舞監@日誌 since 2005

大阪在住、舞台監督・CQ塚本修(ツカモトオサム)の日記です。 観劇の感想や舞台用語の解説、たまに日々の出来事や劇団ガンダム情報も書いてます。 コメント・トラックバックは承認制ですので、すぐには反映されません。非公開希望の方はその旨お書き添え下さい。返信用アドレスも基本的には非公開にいたします。

【『(まだまだ)夜会』開催のお知らせ】

コロナ禍による感染症予防の対策で、3月以降の『ぼつじゅう』参加作品の多くが中止となりました。大竹野正典氏の没後10年の期間は過ぎましたが、何とか中止になった『ぼつじゅう』参加作品を上演したいとの声に応え、更にその期間を1年延長して『(まだまだ)ぼつじゅう』と改名して継続する運びとなりました。


「夜会」ではこれまで大竹野正典氏が関わる上演作品の記録映像を上映して参りましたが、『ぼつじゅう』の延長に伴い、既に『ぼつじゅう』に参加して頂いた多くの作品の中から、上演作品の記録映像が残るものをセレクトし、『(まだまだ)夜会』として上映会を催すことに致しました。



9月第1夜

日時:9月3日(木)

開場:19:15〜

上映開始:19:30〜

会場:天六・音太小屋T-6

入場料:無料(カンパ制)

定員:30名(要予約)

内容:上映会+アフタートーク

上映作品:エイチエムピー・シアターカンパニー『ブカブカジョーシブカジョーシ』

演出/笠井友仁@仮想劇場ウイングフィールド

トークゲスト:笠井友仁(演出家/エイチエムピー・シアターカンパニー所属)

※上映後、20〜30分のアフタートークを行います



9月第2夜

日時:9月28日(月)


開場:19:15〜

上映開始:19:30〜

会場:天六・音太小屋T-6

入場料:無料(カンパ制)

定員:30名(要予約)

内容:上映会+アフタートーク

上映作品:芝居屋さんプロデュース『トーフの心臓』

演出/黒澤隆幸@浄土宗應典院本堂

トークゲスト:田口哲(芝居屋さんプロデュース主宰)

※上映後、20〜30分のアフタートークを行います


ご予約はくじら企画HPまで

http://www5c.biglobe.ne.jp/~kujirak/




【ご報告】第17回「上方の舞台裏方大賞」授賞式 2/4

2月4日、第17回「上方の舞台裏方大賞」の授賞式が新阪急ホテル「宙の間」で執り行われ、照明デザイナーの西川佳孝氏(株式会社ハートス)とサウンドデザイナー&エンジニアの服部秀樹氏(有限会社ウィル)と共に上方の舞台裏方大賞を授かりました。
長らく舞台監督を務めて参りましたが、このような栄誉ある輝かしい大賞を賜り、とても有難く光栄であると共に、長きにわたり懲りもせず御愛顧いただいた多くの人や団体、常に温かい目で我々を見守り、時に叱咤激励して私たちを育ててくれた劇場とスタッフの面々、演劇と舞台の知識と技術を教えて頂いた幾人かの恩師や数多くの人たちと仲間に支えられ、何とか30年やって来られました。
本当に感謝に堪えません。
全ての人に、ありがとうございました。

昨年3月に舞台監督の引退を決め、最後の仕事を務めた劇団から、公演の終了後に大々的な引退セレモニーまで企てて頂いて舞台監督を辞した筈が、頼まれると断れない性分から幾つかの公演の舞台監督を務める内に、このまま舞台監督を続けるのも良いかと思えたり、元より完全に辞める心算は無かったのです。
大学を卒業して就職する手堅い人生より、小劇場が好きで演劇に携わりながら食べて行けるなら、役者でも裏方でも何でも良かったのです。
食べさせてくれて生活の面倒まで見てくれる稀有な劇団が身近に在り、ならば就職せずに入団すると決め、維新派(当時、劇団日本維新派)に入って11年、その頃にまた小劇場ブームが再燃し、小劇場での公演には舞台監督が必要とされるようになり、維新派を退団して小劇場演劇専門の舞台監督が生業となって30年、思えば高校演劇から舞台に魅了され、それ以来ずっと舞台表現を人生のテーマにして生きている。
今も変わらず舞台に居て、舞台と演劇に食べさせて貰ってる。
何と幸福な人生であろうかと我ながらに思う。
舞台監督は引退したが、それでも誰かに望まれるなら、感謝の心で有難くお引請けしようと思う。
引退には成らなかったが、完全復帰と言う訳でもなく、自分でも肩書きに窮するのだ。
だから暫くはこう名乗りたい。
「元舞台監督」と。
チラシやパンフレットのスタッフ欄にも、是非そのように表記して欲しい。

文末に何枚か昨日の画像を残しておく。
授賞式と賞状や記念品、賞状は「上方の舞台裏方大賞」実行委員会の委員長から授かった大賞の賞状の他に、後援団体から授与される賞状が3枚在り、後援の関西・大阪21世紀協会と関西観光本部から1枚と、同じく後援の大阪市と大阪府から各1枚。
もちろん大阪市長のあの人と、大阪府知事のあの人の名前が賞状に明記されてて、大阪府知事賞との記載がある。
授賞式の後、会場を変えて関西テクノ&アート2020「新年賀詞交歓会」で受賞者の御披露目。
この数年で最もゴージャスな一日であったが、私にはやはり広くて豪華で明るくて、大勢の人たちに囲まれながらスーツ姿で金屏風の前に立つよりも、狭くて暗くて人数も少なくて、決して豪華では無いけれど、それでもやはり小劇場に在るのが好きで、そこが最も居心地良くて、自分に似合って居ると思えます。
だからまた、どこかの小劇場で逢いましょう。

元舞台監督/ツカモト オサム

【観】2019HPF箕面・豊島高校

8/3(土)2019HPF
箕面・豊島高校
『ヒーローズ・オーバータイム』
作/塩切千春×山
演出/春次未希
@一心寺シアター倶楽

HPF2019の最終日、一心寺シアター倶楽を締めくくるのは豊島と箕面の合同チーム。
舞台奥に中央を高くした二重舞台、二重舞台の両側に台上に昇る階段、前舞台の中央に机と椅子を設える。
内容は得意のドタバタコメディである。
学園の56周年記念祭にヒーローショーを企画する面々。
小ネタとギャグとボケ満載でサクサク進行するのは良いが、内容が薄くて浅いため、もう少し作り込んでも良いと思う。
かつてこの町を守り抜いた旧ヒーローたちの現在の落ちぶれた姿と新シーローの対比から、物語は幾らでも膨らませられる。
ワンシーンが短く、挿入曲が多過ぎる。
ワンシーンは短くてもサクサク進行すれば良いのだ。
だが転換を挟む場面では、転換がそこそこ複雑で、舞台中央の机や椅子を移動させるのと上手のカウンターを組むのを同時に行うのは困難で、悪戯に転換時間を費やしてしまう。
そのため進行がテンポ良く進まず停滞気味である。
ドタバタコメディでは転換を極力省き、装置を移動させることなく前シーンと同じ配置のまま、異なる場所だと観客が解る工夫を施したい。
出演者は全員が元気いっぱいで、心底演劇を楽しんでる姿がとでも心地よい。

【観】2019HPF東海大付属仰星高校

8/2(金)2019HPF
東海大付属大阪仰星高校
『赤鬼』
作/野田秀樹
演出/塩見友唯
@一心寺シアター倶楽

仰星演劇部を初めて拝見したのは2年前の應典院、もちろんHPFへの参加作品だ。
生まれて僅か1年の演劇部はとても初々しく、精一杯の頑張りで公演を乗り切っていた。
あれから2年、仰星演劇部は『赤鬼』に挑戦するほどの成長を遂げている。
もちろん演劇部の名顧問、阪本龍夫先生の育成の賜物であろう。
かつて阪本氏が追手門学院高校演劇部の顧問時代、演劇部の公演で幾たびも本作を上演しており、高校演劇のみならずみ自らが主宰する劇団の公演でも同演目を上演している。
私が最も最近に拝見したのは、HPF2005の精華小劇場で上演した『赤鬼05』で、もちろん追手門学院高校の作品であった。
仰星演劇部の『赤鬼』は、阪本イズムを継承した正統派の作品となった。
客電が消えると、いきなりブルーのライトカーテン。
大音量の嵐の中、舞台奥から巨大な水布が津波のごとく現れ、舞台を覆い尽くして荒れ狂う大海原となる。
アンサンブルキャストによる見事なオープニングの大スペクタクル。
このダイナミズムこそ、阪本氏がこれまで多くの作品で魅せてきた最も特徴的な演出の一つで、冒頭から阪本イズムを象徴するオープニングで、一気に観客は作品世界に誘われる。
舞台中央には海に浮かぶ舟に見立てた形状のメインステージが設えてあり、その奥に二重舞台、舞台の両脇には舟のぐるりを囲むように二重舞台への上り口を設えている。
入江に入る舟のようにも見え、浜に停泊した舟のようでもあり、湾岸にある洞窟のようにも見える。
適切に組まれた照明と臨場感を煽る音響、目の行き届いた小道具と衣装、安定したスタッフワークに支えられて伸びやかに且つしなやかに舞台を駆け巡るキャストには既に堂々とした風格さえ感じられる。
2時間ある長尺の作品を、緊張感を緩ませることなく最後まで見事に演じきる。
素晴らしい、見せてくれてありがとう。

【観】2019HPF 咲くやこの花高校

8/1(木)2019HPF
咲くやこの花高校
『終焉ブルー』
作/野呂果乃莉
演出/野呂果乃莉・上田朋佳
@一心寺シアター倶楽

咲くやこの花高校は2年ぶりの観劇となる。
これまで過去に何度も複雑な多重構造のメタフィクションを見せてくれた演劇部が本年のHPFで公演する作品は、またしてもメタにメタを重ねたメタフィクションである。
毎年毎年、複雑な重構造の戯曲を描いて、それを作劇する才能が途絶えずに続くのは驚愕に値する。
しかも今年も良く掛けている。
舞台には中央に高く組んだ山台が在り、黒い舞台の中でこの山台だけが白の空間となる。
台上には個性を衣裳の色で表す人物たちが出入りし、ここで描いた物語が白い台の前舞台に表出する。
本舞台上は台上で書かれた世界、つまり構成上は劇中劇となるが、ここが現実世界に最も近く、日常のメタファーとして描かれて行く。
この作品は終わりから始まる。
そしてラストはオープニングとなり、エンドレスで繰り返す構成になる。
女子高生が自殺を配信する内容はショッキングながら、この非常にネガティブな日常を雨や泡の水音と統一してブルーを基調とした照明で美しく見せていくのが上手い。
終盤に入ると劇中劇の高校生は劇場を目指し、その劇場とは一心寺シアターそのもので、劇構造は現実にまではみ出して来る。
劇中の日時も8月1日の18時、場所や時間もメタフィクションさせながら進行し、いよいよ物語の核心へと向かう。
死とは何か、死ぬとはどう言うことか?
死なない、終わるだけ。
終わらない、始まる。
そう、この作品が終わりから始まる物語で、終焉が生の終わりではなく始まりなら、終演は劇の終わりではなく始まりなのである。
終わりは始まりとなり、死は生へと繋がる。
重いテーマを最後までライトに描き、舞台は放り投げられた台本が空を舞うと舞台空間は真っ白になり、黒かった床面は散在した台本で白く染まる。
美しいラストであった。
合唱、ダンス、パフォーマンス、転換、全て良く稽古されており、様々な部分を細部まで作り込んだ秀作である。

【観】2019HPF寝屋川高校

7/30(火)2019HPF
寝屋川高校
『怒りと祈り』
作・演出/堀江竜也
@一心寺シアター倶楽

昨年、戦時下の長崎と現代を行き来する戦時物で、伝えること、残すこと、忘れないことを痛烈に描いた寝屋川高校は、今年も再び戦争物に挑む。
前回は長崎に原爆が投下される直前の話であったが、今回は長崎だけでなく広島にも焦点を当て、原爆を落とされた二つの被爆地で生き残った2人の被爆者のそれぞれ異なる思いから、平和とは、正義とは、生きるとは、重く深いテーマを真摯に描き出している。
時代は終戦からひと月ほど経った終戦間もない頃、被爆者の証言を英訳して残す仕事を得た主人公と、現在では年老いて車椅子で暮らす老婆となった主人公が孫娘に語る昔話を交互に配した、昨年同様の2プロット。
物語の内容は素晴らしいのでダメ出しで貶したくはないが、幾つか気になった所を記しておく。
芝居の流れやテンポを重視して、モノローグのサス転換やエリア転換を多用するのは分かるのだが、それでも転換が目につき過ぎて気になってしまう。
サス転換は前明かりを極力避けて、可能な限りトップサスで、灯りを薄く小さく絞らないとハレーションで転換が全て見えてしまう。
舞台装置は概ね机と椅子だけなのに、椅子がサスの中に残ってしまったり、転換する裏方がサスを微妙に横切ったりするのが美しくない。
会場の舞台には奥行きが相当あるのに、演技エリアは全編を通して前エリアのみで、奥行きが非常にもったいない。
練習場所で入念に稽古するあまり、稽古時の間合いや距離感に捉われて、広い舞台を使い切れてない。
机や椅子を舞台の奥半分に設え、前舞台をトップサスとスタンドやSSでフォローして舞台前と舞台奥を分けていれば、転換も楽になりサスに椅子が残ったり、横切る裏方がサスをかすめたりはしない筈だ。
しかし徹底した生明かりの照明は作品にも非常にマッチしていて良いと思う。
控えめな音楽の挿入は効果的で、冒頭とラストの2回で十分に思え成功している。
反面、転換時に使用する効果音の蝉時雨はあまりに短時間過ぎて浮いてしまう。
音量も大きく適切ではない。
レベルを落として低く長く継続し、自然にフェードアウトして欲しい。
最後の音楽もフェードアウトが早過ぎて惜しいことこの上ない。
峠三吉の原爆詩集「にんげんをかえせ」から引用した「わたしをかえせ」の叫びが重く胸に突き刺さった。

【観】2019HPF阿倍野高校

7/27(土)2019HPF
阿倍野高校
『失せ物』
原作脚本/田部千香子
脚色/山内貴子・兒子明日香
演出/岩田滉崇
@ウイングフィールド

昭和〜平成〜令和と時代は変われど、そのものの本質は変わらないものだって在る。
人々が求める普遍的な笑いをテーマに、笑いを作り出す芸人たちが所属する芸能プロダクションの養成所が舞台となる。
舞台奥に高さ1尺・奥行3尺の二重舞台、二重舞台の両脇には袖幕に隣接して可動式のパネルが1枚ずつ措かれる。
2組の漫才師と1人のピン芸人による劇中漫才とピン芸が何とも楽しく面白い。
しかしこの作品の狙いは笑いを生み出すことやコンビで居ることに苦悩する芸人たちの、笑いと苦悩の狭間で困惑しながら生きる芸人の姿を描くことで、どの時代にも共通する笑いや苦しみの普遍性を浮き彫りにできたと思うのだ。
お笑いのシーンが多いので笑いに偏り過ぎてしまい、苦悩を描く部分が浅くて薄くなってしまったのが残念だ。
両極の物語を同じバランスで描かなければ、その狭間で失ったもの、取り戻したものが、台詞で語るではなく言わなくても作品自体から感じ取れるのではなかろうか。
転換は暗転の後、薄明りでスムーズに行われ、転換も演技演出の一部として十分に稽古したのが垣間見える。
音楽を多用し過ぎで、挿入する時間は短すぎる。
音楽は本当に必要な場面だけあれば良い。
多用することで、音楽を聞かせたい場面が埋没してしまう。
転換方法や選曲が少し古いので、オシャレでスマートな最近の小劇場演劇を見て欲しい。

【観】2019HPF池田高校

7/26(金)2019HPF
池田高校
『SISTERS』
作/福田成樹
演出/藤岡劍
@ウイングフィールド

戯曲は高校演劇のために創作されたチェーホフの名作『三人姉妹』のアダプト作品である。
台詞や設定など、随所に三人姉妹のオマージュが散りばめられ、場所も現代の日本に置き換えてはいるが、物語は三人姉妹のストーリーを模して進行する。
舞台は姉妹が暮らすマンションの一室。
茶色と黒と白、3色のカラーボックスは三人の姉妹それぞれのイメージカラーであろう。
箱にはヌイグルミやCDプレイヤー、花を生けた花瓶、これらの小物も三人を象徴する。
衣裳もまた三人の個性を際立たせ、道具や衣裳のスタッフワークは熟考した様子が窺える。
それらが自然に舞台に溶け込んでいるので、もう少し主張させても良い。
このレベルでは観客が気づかないかも知れないし、気づいても驚きが少ない。
なるほど〜と、観客を唸らせる工夫が欲しい。
照明は冒頭の父親の葬儀以外は、ほとんどが室内用の地明かりで、冒頭以外は全て生明かりで、日時の経過を音楽と暗転で処理する。
オーソドックスな構成だが、好感を持てる。
三人に個別の色の照明を準備すると、多分失敗するように思う。
淡々と三人の日常を描き、場面ごとに誰かにフォーカスしたり、特化した照明を当てる必要は微塵も無い。
全編を通して三人をフラットに描くことに徹し、生明かりのまま見せるのが最良に思うので、照明はベストチョイスに思えた。
音響で効果音は適切な方向から適度な音量で流しても、座った席によって音量にバラツキが生じるため、必ず素材ごとにスピーカーから最も近い席と最も離れた席でレベル取りを行うと良い。
窓を開けるとかすかに聞こえるカエルや虫の音、遠くから聞こえるイベントの音楽や外音、座る席により聴こえ方が随分異なるので注意したい。
ウイングフィールドと應典院は、舞台が客席と地続きなので、最前列に座る観客の高さと舞台に座る出演者の高さが同じになる。
2列目以降の観客は、前に座る観客に視界を遮られ、舞台前で座り芝居や寝転ぶ芝居があるとほとんど見えない。
そのため座り芝居や寝転ぶ演技は出来るだけ舞台奥でする必要がある。
葬儀での父親の遺影、死体になって寝転ぶシーン、客席の奥からは全く視認できないため台詞で状況をカバーすべき場面はある程度テキレジすべきだと思う。
三人の出演者がとても初々しく、純朴な演技が清々しい。

【観】2019HPF大谷高校

7/21(日)2019HPF
大谷高校
『ふじんど』
作/森野和
補作/高杉学
演出/桑原日和
@浄土宗應典院 本堂

2019HPF、ついに30周年を迎えた大阪の高校演劇夏の祭典は大谷高校から始まる。
同時にウイングフィールドで山田高校も開演する。
3会場で15日間、25作品に及ぶフェスティバルは全国でも類を見ず、今や大阪が胸を張って全国に誇れる夏の風物詩と言っても過言ではない。
本年の大谷高校の上演作品は、冒頭の前説からラストのカーテンコールまで、作品の端々や細部に至るまで全てがいつも通りの大谷高校テイストである。
この作風は私がHPFに初めて携わった1994年から、26年を経た今も全く変わることがない。
今、舞台に立っている未成年の高校生が、自分たちが生まれる前から脈々と続く圧倒的な個性を見事に受け継いでいる。
それは伝統を守ると言った格式ばったことではなく、日本で育った者が当たり前のように日本語を話すように、大谷演劇部で育った者は当たり前のように大谷に染まるようだ。
個々の科白や演技はそれぞれ違っていても、全体として作品を観た時に、あぁいつもの大谷だなぁと安心するのだ。
ステキなことをステキなままに、今も変わらず受け継いでくれてありがとう。
いつも大谷高校演劇部の作品を観たあとは、出演者全員を大好きになっている。
多くの観客が同じように感じたことと思う。
誰からも愛される作品を創作するのは非常に難しい。
どうしてもその意図が見え隠れする。
だから意図せずに作るしかない。
それが大谷演劇部の持味であり、彼女たちには自然で当たり前のことなのだ。
劇中劇を挟む今回の作品は時系列に沿った解りやすい構成のメタフィクションと、学内で長らく使われて寿命を終えつつある机や椅子の擬人化を組み合わせ、作品全体が劇中で創作してきた劇中劇そのものであることが最後の最後に明示される見事な構造である。
舞台は中高一貫教育の学園内にある教室のひと部屋で、オープンキャンパスに参加する新入生のためのイベントを企画するために集められた高校生の毎日を描く。
本作は基本的にこの教室内が舞台で、日にちの変化に暗転を使わず、転換時は音楽と共にブルー場による明転を採用、転換後に時折サス中でモノローグが挿入され、地明かりが灯ると翌日の教室へ移行する。
地明かり→ブルー場→(サス→)地明かりの構成を幾度も繰り返し、クライマックスの劇中劇では音楽が多用され照明もカラフルになり、エンディングのラストは取っておきのライトカーテンで締めくくる。
完璧の布陣です。
徐々に明らかになる机や椅子(と箒)の擬人化、終盤で明かされるタイトルの意味、ふじんどが踊り8人のリボンが作る富士(ふじ)山、机に名前を彫ったのが学生時代の先生であること、この舞台作品そのものがオープンキャンパス用の出し物であり、実は劇中劇は劇中劇中劇であること、弥栄(いやさか)をチョイスする言葉のセンス、要所に挿入する一見不要の効果音(ネコの声等)、後半は特に素晴らしい。
全く場違いに思える効果音も、劇中ではアクセントになったり、異化効果を発揮したり、様々な受け取り方を観客に与え、作り手が意図しない意味を観客が見いだすことが舞台ではよくある。

【ご報告】(記録として)

3月が終わり新年度が始まりましたね。
新元号も発表されました。
新しい時代が始まりますね。
30年続けてきた舞台監督も、新年度の始まりを一区切りに、昨年度を最後に舞台監督を退かせて頂きました。
皆さま、30年の永きに渡り様々な場でご愛顧いただき、本当にありがとうございました。
先週の舞台監督引退セレモニーでは、内容告知のご案内がセレモニーの前日でしたので、幾人かにお叱りを受けましたが、もちろんワザとです。
セレモニー会場に提供して頂いた船場ユシェット座は浪花グランドロマン(以下、NGR)のアトリエで、先週に催したNGRアトリエ公演の会場をそのままお借りして式典の場とさせて頂いたので、アトリエ内に仮設した演劇公演のための舞台と客席もそのまま利用してるので、収容人員はせいぜい30名ほどで、極めて狭い場所でした。
大々的に告知して、もしも来場者が会場から溢れてしまい入場すら叶わない事態になれば、あまりにも申し訳なく是が非でも避けねばならない事態ゆえ、告知を遅らせ訪問できない人を増やし、来場者を出来るだけ少なくなるように絞らせて頂いたのです。
この場をお借りして、ご来場頂けなかった皆さまにお詫びを申し上げます。
また、突然の引退宣言と式典の告知に、多くの方からコメントや直接のメール、お花や電報が届き、本当にありがとうございました。
私の舞台監督引退セレモニーは、皆さまに支えられながら、大盛況のうちに終えることが出来ました。
会場を提供して頂いたNGRの皆さま、前日の告知にも関わらず時間を割いてお越し頂いた方々、ほんの数分だけでもと遅くの時間に駆けつけてくれた人も結構多くて、やはり狭い会場には収まり切らず、19時過ぎに客席は立見となり、狭苦しい中を温かい気持ちで最後まで皆さまに祝って頂き、私は本当に果報者です。
30年を節目に、これでひとまず舞台監督を引退いたします。
ひとまずと書いたのは、本当はこの3月で颯爽と舞台監督を辞めたかったのですが、様々な事情から今年もあと何回かの舞台監督をさせて頂くことになり、更には来年にも舞台監督の予定が入ってしまい、しばらくは規模を縮小しながらも、もう少し私の舞台監督は続くみたいです。
ですから今後とも、舞台監督を辞めた私だけでなく、舞台監督を時々している私も、両方よろしくお願いします。

私が何ゆえ小劇場で舞台監督を始め、生業とすることになったか、なぜ舞台監督を辞めるのか、辞めて何をするのか、最近まで多くの人に尋ねられたことでしたが、これまでは返答せずに居りました。
その答えを記しておきたく思います。
極めて個人的なことですから、皆さまがそれを読んで価値があるとも思えませんが、当時の大阪の演劇事情を振り返りながら、30年間の自分自身の思いを綴るため、いささか長文になりますが、どうかご興味のある人だけ読んで下さい。

「大阪には小劇場の舞台監督が居ないんですよ」
私にそう話したのは、大阪の堂島に在った専門学校の地下教室を改造して照明や音響の舞台設備を備えた小劇場「スペースゼロ」の主宰で、今は亡き恩師の古賀かつゆき氏であった。
「では、僕がやってみましょう」
私が副業で小劇場の舞台監督を始めた頃、何となく安請け合いをした一言から、舞台監督を本業とした私の舞台監督は始まった。
それまでも請われて舞台監督をすることや、出演するついでに舞台監督を頼まれて、自らやるつもりは無かったけど気が付けば舞台監督を任されているような事が何度も続くような時期が10年近くあった。
もちろん本業ではなかったので、仕事として広げるつもりは無く、それで儲けようとか稼ごうとか全く思わなかった。
それでも口コミでゆるゆると私の舞台監督は広まって、多くの劇団や劇場から舞台監督を頼まれ、それなりに小劇場で認知されるようになって行った。
舞台監督を何となく始めて3年、私は足掛け12年在籍した維新派を退団し、それまでの本業だったイベント関連の事務所も名称や事務所や設備まで、何もかも全て後輩に譲渡して、いよいよ小劇場の舞台監督だけを支えに独立する。
にわかに小劇場演劇がブームとなり、大阪に演劇専用の小劇場が次々と建てられた時代で、どの劇団も劇場を借りるためには演劇と舞台機構の知識と技術を兼ね備えた専門のスタッフが必要になるのだが、当時その人数はまだまだ不足していた。
中でも当時の小劇場演劇の公演に、舞台監督の役職が存在しないことも多く、必要があっても劇団の関係者の1人が他の役職と兼任して賄うことが常であった。
舞台照明や音響効果の技術者の数に比べて、ほとんどの劇団が発注したくても舞台監督を知り得ず、どこの団体も舞台監督を探し求めていた。
しかし情報を満足に発信することが出来なかった時代、必要な情報を得ることもまた難しく、小劇場の舞台監督が足りないと言っても、誰かが仲介しなければお互いを知る術も無く、簡単に仕事にありつける訳ではなかった。
私が独立した当初も、仕事が忙しいと言うほどの事はなく、週末にちょくちょく古賀氏から電話を頂いた。
メールの無い時代なので、留守番電話に古賀氏からのメッセージが録音されていると、決まって芝居へのお誘いだった。
今週末にスペースゼロで公演する劇団が面白いから、見に来るようにとの録音があり、スペースゼロに出向くと公演の終了後に必ず古賀氏の机がある教員室に来るようにと言われ、その夜は公演主催者を交えて今見た作品について語りながら、劇団の代表や制作には、必ず私を紹介するのだった。
古賀氏がスペースゼロで結んでくれた縁で、スペースゼロをホームグラウンドにして活躍する多くの劇団から、舞台監督の依頼を頂戴し、スペースゼロ主催の公演やイベントにも、私が舞台監督として呼ばれることが常となった。
スペースゼロでは毎年その舞台で公演された全ての作品の中から、特に秀でた作品や人材を選出し、年度末のある日に大々的に授賞式を開催し、皆もこぞってそこに集まり、皆で受賞者を盛大に祝う慣わしがあった。
1995年の第5回スペースゼロ演劇賞では舞台美術の池田ともゆき氏と共に、私は舞台監督としてスペースゼロ特別賞を授かった。
この特別賞の副賞が有り難かった。
特別賞を受賞したら、その後のスペースゼロの公演で舞台監督をする毎に副賞として金1万円が貰えるのだ。
しかも次の特別賞受賞者が選ばれるまで、何年でも継続して副賞が授与されるのだ。
だが、その後スペースゼロが閉鎖する2002年まで、スペースゼロ特別賞の受賞者が出ることは無かった。
私はゼロが閉鎖する年まで、実に30数回の副賞を授かった。
特別賞を授かったその年に、古賀氏から別件で高校演劇の講評を依頼され、請け負うことになる。
スペースゼロが主催する大阪高校演劇祭(High school Play Festival)がそれで、ゼロが閉鎖されてからは主催をHPF実行委員会へと引継ぎ、今年で第30回を迎え大阪の演劇祭の中でも指折りの夏の祭典となった。
私は95年からHPFのご褒美審査員になり、今もHPFの講評サポーターとなって講評を続けている。
以前は出場校の全作品を観たし、受賞者の選出時には作品の細部に至るまで終電近くまで話し合った。
脚本と演出、演技や技術に対する考え方や意見は多くの部分で古賀氏と同じように感じているのに、いざ賞を選出する段になると、古賀氏が賞に推す作品は私の選んだ作品と全く違っていて、驚かされてばかりだった。
私とは評価の基準が根本的に違うことは明白であったが、何がどう違うのか当時の私には全く解らなかった。
それが解るまで、それを読み取れるようになるまで、この人の傍らで学ぶことを決めた。
悔しいので本人には尋ねない。
2〜3年を経た頃には、舞台芸術を観ることの本質をようやく掴みかけていた。
それはその後の人生を演劇と共に生きる私の礎となる演劇観を定める大いなる財産となった。
今、振り返れば何もかもが良く解る。
多くの良質の舞台作品に誘い、劇団や演劇人を紹介してくれたのは、小劇場で舞台監督を始めた私が、舞台監督で食べて行けるようにと、私が少しでも仕事の幅を広げられるようにと、全て準備して下さって居たのだと。
心配してくれて居たのだ、応援してくれて居たのだ。
少しでも生活が潤い、舞台監督で在り続けられるようにと、古賀氏の親心が、今さらながら身に染みる。
その後、古賀氏からの推薦で大阪演劇祭の仕掛人、当時はウイングフィールドのプロデューサーを務めていたもう一人の恩師、故中島陸郎氏に支持して頂き、大阪演劇祭の実行委員へと抜擢される。
この時から、私のライフワークが一つ増えた。
「若手の芝居をたくさん見てあげて下さい」
これは中島氏の教えであり、遺言のようにも感じ、今もずっと大切に続けている。
若い才能を見いだし、育み、世に出すような大役を、新旧を良く知る私がその架け橋となり、寄添い見守り支えながら行先を指し示す相談役になって欲しいと話された。
そのような大役が私に務まるでしょうか、私が自信なげにそう訊ねると、
「あなたなら出来ますよ」
そんな言葉を最後に、中島氏はこの世を去ってしまう。
その言葉を支えに、自分を信じて動き始めると、舞台監督とは全く違う小劇場演劇への関わり方が私に芽吹いていた。
「これもしっかりやらなくては」
30年、大阪の小劇場で舞台監督をやってきた。
劇場の舞台増員や大道具製作の大工仕事も、頼まれない限りやらないことにした。
貧乏でも舞台監督だけで良い。
私が30年やれたのだから、きっと他の誰かも出来るはずだ。
私は、舞台監督の次も、誰もやらなかったことをしよう。
財力に乏しい大阪の小劇場演劇には、誰もやらない仕事とも言えない役目や役割りがまだまだたくさん在る。
いつしかそれが自分の仕事になるのだと、今は何となく思う。
その職もまた、これまでと同じように、劇場の片隅で演劇好きのお客さまをお待ちするような仕事であったなら、この上なく幸いに思う。
皆さま、またお会いしましょう。
いつものように、劇場でお待ちして居ります。

2019年4月1日
CQ/ツカモト オサム
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