2022年06月21日

生まれてないけど、全部おぼえてる

久々の水族館劇場です。



水族館劇場については、問題主婦では何度も書いてきましたので、ROMの方はよくご存知だと思います。なかには自らせっせと通っている人もいるかもしれないです。うれしいです。

一昨年は休演でした。
昨年はあったのですが、竹薮が自粛しました。
この二つの公演は羽村市の宗禅寺で行われました。
その前は新宿の花園神社でした。
その前は、その前は。。いろんなところで行われてきました。

わたしが一番最初に見たのは法政大学で、
その時は、水はバスタブ一杯でした。
その後は子育てが一段落して、駒込の大観音でわりと長く行われました。
しばらく通った記憶があります。
整理券がわりの木戸札をもらった後、開演まで筋向かいの喫茶店が懐かしいです。
インベーダーゲームの機械があったりして、トイレは和式でした。本当に昭和でした。

桃山記事

ところが、↑ の記事のように、桃山が死病を得て、桃山作品での水族館は今年で最後となりました。
これは何が何でも行かねばならない。新聞記事の桃山は、がっくり痩せていて、痛々しいのです。

芝居の最後で役者が全員舞台に揃い、桃山亡き後の主宰、脚本制作の紹介もされました。
というわけで、来年も馳せ参じる所存。
この芝居を一年に一度見ることができるか否かは、わたしにとってはいわば踏み絵のようなもので、いくということが、踏み絵を踏まないということなんですね。

でも、なんというか「ロス」っぽいものがあるのです。
それはなぜかというと、いろいろ重なってるからです。

先月末に所用があって、故郷に帰りました。
実家があったあたり、遊んでいたあたりを車で走り回り、歩き回りました。
よくお茶飲んだ喫茶店はどれもなく、レコード屋も、何もなくなってました。
そして、商店街!縦横に走る幾つもある商店街が寂れてるんです。
おまけで言えば、うどん屋さんが減ってラーメン屋が増えてて、びっくりしました。

故郷は遠きにありて思うものですよね。
東京が核攻撃の危険がとか、原発の爆発の危険が解け出ない限り、もう帰らないと思います。
飛行機で行くと、上空から見た東京は廃墟にしか見えない灰色で
日本の基本である緑の山野に対し、地方都市はまあまあバランスが保たれているけれど、
大都市部は本当に醜い。
地方都市の町自体はいいです。
いい公園もあるし、美味しい食べ物もあるし、徒歩圏でなんでも用が足りるし
暮らしやすい規模です。

でもそれは、わたしにとっては失われた故郷のその後の姿です。
誰が悪いわけでもない。
むしろ私が悪い。
50年も前の故郷がないことを確認しに行ったわけだから。
だから、帰るというよりも移住ということだと思います。

別にこのまま東京に住んでていいんですけど。子育て介護しながら地域で関係を作ってきたんで、ここで生きて死んで、それでいいんですけど、でももう都市で生活するのが限界とか、地方で生活することを選び直すことが大事だとか考える局面になるようにも思うんです。あるいは、東京が凋落していい具合に田舎になるといいんですけどね。

67歳というのはそういうことなんだろうと思います。人生の終わりです。
まだまだ一昨年や去年と同じ一年を送ってますけど。

さて、水族館劇場です。
出雲阿国木札


早々と行ったんですが、どこが入り口か分からずウロウロしてるうちに、1番を逃してしまいました。
この木札のうち最年少は5歳の男の子でした。
彼は泉津の子どもたちの遊び仲間、お母さんは泉津のママ友というわけです。
次に若いのが23歳の大学4年生。
最前列のど正面、この二人の間に陣取りました。

5歳はガタガタ震えたり、大爆笑したり。
水を被らないようにビニールシートを被ってもすぐに顔を出します。
大学生も羽村から竹薮を最寄駅まで送ってくれた後、なおドライブし続けたとのことでした。だよねえ。

話はいつもの構造です。
でも、主役は出雲阿国、河原者でした。
これまでも河原者は出てきたが、芯になったのは、これが最後の作品だからだろうと思います。
そこに絡むのは戦争の落とし子たち。沖縄に在留した米兵の孫と、もう一人捕虜になった父を探す子でした。もちろん両方とも探す相手は生きていない。でも探すのです。

さらに泉鏡花版の夜叉ヶ池伝説。白雪の思い人は現れない。

そこに、いくつもの時代がどんどん、差し込まれます。
その時代を千代次さん演じる出雲阿国が旅していくのですが、どうにもならない。
芝居の中では問題がどんどんてんこ盛りになっていくけども、何も解決しないんです。
それって「今」ですよね。
そして、言うなれば桃山の頭の中にあるものを全部ぶちまけたんだと思うんです。
で、どうにもならない。
どうにもならないからって、だから何?

どうにかなろうが、どうにもならなかろうが、やること変わらない

これ。これです。
水族館劇場は公演するたびに赤字で、テントを建てるところからバラす所まで3ヶ月とかかかるので、いわゆる定職にはつきづらい。金の心配のない生活はできない。でもそれがどうした。金のないのは困るけど、あろうがなかろうが、芝居のために生きているなら、芝居がやれればそれでいい。それを共有しているコミュニティがあって、そこで生きているならそれでいい。戦争があろうが、疫病があろうが、芝居をするのみ。

そういう姿勢に、全ての人がなったら、自民王が大勝ちするなんてことはなかったと思います。
農業とか漁業とかそういうことが生業であれば、世の中のシステムから比較的自由でしょう。
芸能、芸術もそうですよね。
だって、作品を作っちゃうことは社会システムとは関係ないわけだから。
でも、売れることを目指したらダメです。
客に向けて作品を作ることと、売れることは全く別でしょう。
ただ、自分のやりたいことをやって、見てほしい人に届ける。
それだけです。

では、わたしは何をするんでしょう。
それは「語る」ことですね。

水族館を一緒に見に行った大学生にも、ただ一言言っただけ。
「ぶっ飛んだ芝居見に行こう。
 4000円ある?それと電車代」
「あります」
これだけです。
もう一人、上の新聞記事を見せただけの子が、行こうと思い立ったそうで来てました。
芝居がはねて、暗がりの中でテントを覗き込んでいる人とすれ違って、なんか黙礼されたんでよく見たら、え〜〜〜〜〜〜〜!でした。

彼らはなぜ来たのか。
それはわたしの「語り」を受け入れてくれているからでしょう。

水族館劇場を見た週末に、大学に集まりに出かけました。
そこで、何やら昔話になり、下の世代の人たちにいろいろ話しをしました。

それも「語り」だと思います。

大事なことを肉声で。
あるいは、ある程度のコミュニティの中で文字で。

生まれてなかったけど、全部憶えてる。

芝居の中で千代次さんと風兄宇内さんが沖縄のお婆二人として居眠りしながら、
夢現でいいます。
生まれてはいないけど、聞いた話、伝え聞いた話でも全部憶えてる。
それは「もう一人のわたし」のことだから。

全部憶えてるよ。前世のわたし。来世のわたし。
時空を超えてあちらこちらで出会う「わたし」
元気にしてたかい?
辛くないかい?
なんとかやってるよね。
生き死にをこえて、どっこい、わたしたち生きてるじゃないか。

地べたに張り付く生命
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思わず心を奪われるのは
評価の軸の外にいるからです。

ほんの数ミリの透明な花
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生まれた場所で、咲きたいように咲く。
流れ着いた場所で、咲けるように咲く。

ふう。
ようやく脳内が形になりました。
2週間もかかった。
これが経年劣化でしょう。
でも、ロスからは抜けられそうです。

わたしのすることは「語り」なので
語れる限り、語れるうちは、語りたいように語ります。

うん。

では、また来年。
水族館劇場でお会いしましょう。








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2022年01月02日

あけましておめでとうございます

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本当にご無沙汰いたしました。
皆さん、いかがお過ごしでしょうか。

令和も四年。2022年となりました。
震災後10年、COVID-19パンデミック2年目の昨年
オリンピックに選挙。総理の交代。さまざまなスキャンダル等々
もうしっちゃかめっちゃかの一年でしたね。

でも、もうどうでもいいような感じなってしまいます。
毎日毎日、仕事して家事をして、それだけでも一苦労。疲れちゃいますもの。

私は、ただただ手湿疹に翻弄された一年でした。
痒くて痒くて、かき壊して傷になって、
皮膚科の梯子は三軒
ステロイドが強くなるばかりで、皮膚が薄くなって張って。裂けそうな気配。
思いついて漢方医を訪ねました。
まず、軟膏のつけすぎで皮膚呼吸ができなくなってるから
保湿剤をつけたら刷り込んだ後は拭きとることを指導されました。
これでかなり手が軽い感じになりました。
内服薬として「十味排毒湯」を処方されました。
湿疹は一種の手からの排泄作用だということで、何を排泄するかといえば「毒」をです。
だから「排毒」尿や便、汗で排毒することで皮膚が改善するという理屈のようでした。
これが効いて、かなり改善したところで、植木鉢の片付けをしたら。直後に手が腫れあがって、水疱ができ、破れてジュクジュクと黄色い液体が止まらなくなりました。
慌てて、医者へ。「土はバイキンだらけだから、入って化膿したんだね」とのこと。
化膿止めの漢方が追加されました。二日ぐらいで化膿はとまったけど、悪化には違いない。
ちょっとマシになったところで、選挙があって開票を待ちながら掻きまくって悪化。
そんなことを繰り返しながら、じっと考えていたのが、
なんで、こんなことになるのか?ということでした。

以前にも書いたんですけど
皮膚というのは私の身体と外部環境の境界線なので、
そこに不具合が生じているのは、外部世界との齟齬としか言いようがない。
さらに、主な場所が手であるということ。
手は外部世界と関わるための手段となる部位だ。
その手が使えないというのは、これまでのように外部と関われないということになるだろう。
では、どう関われば良いのか。
少なくとも量的には縮小せざるをえないと思う。
そして何よりも自分の手を守ること。
自分で自分の手を守ること。
自分には見えない(掻けない)背中に思いを致すこと。
「離見の見」だろうか。
みたいなことです。

竹薮は超観念的なので、わかったら治るという不思議な現象が起こります。
例えば、ツワリで具合が悪くても、産婦人科に行って妊娠だとわかるとピタッとツワリが止まる。
おかしいけど、本当のことでそういうことがおこる。

というわけで、治りたい一心で、何に気付けばいいのかと考えまくりました。
一つ思いついたのが、天中殺だか、大殺界だかであるということ。
一昨年、昨年とそうだったんですよ。
これは12年のうち2年の運の悪い時期ということですが、運が悪いというのは竹薮をめぐるさまざまな事柄によくないことが起こるということだから、周囲でよくないことが起こることも含むわけです。でも、それが手湿疹だとすれば、周囲には何も起きず竹薮だけが苦しむわけだから、ある意味ではいいことかもしれない。こう思った時に妙に納得した感じがしたんです。だから、これがビンゴかもしれないと思いました。

でも、スッとよくならないんです。
違うのかなあ、当たってる気がするけどなあとブツブツ言いながら、また医者へ。
で、先生になんでスッキリよくならないんですか?と先生に不定愁訴。
そしたら、先生が
竹薮さん、何か悲しいことある?と聞くのです。
それはこれによります。

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皮膚は金の気で、五志では憂、悲しみに当たるからです。

「悲しくないわけないじゃないですか!」
と答えると
「悲しんでる人はそんなふうに言わないよ」とケラケラ笑っておられました。

これか。

竹薮は悲しむということをあまりしません。
もちろん、悲しいという感情はあります。
でも、悲しむことよりも、悲しみを生んだ事態に対応することを優先させるのです。
これは生育歴からくるものだろうと思います。
そうでないと事態が余計悪化するから。
事態が好転した時には、もう悲しみは薄れてるわけだから、
悲しむということにどっぷり浸ったことはないわけです。

これか。

一年間、苦しい、辛い、もどかしい事態から逃れようがなく
一度など、泣きべそかきましたら。
あの感覚が「悲しい」ということなのか。

これか。

果たして、手はどんどんよくなりました。

まだ完治ではありません。
でも、痒みの範囲はぐんと減り、寝ながら掻いていることもなくなり、ゴム手袋なしで水を使えるようになりました。今年のお節は手袋なしで作りました。本当に快適。

まだ、換気扇の掃除は無理だろうと思ったので、ダスキンにキッチン周りを依頼し、その流れで食器棚に手をつけ、引っ越して以来20年余、突っ込み放題だった食器棚を全部出して、欠けや傷のあるもの、釉薬のヒビのあるものを廃棄に回し、数の多いものは3客を残して人にあげたり、リサイクルショップに持ち込むことにしました。鍋などの調理道具なども思い切って整理、シンク周りにモノを置かないようにしました。台所がものすごく広くなりました。感動的です。

悲しまないというのがセルフネグレクトだとすれば
これはセルフケアだと思います。

「悲しみ」問題については、精神科を受診しました。
それから、コミュニケーションを学んでいるヒトミちゃんに話し相手を頼んで問題を整理しました。折りを見てカウンセリングを申し込むつもりです。

こういう問題が持ち上がってくるというのも、人生の終盤戦に入ってきたということなんだろうな。
この世のことはこの世で。
そうしたいです。

***************

お節が続いてますが、今日のお昼は
甘くないフレンチトースト。
卵、牛乳にパルメザンチーズをたっぷり。
かなり時間をかけてゆっくりパンに浸します。
返して、返して、芯まで吸わせます。

時間をかけて焼きます。

今日は、ベーコンの焼いたの
カップスープ
プレーンヨーグルトと八朔

柑橘類では八朔が一番好きです。

明日、もう一つ更新したいと思ってます。




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2021年05月05日

立場主義の現在

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ひとつ前の記事に泉津がコメントをくれてる。
泉津(せんづ)は彼女の20代にどっぷりつきあった組女子だ。
組女子の一番手は「さくら」でその次が「ひとみちゃん」その次くらいだと思う。

今日、渋谷行くけどいける?
そういって断られたことがない。
授業よりも竹薮優先な感じだった。
「貧乏は正しい」の読書会もマンツーマンでやって
蟻の兵隊もどっぷりやってもらったし、卒論もしっかり手伝ったし、
その後のあれやこれやで、竹薮の表も裏もしっかりわかってる。

竹薮の組員との付き合いの最右翼だ。

で、今
右翼も左翼もない時代になったという話を
今日は書く。

最近、官邸前でキンさんという人に会った。
彼女は琉球人で辺野古埋立の土砂に混ざる遺骨問題でハンストをしている人だ。
彼女と戦争PTSDの話をしに行った。
その時、昨年の生徒二人に声をかけた。
合格報告に来た五人の中で、ネットで連絡の取れる二人だ、一人は都合がつかなかった。
キンさんに伝えたい話をして、この話を授業でできなくなってだいぶ経つといった。以前は必ずしてたんだけど、ここ何年か出来ないと。
キンさんはもちろん、話すべきだという立場だが、話せないものは話せないのだ。
一緒に行った子も話して欲しいという立場だが、あの場で話せると思う?と聞くと、う〜〜んという顔をした。でしょ?だよね。

なぜか?
その話は私の中のコアな部分であって、大抵のことは誰彼構わず話してしまう竹薮でも、やはりある程度の関係ができている場でないと話せないのだ。
なぜ、かつてはあったその関係が出来ないのか。

なぜ、若い人が変わったのか、それがわからない。
例えば、ある時から突然、死にたいという相談がなくなった。若いひとたちが死にたくなくなったのならそれでいいし、私でなくても誰か思いをぶつける人がいるのならそれでいい。しかし、死にたいと思っているのにいないのなら、それは問題だ。昔より時代が良くなってないんだから、心配なことこの上ない。

今年、3月に合格報告に来た子は5人だ。
これは少ない。ほんとに少ない。
コロナ以前は打ち上げのご飯とか飲み会とかがあった。コロナのせいか?いやいや、コロナの前から徐々に減っていた。泉津の頃は座敷にいっぱいの飲み会だったんだから。

官邸前に来られなかった子とLINEでちまちまとやりとりした。
そこで分かったことがある。
彼がいうには、連絡したいと思ってる子もいるはずで、でもできない。それは「先生と生徒の関係を教育の場以外で持つことは良くないものとして捉えている」からだと。

合格報告はその関係の最後に来るものだから、連絡したいならすればいいのに、なぜしないのか。それは今、連絡先の交換とかが基本バツだからだと。

それなら校舎に連絡すればいいのに、彼らは、教室の外で交流するというのが感覚的にわからないという。

何年か前に、私の発言を片端から検索かけてこのブログを発見し、読み込んで夜が明けて授業に来なかったという猛者がいた。そういう情報ももちろん他の生徒から入ってくるのだが、今は、そういう子も多分いない。

関係に対する欲動が低いのだ。
このやりとり自体、私は個人的、人間対人間として接しているのだが、彼は教師と生徒の枠組の中にいて、そこに自分の人間味をこっそり忍ばせるのだ。

立場主義を否定するのではなく、立場主義の中でひっそり生き延びるということだろうか。

驚きだ。
君は、立場が息苦しくて定期的に立場を離れているじゃないか。
『自分も正直、感覚はこっち側です。』
それなのに、立場そのものは残しておくとは。
そして、立場から出たくないとは。

私は年齢差があるからと考えていた。
上に書いた「さくら」と私は13歳の差だ。年の離れたいとこくらいだ。今は50近く違う。下手したら祖母の年齢だ。こうなると、共通前提となるものが違いすぎるの。

授業では、立場主義的なものは人間を疎外し、良いとされているものは、ほとんどが「常識」という名の虚構、共同幻想であり、そのような認識ができてくる仕組みとは、と一年かけてテキストに沿って語り倒す。そのイメージの何ほどかは、彼らに伝わっていると思う。

しかし、伝わった上で、
そこからどのように反応し行為するかについては、50年の隔たりがある。

そっか、先生/生徒じゃなくて、人間と人間だよね、じゃあ「みさえさん」だよねとはならない。まず、生徒としての立場に自分を込める所から始まる。同時に大学には当然、別の「先生」がいる。とすれば、「先生」としての竹薮はお役御免だ。納得した。

さくらの三つ下の「にしきごい」が最近、「もうみさえさんは、土になっちゃえばいいよ」といった。育てよう育てようとしないで、既に十分育てたんだから、ただあるだけの土になれということだと理解している。

言うなれば、「先生」人生のゴールテープを切って、その後のウイニングラン状態でいいということなんだろう。

思えば、2018年に50年の隔たりを埋めようと目論んで、あっけなく空中分解した。その時は心底がっかりした。ほとんど裏切れた思いだったが、現実が見えておらず、常識とは別の幻想を持ったに過ぎなかったのだと、今はわかる。

毎年、彼らの好きなものを聞いて、彼らを理解しようとつとめるが、私は、彼らが愛してやまない例えば、米津玄師やミレニアムパレードに穿たれることはない。それなら、彼らとて私に穿たれていることもなかろう。

逆に私に「独白するユニバーサル横メルカトル」を伝えた子は2回しか授業に出ずいなくなった。だが、私はその短編集に穿たれて、その時間軸のその一点で、何度も彼を思うのだ。名前も顔も覚えていないが、平山夢明の作品を通して深く刻印された存在感だけが私の記憶に残っている。その感覚はかけがえのないものに思える。

共有しない、出会いが出会いにならない関係。

それもありだと今は思える。
私に何かを伝えた若いものたち。
その記憶を私は持ち続ける。
それでいいんだろう。

スタジアムのウェーブに、波は存在していない。一人一人の人間が腕を上げ下げしているだけだ。そこに、波を想像する人間もいれば、見ない人間もいる。

見ようがみまいが、スタジアムにいて、試合を応援することにかわりはないじゃないか。うん。

こういう認識を持つに至って、明日からどんな授業をするのか。
自分で自分に関心があるような。

***************

手湿疹は一昨日の夜猛烈部痒くて、昨晩水疱を掻きこわして、しかし、悪化した感じはしない。
山谷を繰り返しながら、治ると感じている。

今日はこどもの日だ。
天気は悪いが、唐揚げにしようと思う。
中華おこわにするには、ご飯が残りすぎてるかなあ。

写真は、源ちゃんの本の表紙。
記事の内容に合うかなと思って。


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2021年05月03日

手湿疹との長いつきあい

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今朝、手に液体ムヒを塗ってみた。
結構勇気がいった。
下手をすれば手が火をつけたような、手全体に細かく針を刺されたような騒ぎになるからだ。
果たして、多少チクチクはするが、火がついたということはなかった。

ここ2週間ほど、炊事を放棄していたのだけれど、さすがに食べたいものが食べられないのは猛烈ストレスで、週末から復帰。指の腫れが引いたので、綿手袋の上からゴム手袋が出来るようになり、ここ三日満足な夕飯を食べている。

そもそもの発端は冬期講習で毎日、アルコール消毒するようになったこと。前段階として、COVID-19で猛烈手洗いしており、冬になり乾燥していたことがある。

直ぐに医者に行けば良かったんだけども、普段から多少のアレルギー反応はあるものだから、痒みどめなどつけながら誤魔化していた。細かい水泡が出来て掻き壊して皮が剥けてを繰り返すうちに皮膚が薄くなって、裂けてとこじれてしまった。

講習が一段落して皮膚科を受診。ステロイド、痒みどめ、ヒビ割れ用軟膏の三点セットが処方された。

最初は劇的に効いたが、治りきらない。保湿剤を追加。
半分くらい攻めるのだが、その後が進まない。ステロイドが少しづつ強くなり、ピリピリしみるように感じて、そこでステロイドをやめて、保湿剤を尿素からヒルドイドに変更。これで八割方治せた。

その時点で、もう手湿疹にホントに辟易して、何としても治したいと思って台所を放棄した。24時間手袋、お風呂も手袋をして入る。ポリエチレンの薄いのをガムテープで水が入らないようにしてはいる。一日に3回くらい手を洗って軟膏、保湿剤をつけるが、それ以外は手を出さない。手洗いの後以外にも、保湿剤をだばだばつける。ヒルドイドの他にセラミドとか。これでまた、少し改善。これが今の状態。

それでも痒いのだ。
気が狂いそうなほど痒いということはなくなったが、手袋の上から掻いてたり、手袋外して掻いてたりはある。しかし、無意識に掻いてるわけで、これはかなりマシ。

手の皮膚もだいぶ回復してきて、朝起きたらシーツが粉まみれということも減った。

でも痒い。

痒みについては、抗ヒスタミン剤の内服をしてるが、調べると痒みの原因はヒスタミン以外にもあるみたいで、それに関しては薬がない。なんてことだ。痒みというのは、痛みの軽いものと定義されてることもあるのに、まだまだ研究途上のようだ。一番効果的なのが、冷凍した保冷剤をぎゅっと握りしめるというもの。痒みを冷たさに変えて辛抱するという感覚の操作みたいなことだ。

もうちょっと何とか治療法があって欲しい。

一時は、背中、腰、四肢にも広がって、痒くないのは胸腹だけという悲惨なこともあったが、こちらは保湿で良くなってきている。

長々と不定愁訴してしまったが、これだけ続いてると手湿疹の意味論とか、考えざるを得ない。四六時中、手が痛痒いことだけ思い詰めてるわけなので。

なんで胸腹に出ないのか?
そもそも、手湿疹とは?

皮膚というのは私の身体と外部環境の境界線なので、
そこに不具合が生じているのは、外部世界との齟齬としか言いようがない。
さらに、主な場所が手であるということ。
手は外部世界と関わるための手段となる部位だ。
その手が使えないというのは、これまでのように外部と関われないということになるだろう。
では、どう関われば良いのか。
少なくとも量的には縮小せざるをえないと思う。
そして何よりも自分の手を守ること。
自分で自分の手を守ること。
自分には見えない(掻けない)背中に思いを致すこと。
「離見の見」だろうか。

時期を同じくして、地域での活動を思い切って縮小した。
関わりを変えるためには立ち止まらねばならない。
だが、自分を守るとは自分を露脱するようなことが必要なんだろう。
「離見の見」は自分を客観的に見ると解説されたりするが、世阿弥が客観などというわけはない。どういうことなのか。

今、たまたま上田三四二の「この世、この生」を読んでいる。
有名な本だが、通読するのは初めてだ。
西行や良寛、明恵、道元についてのエッセイだ。
その中の明恵が、これまでとは全く印象が違う。
これまで、明恵については河合隼雄が書くものの中でしか知らなかった。
島に向かって恋文を書き、弟子に島についたら大声で読み上げ、打ち捨てて来いと言ったエピソードが印象深い。おおらかで伸びやかで自由でといった印象だった。しかし、上田の描く明恵は仏の教えの真髄に至らんとして呻吟している。

「釈尊のご在生ならましかば、御後へにしてつきまゐらせてありなまし。」
それは不可能だろうか。
不可能ではあるまい。全てはこころひとつ、いや、身一つではないだろうか。
明恵の透明になった身体に働きのあらわれるのは、その時だ。彼はこころを尽くし、身を揉む。すると彼の透明になった身体という容器になだれ込むものがある。夢である。夢がそれを可能にする。


容器となった自分に、夢がなだれこむ。
こころを尽くし、身を揉んだ後に透明になった身体に夢がくる。
このイメージが離見の見に近いと思う。

私は、私の輪郭を滑らかになぞりたい。
私の手で。
こころを尽くし、身を揉んで。
さあて、どういうことだろう。

前期高齢者の課題です。

********

上の写真は今の机横のものたち。
動物と植物と自然の本たち。

<今日の夕飯>
ラタトィユのあったかいの。
 ナス、玉ねぎ、かぼちゃ、エリンギ、ランチョンミート、トマト、ブロッコリ
コールスロー
 キャベツ、フルーツ、ヨーグルト
スープ
 卵と豆腐


*********

映画、ノマドランド
おすすめです。
今年は映画いいですね。
時代が荒廃すると人間が輝く。
そうなのかもしれない。



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2021年04月01日

ネット離れ

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二ヶ月ぶりです。
どっぷりグルーミングしてました。
仕事部屋の模様替え、書棚の整理、リビングの自分のものの整理、書類の断捨離、書棚の断捨離。
今、竹薮の本は段ボールで5つくらいしかないかも。これはここ50年で最小だと思います。すごいことです。どんどん手離す!

手湿疹はまだ治っていません。
3月中にはと思ったのに4月になりました。もう4ヶ月です。
手というのは、人間が世界と関わる窓口なので、そこに不具合が起きているというのは象徴的だと思います。湿疹の場合、刺激を受けない、保湿というのが基本なので、世界との関わりも整理して、自分のグルーミングにあいつとめています。

震災は10年。
COVID-19もあわせて収集のつかない状態になってます。
そういえば、最近mRNAワクチンを毎年打つというような流れは自己免疫疾患を増やすという確度の高い情報をゲットしました。これは大変です。

大人の社会科も丸7年。
今年度は仕事が増えて(!)土曜日が使えなくなったので、毎月を取り下げ、リアルでは3回。
そのほかはメルマガを発行しようという方向で進んでいます。

SNS離れ。
時間は急降下してます。
常時、ネットに接続してるのは変わりないのですが、SNSは減りました。

オートファジーを始めました。
毎日16時間、食べない。
夕飯を食べたら、その後16時間食べないで過ごします。
朝食は抜きになります。
理想的には朝の8時に朝食を食べ、夕方4時に夕食を食べ、その後食べないということらしいですが、それはなかなか難しいので、竹薮の場合、夜、7時から9時の間に夕食で、その後16時間開けて、12時から1時に昼ごはんというパターンです。

こうすると、飢餓遺伝子が刺激を受け、細胞の賦活が行われるというものです。
劇的に痩せたりしてませんが、でもなんだか体調は良いように思います。

さて、新年度、どんな一年にしましょうか。
まだ決まってません。

***************

今日はリケンの店舗に行って、補聴器についてカウンセリングしてきます。
今、必要なのか?これからどういう展開か?などなど。

その後、高3の授業に行きます。
帰りは11時近くになる。
道中はパク・ミョンギュの「カステラ」を読みます。
3月は大人の国語で「82年生まれ、キム・ジヨン」を取り上げました。
そのため、韓国の女性文学を読み漁っています。
面白いです。

<今日の夕飯>
ゴマ肉団子
大根、人参の生酢
ほうれん草と卵の炒め物

写真は先週末キャンプに行った時のもの
久々に在来種のタンポポを見ました。
夕方になって閉じかかってるところです。






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2021年02月03日

this land is my land

竹薮の世代にとってアメリカというのはとても近い国だ。
子どもの頃にはディズニーの洗礼を受け、アメリカ映画を見て、若草物語を読んだ。
思春期にはフィッツジェラルドの作品、森の生活、白鯨、老人と海その他多くの作品。
60年代からは文化の発信地はいつもアメリカだったと言ってもいい。
アメリカンニューシネマは素晴らしかったし、アメリカのフォークソング、カントリー、カリフォルニアやニューヨークから届けられる新たな音楽、そうだ、ジャズ!それから中南部のブルースも。

そんななかで何度も聞いたのが「This land is your land」だ。
自分でも歌った記憶がある。
日本版で from hokkaido to the okinawa island だった。
ウッディ・ガスリーの名曲でプロテストソングという認識だった。
歌詞の中にはyouの中に含まれない疎外された人達が登場し、
This land was made for you and me のところが
If this land’s still made for you and me と書きかえられている。
そういう位置づけだった。

もう一曲、America the Beautiful と言う曲がある。
今回の大統領就任式でジェニファーロペスがthis lan is your landの中に入れ込んで歌っていた。

この曲についての記憶は、映画の「いちご白書」だ

竹薮がこの映画を見たのは明治大学のロックアウト中だった。当時のボーイフレンドと夜遅くの上映に校舎内に入った。ロックアウト中に上映ってあるかな。でも記憶ではそうなの(捏造されてるかもしれないけど。)大学祭かなんかで、当局の指導をふりきって深夜も学祭を続行して、そこで「いちご白書」だった。

実際にあった事件を元にして作られた物語、終盤で講堂に立てこもった学生たちがごぼう抜きにされていく。検挙された学生たちが護送車に乗せられる。項垂れる彼らの中から誰ともなく声が出て歌われるのがAmerica the beautiful だった。これにはびっくりした。国家は敵じゃないのか?

まあ、政治的国家と帰属共同体は違うとかいうめんどくさい話はおいて、当時のアメリカの学生には愛郷の気持ちがあったのだ。アメリカという何ものかは、人々によって作られ守られというエートスがあるんだなと感動した。そんな歌は日本にはない。何ともうらやましくなった記憶がある。
誰が作るのかな。
 理想としては谷川俊太郎と武満徹のお二人だが、武満が亡くなってしまった。
 だとすれば、小田和正、長渕剛、さだまさし あたりか。

This land is may landに戻る。
大統領の就任式でこの曲が歌われるのは、最近では2回。
今回、バイデンの時


もう一回はオバマの時


この二つの違い。
確かに違う。
というわけで、これ。
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「おじいちゃんは、郵便局に行く前に通りかかったんだって」みたいなコメントがいっぱいついていた。トランプでもバイデンでも置いてかれる人は同じかも知れないなと思ってしまう。

これ、おまけ
https://www.bbc.com/japanese/video-55854326

***************
二月になりました。
緊急事態宣言が延長されました。
こんなにぬるい自粛要請なのに、感染者が減ってるのは、検査を絞ってるから。
死者、重傷者は減ってません。
忖度メディアもその辺はわかってるのか、死者数が過去最大とか報道するようになりました。
それでも政治は茹でガエル状態。
笑うしかないです。

<今日の夕飯>
*鮭のバター焼き
*大豆と昆布の煮物
大豆って戻すより炒ったほうがずっと早いです。
から炒りしてぱちぱちいわせて、そこへお湯をジュっと入れてふやかしたところに調味料や具を入れて煮る。あっという間にできます。食感は違います。ゆっくり戻したほうがふくふく。でもじっくり噛む感じなら炒ったのもおすすめ。
*ほうれん草ともやしの胡麻和え
*味噌汁






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2021年01月24日

目的と手段/緊急事態は解除されるか?

20120718の秋津


何かを考えるときに大事なのは、いくつかある。

誰と何を共有するのか。
 それをよく検討すること。
 この点だけでもう半分決定したようなもの。

もうひとつが目的と手段の関係だ。

目的と手段の違いは、目的は交換不能だが、手段の方は交換可能ということだ。

たとえば、食事をしようというときに何をつくるとか、誰かに作ってもらうとか、買いにいく、ケータリングに電話するとかいろいろ手はある。この時に、自分でつくって失敗してへこんでしまうのは、本末転倒なのだ。でも、目的は食事だ。だったら、失敗したら他の手段をとればいい。あははと笑って、ケータリングに電話すればいい。でも、そうしない。しょげて食事できなくなる。これが目的と手段の逆転だ。

これを、COVID19にあてはめる。

目的はふたつ。
全体で感染する人を減らすこと
ひとりひとりの感染を防ぐこと/感染した人を治すこと

この二つは違う。
全体と個人では全然違う。
だから、それぞれで考えるべきだ。

個人については、マスク、手洗い、うがい、バランスの取れた食事と十分な睡眠、適度な運動ということで意義はなかろうと思う。
問題は全体についてだ。
まず状況の把握、さらに管理、そして予防と言えるだろう。
状況の把握で問題になってくるのがPCRである。
この検査は症状のある人は感染しているかいないかを判断するためのものではなく、全体でどのくらいの人が感染しているか=感染の広がりを把握するためのものだ。よって広く網を打つように大規模に行うものになる。諸外国では地区全体、基礎自治体全体への検査が行われている。

日本ではこれがおこなわれなかった。
それはなぜか。
西浦博の本によると
大規模な検査をおこなう社会的資源がなかったということだった。
そこでもう一つ出てくる方法がクラスター対策だ。症状の出た感染者の周りを丹念にしらべて行く。最初はうまく行ったのかもしれない。なぜなら感染者が少なかったから。

そもそもクラスター対策がそういうものであって、それならば、クラスター対策で稼げた時間的余裕の中で次なる対策の手当てをするのが筋であった。大規模なPCR検査が一番良い方法であるのだから、そのための社会的資源を用意すべきであった。しかし、そうはならなかった。

なぜか。検査の結果わかる大量の感染者に対応できないからというのがその理由だ。
これが、目的と手段の逆転である。
目的は社会的にどれほど広がっているかというものだから、その状況を知ろうとしないと言うのは本末転倒どころか自己否定である。大量の感染者が判明したら、それに対する医療資源を確保して対応しなければならないのは当然だ。しかし、なされなかった。その結果が現在だ。

こう言うことが続くと目的が見失われてしまう。
その結果、残るのは日常の業務の維持のみ。今や竹やりなのに。
問題解決は遠ざかる。

今、現在どれだけ感染が広がっているかがわからない。
不気味なほどだ。
感染者数は大晦日に大きな数字を記録したが、その後は千人台を推移している。
落ち着いたのか?
そうではないだろう。重症者の数は決して減ってないし、入院先が決まらず自宅にいる調整者の数は多いし安心できる状態ではない。ではなぜ感染者は増えてないのか。それはクラスター追跡を縮小したからと言われている。例えばこれだ。
神奈川県は、新型コロナウイルスの濃厚接触者などを特定する調査について、対象を医療機関や高齢者施設などに絞り込むと発表した。
神奈川県では、県内の感染者数が8日も838人確認されるなど、感染拡大が続き、市中感染も増えていることから、積極的疫学調査で新規感染者の濃厚接触者を1人ひとり追うことについて、適切な対応が難しくなっている。
そこで、県は9日から、すべての濃厚接触者ではなく、リスクの高い医療機関や高齢者施設、福祉施設など優先度が高い施設に対象を絞って調査を行うことにしたという。(2021/1/9 FNN)
目的を見失い、手段にしがみついていたが、それも維持できなくなって、じりじりと後退している。

問題は他にもある。

ワクチンだ。驚いたことに現在は白紙となっている。
白紙=どうなるかわからない。全く決まっていないと言うことだ。
そのカラクリはこちら
ファイザーは治験の対象国に米国やドイツ、ブラジル、南アフリカなどを選び日本をはじめアジアは入れなかった。理由は明らかにされていないが、日本は感染者数が相対的に少なかったため治験にふさわしくないと判断されたもようだ。

結果的に共同治験のデータを利用しやすい欧米がワクチンの承認で先行した。共同治験の対象にならず出足で遅れた日本や韓国は今も接種を始められていない。枠組みに入らなかった時点で将来のワクチン供給に遅れが出る事態は想像できたはずだが、特別な対策に動いた形跡はない。

厚生労働省所管で審査を担当する医薬品医療機器総合機構は9月になり、国内のワクチン承認には日本人の治験が必要とする指針を決定した。ファイザーは共同治験から半年遅れの10月に日本でも治験を始めた。

日本は2月下旬にまず医療従事者への接種開始をめざす青写真を描いたが、昨年末時点ではファイザーとの契約は基本合意止まりだった。まだ正式契約に至っていないと知った官邸は厚労省への不満を募らせ、ワシントンの日本大使館に直接、ファイザー米国本社と交渉するよう指示した。(日経新聞2021/1/23)
1パラの感染者数の少なさ、これは事実ですが統計が機能していないこともあるのではないかと思う。統計が信頼できないと科学は成立しない。

2、3パラと4パラの関係を見ると、厚労省は昨年末までファイザー米国本社と交渉してないことがわかる。これは大変なことではないか。どこと交渉していたかと言うとファイザー日本支社だろう。そして「合意」でしかなく<契約>に至っていなかったわけだ。


要は、いまだファイザーと契約が結ばれていない。よって6月までに全ての国民にワクチンを接種すると言うのは未定であり「白紙」となった。これが河野大臣の言う「政府内の齟齬」。

お笑いではないか。こんな非常事態に。

これもまた、目的を見失い、日常業務だけを維持した結果だ。
自分の仕事が何のためかと言うことを理解せず、ただ日常業務の構造を維持し従う。
まさに官僚制。下手に頭いい人たちだから始末が悪い。

首都圏では上級国民でない限り、感染しても入院できない。
既往症があればマシかもしれないが、既往症がないと入院の可能性はなく、それで急変したら目も当てられない。

そんなこんな状況下で広がっている事態は危機の日常化。
狎れ/馴れ

正常性バイアスと言われる。
本来は危機になっているのに、なっていない正常な状態を志向してしまうことだが、
今は危機自体が正常な状態になっている。一派、二派の状態を正常とし、それでいいだろうとしている。違う。今は医療がすでに崩壊しているからだ。

その他、何とか警察。困ったもんだ。

日本脱出がリアリティを持ってきたかもしれない。

*************

昨日、今日と寒いと言うので昨日買い出しに行って買い込んできた。
ふっとすき焼きにしようと思い、昨晩の夕飯はすき焼き
オーストラリア牛肉で。

タケヤマ曰く、こないだ食べた和牛より旨い。
そうかそうか、良きかな。
りんごの絞り汁を使ったタレと大根のはいるすき焼き。
竹薮の実家の味だが、結婚してからもずっとこれ。

今夜は何にするかな。







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2021年01月04日

2021年。今日から始動。

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あけましておめでとうございます。
新年って、どうやってもくるもんで、年が明けましたね。
不思議に思います。

新年はもともとは自然に根拠はなくって、人間がつくったものです。
農作業にも根拠を持ってないもの、今でいうリセットのタイミングなだけですね。
手帳も1月始まりと4月始まりがありますが、4月始まりは仕事上の根拠がありますが1月にはありません。4月始まりの手帳を使っていて、3ヶ月も残っているのに1月始まりに替えるのはリセットしたいからでしょう。

この年末は占星術の世界でグレートコンジャンクションとがあって、
これは土の時代から風の時代への変化だそうで、ちょっとした騒ぎでした。
どんな変化がおこるのでしょうか。

さて、竹薮は昨年、仕事を一つ放棄しました。
非常に無責任なことですけども、どうしても出来なくなったからです。
こんなことをしたのは生涯初です。
仕事は意外と真面目にやるので。
でも、今回はダメでした。突然気持ちが折れました。
任期の終わりまでと思ったので、服薬してと思ったのですが、服薬して続けるよりも、服薬せずに休むべきという「専門家」のアドバイスに従うことにしました。これはちょっと踏み込んだ決断でした。

放棄したら脳がとまって、それ以来、現在まで一冊も本を読んでいません。
買いはするのですが、読みません。
小説も数ページ読んで閉じてしまいます。
動画を見ながら,あるいは聞きながら仕事をすることができません。
テレビをみながら動画を聞くということを、これまでやってきたのですが、それもできなくなりました。インプットを拒否しているのだと思います。

あるいは、アウトプットの時期なのかもしれないです。

竹薮は現在、66歳です。
活動できるとしてあと20年。

これまで、誰かに求められていろいろなことを行ってきました。
仕事もそう。
子育てや介護もそこにタケノコたちや0号がいたからのこと。
そうなると、自分からもとめてやろうと思ってやってきたのは、大学院に進学したことと、タケヤマと結婚したことと、この問題主婦を始めたことだけだと思います。
もちろん、これまでやってきた様々なことを後悔はしないし、そこでの経験や出会った人々はとても大切です。でも、その蓄積は、蓄積するだけではなく他に生かす方法があるように思います。

そろそろ、腐敗、発酵の時期かもしれない。
コンポストというのは、コン(ともに)とポスト(以後)という二つの言葉の造語です。
庭にあるコンポストは生ゴミや枯れ葉等をいれて堆肥、腐葉土をつくります。いろんなものを一緒に入れて、次の状況にいくわけです。

私というコンポストを稼働させて腐葉土を作るとはどういうことなのか。
そのあたりをちょっと考えてみます。

***************

三が日、よくテレビをみました。
新作歌舞伎「風の谷のナウシカ」
 全7時間近く。本当におもしろかったです。
ナウシカの世界観が歌舞伎という方法に非常にマッチしていて見事でした。
歌舞伎のなかに蓄積されている様々な方法がふんだんに使われて、思いもつかない方法で表現される。「表象」の力です。

ナウシカの「世界観」とは「物語」です。
物語とは世界の成り立ちを示すもの。
歌舞伎も、物語なのですね。
スーパー歌舞伎の枠でおこなわれているヤマトタケルもワンピースも、小説という個人の話ではなく世界の成り立ちをしめす物語だとおもいます。

ナウシカのなかで女形として男装しクシャナを演じていた中村七之助が天才若冲をやりました。ドラマ中にはあの象の絵はでてきませんでしたが、釈迦三尊像を描いていたことは知りませんでした。楽しくみました。

*************

大晦日から一歩も家から出ず、昨夜初めてゴミを出しにドアの外にでました。

今日から仕事です。

<今日の夕飯>
鰈と大根の煮物
白菜とほうれん草のおひたし
レンコンと人参のきんぴら
豆腐とネギのみそしる

そんな感じかな。

そうそう。昨晩はおいなりさんでした。
お煮染めの野菜くずを煮て鮓飯の具にするという正月のながれです。

まだあるのでもう一回できる。
冷凍しておきます。






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2020年12月31日

2020年大晦日

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暇で暇で。
こんな大晦日は生まれて初めてだと思う。

手湿疹のせいにして台所の掃除をしないと決めたせいもあるし、休みが早く始まったせいもある。お節も全部終わって、明日の食器も準備したし、ほんと暇。
そこで、ケーキやいたり、クッキーやいたり、かき揚げもしっかりできて、年越し蕎麦食べてから、紅白に向けてテレビの前にスタンバイ。サラウンドスピーカー入れて見てる。

これでいいかなと思う。

かつて28日まで仕事して、3日間で年越し準備してたことがあって、その時はもうギリギリなんで喧嘩ごしでやってた。それはよくないと、クリスマスでやめるようにした。そしたら、かなりゆっくりできた。そのかわりお財布は乏しくなる。竹薮の仕事は季節労働なので、冬期講習で稼いでおかないとゴールデンウィーク明けまでが貧しくなる。これもタケノコ達の学費がなくなったからできるってもんだ。

今年度も、職場が通常営業だったので、この大晦日があるわけだ。そうでない人もいっぱいいるだろうなあと思うと胸が痛む。


実は、紅白を見ながら、LINEでチャットしている。

友だちがCOVID-19にかかってほんとにヤバくなって入院したときに、絶対に大晦日は家にいて、紅白見ながらチャットしようと約束したのだ。

友だちは年に一度、紅白しかテレビ見ないので、ほんとに祈った。

そういう友だちとの共有前提として、紅白がある。
うちの子達も、友達の家の子どもたちも紅白は見ない。

次の世代、次の次の世代の人たちは、何を共有前提とするのか。

物語から小説へ
小説から私小説へ
ラノベへ
転生ものへ

そんな視点からチャットしながら、紅白を見ている。

世界がどんどん見えなくなって、帰属先が小さく小さくなっていくなかで、一人一人が地の塩である覚悟をきめなくちゃな。

一人一人が自分の場所で地の塩でありつづけること。。
そこからしか、世の光はうまれないんだろうな。

さて、そろそろ紅白が終わる。

皆さま。良いお年を。
来年もどうぞ、よろしくお願いします。

上の写真は
今夜の月。

そして、DAF9FB9E-043B-43DC-8BC6-8AF073A0D1AE

年越し蕎麦。

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takeyabu31 at 23:39|PermalinkComments(0)

2020年12月27日

M-1と「あ」の人のウソ

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M -1の評判が悪い。
特にマジカルラブリーについて。
あんなものは漫才ではないという主張だ。
前の前の記事で書いたけど、竹薮は新鮮だった。
どちらも笑った。

言葉で笑わせるという前提を崩すという姿勢にわかるなと思ったのだ。
だって、言葉なんて信用できないじゃない?
だから、言葉で笑わせるって成立しなくない?
だったら、漫才だってああなるんじゃないの?

政治というのは、言葉によって人の命も奪うし、財産も奪うし、生や死の意味を基礎付けるものだ(ものだった)それが、何百回も嘘をついても嘘ではなく、嘘ではないという嘘をつくというとんでもない状況になっていて、そいつらに日本国民はいいようにやられたい放題なんだけど、こっちはまだまだ言葉を使うから始末が悪い。

銃を撃つとか収監するとかいっそ物理的な暴力を使えば、流石の日本人も怒るかもしれないが、嘘には怒らない。
そんな今朝 というのを見た。
至言だ。

これがなぜ至言かと言うと、論破、プレゼン、沈黙は「伝え合う」「わかりあう」の拒否や諦めだからだ。

論破だけした時の後味の悪さったらない。竹薮の場合、論破は「敵認定」した時で、そういう時はもう二度とその人と関わることがないと判断した時だ。武士なら峰打ちではなく切って捨てるとき。

そうでないにしても、一時的に相手を黙らせるとき、イメージとしては喧嘩している人たちに冷水をバケツで浴びせるとか、おもちゃ売り場でひっくり返って泣いて駄々をこねる子を横抱きにして去るみたいな時で、その時に相手と話しあおうなんて思ってない。

つまり論破は、今後一切のコミュニケーション放棄、あるいは一時的コミュニケーション放棄なのだ。

沈黙も、大事なことを本当に喋らないというだけでなく、政治の内部のように「よく喋る沈黙」や不特定多数に向けて喋るSNSなどにも蔓延している。政治家がよく喋っても肝心なことは何も言ってないし、SNSで雄弁な人が、家族や友人には何も言わないというのもよくあることだ。
「わかりあう」「伝えあう」を放棄したり拒否したりしている。

言葉は人間が集団になったから生まれたものだけど、それを放棄するってどう言うことなんだろう。

そう考えると、アヘスカやSNSで雄弁な人たちや大事な人に何も言わない人たちより、ただただ叫び、ただただ歌い、ただただ転がりまくっていたM−1のなんと潔いこと。あれは自分を観客に投げ出していなかったか?

言葉だけでなく、行為も同じことになっている。
みんな何もしない。ただただイヤイヤしているだけのような。
人と繋がることをしない。
大丈夫かと声をかけない。誰かのために自分ができることは何かと考え、それを相手に伝えない。何かしたら、関係の質が変わるからみたいに何もしない。誰かとの関係を耕さない。

言葉も行為も人間関係がなくなってる。
コロナと軌を一にしているように思う。
いや、コロナの前からで、だからコロナなんだよ。違うかな。

**************

<今日の夕飯>
まだ不明。冷蔵庫の中身やこれから配達されるものを検討して年末年始のメニュを書き出さなくては。

ちなみに昨晩は
大根の漬物の炒り煮
 大根漬けを薄くスライスして水にさらして塩抜きし、油で炒めて、
 出汁ちょっとと砂糖、醤油で味付け、生姜を入れて煮詰める。
 かなりしょっぱいが、竹薮には懐かしい味。
 タケヤマが塩辛い!と驚いていた。
小松菜と豆腐の炒り煮
卵焼き
カジキのカレー焼き
大根、ネギ、豆腐の味噌汁。

今日は午前中から買い物に。
昨日行ったしまむらで思うものがなかったので。
長袖Tシャツが欲しかったのに、全くなかったので今日はユニクロに。
ありました。
竹薮はシマムラーにはなれないらしい。

仕事ちょっと。

さあ、これから台所に行ってゴタゴタします。

写真は珍しく空っぽのお皿。
イブの食卓です。
たまにはこういうのもいいのではないかと。




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2020年12月23日

痒い!

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ともかく手湿疹が痒くて、何もしないでいられるので、感覚が手に集中してしまい、痒いことばかり考えているという異常事態。掻くと手が火照って余計に痒みが増すという悪循環なので、なんとか掻かずに過ごしたいのだが、猛烈痒い。

鱗みたいに皮膚が盛り上がって固くなり、それが剥がれるというサイクル。右手の指で、特に指の股が鱗になる。気持ちわるいことこの上なく、左手で右手の指を握りグリグリと回して掻いてしまう。

今日、そうだ冷やせばいいと思い付き、一日中保冷剤を持って過ごしている。

そのせいかどうか、本も読めない、ドラマも見通せない。ぼーっとしてる。
だいじょぶかなあ。

まあ、落ち込んではいないのでなんとかなるか。

***********

昨日、「姉ちゃんの恋人」と「この恋あたためますか」が終わった。小粒だったな。よく出来てたけど、何となく終わった。猫の方が印象に残った。あ、共演NGの自己言及性について書きたいけど、スマホだと無理かな。今、スマホで書いてます。

良かったのが、角野栄子さんのドキュメンタリー
自分のスタイルをちゃんと持つこと。
若い時より、80代の今の方がきれいでした。
色のある暮らし、いいな。
「思い出は未来にある」という発想に感心しました。
カラフルな魔女の物語

写真は昨日見つけた、枯れたバラ。
枯れ紫陽花という季語があったと記憶するが、枯れ薔薇というのもあるかしら。

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同じお宅の薔薇。
一輪咲いているのも良し。

庭は冬 枯れた紅薔薇 色ありて
時を移すも いまだなお咲く

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2020年12月21日

仕事終わり/言葉の終わり

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この時期は忙しいだろうと言われる。
確かに忙しい。
でも、いつ頃からこの時期の仕事を調整して、忙しくなくした。
28日頃まで仕事をして年末の家事に突入すると、ほんとに大晦日の除夜の鐘がなるころにも台所に立っていることになり、目が三角のまま年越しをすることになる。

やめよう。そう思って、クリスマスまで仕事納めにすることにした。今年はなんと、21日に終わることになった。来年はクリスマスまでだろうなあ。職場から新年度もっと働けといわれている。

まあ、ともかくクリスマスに帰ってきて、クリスマスの約束を一人見るのが習慣だったのだが、今年はそれもなく、一人帰ってきて録画してあったM-1グランプリをCMスキップしながら見た。M1は毎年みてるわけではない。かなり前に偶然に見たチュートリアルのチリンチリンにどハマりしただけだ。世代としては吉本で育って、島田紳助とかビートたけしに笑った世代だ。

タケノコたちがまだ小さい頃、車の中で、島田紳助が「ごっつい家やなあ、火ぃつけたろか」というのに笑いつつ、子どもには聞かせられないなあと思ったり、ビートたけしの「赤信号みんなで渡れば怖くない」というフレーズに感嘆したりした。優れた洞察だと思う。あの頃はまだ笑いが個人のものではなかったと思う。

時代が変わってその後は、笑いが個人のものになった。みんなで笑うものではなくなったと感じている。

で、昨日見た漫才は、また大きく角を曲がろうとしているようだ。

最後に残った3組のうち、2組が言葉(しゃべくり)ではなく、構造だけで笑わせるものだった。「おいでやすこが」というのはコンビではなく新造のユニットだそうで、一人がひたすら歌い続け、もう一人がそれを絶叫して止めるという構造。「マジカルラブリー」というのは、一人がひたすら荒唐無稽な動きをし続け、もう一人がひたすら間違いだと言い続けるというもの。言葉がほとんどない。

新鮮だった。

言葉が機能していないということを露骨に見せつけた格好だ。
それでも、四分間見せてしまい、笑わせるのだから、力のある人達なんだろうと思った。
なんと言ったって言葉が機能しないということを看破しているのだから、才気があることは間違いない。

言葉が機能しない場でのコミュニケーション。
竹薮が今考えていることを、彼らもまたかんがえているのだなあ。

**************

まだ、「ながら」ができない。
今日はひたすらゆっくりした。
昼間から柚子湯に入った。

冬至なので、冬至ご飯。
かぼちゃの煮物
人参と蓮根のきんぴら
銀杏を炒って、
ほうれん草ともやしのおひたし
それから、だし巻き玉子。



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takeyabu31 at 20:05|PermalinkComments(0)みさえ(遊び) 

2020年12月20日

大事な日常

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一日一日、なんとかやり過ごしている。
今日が終わったら、だいぶん楽になるので、なんとか今日を終えたい。

授業は、竹薮のホームグラウンドなので、ヘロヘロでもやれる。
これは本当に不思議で、喋り始めると元気になる。
つい最近、スイッチが入らなくて、授業を始めたもののなんだか進められなくて、
生徒に「元気の出るお話して」とかねだった。
え〜〜〜〜!とか言われながら、じゃれてるうちに不思議、スイッチが入るのだ。

昨夜、今、大学4年生の子が訪ねてきてくれた。
メグリズム二箱、陣中見舞い。
「せんせー、とにかく身体が第一ですよ。まじで。」
真剣に言われた。脳内は置いとけということか。
しかし、正しい指摘だ。

あんたは、脳内をなんとかしろと言いたかったが、うんうんと相槌うって終わった。

手湿疹の方は、本当にステロイドの威力に感嘆する。
これはヤバい。本当にヤバい。
友人がコロナで入院して、サイトカインストームを起こし、ステロイドを処方され、一回内服しただけで、劇的に効いた。それだけ効くということは同時に副作用とか離脱の困難もあるということは想像に難くない。気をつけよう。

このライブドアのブログフォームにヒストリーというのがあって、過去にどんな投稿をしているのか一覧になって見やすい仕掛けがあるのに気づいた。

昨年の12月には一度しか投稿していない
25日に現実と現実感というもの。
めんどくさいこと書いてるなあ。

で、最後に「クリスマスの約束」に触れている。
クリスマスの約束は毎年、楽しみにしている番組だ。
今年はないのだそうだ。残念。

そのかわりにこの動画をどうぞ。
これは、明石家さんまのクリスマスプレゼントショーの前身となったメリークリスマスショーという番組の一コマ。1987年のもの。



1号を生んで3ヶ月後、煮詰まってる最中の聖夜。
赤ん坊を抱きながら見た。番組全部が素晴らしかったが、この「愛のさざなみ」にはうたれた。
救われた。タダで。

これが文化の力だと思うよ。
今のテレビになぜこれができないかなあ。
実は、このお行儀の悪さが最高なんだよ。


フルの動画も残っている。
1987年


1986年

*****************

<今日の夕飯>
ドライカレー
野菜スープ
ブロッコリー、アボカド、トマトのサラダ

11時ごろ帰ってきてスープを飲んで寝ようという魂胆

上の写真はアロマオイルの箱。
ここには基本の8本が入っている
他に
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これはシングルオイルの引き出し。
最近、毎日、自分の掌、足の裏に基本の8本を塗っている。
これもあって、なんとかやれてるのでがないかと思う。
教えてくれた“ゆかねえ”に感謝。



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2020年12月19日

【ドラマ25】猫 

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この秋のドラマは皆、短い。コロナのせいで編成がずれこんでいうるからだろう。
以前のようにドラマを全部見る余裕がなくて、この秋のドラマでみていたのは
 
七人の秘書
この恋あたためますか
姉ちゃんの恋人(岡田惠和)
35歳の少女(湯川和彦)
共演NG(秋元康/大根仁)
くらいで
あとは 相棒、科捜研の女、朝顔など。
共演NGはまた書こうと思うが、金曜深夜の「猫」は小品ながら佳作だった。



余命幾ばくもないヒロインに家を出たヒーローが出会うというごく普通のボーイミーツガールだ。
しかし、全6話の4話目で、予想外にヒーローの方が突然死んでしまう。そしてヒロインは病気が治る。
このことを、視聴者はなぜか受け入れてしまう。

なぜ死んだのかは、全く明らかにならない。
作品はそれに答える必要を全く感じていないようだ。
残り2話もこれまでの延長上にヒロインが生きていく流れが描かれる。

海辺の町の風景は変わらない。

タケヤマが、
これって石巻じゃないか?
津波で死んだんだよ。
といった。

ああ、そうか。
妙に納得した。

ロケ地を調べると、舞台になっているのは三浦半島のようだった。
ドラマ中にも津波の跡は出てこない。
でも、震災かもと思ってしまう自分がいるのだ。

震災後、繰り返される自然災害、格差からくる貧困、そしてCOVID-19
私たちは死に近い所にいる。

だから唐突な死をすんなり受け入れる。
皆いつ死んでも不思議ではない。
それがネガティブというのではない。
起こりうる普通のことなのだ。

これが文明の定常状態ということかもしれない。
そういうエトスが金曜深夜の小さなドラマの中にも忍び込むということかな。

「私」の暮らしは大状況の中にあるんだもの。

**************

手湿疹に我慢がならず皮膚科に行った。
ステロイド剤をもらった。
売薬とは含有量が違う。さっさと医者に行くべきだった。

原因は不明なんだけど、頻繁に消毒しまくっている新しい日常も原因の一つだろうということだった。しっかり保湿するようにということだった。
年内には解放されたい。

<今日の夕飯>
なし。
2号がショートステイに行って
タケヤマが4センチステーキとかいうのを食べたいということで
自分で作るそうだ。

竹薮の夕飯は、昼のキムチチャーハンの残りをおにぎり。
仕事の合間にかじる。

あ、来週はクリスマスだ。

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2020年12月18日

情報処理とリテラシー

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とうとう、Youtubeプライムに登録してしまった。3ヶ月無料なので、その後検討しなければ。
サブスクリクションは、新しい消費スタイルで、家具なんかもあるらしい。

私はヘビースマホユーザーで一日のスクリーンタイムは軽く10時間を超える。起きてる間は、授業中でない限り、その他会議とかでない限り、だいたいスマホがオンになっている。

情報収集のためだ。
現在は有事なんで。

東日本大震災の時、原発事故があって被曝の危険があった。
だから勉強した。
その時の感じではしばらくしたら見えないはずの放射性物質がなんとなく「見える」ようになった気がした。あ、あそこは放射性物質が溜まってるとこだなというふうに。

だから、今回も勉強し始めた。3月あたりからとして、もう半年以上。
知識は増えたけど、でも全然、わかったという感覚がこない。

考えてみれば当たり前。だって、初めての感染症なんだから。

というわけで、延々情報収集することになる。
感染症前の出版物、感染症後の出版物、記事を読みあさって、それよりも新しいものが「動画」になるわけだ。で、とんでもはのぞいて、いくつかのジャンルの人脈の動画を見ている。
マル激オンデマンド
ニュースピックス
デモクラシータイムス
ポリタスTV
一月万冊

というわけで、
これらのほとんどがYoutube。
で、オフライン、バックグラウンド再生の可能なプライムに登録してみた。
三ヶ月無料なので、その間に解除するかもしれない。

視聴するチャンネルの内容は切り口の違い、文体の違いだ。
マル激はビッグピクチャーに長け、そこから現実に持ってくるスパンの大きさが特徴。
ニュースピックスは何とってもテック(テクニック)の話が強い。思想というよりも問題解決に特化している。
デモクラシータイムスはいわゆる政治の話。竹薮的には一番どうでもいい。
同じ政治の話でも、ポリタスTVの方が聞きやすい。誰が良い悪いと言う話ではないからだ。論点整理には良い。この系列にProject Choose Lifeというチャンネルがあってなかなか良い番組を放送している。
最後の一月万冊は内容に配信が多いので大変なんだけども、他のが1.25倍速で聞いてるのを、1.5倍速で聞き飛ばしていて、時々、大当たりがあって、メモを取ったりするチャンネル。

これらのチャンネルから発信される内容を活字媒体と合わせて考えるのは、これは中々大変な作業量で、思ったことの半分もできず、書物が積み上がっていく。せめて二つくらいにまとめてくれないかなあと思うのだが、そうもいかないんだろう。もうちょっと粘ってみる。

そんなところに、twitterで岩田健太郎さんが西浦博さんの本を褒めてるのに出会った。私のイメージでは二人はずれてると思ってたのでびっくり。その褒めてる本がこれ。

これはまさに、今述べたようなめんどくささを書いたものだった。
西浦氏押谷氏のイメージが変わった。
そうか、そういうことだったのか。

要はリテラシーのすり合わせ。

リテラシーはひとつではなくて、その場その場で様々に変わるけど、別物ではない。
人類が経験する新しい事象に対してリテラシーをすり合わせるのは本当に大変。

このところ、竹薮が呻吟してきた問題の本質もそれだ。
人はそれぞれよって立つところが違う。
言葉の違いは同時にリテラシーの違いでもある。
自分の体系の中に他者の概念を取り込んで自分を更新するということを
その問題に関わる全員が行わねばならないのが、問題解決なんだが。
そこに非対称性が当然あるんだ、これが。
ひとつではない。
おそらく現場では全員が非対称だと思っているだろう。

そこでいかに擦りあわせるかなんだけど。
難しい。。。難しいことです。まったく。

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11月の後半から手湿疹に悩まされていて、
右手の人差し指と薬指の股を中心に一進一退を繰り返しております。
早く治ってほしい。
皮膚科に行ってステロイドもらってくれば良いんだけどね。
売薬を延々塗ってます。

さらに最近は右の上瞼にチックが出てきました。
どんだけなんだって感じですが、まああと3日で今年の仕事は終わり。

明日の予定だった、大人の社会科はお休みさせてもらうことに。
頭が回らないんです。

ご心配なく、以前のようなとこまでは行ってませんので。
それでも、人間はこうやって馬鹿になっていくんだなあと思います。一回、ダウナー系になると元に戻っても以前の水準には戻らないので、アップダウンを繰り返しながら、少しずつキレを失うんでしょう。それでも、それにはそれなりの味わいというものがあるはずです。そう思います。

<今日の夕飯>
生姜焼き
ほうれん草のローファットグラタン
ニンジンとリンゴのヨーグルトサラダ









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