2015年12月23日
【お知らせ】「東京の水 2005 Revisited 」リマスター版公開について
この度、この「東京の水 2005 Revisited 」を再編集し、リマスター版として公開することとしました。
本ブログ「東京の水 2005 Revisited 」の公開から10年間がたちました。改めて見なおしてみると、変わっていない風景もあれば、ずいぶんと変わってしまった風景もあります。暗渠沿いのような街の何気ない風景は、何気ないだけに記録として残りにくい側面もあります。そういった意味で、これらの記事や写真を今後もアーカイブとして残しておく価値があるのではないかと考えました。
一方で、1写真1記事という細切れのスタイルや、当時のネット環境により写真が小さく粗いなどといった課題点があり、今読み返すと若干読みにくい点がありました。
そこで、より読みやすく、そして現在のネット環境などに適合したかたちで再公開することとしました。写真は2005年公開当時と同じものを採用したうえで、レタッチ・サイズ拡大といったいわばリマスターを施しています。また、文章については、明らかな間違えの修正や追記・補足事項以外は公開時とほぼ同じまま再収録しています。地図についてだけはカシミール3Dを使用し、全面的につくりなおしています。
すでに2015年11月19日より順次公開を開始しております。今後週1〜2回のペースで更新していく予定ですので、ご覧いただければと思います。
東京の水2005 Revisited 2015 Remaster Edition
本ブログ「東京の水 2005 Revisited 」の公開から10年間がたちました。改めて見なおしてみると、変わっていない風景もあれば、ずいぶんと変わってしまった風景もあります。暗渠沿いのような街の何気ない風景は、何気ないだけに記録として残りにくい側面もあります。そういった意味で、これらの記事や写真を今後もアーカイブとして残しておく価値があるのではないかと考えました。
一方で、1写真1記事という細切れのスタイルや、当時のネット環境により写真が小さく粗いなどといった課題点があり、今読み返すと若干読みにくい点がありました。
そこで、より読みやすく、そして現在のネット環境などに適合したかたちで再公開することとしました。写真は2005年公開当時と同じものを採用したうえで、レタッチ・サイズ拡大といったいわばリマスターを施しています。また、文章については、明らかな間違えの修正や追記・補足事項以外は公開時とほぼ同じまま再収録しています。地図についてだけはカシミール3Dを使用し、全面的につくりなおしています。
すでに2015年11月19日より順次公開を開始しております。今後週1〜2回のペースで更新していく予定ですので、ご覧いただければと思います。
東京の水2005 Revisited 2015 Remaster Edition
2011年01月01日
東京の水 2009 fragments開設のお知らせ
「東京の水2005Revisited」では東京山の手の中小河川やその暗渠、湧水を水系別に体系的に取り上げるつもりで、弦巻川・水窪川と渋谷川水系、鮫河〜桜川を紹介してきましたましたが、体系的に調査/記述する時間的な余裕がなくなってしまったため、更新が滞ってしまっています。
一方題材だけは沢山蓄積していますので、あらたに「東京の水 2009 fragments
」を開設し、さまざまな川、水路、湧水、暗渠を断片的に取り上げてみることにしました。申し訳ありませんが、しばらくはこちらのほうで、よろしくお願いします。
「東京の水 2009 fragments
2009.8.7記
一方題材だけは沢山蓄積していますので、あらたに「東京の水 2009 fragments
」を開設し、さまざまな川、水路、湧水、暗渠を断片的に取り上げてみることにしました。申し訳ありませんが、しばらくはこちらのほうで、よろしくお願いします。
「東京の水 2009 fragments
2009.8.7記
2010年12月31日
このサイトについて
このサイト「東京の水2005 Revisited」は、
東京(主に23区内)の川や湧水、暗渠を取り扱っています。
特に、東京の中小河川の水系について、
暗渠になってしまったものを含めて、
その流路のをたどったり水源を訪ねてみます。
もとのサイト「東京の水」は、1995年に開設、97年に開始しました。
「東京の水2005 Revisited」では、blog型式でより詳細な記事を記していきます。
東京(主に23区内)の川や湧水、暗渠を取り扱っています。
特に、東京の中小河川の水系について、
暗渠になってしまったものを含めて、
その流路のをたどったり水源を訪ねてみます。
もとのサイト「東京の水」は、1995年に開設、97年に開始しました。
「東京の水2005 Revisited」では、blog型式でより詳細な記事を記していきます。
2010年12月30日
東京の水 覚書(1997年10月2日記)
東京を歩いていると結構起伏のあることにきづく。
そして注意深く歩いていれば、谷底には曲がりくねった細い道が通っていたりする。
それはかつての川の跡だ。
渋谷、代官山、宇田川町、地名と地形に痕跡を残す東京の原風景。
現代の道路は地形に沿ってではなく、地形を変えて通っている。
高層ビルが切り取る、空の輪郭は必ずしも地形の起伏を反映していない。
水は必ず高い所から低い方へと流れる。降った雨は谷に集まり、流れを作り川となる。
川の跡を忠実に辿れば、東京の地形がはっきりとわかる。
失われた水の気配を感じながら道を辿る。
想像力を膨らませる。人の流れ。水の流れ。
時には思いがけず、失われずに残っている湧き水に出会ったりもする。
東京砂漠、なんて使い古された言葉もあってなかなか信じられないかもしれないが、
東京の都心にも実はあちこちに湧水があったりする。
三方をコンクリートに囲まれ、巨大な排水溝と化した都市の川。
とても綺麗とは言えない水が流れる現実の川の姿は時には惨すぎ、あまりに近寄り難い。
むしろ、暗渠の方が、イマジネーションを拡げさせる。
が、それでもその流れがどこから来て、どこに行くのか、気になってしまう。
子供のころ親や年寄りに聞かせられた話に出てくる風景。
家の本棚にあった古い区分地図。
それらは自分が生まれた時にはすでに存在していない。
ドブ川や暗渠はそのものが子供の頃の原風景であるとともに、
話のなかで体験した失われた風景の痕跡でもある。
それは後から移り住み暮らす人にとってはただの道でありドブ川であるだけかもしれないけど、
東京に生まれ育った者にとっての場と自分とをつなぐ手がかりである、といったらおおげさだろうか。
想像のなかで、決して蘇ることのない風景を復元しつつ、体験したことのない故郷の 風景に思いを馳せ、
川(跡)を歩いていく。
そして注意深く歩いていれば、谷底には曲がりくねった細い道が通っていたりする。
それはかつての川の跡だ。
渋谷、代官山、宇田川町、地名と地形に痕跡を残す東京の原風景。
現代の道路は地形に沿ってではなく、地形を変えて通っている。
高層ビルが切り取る、空の輪郭は必ずしも地形の起伏を反映していない。
水は必ず高い所から低い方へと流れる。降った雨は谷に集まり、流れを作り川となる。
川の跡を忠実に辿れば、東京の地形がはっきりとわかる。
失われた水の気配を感じながら道を辿る。
想像力を膨らませる。人の流れ。水の流れ。
時には思いがけず、失われずに残っている湧き水に出会ったりもする。
東京砂漠、なんて使い古された言葉もあってなかなか信じられないかもしれないが、
東京の都心にも実はあちこちに湧水があったりする。
三方をコンクリートに囲まれ、巨大な排水溝と化した都市の川。
とても綺麗とは言えない水が流れる現実の川の姿は時には惨すぎ、あまりに近寄り難い。
むしろ、暗渠の方が、イマジネーションを拡げさせる。
が、それでもその流れがどこから来て、どこに行くのか、気になってしまう。
子供のころ親や年寄りに聞かせられた話に出てくる風景。
家の本棚にあった古い区分地図。
それらは自分が生まれた時にはすでに存在していない。
ドブ川や暗渠はそのものが子供の頃の原風景であるとともに、
話のなかで体験した失われた風景の痕跡でもある。
それは後から移り住み暮らす人にとってはただの道でありドブ川であるだけかもしれないけど、
東京に生まれ育った者にとっての場と自分とをつなぐ手がかりである、といったらおおげさだろうか。
想像のなかで、決して蘇ることのない風景を復元しつつ、体験したことのない故郷の 風景に思いを馳せ、
川(跡)を歩いていく。
2008年04月30日
地図リンク先の位置のずれについて
各記事に、場所を示すためにlibedoorの地図をリンクしてありますが、過去の記事において、場所が意図する位置からずれてしまっているものが散見されます。原因は不明ですが、地図の座標系が変更になったのかもしれません。最近の記事は大丈夫かとは思いますが、留意点としてよろしくお願いします。
2007年12月20日
鮫川/桜川(48)桜川の暗渠
鮫川/桜川(47)水路と桜川の合流点
弾正坂を下りきって一番低くなっているところが、かつて御用地から流れ出た桜川が御用地沿いの水路と交差していた地点です。ここだけは水路の川底が一段低くなっています。石垣には桜川が出て来るべき位置に、水抜きの土管が顔を出しています。川はかつてここから東に流れ出していました。
地図
地図
鮫川/桜川(46)水抜きの穴?
2007年12月12日
鮫川/桜川(45)御用地沿いの水路と青山上水
この水路はかつては御用地の敷地の南側から西側の途中、青山中学校の近辺から始まり、敷地に沿って続いていました。西側の水路のすぐそばには、かつて青山上水(のち青山用水)が通っており、一部の区間は平行していました。青山上水は1660年に開通し、四谷大木戸の玉川上水の末端から分水し南下、赤坂や麻布地域の上水として利用されていました。水路は地中に樋を埋めた暗渠となっていました。上水は1722年に廃止されたましたが、灌漑用水として引き続き利用され、明治14年から18年にかけては麻布水道として復活しています。明治16年の五千分の1地図には破線で水路が示されています。
御用地沿いの水路は台地の上から始まっていて特に水源が見当たりませんが、もしかしたらこの青山上水(用水)の余水が流されていたこともあったりしたのでしょうか。
かつての水路の西端(地図)
御用地沿いの水路は台地の上から始まっていて特に水源が見当たりませんが、もしかしたらこの青山上水(用水)の余水が流されていたこともあったりしたのでしょうか。
かつての水路の西端(地図)
鮫川/桜川(44)御用地沿いの水路
鮫川/桜川(43)赤坂御用地
拡大地図を表示
鮫川/桜川(35)「鮫河橋門」の項でも触れましたが、赤坂御用地はかつては紀州徳川家の中屋敷、明治時代に入ってからは天皇の仮御所を経て皇族の居住地として利用されています。広大な土地の中には、かつての江戸の元地形が残されています。各皇族の住居や迎賓館のある台地に囲まれて、敷地の西端を谷頭とし、東に開ける深い谷戸が敷地の中央にあります。谷底と台地上の高低差は15mあり、かつては谷底は水田となっていました。また、南側にも細長く深い支谷が2つあり、谷底は池になっており、湧水も残っているかもしれません。これらの谷と鮫河谷が敷地中央で合流しており、大きな池が2つ配されています。鮫川はこれらの谷や池から流れる水を合わせ、東側から敷地の外に流れ出ていました。敷地内には野生のタヌキが棲息しているそうです。
2007年12月08日
鮫川/桜川(42)千日坂と千日谷
千日谷の谷頭はからは、千日坂と名付けられた急な坂が信濃町の駅前、外苑東通りに繋がっています。かつて、谷頭はここから南に向きを変え、もう少し先まで伸びていましたが、外苑東通りが造られた際に道路を直線とするため谷頭を埋めて盛り土がされ、現在ある急な擁壁が造られました。
千日谷の名前は、谷頭にある一行院千日寺に由来します。この場所には、17世紀後半まで火葬場(千日谷火屋)がありました。火葬場はその後代々木に移転しますが、これが現在の 代々幡斎場となります。つまり、鮫川支流の源流から、宇田川の源流に移転したこととなります。川の源流になぜ火葬場が設けられたのか、興味深いところです。
地図
鮫川/桜川(41)明治記念館の緑
鮫川/桜川(40)
2007年12月02日
鮫川/桜川(39)残された水路
鮫川/桜川(38)千日谷の暗渠
2007年11月27日
鮫川/桜川(37)千日谷の橋跡
鮫川/桜川(36)鮫河橋の絵図
鮫川/桜川(35)鮫河橋門と鮫河橋
谷はこの先、赤坂御所内に入っていきます。もともとは紀州徳川家中屋敷でしたが、明治6年、天皇の仮御所になって以来皇族の住居となっています。現在敷地内には東宮御所、三笠宮邸、秋篠宮邸、高円宮邸があります。写真は鮫河橋門で、ここにかかっていたのが鮫河橋です。
その名の由来には諸説あり、雨が橋がなまったものとも、東京湾からここまで鮫が遡ってきたからとも、
さめ馬(真っ白な馬)に乗った住職がこの橋を渡った際に落馬したためともいいます。
地図
その名の由来には諸説あり、雨が橋がなまったものとも、東京湾からここまで鮫が遡ってきたからとも、
さめ馬(真っ白な馬)に乗った住職がこの橋を渡った際に落馬したためともいいます。
地図