toshi_tomieのブログ

一般科学に関する独り言

    最表面原子の電子状態を見る、私が考案し開発製作したEUPSで
    新規分析法を開発し、触媒などの材料評価をしています。

    今回は、珍しく、数社が報じました。
    以下に紹介した以外に、テレビ東京、フジテレビも報じました。

    コロナワクチン「情報不十分」 後遺症患者らが国提訴―東京地裁
    時事ドットコム  2024年04月17日17時16分

    新型コロナのワクチン被害は“薬害” 体調不良に悩む患者と遺族が国を提訴 厚労省“重大な懸念は認められない”
    CBCテレビ 4/17(水) 19:04配信

    新型コロナワクチン健康被害 遺族会と患者会が国に慰謝料を求めて集団訴訟 ~兵庫県在住の原告の母「国が認めないことで問題が起きている」~
    サンテレビ 4/17(水) 19:06

    コロナワクチン接種後死亡 遺族ら「国の広報不十分」と集団提訴 
    毎日新聞  2024/4/17 14:00

     新型コロナウイルスのワクチンの危険性を伝えないまま接種を推奨したのは違法として、ワクチン接種後に死亡した男女の遺族ら13人が17日、国に総額約9150万円の賠償を求める集団訴訟を東京地裁に起こした。原告側は全員が死亡や後遺症とワクチン接種との因果関係を国に認められており、「国はマイナス情報を事実上広報せず、被害を広げた」としている。

     提訴したのは接種後に死亡した8人(当時19~79歳)の遺族と、後遺症を負って退職や休職をしたり、一時学校に通えなくなったりした5人(同18~55歳)。

     訴状によると、遺族らは、国が新聞広告やテレビCM、動画投稿サイト「ユーチューブ」を通じて大々的に接種を呼び掛けた際、医療機関から報告されていた接種後の死亡や重篤な副反応の事実を伝えていなかったと主張した。

     感染予防効果には確証がないにもかかわらずメリットが強調され、公正公平な情報提供がなされずに憲法13条が保障する自己決定権が侵害されたとしている。

     また、接種によって家族が亡くなったことについて周囲から冷たい目で見られた上、国の広報が不十分だったため、医療機関で副反応に対する適切な診療が受けられず、強い苦痛を味わったとしている。

     原告の河野明樹子さん(60)は、大阪市で飲食店を経営していた夫の俊弘さん(当時55歳)を2021年に亡くした。提訴後の記者会見で、「感染を防げるし、客にもうつさないと国が言うので、ワクチンの接種券が来た時は2人で喜んだ。国は責任を取ってほしい」と訴えた。【菅野蘭】

    新型コロナワクチン接種後死亡 遺族らが国に賠償求め提訴
    NHK 2024年4月17日 17時57分

    新型コロナワクチンの接種後に死亡した人の遺族など、合わせて13人が国に対し「副反応などのマイナス情報を広報せずに被害を広げた」として、合わせて9100万円余りの賠償を求める訴えを起こしました。

    17日、東京地方裁判所に訴えを起こしたのは、
    ▽ワクチンの接種後、死亡した8人の遺族と
    ▽健康被害を受けた5人の
    合わせて13人で、いずれも予防接種法に基づく国の健康被害救済制度で「因果関係が否定できない」として、死亡一時金などが支給されています。

    訴状によりますと、原告は、国はワクチンの接種を勧めるために、あらゆるメディアを使って広報した一方、医療機関から上げられる副反応の報告については広報せず、ワクチンの危険性を知ることができなかったと主張しています。

    また、コロナワクチンの健康被害に苦しむ人のための専門外来を積極的に設けるなどの対策を十分に取らなかったと主張して、慰謝料や一部の原告に支給されなかった死亡給付金など、合わせて9100万円余りの賠償を求めています。

    原告の1人で、夫がワクチン接種の2日後に死亡した河野明樹子さんは、提訴後に開いた会見で「国はワクチンによって、ばく大な被害が出ていることをスルーし、危険性は国民に共有されなかった。マスコミも情報を流さず、被害を小さく見せている。夫は無念だったと思う。国には責任を取ってほしい」と話していました。

    厚生労働省「コメント差し控えたい」 
    提訴について、厚生労働省は「現時点で訴状を受け取っておらず、詳細を把握していないためコメントを差し控えたい」としています。

    林官房長官「リスクの周知を行っている」 
    林官房長官は、午後の記者会見で「訴状が届いていないためコメントは差し控えるが、新型コロナワクチンに限らず、ワクチンには一般的に有効性のみならず、不可避的に生じるリスクがあること、健康被害については、予防接種法に基づく健康被害救済制度があることなどについて周知を行っていると承知している」と述べました。

    新型コロナワクチン被害者 国賠請求訴訟記者会見
    60分
    ニコニコ動画 (nicovideo.jp)  
    投稿:特定非営利活動法人駆け込み寺2020 2024/04/17 17:47

    日時 令和6年4月17日 14時
    場所 東京地裁司法記者クラブ
    登壇者
    コロナワクチン被害者遺族(繋ぐ会より2名)
    コロナワクチン後遺症患者(患者の会より1名)
    青山雅幸弁護士
    中本理一郎弁護士
    新型コロナワクチン後遺症患者の会 代表 木村 副代表 神谷
    特定非営利活動法人駆け込み寺2020理事 鵜川

    感染症の流行を記述する富江モデル
    d I(t)/dt = A(t)+ β S(t) I(t)- γ I(t) 
    --------(0)
    の発生関数
    A(t)を数式で現します。

    ーーーーーーーーーーーー
    下記記事で
    感染症の流行を記述するTomie model(3)発生関数はロジスティック関数の二次微分の集合
    2023年09月20日

    >「病原体の都合」も正規分布になると期待される。
    >流行の初期と終息期には級数変化になると期待される。
    >つまり、級数変化+ガウシアン、になると期待される。
    >ロジスティック方程式の右辺は、裾部分は級数変化し、中心部分ではガウシアンである。

    A(t)はロジスティック関数の二次微分の集合で現せるだろう、と説明しました。

    A(t)を数式で表現します。

    ロジスティック関数、Logistic equation、は
    F(t)=C/(1+d*exp(-at))

    で、一次微分がロジスティック方程式
    F’(t)=aF(t) (1-F(t) / C)  
    です。
    この微分は
    F'’(t)=aF'(t) (1-2F(t) /C) 
    =a2C/(1+d*exp(-at))*(1-1/(1+d*exp(-at))*(1-2/(1+d*exp(-at))
    です。
    従って、
    A(t)   = S (anFn’(t-tn) (1-2Fn (t-tn)/ Cn) ) 

    になります。S Fnの和です。F(t)=C/(1+d*exp(-at))を代入して
    A(t)  = S ( an2Cn/(1+dn*exp(-an(t-tn))) *
    (1-1/
    (1+dn*exp(-an(t-tn)))) *(1-2/(1+dn*exp(-an(t-tn)))) )

    になります。

    上記記事で紹介した、図で求める方法が楽です。

    >流行のピークで発生関数はゼロで、増加(+)側と減少(ー)側の波形が同じ、点対称になります。

    >感染症の流行のフィッティングで得た発生関数の波形が
    ゼロをはさんで点対称であれば、正常な何らかの現象が発生した。
    >非点対称ならば、異なる現象が近接して発生した、
    >と判断することになります。

    感染症の流行を記述する富江モデル
    d I(t)/dt = A(t)+ β S(t) I(t)- γ I(t) 
    --------(0)
    のパラメーターの求め方に関して、
    半年前の記事で 
    感染症の流行を記述するTomie model(1)パラメータの求め方
    2023年09月09日
    ピークの高さが5~10倍異なる流行で、高さと幅が反比例する場合にのみ、βによるものと判定してよいです。

    と書きましたが、この方法には、多くのピークの観測が必要です。

    本記事では、単独の流行の波形から、流行が
    伝染によるものかどうか(βが無視できるかどうか)、を判定する方法を説明します。

    ーーーーーーーーーーーー
    βS0と γの求め方
    K-Mモデル(A(t)=0)では、ウィルスが人々の間を伝染する時定数ttrans と死滅する時定数tinf は、 1/ttrans = bS01/tinf = g です。

    4年前の論文

    Relations of parameters for describing the epidemic of COVID―19 by the Kermack―McKendrick model
    2020.02.26
    で導いたように、感染者数の増える速度
    tgrowと終息する速度tend 

    1/tgrow bS0g --------(1)

    1/tend = 1/tinf − (1−p(∞))/ttran    --------(2)
    になります。
    p(∞)は、感染履歴を持つ国民の割合で、p(∞) ≈1−exp(−(R0−1)/0.60)で近似できます。
    R0は基本再生産数でR0=bS0/gです。

    1/ttrans = bS0から1/tinf = gを差し引いたのが、感染者の増加速度です。 bS0gが同じならば感染者は増えません。 bS0>が流行開始の条件です。

    (1)式を変形すると

    1/tgrow =bS0(R0-1)/R0 --------(3)
    です。

    (2)式を変形すると

    1/tend    = g − (1−p(∞)) bS0

                      = g (1−(1−p(∞))/R0)
       g (1−exp(−(R0−1)/0.60)/R0) --------(4)

    になります。
    例えばR0(=bS0/g)が3の時、1/tend   =0.98 g になって、(3)式から
    1/tend   ~ 1/(R0−1)tgrow --------(5)

    で、
    R0~1+tend/tgrow --------(6)
    です。

    R0が分かれば、観測されたtgrowtendからbS0gが求まり、K-M方程式が計算できます。R0は、2~3でしょう。
    g を求めるには、そして正しいR0を求めるには、終息期までの観測が必要です。


    計算例
    2018/19シーズンのインフルエンザでは、
    tgrow = 1.67日、tend =2.5日だったので
    感染症は病原体の都合で流行する(13)K-Mモデルは、感染症の実際の流行の何も再現できない
    2024年04月11日
    (6)式からR0~2.5日になり
    (5)式
    から、1/bS0tgrow (R0-1)/R01日になり、1/ g ~2.5日になります。 
    赤●は
    K-M方程式で1/bS0=0.95日と1/ g =2.5日で計算した結果です。

    2018-19のインフルエンザとK-Mモデルでのフィッティング

    ーーーーーーーー
    (伝染bが無視できるか?

    ピークまでの観測だけで判断できます。終息迄観測する必要はありません。
    初期の級数増加からピークまで赤線(K-M モデル)に載らなければ、ピーク付近が大きく異なれば、bは無視できます。
    つまり、伝染には依らず、
     A(t)によるものです。

    2018-19のインフルエンザとK-Mモデルでのフィッティングー線形表示

    三週間ぶりの第14週のインフルエンザとコロナの流行状況です。
    インフルエンザ。2011年に次いで2回目の3月中旬の第二のピーク
    2024年03月24日
    例年通りに順調に減っています。

    インフルエンザ24年14週
    コロナ24年14週

    日立風流物の公演が終わった後、担当者が配ったパンフレットが情報豊かです。ネットを探しましたが、pdfファイルが見つかりませんので、ご紹介します。

    日立風流物(ひたちふうりゅうもの)|日立市公式ウェブサイト (hitachi.lg.jp)
    国指定重要有形民俗文化財(昭和34年(1959) 北町山車)
    国指定重要無形民俗文化財(昭和52年(1977))
    2016年:ユネスコ無形文化遺産

    ーーーーーーーーーーー
    からくり
    日立風流物の命、それはカラクリです。
    日本各地に残る山車カラクリの系続は大きく2つの方向に発展してきました。

    1つは飛騨高山の高山祭に象徴される方向です.専門の人形師の手による人形カラクリを配し、山車の装飾に贅を尽くして、山車を豪華絢爛な美術品にまで昇華させました。

    一方で、氏子たち自らが道具を握り仕掛けの技を工夫して、カラクリを操る楽しさを見出した日立の風流物があります。優れた匠や豪農、豪商がいなくても、観てくれる人たちの喜びを糧として素人技ながら創意工夫をしてきたのです。その意気込みが人形カラクリの技を磨かせるとともに山車を大型化させる原動力となったのです.

    山車
    開き
    人形で物語を演じるには少なくとも一段で2~3体の人形を投じ、幅数間の間口が必要になるが、当時の道幅では取り回しができない。そこで、日立風流物を特徴づける“開き”と呼ばれる舞台の折りたたみが考案された。
     村人の好評を博した人形芝居は、さらに場面を増やす方向に氏子を駆り立てたが、横への広がりは限界があるため、立体高層化へと解決策が向かった。大正期までには現在見られる5層まで進化し、全国有数の大型山車となるのである。
    日立風流物、本能寺の変

    カグラサン
    開きを実行するには、開きと一体になっているせり上がり(人形操作者を乗せる木枠)を上昇させなければならない。それにはカグラサンと呼ばれるテコの原理を使った人力巻きあげ機を利用する。数人の大人が乗る枠を上昇させるのだから大変である。
     開きによる扇の広がりを持たせるために、せりあがりの上昇量は上層にしたがって大きくなる。

    曳山日立風流物―曳山
    曳山の際には、山車の転倒を防ぐために、山綱と呼ばれる綱を左右3本ずつ引き渡し、大人子ども合わせて百数十人が動力となる、

    回転
    山車の大型化にともない、山車の裏側の利用価値が高まる。「まだ人形を載せる余地がある。しかし、大観客を裏側に移勣させるわけにはいかない、この矛盾は、土台を上下2層化し、上部のみを観客に向けて回転させることで解決した。
     裏山での上演に移るには、車輪を含む土台の下半分(下土台)はそのままに、上半分(上土台)とそれに乗る館組を180度回転させる。
     回転は、下土台中央に突起する金属の軸を中心に、20人以上の人間が力を合わせて行なう。
    日立風流物、人形が隠される

    胴柄
    日立風流物に使われる代表的な人形の胴柄。“早返り”と呼ぶ動作のため、胴の上下にそれぞれ首(かしら)と腕を取り付けてある。1体をどんでん返しによって2体として使用する方法は日立風流物独特のものである。カラクリの細部は4つの町内によって異なり、その製法・仕組みは一子相伝とされた。
    また、過去においては大祭による公開の度に人形を新調していたことから、祭りに対する思い入れはいかほどかと想像できる。 
    衣を着せた後の手には、刀・槍・弓などの武具・道具を持たせることが多い。 
    早返りでないものも含め、各町とも30休以上の人形を保有している。
    日立風流物、太閤記を演じた人形達

    早返り
    先に演じる半身の背中にはヒモが下がり、それを長いフックで引き下げて、一瞬のうちに上下を逆転させる。5層全ての人形が同時に早返しをする様は、見る人を驚嘆させる。

    首(かしら)
    役割に応じて伸長していた胴柄に対し、首は文楽の物を伝承して使用してきた。そのうち122個は県指定有形民俗文化財、38個が市指定有形民俗文化財となっている(いずれも現
    在は使用してぃない)。現代の氏子の手による作品も数を増している。

    人形に神経と筋肉を与えるのは作者(操り手)が操る糸である。操り糸の通る道を糸道と呼ぶが、いかにうまく糸道を設計するかでその人形の操り易さが左右される。 
    また、糸の数が多いほどより人間に近い所作が可能になるが、作者の腕は増やせないので、いかに少ない数の糸で複雑で滑らかな動きを表現できるかが作者の腕の見せ所である。
    日立風流物、銃、剣を持つ侍


    表山(おもてやま)
    各層にそれぞれ3体。合計15体もの人形が人々の目を楽しませる。表館ともいう。 
    物語は忠臣蔵や源平争乱などの歴史物、武者物が多い。幾つかの町内が同時に公開する年の演目は直前まで互いに秘密を守り、以前は家族にまでも公言しなかったという。

    裏山(うしろやま)
    花咲爺や大蛇退治畏山など、動物版勧善懲悪ものが多い。動物らしい人形を製作するのは人形以上に難しく、大きさ、姿、動きなどに苦心する。
    日立風流物、花咲か爺さん

    沿革

     日立風流物は、昔は宮田風流物といわれ、その起源は定かでありませんが、元禄8年(1695)徳川光圀公の命により、神峰神社が宮田、助川、会瀬3村の鎮守になったときに、氏子たちが造った山車を祭礼に繰り出したのがはじまりだといわれています。この山車に人形芝居を組み合わせるようになったのは、享保年間(17161735)からと伝えられています。

     

    壮大な山車と共に日立風流物の特徴を成すからくり人形の由来も確かな記録は残っていませんが、風流物が起こった江戸中期は人形浄瑠璃が一世を風扉した時代であり、その影響を受けた村人達が農作業の傍ら工夫を重ね、人形作りの技術を自分達のものとしていったと考えられています。 

     

    4町(東町、北町、本町、西町)4台の風流物は村人達の大きな娯楽となり、町内の競い合いもあいまって、明治中期から大正初期にかけて改造を重ね大型化されました。

     

    その風流物も昭和207月、米軍の焼夷弾攻撃により2台が全焼、1台が半焼、また人形の首も約7割を焼失してしまいました。しかし、郷土有志(宮田風流物保存会〔のちに日立郷土芸能保存会となる〕初代会長根本甲子男氏ら)の努力により、昭和326月茨城県無形文化財の指定を受け、昭和335月に1台だけながら念願の復元を果たし、21年ぶりの公開を成し遂げたのでした。 昭冽]34年5月には、さらに国の重要有形民俗資料(のちに重要有形民俗文化財と改められる)の指定を受けました。この種の山車の類としては指定第1号です。それは、山車・屋形の組み立てから山の製作、屋形の展開操作、人形の製作とあやつり操作、山車の運行、鳴り物演奏など、すべて氏子(現在は氏子でもある日立郷上芸能保存会の会員)の手によって行なわれ、いわば素人芸の集積が花咲いたところに民俗文化財としての価値が見出されたのです。 

     

    昭和415月までには残りの3台も復元され、昭和4910月には天覧公開も成就し、昭和52年に4台ともに国の重要無形民俗文化財に指定され、風流物は新しい時代を歩き始めます。

     

    日立風流物は、日立の歴史とともにあり、現在は神峰神社の大祭礼を始め、毎年春の日立さくらまつり等での公開をとおして大切に受け継がれています。

    NHK水戸放送局のいば6で、ユネスコ無形文化遺産「日立風流物」の紹介があったので、最終日の4/7(日)に見に行きました。
    日立さくらまつり (kankou-hitachi.jp)のメインイベントでした。
    JR日立駅から6号までの間の平和通りを歩行者天国にした、会場でした。
    会場の平和通りの傍の駐車場は全て満車だろうとあきらめ、日立駅の海側に行きましたが、そこも満車でした。幸いに、暫く待つと数台出てくる車があり、駐車できました。

    平和通りの歩道にはずらりと出店が並び、歩行者天国になった車道は、人で溢れかえっていました。
    さくらまつり、歩行者天国

    下記パンフレットに紹介された様に、多くのイベントがありました。
    会場マップ、イベントスケジュール

    メインイベントがユネスコ無形文化遺産「日立風流物」のカラクリでした。6,7日の二日で5回の公演があり、15時から始まった最後の公演を観ました。

    山車の一番下の窓が開き、一人の侍が現れました。
    日立風流物の開演
    川中島での戦いを表す、刀を持つ侍、銃を持つ侍などが次々登場し
    日立風流物、銃、剣を持つ侍
    最上段には、本能寺の変を表す、白装束の織田信長が現れました。
    日立風流物、本能寺の変
    馬に跨った侍が、弓を引き、何回か、観客に向けて、実際に矢を放ちます。大した人形操作で、観客がわきました。
    日立風流物、馬に跨って矢を放つ
    いつの間にか、最下段の武士が、女性に変わっていました。
    日立風流物、最下段が女性に
    太閤記が終わると、山車は半回転し、布で覆われた背面が観客側に向き、舞台が下ろされました。
    日立風流物、半回転して舞台を開く
    舞台の上と、布の間から、次々と人形が現れ、花咲か爺さんが演じられました。小判が何枚も撒かれました。
    日立風流物、花咲か爺さん
    今年の担当は本北町地区で、さくらまつりの縦幕が下ろされました。
    日立風流物、北町支部
    そして、人形たちが布の後ろに戻り、舞台も戻され、山車が回されました。
    日立風流物、人形が隠される
    太閤記を演じた人形たちが正面に戻って、公演終了です。
    日立風流物、元に戻る
    桶狭間の戦い、山崎の合戦、本能寺の変を演じた人形達が立っていました。
    日立風流物、太閤記を演じた人形達

    帰ってから、いば6、のニュースを見ると、観客が去った後、関係者数十人が山車の前で記念集合写真を撮っていました。

    [医師監修・作成]前立腺がんの症状:初期症状・転移(ステージIV)や末期で現れる症状 | 

    MEDLEY(メドレー)

    前立腺がんの症状:初期症状・転移(ステージIV)や末期で現れる症状
    初期の前立腺がんはほとんど症状はありませんが、進行するとともに症状が現れます。

    目次
    1. 前立腺がんに初期症状はある?前立腺肥大症との違いは?
    2. 前立腺がんは進行するまで症状が出にくいのにどうやって発見されるのか?
    3. 前立腺がんが進行したときに現れやすい症状

    1. 前立腺がんに初期症状はある?前立腺肥大症との違いは?

    前立腺がんの初期症状はほとんどありません。

    尿が出にくくなったこと(排尿困難感)の原因が前立腺がんの初期症状ではないかと心配する人がよくいます。前立腺がんが原因であることもありますが、排尿困難感の原因は前立腺肥大症であることがほとんどです。ですので、排尿困難感の原因として前立腺がんの存在を心配しすぎる必要はありません
    次に前立腺がんと前立腺肥大症の違いについて詳しく説明します。

    ■前立腺がんと前立腺肥大症の症状の違い

    前立腺は尿の通り道である尿道を取り囲むように存在しています。そのため、前立腺の変化が排尿に影響することがあります。

    前立腺は移行領域、辺縁領域、中心領域の3つの部分からなります。
    前立腺がんの場所
    前立腺がん・前立腺肥大症の模式図

    移行領域の前立腺が腫大してくるのが、前立腺肥大症(良性腫瘍で、がんではありません)です。尿道に近い移行領域が大きくなる病気なので、前立腺肥大症は排尿に影響を与えやすいです。

    一方で、前立腺がんの多くは辺縁領域に発生します。前立腺がんは尿道とは離れた位置に発生するために初期の段階では排尿状態に影響をほとんど与えません。

    がんではないとはいえ前立腺肥大症にも治療が必要です。排尿に異常が見られる人は泌尿器科で相談してみてください。また、前立腺には前立腺肥大症と前立腺がんのどちらかしか発生しないというわけではなく、同時に見つかることもあります。ですので、症状から前立腺がんを過度に恐れる必要はありませんが、自己判断せずに医療機関で相談することをお勧めします。

    2. 前立腺がんは進行するまで症状が出にくいのにどうやって発見されるのか?
    前立腺がんは初期の段階では症状がほとんどないために、症状を手がかりにして早期発見することは困難です。そこで、前立腺がんの腫瘍マーカーとして使われているPSAを血液検査で調べると、初期の段階でも見つけやすくなります。なおPSAについては「前立腺がんの検査で何がわかる?」で詳しく説明しているので参考にしてください。

    前立腺がんの心配がある人や検査を受けてみたいと思う人は検診などを利用してPSAの測定を行うことが可能です。PSAが基準値を超えた人には泌尿器科医による診察や検査が行われます。

    ただし、PSAは前立腺がん以外の病気でも上昇することがあります。つまり、PSAが基準値を超えたからといって必ず前立腺がんであるとは限りません。専門医と相談して、追加の検査の必要性などを相談してみてください。


    3. 前立腺がんが進行したときに現れやすい症状
    前立腺がんが進行すると症状が現れることがあります。症状は前立腺局所の進行によるものと、転移によるものの2つに大別されます。

    前立腺局所の進行によって現れる症状
    前立腺は膀胱からでたところにあり、尿道(尿が身体の外に出る通り道)を取り囲むように存在しています。

    【前立腺とその周りの臓器との関係】
    前立腺の場所

    前立腺とその周りの臓器との関係

    前立腺がんが進行して大きくなると、尿道や膀胱に影響を及ぼして、次のような症状が現れることがあります。

    尿がでなくなり下腹部が痛む、吐き気やむくみが現れる、尿に血が混ざる

    尿がでなくなり下腹部が痛む

    大きくなった前立腺がんが尿道を塞いで尿が膀胱から先に流れなくなり、尿を出せなくなります。この状態を尿閉と言います。また、尿が膀胱にたまり続けるために、下腹部が張って痛みが現れます。
    尿閉が長く続くと腎不全という状態が引き起こされ、命に危険が及ぶこともあります。疑われる症状(尿が出ない・下腹部が張るなど)が現れた人はすみやかに医療機関を受診してください。

    ■吐き気やむくみが現れる

    尿閉などによって尿の流れが停滞すると、腎臓に負担がかかりその機能が低下します。腎臓の機能が低下した状態を腎不全と言います。腎臓には余計な水分や老廃物を尿にする役割があるので、腎不全になると、水分や老廃物が身体に溜まって吐き気やむくみが現れます。

    ■尿に血が混ざる

    前立腺がんが大きくなると膀胱などの周囲の臓器を破壊することがあります。組織が壊れた結果、尿に血液が混ざります。

    血尿が出る原因は他にもあり、前立腺がんが原因であることは多くはありません、つまり、血尿が出たからと言って必ずしも前立腺がんであるというわけではありません。例えば、膀胱炎のような比較的治りやすい病気でももよく見られます。

    とはいえ、治療が必要な病気が存在していることが多いので、突然血尿が出た場合は、まずは泌尿器科医による診察を受けることをお勧めします。

    転移によって現れる症状
    前立腺がんが進行すると転移を起こすことがあり、転移による症状が現れます。転移する部位は骨が最も多く、その他ではリンパ節や肝臓、肺などがあります。

    ■骨転移による症状

    前立腺がんが転移する骨の部位は腰や、背中、大腿(太ももの)などです。手や足の先の骨に転移をすることはまれです。
    前立腺がんが転移しやすい場所
    前立腺がんの骨転移が起きやすい部位

    骨転移が起こると痛みが現れます。例えば、腰の骨に転移をすると腰痛が現れることがありますし、背中の骨に転移をすると背部痛を感じることがあります。症状が持続しやすい点が他の原因によるものとは異なります。骨への転移には放射線治療やホルモン治療がよく効き、症状を和らげることができます。

    ■骨以外の転移による症状

    骨転移ほど多くはありませんが、前立腺がんはリンパ節や、肝臓、肺に転移しやすいことが知られており、転移した部位それぞれで症状が異なります。例えば、足の付け根のリンパ節に転移した場合は足がむくみます。肝臓の転移では腹部の張りを自覚します。転移に対してはホルモン治療や抗がん剤治療が行われ、効果が現れれば、症状が緩和されます。

    100年間、感染症対策のバイブルになってきたK-Mモデル
    d I(t)/dt = (β S(t)- γ) I(t) ーーーー(1)
    は、感染症の実際の流行の何も再現できないことを説明します。4年前の論文の紹介です。

    Relations of parameters for describing the epidemic of COVID―19 by the Kermack―McKendrick model

    2020.02.26

    ーーーーーーーーーーー
    最初に、
    感染症は病原体の都合で流行する(11)K-Mモデルは実際の感染症の流行の諸々が記述できない
    2023年09月13日
    で説明した二つを、再度説明します。

    1.K-Mモデルでの終息には、集団の大半の感染が必要
    <=>実際の流行は、感染症者10%程度で終息する

    K-Mモデルでは集団の中で感染していない者、S(t)、がほとんどいなくなる、S(t)/S0<<1、まで流行が続きます。感染したことがある者の総和、R(t)=∫γI(t)dt、の割合、p(t) =R(t)/S0、の最終値、p(∞) 、はfinal sizeと呼ばれます。
    初期の増加速度 βS0 と減少速度γの比である基本再生産数、R0 = βS0 /γ 、に依存し、数値計算すると最終大きさp(∞) は図1になります。殆どの基本再生産数、R0>2、で、集団の8割くらいが感染、p(∞) ~0.8 、して流行が終息します。
    final size
    図1
    しかし、実際には、最も患者数の多いインフルエンザでも、患者数は1,000万人程度に過ぎません。国民の1割程度です。インフルエンザに罹ったが病院に行かず統計に表れない人もいるでしょうが、実際の患者8人で一人しか病院に行かない、と言うことは考え難いです。

    p(∞) ~0,.1ならば、R0 = βS0 /γ~1.1でβS0 -γ~0.1βS0で、感染者の増加は、気づかないくらい極めて遅いです。

    K-Mモデルは、実際の感染症の流行が記述できない、と言うことです。

    2.K-Mモデルは、常時の感染者を記述しない
    K-Mモデルでは、終息すると感染者数は0になります。
    しかし、実際の殆どの感染症では、常時、感染者がいます。図2はインフルエンザの場合です。ピークの1/1000程度ですが、夏にも患者はいます。
    2010-20の通年のインフルエンザ患者数
    図2:通年のインフルエンザ患者数
    K-Mモデル(式(1))は、初期、S(t)~S0、に
    d I(t)/dt ~ B(t) I(t) +C(t) I(t) ^2. 
    と近似できて、感染者がいれば、I(0) ≠ 0、必ず級数増大、I(t)~exp(B(t)t)、します。
    常時感染、 I(t) = A(t)、を許しません

    (3)K-Mモデルでは、実際の感染症の流行波形が再現できない
    d I(t)/dt = (β S(t)- γ) I(t) は、流行の最初はI(t)<<1で、S(t)~ S0なので、時定数tgrow~1/(βS0- γ)で級数的に増えます。
    t=∞ではS(t)~S()に飽和し、tend~1/( γ- βS())の時定数で級数的に減ります。

    流行の最初と終息時は、級数的に増加&減少します。

    最もK-Mモデルに近い波形の2018/19シーズンのインフルエンザ患者の推移を示します。
    裾は級数でフィッティングでき、時定数は立ち上がりが1.67日、立下りが2.5日でした。

    1/βS0=0.95日、1/γ=2.5日でK-Mモデルを計算したのが赤の曲線です。初期と終息時をフィッティングしました。

    2018-19のインフルエンザとK-Mモデルでのフィッティング
    図3:2018/19シーズンのインフルエンザの流行のK-Mモデルでのフィッティング。片対数表示

    しかし、ピーク付近の波形は大きくずれます。線形表示にするとより明確です。
    ピーク付近を一致させると裾波形は大きくずれます。全体を再現するのは不可能です。
    K-Mモデルではインフルエンザの流行の、初期、ピーク、終息期の全体は再現できません。
    2018-19のインフルエンザとK-Mモデルでのフィッティングー線形表示
    図4:2018/19シーズンのインフルエンザの流行のK-Mモデルでのフィッティング。線形表示

    ーーーーーーーーーーーーー
    (まとめ)
    K-Mモデルでは、実際の感染症は全く再現できない。
    1.終息するには、実際より遥かに多くの患者数が必要。
    2.常時の患者が説明不能。
    3.初期と終息時をフィッティングすると、ピーク付近の波形は大きくずれる。

    2009年にユネスコ無形文化遺産に登録された日立風流物を見に行きました。以前は「宮田風流物」と呼ばれて神峰神社の大祭のときだけ奉納していた、ということを読み、日立風流物の公演を見る前に、神峰神社を参拝しました。

    神峰神社の情報を集めました。

    下の方の駐車場が満車で、かみね公園の展望台まで登りました。お陰で、太平洋も見える、良い見晴らしが楽しめました。
    見晴台
    桜は満開でした。
    桜が満開
    日輪尊念仏供養の碑
    日輪尊念仏供養の碑
    遊園地、動物園のそばを下って行くと、途中に「日輪尊念仏供養の碑」がありました。

    「この地は、天道山と呼ばれ、陽春の一日を、日の出から日没まで鉦太鼓を叩いて念仏を唱えて太陽の恵みに感謝して祈ったところで、1762年に供養碑が建てられた。公園整備のために移設されていたが日立市制50周年(1989年)に元の位置に戻された、と説明がありました。   
     「日輪尊は、太陽を神格化した神で、観世音菩薩の化身ともされ、日輪を手に持った姿で表わされることがある。日輪には神使の三本足の烏が入っている像容もみられる。日輪尊は、宇宙の法則や自然現象を象徴する重要な概念で、仏教の修行や儀式において尊重される存在。密教では、日輪尊は修法の本尊としても用いられ、その霊験によって悪神を折伏し、善神として蘇らせるとされている。」そうです。

    ーーーーーーー
    (wikipedia)神峰神社
    <社殿は権現造りで、本殿と拝殿が一体化している。1945年に戦災で焼失し、1957年に再建された。
    鳥居は表参道に2つ裏参道に1つある。境内には手水舎、授与所、古札納所、風流物の山車の収蔵庫などの建物がある。二の鳥居の手前に獅子像があり、由緒は不明だが魔除けの御利益があると言われている。 >
    神峰神社
    獅子像のそばの、境内の桜も満開でした。
    獅子像と満開の桜

    元旦祭(1月1日)、追儺祭(節分の日)、例祭(5月10日)、月次祭(毎月1日、15日)の祭事があり、7年に1度の大祭禮(5月3日-5日)があります。
    「大行列を作る渡御のほか、大祭禮でしか見られない4台の「日立風流物」の一斉披露など地域一丸となって行います。鉾を持った5人の子供たちと共に神峰神社から出発し、ぐるりと町内を巡り、また神峰神社に戻ります。」

    (wikipedia)
    <創建は不詳。伝承では室町時代には神峰山山頂にまつられていたとされる。
    1428年に宮田村字山王に、1554年に神峰山中腹の鬼ヶ洗水という場所に遷座されたが、1688年に再度山頂に遷座された。この際、郷から遠い山頂では参拝に不便として、現在の拝殿がある場所に、里宮が造営された。
    1695年に徳川光圀の命により、宮田、会瀬、助川の総鎮守となり、大祭礼には宮田浜の宮・助川を経て会瀬まで渡御することが定められた。1871年に郷社に列せられた。
    神峰山山頂に奥の宮(山宮)がある。>

    国道6号沿いに鳥居があります。里宮表参道です。

    神峰神社の鳥居


    ーーーーーーーーーーーーー
    神峰神社の鳥居の横に日立市郷土博物館があります。
    日立市郷土博物館

    日立市郷土博物館 - Wikipedia
    1階の展示が日立の歴史で
    日立のあけぼの、縄文土器の時代、稲作のはじまり、ムラからクニヘ、律令の時代、信仰と政治、村と農民、海防農兵と助川海防城、近代社会への歩み、近世・近代の文化。
    2階の展示が日立の民俗と産業で
    日立のささら、日立風流物、年中行事、民間信仰、職人の道具、住まいとくらしの道具、仕事の道具、馬産、近代の漁業、日立鉱山の発展、日立製作所の創業、大正・昭和、まちのくらし、戦争と戦災
    でした。

    1階、2階ともに、充実した、おもいがけずとても面白い展示でした。例えば、前方後円墳の推移の説明は面白かったです。

    日立風流物を見るのが主目的だったので、じっくり見られなかったのが残念でした。

    梅毒が2010年以降に急増していることを紹介しました。
    2024年03月29日

    年齢分布から、不特定多数の相手との性交による感染、ではないだろう、ということを論じます。

    厚労省のサイトで
    性感染症報告数(2004年~2021年)|厚生労働省 (mhlw.go.jp)
    5つの性感染症について、年齢別の患者数の年次推移が公開されています。梅毒の表を図にします。

    男の患者は、24歳以下で少なく、55~59で谷になり、60歳以上で又多いですが、おおむね平坦な年齢分布です。年齢分布に大きな変化はなく、2011年から増え始め、2015年以降に激増しています。

    梅毒男

    女性の梅毒患者は、2013年以前では、59歳以下では概ね平坦で、男性の数分の一と少なく、60歳以上で多い年齢分布で、総数はほぼ一定でしたが
    梅毒女ー1999~2013


    2014年に29歳以下が増え、その後は、その年齢分布のままで、激増しました。
    梅毒女ー2008~

    2013年以前の女性で、20歳以上と比較して不特定との性交は少ないだろう19歳以下が20歳以上と同程度の患者数であったことと、性交頻度そのものが少ないだろう、不特定男性との性交はさらに少ないだろう60歳以上で、全世代中最大の患者数だったこと、この二つから、
    梅毒は、<不特定多数の相手との性交による感染、は主ではない>と言えます。

    男性の増加が2011年から見られた一方で、<女性患者の増加が3年も遅れた>2014年以降だったことも、感染の主経路は性交ではないと言えるでしょう。

    2011年以降の梅毒の急増が、性行動の変化に起因するのであれば、他の性病も類似の増加をするべきですが、<他の性病では、2011年以降の激増は見られない>ことも、梅毒の感染の主経路が性交ではないと言える理由です。

    <0歳児の梅毒患者は、不特定多数との性交渉を持つ母親からの伝染だと説明されています>が、上の状況から、その説明も疑わねばならないかも知れません。

    (まとめ)
    梅毒は、
    1.不特定多数の相手との性交による感染、ではないだろう、と言える理由
    ・2015年以降の激増中、年齢分布に大きな変化はない
    ・19歳以下が20歳以上と同程度の患者数であった
    ・60歳以上で、全世代中最大の患者数だった
    2.性交による伝染ではないだろう、と言える理由
    ・女性患者の増加が男性より3年も遅れた
    ・他の性病では、2011年以降の激増は見られない

    ワクチン接種の歴史を詳しく紹介し、ワクチン接種と麻疹死亡数の激減とに、全く、相関がないことを説明します。

    (前置き)
    麻しんが主因の死亡は、1950年から一定の勾配で級数的に激減し、一旦1995年から1999年まで増えたものの、2000年頃には1950年の1/500になり、その後は激減し、2005年にゼロになり、2006年以降2022年までの15年間、7年を除いて、麻疹による死亡者はゼロだったこと、を報告しました。

    麻疹患者の2000年の20倍以上の激増は過剰検診。ワクチンと無関係に1950年から級数的に激減
    2024年04月06日
    麻疹死亡の推移1950~
    図1:麻疹死亡数の推移(1950~)

    麻疹死亡の推移1995~
    図2:麻疹死亡数の推移(1995~)

    図1は、https://www.mhlw.go.jp/shingi/2002/11/s1112-6f.html#zu1aの図から読み取り、

    図2の
    1995年以降のデータは、人口動態統計の
    人口動態調査 人口動態統計 確定数 死亡 | ファイル | 統計データを探す | 政府統計の総合窓口 (e-stat.go.jp)
    下巻の8のファイル、「感染症による死亡数、死因(感染症分類)・都道府県(20大都市再掲)別」
    人口動態調査 人口動態統計 確定数 死亡 下巻 8 感染症による死亡数、死因(感染症分類)・都道府県(20大都市再掲)別 年次 2010年
    から得ました。

    ーーーーーーーーーーー
    (ワクチン接種の歴史)
    下記論文に、麻しんワクチンの接種の歴史が紹介されています。
    麻疹ウイルスの感染経路と現状
    多屋馨子 国立感染症研究所感染症疫学センター  
    ウィルス 第67巻,pp.17-24,2017

    1966年から麻疹ワクチンの「任意」接種が始まったが、接種率は低かった。
    1978年10月から小児(1~6歳)の定期予防接種対象疾患になった。
    1981年から麻疹患者の報告数の収集が始まった。
    1989年4月~1993年4月は、麻疹・おたふく風邪混合ワクチン(MMRワクチン)の選択が可になったが、無菌性髄膜炎の多発によりMMRワクチンの使用は中止になった。
    1995年4月から義務接種が努力義務接種に変わった。定期接種の対象も1歳~7.5歳に拡大。
    1999年第14週から、全国3,000の小児科定点医療機関と全国約500の基幹定点から成人麻疹の患者数が、毎週報告。
    2001年の流行を受けて、1歳児のワクチン接種を勧奨。
    2006年4月から定期接種の対象が、1期は一歳児、二期は小学校入学前一年の幼児に変更になり、6月から実施。ワクチンも、MR(麻疹、風疹混合)ワクチンに変更。
    2007年の流行を受けて、中学1年生(第3期)と高校3年生(第4期)への定期接種が5年の次元で実施。
    全数届け出疾患(註:新型コロナと同じ扱い)になり、保健所への届け出が義務付けられた。
    国内土着株D5は、2010年5月が最後の症例。2015年3月にWHOから、麻疹排除国に認定。
    2015年5月以降、患者の、氏名、生年月日、職業などの個人情報を保健所に提出することが義務。全例の検査診断(麻疹ウィルス遺伝子の分離と抗体価測定)(註:罹患数が少ないから可能)が義務。

    ーーーーーーーーーーーー
    (麻疹ウィルスの絶滅とワクチン接種との相関は認められない)
    関係者は口を揃えて、ワクチン接種が麻疹ウィルスを撲滅したと力説します。関係者としては当然したい主張ではあり、また、関係者の努力は多としますが、残念ながら、麻疹の激減と
    ワクチンとの相関は認め難いです。

    2000年に麻疹患者が20倍以上に激増しましたが、過剰検診以外の理由が思いつかない、と書きました。
    麻疹(はしか)ワクチンは感染抑制効果があるか?(5)ーー1975年から4桁も患者が減ったが、抗体保有率に無関係=>ワクチンは無意味

    2024年04月04日
     
    死亡者に2000年の激増が見られないことから、過剰検診だと結論できます。
    麻疹患者の2000年の20倍以上の激増は過剰検診。ワクチンと無関係に1950年から級数的に激減 
    2024年04月06日

    麻しんの流行。2010年以降は海外株
    図3:麻疹罹患者数の推移

    多屋氏の説明で、罹患者数が2000年にジャンプした理由が分かりました。
    1999年第14週から、全国3,000の小児科定点医療機関から小児の、全国約500の基幹定点から成人麻疹の患者数が、毎週報告されるようになったからでした。

    ある病の流行は、罹患数ではなく、死亡数、迅速性を求める場合は陽性率で議論すべきことが改めて確認できます。
    pcr検査「陽性率」はコロナ流行の最も信頼できる指標。東京のピークは判明日で8/11だった。9月中旬にほぼ終息 
    2021年08月27日

    「PCR test positive rate revealing the real infection epidemic status examined in the COVID-19 epidemic in Tokyo 」が査読前医学論文投稿サイトmedRxivで公開 
    2021年09月22日 


    麻しん死亡率の推移を示す図1と図2に、多屋氏が説明するワクチン接種の歴史を記入しました。麻疹の激減とワクチンとの相関は認められません

    1.
    1966年に麻疹ワクチンの「任意」接種が始まっても、
    1978年10月から小児(1~6歳)の定期予防接種対象疾患になっても、死亡数の減少速度に変化はありません。
    減少の原因は不明ですが、ワクチン接種とは相関がありません。   

    2.
    図2の2000年からの激減にも、ワクチン接種との相関は見られません。
    多屋氏の説明では2002年から1歳児の接種の勧奨が始まりましたが、その2年前も前に、小児の罹患の激減が始まりました。
    中学1年生(第3期)と高校3年生(第4期)への定期接種が5年の次元で2007年に実施されましたが、その5年も前から、成人の罹患が激減しました。

    (まとめ)
    麻しん患者は激減しましたが、その理由の理解を間違えると、正しい対策を取ることはできません。新型コロナの場合で起きた、いろいろな感染症で起きた、悲劇を繰り返すだけです。

    麻疹が絶滅した原因は何だったかを、単純にワクチンに押し付ける思考停止をしないで、雑念を排して解明しましょう。全ての感染症の絶滅に資するでしょう。

    0~1歳児のデータの詳細な解析から、抗体の寿命は半年程度であることと、抗体は感染の結果に過ぎず、感染抑制効果はない、ことが分かりました。

    年齢別の麻疹罹患率は図1の左図ですが、<抗体保有者は感染しない>と仮定すると「真の感染率」は右図の年齢依存になります。乳幼児の病、ではなくなってしまいます。つまり、この仮定は間違い、と言うことです。

    抗体を獲得するのが目的であるワクチンは無用と言うことになります。
    年齢別麻疹罹患率1999~2002
    図1:(左)年齢別麻疹罹患率、(右)抗体保有者は罹患しないと仮定した場合の罹患率

    (詳細説明)
    ーーーーーーーーーー
    (麻疹は乳幼児の病だった)
    先ず、0~4歳の死亡者数の推移です。1987年から1995年にかけて減った原因と、そのあとに2000年にかけて増えた理由は不明ですが、1980年等の数年を除き、0歳児より1歳児の死亡が多いです。
    「麻疹の現状と今後の麻疹対策について」(国立感染症研究所 感染症情報センター)
    の図1cです。
    年齢別麻疹死亡の推移1980~

    図1:年齢別死亡

    1999年の第14週から2002年の第29週にかけての麻疹罹患者の年齢分布を示します。
    上記資料の図5aです。
    年齢別麻疹罹患数1999~2002
    図2:年齢別罹患
    罹患者も、乳児(1歳未満の合計)より1歳児の方が多いです。
    そして、6か月未満は殆ど発症しません。

    (年齢別抗体保有率)
    感染を抑制すると期待される抗体の保有率の年齢依存を見ます。
    2000年度麻疹血清疫学調査ならびにワクチン接種率調査~感染症流行予測調査より~
    の図11.年齢別麻しんワクチン接種率
    です。
    年齢別麻疹抗体保有率2000年
    図3:年齢別抗体保有率

    6か月未満の乳児の抗体保有率は80%もありましたが、6~11月児では30%でした。出生時及び授乳時に、母親経由で麻疹に感染して抗体ができるが、抗体の寿命は半年程度、と理解できます。

    6か月未満の乳児は、ワクチン接種率はゼロなのに、抗体保有率は80%もあるので、抗体を得るのが目的のワクチンは不要、と言うことです。ワクチン接種率は1歳児で50%で、2歳児で80%でしたが

    麻疹、風疹、MMRワクチン接種率 (niid.go.jp)

    年齢別麻疹ワクチン接種率2000年
    図4:年齢別ワクチン接種率

    ワクチン接種をしなくても、年齢が高くなるにつれて抗体保有率は高くなります(図5)。
    病原微生物検出情報 記事一覧 (niid.go.jp)Vol.14 (1993/9[163])<特集>麻疹1990~1992の図6
    図6.ワクチン接種歴別麻疹抗体保有状況,1990~91年(厚生省伝染病院行予測調査) (niid.go.jp)

    ワクチン接種有無の麻疹ウィルスへの抗体保有率の1990年の年齢依存
    図5:ワクチン接種、非接種者の抗体保有率の比較

    図3と図5から、抗体を得るためのワクチンは不要であることが分かります。抗体に感染抑制効果があるかどうかを次に論じます。

    (抗体は感染抑制をしない)
    ワクチンは、抗体を得て抗体により感染を抑制するのが目的ですが、
    感染の結果としてできる抗体は、感染を抑制をしないことが、図1の右図で分かります。

    抗体率から、抗体を持っている人は感染しないと仮定した時の<真の>罹患率が計算できます。図3の保有率を用いて図2の罹患者数から計算した<真の>罹患率が図1の右図です。
    幼児の病ではなくなってしまいます。到底、受け入れられません。<抗体を持っている人は感染しない>という仮定、が間違い、と言うことです。

    (抗体は感染したことの証でしかない)
    上述の様に、6か月未満の乳児の抗体保有率が80%もあり、これは、母体からの感染の結果だと言えます。
    6~11月乳児の抗体保有率が30%にも下がることから、(どのような実験で確認したかの論文を読んでないので確実と言うわけではないですが)麻しんウィルスへの抗体の寿命は永久だとの説明は間違いだろうと思います。抗体の寿命はせいぜい半年でしょう。

    ワクチン接種せずとも、年齢を重ねるにつれて抗体保有率が高くなるのは、活動が活発になって、世に溢れている麻疹ウィルスに接する機会が増えるから、だろうと考えます。

    10歳以上の抗体保持率が95%以上であるのは、数十年前に獲得した抗体がいつまでも保持されるのではなく、常時抗体を獲得している、と考えます。


    (結論)

    ワクチン接種しない6月未満乳児の抗体保有率が80%もある(図3)ことから、抗体を増やすことに関して、ワクチンは不要です。

    2.
    抗体があれば感染しないという仮定をすると、極めておかしな年齢別罹患率になる(図1右図)ので、この仮定は間違い、つまり、抗体は麻疹感染の抑制効果がないです。

    3.
    6~11月乳児の抗体保有率が抗体は、6月未満乳児の半分以下である(図3)ことから、抗体の寿命はせいぜい半年程度。

    4.
    ワクチン未接種者の抗体保有率が年齢とともに高くなり、5歳以上で80%を越える(図4)ことから、環境には麻疹ウィルスが溢れており、人々は常時抗体を獲得している。

    5.
    ワクチン無接種で抗体は獲得でき(図5。感染する結果に過ぎないが)、また、抗体は感染を抑制しない(図1右図)ので、ワクチンは不要です。

    2000年に麻疹患者が20倍以上に激増しましたが、過剰検診以外の理由が思いつかない、と書きました。
    麻疹(はしか)ワクチンは感染抑制効果があるか?(5)ーー1975年から4桁も患者が減ったが、抗体保有率に無関係=>ワクチンは無意味

    2024年04月04日
     
    麻しんの流行。2010年以降は海外株
    図1:麻疹患者数の推移
    過剰検診であることを確認するため、死亡数の推移を見ました。
    ーーーーーーーーーーーーー
    人口動態統計で
    人口動態調査 人口動態統計 確定数 死亡 | ファイル | 統計データを探す | 政府統計の総合窓口 (e-stat.go.jp)
    1995年以降は、下巻の8のファイル、「感染症による死亡数、死因(感染症分類)・都道府県(20大都市再掲)別」
    人口動態調査 人口動態統計 確定数 死亡 下巻 8 感染症による死亡数、死因(感染症分類)・都道府県(20大都市再掲)別 年次 2010年
    に死因が麻疹の死亡数のデータがあります。
    それ以前の数字はhttps://www.mhlw.go.jp/shingi/2002/11/s1112-6f.html#zu1aの図から読み取りました。
    麻疹死亡の推移1950~
    図2:麻疹死亡数の推移(1950~)
    死亡数は1950年から一定の勾配で級数的に減少し、2000年には1950年の1/500に減っています。

    人口動態統計に載っている1995年以降の推移を示します。
    1995~1999にかけて3倍近く増えましたが、2000年は、1997年と同程度でした。図1の2000年の10倍程度の激増は、明らかに検査数の激増によるものでした。
    麻疹死亡の推移1995~
    図3:麻疹死亡数の推移(1995~)
    2006年以降2022年までの15年間、7年を除いて、麻疹による死亡者はゼロでした。
    1990年代は重要でしたが、現在では、麻疹も過剰検診です。
    甲状腺がん手術大国の韓国で、中央日報の社説が「過剰診断・手術防ぐべき」と主張。わが国も、甲状腺がん「過剰診断」大国になるのか?
    2014年03月31日

    内視鏡診断は、見てはいけない小さな胃がんを見る『過剰診断』か?ーー胃がん検診の厚労省の新指針で、内視鏡を推奨せず 
    2013年08月20日 
     
    整形大国韓国では、甲状腺検診ブーム。がん保険と医療供給側の要望で普及ーー診断された人の100%が手術
    2013年06月20日

    (結論)
    2000年の麻疹患者の20倍以上への激増は過剰検診に依るもの。

    麻疹Part2:麻疹の検査方法とは?
    柳田絵美衣 2023/6/2(金) 8:05

    IgM抗体測定とPCR法によるウイルス遺伝子の検出が原則。

    〇ウイルスの証明
    急性期(カタル期~発疹出現初期)に血液、咽頭ぬぐい液、尿から培養による麻疹ウイルス分離、麻疹ウイルス遺伝子の検出(RT-PCR法またはリアルタイムPCR法)を行う。

    〇血清学的診断
    麻疹ウイルスIgM抗体陽性または、急性期・回復期のペア血清で、麻疹ウイルスIgG抗体価が4倍以上上昇することを証明する。ウイルスに感染すると血清中の抗体価が上昇する。急性期と回復期の2点(ペア血清)で抗体検査をし、抗体価が4倍以上上昇した場合、ウイルスがあったと判定される。抗体の免疫グロブリンがIgMタイプであれば初期感染と推定される。

    抗体価の検査は健康保険適用だが、発疹出現4~28日間に検査を行う(早すぎると陰性を示すことがある)。発症後4か月以上経過しても弱陽性となることがあること、麻疹含有ワクチン接種後8~56日間は陽性になることがあるため、ウイルス遺伝子の検出が重要となる。
    (註:IgMが感染時に生成されてすぐに消え、長期の寿命を持つIgGが感染履歴を記録することを
    IgMとIgG
    ウイルス感染時のIgMとIgG抗体価の変化

    ●抗体測定法
    1.階段血清希釈法
    血清を2倍階段希釈後、ウイルスまたは抗原を添加し、所定の時間反応させた後に測定。抗体価は通常「倍」で表示される。

     〇粒子凝集法 particle agglutination test (PA法)
    ウイルス抗原を結合させたラテックスビーズと血清抗体の反応によるビーズの凝集を利用した抗体測定法。簡便法として多数検体のスクリーニングに適しているが、感度と特異度はあまり高くない。

    方法:ゼラチンを粒型化した人工担体に麻疹の成分を吸着させたものを用いる。この粒子が検体中の麻疹に対する抗体と反応して凝集することを利用した粒子凝集反応。

    凝集反応検査をする場合の階段希釈方法    (著者作図)
    凝集反応の判定   (著書作図)
    判定:麻疹の判定では、1:16以上が陽性である。発症予防には1:128以上のPA抗体価が求められている。医療従事者では<1:16の陰性者にはあと2回、1:16~1:128の場合にはあと1回の追加接種が求められる。

    2.一定濃度血清希釈法
    複数の標準血清の測定値から検量線を作製し、測定値から抗体価を求める。EIA法などではIgM抗体やIgG抗体など免疫グロブリン分画別の抗体価も測定が可能。

    〇標識抗体法
    麻疹検査ではEIA:enzyme immunoassay法が多く用いられる
    抗体を酵素で標識して、微量物質の検出を行う。抗原抗体反応の特異性を利用して、抗原または抗体を試験管内で反応させ、反応した抗体量を標識分子の量として定量する。

    ※抗原と抗体は特異的に反応を起こす。結合した複合物は免疫複合物と呼ばれる。この反応は生体内でも生体外でも起こる。抗原抗体反応には最適比があり、一定の割合で反応した場合、複合物が最大になる。

    抗原と抗体の量による免疫複合物(沈殿物)量のグラフイメージ(著者作図)
    ・抗体価の有意な変動
    IgM抗体価が測定できない場合、あるいはEIA法でIgG抗体価を測定した場合、ペア血清で抗体価の「有意な変動」があれば、当該ウイルスによる感染の急性期と判断される。

    EIAとELISAの違いを分かりやすく比較 

    キソスタ (hatenablog.com) 2023-07-19

    EIA法酵素免疫分析
    酵素が、抗原や抗体に、直接結合。
    酵素の基質は試料中に存在するか、試料に添加。
    酵素が基質と反応すると、反応産物が生成。
    反応産物の濃度や色が抗原や抗体の量と相関。

    ELISA法酵素連結免疫吸着分析
    酵素が、抗原や抗体に、間接結合。
    二次抗体に酵素が結合。
    酵素の基質は最後のステップで添加。
    酵素が基質と反応すると、反応産物が固相担体上に残る。
    反応産物の吸光度が抗原や抗体の量と相関。

    EIAは比較的簡便で安価。ELISAは比較的高感度で特異的。

    ーーーーーーーーーーーー
    ELISA(英: enzyme-linked immunosorbent assay) は、試料中に含まれる抗体あるいは抗原の濃度を検出・定量する際に用いられる方法。「酵素結合免疫吸着法」などの訳語があるが定訳はなく、一般に「エライサ」あるいは「エライザ」と呼ばれる。

    生体試料中には、種々雑多なタンパク質が存在する。特定のタンパク質を検出・定量するには、特異性の高さ(夾雑物からどれだけ正確に区別できるか)と定量性の良さ(微量であっても検出できる、あるいは低濃度における再現性の良さ)が求められる。

    ELISAは特異性の高い抗原抗体反応を利用し、酵素反応に基づく発色・発光をシグナルに用いることで上記の条件をクリアしている。ELISAは、同様の原理に基づく放射免疫測定(ラジオイムノアッセイ、RIA)と比べて、放射性物質を用いないため安全性が高く、安価で簡便であるため、現在微量タンパク質や感染微生物抗原の検出・定量に広く用いられている。

    方法
    直接吸着法
    1.試料溶液を固相(プラスチックチューブ、マイクロプレート、ガラスビーズなど)に接触させて吸着させる。
    2.抗原抗体反応および酵素反応に関与しないタンパク質(スキムミルク、アルブミンなど)を固相に吸着させる(ブロッキング)。
    3.目的のタンパク質に特異的な抗体を固相に接触させて、抗原抗体反応を起こさせる。
    4.反応しなかった余分な抗体を洗い流す。

    3.のステップで加えた抗体に酵素が標識していない場合は、3.の抗体(一次抗体)と特異的に反応する抗体(酵素標識済み、二次抗体)を作用させる。その後、余分な二次抗体を洗い流す。

    5.酵素の基質(通常、発色あるいは発光試薬)を加え、酵素反応の生成物を検出する。
    最初のステップにおいて目的タンパク質以外のタンパク質が多量に存在する場合は、それらのタンパク質の影響を受けてしまうため、定量性が悪くなる。
    タンパク質によっては微量な領域での吸着が定量的でなくなるなど、タンパク質の量および性質により定量性が悪くなる欠点を持っている。

    (ELISA(サンドイッチ法) の図での説明)
    (1) 抗体(Y)を固相に吸着。ブロッキング操作は省略。
    (2) 定量したいタンパク質(楕円)が抗原抗体反応により結合。
    (3) 別の抗体(Y)を加えた。
    本文の3に相当する段階。後から加えた抗体は抗原分子上の異なる部位に結合するものでなければならない。洗い流し処理は省略。
    (4) 酵素(●)で標識した二次抗体を作用。
    (5) 酵素に基質(☆)を加えて発光させる(☆→★)

    ELISA法

    サンドイッチ法
    1.目的タンパク質(抗原)に対する抗体(捕獲抗体)を固相に吸着させる。
    2.スキムミルクなどで固相のブロッキングを行う。
    3.固相に試料溶液および捕獲抗体とは別のエピトープを認識する一次抗体を加える。この時点で、固相 - 捕獲抗体 - 抗原 - 一次抗体という複合体が固相表面に形成される。
    4.反応しなかった抗原および一次抗体を洗い流す。
    一次抗体に酵素が標識されていない場合は、酵素標識済みの二次抗体を作用させる。その後、余分な二次抗体を洗い流す。

    5.酵素の基質(通常、発色あるいは発光試薬)を加え、酵素反応の生成物を検出する。
    本方法を行うには、同一タンパク質を異なるエピトープで認識する抗体が必要となる。また、抗体の立体障害を考えると、近位ではなく遠位(アミノ酸配列上でなく立体構造上の遠位)を認識することが望ましい。最大の利点は、同一タンパク質を捕獲抗体と一次抗体の2種類の抗体を用いて検出する性質上、特異性が非常に高い方法である。ただし、固相に吸着させる捕獲抗体の量が少ない場合、試料中の抗原は捕獲抗体以上の量が結合できないため、定量性が悪くなることがある。

    競合法
    1.既知濃度の目的タンパク質(抗原)標準品を一定量固相に吸着させる。
    2.スキムミルクなどで固相のブロッキングを行う。
    3.固相に試料および一次抗体を作用させる。
    4.反応しなかった抗原および一次抗体を洗い流す。
    一次抗体に酵素が標識されていない場合は、酵素標識済みの二次抗体を作用させる。その後、余分な二次抗体を洗い流す。
    5.酵素の基質(通常、発色あるいは発光試薬)を加え、酵素反応の生成物を検出する。
    この方法は、直接吸着法における微量タンパク質の定量性の低さを改善し、抗原に対して一種類の抗体で高感度に検出できる方法である。ただし、直接結合法と同様に用いる抗体によっては、交差反応により十分な特異性が得られないときがある。このような場合には何らかの前処理が必要となる。

    歴史
    1966年に中根一穂とPierceによって酵素を利用して抗体の結合部位を酵素反応によって発色することにより抗原物質の所在を検出する手法が開発された。

    1960年代、オランダで免疫化学を応用した妊娠検査薬を販売していた製薬会社であるオルガノンはリトマス試験紙のように手軽に検査できる手法の開発に取り組んでおり、アントン・スールス(Anton Schuurs)は、発色する酵素と抗原抗体反応を組合せるアイディアを提案してバウケ・ファン・ウェーメン(Bauke van Weemen)と研究に着手してその結果を1971年に発表した。1974年に酵素を利用する手法を発表した。1969年、ストックホルム大学のピーター・パールマン(Peter Perlmann)の研究室に加わったエヴァ・エングヴァール(Eva Engvall)は、RIAに代わる定量的検出系の構築に着手した。また、同時期フランスのストラティス・アヴラメアス(Stratis Avrameas)も同様の研究を進めていた。

    麻しんは1975年から4桁も減りましたが、抗体保有率とは全く無関係でした。これを見る限りではワクチンは無意味、と結論されます。
    2000年の患者数の激増は、検査数の増加以外の理由は思いつきません。
    麻しんの流行。2010年以降は海外株
    図1
    ーーーーーーーーーー
    2006年までは、麻疹患者は2歳以下が殆どでした。
    はしかの年齢分布2000年まで
    図2
    乳幼児の病から青年の病に変わったのは2007年以降です。
    はしかの年齢分布2004~2007年

    図3
    1980年~2006年の間年齢分布に変化はなかったですが、患者数は大きく変化しました。
    抗体保有率との相関を見ます。

    ーーーーーーーーーーーーーー
    (抗体保有率との相関)
    抗体保有率は、2000年から全く変化がありません。
    麻疹ウィルスへの抗体保有率の2000~2007年の年齢依存
    図4
    しかし、患者数は図5に見るように、2006年まで激減しました。
    激減の理由は抗体保有率ではなかったのです。
    土着麻疹ウィルスの流行は初夏1999-2007

    図5
    図6に見るように、1980年~1990年の1歳の抗体保有率は40%でしたが、この時の患者数は、1歳児の抗体保有率が70%だった2000年の数分の一でした(図1)。
    抗体保有率が低い方が患者数が低いという、大きく矛盾した結果でした。
    麻疹ウィルスへの抗体保有率の1990年以前、9歳以下
    ーーーーーーーーーーーーーー
    (結論)
    1.抗体保有率は、患者数と全く相関がありませんでした。抗体保有率を高くするのがワクチンの目的なので、ワクチンは無意味、と言うことになります。
    2.1975年から一定の割合で麻しん患者が級数的に減っています。この理由は不明です。栄養状態を含めた生活環境の向上くらいしか思いつきません。
    3.2000年に激増した理由ですが、検査数の増加くらいしか、思いつきません。

    国立感染症研究所のホームページの記事
    麻疹の抗体保有状況―2022年度感染症流行予測調査(暫定結果) (niid.go.jp)

    の図2に、1歳児麻疹PA抗体保有率(1:16以上)の2006~2022年度の推移が示されています。
    https://www.niid.go.jp/niid/images/iasr/2023/9/523r05f02.gif  

    一歳児の麻疹ウィルス抗体保有率2006~
    殆ど変化がありません。

    2022年に、2歳以上の抗体保有率は95%以上ですが、
    麻疹ウィルスへの抗体保有率の2022年の年齢依存

    2001年にも95%以上だったことから

    2006年以降の抗体保有率は一定(飽和)だったことが分かります。

    ところが、はしか(麻疹)罹患率は、2006年以降激減しています。
    はしかの推移2005~
    少なくとも2006年以降の麻疹罹患者の激減の理由は「抗体率ではない」、と言えます。

    先の記事で、2022年に、2歳以上の抗体保有率は95%以上であることを紹介しました。
    麻疹(はしか)ワクチンに感染抑制効果があるか(2)--抗体の寿命は永遠。2歳以上は抗体保有率95%超

    2024年03月30日
    このデータでは、抗体の獲得がワクチン接種だけによるものか、自然に獲得する抗体の割合はどれだけかがハッキリしません。そこで、非接種者の抗体保有率のデータを探しました。

    1.接種せずとも相当の効率で抗体は作られること。
    2.接種しても抗体獲得率は100%ではないこと。
    が分かりました。

    ーーーーーーーーーーー
    病原微生物検出情報 記事一覧 (niid.go.jp)
    Vol.14 (1993/9[163])<特集>麻疹1990~1992の図6に

    図6.ワクチン接種歴別麻疹抗体保有状況,1990~91年(厚生省伝染病院行予測調査) (niid.go.jp)

    1990年に於ける、年齢別のワクチン接種有無での麻疹抗体保有率が載っています。

    ワクチン接種有無の麻疹ウィルスへの抗体保有率の1990年の年齢依存
    図1
    7歳以上では、ワクチン接種は不要、と言うことを示します。

    国立感染症研究所のホームページの下記記事
    「麻疹の現状と今後の麻疹対策について」(国立感染症研究所 感染症情報センター) (mhlw.go.jp) 
    の図10には、2001年に於ける、ワクチン接種しなかった人の年齢別抗体保有率が報告されています。

    ワクチン接種なし者の麻疹ウィルスへの抗体保有率の2001年の年齢依存

    図2
    全体の抗体保有率(上記資料の図9)と比べることで、ワクチン接種により、9歳以下の抗体保有率が倍になったことが分かりますが、10歳以上では、ワクチン接種をしないでも抗体保有率は90%を越えていました。

    麻疹ウィルスへの抗体保有率の2001年の年齢依存

    1990年から10年の時を経て2001年になっても(図1と図2)変化は見えません。きっと、今も変わらないでしょう。

    ワクチン接種せずとも、10歳以上になれば抗体が獲得されます。10歳以上では、ワクチンは不要と言えそうです。

    10歳未満では、ワクチン接種で抗体保有率が高まる様ですが、抗体を獲得すれば罹患率が減るのか?を調べて見ることにします。

    Microsoft one driveがしつこく、有料になる容量を増やせと言い続けますが、無視してきました。

    余りにもうるさいので
    今日、全部のファイルを削除しました。

    それでも、使用容量は殆ど変わらず、232%使用!!
    One driveの悪質な詐欺

    見えない巨大ファイルがある?
    そんなの共用できないじゃないか!!

    極めて悪質な詐欺です。何か誤解していますか?

    癌の罹患率の多い順を調べました。
    集計表ダウンロード:[国立がん研究センター がん統計] (ganjoho.jp)

    年齢が高くなると罹患率が高くなりますが、80歳代の罹患率(患者数/その年齢の人口)で比べると、前立腺がんが長期に亘って増加を続けています。1990年から漸減している胃癌を2000年に抜き、2019年には、2010年から減っている男性の肺がんと並んで一位の罹患率になっています。
    トップ死亡率の癌の推移

    2022年に、死亡数では6位の前立腺癌は「罹患数」では単独一位です。
    cancer_statistics_2023.pdf (ganjoho.jp)
    トップ死亡率癌2022年予測-2

    前立腺がんの年齢別罹患率の推移です。
    前立腺癌

    前立腺がん増の一因は、PSA検査の普及でしょう。死亡数が少なくないので、必ずしもそうとも言えないですが、過剰診断気味です。
    甲状腺検診ブームの韓国で、女性の罹患率の近年の異常な増加にも拘わらず、死亡者数に全く変化なし 
    2014年03月05日


    前立腺液に含まれるタンパク質PSA(前立腺特異抗原)が、癌の影響で前立腺組織が壊れると血液中に漏れ出し、血液検査で異常が発見できます。
    50~64歳 3.0ng/mL以下、65~69歳3.5ng/mL以下、70歳〜4.0ng/mL以下が正常値とされ、
    PSA検査 - 泌尿器科における治療法 - 東京八重洲クリニック (tokyo-yaesu-cl.jp)
    P
    SA値が増えると、前立腺癌発見率が増え、PSAが30を越えると70%の確率で癌の様です。
    PSA値と前立腺がん発見率

    殆どの癌が1990年まで増えたのは、他の死因での死亡が減ったからでしょう。

    男性の肺がん率は、喫煙率と密接な相関があります。喫煙率が減ったので肺がんが減りました。
    「風立ちぬ」の無闇な喫煙シーンは、時代描写に必須って本当?ーー史実の捻じ曲げは、宮崎駿氏ではないか?大正~昭和初期の喫煙率は、かなり低かった筈 
    2013年09月13日


    胃癌が減っているのは、食環境が良くなっているからでしょう。
    甲状腺がんの死亡率が他のがんより二桁も低いのは、がんが食物の取り込みで発生するから?
    2012年09月12日


    乳癌が急増しているのは、出産が減ったからでしょう。
    妊娠・出産の経験と乳がんの関係は? | 乳がん情報ナビ (nyugannavi.info)

    麻疹(はしか)ワクチンに感染抑制効果があるかの調査のその(2)です。

    感染研のホームページの下記の記事中の
    IASR 44(9), 2023【特集】麻疹 2023年7月現在 (niid.go.jp)
    2023年9月号
    図4にhttps://www.niid.go.jp/niid/images/iasr/2023/9/523tf04.gif
    2022年度の感染症流行予測調査での, 22都道府県の地衛研による,ゼラチン粒子凝集(PA)法による麻疹抗体価測定結果が示されています。

    麻疹ウィルスへの抗体保有率の2022年度の年齢依存

    2歳以上で95%を越える抗体保有率です。1歳児でも80%もが麻疹ウィルスへの抗体を持っています。
    譬えワクチンが抗体を増やす効果があるとしても、1歳以上のワクチン接種は不要です。

    図を見ると、如何にも、ワクチンによって抗体が増えた様に見えますが、ワクチン接種率が高いだけだとみることができます。ワクチン接種が抗体を増やしたかどうかは、不明です。非接種者の抗体保有率のデータが必須です。

    性病が増えているという話をラジオで聞いたので、調べました。
    国立感染症研究所のサイト
    感染症発生動向調査週報ダウンロード
    からダウンロードできるIDWR(感染症週報)には、梅毒しか載っていません。各年の最終週の年積算値の推移を図にしました。

    それまでは700人程度でほぼ一定でしたが、2010年から級数的に増え、2023年に1.5万人弱になっています。

    梅毒患者数の推移
    確かに、異常に増えています。2010年以降に何があったのでしょう?

    2007年に麻疹患者の年齢分布が激変しましたが、変異種の変化(土着株=>海外株)以外の要因によると言えます。

    ーーーーーーーーー
    2010年までに土着株は絶滅し、以降は海外株、との厚労省の説明
    麻しんウィルス。土着株は2010年で絶滅。以降は海外株のみ
    2024年03月26日

    を検証する2回目では、
    麻しんの流行。2010年以降は海外株
    図1:1975~2023年の麻疹感染者数
    患者の年齢分布の違いを見ます。

    先ず、国内株の患者(1982~1992年と2000年)の年齢分布を示します。
    「麻疹の現状と今後の麻疹対策について」(国立感染症研究所 感染症情報センター) (mhlw.go.jp)
    2000年に、0歳と1歳で多く、2歳以上で以上で級数的に少なかったです。10歳以上で多く見えるのは10歳以上では5年単位、9歳以下では1歳毎の数だからです。
    1982~1992年を見ると、10歳以上の割合が増えました。

    図1の1999年までの患者数の激減で年齢分布に大きな変化がなかったことが、図2で分かりますが、2000~2006年の激増でも年齢分布に変化がなかったことは図7で分かります。土着ウィルスの流行で、患者数は大きく変化しましたが、年齢分布には変化はなかったのです。
    はしかの年齢分布2000年まで
    図2:1982~1992、2000年の麻疹感染年齢分布
    次に、海外株の感染者の年齢分布です。
    2016年と2019年には、30歳をピークに10~50歳と広い年齢の患者でした。
    海外株になると、「乳児の病」から「青年の病」に変わったのです。
    はしかの年齢分布2016,2019年
    図3:2016,19年の麻疹感染年齢分布
    2007年と2008年は、20歳がピークでした。厚労省は2010年以降に海外株になったと説明しますが、それより前に、若者の病に変わっています。
    はしかの年齢分布2007,2008年
    図4:2007,8年の麻疹感染年齢分布
    2011~2014年には、上の4年ほどの大きなピークではなかったですが、やはり、若者の病でした。
    はしかの年齢分布2011~14
    図5:2011~14年の麻疹感染年齢分布
    2009年と2010年は、それ以降とはかなり異なり、1歳以下の乳児の病だったと言えます。
    はしかの年齢分布2009,2010年
    図6:2009,10年の麻疹感染年齢分布
    2004~2007年の流行を示します。
    ウイルス 2007年、第57巻,pp.171-180,麻疹ウイルス―最近の我が国における麻疹の疫学状況,今後の対策 岡部信彦
    6~11か月の患者数を1歳以上と比較するには2倍にする必要があります。また、10歳以上の患者数は5年の合計なので9歳以下と比較する時は1/5にする必要があります。

    半年未満の患者は6~11か月の1/10程度で、6~11か月が最も患者が多く、年齢とともに徐々に少なくなっていました。
    2004=>2006年で患者数が1/3程度に減りましたが、年齢分布はほぼ同じでした。

    2007年に患者数が激増しましたが、9歳以下では2004年と同程度で、10歳以上が激増しました。
    はしかは小児麻疹と成人麻疹と、別の病院で診察する様で、成人麻疹は、2007年は2004年の10倍以上でした。
    はしかの年齢分布2004~2007年

    図7:2004~2007年の麻疹感染年齢分布

    ーーーーーーーーーーーー
    (まとめ)
    2006年までは、麻疹は、6~11月が最も多い、乳幼児の病気でした。
    厚労省の説明では2010年以降に海外株になったということで、図3に見るように、完全に青年の病になりましたが、変化は2007年に起きました。

    年齢分布の激変は、変異種の変化(土着株=>海外株)以外の要因によると言えます。

    土着株は5月中旬に流行しましたが、海外株の流行時期は不規則です。

    ーーーーーーーーーー
    土着の麻疹ウィルスは2010年で絶滅したとの厚労省の説明を検証します。
    麻しんウィルス。土着株は2010年で絶滅。以降は海外株のみ
    2024年03月26日

    Reported cases of measles
    Reported cases of measles, 2022 (ourworldindata.org)
    麻しんの流行。2010年以降は海外株
    図1:1975~2023年の麻疹感染者数

    第一回目は、流行時期が大きく変わったかどうかを見ます。

    1992~2002年には、殆ど同じ季節変化をしました。5月中旬がピークでした。
    土着麻疹ウィルスの流行は初夏
    図2:1982~1992年の週ごとの定点当たり麻疹患者数
    2007年まで、ピークの時期に変化はなかったです。
    患者数は、1990~2007年に大きく変動しました(図1~3)が流行時期は全く同じ(図3)でした。
    変異株に変化はなかった、と言っても良いでしょう。
    ウイルス 2007年、第57巻,pp.171-180,麻疹ウイルス―最近の我が国における麻疹の疫学状況,今後の対策 岡部信彦
    土着麻疹ウィルスの流行は初夏1999-2007
    図3:1999~2007年の週ごとの定点当たり麻疹患者数

    2010年以降の流行は、不規則です。
    2008, 2014, 2019年には、主に5月までに流行しましたが、2010年、2013年は秋まで流行しました。
    海外株麻疹ウィルスの流行はランダム
    図4:2008,10,13,14,19年の週ごとの麻疹患者数
    (まとめ)
    土着株の流行は毎年5月中旬がピークでしたが、海外株の流行時期は不規則でした。
    2008年は、季節性が崩れかけています。土着株の断末魔の叫びだったのでしょうか?

    厚生労働省が以下の説明をしています。とても面白いです。

    1.2010年以前は土着株、2010年以降は海外株
    2.土着株は春から初夏にかけて流行した、海外株は時期不動

    これらの説明が本当かどうかを確認し、いくつかの記事に分けて報告します。

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    麻しんについて|厚生労働省 (mhlw.go.jp)


    1.平成20年より5年間、中学1年相当、高校3年相当の年代に2回目の麻しんワクチン接種を受ける機会を設けたことなどで(註:本当か?)、
    平成21年以降10~20代の患者数は激減しました。

    2.平成22年11月以降のウイルス分離・検出状況については、海外由来型のみ認めており、
    平成19・20年に国内で大流行の原因となった遺伝子型D5は認めておりません。

    3.平成27年3月27日、世界保健機関西太平洋地域事務局により、日本が麻しんの排除状態にあることが認定されました。

    4.かつては毎年春から初夏にかけて流行が見られていました。
    排除後は、海外からの輸入例と、輸入例からの感染事例のみを認める状況となっています。

    歴史的快挙をなした伊勢ヶ濱部屋(親方は元横綱旭富士、横綱照ノ富士等が所属)尊富士(たけるふじ)の経歴をまとめました。

    大卒力士の多くが始める幕下付け出しからではなく、番付に名前の載らない前相撲が初土俵なので、新入幕ですが既に24歳です。前相撲から始まったのは、学生時代に目立った成績がなかったからです。とてもけがが多い力士なので、如何にけがをしないかに、今後の全てが掛かりそうです。
    尊富士、勝敗履歴

    先場所、新入幕で優勝に絡んだ二所ノ関部屋(元稀勢の里の部屋)大の里は一学年下です。二場所連続で優勝争いをしたので、本物です。大の里は尊富士より1年後の令和5年5月場所に初土俵ですが、幕下10枚目格だったので、先に幕内に入りました。

    尊富士の身長184cm 体重143kgは、巨大化している力士の中では特に大型ではないです。
    因みに力士の体格は、豊青龍184cm 142kg、琴ノ若189cm, 172kg、貴景勝175cm, 165kg、朝乃山189cm 169kg、大の里192cm,183kgです。

    (入門以前の成績)
    wikipediaから抜粋
    保育園の頃から相撲を始めた。わんぱく相撲全国大会では、小学校4年時に個人ベスト8と団体優勝、5年時に個人3位。小学校卒業後は、つがる相撲クラブに通うため、地元を離れてつがる市立木造中学校に進学。中学校3年時に全国都道府県中学生大会個人3位、全中個人ベスト8、白鵬杯団体優勝・個人3位。
    鳥取城北高等学校に進学。同期に後の狼雅ら。1年時に金沢大会で個人8強、2年時の金沢大会で左膝前十字靱帯を断裂。3年時は全国高校総体個人3位、選抜高校相撲宇佐大会個人3位。秋の国体個人準決勝で後の王鵬に敗れた時に再び左膝を負傷し、3位決定戦は不戦敗。
    日本大学法学部政治経済学科に進学し、日本大学相撲部に入部。同期には後の輝鵬、大谷真惟ら。2年時に全日本大学選抜金沢大会準優勝、全国学生体重別大会135キロ未満級準優勝、全国学生選手権団体優勝。全国学生選手権団体決勝戦で右膝を負傷。3年時に全国学生選手権団体優勝、4年時に全国学生相撲個人体重別選手権大会無差別級16強。2022年春に日本大学を卒業。

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    尊富士が110年ぶり新入幕Vの快挙!右足負傷を乗り越え歴史的賜杯、所要10場所の“史上最速V”で三賞も総なめ【大相撲春場所】

    TBS NEWS DIG Powered by JNN 3/24(日) 16:21配信

    新入幕の前頭17枚目・尊富士(24・伊勢ヶ濱)が前頭6枚目・豪ノ山(25・武隈)を押し倒しで下し、ついに110年ぶりの「新入幕V」を達成した。

    尊富士は初土俵(22年秋場所)から所要10場所目での初優勝を果たし、優勝制度ができた1909年(明治42年)夏以降「史上最速」となる大記録も打ち立てた。成績は13勝2敗。

    前日、朝乃山(30・高砂)との一番で敗れた際に右足を負傷した尊富士は、その右足首にテーピングを巻いて出場。“世紀の優勝”への大一番に挑んだ尊富士は立ち合い、鋭い出足でしっかり踏み込むと、差して豪ノ山の動きを組み止め土俵際まで寄るが、一度後ろに下がる。だが攻めの姿勢を崩さず、再度踏み込んで前へ力強く土俵の外へ押し倒した。勝負が決まると会場は大歓声に包まれ、土俵上で尊富士は笑顔をみせた。

    3敗で大の里(23・二所ノ関)が星の差一つで追っていたが、本割で尊富士が勝利をつかみ文句なしの初賜杯を手にした。大の里は結び前の一番で大関・豊昇龍(24・立浪)に土俵際逆転の下手投げに屈し、11勝4敗で今場所を終えた。

    13日目を終え星の差「2」で優勝に王手をかけていた尊富士だが、前日14日目は朝乃山に敗れ2敗に。さらに右足を痛めてしまうアクシデントで車いすで移動する事態となり、快挙目前で悲運に見舞われた。

    千秋楽は休場も予想されたが出場を決断。この日は自力歩行で会場入りし、土俵入りでも元気な姿をみせ会場から大きな声援が送られていた。

    ◆「皆さんの記憶にひとつでも残りたくて...」
    記録づくめの場所となった尊富士

    今場所、尊富士は初土俵から史上最速タイ(幕下付け出し除く)の所要9場所で“幕内デビュー”。持ち味の鋭い出足を武器に初日から破竹の「11連勝」を飾り、新入幕力士としては1960年初場所の大鵬以来、64年ぶりの快挙を達成した。

    新入幕場所での優勝は1914年(大正3年)5月場所の両国以来、110年ぶりの快挙。さらにその両国の所要11場所での初優勝、年6場所制となった1958年以降では貴花田(貴乃花)と朝青龍の所要24場所の記録を大きく塗り替え、10場所目での“史上最速V”を達成。まさに記録づくめの場所となった。

    また、すでに敢闘賞と技能賞が決まっていた尊富士は「優勝した場合に」と条件がついていた殊勲賞も獲得し“トリプル受賞”の快挙も。一人で三賞を独占するのは2000年九州場所の琴光喜以来、史上6人目の“総なめ”となった。

    そして表彰式では少し右足を引きずりながら入場。土俵下の優勝インタビューでは「本当に千秋楽土俵に上がれてよかったなと安心しています」と安堵の表情をみせた。

    負傷を抱えながら挑んだ千秋楽について「このケガだったらたいした相撲を取れないと思っていた方もいたと思いますが、自分もここで負けたら皆さんが15日間大阪場所に来ていただいた意味がないなと思ったんで、その辺は自分でしっかり考えて土俵に上がりました」と、土俵への強い思いを。

    自身入門してから10場所での最速優勝に「記録も大事ですけど、皆さんの記憶にひとつでも残りたくて必死でがんばりました」と話し、会場からは大きな拍手が沸き起こった。

    インフルエンザは、3月中旬に第二のピークになりそうです。
    2010年以降では、2011年に次いで二回目です。
    インフルエンザ24年11週

    インフルエンザの流行波形は、毎年かなりの変動があります。この理由は何でしょう?
    気温は主たる原因ではないと言えます。それは、コロナが第5週のピーク以降、単調に減っているからです。
    コロナ24年11週

    荒井太郎  2024/3/15

    22歳11カ月での横綱昇進――天賦の才に恵まれ、将来を嘱望された双羽黒こと北尾光司は、なぜ優勝未経験のまま角界を去ることになったのか。付け人の集団脱走、ちゃんこの味をめぐっての言い合い、そして失踪……。トラブルメーカーと伝えられた“消えた天才横綱”の知られざる素顔に迫った。

    入門当初から「末は大関、横綱間違いなし」
     この男が力士人生を最後まで余すことなく全うしていたら、昭和末期から平成にかけての相撲史も大きく変わっていたことだろう。おそらく千代の富士の優勝回数も激減し、のちに横綱となる“若貴兄弟”や曙らの出世も遅れていたかもしれない。横綱・双羽黒の志半ばにしての“廃業”はつくづく惜しまれる。

     三重県津市出身の双羽黒こと北尾光司は、地元の小中学校を卒業後の1979年(昭和54年)春場所、立浪部屋から本名で初土俵を踏んだ。15歳ですでに身長195センチ、体重110キロの堂々たる体格で、入門当初から「末は大関、横綱間違いなし」と言われていた。期待通りの出世を果たすが、幕下は丸3年とやや時間を要し、その間に故障と脱走を繰り返したあたりは、のちのトラブルの前兆のような気がしなくもない。

     1984年初場所で関取に昇進すると十両は4場所で通過し、同年秋場所で新入幕となった。当時21歳で199センチ、148.5キロ。2メートル近い長身ながら均整の取れた体つきで柔軟性もあって懐も深く、大器にふさわしい素質の持ち主だった。さらに、長いリーチを生かした突っ張りや、立ち合いで素早く取った左上手を引きつけながら、右の差し手を返しての寄りは、技術的にも非凡なものを持っていた。

     入幕2場所目には横綱・北の湖から初顔で金星を奪ったほか、北天祐、朝潮、琴風の3大関を撃破し、8勝7敗で殊勲賞を受賞。以後、新関脇で途中休場した1985年夏場所を除き、毎場所2桁勝ち星と三賞を獲得する活躍で、新入幕からわずか所要8場所で大関に昇進した。

    「身長のわりに下半身がしっかりして、膝にゆとりがある。脇も固いし、右のおっつけもいい。昔なら巨人型なのにバランスが取れてますよ」(『戦後新入幕物語 第4巻』ベースボール・マガジン社)と優勝32回の大横綱・大鵬親方も“ベタ褒め”だった。

    「ちゃんこの味」をめぐっての言い合い、そして失踪
     大関3場所目には初日から10連勝で単独トップに立ち、初優勝のチャンスが訪れたが、横綱・千代の富士との千秋楽相星決戦に敗れて涙を飲んだ。続く名古屋場所も10戦勝ちっぱなしと突っ走り、11日目に土がついたものの1敗のまま全勝の千代の富士を追いかけ、千秋楽の直接対決を制して優勝決定戦に持ち込んだが、またもや念願の初賜盃には一歩及ばず。

     12勝の準優勝、14勝の優勝同点というやや甘い成績ながら、当時は千代の富士の一人横綱が続き、保志(のちの北勝海)が大関昇進を確実にしていたため、前例のない6大関に膨れ上がるという状況も大器を後押ししたと思われる。場所後の横綱審議委員会では心技体の「心」の部分が問題視され、一委員が「天皇賜盃を一度も手にしたことがない力士が横綱になるということは、相撲の国技たるゆえんを軽んずるものではないか」と異を唱え、全会一致とはならなかったが、将来性に免じて第60代横綱に推挙されることになった。

     昇進を機に四股名も本名の北尾から、所属する立浪部屋が生んだ双葉山、羽黒山の2横綱に因み「双羽黒」に改名した。当時の春日野理事長(元横綱・栃錦)が名付け親であったが、それだけ22歳の新横綱には部屋や一門を超え、協会全体の期待が懸かっていた。

     横綱昇進後も千代の富士とは3度にわたって千秋楽まで優勝を争うも、いずれも厚い壁に跳ね返された。「心」の成長が課題とされた青年横綱だったが、1987年の秋巡業中に付け人6人が“集団脱走”する騒ぎを起こすと、同年末には自身が失踪ちゃんこの味をめぐって言い合いとなり、部屋のおかみさんを突き飛ばして出て行ったとされた。

     師弟関係はもはや修復不可能だった。度重なるトラブルの末、大晦日に師匠(元関脇・羽黒山)から廃業届が提出され、未完の横綱は24歳の若さで一度も幕内優勝を遂げることなく角界を去った。

    「綱を張った男」の指導力と、滲み出る相撲愛
     その後はスポーツ冒険家、プロレスラー、格闘家、実業家と肩書きを変えたが、2003年(平成15年)9月、元小結・旭豊に代替わりした立浪部屋を16年ぶりに訪問し、一時期アドバイザーも務めた。

    「『あのときこうだったら、こうしてたのに』というジレンマはありました。でも、相撲は嫌いじゃなかったし、わだかまりは全くありません」

     古巣に復帰した北尾氏に当時、話を聞く機会を得た。稽古場の上がり座敷から若い衆に向かって送るアドバイスに耳を傾けてみると、優勝経験を云々言われながらも、同氏がなぜ綱を張ることができたのか、分かったような気がした。

    「上手を取られた瞬間は相手の動きが一瞬、止まるんだ。その瞬間に出てみろ。一気にいけるぞ」

     攻めあぐむ力士は目から鱗が落ちたような表情を見せた。黙々とスクワットをこなす別の力士には「親指に力を入れるんだ。そうすれば、立ち合いのスピードがつく」と助言を添えた。

    「相撲の動作はすべて理にかなっている。完全な人間工学ですよ」と達観したような言葉は、鍛錬に次ぐ鍛錬で相撲の奥義に触れることができた限られた者からしか出てこないであろう。

     決して声を荒らげることなく稽古場の隅々まで目を配り、若手もベテランも関係なく一人ひとりに淡々と声を掛ける元横綱に、当時レッテルを貼られた“稽古嫌い”というイメージは全く結びつかない。

    「師匠がいるので、そんなに顔を出すわけにはいかない。できるだけ協力はしたいけど、遠慮しないといけないところもありますから」と一線を引いてはいたが、滲み出る相撲愛は抑えようがない。

    「あのどん欲さを勉強してほしい」と北尾氏が部屋を超えて絶賛する力士がいた。奇しくものちに数々のトラブルを起こすことになる横綱だが、もちろん当時は知る由もなかった。

    ずっと静かだった茨城県南部地震ですが、3/21朝に、2年半弱ぶりにM5以上の地震が起きました。

    2024年03月21日 09時08分頃
    最大震度 震度5弱
    北緯 36.0度 東経 139.9度
    マグニチュード M5.3深さ 約50km
    茨城南部地震2024-03-22 震度分布

    前回M5の地震が起きたのは2021/12/12で、それから1年4か月以来です。M5.3は、2020/2/1以来の4年2か月ぶりです。M4.3以上も1年4か月弱起きておらず、茨城県南部は、静かでした。
    茨城南部地震2024-03-22
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    埼玉 栃木で震度5弱 津波の心配なし 新幹線すべて運転再開 落石 崖崩れ等のおそれ 注意を  
    NHK 2024年3月21日 17時27分

    21日午前、栃木県と埼玉県で震度5弱の揺れを観測する地震がありました。このうち栃木県の下野市では小学校の天井板がはがれ落ちるなど、建物の被害の情報が数件、寄せられているということです。

    気象庁は揺れの強かった地域では1週間ほどは最大震度5弱程度の地震に注意するよう呼びかけています。

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