2024年03月21日

明治期の観覧車ビッグニュース in 京都!」で、当時の新聞には、京都初の観覧車は「観覧車」ではなく、「胆勇的旋転輪即ちレボルビングホヰル器」と記載されていたことを記しました。主に「レボルリングホヰル」です。以前、拙ブログで観覧車の名称の変遷を紹介したことがあったので、そこに新たに加えることにしました。以下の通りです。ハイライト部分が新たに加えられたもの。

**********
落第生のノートはかならず美しくない?』(2009年6月14日)から。

(前略)
話を元に戻そう。その乱雑なノートに「観覧車の名称の変遷 (in Japan)」というページがあった。もうずいぶん前のことなので、こんなにたくさん調べたことさえ忘れていたが、せっかくの調査なのでここに記しておく。

・旋転機(「東京勧業博覧会全図)共同通信・調査部でコピー
・展望旋転車(明治39年12月29日「博覧会時報」第2号付録の東京勧業博覧会全図)台東区中央図書館でコピー
・観覧車(東京勧業博覧会全図、明治40年製)
・展望回転車(博覧都市・江戸東京展、絵はがき。東京都江戸東京博物館、1993年11月2日発行)ただしこの絵はがきのオリジナルはのちに購入した。
・展望観覧車(「風俗画報」明治40年発行)
・観覧車(朝日新聞、明治40年5月3日付、東京勧業博覧会の記事より)
・空中観覧車(同上、靖国神社の記事より)
・廻転車(朝日新聞、明治40年5月12日)
・架空旋回車(大阪毎日新聞、明治39年3月24日より)
・展望旋回車(大阪毎日新聞、明治39年5月)
・グレートホイール(大阪時事新報、明治39年5月3日)
・旋回車(大阪時事新報、明治39年5月7日)
・空中回転車(『ランカイ屋一代』中川童二著、1969年講談社刊)
・空中観覧車(「太平洋臨時増刊、東京勧業博覧会)
・空中回転車(みのう公園仁丹の広告ビラ)
胆勇的旋転輪(明治39年7月、京都日出新聞)
レボルビンクホヰル器、またはレボルリング、ホヰール(明治39年7月、京都日出新聞)

「観覧車」という名称が現代でも広く使われているが、これは1904年にアメリカで開催のセントルイス博覧会で設置された観覧車の名称、「オブザベーションホイール」を訳したもの。じつはオブザベーションホイールは1893年にコロンビア博覧会に登場した世界初の大型観覧車、「フェリスホイール」を移設したものだった。
(後略)


2024年03月17日

訂正です。

明治期の観覧車anotherビッグニュースー展望旋回車 in 神戸」で、神戸市初の観覧車であるグレートホイールが設営されたのは、神戸市下山手通8丁目の病院跡で、現在の神戸大学病院あたりと書きましたが、現在、神戸大学病院があるのは中央区楠町7丁目です。

ウィキペディアによれば、
「明治2年(1869年)、兵庫県立神戸病院設立」
「明治33年(1900年)、県立神戸病院(現・神戸大学医学部附属病院)が楠町七丁目へ移転」
とありますから、この移転した後の空地が「病院跡」で、そこで観覧車は興行されたのでしょう。現在は隈病院が建っているあたりと推測します。明治期の新聞によれば少し高台になっていて見晴らしがよかったそうです。隈病院が現在地で開院したのは昭和7(1932)年です。

「明治期の観覧車anotherビッグニュースー展望旋回車 in 神戸」もすでに訂正済みです。



2024年03月07日

前々回のブログでお知らせした「明治期の観覧車anotherビッグニュースー展望旋回車 in 神戸」ですが、2019年にも「スクープ! グレートホイール・イン・神戸」でお知らせしていました。

拙ブログ中の明治期の観覧車関係の記事ですが、一度公開したあとは非公開にしているのが多いです。無断引用や盗用を避けるためです。そのため、書いたことをすっかり忘れていました。
でも一報からすでに5年が経っています。「観覧車通信」の新たな読者もおられると思いますので、「京都初」と併せてお読みください。

明治39(1906)年には、大阪、京都、神戸の関西3大都市で観覧車がデビューしていたのです。翌年の明治40年には、東京・上野に2基(このうちの1基は大阪→神戸の観覧車)、靖国神社に1基が設置されています。

注意
「明治期の観覧車anotherビッグニュースー展望旋回車 in 神戸」は内容を少し変更済です。
(2024年3月7日)

2024年03月03日

おのころ観覧車写真_縦
タージマハルと観覧車
先日、拙ブログのコメント欄に次のようなコメントが寄せられました。

「淡路ワールドパークONOKORO観覧車、神戸新聞の記事ではゴンドラ半減とありますが、現地行って見ると、元の数に戻ってました。」

そこでONOKOROに電話をして現況を尋ねました。観覧車は通常通り運転されていますが、搭乗できるのは半分の黄金のゴンドラだけで、あとのカラフルなゴンドラには鍵が掛けられて搭乗できないようになっています。重さを半減することで観覧車本体への負担も少なくなったそうです。すべてのゴンドラを交換すると費用も大変ですし、撤去して半減すると見栄えが悪くなります。経済面や外見面を考慮した結果でした。
写真も送っていただきました。とてもカラフルできれいですね。神戸の三宮駅前から直行のバスが出ています。入場料込みで往復3800円。もう少し暖かくなったら出かけたいと思っています。


tenbosenkaisha at 14:28コメント(0)話題 

2024年02月29日

明治39(1906)年に、京都の新京極で観覧車(レボルリングホイール)が興行されたことはすでにお話ししましたが、同年に神戸でも観覧車が興行されていました。このことはすでに2019年にブログ「スクープ! グレートホイール・イン・神戸」(2019年6月17日)で報告しています。やはり噴水班キャップの松崎貴之さんから一報をいただいていました。この観覧車は大阪の天王寺公園で開催された「戦捷紀念博覧会」に設置された「展望旋回車」で、博覧会終了後に短期間だけ神戸に移設されました。

実は展望旋回車の製造会社かもしれない候補を追っていて、そこが神戸にもゆかりのある会社だったので、判明してからもう少し詳しく報告するつもりでした。何度も神戸市立図書館や兵庫県立図書館に通ったのですが、確証が得られず、また今回、京都市にも同時期に観覧車が興行された事実が判明したので振り出しに戻りました。明治39年にはすでに、観覧車を製造する会社が複数存在していたことになるからです。

そこでもう一度、神戸新聞、神戸又新日報など、当時の何紙かの新聞から判明した神戸の観覧車についてお話しします。内容は前ブログのほうが少し詳しいかもしれません。

展望旋回車は、神戸では「グレートホイール」「納涼旋回車」などと称されました。主にグレートホイールです。場所は神戸市内下山手通り8丁目病院跡とあります。現在は「医療法人神甲会隈病院」が建つあたりと推測します。
当時は県立神戸病院(後の神戸大学病院)でしたが、明治33(1900)年に、現在地の楠町7丁目に移転しています。その病院跡の空地で興行されたのです。

興行期間は8月10日から9月30日まで。高さは72フィート(約22メートル)でした。横文字の表記が多いのが国際都市、神戸らしいですね。納涼が目的だったので、当初、夕方から操業していましたが、15日からは午後1時から開園しています。

興行主は大阪の小池伊三郎さんで、大阪で展望旋回車を運営した興行師です。大阪で儲かったので神戸でも、だったのでしょうか?初日には1630人も搭乗したとあります。音楽隊の演奏もあり、イルミネーションがたいそう美しいでした。運賃は当初、大人5銭、小人3銭でしたが、その後の新聞に大人10銭とありますから、途中から値上げしたのかもしれません。観覧車の周囲にはビアホールや氷店、休憩所が設営されて大人気でした。
この観覧車は神戸で初、いえ兵庫県初の観覧車と推察します。京都の観覧車と同様に、現時点では神戸での写真やイラストが見つかっていないのが残念です。

展望旋回車は翌年の明治40年に、東京・上野で開催の「東京勧業博覧会」で池之端池畔に移設されています。大阪→神戸→東京と旅したのです。

松崎さん、今回も大変ありがとうございました。


2024年02月22日

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昭和31(1956)年には京都にもう1基、観覧車が誕生していた。

昭和31(1956)年11月2日付けの京都新聞夕刊に、「これからの百貨店」として増改築を終えた高島屋百貨店を特集していた。そのなかに屋上観覧車の写真も掲載されていた。
屋上に総面積400坪(約1320平方メートル)の遊園地「プレイランド」がオープンし、10円で乗れるたくさんの乗り物があった。観覧車については次のように記載されている。
*****
大きいバスケットが回っています。「ワンダーホイール」です。お母さんと一緒に乗ってみましょう。このバスケットが一番高いところになった時は四条河原町から三十数メートルも上がっています。私たちの町が箱庭のようです。
*****
プレイランドを設置したのは大阪の乃村工藝社で、観覧車を製造したのは岡本製作所だった。このタイプの観覧車は「ひまわり型片持ち観覧車」と呼ばれ、岡本製作所独自のものだった。当時の屋上観覧車によくみられる。支柱が片方だけで、屋上の端ぎりぎりのところに設置され、「アイキャッチャー」としての効果と、スリルを高める役割を果たした。屋上観覧車は百貨店の看板でもあったのだ。

写真説明
上:京都新聞夕刊(昭和31年11月2日)
下:『高島屋135年史』より

2024年02月21日

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京都の観覧車の話題が続きます。

拙ブログ「「叡山納涼パラダイス」の空中観覧車」(2023年7月1日)でお伝えしたように、京都市文化財に指定された京都市動物園の観覧車は比叡山から移設されたものでした。比叡山には昭和31(1956)年3月に設置されています。私はそのブログで、「今のところ、はっきりとした根拠が見つかっていないのですが、おそらくこの空中観覧車は、京都府初の観覧車なのでは、と勝手に推察しています」と、本当に勝手なことを書いたのですが、前回のブログでお話ししたように、明治期にすでに観覧車があったのが判明したので、この推察は撤回します。

「叡山納涼パラダイス」の観覧車を調べていて、同時期に四条烏丸の空地で「コニー・アイランド・ショウ」が開催されていたのを、京都新聞の記事(昭和31年10月1日)で知りました。それはコニー・アイランド・ショウで撮った写真コンクールの入賞者を知らせる記事でした。「叡山納涼パラダイス」と同様に京都新聞社が主催したのですが、当時の紙面は「叡山納涼パラダイス」の話題ばかりで、コニー・アイランド・ショウについては掲載されていませんでした。

記事中には、前年の昭和30(1955)年にも同ショウが開催されたとありました。昭和30年のコニー・アイランド・ショウで、観覧車が設営されていたら、これが京都初の観覧車になるかもしれないと思いました。その時点で明治期における新京極の観覧車については知りませんでした。

コニーアイランドショウ(ショーの表記もある)については拙ブログ「コニーアイランドショーがやってきた」(2010年2月9日)を参照してください。現在、判明している公演場所は、後楽園、上野、静岡、名古屋、神戸、京都などです。「フェリスホイール」と呼ばれた観覧車が設置されたこともあります。

昭和30年10、11月の京都新聞によりますと、コニー・アイランド・ショウは10月30日から11月27日まで、四条烏丸西入ルの空地で興行されました。ティルターウィル、ルーボプレインなど、当時はアメリカの遊園地でも最先端だったスリル系遊戯機械が設営されて大人気でした。観覧車に似た乗り物はありましたが、正統派?の観覧車であるフェリスホイールは設置されていませんでした。
おそらく昭和31年開催の同ショーにもなかったと思われます。それで比叡山の観覧車も人気者になったのでしょう。


2024年02月15日

昨日、再び京都府立図書館を訪れました。確認したいことがいくつかありました。まず判読不可能だった「二x團」の判読。もう1点は「泰西音楽会」の正体。最後に翌年(明治40年)の同時期に、再びレボルリングは興行されたのだろうか─でした。

まず一番の関心事だった「二x團」はマイクロフィルムリーダーのレンズを拡大してやっと読めました。「x」は「」でした。

岑(シン みね)
角川漢和辞典によると、「小さい山の高くつき出ることをいう」とある。 
「けわしい」「高い」「するどい」の意味もある。

二岑團の「團」即ち「団」はまるいさまを表す。「二」は両輪。「二つの高くそびえるまるい輪」で、レボルビングホイルを言い表した形容詞的表現だと推察。

次に「泰西音楽会」。レファレンスコーナーでさまざまな資料を見せていただいたが、「泰西音楽隊」はあったが、「泰西音楽会」という単語は発見できなかった。
関西で最初に登場した民間音楽隊は、京都祇園の「京都音楽会」で1888(明治21)年に結成された。翌年、大阪に2つの団体ができた。「遊楽会」と「関西鼓勇会」。この3団体を嚆矢として民間の音楽会が名称を確認できただけでも107団体あったという。
『近代日本の音楽とタカラヅカ』(世界思想社刊)参照

泰西音楽会はその107団体の1つだったのかもしれない。西洋音楽にのっとった正統派の西洋音楽でない、東西屋やお広目屋(いわゆるチンドン屋)みたいな楽隊もあったというし、京都府年表によれば明治39年ごろからジンタが市中に登場したとある。
大阪の天王寺公園で設置された展望旋回車も楽隊の演奏によって回転したというから、おそらく泰西音楽会もレボルリングホイルの回転に合わせて演奏したのかもしれない。

なにしろ見つかった記事が4点だけで、写真もイラストも見つかっていないので状況から推察するしかない。念のために、大阪で開催された戦捷紀念博覧会での展望旋回車についての記事はないかと、明治39年4月の日出新聞もチェックしたが、博覧会への出品物に関する品評はあっても、余興に関する記事は見つからなかった。

当時はすでに絵はがきが発行されていたので、京都のどこかの旧家の蔵にでも残されていることを願っています。


2024年02月10日

日出1
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松崎さんからの一報をいただき、先日、京都府立図書館へ出かけました。
さっそくマイクロフィルムで京都日出新聞の明治39年7月号などを調べ、その後、地下にあるレファレンスコーナーで、司書さんの助けをお借りして、記事の中身について調べてきました。連休中は図書館は混雑していますので、その後にもう一度出かけたいと思います。

松崎さんが見つけた記事以外にも2記事を見つけました。それらと関連図書から考えられる情報を要約すると次の通りです。前回の要約と重なる部分があります。

・観覧車は「観覧車」とも「展望旋回車」とも呼ばれず、「胆勇的旋転輪、即ちレボルビングホイル器」と呼ばれた。高さは40尺(約13メートル)で5分間に2回転した。
ちなみに、同年4月に大阪天王寺公園で開催された博覧会に設置された日本初の観覧車である展望旋回車は高さ22メートルだった。レボルビングホイルは京都動物園にある観覧車と同じくらいだったと推察できる。
なおレボルビング(revolving wheel)の名称だが、アメリカの初期の観覧車にそう呼ばれたものがある。拙著『観覧車物語』166ページ参照

・場所は新京極の一角の道場(地名)にあった「中山借馬場」に設置された。興行したのは「泰西音楽会」のメンバーである栗田さんら数名だった。

前回のブログで泰西音楽会が開催されたときの余興としてと紹介したが、そうではなく、「泰西音楽会」という団体の名称と思われる。「泰西」とは「西洋」という意味だが、この団体は今でいうプロダクションみたいなものだったのかも?

・開会したのは明治39年7月11日。予定よりも少し遅れたもよう。大人6銭、小人4銭だった。ちなみに大阪の展望旋回車の運賃は大人10銭、小人が5銭だった。

・乗客数は1日平均1600名以上で、17日の紋日(祇園祭だった)には2700名以上で定刻までに乗り切れないお客が多かった。
10銭x1600=16000銭=160円。GPTのCoplitに尋ねたところ、明治期の1円は現在の2万円くらいだという。「明治39年でも?」と再度尋ねたら、「そうだ」とのこと。人間とチャットしているみたいだった。肝心の売り上げだが、平日でも320万円、紋日は540万円も稼いだことになる。すごいわ!

「道場」や「中山借馬場」などの固有名詞についても少し説明しておく。
新京極は明治時代、東京の浅草、大阪の千日前と並ぶ日本の3大盛り場だった。新京極が生まれたのは明治5年12月で、寺町通りの「京極」にちなんで「新京極」と名づけられた。当時、この辺りは寺院、墓地の跡地ということで買い手がなかなかつかなかったという。土地の有力者の尽力により業者や大道芸人たちが集められて「盛り場」となっていったーという伝承があるそう。
参考:『新撰京都叢書第1巻』臨川書店刊)

その新京極の一角に「道場」があり、劇場もあってのちに歌舞伎座となるのだが、そもそも道場とは付近に多数の寺院が散在し、出家の集合場の感があったからそう呼ばれた。
参考:『近世芸能興行史の研究』(弘文堂刊、守屋毅著)
現在、京都市中京区には道場町という地名が残っているが、観覧車が興行されたのはその付近ではない。

中山借馬場の名称の中山は屋号と思われる。調査した資料には、当時、複数の借馬場があったが、私が見た資料中には中山借馬場はなかった。

ところで添付した日出新聞(明治39年7月10日)の小さな記事だが、2段に分かれて端っこに掲載されていたもので、字が潰れて判読できない。
中山借馬場に於いて開会する二x團のレボルビングは…
のxの部分が判読不可能。「二神団」かなとも思うが違う気もするし意味不明。振り仮名は「しん」と読める。どなたかご存じの方があったら教えてください。

余談になりますが、新京極について調べていたら祖父が経営していた芝居小屋「福井座」についての記事が散見され、ついそちらの方に気を取られてしまいました。ただレボルビングホイルが興行された明治39年には、すでに代がわりしていて朝日座になっていました。観覧車の調査が落ち着いたら、一度、本腰を入れてわが家のファミリーヒストリーを調べたいと思っています。福井座は大阪北新地にもあったのですが、そのことについてはブログ中の「ファミリーヒストリー・イン・大阪」(2019年3月16日)をご覧ください。

2024年02月06日

観覧車通信・噴水班キャップの松崎貴之さんが再び大スクープです。
以前にもお話ししましたが、松崎さんは噴水研究における日本の第一人者です。昔の新聞をマイクロフィルムで丹念に読み、噴水だけでなく、当時のおもしろいニュースや出来事を発掘しています。観覧車に関するニュースも見つけています。詳しくは拙ブログ「新刊の案内─『近代出版研究』創刊号の「新聞濫読のすすめ」(2022年4月11日)をお読みください。

今回のスクープもすでに”X”(旧ツィッター)で紹介されていますが、こちらでも紹介させていただきます。松崎さんの了解済みです。
明治39年(1906年)7月に、京都において観覧車(記事中には観覧車の名称は使われていない)が設置されていたという記事です。新聞は京都日出新聞。現在の京都新聞の前身です。
記事を要約しますと、

泰西音楽会の栗田さんとその仲間が発起人となって中山借馬場で*胆勇的旋転輪即ち**レボルビングホイル器を据え付け、5日より開場する。高さは40尺(約13メートル)で5分間に2回転する。

その後のニュースでは、
レボルビングホイルは好評で、1日平均1600名以上の入場があった。17日の***紋日には2700名以上も来場し、定規の時間内には乗せきれなかった。

*胆勇:原文の胆は澹のさんずい部分が月の漢字。大胆で勇気があること。
**revolving(回転すると言う意味)
***紋日:祝祭日。7月17日は祇園祭り

日本初の観覧車が設置されたのは、明治39年4月に大阪天王寺公園においてでした。観覧車の名称はまだなく、展望旋回車、旋回車、グレートホイールと呼ばれました。その後、展望旋回車は神戸で興行し、翌年の明治40年に東京・上野の池之端池畔に移設されています。

大阪初のわずか3カ月後に、京都でも観覧車が興行されていたということはとても大きな出来事です。製造会社は不明です。展望旋回車と同じなのか、別の製造会社なのかも不明です。名称が違うので別の会社と推測します。写真やイラストが残っているといいのですが、現時点ではわかりません。
場所ですが、松崎さんの推測では中京区道場町ではとのことです。借馬場ですが、馬を借りて乗り回す、一種の遊戯場であったのでは、とこれも推測です。

近いうちに京都の図書館へ調査に行きたいと思っています。とりあえずの一報です。
松崎さん、いつもありがとうございます。

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tenbosenkaisha

by FUKUI Yuko(福井優子)
「観覧車通信」編集長
『観覧車物語』(平凡社)、『ニッポンの観覧車』(イカロス出版)、『たくさんのふしぎ─観覧車をたずねて』(福音館書店)、『観覧車の時代』(「建築設備&昇降機」連載)

tenbosenkaisha(展望旋回車)とは、1906年(明治39年)に初めて日本に登場した観覧車の呼び名。まだ観覧車とは呼ばれていなかった。

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