草軽電鉄の記憶:火山山麓のレモンイエロー

その昔、浅間高原を走った軽便鉃道のこと、その模型など思いついたままに語る、鉃道青年のブログ。

カルメンの機関車たち ー デキ図鑑 番外編 ー

カルメンスチール
松竹映画  『カルメン故郷に帰る』より  北軽井沢駅でのシーン

映画、『カルメン故郷に帰る』は、1951年に公開された日本初のカラー映画としてあまりに有名です。
舞台は浅間山に抱かれた牧歌的な高原の村。戦後の自由な空気の中で、慎ましくも平和な日常生活を送る人たちの中に、村出身の娘で東京でストリッパーとなっているおきん(カルメン)が突然帰ってくることから始まる喜劇です。
美しい高原風景の中、人々の心の動きが丁寧に表現されていて、コミカルな中にもシリアスな場面、感動のシーンがあり、最後まで飽きることのない、何度見ても素敵な名作映画だと思います。

さて、私たち軽便鉄道を愛好するものとして、この映画は特別な上にも特別な、かけがえのない存在となっているのです。いうまでもなくそれはそこに草軽電鉄が登場するからです。(しかもカラーで)

今回、拙ブログ “火山山麓のレモンイエロー“ とリンクさせて頂いている、テツエイダ様による


で、この映画がとりあげられています。
この機会にわたしのブログでも、現在 “デキ図鑑を“ としてデキ12形の個体差を連載しているところでもあり、僭越ながらその番外編として映画に登場する草軽の車両のことを記事にしてみようと思います。
映画の内容に関しましては、テツエイダ様のブログをぜひ合わせてご覧ください。


● なんといってもデキ18
主人公である高峰秀子扮するカルメンが帰ってくる列車を引いてくるのはNo.18です。これは画像の通りアップではっきりとナンバーが写りますので見間違いがありません。
この、初のカラー映画に堂々と登場する、という名誉をもらったこのNo.18は、おそらく多くの人にとって、“カルメンの機関車“ として認識されていることと思います。
確認しておくと、No.18はボンネットがフラット・延長なし、の“一般型“ です。
ちなみにこの実際の北軽井沢駅に入ってくるシーンは、撮影の演出で上り方の列車にも関わらず、下りホームに入ってきます。
こうして見ると草軽デキは、人のサイズと比較して、イメージするよりも意外と大きい機関車に見えませんか?。

カルメン18-1

一般型


● 最初に写るデキは?
さて、このシーンの少し前、物語の悪役ながらどこか憎めない地元の名士、丸十とその番頭が、走行中のデキのボンネットに乗って景色を見ながらボケとツッコミを見せるシーンがあります。
これ、当然上記のNo.18だと考えるのが自然です。ところがです、これは間違いなくNo.18ではないのです。
座っているお尻のところを見てください。そこはフラットではなくカーブがついています。そしてよく見れば、パンタグラフも違う形状です。

カルメン ラウンド

らうんど



おさらいしましょう。

デキ図鑑でも、“ラウンド型“ として区分している、この機械室(ボンネット)にRが付いている形状のデキは、No.22~24の3両、と普通は認識されています。
ならば、この3両のうちのどれかが登場している…、と思うのが自然なのですが、そこにひとつの“謎“ が出てきてしまうのです。それは以下に解説をします。
それにしても、“ラウンド型“ は、ボンネット自体も延長されており、つかまるところもなく、そこで演技をする役者はかなりやりにくかったのではないでしょうか。

カルメン18-2

● 帰りの列車
大騒動を巻き起こしながらも、結果として故郷に錦を飾ったカルメンたちは、帰りもデキの引く列車に乗って故郷を去っていきます。
来るときと違うのは、2人は客車でなく2両目に連結された無蓋車に乗っている、ということです。この “帰りの列車“ は、全部で4カット出てきます。明確にNo.18が認識できるカットもあるのですが、番号表記が明確にならないカットもあります。
また、引いている客車はホハ23形、貨車はホト70形に代わっていることに要注意です。
しかし、そんな細かいことに目を向けずとも、テーマソングをバックに高原風景の中を進んでいく草軽の列車は何度見ても魅力的です。


カルメン21

● 最後のシーン
問題は物語の最後カット、草津白根山を見ながら、“終“ と出てくるこのシーンなのです。
近年、デジタルリマスター版が出て、その静止画像をみて初めて気がつき、驚いたのは、そこに出てくるのが画像の通りNo.21なのです。
もう一度おさらいしておくと、このNo.21は画像の通り“フラット型“ です。ということは、先述の最所に登場するラウンド型のデキとは明らかに違う個体、ということができるはずです。

カルメン21-2
ボンネットがフラットのNo.21
      上州三原   1962 (昭和37) 年 4月 撮影:田中一水

うらっと

ところが…
戦時中に撮影されたこの写真、
デキ21戦時中
戦時中のNo.21  
     草津温泉 1942 (昭和17) 年6月  撮影:加藤 湊

写っているNo.21を見ると、これは “ラウンド型“ なのです。
映画の撮影は1950(昭和25)年だそうですので、写真の8年後ということになり、その間に改造を受けた、あるいは違う番号との車体の入れ替えがなされた、という可能性ももちろんあるのですが、今のところなんら確証がなく、“No.21の謎“ としてわたしの中にくすぶっているのです。
この写真についての詳しい解説は、

加藤 湊さん をご覧ください。


つまり、最初に登場する“ラウンド型“ で番号のわからないデキは、先述のNo.22~24の他に、このNo.21である可能性もあるのです。
ただ、キャブの戸袋に手書きされた細かい文字や、窓枠の色など比べると、やはり違う個体かもしれません。


● まとめ
今までのおはなしから、画面に登場する車両をまとめてみましょう
1、最初のアップのシーン
     No.22~24のどれか
2、北軽井沢到着のシーン
     No.18 + ホハ30形(31)+ ホト100形(番号不明)
3、エンディングの走行シーン1
     No.18 + ホハ23 + ホト70形(71)
4、エンディングの走行シーン2
     No.18 (多分)+ ホハ23 + ホト70形(71)
5、エンディングの走行シーン3
     No.18(多分) + ホハ23 + ホト70形(71)
6、エンディングの走行シーン4
     No.21 + ホハ30形(番号不明)+ 無蓋貨車(番号不明)

このように映画『カルメン故郷に帰る』には、少なくとも2台のデキが登場している、というのが今の所の結論です。

これは、同じ草軽の登場する映画でも、“山鳩“(No.19)のように、客車を含めて、頑なに同じ番号を登場させるのとは対照的です。
事情は想像しかありませんが、恐らく初のカラー映画ということで、撮影の失敗も多かったのではないでしょうか。同じシーンの撮影に何日もかける、ということもあったはずです。だからトレーラーも含めて、その都度都合のつくデキを出してもらった、ということかもしれません。

なお、デキの引く客車・貨車の形式、番号については、テツエイダ様の画像解析により明らかになりました。ここにお礼を申し上げます。

● 個人的な想い
この映画の存在を知ったのは、中学生の時に見た、古いTMSの記事でだったと思います。
以来、ずっと観てみたいという希望を持ち続けていましたが、ほとんど情報もない時代、それは困難なことでした。
高校生になって、映研の友人から“吉祥寺の名画座でやっているよ…“という情報を得て、もう矢も盾もなく出かけたのです。
初めて接する、スクリーンに映し出された30年前(当時)の美しい浅間高原の光景は、まだ少年だったわたしの心に計り知れないほど強くささりました。それある意味、以後の趣味の方向を決定づける大きな出会いだったことは間違いありません。

●補遺
劇中、運動会などのシーンでは、浅間山を大きくバックに見上げる小学校の校庭が出てくるのですが、これは現在の北軽井沢小学校ではなく、今はなき軽井沢町の軽井沢小学校千ヶ滝分校での撮影でした。
歌に合わせて円になって踊る子供たちのほとんどが裸足であることにも驚くのですが、実は、このエキストラの中に、拙ブログ “火山山麓のレモンイエロー“ でも、度々貴重な画像を掲載させて頂いている、隅野誠一さん(故人)の幼き日の姿があるのです。


〈鉄道青年〉

デキ12図鑑(5) No.15

〈今年は草軽デキ100周年〉
現在記事にしているこの “デキ図鑑“ で、今回も書いているし、今までの記事の中でも数え切れないほど文章に打ち込んできたフレーズ、
それは、
“新軽井沢・嬬恋間の電化開業は1924 (大正13) 年…“
ということです。
そうです、ということは、今年 2024年は、私たちが寝ても覚めても憧れが止まらない、およそ軽便鉄道に興味のある方ならば、間違いなく好きな車両の五指に入るであろう、あの草軽電気鉄道デキ12形が、草軽の機関車としてデビューして、今年で100年、ということになるのです。

え?、だからこの記事書いてるんじゃないの?、って言われてしまいそうですが、不覚にも最近までわたしは気がつきませんでした。
でもだからこそ、このような記念すべき年にデキ12形のことを語れたということは、たいへん嬉しいことです。わたしも、このように記事を書き、写真を改めて見ることによって、いよいよその憧れを強くしています。
(※  信越電力時代を含めると、あと数年長くなりますが、あくまで草軽基準としてです。)

オフィシャル調整
 No.15の引く下り列車  鶴溜・小瀬温泉    草軽交通(株)

● No.15
形態:一般型
草軽デビュー:1924 (大正13) 年
部分廃止後の残存:なし

写真のレア度:☆☆☆☆

● テレホンカードになったデキ

今回紹介するこのNo.15、写真のレア度が結構高いのに、私を含めてみなさま、なぜか真っ先に頭に浮かぶ番号のデキになっているのではないでしょうか。
その理由は簡単、上の写真があるからです。
これは、1960 (昭和35) 年 4月の新軽井沢・上州三原間の部分廃止の際に、記念として関係者に配られた、まさにオフィシャルな写真なのです。
この写真について詳しく解説しています、以下の記事をぜひご覧ください。


現在の草軽交通のホームページをはじめ、以前から、軽井沢を紹介する記事、地域史、パンフレットなどに草軽電鉄に触れる部分に掲載されるのは、まずこの写真です。
わたしも若い頃から見ている写真ですが、“またかよ“ と思うどころか、年を追うごとに自分の中で深く熟成されていくような大切な写真です。実際にこれ以上草軽の魅力を表現したものはおそらくないのではないか、という程完璧な写真ではないでしょうか。
特に鉄道に興味のない方にも、この光景はインパクトが大きいと思います。

56.8-1
デキ12形  No.15  新軽井沢         所蔵:小林隆則
1956 (昭和31) 年の姿。後に正面窓上に手すりが設置される。 やはりヘッドライトを
取り付けた姿がカッコいい(旧型のものが付いている)。パンタグラフは一番下まで下
げた状態。


さらには、もう昔のはなしになってしまいましたが、軽井沢のおみやげ屋さんでは、この写真を使用した草軽交通オフィシャルのテレホンカードを売っていました。わたしは現在でもお守りのように持ち歩いています。
前置きがいつものように長くなってしまいましたが、この写真に写っているのがまさに今回のお題、デキ12形 No.15、なのです。

テレホンカード
テレホンカードになったNo.15

その形状は写真の通り、機械室(ボンネット)の延長のない “一般型“ です。昭和34年夏、つまり吾妻川の鉄橋が流失した後も運用に入っている記録があるので、おそらく部分廃止の時期まで使用されたのだと思われます。
わたしも好きな番号ですが、写真の少ないことがちょっと不思議な機関車です。

〈鉄道青年〉



デキ12図鑑(4) No.14

● No.14
形態:一般型
草軽デビュー:1924(大正13) 年
部分廃止後の残存:なし
写真のレア度:基準なし


● No.14、それは草軽最大の謎
なにが一体謎なのか、それは1924 (大正13) 年の電化に際して用意された6台のうちの1両…、
のはずなのですが、なぜかこの機関車のみ写真がないのです。
わたしももう永いこと草軽を見てきましたが、この “14“ のNo.を付けたデキの写真のみ、最近まで見たことがありませんでした。
そのくせにこのデキ14のみ、廃車の年月日が公式の仕様に明記されているのです。

14廃車
草軽電気鉄道(株) 第77期 34年度上期営業報告書


画像の通り、そこには確かに “34.4.3  車両廃車届“ の表記があります。
凸型に改造され、戦後すぐに越後交通へ譲渡されたNo.50を除いた、他の12両についての公式な廃車の記録は、わたしは今まで見たことがありません。ですので、これのみ記録が残されていること自体が不自然なことです。

あと10歩ゆずって、“仲間よりも一足先に廃車になった…“、ということにしても納得がいかないのは、少なくとも部分廃止直前の昭和34年まで存在していたとすれば、当時多くのマニアが訪れた草軽のことですから、たとえ運用にはついていなかったとしても、誰の目にもとまっていなかった、というのは不自然というか、あり得ないことなのではないでしょうか。

これらがわたしにとって永年の疑問・謎でした。
当時の草軽の職員、特に運転士としてデキに乗っていた方にこの質問をしても、“14という機関車は最初からありませんでした…“、という証言が出るなど、わたしも一時はNo.14の存在自体を疑ってしまっていたのです。
ところが、間違いなくこのNo.14は存在していたのです。

この記事をご覧ください。


この中に出ている写真は、おそらく現在までに発見されているNo.14の本当にただ1枚のものと思われます。

〈鉄道青年〉
記事検索
アクセスカウンター
  • 今日:
  • 昨日:
  • 累計: