検索している状態で色々な人のつぶやきを見ています。

そしてそれをRTで引用したりしながら、自分もつぶやいています。
ちょっとしたリアルタイムのニコニコ動画のようで、色々な人の
色々な意見がリアルタイムで聞けてとても楽しいです。

自分と同じ趣向を持った人達と一緒にTV見てるような気になって、
「うんうん。わかる」見たいな気分になります。

一度試してみてはいかがでしょうか?


また、よろしければフォローしてください(笑)
http://twitter.com/fukuchan

sfukuchan at 01:28|PermalinkComments(0)TrackBack(0) その他 

学ぶは辛い事ではなく、楽しんでやる事

もし高校野球の女子マネージャーがドラッカーの『マネジメント』を読んだら


を読みました。(タイトル長いですね)


読みやすくって、結構お勧めです。
ドラッカーの言っているマネジメントの事がとても具体的に分かります。
そして、意外と泣けていい話です。

萌の挿絵が、ちょっと話しの内容のイメージとずれている気はしますが(笑)


衝撃的なモエタンが登場してから、早数年、女子大生が会計学について
話す本や、女子高生が数学定理や物理法則について話す本など
最近本当に色々出てます。


実は本屋で見かけた時には、興味はあっても手に取るまでも至らなかった
のですが、うちの社長が読んでて、良かったと教えてもらって読みました。


内容について考える事も多かったのですが、ちょっと思ったのは
これからの教育の形です。


これまでは勉強や学問というと辛く厳しいものだったり、一部の人
だけが理解できる小難しいものでした。

でもこれからは、活字だけでなく、画像や動画など表現方法も広がって
いるし、ネットでそれらを伝えるコストも下がっているので、
何かを学ぶという事は、もっと楽しいものになっていいと思います。


物語やマンガやアニメやゲームで、より多くの人が学べるなら
それも一つの方法として、ありだなと思うのです。

最近の脳科学では、感情が伴った方が記憶に定着しやすいと
言われているので、その点でも物語形式なのは
とてもいい方法なのではと思います。

そしてより多くの人により多くの有益な情報や意識が根付く。
楽観的に考えすぎでしょうか?


物語やバーチャルリアリティやゲームで何でも楽しく学べる
そんな時がやがてくるのかもしれません。


sfukuchan at 01:18|PermalinkComments(0)TrackBack(0)  

2010年01月12日

夢を語るリーダーの必要性


カンブリア宮殿で、「玉子屋」という弁当屋が紹介されていた。
http://www.tv-tokyo.co.jp/cambria/list/list20100111.html

その玉子屋、従業員の大半が、元「札付きの悪」だったという。
スタジオに行っていた従業員も、おやじ狩りをしていたり、
元暴走族だったり。

そんな従業員が夢中で仕事をやっていた。
聞くと、会社には21のチームがあり、各チームのリーダーには
社長並みの権限を持たせているという。

しかし、よく話しを見ていると、その権限は、部下の昇給と賞与や
アルバイトの時給など、冷静に見れば社長の仕事ではない。
部長の仕事程度だ。

トップマネジメン層の仕事は、ドラッカー曰く、事業について
考える事である。彼らはそれについては全くしていない。

だが、この会社では「社長並みの権限」と言っているのであろう。
実態が多少伴っていないのが何だというのか。


大切なのは、その「メッセージ」である。
会社も本気でそう思って権限委譲しているなら、
細かい定義などはどうでもいいのだ。

自分で責任を持って考える事は面白い。答えのみつからない事は面白い。
と玉子屋の会長は話をしていたが、そういう事を従業員に与えた、
そういう環境を従業員に与えた事が大事なのだ。


番組の中で、社長が仕事はきついと思うと言っていたが、
同時に会長が、飲みに言っても仕事の話ばかりしているとか、
仕事じゃなくて面白い遊びだと思って取り組んでいると言っていた。

従業員は本気で取り組める事ができて、本当に毎日が充実して
幸せなんだと思う
。企業の社長は、従業員に白けずに本気で
取り組める環境づくりをする事が本当に大事なのだと感じた。



また村上龍はこう言っていた
・道徳や人情で諭すのではなく、「やるべきこと」を彼らに与えた
・やるべきことを持つ元気な若者は、必ず成長し社会に貢献する。

そうなんだ。今目の前にやるべき事があるというのはとても大切。

引いては、今の日本は若年層にフリーターが多いというとても
最悪な状況。


今必要なのは将来に希望を持たせ、方向性を指し示す事だ。



民主党に政権交代して数ヶ月が経つが、今の日本に必要なのは
正しい政治だけではないと思う。長年の膿を出すのも大事だが、
これからの将来に希望を持たせる事が大事なんだ。

少子高齢化でこれから老後はどうなるだの、
日本はこれからどうやって食べていくだの、暗い話ばかりで、
将来に夢のある話をできるリーダーが不在なのだ。

未来は、これから作られるものだ。

だから、実現しなかった云々で後から責任追及されるのを
恐れるのでなく、でっかく、「これからはこうなる!」
と言える人が日本を引っ張って言って欲しい。


そして、それを世襲で票を集めるテクニックにだけ長けた
政治家に求めるのは間違いなのかもしれない・・・。

それなら、そういうリーダーをどこから探そうか。
それをこれから考えてみたい。

sfukuchan at 00:47|PermalinkComments(0)TrackBack(0)

2009年12月27日

信念を持った生き方


先日放送されたガイアの夜明け「闘う人たち、その後 」を見た
http://www.tv-tokyo.co.jp/gaia/backnumber/preview091222.html

その中でスワンベーカリーという、「福祉とビジネスの両立」
を目指している人が語っていた。



「それが夢物語でない事を証明していくのが、我々の仕事」


自分の仕事に対して、こうやって語れるようになれないとな
と痛切に感じました。

自分の仕事に対する姿勢をもう一度見つめなおしたいと
思います。


sfukuchan at 22:38|PermalinkComments(0)TrackBack(0) ガイアの夜明け 

2009年11月18日

協同労働という働き方

20091110_2ガイアの夜明けで、「協同労働」という働き方を放送していた
(http://www.tv-tokyo.co.jp/gaia/backnumber/preview091110.html)

「協同労働」というのは、全員が対等の立場で、出資者であり、
経営者であり、労働者であるという法人経営の方法らしい。

今、法人形態で一番メジャーなのは株式会社だが、
1円起業の場合など、株式会社形態である必要のない場合もある。

いつまでも株式会社だけではないだろうと思っていたので、
とても興味深かった。


ただ、放送内での協同労働の事例である、介護業をしている
おばちゃん達を見ていると、ある種の限界を感じた。
会議が井戸端会議的なのだ。サークル運営的なものも感じた。


思ったのは、やはり、何か物事を進めていく時には責任者としての、
リーダーが必要なのではないかという事だ。

また、お金を外部から借りたりするような局面が出てくれば、
最終責任を持つ人の存在が必要になってくるだろう。
銀行から会社がお金を借りる時も、大きな会社でなければ
保証人が必要なのだ。


ただ、大きくなく、新しくもない産業での一法人形態としては
面白いと思う。これから法制度化していくらしいので、
その後の進化を期待したい。


どんな進化があるだろうか?
この形態で、リーダーを決めて、リーダーが管理者を決めて
組織化するとしたら、リーダーは選挙や立候補で決める事になるだろう。

しかしそれでは内閣などの組織っぽくなってしまい、
多分いい進化ではないだろう。

ではどんな形があるだろうか? という事を考えてみたい。

sfukuchan at 23:59|PermalinkComments(0)TrackBack(0) ガイアの夜明け 

2009年09月13日

金融の本当の姿

今日のNHKスペシャル「金融危機1年 世界はどう変わったか」
で恐ろしい金融商品が紹介されていた。



 「死亡債」という商品だ。


人が死んだ時に受け取る保険金の権利を集め、それを配分
して証券化した商品だという。

人が死ぬのは好況/不況に係わらず一定の確率があるために、
安定した収入が見込めるとの説明だった。

どう考えても狂っている!!と感じるのは私だけではないだろう。
人の死すら、計数化して取り込んで、自分の不労収入を増やそうという考え。
おぞましすぎる、自分勝手な欲望の塊である。


金融は間違いなくもっと抑制すべきだと思う。

なぜなら、金融はそれだけでは何もうみださないからだ。
金融はそれだけでは、人類全体に何もよい発展をもたらさない。

その本質は不労収入で甘い蜜を吸いたい欲望の塊なのだ。
それは実は人は誰でも持っている心の闇で、お金を持つと
人の心で大きく育つ。


金融で意味があるのは、期待を集めてできるベンチャー資金、
リスクを分散する保険の機能だけであろう。

前者は新しい産業の発展を促すし、後者は安心を付加する事によって
人々の生活を安定させる事ができる。

他の金融業は、本質的には搾取するだけ、回収して配分するだけである。
それは一種の賭博性があり、多くの人を集める事のできるモンスターである。


さらに怖い事には、ウェブによって情報の伝達が早まり、人々の
行動を速める事ができている今の状況では、たくさんのモンスターが
短い時間に生み出される可能性が高い。

冒頭の死亡債などがいい例で、ちょっと思いついた悪いジョークのような
アイディアとちょっとした高度な計算でかんたんにモンスターはできるのだ。

その計算が知的で、作業をやった達成感があるだけに、創り出した人は
かわいく感じ、育てたいと必死になるだろうが、明らかにモンスターである。

もしかしたら、ネットによる情報化が金融のモンスターとしての本質を
浮き彫りにしたのかもしれない。


そして、そのモンスターはそれだけでは何も生み出せないくせに、広まるのは早い。
生命体で無いのに、影響力は大きいウィルスのような存在だ。

そしてそのモンスターは、欲望ゲームに参加していない人に、不況による失業など
甚大な不幸をもたらす。甘い蜜を吸った欲望ゲームの参加者からは十分に回収せずに、
何も悪くない人から多くのものを奪う。


長期的な動きを単純にいうと、金融は、一般市民から巻き上げたお金を
欲望ゲームに参加する強欲な金持ちに渡す仕組みだ。
どの強欲者に渡すかが決まっていないために、一見公平に見えるが、社会全体
から見るととんでもない仕組みだ


規制を強化すると金融産業が空洞化するという論調もあるが、
金融産業は今より空洞化してしかるべきだ。
元々、人々の欲望を集めて肥大しすぎているのだ。

今の金融の仕組みでないものを考えながら、それまでは今の仕組みをどう
抑制するか真剣に考えたほうがいいのは明白であると考える。

sfukuchan at 01:34|PermalinkComments(0)TrackBack(0) NHKスペシャル 

2009年07月20日

ものより大切なものがある

先週(7/13)放送のカンブリア宮殿の話を見て感動しました。
(http://www.tv-tokyo.co.jp/cambria/list/list20090713.html)

瀬戸内の小島に住む、伝説の時計職人の話で、
他の人ではもう修理できない時計を修理するおじいちゃんの職人でした。

持ち込まれるのは、思い出の品だからなおしてほしいという昔の時計、
闘病中の主人が大切にしていた時計などなど思い出ぎっしりの時計。。。


「時計よりも、その周りのものの方がずっと大事」と語る時計職人。


時計をなおすのは、自然光で時計が見れる午前中だけ。
なおし終わって、海を見ながらたそがれる日常。

壊れた時計と一緒に届く、大切な思いを切々と語った手紙や、
時計を治した後に届く感動と感謝に溢れた手紙に囲まれた生活

見てて、なんだか涙が出てきそうになりました。

いつか、こういう仕事の仕方ができるようになりたいな。
と思いました。

sfukuchan at 23:24|PermalinkComments(0)TrackBack(0) テレビ番組 

2009年06月28日

本当に幸せについて考えられる時代になったのではないか?

最近は経済学で、幸福について考える事が一つのトレンドになっているらしい

前回の「幸せの追求と本当の民主主義」にもそれについて書いていたが、
「ディープエコノミー (生命を育む経済へ)」
という本にも、次のように書かれている。

一般的に一人当たりの収入がおよそ1万ドルまでなら、一貫して幸福はお金で
買うことができるが、それを超えると相関関係はなくなるという研究者の報告がある。



ある時点までは、経済発展やお金が殆ど幸せとリンクしていたのだ。
幸せは必ずしもお金で買えないというのは貧乏人の妬みのような言葉だった。

しかし、今、それらは乖離してきた。経済発展は格差を広げ、一部の人に富が
集中する構造を発展させてきた。

そして、個人で考えても、収入増が、働く時間を異様に増やすなど、必ずしも
幸せをもたらさないと感じてきているのではないだろうか。



そう考えると、

   今本当に幸せの事を考えるべき時なのではないだろうか?



これを「伝えていく」という面と、「考えの純粋性」という点から考えたい。




●なぜ、宗教団体はうさんくさいのか?

まず、「伝えていく」という面から考えたい。


幸せについて考えるというと、なぜか「うさんくささ」がつきまとう。

特に、幸せを声高に論じているのを聞くと、かなりうさんくさく
感じる。その裏側に何らかのお金の臭いを感じてしまうからだ。



   なぜ、そう感じてしまうのだろうか?



それは宗教が元々は幸せについて論じられているものなのに、
気がつくとお金を集める構造の面が強調されて運営されるからだ。

今の宗教は、多かれ少なかれ、信者に考え方を変えさせて、
教祖や本部がお金を集めるという構造を持っている。




創始者が始める場合もあれば、その魔力に気づいた人が後に
組織化する事もある。それによって、働いて食べ物を作らなくても
生きれる人が出てきたり、場合によっては富を得るものが出てきた。

古い宗教と新しい宗教で少しは話が違うが、結局は今の宗教は
お金をうまく搾取して、本部に集める事のできる構造になっている。
これは宗教が生き残って、発展していく上で仕方のない事だった。

宗教というのは、幸せについての考えを伝える必要がある。

情報を伝えるのに時間や費用がかかると、どうしても伝える人を
食べさせる必要が出てきて、何らかのお金の回収構造が
必要になってくる。

そして、そのお金回の収構造は、純粋な共鳴者だけではなく、お金の
収集をインセンティブにした人も集めてしまう。
その考えが魅力的で、人やお金を集める力が強ければ強いほど集めてしまう。

しかも困ったことに、お金は今の世の中では、一種の力であるために、
組織内で、お金を持っている人は権力者になってしまう。

そして、組織内で幸せの追求がインセンティブで動いている人と、
お金の収集がインセンティブで動いている人がいて、どっちにお金が
集まるか? これが後者だというのは日の目を見るより明らかだ。

結局、宗教団体や幸せを広めようとする団体には、腐敗しやすい構造が
潜んでいたんだと思う。残念ながら。



だが、これからはお金や多大な時間をかけずに、幸せになる方法を
論じたり、発信できる。お金とは殆ど無縁の構造が作れるのだ。

その理由は、情報を発信したり、他の人の意見を掛け合わせる
コストが低くなったからだ。

宗教という形を取るかどうかはともかく、今は構造的にお金を
集めなくても、幸せについてみんなで考える事ができる時代になった。


これは過去の時代には無理だった。これからの時代には可能なのだ。



●どうしても不純物を含んでいた、これまでの宗教

また、もう一つの今、幸せを考えられる時代になったのではないかという
理由は、経済と幸せの乖離だ。

昔は宗教というのは、いかに辛い状況を乗り越えるか我慢するかの処世術だった。

何をきれいに言っても、殆どの人は日々、貧しく飢え苦しみ、病苦に犯され
て死んでいた。そんな状況で幸せについて考えても、結局ある種の現実逃避
を含んでしまわざるを得なかったのだ。

宗教で幸せになる事が、一種の麻薬とどう違うのか? みたいな事が
議論になりえるのは、宗教の中にはそういう一面が存在していた
からだろう。現実だけに即していたら、それは議論になりにくい。

現実逃避からはできるだけ距離を置いた幸せ(幸せが感じ方だけに、どうしても
少しは含んでしまうが)、それをようやく感じる事ができるのだ。


また、受け手の知識レベルの低さから、信じるためにはどうしても
ある種の奇跡が必要だった。

仏教はブッダの言っていた事は殆ど哲学だったのに、いつの間にか
お経を唱えると願いが叶う的なものに姿を変えり、インドには奇跡がある
と言われたりしたのは、仏教が生き残っていく上で仕方のない事だった。

しかし、この点においても我々は奇跡に頼る事のない幸せをちゃんと
考える事ができるようになってきたのだ。



●これから


先進国において経済発展と幸せの増加が同一でなり、お金回収構造でなくても
組織を作れるようになった今、

また、現実逃避や奇跡に頼らなくとも幸せを考えれるようになった今、

本当に幸せを考えれる時代になったし、
また、はじめて幸せを考えるべき時代になったのではないだろうか。


あなたはどうお考えですか?






sfukuchan at 13:00|PermalinkComments(0)TrackBack(0)  

2009年06月27日

話すということの魔法

話すという事は一種の魔法だ

それによって、新しい事が伝わり、共感でき、場合によっては
その相手との間に知的創造が生まれる。

自分が体験したこと、感じたことを共通の理解できる記号に
変換して、相手に伝える。


話すだけで、その人との間に「幸せ」が生まれる
いい話をする人が多いだけで、社会の総幸福量が増えるんだ。

だったら、どんな話が幸せをつくりだせるか考えてみよう

何でも「話す」という単語で表現するけど、
それぞれ別の単語が与えられてもいいのではないだろうか。

言葉を使って口から相手の耳へと伝達するという、
このアウトプット行為の殆どが話すと言われているけど、
その範囲はすごく大きいと思う。

感じた事を伝える、
新しい事を共有する、
経験した事を伝える、
味方だと表現する、
楽しませようとする、
攻撃する、
お互いの優劣を表現しようとする、
論じる、


幸せを感じれるのはどんな話だろう。
同じ新しい事を伝えるにしても、知識をひれかして、相手を
論破したり、否定するのはちょっと違う。

自尊心を満たすためではなく、「これを知ってもらって幸せを
共有したい!」という気持ちで伝える新しい事はとてもいいもの。

だったら、どうやったら楽しい話ができるかを考えてストックしたり、
この話は面白いと思ったものをストックしたり、これは新しいと
いうものをストックしておくといいね。


話すのが苦手な人はブログで書いたりすればいい。

話すことより、展開のスピードは遅いけど、
自分から書くだけでなく、書いてることに係わりを持っていくことで
新しい事が生まれるかもしれないから。

そうして、つながりの中から幸せを作っていけるといいね。

sfukuchan at 22:38|PermalinkComments(0)TrackBack(0) その他 

2009年06月01日

幸せの追求 と 本当の民主主義

「ソウルフルな経済学」という本で何が人々の幸福度を改善するかについて、
面白い事が書かれている。

心理調査では、多くの人が一番幸せを感じるのが、セックスしている時で、
その次が人付き合いとリラックスする事だという。

もちろん、より多くの人により多くのセックスをというのは政党や
経済学の目指すところではないという。当たり前だ(笑)


じゃあ、幸せを政治的や、経済的な面で、つまり個人としての追求でなく
全体としての追求するとしたらどういう事になるだろうか。

金銭が係わってくるのだろうか??

全く係わらない訳ではないだろう。
でも今思われているほど、重要ではない。
実際に経済的に日本は発展したが、幸福になった実感はないではないか!!


じゃあ、何が影響するかというと、私は次の辺りが影響するのでは
ないかと思う。

 ・自分で自分の環境を変えれるという「自由度」
 ・何かに夢中になって熱く取り組める「夢中になれる何か」の存在
 ・自分が成長したり、変われる「きっかけ」や「気づき」の多さ


この実現の一環として、貧困からの開放、健康的な暮らし、
様々な機会の平等な存在があるのではないかと思うのだ。


これを視野に入れないと、より多くの金銭的な収入増だけでは
全体の幸せに殆ど意味がないだろう。なぜならある程度以上の収入は、
他の人と比較した相対的な優越感しかもたらさないからだ。

相対的なものを全体に与える事はできない。

できるとしたら、心理学的な人間の脳のバイアスを利用した
錯覚によって、みなにそう思い込ませる事ぐらいだろう。

そういうように脳のバイアスを使うという事になると
麻薬によってもたらされる幸福感との差異のポイントが分かりづらい。
これまた、政治や経済で目指すものではなくなってくるだろう。



このように幸せベースで考えると、今の「民主主義」の
大きな問題点が浮かび上がってくる。

特定の王様や独裁者に搾取されるのでなく、国民が主権を
持つ事の意味は、全員に公平に一票が与えられる事だけではない。

そこには自分の力で自分の環境や、世界や、何かが変えられる
という「自由感」や「希望」が必要なのだ。



そういう点でいうと今の日本は、そういう意味での幸せはない。
殆どの人は、自民党を選んでも、民主党を選んでも、他の政党を
選んでも何も変わらないと思っているからだ。

腐敗した政治家や、硬直化して税金を非効率にしか使えない
官僚組織をどうしようもないと思っているからだ。

政党を変えても何も変わらない。でも革命というほど過激に
不満がたまっているわけではないし。という軽いストレスを
持ち続ける現状維持。これが今の日本の姿ではないだろうか。


経済学では投票を棄権するのは1個人にとっては「合理的な選択」
だと言われている。なぜなら選挙の結果には殆ど影響をおよぼ
さないからだ。自分の一票がどちらかを決める決定的な一票に
なる事は殆どありえない。(「ソウルフルな経済学」)

ならば、政治家を選ぶために、政党を選ぶために一票を入れるのは
殆ど意味が無い。それよりは、何かを言い出せる事(変えれる自由
の提供)や、不正が行われにくいインセンティブを持つ体制で
政治を行う安心感の方がずっと大切であろう。


今はそんな機会が誰かに与えられているだろうか?

また、今はそんな安心感があるだろうか?
まず、実感として、そんな安心感はないだろう。

また、政策決定は、政治現象を公共利益の追求を目的としたものでは
なく、特定集団の私的な利益間の競争とみなす事で説明できるとも
言われているのだ(「ソウルフルな経済学」)

つまり政治家も、政治家に働きかける団体も、全体の利益など
当たり前に見ていないのだ。政治家も含めた、政治に係わる人や
団体は、当たり前に自分の利益を目指した行動を取っているだけなのだ。



そう考えると、今の民主主義は抜本的な修正が必要だと分かるだろう。

どうやってという具体的な事は次にまわそう。
まずは国民がこの事に気づくべきなのだ。

そして、「幸せ」を追求する方向にシフトするべきなのだ。
それをどうやって測るなんていう以前の問題だ。
そもそもそちらに向おうとしていないのだから。


幸せを追求? それはどういう事だろうか?


沢山の幸せを一つ一つ作るような事を政府がするのだろうか?
いや、そうではない。

幸せは作るのではない、また全員分を作れない。幸せはかもしだすのだ。

自発的に行動するのは一人一人の人間だ。
国や経済対策に幸せを作る役目は不可能だ。
(ただ、人間が持つバイアスを修正する役目は必要だろう)


いい環境と沢山のきっかけの提供で、幸せの機会を増やし、
幸せをかもし出す。そんな世の中になれば、そんな政治体制になれば
最高なのになあ。

などと夢想している。


チェ・ゲバラを通して「革命」を考え、数冊の経済学によって最近の
「経済学」を考え、仕事を通して「全体の幸せ」を考えた今の私なりの
「結論」である。




sfukuchan at 00:22|PermalinkComments(0)TrackBack(0)  

2009年03月29日

欲望や強い感情はコントロールされないといけない

NHKスペシャルの沸騰都市を見た

これまで、同番組では好景気によって沸き立っている
都市を取り上げていたが、今回は世界的な金融バブル崩壊後の今、
その各都市を取り上げて、番組放映時と今とを比較する内容だった。

金融資本主義と揶揄された、これまでのバブル崩壊によって、
多数の人が不幸な状況になっていた。
特に貧困な労働者層がどうしようもないくらいに不幸な状況に
立たされていた。

外国に出稼ぎに行くために借金した青年が、職が無くて、
帰国し、土地も売って借金も残っているのが哀れだった。
その母親が「このこはまじめにやってきたのにどうして」
と言っているのが印象的だった。

私も昔何度か考えた事のある考え方だ。
経済について色々と学んだ今では「正直やまじめと経済的成功には
必ずしも因果関係は無い」というのは分かっているが、
それでもどうにかならないかとは思う。

労働者層が困っているその一方、ドバイへのロシアやシンガポール
からの投資が始まったりリビアでの韓国企業など、新たな欲望
から端を発した新しい動きも紹介されていた。

また、新たなバブルを産もうとしているのかもしれない。

最近、行動経済学についての本を何冊か読んで学んでいるのだが、
人は必ずしも合理的に動けず、脳のエラーや感情に左右される事
も多々あるようだ。金融の世界などはそれによって人の欲望を
かき集め、誰かが利ざやや不労収入を得る仕組みなのだろう。

この金融による仕組みはもう少しコントロールされて、実体経済と
ある程度切り離されるべきだろう。人の人生に係わる部分がこんなに
浮き沈みが激しくては、不幸な人を量産するだけだといえる。

数年前、梅田望夫さんが、その期待を集める仕組みによって、リスクの
少ないベンチャー企業を起業する事ができるという事を書かれていた
ので、その存在価値について再考する機会があった。
ただ、今、この状況を目の当たりにして、我々は再度見直すべきなのだと思った。


sfukuchan at 22:19|PermalinkComments(0)TrackBack(0) NHKスペシャル 

2009年03月08日

経済学は人を幸せにする学問だ

このタイトルは、「まっとうな経済学」という本のあとがきに書いてあった一文だ。

この本によって、色々な事が分かった。
ちょっとまとまりがないが、メモ代わりに記述しておく。

規制が一部の人に特別な利益をもたらす事。
 ロンドン都市周辺の美しい原野がを守るためにできたグリーンベルト規制
 によって、地価が高騰し、地主にメリットがもたらされた事。
 単に環境保全をするわけではない。

 市場参入障壁があると新興企業が市場に参入せずに「希少性」が保たれ、
 価格が高いままに維持されるという事(だから医者や弁護士の給料は高い)

自然派やフェアトレードが価格を吊り上げるために使われる事


「誰もが自分の利益のために行動している」という事を念頭に入れ、
 利己的な欲望に基づくモチベーションをどうコントロールするかが問題なのだ。


カメルーンがいつまでも貧しい国なのかという記述がすごく興味をひかれた。

カメルーンが貧しい国のままなのは、 独裁者が権力を維持するために、
取り巻きが国民を搾取するのを容認する必要がある。そのため、賄賂が
働きやすくなる高い関税やばかげた規制が増え、官僚はそれを歓迎する。

そのため国民はまともに起業したり働いたりしても何も結びつかないので、
まともな努力をしない。という一連の流れなのだという。


「多くの場合、利己的で野心的な権力者を法律やジャーナリズム、敵対する
 民主主義勢力が抑止する。利己主義の暴走を抑えないと悲劇的な事になる」
そうだ。

規制が緩和され、サブプライムなどで金融が暴走した今の状況は
まさに利己主義が暴走した結果だなあと思う。規制によって既得権益を
守る事も一部の人間のためだけの行動なので、規制がいい事とは限らないが。



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2009年03月02日

経済学のすすめ

先日 「アダム・スミス」を読んだ後に、今「まっとうな経済学」を読んでいる。
この後、一緒に買った(数年前に売れた)「ヤバイ経済学」も読もうと思っている。

NHKでも、「出社が楽しくなる経済学」という番組があり、
毎週欠かさず見ている。
自分の中で軽い「経済学」ブームだ。

実は私は大学は商学部で、経済学についての授業も受けていたのだが、
知らない事だらけで実に勉強になる。当時一体何を教えてもらって
いたのだろうかという気持ちになる。

多分思うに、当時の授業は実に教科書的で、現実の生活とかけ離れ
すぎていたのだろう。それで全く覚えていないのだと思われる。
経済理論というのはやたらに美しいものなのだという印象しか残っていない。

「まっとうな経済学」や「出社が楽しくなる経済学」は現実社会の出来事に
照らし合わせて説明してくれるので、社会の構造理解にとても役に立つ。
私たちが実は知らないところで搾取されている可能性について考えさせられる。

これについて学んだ事から考えると、高校までの教育において経済学を
もっと教えてもいいと思う。法律という存在の意味なども重要だろう。
世界史、日本史なども大切だとは思うが、今を生きる上でどちらの方が
大切なのかと思う。

その他だらだらと何年も習う国語や高等すぎてこれまた現実の必要性と
関係がなくなっている数学など意見を言いたい事は山のようにあるが、
それはまた別の機会にしよう。

しかし、折角高校で経済を教えても、それが教科書的な事の記述と
受験用の暗記に終始してはこれまた意味がないだろう。
暗記する箇所が拡大するだけになってしまう。

これもたくさんの受験生に採点しやすいテストをするための、受験の
産業化と効率化の影響かと思うと、教育にはもう少し何らかの手を
打つべきなんだなと思う。

sfukuchan at 00:34|PermalinkComments(0)TrackBack(0) テレビ番組 | 

2009年02月22日

善意と経済のジレンマ

資本主義で最も矛盾を感じる事がある。

働くよりも生活保護を受けた方がいい生活ができるという生活保護
働くよりも年金を受け取ったほうが羽振りがよくなるという年金制度

これらは善意が却って怠け心を引き出したり、損得で考えると仕事や
奉仕をしない方がいいという働く意欲を減退させるいい実例である。


資本主義において、自分の利益を拡大するという一指標だけに頼ると、
周りから搾取していたり、弱者をくじいた事により利益を上げていても、
勝ち負けでいうと勝ちである。そこに勝ちがあれば誰でもそれを目指すだろう。

逆に勝ち負けでいうと、勝たないと生き残れない状況においては、善意を
前面に出して行動して死んでいくというのは馬鹿であり、生き残れない。
余裕がある人しか善意は出せないのだ。それも自分の勝ち負けとは違う方向で。

この状況を今「善意と経済のジレンマ」と呼ぼう。
経済学に精通していない私が知らないだけで、同様の概念がある場合は
誰か私に指摘してほしい。



発展途上国に行って、買い物をする場合にも、先進国の人間にとってはあまり
高くない金額で買い物をしても、現地価格よりも高い価格だと損した気分になる。

「ぼったくられた」と思うのだ。

そして負けた気分になるので、そうならないように発展途上国の恵まれない
子供相手にも商売の駆け引きを行い、安く買い叩こうとしてしまう。

その逆に善意で高い金額で買ったとしても、相手にその善意は伝わらないだろう。
馬鹿からうまく金をせしめれたと思われるのが落ちで、感謝を受ける事は
ないだろう。これでは非常につまらないので、誰もその行動を続けない。


また、募金などによって発展途上国を援助するのも資本主義下においては
同様に考えものである。
援助の初期段階は確実にそれによって救われる人間がいるが、その状況に
慣れるとその援助が当然の権利だと考えて、もらえないと損したとまで思われる。

そして、その保護にのっかかり、誰も働かなくなる。
真のボランティアを考える人が、発展途上国に必要なのは保護でなく
仕事なのだという理由はここにあると思われる。


似た例で、裕福な資源を持ちすぎるのも不幸な事であるようだ。
リンという資源がたくさんあり、誰も働かなくても裕福な暮らしができた
ナウルという国がある。この国では働かない暮らしに慣れすぎて、
天然資源が枯渇してきた今になっても誰も働かないという。

資産家の親の下で暮らして、何もできないけど偉そうな馬鹿息子のような
例は近場でも後を絶たないだろう。



自分の力以外で自分に痛みもなく何かができる状況はあまり自分の向上には
役に立たない。しかし、人は楽な方向に流れる性質もあるので、そういう
環境があればそう行動してしまうというのも、誰にも責められない。

では、どうすればいいのか。
それは環境をそういうルールに変える必要があるのだ。
善意でそれを弱めるのではなく、善意がそれをプラスのパワーにできるように
ならなければならない。


フェアトレードは、これを打開するヒントといえるだろう。
まだ、現在のフェアトレードには正直疑いの目もあるが、その考え方や
方向性は素晴らしいと思う。

頑張って働く人に適正利潤をもたらすために、人々を支援する目的で
ものを購入する。善意が状況改善をもたらすのだ。
また善意で行動した人に満足感ももらたらす。

このこれが買った後にも続くとしたらどうだろうか。

トヨタのプリウスがお金持ちに売れたのはここにあるといえるかもしれない。
「私はちゃんと環境に気を使っていますよ」というのが分かりやすく、見える
形で表現できるのだ。

このような仕組みづくりを今以上に機能させるにはどうしたらいいだろう。
それには評価軸が一つではなく、複数ある必要があるのだ。

過去においては情報伝達にそれなりにコストがかかっていたので、指標は一つ
が分かりやすかった。そんなに複雑な情報は多くの人に伝えられなかった。
但し、今は違う。複数の指標を多くの人に伝えられるのだ。

お金以外の指標が必要であると私が主張する理由はここにある。
ではどんな指標がいいのだろうか?

「アダム・スミス」に書かれていた「徳」などもヒントになりえると考えてる。
どんな指標がいいかについてはまた別の機会に記述したい。

sfukuchan at 23:55|PermalinkComments(0)TrackBack(0)

2009年02月21日

終わりなき進歩の追及

人類が永続的に生き延びるという事を考えると、
我々はまだ接触していない異星にいるかもしれない生命体と、
進歩の競争の真っ最中だと言えるだろう。


銃・病原菌・鉄―1万3000年にわたる人類史の謎」という本において、
スペイン人とアメリカ先住民が出会い、そしてスペイン人が征服するという過程の記述がある。

この大陸間における未知との遭遇は過去に起こった事だが、このような
未知との遭遇は未来において非常に高い確率で起こる事だといえるだろう。

そして負けた側の生命体の処遇をどうするかは勝った側が決める事ができる。
未知の生命体とも友好的に、平和にやっていくには、未知の生命体より
進歩している必要があるのだ。

そして、見つけられる側より見つける側の方が圧倒的に有利だ。
科学を進歩させて、先に見つける側になっておいた方がいいであろう。

いくら平和で自己完結的に幸せを感じられる世の中ができたとしても、
我々は武力を全く放棄して、それを忘れ去るような事があってはならない。
そして、規制の枠内ででも、武力は維持しておいた方がいいといえるだろう。

生存し続けるための終わりなき進歩の追及と武力の維持

稚拙で原始的な考えの一つではあるが、どんな社会を追求するかを考える上で、
考慮から外してはいけない事の一つではないだろうか。


sfukuchan at 23:54|PermalinkComments(0)TrackBack(0)

2009年02月16日

資本主義よ どこへいく 〜沸騰都市シンガポール〜

今NHKスペシャルの沸騰都市シンガポールという番組を見て、
驚きと軽い怒りを感じました。

シンガポールは今、世界から優秀な人材を集めているようです。
科学者、クリエーター、美人などのタレントを集めているとの事で、
科学者などにはすごくいい環境で待遇しているようです。

その一方、外国人単純労働者も受け入れているのですが、彼らには
短期間のヴィザしか与えず、留まらないように半年に一度の
妊娠検査もしているようです。(妊娠したら国外追放らしいです)

この徹底的な差別っぷりに加え、首相は堂々と、外国人は調整弁だ
景気のいい時には受け入れるが、景気が悪くなったら帰ってもらう。
シンガポール人に支持されて首相になっているのだから当然だ。
と公言していました。

確かに外国人が増えて治安が悪くなるのは防げるでしょう。

でも、土地を売ってまでシンガポールに来たのに、金融バブル崩壊で
土木仕事を全くできずに帰ったバングラデシュの人の元教師の
言葉が胸に深くつきささりました。

「子供には私のような単純労働者ではなく、必要とされる人材に
 なれるように教育したい」

世界レベルでの格差をまざまざと見せつけられました。
そして、資本主義は、自分だけがよければいいという間違った方向に
進んでいるように思えました。


sfukuchan at 00:11|PermalinkComments(0)TrackBack(0) NHKスペシャル 

2009年02月15日

ゲバラとキング

ゲバラの映画を2本見た。
  http://info.movies.yahoo.co.jp/detail/tydt/id331776/
  http://info.movies.yahoo.co.jp/detail/tydt/id331022/

まず、思った事は、
「資本主義は正しいのだろうか?」
という事だ。

映画の中で、ゲバラは国連演説の場で中米諸国を搾取する国として、
アメリカを敵視している。

当時のアメリカは本当に傲慢な国だったのだろう。
まだ公民権も制定される前だったのだから。
ソ連と世界の覇権を争っていたのだから。

だが、アメリカは変わってきている。それは事実だ。
しかし、依然として傲慢な存在ではある。それも事実だ。

私たち日本人は確実に資本主義の恩恵を受けている。
しかし、今の姿は本当に正しいのだろうか?
そう言われるとぎくっとしてしまう。

一部の人に世界の富は独占されている と言われたら、
日本は明らかにそれを独占している側だ。
そして、頑張った分をもらう、今の取り分を正当だと思っている。

明日、革命が世界的に起こり、昨日までと同じ働きで、収入は
半分になります。それでも生きていけるでしょう?発展途上国には
生きていけない人がいるんだから。と言われてもどこか釈然としないだろう。

それは、今の富を独占している側の日本の状況を当たり前だと
思っているからだ。

いや、何も搾取しているわけではないのだから、悪いことではないの
だろう。しかし、構図として事実独占してしまっている。

そう考えると資本主義は正しいのだろうかと思ってしまう。
これまでも金融の仕組みで金持ちが遊べたり、サブプライムで不況に
なって多くの人が苦しんだりと、不完全な仕組みだとは思っていた。

しかし「間違っている」とまでは思っていなかった。

この映画を見て、大いに考えさせられた。
間違っているのかもしれないと。



その一方、個人の人生に立ち返って感じた事は、
理想に燃える人生が必ずしも幸せな人生だとは限らない
という事だ。

個人としてどのような人生を送るかという事を改めて考えさせられる。

正直、今の日本は自民党も民主党も官僚も公務員もろくでもないので、
クーデターや革命でも行って、全員一度解雇して作り直した方が
いいのではないか?と思ったりする事がある。

誰だって少しは考えるだろう。今の日本なら。

ただ、実際の自分の人生で考えると、革命のために生きる事ができるだろうか?
例えそれがそれほど暴力に訴えない革命だとしても。

ゲバラのような壮絶な最後を送る自信があるか?
何も見返りがなく、理想のために生きる最後を良しとできるだろうか?

そこまで自分は聖人君子にはなれないと実感した。



最後に感じたのは、
一番昔からある「力」である「暴力」の必要性はいつまであるのか
という事だ。

今日、NHKの「その時歴史が動いた」でキング牧師の話を見た。

変える体制や状況が違うが、
政治を変えるにはあくまで武力という「暴力」が必要だと考えたゲバラ
政治を変えるには非暴力が一番有効だと考えたキング牧師

両方事実なのだろう。
 

世の中から武力の影響力は相対的に下がったが、依然として、
政治を変えるのに一番有効なのは武力だ。これは変わらないだろう。

しかし、非暴力で変えられる事もある。
それを実践したのがキング牧師だ。
革命とはレベルが違うのかもしれないが、これも偉大な事だ。


ならば非暴力でどこまで何が変えられるのか。
それを真剣に考えていきたい。





sfukuchan at 01:18|PermalinkComments(0)TrackBack(0) NHKスペシャル 

2009年02月12日

罪とは何であるか

NHKスペシャルで振込め詐欺の話をしていた

その詐欺現場だった場所を見て、愕然とした。
まるでオフィスなのだ。

並んだデスク、パソコン、ビジネスフォン、目標の書かれた
スケジュールホワイトボード。分け前は「給料」と呼ぶ。

形式はまるでビジネスなので、犯罪である事を忘れてしまう。
事実本人は罪の意識が全くないと言っていた。

怒りというより、計り知れない恐怖を感じた。

そして、彼の動機がまた驚愕だった。
彼は大学までまじめにやってて内定取り消しなどを受け、
他のうまくいっている友達に対して優越感を持ちたかったという。


考えが幼すぎてびっくりする。


無知は罪である とは誰が言ったのか?
ただ、気づかずに、無邪気に人を傷つける事はある。
それは誰でもあるだろう。

しかし、
だがしかし、今回の件は、無邪気ですまされないだろう。

想像力が足りなさすぎる。もしくは他人に関心がないのか。
相手が、どれくらい、それによって不幸になるのか。

こんな明白に罪である事が分からない人がいる。
その事実が恐ろしい。

そうなのだ。
全ての人にとって明白な「罪」や「正義」はないのだ。多分。



ちょっと別の話になるのだが。
最近気になることに、正義心の強さからくる人の行動の「罪化」
と私が呼んでいる現象がある。

厳しい人に多いのだが、
「〜した方がよりいいよね」というような行動の指摘が
「〜すべき」に転化し、それがやがて「どうして〜しなかったのか」
まで発展し、まるでそれをやっていないのは罪だといわんばかり
というまでになる。

それが人を追い詰め、プレッシャーを与える。
たくさんの人にプレッシャーを与え、ストレスで体調を悪くする。

これは逆のパターンだが、想像力がないために起こす、逆の罪かもしれない。
しかし、たくさんの人を罪人扱いして不幸を作り出す、
その事を罪だといえても、その人を罪人扱いできるだろうか?

これもまた難しい。



また、少し話しを変えよう。
アメリカの話だが、黒人が隔離されるのが合法だった時代があった。
その当時、バスでは白人に席を譲らない黒人は罪になったという。

今となってはこれはおかしい事だと分かる。
ただ、その時にはそれが法だったのだ。

それならば罪と罪でない間には何があるのか?
正義と正義でない間には何があるのか?

これがとても難しい事だと、今更ながら分かった。



sfukuchan at 21:00|PermalinkComments(0)TrackBack(0) NHKスペシャル 

2009年02月01日

みんな違ってみんないい

情熱大陸に椿姫彩菜が出ていた。
性同一性障害を持つ現役女子大生モデルである。

こういう表現はよくないのかもしれないが、
つまりはおかまの元男性である。

流しながら見ていたのだが、最後の言葉に心を揺らされた。
「みんな違ってみんないい」「コンプレックスは個性になる」

前者は私の好きな金子みすずの言葉だ。
後者もよく聞く言葉だけど、これほどまでに大きなコンプレックスを
抱えて生きている彼女の口から出てくると本当に説得力がある。

テレビに出てると華やかで、一見調子に乗っているようにも見えてしまうが、
実際には計り知れない苦労を乗り越えてここまでやってきたのだろう。

そして、彼女が活き活きと生きていく事は、確実にある一定の人の
生きていく勇気になるだろう。
だから、彼女ががんばり、そうして自分をさらけ出して生きている
ことは本当に価値のある事だと思う。

私もコンプレックスは、前向きに活かしていこう。
そう思えた。

sfukuchan at 23:43|PermalinkComments(0)TrackBack(0) 情熱大陸 

2009年01月30日

幸せ農耕主義 〜ポスト資本主義のヒントとして〜

アダム・スミス―『道徳感情論』と『国富論』の世界 という経済に関する新書を読んだ。
有名な「国富論」と、同じ著者が書いた「道徳感情論」という本の
論理を掛け合わせていきながら、その真意を解き明かしていくという内容だった。

とても啓発された本で、いろいろと書きたいことがあるが、
一番心に深くつきささったのは次の箇所だ。

「人間は生まれてから死ぬまで他人の世話を必要とする。
必要な世話が全て愛情・感謝・友情・尊敬から与えられるのならば、
個人の人生は幸せであろう。またそのような社会は最高に快適であろう」

とアダムスミスの国富論に書かれていると筆者は言う。

この部分に強く感銘を受けた。
確かにそうだ。それによって人生は大いに幸せになるであろう。

本書の内容は次のように続く、
実際には殆ど肉親からしか、愛情等からくる人の世話は期待できず、
強奪するか、奴隷にするか以外では、人からの世話は交換でしか得られない。
その交換が「経済活動」であり、交換は基本的には「他者への愛情」ではなく、
自分への愛情」から成り立っている。

確かに。そうである。
そして、その自分への愛情を原動力として、資本主義はたまたまうまく発展し、
貧困はある程度低減されてきた。しかし、今資本主義は不十分なシステムだとして
限界が叫ばれている。

人が幸せをより多く実感していくためには、人とのつながりの中で
「愛情・感謝・友情・尊敬」をもって接していく事が大事なのだ。
この考えが、資本主義の次を考える上で重要になってくるかもしれない。


まず、この考え方を元にして、社会全体での幸せの総量という事を考えてみたい。

このアダムスミスの考え方を前提にすると、「愛情・感謝・友情・尊敬」 を
もって他人に接する人の存在は、それだけで社会の幸せの総量を増やしている 
という事になる。

一人一人が、「愛情・感謝・友情・尊敬」 を他人にふりまく事が全体を
より良くしていくのだ。

これは素晴らしい事に気づいたといえる。
これを多くの人が実践する事で、社会はよりよい方向に進めるかもしれない。

ただ、この事を多くの人に実践してもらう方法については少し考えなければならない。
アダムスミスの本にも書かれているが、善意は義務付けられないのである。
(これについてはまた別の機会に詳しく書きたい)

善意は義務付けられないとしたら、この事を啓蒙していく事によって
広めていくしかない。

論理的にこの事を説明することは啓蒙の前提として必要だが、
人は論理では動かない。人を動かす「感動」をもってこの事を啓蒙し、
広めていく事がよりよい社会を作っていく上で大事だと言えるだろう。

その具体的な方法についてはこれから考えていきたい。



次に幸せの総量を増やす社会について考えてみたい。

どこまで言っても、「幸せ」は個人の感じ方であるし、環境だけでは
作れないともいわれている。

そういう一面があるのも事実だ。

また、一個人が自分の「幸せ」を追求しすぎると、どこまで行っても
ゴールがないのも事実だ。

だが、そういう一面があるという事実があるだけで、「幸せ」の拡大を
社会的に追求するのが無駄だと言い切ってしまうのは、極端すぎないだろうか。

いや、私はより多く幸せを感じる事ができる社会の追求は可能だと考える。

では、それはどうしていけばいいのだろうか?
それには、まず「愛情・感謝・友情・尊敬」をもって他人に接するという事が、
全体の幸せの量を増やすという考えに立った上で、まず「幸せを増やす方法」を
考える事が必要であろうと考える。

これまで、幸せは、ただ単に偶然に出会うのを待つだけのものだったといえる。

もちろん、そういった「天然」の幸せが一番素敵な幸せに違いない。
しかし、誰かに喜ばせてもらった経験のある人なら分かると思うが、
誰かが意図して作ったサプライズな幸せも十分に人を幸せにする。

そして「天然」の幸せを待ったり、探したりするより、作り出した方が
より総量は増えるのだ。

これからは狩猟採集型の天然の幸せだけを求めるのではなく、
みなで幸せの元を栽培し、育てる幸せ農耕主義でいくのが良いのではないだろうか。

これは「銃・病原菌・鉄―1万3000年にわたる人類史の謎」で書かれている、人が狩猟採集型の社会から、
偶然を積み重ねながら栽培を始め、農耕型社会になるにつれて
豊かになってきたという記述に啓発されている。

その本の中で食料を栽培し始めた時の記述があるが、最初から便利で大量に
農耕ができたわけではない。偶然の力も借りながら、細々と栽培は効率化して
いけたのだ。

何がいいたいかというと、最初は試行錯誤で、あまり効率的ではないかも
しれないが、まず、考えて、そして行動するという、
はじめてみる」事が大事だという事である。
試行錯誤の中から良いものがやがて生まれてくるであろう。


みなが自分の思うがままになる事を目指すのではなく、自分の欲望を
コントロールして(茂木健一郎)みなの幸せをほんの少しだけ考えて行動する。
それが社会全体の幸せの総量を増やすのだ。


全体の幸せ量を増やす事を多くの人が考えるのは不可能だといわれるかもしれない。
しかし、今の若い世代に多い社会起業や社会責任投資など、善意の芽は、
自己愛を中心にした資本主義の中でさえ出てきているといえる。

そしてそれは痩せて養分のない資本主義という土の中でさえ育ってきているのだ。
この事実は見逃せない。

また、全員が等しく平等に全体の幸せを考える事は不可能だとも言われるだろう。
先ほども書いたが、善意は義務付けられないからである。

この点においては「自分はこんなに周りを幸せにしようと頑張っているのに、
他人はしてくれない。不公平だ」というような、奉仕量の平等を訴えても
仕方ないであろう。
そんな仕組みを作れば、奉仕が義務化し、形骸化し、結局は不幸を作り出すという、
本末転倒な事になってしまうからだ。

ではどのような仕組みがいいのか。
それについてはまた次回に、アダムスミスの「正義と法」の考え方に
照らし合わせて考えていきたいと思う。







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2009年01月12日

歴史の大きな流れ

銃・病原菌・鉄―1万3000年にわたる人類史の謎」という本を読んだ。

この「わたしが知らないスゴ本は、きっとあなたが読んでいる」というブログで
2008年のベストスゴ本の一つにあげられていたので読んだ。
これがすごい当たり!!!




まず、この本を読んで、「様々な調査や研究を統合して大きな流れを理解する」
ことの素晴らしさを感じた。著者は遺伝学、言語学、歴史などの各分野の知識を
統合して、大きな流れを説明している。

歴史を振り返るという事は、次に何をすべきか考えるためにとても有用だと思う。
進歩や文明とは何か?
我々はどこから来て、どこに向かっていて、どうすべきなのか?等等

しかし、過去に学校で習った歴史にはそういう問いに対する答えは全くなかった。
ヒントになるような事も教えてもらえなかった。

この本では、人類のこれまでの、大きな流れを教えてもらった。

この本では主に「アフリカで誕生したと言われる今の人類はどのようにそれぞれ発展して、
今のようにヨーロッパ民族と東アジア民族で富を独占するようになったのか」
という事を、先史時代の農耕を始めた頃まで遡って、そこからの大きな流れで説明している。

そしてどのように人は、栽培をはじめ、それが農耕になり、文明を発展させてきたかが
大きな流れで分かった。感じた事、気づいた事は下記のとおり。


●ヨーロッパと東アジアが発展した原因
大きく言うと、ヨーロッパと東アジアが発展した原因については、下記のものが
挙げられていた。

家畜化や栽培化可能な野生動植物がずっと多彩で、定住農耕生活、家畜化が早かった。
地理的障壁や生態的障壁が少なく、発明や技術が様々な地域に伝播しやすかった。
海を隔てて異なる大陸間では伝播は少なかった。
それぞれの大陸の大きさや総人口の違いによって、より大きな大陸の方が発展した。
そして南北に広いより、東西に広い大陸の方が文化は伝播しやすかった。

●統一されすぎる事による進歩の阻害
中国はあまりに統一されすぎていて、統一者が間違った規制をかけた場合に発展が
止まってしまった。日本でも戦国時代に実践で使われていた銃が、江戸幕府の
規制により、消えてしまったという歴史がある。

あまりに統一されすぎていて統一者の一存で規制が掛けられるという事も進歩の阻害要因
になりえるのだ。ヨーロッパのような多様性があった方が進歩していたのだ。

ふと、地球以外の惑星の生物と人間が今、同じように進歩する競争をしているとしたら、
どのような条件が有効であろうかと考えた。
中国の例を考えると、あまり世界が統一されすぎるのも良くないのかとも考えた。

●農耕民族、狩猟民族
昔、日本は農耕民族で平和的で、肉を食べなかったのに対し、
欧米人は狩猟民族で肉を食べるために好戦的で活動的だという説明も聞いたことがある。
本書を読んで、これなどは全くの間違いだと分かった。

狩猟採取生活を営む人々は、養える人数が少ないために人口が増えず、また定住化しなかった
ため、組織化されず、戦士を養う能力も持たなかった。そのため、定住し、貯蓄する事が
できる農耕生活を営む人々に簡単に征服された、というのが事実のようだ。


感銘を受けたポイントがきちんとまとまっていないが、とてもインパクトのある本だった。
この本で感じたポイントポイントがこれから自分の中で大きく発展する事を予感させる。
大きな流れで、これまでの人類の進歩を理解したい人におすすめの一冊だ。

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2008年12月31日

もっとできる

TV東京系のテレビ番組「ガイアの夜明け」で、アジアのごみ問題の解決のために
「魔法のバケツ」という生ごみ処理機を普及させているという話をしていた。

魔法のバケツは一晩の間に生ごみが消えるという、夢のような生ごみ処理機だった。
一晩で生ごみが堆肥になっているのを見て、「すごい!」と思った。
どんな仕組みだろうと、どんな科学技術が発明されているんだろうと心躍った。

しかし、作り方を見ていて私は「愕然」とした。
ほんとうに愕然という表現がぴったりだった。

それはなんと、その周辺の土を取ってきて、植物を分解する菌を増やすために
おがくずに湿気を与えてまぜるというだけのものだった。
自然をきちんと利用しているだけで、目新しい科学技術は必要としていなかった。

それで、生ごみを細かくして入れておけば一晩でごみは堆肥に分解されるのだ。

事実、インドネシアのごみにまみれて不衛生だった街は3年かけて、堆肥
で作られた観葉植物の溢れるきれいな街に変貌を遂げていた。

そこには、ちゃんと住民がゴミ箱を使うように堆肥を買い取る仕組みなど、
経済的に回る仕組みなどが考えられていた。

でも、それよりもびっくりしたのは、ほぼ自然の力で生ごみが一晩で
なくなるという事実だ。

私達は勝手に科学が進んでいく中で、そういうごみや有毒な物質などの問題
は自然と発生して、解決しにくいものだと考えてしまっている。

しかし、この例を見ると改めて考えさせられる。

勝手に私たちは自然の力を見くびっているのではないだろうか?
自然の力はほんとうはもっとすごいのではないだろうか?
まだまだ活用できていないだけではないのだろうか?

私達はもっと、自然と共生していく方法を良く考えるべきなのだろう。
そして何についても、相手の力を過小評価することなく、もっとうまく
いく方法を執念深く追求するべきなのかもしれない。

2009年に向けて、大きな希望を与えてもらえた

sfukuchan at 10:44|PermalinkComments(0)TrackBack(0) ガイアの夜明け 

2008年12月29日

変わっていく事の大切さ

日経新聞の法務欄(12ページ)で弁護士の中島茂さんが、
映画「きっと忘れない」を紹介していた。

大学生の主人公とひょんな事から友達になったホームレスが、
ある授業での教授の「合衆国憲法の核心はなんだと思う」と
いう問いかけに対し、授業を追い出される時にこう答えて
喝采を浴びたという話だった。


「合衆国憲法のすごいところは修正できるところだ。
善良な農民だった建国の父母たちが偉大だったのは、
自分たちが万能ではないと知っていたことだ。

だから間違いを改める方法を憲法に残した。
政府だって、市民のためにあるというなら、人々の意志に
従って変わらなければいけないんだよ」


また、中島さんが読んだある論文には
「民主主義とは過誤を訂正できる体制のこと」と書かれていたらしい。

今の法曹界は実際そうなっているのか?と大いに疑問を感じたが、
民主主義とは変わっていくものなのだという考えには勇気を与えられた。


これを読んでいて、以前読んだ「対話で探る「新しい科学」
」という本の中で、
河合隼雄さんと生物学者の清水博さんが対談していたのを思い出した。

生物の本質的なところに自己不完結性というものがある。 
免疫もいろいろな菌にさらされる事でいろいろな免疫反応ができるようになる
生物は周りとの相互作用でできていくという事が書かれていた。

完全性を求めるとフレキシビリティがなくなるという事も書かれており、
全く異なる分野で同じような話しが語られているのに「はっ」とさせられた。

そうなのだ。この世の中には「完全」などないのだから、私達は変わって
いかないといけないのだ。それを改めて感じさせられた。
 
 
本の中で、「一神教は完全に向かう傾向がある」とも書かれており、
なるほど。一時期までは社会を統制していくのに有用だった一神教が
廃れていこうとしているのはそういう事なのかと妙に納得した。


sfukuchan at 22:00|PermalinkComments(0)TrackBack(0) 新聞 | 

2008年12月13日

病とは

久しぶりに1ヶ月という長い期間風邪を引いた。

絶対治してやるとがんばって、でも、それが思い通りに治らなくって。
いつ治るか終わりが見えなくって。 

たかが「風邪」なんだけど。
たかが風邪でもそう感じるんだ。

こんな無駄な時間過ごしてていいのかなって、ずっとこれが続くのかな
って、すっごく落ち込んで。

病気ってそういう事なんだと実感した。
本当に大病をしている人からしたら、甘い実感だと思う。

だがそれでも、健康である自分自身がその一部を感じた事を
きちんと覚えておく事は大切であろう。

健康管理には気をつけて、病をわずらう人には優しくを心がけよう


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2008年12月07日

不公平な世の中や人を赦し、愛し、明日に向かう

素直な気持ちになり、明日に希望を持てる一冊でした!

私が知らないスゴ本はきっとあなたが知っている というブログの、
2008年のNO1スゴ本になっていたので、

なぜ私だけが苦しむのか―現代のヨブ記 (岩波現代文庫)を読みました。

書評に「たったいま、ぜったい読んでおけ」と書かれていたので、
騙されてもいいかなと読んだのですが、本当にいい本でした。

目から鱗が落ちて、新しい世界が見えたような気がします。


人が不幸な事態に陥ったときに、伝統的な宗教は「なぜ私だけが
こんな目にあうのか」という問いに答えられないという事で、
著者の体験を元にする考えが記述してありました。

不幸が自分に降りかかるのは、神のせいでも、自分に責任があるわけでは
ない というのは本当に救いの言葉だと思います。

そして私達は普段、なんとこの考えに捕われて物事を考えているのかと
いう事を改めて考えさせられました。

相談された際に、正しい行動を考えるというのが、相手をいかに傷つけるかと
いうのも分かりました。

私達はみな、悲しみや苦しみを背負った兄弟なのだという言葉は
あまりにもきれいごとすぎますが、この本を読めば素直にその言葉を
受け入れられる気がしました。そんな素直さを与えてくれました。

実は「欠点のある人を欠点のあるがままに赦し、愛する」なんて、
こそばい言葉が苦手な私でしたが、この本を読むと素直に明日から
そうしようと考えれました。 いや、本当にお勧めです。





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2008年11月24日

インターネットが生命のようになってきたと感じた

梅田さんのサイトで、ほぼ日刊イトイ新聞での対談
適切な大きさの問題さえ生まれれば。」が紹介されていたので
読みました。

4回目の掲載文で、
「適切な大きさの問題が生まれれば、問題は自然と解決する。」
と書かれていて、感銘を受けた。

オープンソースの世界では、適切な大きさの問題があれば、
インターネットで誰かがクロスワードを解くように解いていくという。



これは、すごい事を教えてもらった気がします。


それで感じた事はふたつです。

一つは哲学と科学の発展速度の違いについて。

「人はどうやれば幸せになるのか」や「人生とは何か」という問いには
適切な大きさの問題がないのだ。

それに対して科学は適切な大きさの問題にする事で発展してきたのだ。
スピードに差が出ないわけがない。
なら、哲学も科学のように部分わけしていくと早く発展するのだろうか。

そんな哲学を哲学というのかどうかは分からないけれど。
(あるいはそれが一部の心理学や脳科学なのかもしれない)


もう一つは、インターネットが生命のようになってきたと感じた。
我々生命も、ミクロレベルでの化学反応が、集まり、全体としては
生命という姿をなしている。

同じように、ネット上で問題を適切な大きさに切り取る人の動きと
その問題を解決する動きが組み合わさる事によって、やがて全体
としては生命のように、自分から動き出すように感じてきた。

インターネットはやがて、本能を持ち、意識を持つようになるの
だろうか なんて考え出すと、とても面白く感じる。

いや、素晴らしい。本当に。


sfukuchan at 21:10|PermalinkComments(0)TrackBack(0) 対談 

2008年07月21日

社会保険庁のびっくり儀式

昨日(7/20)の日経新聞の朝刊で社会保険庁の信じられない事が書かれていた。

「各地の社会保険事務所で最近まで続いていた妙な儀式がある。
本庁から新所長が赴任する。地元職員らが「天下り所長は帰れ」と連呼する。
所長は本当に東京に帰る。日を改めて自治労働組合と「地元のしきたりに従う」
といった覚書を交わす。その後にようやく所長は着任する」

こんな事を、きっと大真面目に大きな行事として緊張感をもってやっていたの
だろう。本当に労働力の無駄遣いだ。

こんな儀式のために税金を払っているのかと思うとうんざりする。
もっと普段の公務員の仕事を公開にして、無駄をなくすべきだ。
それでも公務を行いたいという人に公務員をしてもらうべきだろう。

何もしなくても安定しているから、という理由で公務員になる人たちばかり
で公務員が構成されたら、腐っていくのは当然のことだろう。







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2008年07月14日

何かをしよう 

暑い中、汗をかきながらの営業は辛いけれど

 太陽が燦燦と輝いてるのは素晴らしくって


梅雨のじめじめした気候は不快だけれど

 雨が降って緑が育つ気候は素晴らしくって


学校行くのは面倒だけれど
 
 みんながほとんど文字が読めるのは素晴らしくって


凶悪犯罪も増えてきているけど、

 基本的に毎日生死をさまよう事を考えなくてもいいのは素晴らしい


毎日ご飯に困ってなくって、千数百円で本で知識を得て

 3百円で映画をみて、百円でコンビニでアイスクリームを買って食べる


今、日本に生まれ育っている事はそれだけで恵まれている

 奇跡のような幸運だ。奇跡のように豊かなんだ。
 
  気づいてないかもしれないけれど。


だから毎日のささいな事だけに忙殺されずに、
 
 何かしたい。何かをしよう。世界に向かって。


暑いけれど、光り輝く太陽のこの休日で

 なんとなく、そんな事を感じました。

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2008年04月30日

全ては偶然かもしれない

NHKスペシャルの「病の起源」という番組で、
人がどのようにして声を獲得したのかという話をしていた。


4つんばいから、2足歩行になる過程で口咽(舌の根元)が下がった。
さらに石器を使うことによって柔らかいものを食べるようになって、
顎が小さくなった。

そのため口咽がさらに下がり気道が狭くなりしゃべれるようになった
という話だった。そうやって人は偶然声を獲得して、話ができる
ようになったという話だった。


番組の中で、空気が出てくる機械に、「あ」や「い」の声を出す咽の
根元を模した模型をかぶせると「あー」とか「いー」という声に聞こえる
という実験をしていた。


これがすごく気持ち悪かった


人間の象徴の一つとも思える「声」がこんなに簡単に、単純な器具で
作れるという事に、無意識に嫌悪感を感じたのかもしれない。

ほんとに喋れる事になったのってただの偶然なんだなあと感じた。
喋れるようになって記号化が進み、文字ができて、文明が反映した。
これらが全て偶然なのだなというのを改めて実感した。

sfukuchan at 00:00|PermalinkComments(0)TrackBack(0) NHKスペシャル 

2008年04月21日

未来志向の勇気付けられるスピーチ動画集

梅田望夫さんの、ウェブ時代 5つの定理の中に「心がなえるような言葉を
シャワーのように浴びるのと、オプティミズムにあふれた未来志向のわくわく
する言葉に勇気付けられるのとでは、同じ人でも全く違う人生が広がる
という言葉に感銘を受けました。

オプティミズムにあふれた言葉を集めるのにも、ウェブは飛躍的な力を
持っているだろうと思い、探しました。
まだまだ有名なものしかあげていませんので、これから色々と探していきたいと
思います。いい動画や音声があれば教えてください。

●字幕のあるスピーチ
スティーブジョブスのスタンフォード大学での卒業式スピーチ
http://get.jimaku.in/player2.swf?vid=D1R-jKKp3NA&zid=nbZXF_WFQDq
先日紹介した、これからのウェブ進化時代を前向きに考えられる感動の内容

環境サミット1992での12歳の少女の伝説的なスピーチ
(セヴァン・カリス・スズキ)
http://sagool.tv/detail/7946668791437582910/


●動画と日本語訳の分かれているスピーチ
キング牧師のスピーチ
http://longtailworld.blogspot.com/2006/02/i-have-dream-speech.html
「私には夢がある」という有名なフレーズを含む黒人差別を暴力でなく、
訴えかける力で無くそうとしたスピーチ
辛い状況でも前向きに人々を導けるのはすごい事です。

ブレア首相就任演説
動画:http://jp.youtube.com/watch?v=_oOtN59_Ft0
日本語訳:http://news.goo.ne.jp/article/gooeditor/world/gooeditor-20070511-01.html
(動画の2分15秒くらいのところからが翻訳されています)
賛否両論ありそうな内容ですが、決断という事の大切さ、正しいことをやるという大切さが感じられます。

JFケネディ大統領就任演説
動画:http://www.americanrhetoric.com/speeches/jfkinaugural.htm
日本語訳:http://www.ne.jp/asahi/barber/tokyo/J.FKennedy.html
国から何をしてもらうかではなく、国に何ができるかを考えてほしいと言った名演説
動画は演説の途中までなので、残りの演説の動画を探しています。
これから探して増やしていきたいと思います。
いい演説/スピーチ/講演などあれば教えてください。

でも、こういうのは圧倒的に英語の方が多いですね。
日本語のいい演説も探していますので、また誰か教えてください


<参考にしたサイト等>
感動的なスピーチの動画または音声を紹介して下さい。(はてな人力検索)
http://q.hatena.ne.jp/1192540381

動画検索をやっているサービス
http://sagool.tv/

動画に字幕を付けれるサービス 但しまだあまりコンテンツが集まっていないようです。
http://jimaku.in/

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2008年04月14日

人が進歩するため、ウェブが進化するために実名になる

今日はウェブが進化していく意義のヒントになる事を、デカルトの方法序説から
得たのでそれについて書きたい。

学問が探求され、人が進歩するためには、たくさんの人が自分の発見した事を
小さな事でも多くの人に伝えることが必要だとデカルトの方法序説には書かれている。

この小さな発見を形にし、残し、遠くまで伝える仕組みを人間はようやく手に入れた。


その仕組みがウェブだ。



しかし、この仕組みは現在まだまだ不十分なところがある。
その小さな発見を集め、公開する事には成功したのだが、それを選別する方法が
まだまだ不完全
なのだ。

その小さな発見の一つ一つを信用するためには、人間全体の幸福を願う人と自分
の利益だけを考えて偽っている人の区別が必要なのだ。
これが区別できないと、ノイズが多く含まれ、情報は役に立たなくなる。

多くの人が集まると群集心理学が働いたり、民主主義が衆愚政治になるという
のは、まさにこの全体の利益よりも、自己の利益を優先するというノイズが
発生して、全体の調和が壊れるという考えに基づくのではないかと思われる。

先進国では、周りを押しのけないと自分が生き残れないというほど生命の危機に
瀕している人の割合が低いために昔ほどノイズは大きくなくなったといえるだろう。
だから、その一方で昔ほど少数のエリートが全体を統括するという考えが支持
されなくなった。

ただ、それでも自分の利益の方を優先する人が一定の割合で存在するのは紛れも
ない事実であろう。(逆に生命の危機にされていなければ、エリートでも庶民でも
同じ割合で自己の利益を優先するものが現れると推測される。古今東西の政治家の
腐敗を見れば誰もそれに反論できないだろう)

ウェブ全体が、集められた情報が有益になるためには、自分だけの利益に基づく
嘘というノイズを取り除かないといけない。そのため、ある種のアフィリエイトは
除かれた方がいいといえる。逆に真実に基づく紹介を行うアフィリエイトは
生き残っていくべきであり、生き残っていくだろう。

いいものが生き残っていくために役に立つ広告、
砂漠の中から宝石を見つけられるようにする仕組み、そういったものが発展して
いけばいい。

自分が信じる物事を紹介して、それがお金に結びつくならそれは本当の幸せ
いえるだろう。

だが、残念ながら、人には他人を出し抜いて自分が生き残ろうという性質が
根本的に備わっているようだ。何故ならその性質をもつ個体は生き残る能力が高く、
長い進化の歴史の中で今まで生き残ってきたからだ。これは社会性を持つ生物に
とって宿命的なものではなかろうか。

そしてその性質を持つ人はきれい事による幸せでなく、刺激や本能に基づいた
ある種の自分が楽になる抜け道を探そうとする。

そしてまた、残念な事にその性質を持つ人の方が生命力や活力は高いといえる。
一方きれい事にはあまり訴求力がない。その生命力は異様なほどに弱々しいのだ。
何故なら、個々人の中にある人間全体の幸福を願う動機は、ある程度の余裕が
出てきた中にしかないからだ。

余裕のない者の生きるか死ぬかの死に物狂いのパワーの方が大きいのは仕方ない
といえるだろう。


だからきれい事だけでは済まない現実が世の中にはある。


生命の進化はきれい事ではなく、必死に生き残ろうとする一つ一つの個体で
成り立ってきたのだ。大体、何億という生命の歴史において、人類や地球全体
といった、きれい事を言えるようになったのはほんのつい最近の事なのだ。

しかし、だからといってあきらめるのではなく、私達は全体の進歩のために何が
できるかという事を考えていかないといけない。毎日の行動は利己的でも
せめて未来のために、自分の発見を小さなものでも発信していきたいと思う。

そして、いつの日かもう一歩進んだウェブ世界で役に立ってほしいと思う

ただ、そう思うと匿名性によって、無責任性が高まるのはノイズが発生する
確率を上げる事になると思われる。実名で責任のある発言をしているブログ
の方が有益なものにつながる可能性は高いだろう。

そういう考えに今日至ったので今日から実名でブログを書く事にする。
そういったわけで、今日の一日はこのブログにとって一つの大きな転機になった。




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2008年03月31日

ジョブスのスピーチに感動した!

梅田望夫さんのブログにも書いてある、ウェブ時代 5つの定理を読み終わりました。

最後にスティーブ・ジョブスのスピーチについて書いてあったので、
それをネットで探して翻訳付の動画を見ました。

超 感動しました!!


とても前向きな気持ちになれるという月並みな言葉で表現できない何かを感じました。
見てない人は必見ですね。

2005年スタンフォード大学卒業式 スティーブ・ジョブスのスピーチ
http://get.jimaku.in/player2.swf?vid=D1R-jKKp3NA&zid=nbZXF_WFQDq

この講演では3つのテーマで話をしていたのですが、その中で「点を繋げる」
という話がすごく心に残りました。

スティーブジョブスはリード大学を中退してカリグラフィを勉強したのですが、
それがMACという美しい文字を持つコンピューターの誕生に役立ち、ひいては
それによってPCに色々なフォントが入ることになったというのです。

当時を振りかえって、その時には役に立つとは思っていなかったという事を
述べていました。

先を見越して点を繋げる事はできない。
過去を振り返って点を繋げる事しかできない
将来その点が繋がる事を信じなくてはいけない。


そうですよね。それが必ずしも役に立つと思っていなくても、他の事と繋がって
くると分かっていなくても、信じていろいろな事に打ち込んでいかないと、将来
いろいろな事が繋がってこないのです。

新入社員教育の際に、こういう話をする時があります。

「バケツから水が溢れるまでは、溜まっているかどうかは分からない。
でもバケツに水を注ぎ続けている人と注ぎ続けていない人とでは確実に差が出る。
他人のバケツから水が溢れ出した時に初めて、自分のバケツを見てもっとやって
おけば良かったと気づく人がいる。その時にはかなりの差がついている」

この話に実体験と感動を交えるとこういう話になるのかもしれません。

思えば私も30代になってから、色々な点と点が繋がって線になるというのを
よく体験するようになりました。これも自分なりにこれまで色々な事を頑張って
きた成果かなと勝手に思っています。これからもいろいろな点が線になり、面になり、
立体となって繋がっていくように、知的生産的読書を頑張ってやっていきたいと思います。

30代以降の人はこれからも色々な事が繋がっていくように頑張っていきましょう。
まだまだ私もこれからです。微かな予感だけで何も成せていませんので頑張っていきます。

今それを実感していない人は今からでも遅くないので頑張りましょう。
それはとても楽しいインスピレーションなので。
そして10代、20代の人は自分を信じて何かに打ち込んでいきましょう。

未来はきっとそこにありますから。




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2008年03月24日

消費でなく生産

知的生産の技術 (岩波新書)という本の中で印象的なフレーズがあった

「ゲームなどは知的消費」

昔からゲームや漫画で頭を使っても、長時間を費やした事に何らかの罪悪感がつきまとうことが
私には謎だった。どうして、一つのゲームをやり遂げるという行動に、達成感と同レベル以上の
罪悪感がつきまとうのだろうかと。

それは、知能という、高度に生産的なことが可能な能力と時間を使って、何も生み出さずに、
人が作った枠の中での行動に終始してしまうからだったのだろう。そしてそれを無意識に
感じていたのであろう。

それでいけば知識をただただ習得する学校教育においても同じことが言えるかもしれない。
新しい事項を生み出すのではなく、ただただ何かを読み、聞き、暗記する。
特に受験勉強などは知的消費を時間を使って追求しているといっても過言ではないだろうか?

多数の人は本能的にはそれに少し気づきながら、周りが褒めるのでそれに気づかないのだ。
また、それが未来につながっているような気がするので、嫌悪感や罪悪感が比較的少ないのだ。

ちょっと話が脱線するが、マスターベーションという行為にも大抵の人は罪悪感を覚える。
それも、本来的には新たな生命の創造という生産的な行為を無為に消費してしまうという意識が
どこかに働くからではないかと思う。

つまり、私たちは本来的には生まれながらにして生産的な存在であり、ただただ、消費だけに
時間と能力を費やすことには無意識に嫌悪感を抱く生き物であるらしい。といえるのではなかろうか。
(もちろん、狩猟時代以前のような、力がほぼ暴力と同義の時代においては話は別であっただろうが)

話を元に戻すと

「知的消費でなく知的生産」

というのは、これからのウェブ時代にとってとても大きなキーワードなのではないかと思う。
一般の人は中々これまで知的生産と呼べる行動はできなかった。
本を書く一部の人やクリエイティブな人以外は中々生産と呼べる形でものを残せなかった。

竹林で壮大な思想を手記にしても、それが消費ではないと言い切れなかった。
だがこれからは簡単にそれをブログや画像や動画という形で公開できるのだ。
やはり素晴らしい時代なのだ。本当に。



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2008年03月17日

質問によってこの世界は切り開かれていく

質問によって世界は切り開かれる。

これは今まで何度も感じてきていたことだったが、今日は一日で
これまで感じていたいろいろな点が一つに結びついた日だったので
それについて書こう。

スタートは梅田望夫さんの「ウェブ時代 5つの定理 」だった。

梅田望夫さんの「ウェブ進化論」に感化されてこのブログを
始めたように梅田さん信者の私なので、梅田さんの著書は
一通り買っている。そして梅田さんのブログも欠かさず読んでいる。

だが、「ウェブ時代5つの定理」はちょっと買おうかどうか
迷って買っていなかった。「最強の勉強法」なんて流行り
言葉が書かれている帯にも抵抗を持ったし、人の言葉を集めた
内容というのが、安っぽい名言集っぽく感じて少し嫌だったからだ。

私が名言集を嫌いなのは、かっこいい言葉には一つ一つ感心するが、
きれいな言葉だけだとそれが出てきた背景や魂を充分に汲み取れず
自分のものにはならずにう流れていってしまうという思いがあった
からだ。どうしてもその本自体の内容は軽くなってしまうと思うのだ。 

まだ読みきっていないが、買おうかどうか迷っている人に
この本のフォローをしておくと梅田さんはこの本を手元に置いて、
何年かに一度開いて、自分の鏡にしてほしいという思いがあるようだ。
(刊行記念講演会録)きっとそういう意味で自己開発に有用な本なのだろう


少し話が脱線したが、そんな私が今日本屋で改めてこの本をぺらぺらと
めくって、やっぱり買おう!と改心してこの本を買ったのは
下記のフレーズが目に留まったからだ。

「会社は答えによってではなく、質問によって運営している」
グーグルのエリックシュミットの言葉だ。これが胸に響いた。

この言葉自体は全く想像の付かない新しい言葉ではないと思う。

会社の新入社員研修の際には、「これからは学生ではないから、
受身でなく、自発的に行動をしないといけない。社会人には学生の
時のような答えはない」というような事を教えたりする。
実際私も新入社員研修でそういうような事を言ったことがある。

だが、私を含めどれくらいの人がその意味を本当に理解できているだろう。
何度も思い出す言葉なのだが、毎日の仕事の中でどうしても答えを
探してしまう時
があるのだ。そして時に、自分は答えでなければ、
何を求めていけばいいのだろうと思って途方に暮れてしまう事がある。

そんな時の自発的な行動のスタートになるのが「質問」なのだ。

答えがないので、試行錯誤の中から自分のやり方を見つけていか
なければならない。じゃあその試行錯誤となる試行の方法を考える
にはどうしたらいいのか?
それは様々な質問を投げる中から見つけ出すのだ。

この流れが今まで言葉になっていなかった。これが今、私の中で
一つの言葉として定着したのだ。これを可視化できたのは大きい。
スタートは質問からなのだ。


ちょっと話が変わるが、学生時代に好きだった尾崎豊の歌に
「心から愛された事があるかって聞かれた 一緒に探してたもの
ならあった気がする」というフレーズがある歌がある。

このフレーズに代表されるように、学生時代の自分はきれいで
嘘っぽい答えの押し付け
ではなく、一緒に探すという事を
希望していたように思う。だから尾崎豊が好きだったのだ。

なぜそれを希望していたかというと、答えの中には本当の真実は
ない
ように思えたからだ。感情も何も伴わない、そうすべきだと
いう一見もっともらしい嘘ではないか?そう感じた。

答えでなく、質問によって私達は世界を理解していくんだと
考えていたのだろう。今この言葉を前にしてそう気がついた。

また、規制の中では確かに誰かが作った正しそうな答えはある。
だが、自由の中にはそんな答えは存在しないはずだ。逆に答えを
求め続けると自分に規制を設けるような気がしていた。

そしてこう考えていた事は当時は言葉にできなかった。
エリックシュミットの言葉を得て、初めて今、形になったのだ。


また、少し話を変えて、「答えではなく質問」という事を
別の視点から見てみよう。

今日見た情熱大陸は山口絵理子というバングラディシュで
現地のジュートを使ってカバン産業を興そうと起業している女性の話だった。

その中で現地の従業員が言っていたことが今日の主題と重なる。
「各国政府の援助はパンやお金をくれるが、それではこの国は
物乞いをしている事になる。そうではなく、この国がビジネスで
やれるようにしてくれると人々は誇りを持って生きていくことができる。
(だから私は社長を尊敬している)」

そうなのだ、本当に大切なのはそこにある答えではなく、そこに
辿りつくまでのプロセスの中にきっとあるのだ

そして、質問というのはきっとのそのスタートとしての基点になり
えるのだろう。


そんな事を考えた。
そしてこれは私が長く質問してきた事が一つの形になったのかもしれない。

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2008年03月10日

一本のコミュニケーションの向こうにある何か

思考の整理学 (ちくま文庫) (ちくま文庫)という本を読んで感銘を受けた一文がある。


「書く作業は、立体的な考えを線状のことばの上にのせることだ」


この一文は、私がこれまで漠然と感じていた事を見事に言葉にしている。

思考は点ではない、自分の頭の中で何次元にも広がりを持っている(と普通人は
感じているだろう)。
文字にするということ、ことばにするということはそれを一つの線にすることなのだ。
そして、その連続した線の接点である点で人と人はコミュニケーションする。

その点で議論したり、同情したり、お互いのことをわかりあったりする。
考えてみれば奇跡のようなことを私達は毎日何気なくやっているのだ。

それに比較すると、同じように全てを0と1という2択の点で信号をやりとりしながら
コンピューターはそれを超高速で行うことにより、様々な表現をする事ができる。

ウェブも文字だけでなく、画像や、音声やさらには動画まで扱う事ができるようになった。
しかも離れた場所でも一瞬で伝達できる。我々人間が可能だったコミュニケーションの
何倍もの情報を一瞬でやりとりできるのだ。
つながりは点だといってしまえば一緒だが、接点で扱える事は飛躍的に異なっている。

これらを使うことにより、我々のコミュニケーションはもっと進化するのかもしれない。
お互いをもっと理解できるようになるのかもしれない。
お互いがもっと理解できるようになれば、戦争や無駄な争いやたくさんの不幸が救えるだろう。

そして我々はまだ、その使い方を編み出していないのかもしれない。
もしそうだとしたら、今は本当にその夜明け前なのかもしれない。

お互いがさらに理解できるコミュニケーションのとり方。
それについてじっくり考えてみたい。

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2008年02月24日

美術(アート)とは一体何なのか

最近美術(アート)とは何なのかを感じる機会が何度かあった。
Pen (ペン) 2007年 11/1号で現代アートとして様々なアートが紹介されていた。
それを最近本屋で見かけて立ち読みした。

また、最近南米のコスタリカでは、「犬の餓死」という、飢え死んでいく犬
を展示する美術展があったという。
http://kikko.cocolog-nifty.com/kikko/2008/02/post_b890.html
http://hisamichi58.blogspot.com/2008/02/blog-post.html

私自身は、美術(アート)にはさほど造詣が深いわけではないが、いろいろと
考える事もあったので素人からの考えを記述したい。
あくまで素人考えなので、この文面を何かの参考にする事はご容赦いただきたい。

まず、美術(アート)とは何だろう?
美術(アート)と似ているが、区別されているものにアニメやイラストなどがある。
これらは結構最近まで美術(アート)と区別されていたように思う。それはなぜだろう。

美術(アート)として認められる条件の一つに高尚さがあると思う。
元々壁画から始まったとされる美術(アート)は、本来なら、どういった表現でも
視覚的なものであるなら美術(アート)とみなされていいはずだ。

だが、まんがやイラストは美術とは認められない事が多い。
でも、それらと美術(アート)との差や境界線など明確に表現できる人はいないだろう。
実際、村上隆や奈良美智の作品は素人目にはアニメイラストに近く見える。
だが、何でもかんでも美術(アート)だと言ってしまえば、それこそ混乱が
起こる。だから美術(アート)とアニメ、イラスト、写真やデザインは区別されてきた。

そのキーワードは一種の高尚さのようなもので、そしてそれを口にするのはタブー
視されてきたような気がする。

直感的にそれを私が感じたのは、私の友人が、人生の中で大切にしてるものの一つに
芸術をあげた事にあった。この場合の芸術とは美術(アート)と文学や音楽など様々な
ものを含んでいた。

ちょっと高尚なものの一まとめとして美術(アート)という言葉を使ったのだ。

それに対し、音楽はロックやヒップホップ等々カジュアル化し、文学や演劇も物語や
映画等々の形式でカジュアル化して、そしてその範囲を広げていった。
同じように美術(アート)も写真などカジュアル化していったが、なぜかその範囲内に
取り入れず、別分野になってしまった。写真やデザインはすっかり、美術(アート)
とは別のジャンルの話になっている。

だが、ここへきて現代アートはそれこそ、どんな表現でもそれは一種の美術(アート)
だと主張してすごいスピードでいろいろなものを飲み込んでいる。だから強烈な矛盾を
はらみながら、それを誰も定義できなくなってきて、そして混乱しているような気がする。

そうするとそもそも美術(アート)とは何かという事になる。
我々は美術(アート)に一体何を求めているのだろうか?
そしてそれにはある種の高尚さは本当に必要なのだろうか?

我々が美術(アート)に求めているのは美しいものを見たい、手に入れたいという欲求
からくるものだろう。
そして、そこに高尚さが必要かどうかを考えるために、もう一段掘り下げて美しいとは
一体何なのかを考えてみたい。

辞書では美しいとは「色・形・音などの調和がとれていて快く感じられるさま」
だと書かれている。

思うに美しいの起源は女性の美しさだったのではないかと思う。
美しいというのは一つの強さだったのではないだろうか?
均整が取れ、美を保つというのは何らかの強さがないと保てない。

強さに憧れ、それを自分の遺伝子と掛け合わせ、自分の遺伝子の継続維持戦略に
するという心境はよくわかる。

では生物以外の美しさはどこから出てきたのだろうか
やすらぎ?
本能的に持っているもの?

生物以外の美しさを考える上でヒントになりそうな事項にたまたまであった。
プラトンの饗宴という本だ。

その中で、美しく正しいやり方でなされたことは美しくなるし、不正な仕方で
行われたことは醜くなるという表現がある。
正しいか、不正なものかが美しいかそうではないかを分ける要因の一つになりえる
ようだ。

また、プラトンは饗宴の中でソクラテスに「人生のどこかに生きるに値する所が
あるとするならば、美そのものを見るその人にとって人生は生きるに値する」
と語らせている(正確にはマンティネイアからきた女がソクラテスに語っている)

美を定義しているのではないが、それくらい美は価値のあるものだと語っている。

実際はプラトンは芸術に対して否定的な態度をとっており、視覚でとらえることが
できる美は不完全なものだと主張していたようだ。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%97%E3%83%A9%E3%83%88%E3%83%B3

だが、美術(アート)や芸術が目指しているのは、この目に見える形での、永久真理
的なものであろう。生物以外の美しさは、永久真理を直観的に感じる事のできる
何かが深く係わっているのかもしれない。

美術(アート)が、高尚な一部のものだけが別物とされてきたように感じると書いていたが、
これが今、全てのものを飲み込んで一体化しようとしているように感じるのだ。

科学は20世紀に部分部分を取り扱うことで発展してきた後、今、全体に対して何が
できるかで悩んできているような感じを私は受ける。美術(アート)も同じように
これからは様々なものを飲み込みながら永久真理に近づいていこうとするのだろうか?

そういう動きなら、世界各地で様々な美に関する取り組みが進展していく中で、
ウェブでその全体を捉えていくような事ができるのではないだろうか。
そして、その中で美とは一体なんであるのだろうかという事も解き明かされていくのでは
なかろうか?というのはいささか楽観主義的すぎるのだろうか。

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2008年02月18日

幸せとは何であるか

polarbearブログさんのところの この記事からマイクロソフト
の技術者だったスポルスキーという人の、すばらしいソフトを作るには
何が必要かということを話した講演の記事を読んだ。

その中でスポルスキーさんは「(成功の)方程式」と冗談めかして大げさに
一流ブランドになる法則を語っていた。

これによると、成功の方程式は下記の3つだという
・人を幸せにする ユーザーが自分でコントロールできる
・感情を考慮する クルマの安全設計にはカップフォルダーが必要
・美学にこだわる ipod パリのアパートなど何かを犠牲にしても美学にこだわる

この詳細についてはまた記事で確認してほしい。


で、私が今日書きたかった本題はここから書くことだ。
これを読んでいて、人を幸せにするという記述ではたと感じる事があった。
人は自分でコントロールできると幸せを感じるのだという点だ。

至極当たり前の事を言っていると思う。

そもそも人が文明を作って、進歩してきたのは、それまで脅威だった自然や
その他の自分の環境をいかに自分でコントロールしてきた歴史そのものだ。
人はなだらかに、色々な欲望を含みながら、大きくはその幸せを目指してきたのだ。

しかし、私にはすっかりその当たり前の視点が抜けていた。
これまで考えていた事にすごく近いというのに。

「幸せとは何であるか」というほど哲学的で難しくなく、潜在意識に
訴えかけるような擬似科学的なものではない本当にそのままの幸せとは
何であるかを最近考える事の多かった私には本当に目に鱗だった。

人々が自分の好き勝手に色々な事をコントロールできて、さらに周りに迷惑を
かけずに調和し、人の役に立つ事ができる状態
 こういうのを幸せというのだろう。

単に便利になるのが進歩で、我々がこれから向かうべき方向なのか? それが
人類の目指す方向なのか?と疑問を抱いていた自分への一つの回答になったと思う。
もちろん幸せなんてそんな簡単に定義できる事ではないが、少し納得できた。

sfukuchan at 00:26|PermalinkComments(0)TrackBack(0) ネット 

2008年02月11日

うまくいかなくても、がんばり続けなくてはいけない

うまくいかなくても、がんばり続けなくてはいけない。
だって、うまくいかなくても人生は続いていくのだから

情熱大陸でサッカー選手の福田健二が今回の対象だった。

通常だったら希望あふれる話で、最後にはなんらかの成功の一コマで
終わる構成の情熱大陸だが今回は違っていた。

ゴールが決まらなかったり、怪我したり、チームの状況も最悪で、
さらに、外国人を使わない監督に変わって、嫌味を言われるような
最悪な環境になる中での最後のシーン

試合の最後でのPKのキック。通常PKはファールをもらった人でなく、
シュートがうまい人が蹴ったりするものだが、自分がもらったファール
だからと福田は誰にも譲らず自分で蹴った。自分で蹴ることにこだわった。

これが入ればチームも自分も良くなっていくような予感がしたという
中でのキック。何度も何度も深呼吸して、体制を整えて、心を落ち着か
せて、そして思いをこめたシュート。

だが、シュートはキーパーに簡単にはじかれて、ゴールをそれた。 
そして試合終了。。。
観客への謝罪の声がかき消されるブーイング。

見てる中で、居た堪れなくなる。辛いシーン。
そんな中で、どうして本人に自分で蹴ったのかと聞くインタビュー

でも、それでも福田は練習を続けた。
だって、うまくいかなくても人生は続くのだから。
それでも歯をくいしばって自分で環境を良くしていかないと。
自分の責任は自分で取らないと。

そんなメッセージが聞こえてくるような番組だった。
当たり前だが、みんながうまくいくわけではないこの世の中。
こんな感じで勇気を与えてもらう事があるんだと思った。

私も明日も頑張ろう。
だって、人生は続いて行くのだから。

sfukuchan at 00:14|PermalinkComments(0)TrackBack(0) 情熱大陸 

2008年02月03日

我々はどこへ向かうのか

少子高齢化の不安は分かる
巨額の富を得たいという欲望は分かる
そうして投資やお金に係わる情報だけが発達する。

だけど我々はどこへ向かうのか

自分が少しでも損しないように行動する。 
例え他の人が苦しんだとしても気にしない。
そうやって一人一人が自分だけの利益を追求する。

その行き着く先は明るいのだろうか?

ウェブの進化によって殆どただ同然で情報を得ることができるようになった。
個人が情報発信できるようになった。

それで我々はどこへ向かうのか

力強いエンジンが手に入った事はいい。次はその車でどこへ向かうかだ。
その方向性がはっきりしないため、今Web2.0の言葉が廃れて、
消えていこうとしている。

いや、コンテンツはきっとこれからなのだろうとは思うけど。
その方向性を考える事なくきちんとしたコンテンツやそれを集める仕組みができるのだろうか

元NTTの上原仁さんが技術者でなくビジネスマン向けの知的ツールをと
思って作ったnewsing
今は芸能ネタやゴシップが中心になってきて悩んでいるようだ。

アメリカと違い、日本ではネットは完全にサブカルチャー的にとらえられ、
コンテンツもその方向で進んでいる。
お金に関しても濡れ手に粟のような儲け話、投資、ビジネスの話が多い

これは方向性がないために、その動機付けができていないのではないだろうか?

それがいけないわけではない。エンターテインメントも必要だし、
何より目先の欲望が一番モチベーションになる。
でもそれだけでいいのだろうか?
ウェブはもっともっと有効な知的ツールになりえるというのに。


方向性を定める事が必要なのだ。

ただ、その方向性は誰が作るのか?
政府や国が作る?? いやいやそれはありえない。
アメリカなら大統領がその方向性を作るというのはありえるだろう。
オバマ氏など演説巧みな大統領が国民を熱狂的に導く それはありえる。

しかし、官僚が取り仕切る日本ではそれはないだろう。
だったら個人が立ち上がる必要がある。

それはこれを見たあなただろうか?私だろうか?そのどちらかだと嬉しいけれど。
何らかの方法が必要なのだと思う。

sfukuchan at 23:57|PermalinkComments(2)TrackBack(0) ネット 

2008年01月27日

他人の人生に影響を与えられるか?

他人の人生に私達はどのくらい影響を与えることができるだろうか?


小阪裕司さんの「そうそう、これが欲しかった」という本に書かれて
いた事を読んでそう思った。


この本によると「商品やサービスに関する情報を常に発信し、教育・啓蒙
し続け、」「顧客の感性を育成」する事によって、「お客さんにとっての
新たな世界を開け、面白いこと」を体験させるという事がマーケティングには
必要だという。

単なる商売においてもこれからはこういった事による、顧客との関係構築が
必要だという。顧客にものを売るという行為の中で、顧客の新たな世界を開ける
という。ビジネスは10年前と比べても相当高度になものになったといえるだろう。

振り返って、ネットによって変わった私達の生活全体を考えてみるとどう
だろうか?

ネットによって、過去のどんな人よりたくさんの新たな世界の扉を私達は
開くことができるようになった。そういう機会を得ることができた。

逆に私達は何か提供できるだろうか?
自分達が生きている証だと思えるような、新しい機会を提供できるだろうか?

奇しくも今日見た情熱大陸で、以前は素人にメイクする事に抵抗があった
という世界的なメイクアップアーティストの吉川康雄氏が言っていた。

「人の人生にスパイスを与えられたら幸せだよね」

そうですよね。ほんとうにそうです。

新しい扉を開け続けたいし、人にも開け続けてもらいたい。
その手伝いをしていきたい。そしてそれが可能な時代なのではないでしょうか。

sfukuchan at 23:42|PermalinkComments(0)TrackBack(0)  

2007年12月11日

あえて静的に何かを貫くということ

分裂勘違い君劇場さんが、梅田望夫さんの「好きを貫く」に関して
面白いエントリーを書いていたので、それに反応して書く



「好きを貫く」よりも、もっと気分よく生きる方法

「夕日に染まる美しい落ち葉の林を歩くとき、
 ぼくは、自分が何者でもないことに感謝する」と書いてあり、
写真家なら写真家の視点で見てしまうし、他の職業なら同様に
その視点で見てしまうと書かれていた。

なるほどなあと思った。

これまで私は知る事によって得る力の事しか考えていなかった。
それは次に書く茂木健一郎さんの「アハ体験」やジョシュアツリー
の話にしろ、前向きに、プラスになる力のことだ。

茂木健一郎さんの「アハ体験」とは、閃きや気づきの瞬間に
「あっ!」と感じそれにより脳が一瞬にして活性化し、それに
よってある図形をあるものだと一度認識してしまうと、もう
それ以外のものには見えないという事だ。

これにより脳とその人は新たな展開を迎える事になるが、
確実に私はこれを進化や発展と捉えていた。


またノンデザイナーズデザインブックという非デザイナー向けの
デザインの本に書かれているジョシュアツリーの記述は次のようなものだ。

図鑑で見た時にその木が変わった木なので、近所で見た事がないと
思っていたのに、実際に外を歩いてみるとその木があちこちにあった。
その木を知るまではその木を見た事がなかったのに、その木を知り、
意識する事によってその木を見かけるようになったという話。

この本に「一旦何かの名を呼ぶことができれば、あなたはそれを意識し、
それを支配し、それを所有し、それをコントロールできるようになる。」
と書いてあるのを読んで、私は人生の真髄の一つを知った気になった。


これらの話のように、知ることによって世界が変わる事が素晴らしい
とばかり考えていたが、それにより世界が変わってしまい、それまでの
見方で見れなくなる不幸というのもある。それまでの見方を素直という
ようにきれいに呼ぶ事もできる。

本来どちらの方が幸せなのかは自分で選ぶ事であろう。

ただ、我々はその両方を知ってから選ぶ事はできない。
人生における殆どの事が実はそうであるように、どちらかを
選んで、その立場からもう一方を想像する事しか実はできない。


なら、それが必ずしも進化だとも発展だとはいいきれないだろう。
それは確かにそうだと思う。


知るという事についてはそういう事だとして、分裂勘違い君劇場さんは
さらに「選択と集中」によって人は生涯に得られる報酬を高くすると
書かれている。これはどうだろう。

確かに現実としてそのとおりだと思う。これは考えてみると
道理が分かる。その方がうまくいく事が結構あるのだ。

例えば、何かを任せる時にその人の特徴や標識があった方が任せやすい。
そして分担しやすい。また全体の組織を一つの大きな人間に例えると、
手は足や胸になっても高機能である事なんて求められない。

ひたすら手として高機能であってくれた方がいいのだ。
だから選択と集中をしている人間は、使いやすく有用だという事になる

でも、そうなると、だんだん手や足にはそれぞれに頭なんていらない
んじゃないかという話につながってしまうような気がする。
また、その考えはあくまで人全体として考えればという話で手や足単体の
幸せを考えていないような気がする。

だったら、手や足がそれぞれ人間全体の幸せでなく、手や足単体
の幸せを考えるとしたら、それはやはり、自由に何でもできるような
存在になることなのだろう。

という事は、逆に地球という大きなレベルでそれを一つの生命体に
みたてて考えると、その一部である人間が高度な頭脳を持った事は
不幸な出来事だったのだろうか?
それはそうかもしれない。


話が脱線したが、このエントリーの結論的な話である、そもそも
静的な「好き」とか「本当の自分」は存在せず、動的平衡として、
「流れ」として「自分」は形成されているという内容について考えてみたい

要するに、人は常に変わり続けているので、一つの定まった形の
「自分」や「好き」は存在しないと言っているのだ。

いや、私も常々同じことを考えていたので、非常に良く分かる考えだ。
だが、とはいえ全否定は良くないと思う。それこそニヒリズム的な
無味乾燥な考えに突き進んでしまう事になるからだ。

多少は知らないうちにロマンスを含めた人生観だった方が人生は
豊かに過ごせると思うのだ。

もし、そのまま分裂勘違い君劇場さんの言うとおり全てが変わって
いくという主張ばかりを全ての人が声高らかにしたらどうなるだろうか?
そうしたら、私達は一体何を信じて生きていけるだろうか?
社会は崩壊して、人間は全て孤立してしまうであろう。

これまでの行動で人が判断できなくなるのだ。何しろ次に何を
するのか分からないのだから。もう誰も過去の行動や実績を元に
して信頼して、人にお金を貸すなんて事ができなくなってしまう。

いや、実はこれらの信用の仕組みが、実に脆弱なもので、欠点が
多いという指摘はあるだろうし、事実そうであろう。
ただ、そんな脆弱なものにでもすがらないと、我々は普通の生活
さえ脅かされてしまうのだ。

また、幻想かもしれない「永遠につづく愛」や「一生続けたい事」が
全て否定され、全ては明日また変わってしまうかもしれないものだと断言
されると、我々生命体は「流れ」の中で一瞬だけこの地球上に現れ消えていく、
そんな存在だという事実を目の前に突きつけられているような気にさえなる。

我々はそうして一体どこに向かっていくのだろうか?

だから、仕組みをロジカルに理解するという事で、全てのものは動的で
あり、静的に定まっていないという説明をするのはいいのだが、それが
真実であるというような断言の仕方はいかがなものかと思う。

だからといって「好きを貫く」やり方を強く肯定するのではない。
それはとても大変な事だからだ。
でも、あえてその好きを固定した生き方というのも、大きな役割を
果たすのではないかと思う。

まあ、ちゃんと定まっていない考えではありますが、読んでいただいて
ありがとうございました。


sfukuchan at 23:41|PermalinkComments(0)TrackBack(0) その他 

2007年12月09日

ネットが世界を包み込む

この週末に「東京物語」と「80日間世界一周」という映画の
ビデオを見ました。

両方ともとてもいい映画でいろいろと感想はあるのですが、
両方昔の映画なので共通して思うところがありました。
連絡する手段が今と昔とでは格段に違うという当たり前の事です。

「東京物語」で感じたのは電話網による違和感。
映画の中で登場人物は、東京都内では電話でやりとりしているのに、
尾道や大阪には電報でやりとりをしました。
その部分に自然と「あれ?」と感じました。

当時は都市間の電話網がなかったのかもしれませんし、電話料金が
高くて問題だったのかもしれません。
ただ、当時はこれが普通で、今はこれに違和感を感じるという事実があります。

いつの日か世界の中でネットが繋がってなくて、即時で連絡ができない
地域があるなんて信じられないという感じになるのかなあと思いました。
これってすごい事だなあと思います。

「80日間世界一周」で感じたのはこれまた情報の連絡です。
主人公が世界一周をしながらロンドンの本部に連絡する手段はもっぱら
電報でした。当時は電報という一方通行の通信手段しかありませんでしたが、
今は即時でネットでやりとりができる。

実際に今は誰かが海外旅行してても、すぐにフリーメールや
海外からmixiなどのSNSを通じて連絡ができます。
それにかかる費用はネット費用だけです。

まだ我々は振り返って考えてみると驚異的に感じる事ですが、
何年後かにはそれが当たり前すぎて、違っていると純粋に違和感を
感じるだけになるでしょう。

何に違和感を感じ、何が当たり前になるのかが変わると当然常識も
変わってくるはずで、その世界で我々はどう変わっているんでしょうね。

我々は短期的に「この1,2年でウェブ2.0の名前の下に、何かが大きく変わる
ような予感がしていたけど、実際はそうではなかった」というような事を
感じています。ですが、もっと大きいスパンで考えると、やはりすごい
激動の最中にいるのではないかと思うのです。

sfukuchan at 21:50|PermalinkComments(0)TrackBack(0)

2007年12月05日

我々が向かっているのは桃源郷なのか? 梅田さん×まつもとさん対談のメモ

梅田望夫×まつもとゆきひろ対談「ウェブ時代をひらく新しい仕事,新しい生き方」
がすごく面白かった!!

「ウェブ進化論」や「ウェブ時代をゆく」で今後の生き方について興味を
持った人は是非読んでほしい。

桃源郷










その中で、松下幸之助の水道哲学が出てくる箇所があった。
「水道の水は無料ではないけど,無尽蔵で価格が安いから,例え通行人がこれを
 飲んでもとがめられない。家電も同じように安価に大量に供給すれば,それで
 世の中がよくなるという使命感に基づいている」

改めてウェブ進化と一緒に話をされるとすごい世界を想像してしまう

全てのものの使用が同じ様にとがめられない。半分、使いたい放題の世界
善意の人による少しの労力を大勢の人から集めて世の中が成立しするという
桃源郷を夢見てしまいそうになる。

そこでは最低限の暮らしを皆ができるから、公平をむやみやたらと
目指す必要さえない。本当の自由だ。
 
いつかそんな夢のような世界がくるのだろうか?
馬鹿みたいでも、その実現に向かって何かをしてみたくはなる。


ウェブ進化の中から,どういう新しいタイプの人が出てきたかというと
という梅田さんの言葉にはさらに興奮を覚える。
よく今の時代を梅田さんは明治維新やフランス革命に例えるが、
我々の今立ち会っている時間は、時代のはざまではなく、
生命誕生の瞬間という事もありえる。

全く異質の進化を遂げようとしているのかもしれない。


梅田さんは、今の若い人は僕達が10代のときと全然違ういい伸び方をしてると思う。
と話している。

ビジネスでよく言われる、質は量の中から生まれるという事を考えると、
ネットの膨大な情報によって、人が早期に成長できるような環境に
変わっているのではないかとも考えられる。

ネットで能力を増幅するというのは、これまで、外部記憶装置や便利な
ツールとして、その時点でネットを使ってあれやこれやできるという事だけ
を指すかと思っていた。しかしそうではない。その時点だけの話では
なく、成長するベクトルも変えているのではないだろうか。

美人女性の営業が比較的早く成長すると言われているのと同じように、
その時点の能力だけでなく、成長も促すようになっている。
これは大きく世の中を変えることになる。

子供に与える情報を制限するという考えも、これからウェブが進化していき、
ある程度間違った判断を抑える程度まで、子供のリテラシーとウェブの
インターフェースの能力が上がるなら、肉体的な限界がどの辺りかという
ポイントまで無くなっていくかもしれない。

そこでは、これまでとは全く違う世の中ができる可能性があるのだ。
そして、その未来を作っていくのは我々なのだ。
それを我々は強く意識していく必要がある。

桃源郷になっていく土壌を作っていく事ができるだろうか?我々は

sfukuchan at 01:51|PermalinkComments(0)TrackBack(0)

2007年12月02日

全ては話す、書くの延長線上

会社に来ているインターンの大学生の女の子が言った。

ウェブ進化やブログで、よく自分メディアとか誰もが自分を
表現できるようになったとか言うけど、私たちがmixiやブログに
求めているのはそんなものではなくコミュニケーションなんですと。

放送と通信の垣根がなくなったり、ワンセグ携帯なんかを使ってると
テレビも動画の一つなんだと認識したり、そういう垣根が無くなって
いるように、メディアもあくまで日常的なコミュニケーションの
延長線上に極々普通に位置されるようになるんだなあと思いました。

じゃあコミュニケーションに長けて注目を集められるものは、
勝ち抜いていけばそのままメディアになれるのか?
そういう意味ではこれから(もう今も)戦国時代なのかもしれませんね。


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2007年11月26日

生きるという事(往復書簡本を読んで)

先週取り寄せたと書いていた、下記の往復書簡の本2冊を読みました。

ヒトはなぜ戦争をするのか?
 アインシュタイン×フロイトが人がなぜ戦争をするのかについて書いた往復書簡

邂逅
 多田 富雄×鶴見 和子 生死をさまよった、免疫学者と社会学者との往復書簡

往復書簡






アインシュタインとフロイトの往復書簡については、手紙のやりとり
が問題提起とそれへの返答の一往復だけだったので、そのままやりとり
を続けてほしかったと非常に残念に思っています。

その中で心に残ったのは、なぜ人は戦争をするのか?という問いに対して
フロイトが、生物は利害の対立を基本的に暴力で解決してきたと返すところ
です。

これはとても考えさせられました。確かにそのとおりで、動物は基本的に
腕力で自分の生の営みを維持し、そしてそれは誰にも責められるものでは
ありません。生きるという生物にとって最大の目的のために自分が持って
いる暴力・腕力を行使するのは当たり前の事です。

と同時にわれわれ人間の今の暮らしを振り返ると「戦争はいけない、
争いはいけない」という大義名分の下、暴力・腕力を殆ど行使せずに
毎日の暮らしを営めています。これは考えてみると、想像を絶するくらい
素晴らしい事なんではないでしょうか?奇跡のような事ではないでしょうか?

我々はこの奇跡にもっと感謝し、そして一人一人が真剣にその維持に
ついて考えていかないといけないなあと思いました。


そしてもう一冊の「邂逅」という本
これは素晴らしい本でした。この本に出合えてよかった。

京都大学でiPS細胞実験が成功し、これから再生医療が発展し、
その後「自己と非自己」の境目が難しくなりそうな予感がしていた
このタイミングでこの本を読めたのは、まさに「出会い」を感じました。

脳梗塞と脳溢血で倒れながら、こんな大きな視点で自分の専門分野を
超えて手紙のやりとりができる二人は本当にすごいなと思います。

多田富雄さんは脳梗塞に倒れた自分の機能が回復するのは、再生では
なく新しい巨人と呼ぶ何かの新しく創り出されたものだと感じる、と
本書に書かれていますが、それがどこまで理解できているかは分かりません。

ただ、これから再生医療が発展すると、この全く新しい「自己と非自己」
の問題が我々に問題提起し、そしてその問題提起が我々を新しい
ステージに連れて行ってくれるかもしれないと感じています。

「露の世は 露の世ながら さりながら」という心境を持ちながら
生きていくという事の問題をこれから考えていきたいと思います。


その他にもこの本から下記のようないろいろな事を学びました。
今日はそれを列挙するに留め、これから再度噛み砕いて理解しよう
と思います。

・学問にはみずみずしい感性が必要だということ
・自己が非自己と出会うことによって、自己を認識し、自己が変化するということ
・創造性ということ
・人間であるという事の条件
・社会科学と自然科学のアプローチの違い
・免疫の自己と脳の自己
・共生という考え方
・混乱期と再生期の社会で増えてくる人の層


sfukuchan at 01:23|PermalinkComments(0)TrackBack(0) その他 

2007年11月19日

お勧めの対談本をお教えします♪

最近MP3プレーヤーを買ったこともあって対談にはまっています。
講演や対談の音声ファイルはまだまだ少ないですが、そんな中
脳科学者の茂木健一郎さんの対談はとても貴重なものとして
むさぼるように聞いています。

対談







例えば下記のファイルとか。茂木さんのブログにはたくさん音声
ファイルがあり、とても興味深いものが多いので是非聞いてみてください。

茂木健一郎×佐藤雅彦(クリエイター)
http://kenmogi.cocolog-nifty.com/qualia/2006/04/post_67b4.html
http://kenmogi.cocolog-nifty.com/qualia/2005/08/post_2d11.html

茂木健一郎×是枝裕和(映画監督)
http://kenmogi.cocolog-nifty.com/qualia/2006/09/post_d7e9.html


音声ファイルで対談はいいなと思った事により、最近書籍も、対談を
再度見直しています。しばらくは過去の対談本を再読したり、対談本
をまとめて買って読んだりしようと思います。

前から対談形式だと物事がすんなり頭に入ってきやすいと思っていたの
ですが、改めて読むと、その人の主義主張や伝えたい事が明確に伝わって
きてとてもいいなと思っています。

私の持っている対談本の中でもお勧めのものを列挙します。
他にいい対談本を知っている人はコメント欄で教えてください!

経済ってそういうことだったのか会議
 佐藤雅彦×竹中平蔵
  経済全般について、対話を通して分かりやすく説明した内容
  私はこの本で貨幣についての考え方が変わりました

海馬
 糸井重里×池谷裕二
  脳について、海馬について対話を通して分かりやすく説明した内容
  池谷さんの分かりやすい説明と糸井さんの発想力が面白いです

社長!それは「法律」問題です
 中島茂×秋山進
  会社の様々な法律問題のケースや実際の進め方について対話を通して説明
  色々な場面で法律がどのように係わってくるのかが分かります

吉野家の経済学
 安部修二×伊藤元重
  吉野家がどのように成功してきたかを話を通じて語る
  吉野家成功のストーリーが分かってとても興味深いです

こころの処方箋
 河合隼雄×遠藤周作/多田富雄/村上春樹/谷川俊太郎/山田太一/白州正子
  心理学者の河合隼雄が各界の知識人と対談しながら人間を深く掘り下げる
  心理学者ならではの深い視点がとても参考になります

村上春樹、河合隼雄に会いにいく
 河合隼雄×村上春樹
  こころの処方箋では話しきれなかった、物語等に関する深い対談
  物語という視点から人間や世間を考えるという新しい視点が得られます  

ウェブ人間論
 梅田望夫×平野啓一郎
  ウェブ進化によって世の中やその中で生きる人間がどうなっていくかを熱く討論した内容
  若者の平野さんがネガティブで年長の梅田さんがポジティブな意見なのが面白いです

フューチャリスト宣言
 梅田望夫×茂木健一郎
  ウェブ進化によって変わっていく世の中で、我々が何をしていくべきか論じた内容
  今後どのように生きていくかという事を考える上でおおいに参考になりました

進化しすぎた脳 
 池谷裕二×中高生
  高校生相手に、現代の脳科学をわかりやすく説明した内容
  脳科学については、中高生レベルだったので、本当によく内容が分かりました。
 
自分の仕事をつくる
 西村佳哲×柳宗理/デニス・ボイル/甲田幹夫
  西村佳哲が仕事について、働く事について様々な人に聞いたインタビュー集
  働くという事はこういうことか、自分はどうしていきたいかを改めて考える機会になります

●番外編
不思議の果実―象が空を
 沢木耕太郎×吉永小百合/美空ひばり(本の1部分だけです)
  普通の対談ではなく、沢木耕太郎があった時のドキュメンタリーみたいな内容です
  これはさすが沢木耕太郎、という内容で、お二人の知らない面を見た気になります

論語
 孔子×その弟子
 言わずとしれた宗教/哲学書 でも対話を通して語られているので難しくないのです
 私は今でもこの本を読むたびに、生き方について新しい発見があります

河合隼雄のカウンセリング入門
 河合隼雄×受講生
  質疑応答形式でカウンセリングが語られているのでとても説明が分かりやすいです
  コミュニケーションとはなにかを再度考えるいい機会になります

1分間マネジャー
 1分間マネージャー×若者
  マネージャーと若者の形式で部下指導について簡潔に説明されています
  この本は今でも、部下指導を考える最初の一冊として最適だと思っています。

ザ・プロフィット
 賢人チャオ×若者スティーブ
  対話形式で利益構造というのはどのように成り立っているかを記述した内容になっています
  とにかく利益を得るパターンが多いので、こんなにいろいろな方法があるんだとヒントになります。

●今日下記の取り寄せ本が届きました。今後読んでみようと思っています。
ヒトはなぜ戦争をするのか?
 アインシュタイン×フロイトの往復書簡
  対戦中にこんな書簡のやりとりがあったという事実だけでわくわくしますね

日本人への遺言
 司馬遼太郎×宮崎駿/大前研一
  宮崎駿がこの頃は子供扱いらしいです。。

時代の風音
 司馬遼太郎×宮崎駿

邂逅
 多田 富雄×鶴見 和子
  生死をさまよった、免疫学者と社会学者との対談です
 
他にいい対談本を知っている人はコメント欄で教えてください!

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2007年11月12日

ロールモデル思考法で自分の未来を作る

梅田望夫さんの「ウェブ時代をゆく」を読みました。



私も強く感銘を受けた「ウェブ進化論」から1年半の間に
感じた事、考えた事をまとめられた内容でした。

その1年半、梅田さんのブログを読み続けていたので、
目新しい内容は少なかったですが、これまでに呼んだ事柄が
きちんと体系化されていたので、改めて自分のこの1年半を振り
かえることができました。

私も、ウェブ進化論の熱にほだされて、このブログを始め、
Web2.0のキーワードの本やブログを片っ端から読み、WEB2.0企業
と呼ばれる企業に転職もしました。

そこでの仕事も、これから中心にやっていこうと思っていた管理部系
業務だけでなく、マーケティングや新規事業など様々な事に
係っていくようにそのスタイルを変えてきました。

梅田さんが本書の中で書かれた、専門性を生かしつつも個としての
総合力をもっと活かした柔軟な生き方である「けものみち」で
生き残っていけるような道を模索してきたのではないかと思います。

ただ、正直、ウェブ進化論を読んだ時の熱狂から考えると、
ちょっと落ち着いてしまったな、というのが正直な感想です。

今が時代の変革期だというのは本当にそう感じています。
ただ、ウェブ進化論で、変化は我々が気がつかないうちに進行している
と書かれていたように、その変化が本当に水面下だなあと思うのです。

いや、もしかしたらこれまでの時代の変革期も多くの人は同じように
感じていたのかもしれません。そうだとしたら私の鈍さの責任なので
すが、ともかくも平和的すぎるなと。

だが、平和に生きていると「けものみち」で生き残れないのは確かです。
だから、内心焦っているのですが、焦っているだけでは何も進みません。

そんな中で今後どのような人生を作っていこうかという事を真剣に考えて
いるのですが、そんな時にちょうどいいものに出会いました。
本書の中の「ロールモデル思考法」です。

ロールモデル思考法というのは、ある対象に惹かれたという直感にこだわり、
その対象に惹かれた理由を考え続け、それをたくさん発見していく事に
より、自分を見つけていくという事と書かれています。

小さい頃から尊敬する人が「エジソン」でも「お父さん」でもなく、
好きな事と言われても、あれもこれもちょっとづつ違うという違和感を
感じ、明確に目指すべきターゲットがなかった私にとってはとてもいい事
を教えてもらった気分です。

今後これを試していきたいと思っています。
まずは惹かれる対象をあげてみました。

いや、これだけで済ませると、なんだか大学生の就職活動の自己分析
みたいですが、これから惹かれる理由を分析していきたいと思います。

そして、これから惹かれる対象を増やしていきたいと思っております。

(2007年11月12日で惹かれる対象)
太宰治
松田優作
尾崎豊
三島由紀夫
川端康成
村上春樹
宮本輝
金子みすず
西原理恵子
ドフトエフスキー
沢木耕太郎
岩合光昭
黒井健
マグリット

梅田望夫

フランクリン
諸富祥彦
河合隼雄
茂木健一郎
池谷裕二

糸井重里
佐藤雅彦

豊川悦司
福山雅治

ロバートヒックス
鳥井信治郎

宮崎駿
ミスチル
奥田民雄
ジョンレノン

小阪裕司
神田正則

荻上直子
星野仙一
中田英雄


sfukuchan at 00:40|PermalinkComments(0)TrackBack(1)