山下ゆの新書ランキング Blogスタイル第2期

ここブログでは新書を10点満点で採点しています。

中野博文『暴力とポピュリズムのアメリカ史』(岩波新書) 7点

 副題は「ミリシアがもたらす分断」。「ミリシア」と言っても多くの人にはピンとこないかもしれませんが、これは「民兵」と訳される事が多い言葉です。ただし、アメリカでは州軍も「ミリシア」と呼ばれています。
 本書はアメリカにおける2つの「ミリシア」について説明しながら、人民武装の歴史と、それが2021年の連邦議会襲撃事件につながっているさまを描き出しています。
 
 州軍に関する歴史的な説明が中心であるため、もう少し近年の民兵の動きについても知りたいという人もいるかもしれませんが、州軍の歴史を追うだけでもアメリカという国の特殊性が十分に見えてきて面白いと思います。

 目次は以下の通り。
はじめに
第1章 現代アメリカの暴力文化――2021年米国連邦議会襲撃事件の背景
第2章 人民の軍隊――合衆国憲法が定める軍のかたち
第3章 デモクラシーが変貌させたミリシアの姿
第4章 転機としての南北戦争
第5章超大国アメリカのミリシア
おわりに――問い直される人民武装理念

 アメリカ合衆国憲法修正第2条には「よく規律されたミリシアは、自由な国家の安全にとって必要であるので、人民が武器を保有し携帯する権利を侵してはならない」(vii p)とあります。
 銃規制をめぐる問題でよくとり上げられる条文ですが、この条文が想定しているのは個人として武装と言うよりはミリシアを組織して武装する権利を認めたものです。
 
 このようなミリシアは基本的に州軍に吸収されていき、州軍も次第に連邦政府のコントロール下に置かれることになるのですが、一方で、90年代から極右的な民兵(ミリシア)の動きも活発化しています。
 本書の第1章がとり上げるのは、このような極右的なミリシアです。

 2021年1月、トランプ大統領に扇動された人々が連邦議会を襲撃するという衝撃的な事件が起こりました。
 トランプは選挙後にエスパー国防長官を解任しており、そのために軍の行動は遅れ、州軍が出動していたものの効果的な対処はできませんでした。

 アメリカの中には政治的暴力を許容する風潮があるといいます。
 連邦議会襲撃事件を起こしたのは右派ですが、こうした風潮は左派にもあり、BLM運動の中で、シアトルのキャピトルヒル地区では抗議者との衝突を避けるために警察官が撤退してしまい、地区の治安が悪化するという事態も起きました。

 ただし、民間ミリシアの多くは民主党を敵視する極右団体です。
 この極右の民間ミリシアが数多く創設されるようになったきっかけは1992年にアイダホ州で起こったルビーリッジ事件です。
 鉄砲の不法売買の疑いをかけられたランディ・ウェヴァーが連邦保安官やFBIの捜査官と銃撃戦になり、連邦保安官やウェヴァーの息子や妻が亡くなった事件でしたが、実はFBIのおとり捜査がきっかけで、ウェヴァーの息子の死についても捜査機関側に問題があったことが明らかになったのです。

 この事件から2ヶ月後、コロラド州のエステスパークに右派の集団が集まり、政府の不法行為に対抗する「小規模の武装ミリシア」を全米各地につくっていくことが呼びかけられます。
 こうした動きはクリントン政権が同性愛者の軍勤務を認める政策を打ち出したことや、銃規制を行うブレイディ法が成立したことなどにより、文化闘争的な色彩を帯びながら加速していきます。

 この民間ミリシア創設の動きは、1995年のオクラホマ連邦政府ビル爆破事件の犯人がミリシア団体員であったことや、2001年のブッシュ政権の成立によって下火になります
 しかし、2009年にオバマ政権が成立すると再び活性化します。そして、「反民主党」という要因が大きいのであれば、2017年のトランプ政権の成立によって再び下火になってもおかしくはなかったのですが、ミリシア団体を煽るようなトランプの発言もあって緩やかな減少にとどまりました(25p図1−4参照)。

 このような民間武装ミリシアの拡大に関して、著者はナチスや共産党の党員が武装していたワイマール憲法期のドイツを想起させるとしています。
 こうなるとこのような武装ミリシアの取り締まりが必要ではないか? となるわけですが、先述のように憲法修正第2条がある以上、武装は合法ですし、政治家や裁判官の中にもこうした民間ミリシアの活動に理解を示すものが多いです。また、警察の予算不足や、警察の中にも理解者がいることもミリシアの取り締まりが鈍い原因です。

 第2章以降では、こうしたミリシアの来歴を合衆国建国前からたどっていきます。
 アメリカに軍隊が設置されたのは1636年12月13日だとされています。現存する最古のミリシアが創設された日付です。
 もともとイギリスは植民地の成年男子にカンパニーと呼ばれる100人程度の戦闘集団の設置を義務付けていました。1630年に成立したマサチューセッツ植民地において、複数のカンパニーを連隊(レジメント)としてまとめて運用するようになりますが、これができたのが先述の日付というわけです。

 第2代アメリカ大統領ジョン・アダムズは日記の中で、ミリシアを住民自治、学校教育、キリスト教会と並ぶ共和主義の支柱と記しています。
 このようにミリシアは共和主義を体現するものとして考えられていましたが、同時にミリシアが先住民に対して強硬な姿勢を取るように総督府に圧力をかけるような事件もありました。

 17世紀後半以降、植民地の人々はイギリス本国が行う戦争などに巻き込まれることになります。
 こうなると小規模な部隊では足りなくなり、植民地軍が組織されました。ミリシアは自衛のための組織であり、長期の遠征には向いておらず、新しい戦術をとることも難しかったからです。
 
 独立戦争において、ミリシアは愛国派(イギリスに抗議する者)と忠誠派(イギリスを支持する者)に分裂して戦いました。
 革命思想に対する賛否とともに、官職をめぐる争いなども含む形で多数派工作が行われることになります。
 
 ジョージ・ワシントンのもとで大陸軍が結成され、苦戦しつつも、フランスなどの助力を得て独立を達成しました。
 この大陸軍は独立を勝ち取るためにつくられたものでしたので、独立後に大陸軍の存続が問題になりました。ハミルトンは一定規模での存続を求めましたが、結局は一連隊700名規模となり、その定員も十分には満たせませんでした。
 合衆国憲法でも、大統領がミリシアの最高司令官であると規定されたものの、ミリシアの士官の任命権などは州政府に留保されることになりました。

 このようなミリシアについて、1872年にアメリカを訪れた岩倉使節団は「我が消防仕組に彷彿たり」(73p)と書いています。
 ただし、1812年の対英戦においてミリシアの限界は露呈していました。この戦いで活躍したアンドリュー・ジャクソンは「ミリシアが役に立つと感じられるのは、つなぎとしてだけです」(76p)と述べています。
 それでも、常備軍が政府によって悪用されるという警戒心は強く、常備軍の整備は進みませんでした。

 一方、ミリシアの訓練も形骸化するようになり、1820年代のペンシルヴェニアでは夏の集中訓練日が家族ぐるみのレクリエーションの機会になっていたといいます。
 都市部ではミリシアを負担に感じる層も増え、1838年にボストンでは今までのミリシアに代わって警察業務を担う初の警察署が誕生しています。

 18世紀後半、アメリカではウイスキーへの課税に抗議したウイスキー反乱などが起きますが、1820〜30年代になって普通選挙が広まると政府への反乱は減少していきます。
 しかし、市民間の騒乱はおさまらず、奴隷制や宗派対立や反英主義などを原因とする暴動が起きました。
 こうした中で、州政府もすべての白人男子をミリシアにするのではなく、一定の人々を選ぶようになってきます。ただし、選び方は独特で有志の団体を州政府が公認するというものでした。

 1846年から始まったメキシコ戦争においても、ミリシアがその主力となりましたが、このミリシアは志願兵であり、さまざまな人が志願兵を募る形で人を集め、それが公認されていきました。
 当時にアメリカが不景気だったこともあって、生活に困窮した者や、特に移民してきたばかりで米国籍をまだ持たない者が数多く志願しました。メキシコ戦争では兵卒の半分が米国籍をもたない移民だったといいます。

 この志願兵の部隊は虐殺事件などを起こすこともありましたが、部隊の指揮官が地域の有力者であることも多かったので、処罰をすることも難しかったといいます。
 志願兵の士官から政治家になるケースも多く、正規軍としては扱いにくい存在でもありました。

 こうした軍のあり方が問い直されたのが南北戦争です。
 例えば、北軍の将軍として名高いシャーマンやグラントは、士官学校の卒業生でしたが開戦時は民間人でした。こうした士官学校の卒業生などが政治家などに伝手で正規軍やミリシアの指揮官になっていきました。
 地域によっては奴隷制への賛成派と反対派が入り混じっており、ミリシアの動員が難しいこともありました。

 政治的な駆け引きもさかんになされており、南軍に対する容赦ない戦いぶりから「野獣(ビースト)」との異名を取ったベンジャミン・バトラー将軍も元は民主党員でありながら、ミリシアを率いてリンカンのもとに馳せ参じ、軍務の経験がほとんどないにもかかわらず少将の地位を得ています。
 
 このように南北戦争時のアメリカにおける軍は非常に雑多な寄せ集めのようなもので、ガリバルディが率いる外国人義勇兵もいましたし、今までミリシアから排斥されていたドイツ系の移民やアイルランド系の移民も、自分たちの地位向上のために戦争に協力していきます。

 戦争はそれまでの差別の構造を変えていった面もあるのですが、そこで大きな役割を果たしたのが先ほど紹介したベンジャミン・バトラーです。
 バトラーはアンドリュー・ジョンソンから「これほど怖れ知らずで破廉恥なデマゴーグに、私は出会ったことがない」(132p)と評された男ですが、マサチューセッツではミリシアからアイルランド系が除隊されそうになったことに反対し、南北戦争では自由黒人の部隊を認め、さらに奴隷主から逃げてきた黒人たちが加わることも認めました。
 リンカンよりも奴隷廃止に積極的で、軍人としては無能でグラントから更迭されたものの、奴隷解放の道を切り開いた人物となりました。

 南北戦争後、南部では黒人ミリシア部隊も誕生します。南部占領が終わるとその数は減っていきますが、それでも黒人ミリシアがなくなることはありませんでした。
 ミリシアは労働争議の鎮圧などの治安維持に用いられましたが、軍事組織としては限界もあり、徐々に軍服や武器を州政府が与えたり貸与するようになりました。

 次に大きな転換点となったのが第1次世界大戦です。
 アメリカが参戦へ向けて動き出すと、元大統領のシオドア・ローズヴェルトは準備してきた志願兵師団を率いて出征することを大統領のウィルソンに願い出ます。
 しかし、ウィルソンは連邦政府主導で兵士として適切な者を強制的に徴用した組織が望ましいとしてこれを断ります。これには軍事上の理由もありましたし、共和党のローズヴェルトが戦場で華々しい活躍をすればウィルソンの民主党は不利になるという政治的な理由もありました。

 ただし、軍の改革自体はシオドア・ローズヴェルト政権のときから始まっていました。
 ローズヴェルトは欧米や日本と戦える大規模な軍の建設を目指し、弁護士だったエリフ・ルートを陸軍長官とともに改革を行います。
 1903年にはミリシア法が成立し、それを基礎に1916年国防法が生まれたことでミリシアの予備軍化が完成しました。ミリシアの予備軍化のために巨額の連邦予算が投下され、ミリシア予算の殆どが連邦政府の負担になりました。

 ただし、1910年のメキシコ革命時にはこの予備軍はうまく機能せず、9万5千人いるはずの常設ミリシアのうち、集まったのは4万7600人と半分程度に過ぎず、その半数ほどが身体検査で兵役不適格となりました。
 そこで、ウィルソンは1917年に選抜徴兵法を成立させます。ヨーロッパに29個師団130万人の兵員を送ることとし、その2割は州の常設ミリシアから派遣されました。
 しかし、派遣される州軍の部隊編成も指揮官の選任も正規軍が行うこととなり、複数の州軍による混成部隊もつくられました。
 第一次世界大戦後も、州軍は定期的な訓練を受けるほかは別の生業を営む人々で構成されていましたが、予備軍としての服務が徹底され、命令に従うことが求められました。

 ウィルソンが志願兵部隊を拒否した背景には人種差別の問題もありました。
 ウィルソンを支えていた南部の民主党の政治家は黒人士官を排除しようとしており、1917年に将軍になることが期待されていた黒人のチャールズ・ヤング中佐は健康問題を取り沙汰されて退役させられてしまいます。
 ローズヴェルトの師団案には黒人連隊も存在しており、師団の幹部としてヤングを起用しようとしていました。
 こうした要因もあってローズヴェルトの志願兵師団は退けられ、黒人兵は主に労役を担当し、軍事施設でも人種ごとの隔離が進みます。

 選抜徴兵法は1940年に第2次世界大戦の勃発を受けて復活し、1972年まで続くことになります。
 第2次世界大戦のときのフランクリン・ローズヴェルト大統領は北部出身であり、軍の人種隔離的な政策を撤廃していきました。

 1960年代になると州軍は人種暴動の鎮圧などに使われるようになります、一方、徴兵から逃れる手段として州軍への志願が選ばれるようにもなりました。ベトナムに出征しないための手段として州軍が利用されたのです。
 
 結局、徴兵の不人気と軍事技術の高度化のためにニクソン大統領によって徴兵は取り止められ、志願制の軍になります。
 福祉制度が貧弱なアメリカにおいてもっとも福利厚生が整っているのが軍であり、これによって志願者の確保を図っています。

 このようにアメリカの軍は20世紀になって他国と変わらないような仕組みになっていくのですが、ミリシアの伝統が消えたわけではなく、さらに2008年のヘラー判決で、個人の自衛権行使のために銃が持てるようになり、銃規制が難しくなりました。
 こうしたこともあり、民間の武装ミリシアをつくる動きは続きますし、それを規制することも難しいのです。

 このように本書を読むと、アメリカにおける「軍」がかなり特殊なものだということがわかると思います。
 銃について独特の考えがあるのはよく知られていることですが、本書を読むと、さらにその背景には軍(ミリシア)についての独特の考えがあることがわかります。
 民間の武装ミリシアと全米ライフル協会の関係など、もう少し近年の民間の武装ミリシアの来歴についても知りたかった感はありますが、アメリカという国の来歴を知ることができる本ですね。

橋本陽子『労働法はフリーランスを守れるか』(ちくま新書) 7点

 ウーバーイーツやAmazonの配達員など、近年になってギグワーカーとも呼ばれるアプリなどで仕事を請け負って働く人が増えています。
 法律的に、彼らは労働者ではなく自営業者に近い位置づけなのですが、実際に彼らの働く様子などを聞くと、自営業者にあるような意思決定の自由がないことも見えてきます。

 本書は、こうしたギグワーカーを始めとしたフリーランスを、労働法においてどう捉えるべきなのか?  どのように保護していくべきなのか? ということを主にヨーロッパの状況と比較しながら論じた本になります。
 著者は労働法の研究者であり、タイトルからくる印象よりも硬めの本で、第2章が「労働法とは何か」となっているようにそもそも的な部分から説き起こしており、やや読むのが骨が折れるところもあるかもしれませんが、本書を読むことで近年の働き方の変化がもたらす問題が見えてくると思います。
 
 目次は以下の通り。
はじめに
第一章 新しい働き方のどこが問題か
第二章 労働法とは何か
第三章 労働者性と使用者性
第四章 どのような法制度が必要か
第五章 「労働者性」を拡大する
第六章 これからの雇用社会

 本書では、冒頭でフリーランスが問題に直面した6つのケースが紹介されています。
 それは例えば、①ウーバーイーツの配達員は労働組合を結成できるか? ②葬儀会社のスタッフが葬儀会社ではなく、葬儀会社と業務委託契約を結ぶ支部長に雇用される契約を結んでいた場合に、葬儀会社とスタッフに雇用関係があることを主張できるか? といった問題です。
 また、③実質的に出るイベントを選べず最低賃金を割り込むような労働的な行為もさせられているアイドルが辞めようとしたところ、事務所の社長から違約金を求められて自殺してしまったケースもあります。

 職種などはバラバラですが、いずれもポイントとなるのが労働者性と使用者性です。
 ①ではウーバーイーツの配達員が労働組合を結成できる労働者かどうかが争点になりますし、②では、葬儀会社がスタッフの使用者にあたるかどうかがポイントになります。
 ③については、必ずしも労働者性がなくても訴えられるケースですが、最低賃金についても問題になっています。

 こうした労働者性や使用者性をどこで判断し、どう見ていくかということが本書のポイントになりますが、まずはフリーランスがいかなる働き方なのかが紹介されています。
 2021年に内閣官房や公取委、中小企業庁、厚労省が公表したガイドラインでは、フリーランスを「実店舗がなく、雇人もいない自営業主や一人社長であって、自身の経験や知識、スキルを活用して収入を得る者」(18p)と定義しています。
 このように定義されるフリーランスじゃ2020年で462万人(本業214万人、副業248万人)と試算されています。
 近年では①のウーバーイーツの配達員のような、アプリを介して働きたいときにオファーを受けるギグワーカーという働き方も増えています。

 フリーランスやギグワーカーの契約は労働契約ではなく業務委託契約になっています。
 そのため発注者側から見れば労働法によるコスト、例えば、最低賃金の支払いや就業規則、労災や解雇からの保護、さらには社会保険料の支払いなどのコストも負わないことになります。
 
 フリーランスというのはどの仕事を受けるのかが自由であるということに特徴がありますが、実態を見ると、専属契約をしている場合が12.3%、特定の依頼者に90%以上の売上を依存しているのが27.5%、50%以上の売上を依存しているのが5割を超えるといいます(22p)。
 また、主たる生計者が本業として行うフリーランスの年収は、200万以上300万円未満が19%と最も多くなっています(23p図1-1参照)。

 一部の自営業者にも労働法が適用されるケースがあります。例えば、製造業のみになりますが家内労働者を保護する家内労働法がありますし、建設業の一人親方などは労災への特別加入ができます。近年では、ウーバーイーツの配達員も労災への特別加入が認められました。
 さらに立場の弱い自営業者を保護するために下請法が制定されており、代金の減額や支払い遅延などを禁止しています。

 フリーランスの保護については2023年に「フリーランス新法」が制定されました。これについては第6章の部分で詳しく紹介したいと思います。
 
 ここまでが序章と第1章。つづく第2章では「そもそも労働法とは何なのか?」という問題をとり上げています。
 ここはヨーロッパでの法学における議論などを踏まえて専門的な議論がなされているので、詳しくは本書をご覧ください。
 ただし、最後のところの、日本では高齢者の適正な雇用機会の提供のためにフリーランス保護が議論されるようになったという指摘は押さえておきたいと思います。

 第3章は「労働者性と使用者性」と題されています。
 労働者性とは働いている者が労働者なのか否かということを識別するための概念です。労基法では、労働者を「使用される者で、賃金を支払われる者」と定めていますが、ポイントになるのは「使用される」という概念だとされています。
 この「使用される」の具体的判断基準には、業務諾否の自由の有無、業務内容や遂行における指揮監督、時間的・場所的拘束性などに加え、機械や器具を誰が負担しているか、などがポイントになります。
 労働者性が昔から争われていた職業としてトラックの持ち込み運転手があげられますが、平成8年の最高裁の判決では、時間的拘束性が緩かったことなどを理由に運転手の労働者性を否定しています。また、トラック運転手についてはトラックを自ら所有していることをもって労働者性を否定する判断もあります。

 次に労組法上の労働者性についてみていきます。ここで素人は「労基法の労働者と労組法の労働者は違うの??」となるわけですが、古い判例では同義だったのですが、近年の判例では違った判断になっているとのことです。
 平成23年に個人事業主として扱われていたメーカーの製品の修理を行っていたエンジニアや劇団の合唱団員に労組法上の労働者性を認める判決が相次いで最高裁で出ています。

 こうした中で、自転車で書類を配達する「ソクハイ」のバイシクルメッセンジャーやNHKの集金スタッフについては、労基法上の労働者性は否定されたものの、労組法上の労働者性は認められています。
 労組法上の労働者性が認めれれるポイントは、事業組織への組入れ、業務の依頼に応ずべき関係、広い意味での指揮監督下の労務提供、機械や器具の負担関係などですが、労基法と労組法における扱いの違いについての明確な基準はないようで、個々の要素を積み上げての判断となっています。
 ちなみにコンビニのオーナーについては、事業組織への組入れを基準にオーナーは独立の事業者であって事業組織へ組み入れられているわけではないとして、労組法上の労働者性を否定されています。

 ウーバーイーツの配達員については、2022年10月に都労委が配達員の労組法上の労働者性を認め、会社側に団体交渉に応じるように命じています。
 ウーバーイーツではほぼすべての配達を配達パートナーが行っており事業組織への組入れが認められました。契約内容の一方的・定型的決定も認められ、業務を行うか否かの自由はあったものの、配達員の裁量は小さく広い意味での指揮監督下にあることも認められました。

 労働者性とともに注目されるのは使用者性という概念です。
 例えば、XはZ社と雇用関係を結んでいるが、実際はZ社の親会社であるY社の命令を受けて働いているようなケースもあります。2008年に大阪高裁はパナソニックの工場でパナソニックの従業員の指揮命令を受けていた下請け会社の従業員との間に黙示的な労働契約が成立していると認めましたが、翌年、最高裁はこの判断を覆しています。採用や賃金の決定にパナソニックが関与していないことを重視したのです。

 アマゾンの宅配については、アマゾンの下請け会社が運転手と業務委託契約をするという形をとっています。個人事業主である運転手はアマゾンとは直接契約していませんが、アマゾンのアプリで配達先や労働時間を管理されているといいます。
 運転手がアマゾンと団体交渉をしようとする場合、まずは運転手と下請け会社の間の契約に労働者性が認められることが必要ですし、さらにアマゾンの使用者性が認められることが必要です。
 労働者性については2022年に労基署によって、アマゾンの下請けの最大手の運送会社である丸和運輸機関の運転手の労働者性が認められたケースもあります
 この使用者性については、放送局のディレクターの指揮命令を受けて働く下請け労働者の組合が放送局に対して団交を要求したことを認めた判決もあり(朝日放送事件)、アマゾンの使用者性が認められる可能性は十分にあります。

 冒頭であげた②の葬儀社のケース(ベルコ事件)でも、葬儀社(ベルコ)が従業員を直接雇用せず、支社長や支部長が雇用するという形式でしたが、2019年に北海道労委はベルコの労組法上の使用者性を認め、団体交渉に応じるように命じています(ちなみにQBハウスを展開するキュービーネット社も同じような契約のスタイルをとっており、キュービーネットの使用者性をめぐって争いがある)。

 第4章ではこうしたフリーランスやギグワーカーの問題について、ドイツやEUの対応を見ていってます。
 ドイツやEUでは社会の均衡の実現のために国家が介入するのは義務であると考える社会的市場恵税の考えが基本にあり、日本よりも積極的な労働市場への介入が行われています。

 EU司法裁判所では、「労働関係の本質的要素は、ある者が、一定期間、他者のために、その指揮命令に服して給付を行い、反対給付として報酬が支払われる点に存在する」(142p)として、労働者の概念を広く捉えています(「ローリー・ブルームの定式」)。
 これだとプラットフォーム上で働くギグワーカーなども労働者に含めれそうですが、実際にEUの立法として明文化される際にはさまざまな抵抗もあり、難航しています(ただし、今月(2024年3月になってEUプラットフォーム労働指令案が合意したとのニュースもある)。

 第5章ではギグワークをめぐる近年の各国の対応が紹介されています。
 この問題が最も早くから問われてきたのがアメリカです。2018年、カリフォルニア州の最高裁が宅配便の配送を行う運転手の労働者性を認め、基準として「ABCテスト」を提示しました。ABCテストとは次の3つの基準に基づき労働者性が推定され、使用者が労働者でないことを立証しなければならないというものです。
A 委託者による指揮監督を受けていないこと
B 委託者の通常の事業過程に含まれな仕事を提供していること
C 独立の事業者として当該職業ないし事業を行っていること(151p)

 例えば、宅配ドライバーやウーバーの運転手は、まさにBの通常の事業に含まれるサービスそのものを提供していることになるので労働者性が推定されることになります。
 しかし、このABCテストの基準が2019年に立法化されたのですが、ロビー活動の結果、多くの職業が適用除外になり、ウーバーの運転手についても一定の保護を与える代わりに、この法の適用から除外されました。いわば、労働者と自営業者の間の「第三のカテゴリー」がつくられた形になっています。

 この他にも第5章では、フランス、イタリア、スペイン、イギリス、ドイツの状況が紹介されています。
 このうち、イタリア、スペイン、ドイツに関しては、いわゆる「第三のカテゴリー」が実定法で定められており、ギグワーカーなどにも一定の労働者性を認めるような形になっています(国ごとの踏み込み方の違いもあり、ドイツでは2020年にクラウドワーカーの労働者性を認め、解雇制限法の適用を認めた判決もでている)。
 その中でも、イタリアにおいて、デリバリーの配達員に対し病気や「正当な理由」(ストライキ)により欠勤を考慮しないアルゴリズムは間接的差別に当たるとされた2020年のボローニャ地方裁判所の判決、ドイツにおいて、フードデリバリーの配達員の自転車とスマホの費用を使用者が負担すべきだとした2021年の連邦労働裁判所の判決などが注目されます。 

 また、ドイツでは「闇労働」とそれへの取り締まりがあります。闇労働とは法律で定められている税金や社会保険料が支払われない労働のことで、これがかなり厳しく取り締まられています。
 ドイツには社会保険料不払罪という刑罰が存在し、罰金または5年以下の懲役刑、特に重大なケースでは6ヶ月〜10年以下の懲役刑となっています(日本にはこうした刑罰はない)。
 ドイツではこの取り締まりのために税関に専門の部局が設置されています。州を越える問題であり、またEU内の人の移動などもあって人身売買などともかかわるために、このような体制になっているそうです。
 この闇労働の取り締まりは、企業に対してフリーランスの活用を慎重に判断させる効果もあります。

 第6章ではこれからの雇用社会を展望しています。リ・スキリングやキャリア権などについても紹介されていますが、ここではフリーランスに関わる部分を紹介したいと思います。
 
 2023年5月に公布されたフリーランス新法は経済法と労働法の規制が組み合わさった独特の性格を持つ法律となっています。
 同法では保護の対象を「特定受託事業者」または「特定受託業務従事者」としていますが、両者ともフリーランスを意味しています。
 この法律では、フリーランス側に責がないときの受領の拒否、報酬減額、返品、買いたたき、物品を強制的に購入させること、不当なやり直しなどが禁止されています。基本的に発注者の資本金が1000万円以上でないと適用されなかった下請法の保護が広くフリーランスにも拡張されました。
 ただし、不当なやり直しについてどこまでを不当とするかは、今後の公取委の対応などに次第だといいます。

 さらに、育児中・介護中のフリーランスへの配慮義務やハラスメントの防止措置、継続的業務委託について、契約を解除する場合には30日前に予告する義務が盛り込まれました。このあたりは労働法における労働者の保護に対応していると言えます。
 ただし、解雇権濫用法理が適用されない以上、育児・介護への配慮義務を定めたとしても委託者はそうした者との契約を解除すれば足りることになります。

 厚生省の「雇用類似の働き方に対する検討会」の座長を務めた鎌田耕一によると、今後の雇用社会は、今までの日本型雇用を踏襲する「組織内キャリア」、専門的な知識や技能を活かす「スペシャリスト型キャリア」、ギグワーカーを含む非正規の「テンポラリー型キャリア」の3つに類型化されるといいます。
 こうした中で、フリーランスはテンポラリー型キャリアだけではなく、スペシャリスト型キャリアにも関わってきます。企業内で一定の技能を身に着けた社員がフリーランスになって仕事を請け負うことが想定されているのです。
 
 こうした動きに対して、著者はフリーランスを広く「労働者」として扱い、保護していくことを主張しています。
 今までの日本では、労働者に認められているものよりも劣る保護を新たに追加するというやり方がとられてきましたが、それによって労働者性は認められにくくなる可能性があり、十分な保護のためには労働者性を広く認めるほうがよいというのです。
 
 このようにフリーランスの保護のあり方とこれからの雇用社会を展望している本書ですが、かなり本格的な法学的議論を盛り込んでおり、また、フリーランスの問題だけではなく近年の雇用社会の変化などについても論じているので、読むのはやや大変かもしれません。
 このまとめでもかなりの部分は割愛しているものの、それでもまとめるのは苦労しました。

 それでも、このまとめでも書いたように、フリーランスが直面している問題だけではなく、それに対する各国の対応やその基底にある法の考えが示されており、これからの雇用社会を考えていくうえでも有益な本だと言えるでしょう。


岡野八代『ケアの倫理』(岩波新書) 7点

 副題は「フェミニズムの政治思想」。近年、新聞記事などでも見かけるようになった「ケア」という考えが、どのように生まれて発展してきたのかをたどった本になります。
 特にケアの倫理の嚆矢と言われるキャロル・ギリガンの『もうひとつの声で』の読解にかなりの紙幅を割いており、「ケア」という言葉がどのような場所から生まれ、なぜ必要だったのかということがよくわかる内容になっています。
 
 個人的に後半の議論では「ケア」の概念があまりにも拡張されてしまっており、「そこまでいくと「ケア」の意味が薄まってしまうのではないか?」と思うところもありましたが、前半を中心に非常に勉強になる本で、読み応えがあります。

 目次は以下の通り。
序 章 ケアの必要に溢れる社会で
第1章 ケアの倫理の原点へ
第2章 ケアの倫理とは何か――『もうひとつの声で』を読み直す
第3章 ケアの倫理の確立――フェミニストたちの探求
第4章 ケアをするのは誰か――新しい人間像・社会観の模索
第5章 誰も取り残されない社会へ――ケアから始めるオルタナティヴな政治思想
終 章 コロナ・パンデミックの後を生きる――ケアから始める民主主義

 本書ではまず、アメリカにおける第二波フェミニズムの動きから説き起こしています。
 第2次世界大戦中は女性も工場労働などの分野に進出しましたが、戦後になると、女性は家庭に戻るか、看護師や教師や秘書などの女性向けの仕事に就くしかありませんでした。
 こうした中で1960年代になると第二波フェミニズムの動きが起こります。その中には、男性社会に平等に参加する権利を求めるリベラル・フェミニストと、男性中心的なものの見方を根源から覆そうとするラディカル・フェミニストがいました。

 リベラル・フェミニストは男女の平等を目指すために、男女の違いがないという主張に重点が置かれましたが、ラディカル・フェミニストはむしろ男女の差異を強調し、女性を抑圧する社会構造の変革を目指しました。

 ここで打倒されるべきものとして浮上してきたのが家父長制です。
 例えば、古代ギリシャのデモクラシーにおいても、市民同士は対等であったとしても、その市民(男性)が自分の家を支配するのは当然でした。
 これまでの社会は、公私二元論により、男性が決定権を持つ家庭の問題を私的領域に押し込めてきました。ラディカル・フェミニストたちが問題にしたのはこの構造であり、〈個人的なことは、政治的である〉(44p)との主張を掲げて、今まで私的領域に留められてきた問題を積極的にとり上げようとしたのです。

 ただし、あまりにも家父長制の影響力を強調すると、中国の纏足も、ヨーロッパの魔女狩りも、あるいは中絶の犯罪化も、すべて家父長制のせいということになってしまい、文化的、経済的要因などが見えにくくなったしまうおそれもあります。
 ここから資本主義の問題を問い直そうとマルクス主義に接近する動きも起きます。ただし、マルクスは労働力の再生産について商品しか問題にしておらず、再生産を支える女性の労働といったものを無視していたと批判されることにもなります。

 1973年の「ロー対ウェイド判決」によって中絶規制法が違憲だと判断されます。これは女性の権利を認めるもので大きな前進でしたが、同時にキリスト教原理主義と結びついたニュー・ライトの台頭を招くことにもなります。
 男女平等憲法修正条項(ERA)は、1972年に議会を通過するものの、各州議会で四分の三以上の承認を得られずに、82年には憲法改正発議の効力は執行してしまいます。
 これには普遍的な原理を持って判断を下す連邦最高裁への反発と、「女性問題」に保守派が参入してきたことが背景にあると考えられています。
 そして、中絶問題は社会を分断する大きな争点になっていくのです。

 こうした中で1982年に公刊されたのがギリガンの『もうひとつの声で』です。
 ギリガンは心理学を学び1964年にハーバード大で博士号を取得していますが、当時の心理学にはあまり情熱を持てず、社会活動家、モダン・ダンサーとして活動していた時期もあったといいます。
 ギリガンは67年に大学に戻ると、69年には道徳性発達理論の権威であるローレンス・コールバーグの助手になりました。

 コールバーグのもとで学生に講義をする中でギリガンが気づいたのは、沈黙せざる得ないような問題の存在です。
 例えば、〈徴兵制に抵抗すべきかどうか〉という問題に対して、男子学生は「徴兵によってかれらが大切にしている関係性や人々がどのような影響を受けるかを考えさせられることを知っているがゆえに、沈黙するしかなかった」(91p)ということがありました。
 ギリガンは男子学生が、私的な関係や自分が大切に思うひとたちの感情を慮る態度は女性的だと感じ、自制しているのだと気づきます。
 
 こうした経験を経て生まれたのが『もうひとつの声で』です。
 この本の第2章では、コールバーグが考案した、「ハインツという名の男が、自分では買う余裕のない薬を、妻の命を救うために盗むべきか否か」という「ハインツのジレンマ」が検討されています。
 ともに11歳の女の子のエイミーと男の子のジェイクの回答がとり上げられていますが、財産よりも命が重要だとして盗む決断をするジェイクに対して、エイミーは「薬を盗んで助かってもハインツは牢屋に入らざるを得ないのでは?」などと考え、逡巡してしまいます。
 このような態度は既存の理論では、「ディレンマの核心を理解していない」「自分自身の判断で物事を考えることができていない」などの否定的な評価を下されがちですが、これを掬い取ろうとするのがギリガンの考えです。

 ギリガンはエイミーの考えに、他者とのつながりに気づき、そこに応答責任を見出すケアの倫理を見出します。
 正義の倫理が公正の論理によって権利間の衝突を解決しようとするのに対し、ケアの倫理は他者とのつながりを続けようとします。こうした態度は既成の心理学からは未熟であるとみなされ、それが「女性は道徳的に未熟だ」といった考えにつながってしまうことがあったのですが、ギリガンはこうした考えは未熟なものではなく、もうひとつの倫理だというのです。

 ギリガンによれば、〈道徳とは何か〉といった一般的な問いに対する女性の語りからは、「〈他者を傷つけたくない〉という望みと、〈誰も傷つかずに問題を解決する方法が道徳にはある〉という期待」(110p)が抽出されるといいます。
 彼女たちは他者を助けることこそが道徳的であると考えていますが、他者を傷つけないという原理を貫くと自己犠牲を迫られるというディレンマにも直面しています。

 ギリガンはこのディレンマを女性が抱え続ける理由として、女性特有の「傷つけられやすさ」をみています。
 政治的・社会的権利を奪われてきた女性たちは他者を喜ばせることが善きことであると信じてきましたが、それとともに女性は男性以上に他者への配慮を求められてきました。
 
 女性は抑圧されてきたわけですが、ギリガンはその抑圧を取り去って男性のような倫理を身につけようとは考えません。
 ギリガンは、ケアの倫理の発達を次の3つのパースペクティブから捉えます。第1の視座は自己の生存を目的に自分自身へのケアに焦点を当てた自己中心的なものであり、第2の視座は他者とのつながりに注目することで、責任概念と母性的な道徳性の融合という性格を持ちます。そして、第3の視座は自己犠牲とケアを混同するディレンマの経験から、自己をもケア関係の中に包摂する力で利己心と責任の葛藤をときほぐしていきます。
 
 この利己性と責任の葛藤を乗り越えるということについて、ギリガンは次のように書いています。

 人生を「一本道」ではなく、「網の目だから、そこではどんな時でも、さまざまな道を選べる。一本の道しかないというふうではない」と考え、紛争はつねにあり、「絶対の要因はない」ことを彼女は理解している。唯一「真に変わらないことは、過程である」。それは、自分の知っていることに基づき、他のもっともな解決もありうることを理解したうえで、ケアしながら決定するという過程である。(117p)

 こうして男性の声だけでない、女性のもうひとつの声に耳を傾けることでより良い社会が可能になると考えています。

 このような内容を持つ『もうひとつの声で』は、大きな反響を巻き起こすとともに、フェミニストからの批判も受けました。
 まず、批判の対象になったのはギリガンが既存の心理学の発達概念を批判しつつ、「発達」という概念は保持したことです。そのため、問題が「発達」によって解決できるかのような印象を与えますが、フェミニストにとってはそうではなくて性差別や抑圧の構造自体を問題にすることが必要だというのです。
 また、ギリガンが聞き取った声は白人中産階級中心であり、黒人や非西洋出身の女性はそうではないといった批判もありました。

 また、ギリガンとしては意図していなかったことですが、女性と男性は本質的に異なっているか否か、男女いずれの性が優れているのか、といった論点で語られてしまいました。
 ギリガンとしては、これまで男性の経験を中心に構築されてきた理論が、いかに女性の声を奪ってきたかということを論じたかったわけですが、それが素直に受け取られたわけではなかったのです。

 ギリガンに触発されて、それまでの男性中心的な哲学を批判したのが哲学者のアネット・ベイアーです。
 ベイアーは、カントなどの道徳理論を取り上げ、約束を守る、嘘をつかないといった義務を教えるのは誰なのか? と問います。義務論が想定する人間はすでに道徳を身に着けている人間であり、それを獲得する過程は無視されているのです。
 
 ベイアーはケアの倫理を西洋の伝統的な個人主義に対する挑戦だとみています。
 ケアの倫理には依存関係に巻き込まれた存在間における関係性の中ではたらいます。それは依存せざるを得ない存在を前にして応答していく関係性の中で生まれてくるものであり、そのプロセスです。
 しかし、このケアは労働集約的であり、ケアを提供する者はそれ以外の活動に時間や労力を割く余裕がなくなりがちです。女性はこうした立場に押し込められてきたとも言えるでしょう。
 こうしてケアの仕事を女性に押し付けた男性が、あたかも何者にも依存してないかのように語るのがこれまでの正義の倫理であったというのです。

 ケアと正義の関係については、のちの論者の中でもさまざまな立場があり、①正義一元論、②ケア一元論、③ケアと正義の併存論、④ケアと正義の統合論、という4つの立場が想定されています。
 このうち、ギリガンが批判したコールバーグは①であり、ギリガンは④の立場だと考えられています。
 ただし、著者はこのような整理では見落としてしまうことも多いといいます。著者は「ケアの倫理の意義は、倫理学的な点にではなく、ケアの倫理が、むしろ社会変革、現在の社会編成のオルタナティヴを志向している点にこそ求めたい」(160p)と書いており、今の社会を問い直す視点としてのケアの倫理を重視しています。

 ギリガンは『もうひとつの声で』の5年後に公刊された「道徳の指向性と発達」の中で、パースペクティブとしての正義とケアという視点をよりはっきりと打ち出しています。
 正義のパースペクティブから見れば、社会関係はあくまで背景であり、注目されるのは道徳的行為者ですが、ケアのパースペクティブから見れば、むしろ自己と他者の関係性こそが中心になるというわけです。
 例えば、中絶の問題においても、正義の倫理では「胎児は人格か?」といった問題が浮上しますが、ケアの倫理においては、母親と胎児の関係性、あるいは母親とそれまでの家族の関係性などがクローズアップされます。
 ギリガンは正義の倫理を否定するわけではありませんが、、あたかもそれが唯一の、あるいは最上位のパースペクティブとして流通していることを批判しています。
 
 こうしたケアの倫理を女性という性と結びつけることに関してはさまざまな議論がありますが、あえて「母的思考」という概念を使ったのがサラ・ラディクです。
 ラディクによれば、母親業とは放っておけば命を落とすことが必至な子どもの要求に応え、さまざまなはたらきかけをしていくことです。このような母親業遂行から母的思考が生まれます。
 このように子育ての主体を「母」に代表するラディクの考えには多くの批判もありましたが、ラディクは、この母的思考を公的領域に持ち込むことで、身体的・精神的苦痛を軽視する現在の社会を変革することができるとしています。

 このラディクの考えを受け、『愛の労働あるいは依存とケアの正義論』を書いたのがエヴァ・フェダー・キテイです。キテイには重い障害を持ちほぼ24時間のケアが必要な娘がおり、著作にもその経験が反映されています。
 キテイは娘のケアのために住み込みのヘルパーを雇いますが、自分とヘルパーの関係は家父長制的でもあり、フェミニストで平等主義者であったキテイにとっては葛藤の伴うものであったといいます。
 それでも依存する存在への責任がよりよく共有される社会であれば、こうした母親業の困難も緩和されるのではないかとキテイは考えます。
 さらにキテイは、ロールズの正義論では、当初、原初状態の当事者は家長であったことを取り上げて批判し、依存者とそれをケアするものを含む平等というものを考えていきます。

 法学者のマーサ・ファインマンはキテイの議論などを受けつつ、婚姻制度の廃止というラディカルな提言を行っています。
 ファインマンは依存関係を中心とする家族と性的な結びつきにすぎない婚姻を混同しないように訴え、務めている大学でも花形教員を引き止めるために配偶者への優遇措置が議論されたときに、それならば教員の子どもへの優遇措置こそが必要だと訴えたといいます。 
 ファインマンによれば、なぜ解消することが可能で、永続することが確実でもない婚姻関係が、そうではない親子関係よりも重視されるのはおかしいというわけです。
 ファインマンは、ケアの観点から家族を「性的家族」から切り離し、「母子」を基本と単位に再編成することを要求しました。この「母子」とはメタファーだといいますが、当然ながら女性を子育てに縛り付けるものだとして批判も受けています。

 第5章では、ケアを表す言葉として「文脈依存とそこから生じる脆弱性/傷つけられやすさ(ヴァルネラビリティ)」(242p)という表現が登場します。自立的・自律的な存在ではなく、依存し傷つけられやすい存在を基盤とした思想がケアの倫理というわけです。
 だたし、第5章では、さらにジョアン・トロントのケアについての次のような定義も紹介しています。

 もっとも一般的な意味において、ケアは人類的活動であり、わたしたちがこの世界で、できるかぎり善く生きるために、世界を維持し、継続させ、そして修復するためになす、すべての活動を含んでいる。この世界とは、わたしたちの身体、わたしたち自身、そして環境のことであり、生命を維持する複雑な網の目へと、わたしたちが編みこもうとする、あらゆるものを含んでいる。(256p)

 著者も「ここまで本書を読まれてきた方は、この定義に戸惑うのではないだろうか」と書くように、あまりに漠然としており、何でもありの定義です。
 トロントはこれに対して、〈人間のあらゆる活動は、まさしくケアなのだ〉と言うわけですが、個人的にはここまでくると、ケアという言葉は全てに当てはまるマジックワードになってしまっていると思います。

 このあとのアイリス・ヤングの責任論などは興味深いと思いますが、平和論とケア、気候変動とケアのような話になると、別にこうした問題は必ずしもケアで語るべきものでもないような気がします。
 例えば、今までの正義論は「他者の困窮や苦悩に無関心」(276p)だと言いますが、ピーター・シンガー的な功利主義なら違うでしょうし、気候変動対策だって将来世代の効用を計算に入れた功利主義で正当化できるでしょう。
 このあたりは読む人によって違うでしょうが、自分は具体的な関係性を離れた部分での「ケア」という言葉にあまり重要性を感じませんでした。配慮することは重要でも人間が配慮できる対象は有限なはずです。

 というわけで、トロントのケアの定義以降の部分は乗れないのですが、そこまでの部分は面白く勉強になりました。
 1つのパースペクティブとしてのケアという考えの意味や魅力といったものは本書を読んで掴むことができたのではないかと思います。
 新書でありながら、なかなか読み応えのある本ですが、十分にチャレンジする価値はあると思います。


森村進『正義とは何か』(講談社現代新書) 7点

 同タイトルの新書が中公新書からもでていますが(神島裕子『正義とは何か』)、その分析対象は大きくずれています。
 神島本も本書もロールズによって「正義論」が復権したと考えていますが、神島本がロールズ以後の展開を追っているのに対して、本書はプラトンからロールズに至る正義論を見ていきます。

 ただし、ご存じの方も多いと思いますが、著者はリバタリアニズムの立場をとる法哲学者であり、本書も「正義論の歴史をたどる」といったものではないです。
 一定の立場から、古典的な思想家の正義論を分類、検討したものになります。

 ただし、著者が一定のスタンスで批判的に検討していることによって、それぞれの思想家の問題点や曖昧な部分もクリアーになっており、哲学について一通りの知識がある人にとっても面白い本になっていると思います。
 「ホッブズは「社会契約論者」ではない」といった刺激的な主張もしており、古典的思想を再検討するきっかけにもなる本です。

 目次は以下の通り
はじめに――いま、なぜ過去の正義論を見直すのか?
序章 正義論のさまざまなパターン――本書のねらい
第一章 正義とは魂の内部の調和である――プラトン
第二章 正義とは他の人々との関係において現れる徳である――アリストテレス
第三章 正義とは相互の利益になる契約を実行することである――ホッブズ
第四章 正義とは自然権の保護・実現である――ロック
第五章 正義とは慣習によって生じた財産権規則を守ることである――ヒューム
第六章 正義とは非難が適切であるということと権利の保護である――スミス
第七章 正義とは「定言命法」に従うことである――カント
第八章 正義とは功利の原理に役立つ「かもしれない」ものにすぎない――功利主義
第九章 正義とは社会制度の第一の徳である――ロールズ
あとがき――文献案内をかねて

 まず、正義には他の諸価値と違って、複数の人々に関わる「対他性」、他の諸価値に対して優越する「優越性」があるといいます。
 ただし、思想家によってこれらの要素をどれくらい含むかには違いがあり、プラトンは正義をもっぱら個人の魂の状態として理解していますし、ベンサムは正義に重きをおいていません。

 本書が最初に取り上げるのはプラトンですが、著者はプラトンを徳倫理学の典型とみています。
 プラトンは個人における正義を考えるにあたって、まずは理想のポリスを描き出します。そのポリスでは理性に優れた哲学者が支配者となり、勇気に優れた戦士がその支配を補助し、欲望が支配的である一般大衆が生産に携わります。
 この三者の調和や均衡をプラトンは正義だと考え、個人においても知恵と勇気と節制が調和している状態が正義だと考えます。
 正義はあくまでも個人の魂の状態を指し、その人の行動の性質などは問題にしません。不正な人はそれだけで不幸であり、正義における対他性は意識されていないのです。

 プラトンの弟子のアリストテレスの正義論はよく知られています。
 著者はアリストテレスの正義論は〈行為の基準に関する義務論〉と〈個人の性質に関する徳倫理学〉の二面性を持つものだといいます。

 アリストテレスは『ニコマコス倫理学』の中で正義を諸徳の中でもっとも重要なものとして取り扱っています。
 アリストテレスは、まず正義を「一般的正義」と「特殊的正義」に分けています。前者は「完全な徳」が他の人との関係において現実化するときに認められるとしており、正義の対他性を指摘しています。
 勇気や節制は基本的にはその人のためにあるものですが、正義は他の人々の利益を守るものであり、自分にとっては不利益にもなり得ます。

 「特殊的正義」は何らかの名誉や財に関する割り当ての正しさについてのものであり、一種の平等のことになります。
 この特殊的正義は、さらに「分配的正義」と「矯正的正義」と「応報的正義」に三分されます(「矯正的正義」と「応報的正義」をもとめて「交換的正義」とする見方もある)。
 分配的正義は主に公的な名誉の授与を問題にしており、矯正的正義は損害賠償を、応報的正義は自発的な財の交換や売買を問題にしています。

 アリストテレスは刑罰や売買に一種の等価性を想定しており、市場取引もウィンウィンの関係ではなくゼロサム的な関係を捉えています(どちらかが得をしていればどちらかは損している)。
 著者はこのアリストテレスの考えが、限界革命に至るまでの経済学の誤った考え(例えば労働価値説など)のもとになったと考えています。
 アリストテレスの加害行為の分類が、英米法で殺人を、過失殺人、故殺、謀殺の3つに分けることにつながっているのではないかという指摘を含めて、アリストテレス哲学の西洋における強い影響力を感じさせます。
 アリストテレスの正義論については内容空虚な類型学だという批判もありますが、「しかしそれだからこそ、彼の正義論は実質的な道徳観を異にする人々の間でも共有できる便利な概念枠組みを与えることによって影響力をもってきた」(63p)のです。

 アリストテレスは基本的には徳倫理学に分類されます。
 この徳倫理学は我々の日常的な道徳の感覚や実践と調和するという利点がありますが、著者に言わせれば、行動の結果よりも動機や意図や行為者の性質に重大な関心を持つのはおかしいという考えです。

 徳倫理学は一般的にコミュニタリアニズムと結びつくと言われますが、必ずしもそうではないといいます。
 ニーチェの超人思想は一種の徳倫理学ですが反社会的なものですし、マッキンタイアも反時代的な徳倫理を唱えています。アリストテレスも究極的には真理を観照する哲学者の活動が至高のものだとしており、必ずしも共同体の活動を最重要視しているわけではありません。

 アリストテレスの次にとり上げられているのはホッブズです。
 ホッブズは自然状態において人間は「自由」だと言っていますが、この「自由」とは「禁じられていない」というだけで何らかの正当性を持つものではありません。自然状態の中では基本的に道徳も存在しないのです。
 ホッブズは「平和を求めるべきである」→「そのために自然権を放棄すべきである」→「人は結ばれた契約を履行すべきである」といった順で自然法を考えており、この「契約の履行」を「正義」だとしています(この後、20個の自然法が続く)。
 
 ホッブズの自然法は「こうしなければならない」というよりは、「平和に暮らすならこうした方が良い」というもので、カント的に言えば仮言命法になります。
 誇りや名誉心といったものは平和を脅かすものとして警戒されており、平和を維持するために各人の平等が要請されます。
 また、別々の意見の人が公的問題について口出しすることも有害だと考えています。つまり国民の政治参加は有害なのです。
 一般的にホッブズは社会契約論者だと考えられていますが、ホッブズは契約の有無にかかわらず支配者が国家を実効的に支配していれば人はそれに従うべきだと考えており、国家にとって契約は必須ではありません。

 第4章ではロックがとり上げられていますが、著者はロックは近世の社会契約論の典型だとみています。
 ロックは社会契約は現実にどの国でも結ばれたし、現在の国民も他国に移住せずにその国に澄続けることで暗黙のうちに社会契約を行っていると考えます。
 また、ホッブズの「自然権」が「禁止されていない」ことに過ぎないのに対して、ロックの「自然権」は道徳権利であり、現在の人権に近いものになっています。
 ロックの自然権は社会契約後も活き続けるもので、この自然権を守ることが正義になります。

 ロックの自然権論の特徴はその所有権論です。ロックは身体の自己所有を基礎に、労働によるって所有権の確立を唱えました。
 著者は「正義論の歴史におけるロックの功績は、個人主義的・自由主義的な古典的自然権論の典型を与えた点にある」(113p)とみています。

 第5章ではヒュームがとり上げられていますが、ヒュームの正義論は極めて限定されたものです。
 ヒュームは、①所有、②同意による所有の移転、③約束、という3つの規則の遵守だけを正義、そして自然法という名で呼んでいるのです。
 所有を重視する点はロックと似ていますが、ヒュームは所有の保護は社会契約ではなくコンヴェンション(慣習)によって成り立ってきたと考えます。

 ヒュームによれば、勇敢さや善意といった徳に比べて正義は人為的なものだといいます。勇気や善意は本人か他の人々にとって直接快いか有用であるためにその場で賞賛されますが、正義の有用性は長い経験を経て有用であることがわかるといいます。
 
 ヒュームは、「人間の利己性」「事物の希少さ」「事物の保有の不安定性」「個人間の大まかな平等性」から正義の発生を説明しています。
 人間は利己的ですが、人間にとって価値のあるものは無尽蔵ではありません。また、財産などは奪うことができ、人間の能力は大まかに平等です。こうした状況では、所有や移転や約束を守る正義というはたらきが必要になるのです。
 そして、この考えはハーバート・ハートの「自然法の最小限の内容」に近いものになっています。

 ヒュームについては徳倫理学の要素を指摘する声もありますが、著者はヒュームの考えは規則帰結主義と契約主義によって基本的には説明できると考えています。

 第6章はアダム・スミスです。
 ヒュームは「不正を受けた人への共感や好況の利益への共感が道徳的善悪の感覚を生み出した」(132p)と述べていますが、この「共感」を道徳理論の中核に据えたのがスミスです。

 スミスによれば、われわれは経験を通じて、対象となる人の感情に同一化するのではなく、また自分自身や特定の人の感じる評価的共感や反感を無批判に受け入れるのでもなく、「不偏的観察者」が持つであろう共感によって適正性を判断するようになるといいます。
 この不偏的観察者は、何らかの加害行為が行われたときに、被害者に代わって罰を与えたいと考えるでしょう。この処罰が正義になります。
 一方、適切な行為に対しては報奨を与えたくなります。このふさわしい報奨を与えることが善行です。
 これはアリストテレスの交換的正義と分配的正義に重なるものです。

 スミスは正義と善行という2つの徳に関して、「社会にとって正義は必要不可欠だが、善行は必ずしもそうではない」(139p)と考えます。
 この正義は自然権と結びついており、自然権には自分の身を守る権利だけではなく、その違反に対する処罰を求める権利も含まれるのです。

 スミスの考えのポイントは「不偏的観察者の判断の基準はいかなるものか?」ということですが、スミスは行為者がどのような人であったかよりも、行動の状況が重要だとしています。
 この状況についての判断は社会によって違うと考えられ、不偏的観察者の判断も、まずは隣人との関わりや社交の中で培われていくと考えられます。

 第7章はカントです。カントが正義を明示的に論じているのは『人倫の形而上学 法論』のみだといいます。
 ただし、『道徳[人倫]形而上学の基礎づけ』(以下『基礎づけ』や『実践理性批判』で展開されている「道徳的勝ちがある/ない」の議論は、「(道徳的に)正しい/不正だ」と言っているのとほぼ大差がなく、本書では『基礎づけ』における議論をとり上げています。

 『基礎づけ』では「善意志」だけが無制限な善だとしています。この結果ではなく意志こそすべてという考えに賛同するかどうかは人それぞれだと思いますが、著者は明らかに否定的です。
 善意志から行われた行為でも悪い結果を生むかもしれませんし、幸福が不確かであるなら意志もまた不確かです。さらに「他人の幸福は目的だが、自分の幸福は手段に過ぎない」という利己主義の裏返しのような主張にも説得力はないといいます。
 さらに著者は「これほど幸福の内在的価値を素直に認めないことはカント倫理学の重大な欠陥だ。道徳理論の中でも幸福は善であり不幸や苦しみは悪であるとどうして考えないのだろうか?」(162p)と述べています。

 この後、カント批判としてお決まりの「善き人」よりも「自らの傾向性逆らって善いことをする人」が評価されてしまう問題や、定言命法についてのパーフィットによる改良版などが紹介されていますが、詳しくは本書をお読みください。
 また、『人倫の形而上学 法論』から自由や所有権などを論じている部分を紹介し、自由権を基礎としてカントと似た問題を論じたスペンサーの議論についても触れています。

 第8章は功利主義です。ただし、功利主義者は特定の正義の観念を積極的に提示しようというよりは、日常的な正義の考えを功利主義によって説明・正当化する傾向が強いといいます。
 実際、ベンサムは正義を、最大幸福原理が特定の行動についてとる形態に過ぎないと考えています。

 一方、J・S・ミルはもう少し突っ込んで正義について論じており、『功利主義』の第5章では、「正義という観念が功利主義という正しい理論の受け入れを邪魔してきた」(202p)とも論じています。
 確かに全体として正義は社会の効用を増進させる働きがあるのですが、例えば、犯罪者の処罰についてもどの程度の罰を与えるかは正義の理論では導き出せず、功利の原理によって決めるしかないといいます。
 
 ただし、著者は『自由論』を読むと、ミルは純粋な功利主義者だったのか疑問も湧くといいます。そこで、本書ではシジヴィックについても検討しています。
 シジヴィックはさまざまな正義観を検討し、「われわれは満足できる形でそれぞれを単独に定義することはできないし、ましてやそれを調和させることはできない」(214p)と結論付けています。結局のところ、正義は「最大幸福を実現するためい役立つかもしれない経験則以上のものではない」(215p)というのです。

 最後はロールズです。
 ロールズの「正義」の特徴は、個人や行為が持つ性質や個々の規則が持つ性質でもなく社会制度全体が持つべき性質を問題にしていることです。
 ロールズは正義の3つのレベルとして、ローカルな正義(さまざまな制度や結社に直接適用される)、国内的正義、グローバルな正義の3つを想定し、公正としての正義は2つ目の国内的正義にかかわるものだとしています。そして、ここからローカルな正義やグローバルな正義に影響を与えていくというのです。
 また、ロックなどが個人の自然権からボトムアップ的にアプローチしたのに対して、ロールズは国家の形からトップダウン的にアプローチしていると言えます。

 ロールズはご存知のように「無知のヴェール」という道具を使って、自分の性別や能力も性格もわからない状況を想像させますが、「自分がどこの国に生まれるか?」ということは自明のことだとして扱っているといいます。これもロールズにとって「国家」という枠が非常に強いことを表しています。
 また、ロールズの議論では国家についての正義から、個人の道徳が導き出されており、著者はそうしたことにも疑問を持っています。

 このように、著者のスタンスがはっきりしている本で、純粋な入門書としては癖があるかもしれませんが、スタンスがはっきりしている分、それぞれの思想家の特徴も見えてくるようになっていると思います。
 「正義とは何か」という問題にズバリ答える本ではありませんが、各思想家の考えをたどることで、正義が人を惹きつける力や、その定義の難しさといってものも浮かび上がってきます。


正義とは何か (講談社現代新書)
森村進
講談社
2024-01-17


鈴木真弥『カーストとは何か』(中公新書) 9点

 インド社会の特徴としてあげられるのが「カースト制度」です。このカースト制度のもとで「ダリト(不可触民)」と呼ばれる被差別民がいるということも知られていると思います。
 ただし、このカースト制度というのはかなり複雑です。学校などではバラモン、クシャトリヤ、ヴァイシャ、シュードラという4つのヴァルナ(種姓)があるということを習うかもしれませんが、実際はもっと複雑で外部からはそう簡単には理解できないものになっています。

 本書はそうしたカースト制度の実態を教えてくれるだけではなく、差別されている不可触民(ダリト)へのインタビューなどを通じて、どのように差別され、どのような生活を送り、差別についてどのように感じてるのかというとを教えてくれます。 
 差別というのは非常にデリケートな事柄であり、なかなか外部からは見えにくいことですが、本書はその実態に迫っています。
 カースト制度を通じて、インド社会の特殊性を教えてくれると同時に、どの世界でもみられる差別の普遍性にも気づかせてくれる読み応えのある本です。

 目次は以下の通り。
序章 カーストとは何か
第1章 不可触民とされた人びと―被差別集団の軌跡
第2章 差別批判と解放の模索―迷走のインド政治
第3章 清掃カーストたちの現在―社会的最下層の実態
第4章 インド社会で垣間見られるとき
第5章 世界で姿が見えるとき
終章 カーストの未来、インド社会のゆくえ

 本書では、まずカーストを次のように説明しています。

 カーストとは、結婚、職業、食事などに関してさまざまな規制を持つ排他的な人口集団である。カースト間の分業によって保たれる相互依存の関係と、ヒンドゥー教的価値観によって上下に序列化された身分関係が結び合わさった制度をカースト制と呼ぶ。(5-6p)

 もともと「カースト」は外来語で、ポルトガル語の「血筋、人種、種」などを意味する「カスタ」に由来します。
 このカーストには、インド社会における「ヴァルナ」と「ジャーティ」という2つの概念が含まれています。
 ヴァルナは北方からインドに侵入したアーリヤ人が持ち込んだものと言われ、紀元前8〜7世紀に成立したと言われます。バラモン、クシャトリヤ、ヴァイシャ、シュードラという4つの区分があり、さらに紀元後4〜7世紀にシュードラの下に不可触民=ダリトというカテゴリーが付け加えられたと言われます。
 
 このカーストをイギリスが植民地支配に利用したことが、曖昧で体系だっていなかったカースト集団やカースト制の概念を実体化させたともいいます。
 ただし、著者は「カーストはイギリスによってつくられた」という見方は誤りだといいます。
 例えば、ガーンディーはイギリスの植民地支配に抵抗しましたが、職業の世襲を重視し、カーストを「健全な分業」とし、「優劣のないカースト」を求めていました。カーストはインド社会における巨大な分業の体系でもあるわけです。

 現在では、ダリトに対する暴力や差別的行為はインドの憲法や法律で明確に禁止されています。
 農村では差別的習慣が残っているものの、都市部ではそのような習慣が大っぴらになることはありませんし、清掃カーストを指す「バンギー」という呼称も差別用語として使われなくなっています。
 それでも差別がなくなったとは言えず、さまざまな場面で顔をのぞかせるのです。

 紀元前6世紀頃のインドにはさまざまな賤民集団がおり、仏典には「チャンダーラ」と呼ばれる身分が登場します。
 チャンダーラは、シュードラの男とバラモンの女の混血に由来するとも言われますが、チャンダーラは上位のカーストのものが不浄なものとして忌み嫌う、死刑執行、動物の死体処理、清掃、土木作業などに従事していました。
 紀元後になると隷属民とされていたシュードラと庶民であるヴァイシャの境界が曖昧になりますが、その一方で不可触民の数が増え、カテゴリーとして確立していったと考えられます。

 この不可触民という身分は、イギリスの植民地支配の中で政治的に位置づけられていきます。
 特に重要なのが1930年代にイギリスが導入した「指定カースト」という制度です。これは不可触民に優遇措置を講じるために不可触民という集団を公的に認知したものでした。
 この集団に認定されると、国会下院、州議会下院での議席や公職の留保、教育・経済面での優遇措置などを受けられますが、集団が認定されるか否かは政治的な判断に任されています。
 このようなアファーマティブ・アクションは他国では立法で行われていますが、インドでは憲法に書き込まれているのが特徴です。

 不可触民=ダリトは細かい集団に分かれています。また、人口のどのくらいの割合を占めているかも州によって大きく違い、指定カーストの人口比が30%を超えるパンジャーブ州のような州もあれば、ミゾラム州では0.1%しかおらず、代わりに指定カーストと同じく政府の保護的措置を受ける「指定部族」が多いといいます(50−51p1−2参照)。
 政府の保護的政策によって差はつまりつつありますが、識字率をみると、指定カーストはインドの平均に比べて低く、特に女性は低い水準にとどまっています(55p1−3参照)。
 また、全体的に北部の州では指定カーストの識字率が低い傾向があります(56p1−4参照)。

 同じくダリトへの差別を解消を訴えながら、そのアプローチが大きく違ったのがガーンディーとアンベードカルです。
 ガーンディーが進めたのが「ハリジャン運動」です。ガーンディーらは、「不可触民を「友なく、無力で、弱い存在」として、神に保護されるべき人たちと評し、ハリジャンと表現していた」(70p)のです。
 
 ガーンディーは不可触民の問題を差別する側の心の問題として捉え、差別する側の改心によって差別をなくそうとしました。
 ガーンディーは先述のようにカーストを否定してはおらず、例えば、清掃の仕事をするバンギーを「社会全体の健康を衛生に維持により守り保障する。[中略]バンギーはすべての奉仕の基礎をなしている」(73p)と称揚することによって差別をなくそうとしました。

 一方、アンベードカルは不可触民出身であり、ガーンディーのやり方を温情主義的だと考えて批判しました。
 アンベードカルはダリトが今の境遇から抜け出すためには、憐憫に頼るのではなく、ダリト自身が教育を受け、従属的立場を自覚して自力で改革に取り組まなければならないと考えました。
 そして、死の直前に彼と同じカーストの人々50万人とともに仏教への集団改宗を行っています。

 1930年代にガーンディーとアンベードカルの間で論争が行われましたが、その争点の1つが選挙制度でした。
 1919年のインド統治法で、インドでは宗教を基本とする分離選挙制度が徹底され、各教徒の人口比に応じて州立法参事会の議席が配分されることになりました。
 ここで不可触民の宗教帰属が問題になります。不可触民の中からはキリスト教などへ改宗する動きがありましたが、これはヒンドゥー教の勢力衰退につながります。そこで、ヒンドゥー教徒も不可触民の問題を取り上げざるを得なくなります。

 ガーンディーは不可触民は紛れもないヒンドゥー教徒という立場で、不可触民に固有の権利を認めることは分離主義につながってしまうという考えでした(実際にイスラーム教徒はパキスタンとして分離した)。
 しかし、アンベードカルによれば、ガーンディーのやり方では不可触民運動から不可触民の当事者が排除されてしまうといいます。アンベードカルは分離選挙によって不可触民が議会に代表を送ることが重要だと考えました。
 結局、ガーンディーが命がけの断食を行うことで、アンベードカルの妥協を引き出します。分離選挙は行われず、不可触民の留保議席を増やすことで決着がつきました。

 独立後、しばらくは経済開発と民主化によって差別は解消されるだろうという楽観的な見通しがありましたが、うまくいきませんでした。
 1967年に国民会議派が初めて国会での優位を失うと、貧困問題への取り組みが重要視されるようになり、60年代末から指定カースト向けの政策が拡充されていきます。 
 1980年代になると、留保政策の影響もあって指定カースト出身者の社会進出が進みます。ただし、1991年に経済の自由化が始まると、指定カーストの最大の受け皿であった公務員の採用数が減少していくことになります。

 インド政府は特に不浄視されている屎尿処理人の境遇を改善するための政策を打ち出していきますが、その政策の柱の1つは水洗便所の設置や乾式便所の改善で、差別をなくすというよりは、その仕事をしなくてすむようにするものでした。
 しかし、従来の乾式便所がどれくらい残っているのか、屎尿処理人の転職は進んだか、といったデータは不十分で、十分に効果をあげているかどうかはわからないといいます。

 ダリトの中でも最下層と位置づけられているのが屎尿処理人を含む清掃カーストです。
 その起源は意外に新しいとも言われ、イギリス植民地支配の中で都市が発展し乾式便所が普及してから集団が形成されたという研究もあるそうです。
 ただし、デリーの場合だと、農村の掃除や動物の死骸の処理などを行っていた「チューラー」と呼ばれるカーストが都市の清掃を担うようになったと言われるように、以前から差別されていた階層の人々だったようです。そして、清掃カーストにも呼び名のちがったさまざまな集団があります。

 ダリトの職業はヒンドゥー教の浄/不浄の概念と強く関わっています。死に関するもの、排出物、廃棄物、血液などに接触するものは不浄とされ、ダリトの仕事とされてきました。
 2011年の国勢調査によれば、インドではトイレのない世帯が53.1%、農村部では69.3%だったそうですが、これはトイレを不浄とみなすヒンドゥー教の考えにより、家の中にトイレを作ることを敬遠することも背景にあるといいます。

 カーストと職業の結びつきは産業構造の変化や村落共同体の衰退によって緩和されつつあるといいます。
 ただし、清掃カーストについては他のダリトカーストに比べ職業との結びつきがむしろ強まっていると言われます。急速な都市化によって清掃の仕事が増えていること、清掃カースト出身者が他の仕事につける機会が十分でないことなどが原因だと考えられます。
 一方、皮革カーストの「チャマール」は、多くの清掃カーストよりも識字率や高等教育への進学率が高く、他産業へと進出しています。

 ここでは基本的に文献資料を通じてカーストのことが解説されてきましたが、第4章では実際の著者の体験やインタビューを通じてカーストの実態が語られています。

 ヒンドゥー教では、浄/不浄の考えから、食事では菜食主義が良く、肉を食べるとしても豚は不浄であり、避けるべきものとされています。また飲酒も避けるべきものとされています。特にガーンディーは禁酒運動を推進しました。
 一方、豚はダリトにとって貴重なタンパク源であり、飲酒をするダリトも多いです。ただ、これには屎尿処理人などは、酒でも飲まなければ強烈な匂いの中で作業はできないという面もあるようで、仕事前に飲まざるを得ないという人もいるといいます。
 
 飲食に関して、インドでは「誰と食べるか?」というのはデリケートな問題で、上位カーストは自分よりも下位のカーストから不浄性が感染しないように注意を払っています。
 その一方で、ダリトの従属性を示すための行為として、ダリトに残飯が与えられるという行為があります。
 屎尿処理を行っている女性によると、残飯は「手渡しではなく。いったん床に投げられるか、置かれるのよ」(158p)とのことで、店などでもダリトには釣り銭を投げて渡すことも多いといいます。
 こうしたことがあるせいか、ダリトの集会では集会後に食事が提供され、みんなで一緒に食べるといいます。

 カーストが問題になるのが結婚です。近年ではカーストの壁を乗り越えてダリトカースト出身者が上位カースト出身者が結ばれるケースもありますが、それが相手方の家族や親族との軋轢を引き起こし、場合によっては暴力事件に発展するケースもあるといいます。
 特にカーストの高い女性とカーストの低い男性の結婚は忌み嫌われ、家の「名誉を守る」ために殺人事件が起こることもあります。

 本書では具体的なカーストを超えた結婚の例が2つ紹介されています。
 一人はディーピカー(仮名)という女性で、バールミーキ出身ながら名門大学の助教という地位でカーストの異なる男性と恋愛結婚しています。
 ディーピカーがこの地位につけた背景には、父親が大学の清掃職をしており、彼女が11歳のときに父親は亡くなってしまったものの、長女がその職を継ぐことができたからだといいます。政府系の清掃職では家族がその職を継ぐ慣行がみられるのです。
 長女が結婚したあとは母親が清掃職を継ぎ、ディーピカーは家族のサポートを得て進学することができたといいます。

 もう一人のレーカー(仮名)は、父親は国鉄の技士である公務員で、親族に清掃員は一人もいなかったといいます。
 レーカーは博士号まで取得し、34歳で同じ大学出身でバールミーキ男性と結婚しました。代理出産で息子をもうけましたが、息子にはカーストのことは知らせていないといいます。
 ただし、指定カーストとして優先枠を利用するためには自らのカーストを明かす必要があり、指定カーストの留保枠を使うかどうかは一つの決断になります。

 留保制度などによってダリトの生活に一定の向上は見られますが、それへの反発もみられます。
 インドでは2014年にインド人民党のモディー首相が就任して以来、ヒンドゥー・ナショナリズムの風潮が強まり、ムスリムへの暴力事件などが増えていますが、ダリトを標的とした暴力もあるといいます。
 政府の公式統計においても、指定カースト、指定部族を標的とした犯罪は2015年から増加傾向にあります(203p5−2参照)。
 
 特にダリトの女性への性犯罪は増えており、2016〜19年にかけてインド全体のレイプ事件は約17%減少しましたが、ダリトカースト女性の被害件数は約37%増加しています。
 また、こうした事件が起きても警察の動きが鈍い、公共的な議論が盛り上がらないといった状況もあります。

 2005年におきた「ゴーハーナー事件」は、地主のカーストであるジャートとバールミーキのカースト間の争いから、ジャート側の1500〜2000人の暴徒がバールミーキの居住区を襲ったという事件で、警察や行政が予兆を掴んでいたにもかかわらず起きています。
 上位カーストの中には留保制度への不満もあり、また、農村部では旧来のカーストのパワーバランスが崩れてきたことが暴力の背景にあるといいます。
 さらに近年では「牛保護団」なる団体のメンバーが牛皮を運んでいたダリトを集団でリンチする事件が起こるなど、ヒンドゥー・ナショナリズムの高まりを背景とした事件も起こっています。

 高学歴を得たダリトにもさまざまな抑圧はあり、2016年にはハイデラバード大学でダリト出身の大学院生ローヒト・ヴェームラーが自殺する事件が起きています。
 ヴェームラーはダリトの学生団体にも関わっていましたが、インド人民党に近い民族義勇団(RSS)傘下の学生団体からの圧力などが自殺につながったとも言われています。
 この事件は高学歴のダリトの若者に大きな衝撃を与え、自らダリトであることをカミングアウトする運動なども起きました。
 カーストによる差別は、海外のインド人コミュニティやインド人が多く働く企業の中にもあり、BLM運動などと共振しながら、差別の撤廃を求める動きが起こっているといいます。

 この海外でのカーストの問題や、映画の中に出てくる差別の一端などはコラムにまとめられており、そこも本書の読みどころとなっています。

 以上のように本書はカーストという外からはわかりにくいものに肉薄した内容になっています。
 前半の文献資料から組み立てている部分だけではやや漠然としている部分が、後半の著者の現地での経験やインタビューなどを通じた部分を通じて一気にクリアーになっていきます。
 最初にも述べたように、本書を読むことでインド社会の特殊性と差別の普遍的な側面(日本の部落差別を思い起こさせる部分もある)が同時にわかるようになっており、インドと差別を考えるうえで重要な1冊となっています。

大月康弘『ヨーロッパ史』(岩波新書) 6点

 なかなか大きなタイトルですが、本文は230ページほどであり、当然ながら「ヨーロッパの通史」を目指した本ではありません。
 著者はビザンツ帝国の経済史などを専門にしており、前半はビザンツ帝国のユスティニアヌスやカール大帝、オットー大帝などの皇帝たちの行動から、彼らを突き動かしたものを探り、そこから「ヨーロッパ」というまとまりを考えようとしています。
 後半は「オイコノミア」というキーワードなどから、ヨーロッパの近代社会がいかにして立ち上がってきたのかを探る構成になっています。

 古代〜中世のヨーロッパやヨーロッパの思想史や歴史学にそんなに詳しくないせいもあると思いますが、前半はいろいろと興味深かったですけど、後半は前半とのつながりや、現在とのつながりがあんまりよくわからなかった感じですね。
 前半はいろいろと意欲的に掘り起こしていながら、後半はかなり保守的なヨーロッパ像に落ち着いている感じもあり、後半に関してはそれほど面白さを感じませんでした。

 目次は以下の通り。

第1章 大帝を動かす〈力〉――伏流水
第2章 終末と救済の時間意識――動力
第3章 ヨーロッパ世界の広がり――外延
第4章 近代的思考の誕生――視座
第5章 歴史から現代を見る――俯瞰
おわりに――統合の基層

 4世紀のテオドシウスが死に際してローマを分割してしまったことで、「ローマは終わった」という印象を持つ人もいるかもしれませんが、東ローマ帝国(ビザンツ帝国)は長く存続していきますし、ユスティニアヌスのようにローマ帝国の版図を復活させた皇帝もいました。
 本書では、ユスティニアヌスだけではなく、カールやオットー1世、バシレイオス2世を「大帝」と位置づけ、彼らの事績を辿りながら「ローマ」というものを捉え直しています。

 ユスティニアヌスはローマ世界を復活させようとした皇帝でしたが、同時に「キリスト教的な皇帝」でもありました。「「世界」を救済する使命を自らの当為とした皇帝」(4p)でもあったのです。
 
 ユスティニアヌスはマケドニア地方の農民の子として生まれ、そこから皇帝まで上り詰めました。
 彼は527年に即位するとその半年後にローマ法典の編纂を命じ、のちに『ローマ法大全』と呼ばれるものが完成しました。この『ローマ法大全』は近現代ヨーロッパ諸国、とくにフランスとドイツの法の基礎となっています。
 また、対外戦争によって領土を広げ、各地にキリスト教の聖堂を建設しました。ユスティニアヌスによって整備されたキリスト教機構は、それまで都市の有力者が行っていた社会機能を肩代わりするようになり、その後のヨーロッパの特徴となる社会経済構造がつくられていくことになります。

 カール大帝というと、西ヨーロッパ世界を立ち上げた人物として知られていますが、本書ではその背景にイスラームのヨーロッパへの進出をみています。
 北アフリカを西進したイスラーム勢力は711年にトレドを占領して西ゴート王国を滅亡させます。さらにピレネー山脈を超えてガリアにも侵攻しますが、トゥール・ポワティエ間の戦いでフランク王国の宮宰であるカール・マルテルに敗れたことから、さらなるヨーロッパへの進出は食い止められました。

 カール大帝の父のピピンはカール・マルテルの子であり、フランク王国の王となってカロリング朝を開くと、イタリアに遠征し教皇に土地を献上します。
 カールはアルプスを越えて逃れてきた教皇レオ3世を奉じてイタリアに遠征し、800年にローマ皇帝の冠を教皇から授けられます。これがいわゆるカール戴冠です。
 この戴冠は必ずしもカールが望んだものではなかったとも言われます。ローマ皇帝を名乗ることはビザンツ帝国との軋轢を生むからです。
 そのため、この戴冠には聖像崇敬問題でコンスタンティノープルと対立していたローマ教会の思惑があったと考えられます。ローマ教会はビザンツの普遍性を認めず、カールを「新ダヴィデ」とすることで、カールの王国を「キリスト教の帝国」にしようとしたのです。

 カールの死後、フランク王国は分裂しますが、東フランク王国から出て「大帝」と呼ばれるようになったのがオットー1世です。
 オットーは955年のレヒフェルトの戦いでマジャール人を撃退すると「キリスト教国を救った聖戦士」と称えられるようになり、962年にローマで戴冠され、皇帝になっています。
 ただし、その後のオットーはイタリアの経営に腐心します。イタリア中南部と伝統的にビザンツ皇帝の支配下にあり、オットーはビザンツとの関係改善のため、ビザンツの皇女の降嫁を打診したりもしています。オットーは、その後、息子のオットー2世にビザンツ皇帝ヨハネス1世ツィミスケスの姪のテオファノを降嫁させることに成功します。
 
 8世紀の終わりまでにローマとコンスタンティノープルの結びつきは崩壊していましたが、それでもビザンツの中で自分たちこそが正統なローマの支配者であるという意識は残っていました。
 10世紀後半に即位したバシレイオス2世は、ブルガール人を制圧し、さらに南イタリアのランゴバルド人を服属させました。
 バシレイオス2世の時代には、キエフ公国のウラディミル1世がキリスト教の信仰を受け入れていますが、こうしたことも世界に「平和」をもたらす出来事として認識されました。

 このように10世紀前後は、西と東に「大帝」と呼ばれる人物が出現し、精力的に活動を行いました。
 この背景に著者は「シュビラ」と呼ばれる預言書の存在があると指摘しています。
 シュビラとは本来、神の御意志を解釈し、人びとに将来生ずることを伝える女預言者」(53p)であったそうですが、こうした預言が文書の形で残り、黙示的文学として広がっていたといいます。

 第2章では、改めて大帝たちを駆り立てた〈力〉が分析されています。
 ユスティニアヌスが活躍した6世紀は地中海世界で地震と旱魃が相次いでおこり、ペスト禍に襲われた時代でもありました。
 こうした中で、コンスタンティノープルが海に沈むといった予言が現れ、「最後の日は近い」ということも言われるようになりました。

 この時代に生まれたのが人類の歩みを記した世界年代記と呼ばれるものです。そして、世界年代記の作者たちの間には「第六番目の千年紀が過ぎ去った」という共通認識がありました(当時のビザンツの世界暦では西暦1年を5509年としていた)。
 人間の千年は神の目には一日に映り、キリストはその6日目の半ばに生まれたといいます。この6日間は天地創造の6日間に対応しているとも言われ、ここから「世界の終わり」がやってくるという感覚が生まれていました。

 こうした中でローマ帝国のあり方も捉え直されていったといいます。
 キリスト教が生まれた頃、ローマはそれを弾圧する否定的な存在として描かれていましたが、4世紀にローマがキリスト教化の道を歩み始めたことでローマを積極的に位置づけるようになっていきます。
 また、今使われている西暦もユスティニアヌスの時代に生まれたもので、人びとが新しい時間意識を持ち始めたことを示しています。
 ユスティニアヌスも来たるべき「最後の時」に備えるべき行動したのではないか? とも考えられるのです。

 第3章では、中世のヨーロッパについて、ビザンツを中心とした自己完結で普遍的な世界という視点からその歩みを辿っています。
 本書が注目するのは10世紀なかばのコンスタンティノス7世という皇帝と、彼の残した著作です。

 その著作の1つが『帝国の統治について』と呼ばれる、自分の息子に帝国のの周辺部に住む民族の歴史や地理的環境を教えようとした本です。コンスタンティノス7世は『テマについて』という帝国の属州についての本も記しており、これで帝国の内外の状況がわかるようになっています。
 『帝国の統治について』では、ブルガール族やルーシなどの帝国周辺の民族から始まり、アラブとムハンマドの歴史、イベリア半島、イタリアの情勢、バルカン半島の民族などがとり上げられています。
 当時ビザンツは各地にカタスコポンと呼ばれる諜報員を派遣しており、そういったカタスコポンからの情報などを取り入れて書かれたと考えられます。

 また、コンスタンティノス7世には『儀礼について』という著作もありますが、これを併せてみると当時のビザンツの帝国の秩序が見えてきます。
 『帝国の統治について』では〈ローマ人〉(ローマイオイ)、〈夷狄の民〉(エトネー)という用語が出てきますが、ビザンツではこうした認識のもとで、異民族を「子供」「兄弟」「友人」関係に擬えた外交が行われていました。
 
 例えばブルガリア人王との関係では、ビザンツ皇帝は「霊的父」、ブルガリア人王は「皇帝の霊的息子」となります。この「子供」のカテゴリーには大アルメニアなど諸キリスト教国の支配者たちが入ります。
 「兄弟」となるのは、ザクセン、バイエルン、イタリア、ドイツ、フランスの諸キリスト教国の王たちです。
 最後の「友人」に入るのが、エジプトの「エミール」やインドの支配者です。
 この他、地方の支配者や、ハザール族の可汗やアラブ人カリフなどの非キリスト教支配者たちには縁故関係を示す呼称はつきませんでした。
 このあたりの疑似家族的な関係は中国の皇帝が周辺の国や民族と取り結んだ関係を思い起こさせます。

 当時のビザンツは「キリスト教ローマ帝国」と言うべき存在であり、皇帝はキリスト教でもって世界を救済するという使命を帯びながら活動していたのです。

 第4章では、時代は近代へと向かいますが、最初にとり上げられているのがレコンキスタです。
 カールはイベリア半島に遠征を行いましたが、778年のロンスヴォーの戦いで敗れています。その後、10世紀なかばにコルドバのカリフ、アブド・アッラフマーン3世がイベリア半島の支配をほぼ完成させると、オットー1世はイベリア半島のキリスト教共同体保護のためにアッラフマーン3世とたびたび使節を交わしました。
 
 その後、キリスト教勢力が盛り返し、1492年にレコンキスタが完成します。しかし、この過程の中で1391年には大規模な反ユダヤ暴動があり、1492年にはイベリア半島のユダヤ人に対してキリスト教に改宗するか、国外に退去するかという命令が出ました。これによって多くのユダヤ人(人数には諸説ある)が国外に逃れたといいます。

 一方、東では1453年にコンスタンティノープルが陥落します。
 14世紀末以降、オスマン帝国の攻勢の前に危機的な状況に陥っていたビザンツでしたが、ついにその命運が尽きます。ビザンツの共同皇帝だったヨハネス8世は1438〜39年に開かれたフェラーラ=フィレンツェ公会議に自ら赴いて十字軍の派遣を訴えますが、その努力も実りませんでした。
 ただ、このヨハネス8世の来訪がイタリアに新プラトン主義を伝えたとも言われ、これがイタリア・ルネサンスの1つのきっかけになったともいいます。

 地動説を唱えたコペルニクスは、ボローニャ大学で法学を修めています。そして、コペルニクスが初めて世に問うた本は、7世紀にコンスタンティノープルで活躍した文人テオフュラクトス・シモカテスの詩編集のラテン語訳でした。
 天文学についてもコペルニクスはビザンツの影響を受けている可能性があります。

 当時、知られていた世界歴において、1491−2年は世界暦7000年にあたるとされていました。
 中世では、これを意識して終末論的な考えが広まっていたわけですが、世界は終わりませんでした。本書では、ヨーロッパはここから新たな「世界」に開かれたとみています。
 
 次に、ヨーロッパの近代思想の1つの源流になったものとして「オイコノミア」に注目しています。
 第3章の終わりでは「オイコノミア(神の摂理)」として登場していますが、もともとは「家」を意味するオイコスと、「法」や「摂理」を意味するノモスを結合した言葉で、家政と結びついていました。
 家の家長には財産や使用人をマネジメントする能力が求められますが、こうしたことを教えてくれるのがオイコノミアだったわけです。

 このオイコノミアはエコノミー(経済学)の語源でもありますが、同時に神学的な意味を与えられていた時期もありました。
 パウロはオイコノミアを「信仰にもとづく神の恵みの分配」、「慈悲深いご計画」、「奥義の分配」といった意味で使っています(175p)。
 さらにエウセビオスはオイコノミアをテオロギア(神性)に対する「受肉」の意味で使っており、「本質」に対置される地上における「実践」の意味を持つようになっています。
 こうした使い方は17〜18世紀のフランスのキリスト教思想家ニコラ・ド・マルブランシュなどにも受け継がれているといいます。

 フーコーもこうしたオイコノミアの概念を使って議論を展開しており、「霊魂の統治」が実際の政治統治のモデルになったとみています。
 アダム・スミスが打ち立てた経済学についても、著者は「「見えざる手」(摂理)のもとにある《自由》な行為主体」(182p)ということで、キリスト教的世界観に規定されたものとみています。
 
 第5章では近代ヨーロッパ社会が検討されています。
 第4章では、オイコノミアの概念と絡めてフーコーやアガンベンの名前も出ていたのですが、ここでは《自由な個人》の誕生という、かなりオーソドックスな話になります。増田四郎の研究などを引きながら、日本の「近代化」についても批判的に検討されているわけですが、個人的には第4章までの議論とこの第5章の議論のつながりがよくわかりませんでした。
 坂口ふみ『〈個〉の誕生』の議論も紹介されているので、そのあたりを読んでいれば見えてくるものもあるのかもしれませんが、本書を読んだだけでは、第4章→第5章の議論の運びは唐突に思えます。

 というわけで、第1章〜第3章についてはいろいろ勉強になりましたし、面白い部分もあったけど、第4章〜第5章については議論の筋がよくわからなかったです。
 ビザンツをヨーロッパの1つの軸に据える見方は面白いと思いますが、第5章になると比較手見覚えのある「ヨーロッパ論」になっていて、そのあたりも少し物足りなく感じました。

榎村寛之『謎の平安前期』(中公新書) 8点

 これは歴史好きにとっては惹かれるタイトルではないでしょうか?
 平安時代といえば794年〜鎌倉幕府の成立(成立年は諸説あり)の約400年を指し、イメージとして強いのはちょうど「光る君へ」でもやっている藤原道長や紫式部の時代です。
 ただし、藤原道長は966年に生まれ1027年に亡くなっているので、ちょうど平安時代中頃の人物になります。
 「じゃあ、その前の時代はどうだったの?」と言われると意外とイメージがないのではないでしょうか?

 もちろん、平安京をつくった桓武天皇や最澄や空海など平安時代初期についてはそれなりのイメージがあるでしょうが、その後となると、日本史の教科書では「藤原北家の台頭」というストーリーで語られることが多いでしょう。
 調べてみれば結果としてそうなっただけであって、例えば薬子の変も応天門の変も藤原北家台頭のための事件というわけではないのですが、藤原道長の栄華などから逆算的に歴史が形作られている面が強いです。
 
 そんな平安時代の前期について、改めて迫ったのが本書になります。
 目次を見てもらえばわかるように、平安時代前期の通史ではなく、さまざまなトピックに沿って平安時代前期を読み解いていくという構成になっています。
 女性の役割や紀貫之や紫式部といった文学者の位置づけについても述べられており、「光る君へ」の副読本としても面白いでしょう。

 目次は以下の通り。
はじめに―平安時代は一つの時代なのか?
序章 平安時代前期二〇〇年に何が起こったのか
第1章 すべては桓武天皇の行き当たりばっかりから始まった
第2章 貴族と文人はライバルだった
第3章 宮廷女性は政治の中心にいた
第4章 男性天皇の継承の始まりと「護送船団」の誕生
第5章 内親王が結婚できなくなった
第6章 斎宮・斎院・斎女は政治と切り離せない
第7章 文徳天皇という「時代」を考えた
第8章 紀貫之という男から平安文学が面白い理由を考えた
第9章 『源氏物語』の時代がやってきた
第10章 平安前期二〇〇年の行きついたところ

 平安時代は、その前の奈良時代と比較してもわかりにくさがあります。
 奈良時代には律令制が導入され、戸籍や税のデータが集積されました。役人についてもきちんとしたデータが作られており、さまざまなものが可視化されました。ただし、データ通りの政治が行われていたかについては疑義もあります。
 一方、平安時代は律令制が日本の身の丈にあった形で整理されていく中で過剰なまでのデータ化は行われなくなっていきます。
 さらに9世紀後半(887年)以降になると、歴史書が作られなくなります。ますますわからないことが増えていくわけです。

 本書ではまず、平安時代の前半200年について100年ごとに分けて年表を示していますが(1−8p)、前半100年(9世紀)には大きな改革や戦争などが目立ちますが、後半100年(10世紀)になると、大きな事件が少なくなってきます。
 著者はこの9世紀〜10世紀にかけて「大きな政府から小さな政府へ」という変化があったといいます。
 軍団が廃止されてコンパクトな健児制にあり、私有地開発を公認することで民間活力を使う方針になっていきます。さらに地方官の権限を強めて、彼らを使って地方の富を都に還元する仕組みをつくりました。仏教についても、最澄の天台宗と空海の真言宗が国家から戒壇を設置する権利を得たことで、国家だけが管理するものではなくなっていきます。

 序章でこういた大きな流れが指摘されたあと、以下の章では章ごとのトピックに沿う形で議論がなされています。大まかに時代順に並んでいますが、気になったトピックから読み始めるのもありでしょう。

 第1章は桓武天皇についてです。桓武天皇は平安京への遷都を行い、平安時代の幕開けを飾った天皇ですが、異色の天皇でもあります。
 桓武の父は天智天皇の孫である白壁王(光仁天皇)であり、今までの皇統からは離れた存在でした。さらに母は渡来系の高野新笠であり、異母弟であった皇太子の他戸親王が廃された後に皇太子になっています。
 他戸親王の母は聖武天皇の娘である井上内親王であり、瀧浪貞子『桓武天皇』(岩波新書)も指摘するように、この井上内親王と他戸親王の存在が光仁の即位の決め手だったと思われます。

 こうした背景をもつ桓武は大和川水系の平城京を捨て、淀川水系の長岡京に都を遷そうとし、さらに同じく淀川水系の平安京に遷都します。
 この大和川水系から淀川水系への遷都に関しては水運の利用という要因があると考えられますが、同時に聖武天皇の影響を断ち切る必要もあり、そのためにも遷都が行われたというのが本書の見立てになります(このあたりは瀧浪貞子『桓武天皇』と少し違うか)。
 ちなみに長岡京は早良親王の怨霊によって棄てられたのではなく、「政治をする宮と経済である港の再分離」(53p)とみています。

 第2章では、桓武天皇の治世の末期に行われた「徳政相論」から文人という存在に光を当てています。
 徳政相論は「軍事(東北戦争)と造作(平安京の造営)」をめぐって藤原緒嗣と菅野真道が天皇の前でディベートを行い、中止を主張した藤原緒嗣の案が採用されました。
 議論の勝敗に関しては出来レースだったと思われますが、注目すべきは菅野真道の菅野氏は15年ほど前に真道が賜姓されてできた氏族だということです。
 菅野朝臣氏は、それ以前は津連(つのむらじ)、さらにその前は津史(つのふひと)で、姓からみても急速に出世していることがわかります。

 この時代には菅野真道以外にも、讃岐の出身で元は秦公(はたのきみ)を名乗っていた惟宗直本、小野妹子の玄孫の小野岑守(小野篁の父でもある)など、名門ではない氏族から学問の力によって出世した人々がいました。
 傍流となっていた天武天皇の子孫から右大臣に上った清原夏野や、阿衡の紛議にも登場する橘広相なども学識によって出世した人物と言えます。
 他にも本書では、三重県の北部の員弁(いなべ)郡にいた猪名部造善縄(いなべのみやつこよしただ)が春澄(はるすみ)という姓を与えられ、ついには参議にまでなった春澄善縄のケースなどが紹介されています。

 日本では中国のように本格的な科挙は導入されませんでしたが、9世紀には学問によって立身出世を遂げるケースがみられました。
 官人登用試験の対象者は大学を修了した者に限られていましたが、8〜9世紀にかけては実際の政治に関わるような問題が出題されるなど、一定の機能を果たしていたのです。

 このような学問によって出世を果たした筆頭が菅原道真なのですが、菅原氏は道真の頃にはすでに学問の家として知られている家でもありました。
 その道真の失脚は、学者が政治の世界から消えていく主張的な事件にもなりました。さらに学問の世界にまで藤原氏の進出が進みます。紫式部の父の藤原為時もそのような人物ですが、為時は越前守までしか出世できませんでした。
 
 第3章では女性の地位の変化が検討されています。
 律令制下では女性も氏女や采女として天皇のプライベートである後宮を支えました。後宮というとハーレムのようなものを想像する人もいるかも知れませんが、奈良時代の天皇には女性が多く、女官は政治においても重要な役割を果たしていました。
 特に「内侍司」を束ねる尚侍と、「蔵司」のトップの尚蔵は重要で、前者は天皇のメッセンジャーのはたらきをし、後者は神璽などの天皇の宝を管理していました。
 美努王との間に橘諸兄、藤原不比等との間に光明子をもうけた橘(県犬養)美千代は天武〜聖武に仕え尚侍にもなった人物ですし、藤原仲麻呂の妻の袁比良(おひら・房前の娘)は尚蔵と尚侍を兼ねていたといいます。

 奈良時代には天皇と皇后は別居していたとも言われ、光明子も藤原不比等の邸宅に住み、そこに聖武天皇が通っていたともいいます。
 四位以上の女性貴族は独自の家政機関を置くことを許されていたようで、女官の地位はかなり高く、飯高諸高、吉備由利など名を残している女性も多いです。

 ところが平安時代になると女性は政治に世界から退場し始めます。
 薬子の変で有名な藤原薬子は平城天皇の尚侍となって権勢をほしいままにしたとされていますが、薬子の変のあとに設置されたのが蔵人であり、尚侍や尚蔵がもっていた天皇の側近としての地位を奪うものでした。
 一方、貴族の娘の中には女官として出仕せずに「深窓の令嬢」として育てられるケースも見られるようになっていきます。
 
 桓武天皇は20人以上の女性を相手に子をなしており、その中には宮人(一般の女官)も多くいます。この傾向は嵯峨天皇も同じですが、宇多天皇となると後宮にいた12人のうち、宮人は「伊勢」と呼ばれた女性だけです。
 女官の採用年齢も高齢化したようで、天皇の相手はキサキを出す氏族に限定されていったのです。
 一方、登場したのは「キサキの女房」で女御や更衣に仕える女性です。『伊勢物語』の作者ともされる伊勢もこのような女性だったと考えられており、紫式部や清少納言もこうした立場だった人物です。

 平安時代の女流文学はこうした女性たちに担われていたのですが、彼女たちの本名は儀同三司母=高階貴子、大弐三位=藤原賢子を除けば明らかになっていません。
 女性が公的な場所で活躍するとはなくなり、その才能は摂関家によって開かれた女御のサロンなどでしか発揮されなくなったのです。

 第4章では皇位継承の問題がとり上げられています。
 奈良時代は天武と持統の血を守るために、文武には持統が、元正には元明が、聖武には元正が、孝謙には聖武がといった具合に天皇を上皇がサポートする体制になっていました。
 上皇という立場から皇位の継承をコントロールしたのが嵯峨です。嵯峨は弟の淳和に皇位を譲ったあとも影響力を持ち、承和の変を通じて、皇統と自らの子である仁明ー文徳ラインへと動かします。
 嵯峨の死後は、このラインを守る「護送船団」のリーダーに藤原良房が就き、外祖父という立場から清和天皇の摂政になります。
 また、淳和の正子内親王(嵯峨の娘)以降、皇族皇后がいなくなり、最高位の女性権力者は天皇を産んだ摂関家出身者ということになっていきます。皇族から天皇の母が出なくなることで、女性天皇も生まれなくなっていくのです。

 さらに本書では、良房の後を受けた基経が陽成天皇の母である高子とうまくいかなかったことが陽成廃位の要因ではないかと指摘し、さらに陽成、高子とも近く、平城天皇の血を引く在原業平の存在も基経にとっては排除すべきものと写ったのではないかと指摘しています。

 この後、基経の死もあって宇多が政治の主導権を握り、菅原道真を引き上げましたが、前にも述べたように菅原道真は失脚させられてしまい、権力争いは藤原北家内部の争いに移ってきます。
 そうした中で、出世の道が絶たれた中下級の貴族たちは受領を目指すようになり、またその一部は軍事貴族となって武士となっていくのです。

 第5章は「内親王が結婚できなくなった」と題されていますが、まさにこの通りのことが起きました。
 先述のように、淳和の皇后であった正子内親王以降、皇族出身の皇后はいなくなります。律令の継嗣令では、内親王は天皇からみて四世以内の皇族男性と結婚できないと定められていました。このため、もともと内親王の結婚相手は限られており、嵯峨天皇には25人ほどの娘がいましたが、ほとんどが未婚のままだったと考えられています。

 当時の貴族社会には社交の場はほぼなく、内親王を「見染める」男性貴族もほとんどいませんでした。
 
 結果として内親王は伊勢斎宮、賀茂斎院といった職務を務めることになりますが、それについては第6章で詳しく述べられています。
 このあたりは著者の専門の1つであり、本書の中でもかなり専門的な話が展開されているので詳しくは本書を御覧ください。
 
 第7章は「文徳天皇という「時代」を考えた」。
 文徳天皇の業績について挙げられる人は少ないかもしれませんが、『日本文徳天皇実録』という彼一代の歴史書が編纂されていることを知っている人はいるかもしれません。
 政治については基本的に藤原良房が仕切っており、文徳天皇の個性というのはあまりうかがえないのですが、唐の皇帝の祭祀をまねした「郊祀」を行うなど、独自の動きも見せてます。
 また、大仏の首が落ちるという事件に対処したのも文徳天皇で、著者はこのような凶事に対して、文人官僚とともに新しい政治を模索し、その道半ばで斃れた天皇としてその姿を捉え直しています。

 第8章では紀貫之と『新古今和歌集』がとり上げられています。
 紀貫之は『古今和歌集』の仮名書の序文において、柿本人麻呂と山部赤人を持ち上げているものの、在原業平や小野小町といった六歌仙を一長一短があるいって下げ、『古今和歌集』こそこれらかの和歌の基盤になると謳い上げています。
 実際にその後の勅撰和歌集は『古今和歌集』の強い影響を受けて作られるようになるのですが、実は紀貫之の前半生はよくわかっていません。身分が低く、記録に残っていないのです。

 紀貫之は『古今和歌集』の仮名序において自らを御書所預と名乗っており、翌年に越前国の少掾に任官しているらしいのですが、これは本来の律令制では従七位上という下級役人です。その後、紀貫之は土佐守になっていますが、従五位下で貴族の最下層です。
 実は『古今和歌集』の他の選者、紀友則、凡河内躬恒、壬生忠岑の身分はみな低いです。和歌は出生にはつながらず、あくまでも趣味のものでした。
 六歌仙を見ても、いわゆる文人は見当たらず、文人は漢詩をたしなみ、そうではないひとが趣味的にたしなむものが和歌だったのです。

 9世紀の後半から「歌合」という和歌を詠み合うイベントが行われるようになりますが、歌を読む参加者の身分は比較的低いのが特徴です。
 平安時代後期になると、和歌の選者の身分も上昇し、藤原定家などは正二位中納言だったわけですが、平安時代中期までは身分の低い歌人の歌を身分の高いものが楽しむという構図でした。
 著者はこれをポケモンとトレーナーの関係になぞらえ、歌人=ポケモン説を唱えています。

 第9章は『源氏物語』です。ここではこれまで語られてきたことが『源氏物語』と結び付けられるとともに、『枕草子』にみられる定子のサロン、そしてそれに対抗した彰子のサロンについて語られています。
 定子は漢文の教養のあった高階貴子を母に持った教養のある女性だったと考えられています。その定子のサロンは一条天皇を惹きつけました。
 こうしたサロンは彰子の女房たちによっても形成されます。紫式部、赤染衛門、和泉式部を抱えたサロンは、『源氏物語』や『栄花物語』を通して、女性からみた「歴史」というものを紡ぎ出していくことになります。
 政治の場から退場させられた女性たちでしたが、「政治意識」については鋭敏に持っていたと言えるのかもしれません。

 最後の第10章は本書のまとめのようなものになっています。

 このようになかなか面白い視点の本だと思います。「平安時代の前半って何があったんだっけ?」という多くの人が感じる素朴な疑問について、ジェンダーや文学などを通じて迫っていくやり方は読み物としても面白いですし、歴史を見直す上でも新しい視点を提供してくれます。霞がかかった時代のガイドにもなる本です。

筒井淳也『未婚と少子化』(PHP新書) 8点

 『仕事と家族』(中公新書)、『結婚と家族のこれから』(光文社新書)などで、日本の家族の問題を論じてきた社会学者が、少子化問題にフォーカスして現在の日本の抱える課題を整理した本。
 今までの本でも少子化問題を論じてきましたが、本書では少子化に絞ってコンパクトに論じてます。

 そして、本書の特徴の1つがタイトルに「未婚と」とあるように、少子化問題の大きな要因を未婚ん問題として議論を進めている点です。
 「少子化問題への対策」→「育休の充実や保育園の整備といった子育て支援」となりやすいですが、多くの人が結婚してから出産する日本において、これはすでに結婚している人に効く政策です。ところが、現在の日本の少子化の一番の要因は未婚化・晩婚化です。
 このあたりのズレを指摘しながら、既存の少子化対策を問い直していくような内容になっています(著者は子育て支援を否定しているわけではなく「少子化対策」としての有効性を問うています)。

 当然のことながら少子化対策の「魔法の杖」が提示されているわけではありませんが、少子化問題を考える上でのさまざまなデータが充実しており、少子化問題を考える上での基本図書となるような1冊です。

 目次は以下の通り。
第1章 少子化の何が問題か
第2章 何が出生率の低下をもたらしたのか
第3章 少子化問題と自治体
第4章 グローバルな問題としての少子化
第5章 少子化に関わる政策と数字の見方

 第1章では少子化問題の整理が行われています。
 少子化は大きな問題だと思われていますが、同時に今の日本の人口が少なすぎると考えている人はそんなにいないでしょう。
 かつてのフランスではドイツに比べて人口が少ないことが安全保障の面で問題だと考えられており、そこから少子化対策(人口増加策)がスタートしましたが、「日本も中国に負けない人口を持たなければ」と考える人は少ないと思います。
 つまり、日本で問題となっているのは、少子化による高齢化の進展であり、社会保障制度の持続可能性の問題であると、とりあえずは考えられます(本書でも指摘されているように、日本以上に少子化が進む台湾や韓国では少子化は安全保障上の問題だとも考えられていますが)。

 日本では昭和40年代から過疎の問題が浮上していました。ただし、この時期の出生率は人口置換水準を上回る状況が続いており、都市部への人口流入が問題となっていました。
 ところが、日本全体で少子化が進行していくるにつれ、過疎の問題は少子化の問題としても意識されるようになってきます。

 1975年ころまでは、出生数は20〜34歳の女性人口と連動していました。出産適齢期の女性が増えれば出生も増えるといった具合です。ところが、1975年以降はこの関係が弱くなり、1990年代後半以降、団塊ジュニア世代では20〜34歳の女性人口が増えているにに出生数が増えない状況になりました(38p図表1−4参照)。
 団塊ジュニア世代以降になると、そもそも20〜34歳の女性人口も減ってくるので、一人の女性が産む人数が増えても出生数の減少は避けられない状況です。
 ですから、社会保障制度の維持を目的に掲げるのであれば、外国人労働者の受け入れに力を入れたほうがいいのかもしれないのです。

 第2章では出生率低下の要因を探っています。
 1947〜49年にかけてのベビーブーム時には出生率は4を超える水準でした。その後、低下していきますが、人口置換水準への低下であり、この低下の要因となったのは人工妊娠中絶の「合法化」でした。
 ベビーブーム世代は団塊世代となり、彼らが結婚や出産の適齢期になった1971〜74年には再び子どもが増え、団塊ジュニア世代が生まれます。

 その後、1970年代後半からは人口置換水準を割り込むような出生率の低下が進み、1989年の「1.57ショック」で少子化は大きな問題として認識されるようになります。
 その後、出生率は2005年に1.26まで低下し、その後、2015年に1.45まで盛り返しますが、再び下がり始め、2022年には過去最低の1.25となっています。

 以下の53p図表2−2「女性の出生コーホート別・年齢階級別出生率」を見ると、さまざまなことが見えてきます。

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 例えば、15〜19歳の欄を見ると、いつの時代も0.02〜0.03で、世代を問わず100人中2〜3人が出産したことがわかります。
 ところが、25〜29歳の欄を見ると、1955〜59年生まれが0.92なのに対して、1975〜79年生まれでは0.45と半減しています。一方、30〜34歳、35〜39歳、40〜44歳では1975〜79年生まれが1955〜59年生まれを上回っています。ただし、累積の欄を見ると、1955〜59年生まれが1.92、1975〜79年生まれが1.47(1975〜79年生まれの45〜49歳の出生率はまだ観察されていないが、ほぼ0に近いことが予想できる)と大きな差がついています。
 これを見ると、出産の時期が遅くなっており、若い時期の落ち込みをカバーしきれていないことがわかります。

 ちなみに、この表からは1970〜74年生まれのいわゆる団塊ジュニア世代の出生率が後続の世代よりも低く、バブル崩壊後の景気低迷の爪痕を感じさせます。

 この出生率の現象の背景にあるのが未婚化と晩婚化です。
 未婚率を示すときに50歳時の未婚率が使われます。2020年の国勢調査によると、そのときの50歳(ほぼ1970年生まれ)では男性の27.5%、女性の17.3%が未婚でした。

 62p図表2−5に1975〜2015年にかけての女性の世代別出生率と有配偶出生率が載っていますが、これを見ると有配偶出生率は1975〜2015年にかけて特に下がっていません。30代前半と後半についてはむしろ上がっています。結婚している女性の出産は減ってはいないのです。
 ところが、出生率が20代前半と20代後半で大きく低下しています(30代は増えている)。つまり、未婚化や晩婚化が出生数は押し下げていることがわかります。

 ただし、まだ未確定ながらも2020年の有配偶出生率は低下傾向を見せているそうで、さらなる出生数の減少が起こる可能性もあるといいます。

 このように少子化の大きな要因は未婚化・晩婚化であるにもかかわらず、政府の対策は、育休の充実や保育所の整備といった有配偶者向けのメニューに偏っていました。
 2023年に発足したこども家庭庁のスローガンは「こどもまんなか社会」で、これはこれで重要ではありますが、歴史的に見ればひとりひとりの子どもを大切にする社会では出生率が低くなります。

 日本における少子化対策の鍵は結婚にあるのですが、結婚したくない人を無理に結婚させるわけには生きません。「結婚したくてもできない人を後押しできるか」がポイントになります。
 ただし、「結婚したくない」と「結婚したいけどできない」ということを切り分けることは容易ではありません。「結婚するつもりはない」と言っていた人が思わぬ出会いからあっさり結婚するというのもよくある話でしょう。

 過去の「いずれは結婚したい」という人の割合を見ると、1982年の初回調査から97年までは下降、2015年までは安定、2021年では下落という傾向がうかがえます(30代女性だけは82〜97年にかけて上昇している。76p図表2−6参照)。
 ただ、21年の調査で顕著に下落したとはいえ、20代前半では85%以上の人が「いずれは結婚したい」と回答しており、結婚そのものに消極的になっているわけではないと考えられます。

 それでも未婚が進んでいる要因としてはさまざまなものが考えられますが、研究者の間で有力とされている要因が経済的要因に起因するミスマッチです。
 女性の選択を「未婚」「上位婚」「下位婚」の3つに分類すると(ここでの「上位婚」とは規模の大きな企業の正社員といった一般的に好条件の結婚で「下位婚」はそれ以外)、大卒女性の「下位婚」がずっと1〜2%しかないのがわかります(79p図表2−7参照)。
 大卒女性が増え、それに応じて有利な結婚相手を探す人が増えたが、それを満たす男性が増えていないのです。

 実際に、30代前半の男女のその後の結婚割合をみると(81p図表2−8参照)、男性の場合は年収が高ければ結婚する割合が高く、年収が低ければ結婚する割合も低いというきれいな関係になっています。
 女性についてはそれはみられませんが、所得が200万円以下の女性の結婚割合は低くなっており、近年では女性にも稼ぐ力が求められる傾向があります。
 ここからは、安定した所得が結婚を増やす鍵だということが見えてきます。

 第3章では地域による違いが分析されています。
 少子化対策においても、出生率の高い自治体が「先進事例」とされ、「それに学ぼう!」となることが多いですが、日本の自治体は規模も財政力も文化もバラバラです。
 沖縄では41個ある市町村のうち36個が出生率1.8を超えており、「希望出生率」1.8の目標はほとんどの自治体で達成されています。
 沖縄以外でも鹿児島と宮崎では半数以上の市町村が出生率1.8を超えていますが、北・東日本(北海道、東北、関東甲信越)には出生率1.8を超える自治体はありません。出生率に関してはかなりの「西高東低」なのです。

 人口規模が2万を超え、出生率が1.8を超えている自治体は沖縄県内の自治体を除くと41個あります。これを人口増加率と昼間人口流出割合の2つの軸でプロットすると、2つのタイプがあることがわかります(89p図表3−1参照)。
 1つは昼間人口流出割合が高く、人口増加率も高い自治体で名古屋や福岡の周辺自治体が多いです。もう1つは昼間人口流出割合が低く、人口増加率がマイナスの自治体で、九州・中国・近畿などの自治体がみられます。
 
 さらに本書では自治体を4つのグループに分けて分析しています。
 グループ1が人口規模下位・人口増加率下位・出生率下位。グループ2が人口規模下位・人口増加率下位・出生率上位、グループ3が人口規模上位・人口増加率上位・出生率下位、グループ4が人口規模上位・人口増加率上位・出生率上位です。
 グループ1と2は第1次産業の割合が高く、若い女性が少ないことが共通していますが、グループ1は北海道や東北に多く、グループ2は九州・沖縄に多いです。若い女性の少ないのは共通ですが、グループ2では残った若い女性の出生率が高くなっています。
 グループ3は東京23区などの大都市部で、人口増加率も若い女性の割合も高いのですが、女性が未婚にとどまる割合も高くなっています。

 少子化問題を念頭に置くとグループ4が注目すべきグループになります。これらの自治体は沖縄を除けば、大都市近郊の市(福岡県大野城市など)、中心部から少し離れた政令指定都市の区(名古屋市緑区など)などのベッドタウンか、愛知県豊田市(出生率1.65)、愛知県刈谷市(出生率1.80)などの大規模な製造業の事業所を抱える自治体です。
 人口規模・人口増加率・出生率の3つの数値が全て上位に入る自治体は、ほとんどが静岡県・愛知県、あるいは西日本の自治体で、例外は鹿島臨海工業地帯を抱える茨城県神栖市とコマツの本社がある石川県小松市だけです。
 出生率の「西高東低」の大きな要因が、西日本における製造業の強さにあると考えられます。

 出生率が高いのは「仕事があって、しかも住居費がそれほど高くない自治体になります。
 ベッドタウンも製造業のある自治体もそうです。ベッドタウンにもなり、なおかつ大企業の工場を複数抱える滋賀県栗東市の出生率は2.02と非常に高いです。
 メディアでは千葉県の流山市や兵庫県の明石市が注目されることが多いですが、両市とも出生率は1.58であり、人口増加率はともかくとして、必ずしも出生率が目立って高いわけではありません。

 現在、多くの自治体が「子育て支援」を掲げて子育て世代の呼び込みを図っています。これについては日本の中で人口を奪い合っているだけという指摘もありますが、住みやすい環境に引っ越して子どもの予定数が増えるという可能性もあるでしょう。
 逆に、都市部の自治体が子育て世代の転出を防ぐ政策をとることが、狭い住環境にとどまることによって子どもの予定数を減らす結果につながる可能性もあります。

 第4章では国際比較などを通じた検討がなされています。
 日本では結婚と出産が強く結びついているという話が出ましたが、こうした状況と欧米では婚外子が多いというデータから、「婚外子が当たり前になれば出生率も上がるのでは?」という意見があります。

 しかし、例えばアメリカでは、婚外子というのは多くの場合が貧困と結びついており、婚外子を増やす政策というのは恵まれない子どもを増やす政策に直結してしまうと受け取られるでしょう。
 一方、ヨーロッパでは、婚外子といっても比較的安定した事実婚のカップルのもとで生まれるケースが多く、第1子が生まれ、今後もやっていけそうだというカップルが第2子誕生を前に法律婚に移行するようなケースも多いそうです。
 また、同じ「結婚」といってもその重みは国によって違います。フランスでは離婚に裁判所の許可が必要であり、法律婚のハードルは日本よりもずっと高いのです。

 次に海外から移民を受け入れれば良いという議論が検討されています。
 出生率の低下を移民で補うというのはわかりやすい議論ですが、かつて移民を受け入れた国のほとんどは出生率が下がったから受け入れたのではなく、出生率もそこそこ高かったにもかかわらず労働力が不足していたので受け入れたケースです。例えば、西ドイツがトルコから外国人労働者を受け入れた時代の西ドイツの出生率は人口置換水準を大きく割り込むようなものではありませんでした。
 産油国やシンガポールなども外国人労働者を受け入れていますが、これは東京が地方から労働力を受け入れているのと同じだと考えるとよいです(2022年の出生率は東京が1.04でシンガポールが1.05)。

 移民については、「移民は出生率が高く、アメリカやフランスの出生率の高いのはそのせいだ」だという見方もあります。
 確かに2017年のフランスの出生率を見ると、フランス生まれの女性は1.77、移民女性は2.60と大きな差があります。ただし、全体の出生率は1.88で、移民が押し上げている面があるものの、フランス生まれの女性の出生率の高さがベースになっていることがわかります。
 また、日本に関してはベトナム人を除くと外国人女性の出生率は日本人よりも低いというデータがあり、移民が労働力不足を補っても、少子化を解決するような存在にはならないことがわかります。

 第5章では少子化に関する政策と数字についていくつかのことが述べられています。
 最初に指摘してあるのが、少子化対策がすぐに財源論の話になってしまう問題です。
 少子化問題にはさまざまな側面があるのですが、マスメディアでとり上げられると、すぐに少子化対策→子育て支援→財源論になってしまうといいます。
 予算規模や財源論は確かにわかりやすいですが、例えば、高齢者向けの社会保障予算が増えているからといって高齢者の福祉が充実したとは言えないわけで、予算規模だけをみてもわからないことは多いです。
 政策議論では、1つの政策を切り出してその効果を期待する向きが強いですが、フランスなどをみると、「この政策が有効」というよりは、総合的な仕組みが構築されてきたことが大きいです。
 少子化対策には、子育て支援だけではなく、働き方や住宅問題など、総合的な取り組みが必要になるのです。

 180ページ程度と、近年の新書にしては薄いほうかもしれませんが、豊富なデータを元に少子化問題が総合的に論じられており、この問題を考えていく上での出発点になる本だと思います。



家永真幸『台湾のアイデンティティ』(文春新書) 8点

 年明けの総統選で民進党の賴清德が勝利した台湾。本書は昨年の11月に出た本であり、総統選を見据えて台湾の現在の状況について解説した本になります。
 台湾の政治の構図というと「独立派」の民進党と「親中派」の国民党といった対立軸で紹介されることが多いですが、歴史的に見れば、中華人民共和国の共産党と対立していたのは何と言っても蔣介石の国民党だったはずです。
 本書は、このような台湾の歴史にあるいくつものねじれを解きほぐしてくれます。

 さらに本書の面白さは、台湾の歴史や台湾のアイデンティティのあり方をたどることで、日本の戦後史も見えてくるところです。
 本書のあとがきに、「かつての日本社会の「左翼」的な台湾観を疑問に感じ、台湾のことを学び直したいと思っている人を主要な読者の一人に想定した」(251p)とありますが、イデオロギーのメガネを通して外国を見ることの問題点を鋭くえぐり出しています。
 台湾のことを知りたい人はもちろん、日本の戦後の「アジア観」のようなものについて考えてみたい人にもお薦めです。

 目次は以下の通り。
第1章 多様性を尊重する台湾
第2章 一党支配下の政治的抑圧
第3章 人権問題の争点化
第4章 大陸中国との交流拡大と民主化
第5章 アイデンティティをめぐる摩擦

 「独立/親中」のように物事を二項対立で見てしまうと、そこからこぼれ落ちてしまうものが多くありますが、台湾では「本省人/外省人」というのも多くのものを見えなくさせてしまう二項対立と言えるでしょう。
 台湾では台湾に住む人を、原住民、ホーロー(福佬人)、客家人、外省人という4つのエスニックグループで捉える見方があります。
 これも現在は多様性を捉えられていない(原住民をひとまとめにしている)という批判もありますが、台湾社会を理解する上での最初の手がかりとなります。

 原住民は台湾に中国から人がやってくる前に住んでいた人々で、2023年時点で人口の2.5%を占めています。なお、「原住民」よりも「先住民」という言葉が適切ではないかと感じる人もいるでしょうが、中国語の「先住民」は「すでに滅びた」という意味を帯びるため、このような表記になっています。

 16世紀、ポルトガル人が台湾を「イル・フォルモサ」と呼び、17世紀になるとオランダ人が台南の安平に拠点を置きました。
 オランダ人の統治は1624〜62年までの38年間続きましたが、この時期に台湾には漢人の移民が増えていきます。さらに明の再興を目指す鄭成功がオランダ人を駆逐し、台湾を統治したことで漢人の移入はさらに増加しました。
 1668年に台湾は清朝に制圧されますが、その後も中国での人口増加の圧力などから台湾への漢人の移入は続きます。

 この台湾に移入してきた漢人は使用言語によりホーロー人と客家人に大別されます。ホーロー人は福建省出身の人々で、こちらが多数を占めています。
 さらに日本の植民地支配を経て、国民党政府が台湾の統治を開始し、さらに1949年に国民党政府が台湾に移ってくると、統治者集団、およびその随行者として多くの人々が移入しました。彼らが外省人になります。

 台湾で中華民国を存続させた国民党政府は台湾に住む人々に対して「中国人」であることを求め、北京周辺で話されている中国語が「国語」とされました。
 これは主に南方系のルーツを持っていた台湾の人々には不慣れな言語であり、また、植民地支配の中で教育された日本語の使用も大きく制限されました。
 こうした中で、1970年代になると民主化のプロセスと並行して、ホーロー語を使って「台湾意識」を訴える運動も起こってきます。
 さらに80年代になると、原住民の中から言語権の保障や土地の返還などを求める動きも起こり、90年代になると台湾の人々を4つのエスニックグループで捉える見方が広がっていきます。

 1945年の日本による台湾統治の終焉は植民地の解放だったはずでしたが、中華民国政府が日本の統治を受けた台湾の人々を「奴隷化教育」を受けた人々とみなし、台湾のエリート層の政治参加も推進しなかったため、日本統治を経験した「本省人」の不満が募りました。
 そうした中で、1947年にヤミ煙草の取り締まりを契機に二二八事件が起こります。蔣介石は中国本土から部隊を派遣しこれを鎮圧しますが、その過程で1万8000〜2万8000人の人々が殺されたともいいます。
 この事件をきっかけに、本省人は自分たちを「台湾人」、外省人を「中国人」と考える意識が強まったとも言われます。ただし、台湾政治の対立を「本省人対外省人」に還元することで見えなくなってしまうものもあるといいます。

 共産党の内線が激しくなった中国では、総統となった蔣介石に憲法の規定に拘束されない強大な権限が与えられますが、これが台湾にも持ち込まれます。
 1949年5月に台湾全土に戒厳令が敷かれ、これが1987年まで続きました。この間に14万人が入獄したとされ、赤狩りが激しかった50年代前半には3000人が銃殺されたとの説もあります。
 こうした台湾の状況でしたが、旧宗主国の日本は対日賠償を「以徳報怨」の精神で放棄した蔣介石への感謝の気持もあって、日本政府は国民党政権の台湾統治を批判するようなことはしませんでした。
 
 このような状況下で起こったのが陳智雄事件です。
 反国民党の知識人だった廖文毅は日本に逃れ、1956年に東京で台湾共和国臨時政府の樹立を宣言し、臨時大統領を名乗っていました。
 こうした台湾独立運動に参加していた陳智雄は、日本統治下の台湾生まれで、インドネシアの華人女性と結婚しインドネシア国籍を取得していました。台湾独立の主張は中華人民共和国の共産党政権にとっても容認できないもので陳は共産党政権に融和的だったスカルの政権により逮捕・投獄され、その後、国外追放します。紆余曲折を経て、陳は廖を頼って1959年に日本に入国しますが、日本の入管は陳の身柄を拘束し、台北へ送還してしまいます。
 日本の国内法では、中華民国籍を持たない陳を台湾に強制送還する根拠はありませんでしたが、日本政府は蒋介石政権への配慮から陳を台湾に送りました。最終的に陳は死刑判決を受け、銃殺されています。

 50〜60年代にかけて、台湾では独立運動に対する激しい弾圧が続きました、前述の廖文毅も、台湾の私財を国民党に差し押さえられ、さらに甥の廖史豪らに死刑判決が下ったことから、国民党からの投降の求めに応じて帰国しています。

 1968年には新進気鋭の作家だった陳映真が逮捕される「民主台湾聯盟事件」が発生します。
 陳は小説家として活動しながら、日本から研修生として台湾に留学していた浅井基文の一軒家に集まって他の知識人と交流していました。
 浅井は中華人民共和国に好感を持ち、蔣介石を嫌っていた青年でしたが、語学留学のためと割り切って台湾に来たといいます。そのとき、浅井は台湾では禁書であったマルクスや毛沢東の本を外交官特権で持ち込みました。
 浅井の家では音楽による交流などとともに、台湾の若者が禁書である社会主義の文献を読み耽るといったこともあり、陳映真のその中の1人でした。
 
 浅井は65年に台湾を離れますが、浅井は後任の加藤紘一(本書では特に指摘されていないが、経歴を見ると「加藤の乱」の加藤紘一)のために社会主義関係の本を残しておきました。
 その後、陳らは何らかの形で読書会を続けていたようですが、1968年に「台湾民主聯盟」という組織を作って政府を転覆させようとした容疑で陳ら36人が逮捕され、14人が有罪判決を受けます。
 彼らに下された判決の容疑は大部分が捏造であり、背景にはLT貿易などを皮切りに中国へ接近していた日本の外務省に対する圧力をかける意図などがあったという説もあります。
 その後、陳は1975年の蔣介石の死去に伴う特赦で釈放されました。

 本書の第2章の最後では、この「台湾民主聯盟事件」とゲームとしてヒットし、映画化までされた『返校』との関係について触れています。映画化にあたって『返校』では陳映真を思わせる小道具などが登場しており、それをどう見るか?という問題が検討されています。

 台湾の政治的弾圧は徐々に人権問題としてもとり上げられていくことになります。また、日本では国民党と共産党の対立が、在日台湾出身者の社会に大きな影響を与えることになりました。
 国民党政権への反発から在日台湾出身者の左傾化が進み、在日台湾出身者の法的地位の改善や台湾人元日本兵の補償問題などに参加する者も増えてきます。
 特に台湾出身者の法的地位の問題は、台湾への強制送還と絡めて大きな問題になりました。

 1967年の、台湾で国民党軍の兵器庫を爆破した過去を持つ呂伝信が、入管で台湾に強制送還されると告げられて自殺した事件をはじめ、台湾独立運動などに参加した運動家の強制送還をめぐって、講義する運動や、それを支援する日本人の輪が広がりました。
 当時、日本と中華民国の間では、政治犯引き渡しに関する「密約」があったとも言われ、日本政府は中華民国側に引き渡した政治犯に非人道的なことをしないように要請しつつ、送還は続けていました。

 こうした中で独特の展開をたどったのが劉彩品問題です。
 劉彩品は、1936年に日本統治下の台湾に生まれ、1956年に私費留学生として中華民国のパスポートで来日しました。その後、65年に日本人の男性と結婚しています。
 当時、在日台湾出身者の中華民国パスポートは5年に1度の再発行と1年に1度の更新が必要でしたが、劉は67年の更新を最後にそれを拒否し、日本の入管に対して、自分は国民党政権を否定し、現在の中国は中華人民共和国であるとの立場からビザの発給を求めたのです。
 日本の入管は日本国籍の取得などを勧めましたが、劉はこれを拒否し、劉を支援する運動も広がっていきました。
 そして、この運動は、当時に国交のなかった中華人民共和国を中国の正当な政府とみなすように求める運動とも重なっていったのです。

 結局、劉は中華民国に「絶縁書」を書く代わりに3年のビザを得ますが、永住権の申請は却下されます。そうすると、劉は一家で中国大陸に移住してしまいます。この劉は、のちに台湾統一のための宣伝戦術にも関わることになります。
 
 一方、同じ台湾出身者でありながら、自分は「日本人」であると主張したのが林景明です。
 林は1929年に日本統治下の台湾に生まれ、戦時中は日本陸軍にも召集されていました。林は蔣介石政権への不満から62年に日本に渡り、拓殖大学に入学すると、ビザが切れたあとも自分は「日本人」であると主張して、送還を拒否しました。
 日本人の中からも支援の動きは起こりましたが、劉に比べると特に左派からの支持は鈍かったといいます。劉の支持者には、法務省が劉に帰化を促したことに対して反応した者が多かったのですが、「日本人」になろうとした林については噛み合わない部分も多かったのです。

この劉の支持者と林の支持者については、本書ではさらに突っ込んだ分析が行われています。

 1970年代になると、日本での強制送還などの危険性もあって台湾独立運動の中心は北米へと移っていきます。
 一方、国民党政権は、国連での中華民国の議席喪失、アメリカの中華人民共和国への接近、そして、蔣介石から蔣経国への世代交代と難し時期を迎えていました。
 
 国民党政権は内戦に敗れて台湾に脱出する際に、大陸で選出された中央民意代表に台湾への移住を求め、それに応じた終身任期を与えていましたが、議員の高齢化が進むと、欠員補充のための選挙も行われるようになります。
 こうした中、72年にはホーロー語を用いて選挙運動を行った康寧祥が当選を果たすなど、国民党政権とは一線を画す政治運動も起こってきます。

 1979年、アメリカは中華人民共和国と正式に国交を結び、議会では「台湾関係法」が成立します。これは台湾への武器売却を可能にするものでしたが、同時に「人権条項」も含まれており、台湾の人権状況はより厳しいチェックを受けることになります。
 同年12月の美麗島事件(高雄事件)では、政治的弾圧に対して国内外で批判が高まり、8人が反乱罪で起訴されたものの死刑判決は出ませんでした。
 このときに弁護団にいた陳水扁や謝長廷らが、この後の民進党の中心的なメンバーになっていきます。

 一方、アメリカとの国交を樹立した共産党政権は、台湾に対して「平和的統一」を掲げるようになり、1981年には「一国二制度」の原型となる考えが打ち出されます。

 1987年に蔣経国が亡くなると、後継の総統になったのが李登輝でした。李は農業経済学者でもあり、野心のない人物と見られていましたが、次第に大胆ない改革に踏み込んでいきます。
 李は共産党政権を「反乱団体」とみなす「反乱鎮定動員時期臨時条項」を見直すことで大陸との関係の再定義を進め、民主化を進めていきます。
 
 80年代になると、大陸側からも台湾に対するさまざまなアプローチが行われますが、ここで再登場するのが劉彩品です。劉は、台湾にジャイアントパンダを贈るアイディアを提案し、この話は進んでいきますが、最終的には国民党政権が断りました。
 ちなみに劉彩品は、天安門事件に対して批判的であり、96年には再び日本に移住しています。

 1995年の李登輝の訪米は共産党政権を刺激し、96年の台湾総統選の際には台湾海峡で人民解放軍の軍事演習が行われます。軍事演習はアメリカからの圧力によって縮小されますが、この一連の動きは李登輝への追い風ともなり、総統選では李登輝が圧勝しました。
 李登輝は中国との対話を模索しつつ、国際法学者であった蔡英文を座長とする研究グループを立ち上げて、「主権国家としての地位強化」の手段を模索しました。

 2000年の総統選は国民党の分裂もあって民進党の陳水扁が勝利します。陳水扁と言うと「独立派」のイメージが強いかもしれませんが、1期目は穏健な対中政策を進めています。
 ところが、2期目を目指す総統選で劣勢に立たされる中、SARSをめぐる情報が中国から十分に提供されなかったことなどが共産党への不信を生み、陳は独立志向を強めて再選を果たします。
 これに対して共産党は民進党を牽制するために国民党に接近し、2005年には国民党の連戦首席が北京で胡錦濤総書記と会見します。
 こういった中で埋もれていったのが陳映真のような反国民党、親人民共和国的な立場の人々です。

 2005年に民進党と国民党の合意によって憲法が改正され、小選挙区比例代表並立制が導入されます。これにより小政党の国政進出が難しくなり、民進党・国民党の二大政党制が定着していきます。
 2008年の総統選挙では国民党の馬英九が選出され政権交代が行われます。馬には「親中派」のイメージがありますが、それは強まるのは2期目からで、当初は天安門事件に関心を持つなど、中国の民主化を促す人物しても期待されていました。
 馬の対中融和的な政策は効果も上げ、中国からの団体観光客の解禁、大陸から台湾への投資の増加、「中華台北」名義でのWHOの年次総会へのオブザーバー参加などがもたらされました。パンダも08年に台北の動物園にやってきます。
 馬は「台湾人」のアイデンティティにも一定の配慮を払う政策を行いましたが、対中依存は人々の警戒心も掻き立て、これが2014年の「ひまわり学生運動」につながっていきます。
 
 2016年の総統選では民進党の蔡英文が当選します。蔡英文政権は過去の政治抑圧と向き合い、社会的亀裂の修復や和解を進める政策が行われ、「中国」ではなく「台湾」を重視した歴史教育が導入されました。
 この国民党政権の過去に向き合うことは、日本の植民地支配をどう評価するかということにも連動した難しい問題で、例えば、李登輝は小林よしのりの『新ゴーマニズム宣言スペシャル 台湾論』の中で八田與一の功績について熱弁を振っており、その背景には「中国」という問題を棚上げした日台関係を築こうとする意思があったと思われます。
 
 この八田與一の銅像の頭部が切り落とされるという事件が2017年に起こります。犯人は中華統一促進党という中国と台湾の統一を訴える過激なグループのメンバーでした。
 著者はこの事件の裏には、事件の前後に蔣介石の銅像が破壊される事件が相次いだことがあったとみています。
 民進党政権は蔣介石像などの国民党一党支配の痕跡を公共の場から撤去する動きを進めており、八田與一像の破壊はそれへの反動とも考えられます。

 台湾が「親日」かどうかというのは、台湾の歴史への評価、あるいは台湾の国際的プレゼンスの問題と密接に関わるものであり、そう単純なものではないといいます。
 安倍晋三元首相が暗殺されると、台湾ではそれを悼むムードが広がり、高雄市には安倍晋三の銅像までつくられましたが、この背景には第2次安倍政権のもとで「交流協会」が「台湾交流協会」になったり、「台湾」を国際社会の主体として扱う姿勢があったからではないかと著者はみています。

 ここでは日本との関係の部分をクローズアップする形で紹介しましたが、現在の台湾の状況を知る上でも十分な本だと思います。
 ただし、類書との違いは、やはり日本との複雑な関係を読み解いているところでしょう。台湾の「親日」には台湾の歴史における屈折した経緯があり、台湾が過去の負の歴史と向き合おうとする中で、日本もまた台湾との間の過去の歴史と向き合うことが必要だということを教えてくれる本です。


飯田泰之『財政・金融政策の転換点』(中公新書) 7点

 先進国では1980年代に退治したと思われていたインフレが復活し、景気対策は金融政策中心で財政政策は最低限度で良いとされていたスタンスがゆるぎ財政出動が叫ばれるなど、近年のマクロ経済政策は大きく揺れました。
 本書のはしがきに「常識はそれが「常識」になった時点から崩壊が始まる」(ii p)とありますが、まさにここ最近のマクロ経済学ではさまざまな常識が書き換えられてきたのです(例えば、ブランシャール『21世紀の財政政策』における、かなりの規模の財政赤字を問題なしとする立場など)。

 本書は、まずは財政政策と金融政策の標準的な理解を押さえながら、財政政策と金融政策の融合、「高圧経済論」といった新しい潮流を探っています。
 メディアなどで見かける著者のイメージからすると、中公新書ということもあって「やや硬め」かもしれませんが(もっとも光文社新書の『マクロ経済学の核心』などもなかなか歯ごたえのある本だった)、後半を中心に現在とこれからの経済を考えていく上で非常に興味深い議論がなされていると思います。

 目次は以下の通り

第1章 財政をめぐる危機論と楽観論
第2章 金融政策の可能性と不可能性
第3章 一体化する財政・金融政策
第4章 需要が供給を喚起する―求められる長期的総需要管理への転換

 まず、とり上げられているのが「財政危機」の問題です。
 日本の国債残高は1000兆円を超え、これにその他の中央政務債務と地方債を加えると1400兆円以上になります。「国民一人当たり1000万円の借金がある」といった言い方もよく耳にすると思います。
 一方、日本の政府には大きな資産があり心配はいらないという議論もあります。

 2021年度末の国のバランスシートを見ると、負債は1514兆円(公債1103兆、公的年金預り金127兆など)、資産は943兆円(有価証券358兆円、有形固定資産280兆円など)となっています(8p1−2参照、数字は四捨五入)。
 資産を差し引いて考えると政府の純負債は572兆円まで圧縮されます。

 これに対しては、政府資産の多くは売却できないのだから差し引きすべきでないとする考えと、日本銀行の連結すればもっと債務は小さくなるという考えがあります。
 著者は、政府資産の一定程度の売却は可能であるし、日本銀行を連結することにはあまり意味がないとして、悲観論と楽観論の間で考えるべきだとしています。

 政府の債務を問題視する議論の多くに登場するのが「将来世代への負担を許すな」というものです。借金をするのは現在であり、それは将来に返済されるので、将来世代の負担を考えるのは当然に思えます。

 しかし、ラーナーによる新正統派の議論では、次の3つの要点にまとめられるといいます。
(1)公債を発行しても、次世代に実質的負担は先送りされない
(2)民間による債券発行と同じ論理で公債発行を語るのは誤りである
(3)内国債と外国債には重要で明確な違いが存在する(18p)

 例えば、国が公債を発行して道路を作り、10年後に返済されるとします。国が公債を発行して工事を行った時点で、民間の資源が使われます。10年後の返済時において、これが外国債であれば資金が海外に流出しますが、内国債であれば国内の誰かにその資金が渡ります。つまり国内の経済主体の間で資源(資金)が移動しただけなのです。

 しかし、ブキャナンが、国富の増減はなくても、例えば、公債を発行して減税をしてそれが将来世代の増税で賄われる場合、現役世代は消費を増やせるが、将来世代は消費を減らされることになり不公平であると論じたように、この考えには批判もあります。

 著者はこうした議論を踏まえつつ、公債の発行が民間の投資を阻害するクラウディング・アウトを考え、失業や生産設備の有休の有無が公債発行が負担になるか否かの分水嶺になるとみています。
 
 マクロ経済学では、供給能力がGDPを決めるという見方(セイの法則)と、総需要(有効需要)がGDPを決めるという見方(ケインズ)」がありますが、どちらの見方が有効になるかは供給能力と総需要の大小関係で決まるといいます(*「生産能力よりも総需要が大きい状況では総需要の量が、そうでない場合には生産能力が現実のGDPを決定する」(41p)とあるけど、これは逆では?)。

 ここでいわゆるGDPギャップ(潜在GDPに対して現実のGDPが何%小さいかを示す数値)に注目することになるのですが、実際にこれを計測するのはなかなか難しいといいます。
 例えば、45p1−5のグラフを見ると、GDPギャップはたびたびプラスになっていますが、これは供給能力を上回る生産が行われたということになってしまいます。GDPギャップに注目すれば適切な財政政策ができるというわけではないのです。

 第2章では金融政策がとり上げられています。
 大きく言うと、貨幣・マネーは現金と預金の和になります。現金の量は政府や中央銀行が発行した硬貨や紙幣の量で決まるため政府がコントロールできます。一方、預金に関しては信用創造がはたらくので金融機関の貸出行動によって決まります。

 この貸出に影響を与えるのが準備預金制度であり、銀行間の貸借金利であるコールレートになります。
 日銀は基本的にこのコールレートをコントロールすることで金融政策を行ってきました。また、このコールレートが銀行の貸出行動に影響を与え、マネーサプライにも影響を与えるので、日銀はマネーサプライにも強い影響力を持っています(実際にコントロールできるかできないかについては学説上の対立があるが、著者は両者の関連を押さえておけば良いという立場)。

 ところがコールレートは一定水準以下には下げられません。2023年8月のコールレートは−0.06%で、ゼロ以下にできないということではないのですが、−3%といった形にはできないと考えられます。
 このためデフレ下では実質金利が高止まりする可能性があります。そこでインフレ目標の設定などを求めたのがインタゲ派、のちのリフレ派になります。

 では、金融政策はどのように実体経済に波及するのでしょうか?
 一般的に国債は安全な資産とみなされており、国債の利回りを下回るような投資は行われないでしょう。逆に言えば、国債の利回りが低下すれば今まではリターンが小さいとして見送られていた投資を促進する可能性があります。
 さらに金利の低下は株価などの資産価格を押し上げる効果があると言われています。さらにこの資産価格の押し上げが投資や消費を刺激します。
 また、為替レートの低下を通じて輸出を促進するとも言われますが、近年の日本では所得収支の受け取りが増える効果が大きくなっています。

 ゼロ金利になってからのいわゆる非伝統的金融政策は時間軸を用いたものになります。
 現在だけではなく、長期に渡ってコールレートが低水準のままつづくということを市場の参加者に予想させることで、融資の拡大を狙うのです。
 ただし、2000年に日銀が導入したゼロ金利政策では、「人々の期待形成に強力に働きかけて」(80p)と理由付けがなされていたものの、デフレ払拭のための政策にもかかわらず、物価上昇率がマイナスの状態で解除されてしまい、結果的に期待形成に失敗しました。

 日本では2013年に黒田東彦日銀総裁が誕生し、インフレ率が2%を超えるまで金融緩和を続けると宣言し、人々の期待を書き換えようと動きました。
 株価などは金融緩和を掲げて安倍晋三が自民党総裁になり、解散総選挙が決まった時点から上昇をし始めており、人々の期待に一定の変化があったとも考えられますが、物価については一定の効果はあったもののなかなか目標の2%をクリアーできませんでした。

 そこで2016年には、マイナス金利やイールドカーブ・コントロールといった新たな政策が導入されています。
 ちなみに本書では出口戦略についても言及されていますが、日本銀行の単独のバランスシートには何ら意味がなく、日銀が債務超過になってもまったく問題がないとしています(ちなみにオーストラリアや西ドイツなど過去中央銀行が債務超過になったケースは多い)。

 近年、いくら金利を下げても潜在的な生産能力がフルに発揮されるような需要は発生しないのではないか? という長期停滞論も出てきました。
 もとは1938年にハンセンが唱えたものでしたが、最近になってタイラー・コーエンやサマーズがとり上げたことで再び注目を集めました。
 
 本書では潜在GDPにおける貯蓄と同じだけの投資が行われる実質金利水準を自然利子率と呼んでいますが、この自然利子率がマイナスであれば、たとえ中央銀行が金利をゼロにしても、需要不足は解消されないことになります。
 そこで人々の予想インフレ率が重要になります。いつかインフレが起きるのであれば、予想インフレ率が上がり実質金利も低下していくと考えられるからです。
 そこで、拙速な引き締めを行わないことも重要になります。少し物価が上昇したからといって中央銀行がすぐに金利を引き上げれば、予想インフレ率は上がってきません。
 現在のコスト・プッシュ型インフレに対して日銀の動きが鈍いように思われる背景には、このような思惑もあると考えられます。

 このように金融政策が「効かなくなる」局面も出てくる中で、再び財政政策に注目が集まっているわけですが。
 これについて論じた第3章では、まず「国債と貨幣に違いはあるのか?」という問いがとり上げられています。

 すぐに思いつくのは「国債は貨幣と違って利子がつく」ということですが、国債の利回りがゼロに近づけば、その違いは不鮮明になっていきます。
 国債は政府の負債だというのはわかりやすいです。一方、貨幣も政府の負債であるという説明はわかりにくいかもしれません。
 例えば、稲で徴税していた国家が、ある年、税収以上の稲が必要になって新たに銭を発行して稲を買い上げ、この銭で納税が可能だと宣言したとします(日本では大まかにこのような形で銭が導入された)。
 このとき、政府にとって価値のない金属の塊が税として納入されることになります。つまり、現金な政府にとって負債とみなすことができるのです。ちなみに、「貨幣が価値を持つ理由として「政府が納税の手段としている」ことを重視するのがMMT」(119p)です。
  
 また、日銀の当座預金も政府の負債だと考えられるといいます。日銀の当座預金については現金を発行すればいいだけなので負債ではないと考える人もいますが、著者はそれでは内国債も債務ではなくなってしまうとしてこの立場はとりません。

 現金・日銀当座預金(マネタリーベース)が政府債務であるとすると、国債との違いはどこにあるのでしょうか?
 その違いは金利になります。現金に金利はつきませんし、日銀当座預金につく金利はわずかです。そして、この金利の差がシニョリッジ(貨幣発行益)になります。
 国債ではなく貨幣の発行によって資金を調達することによって金利の分が節約できるのです。
 こうなると、国債ではなく、すべて貨幣の発行によって賄えばいいのではないか? との疑問も浮かびますが、そうなると国債の発行量が減り、金利のコントロールが難しくなります。
 著者は「誤解を恐れず単純化すると、財政政策は政府債務の総規模を決定し、金融政策は政府債務の内訳を決めるものと整理すると理解しやすいだろう」(127−128p)と述べています。

 財政政策と金融政策は適切に組み合わせて行う必要がありますが、日本ではこれがチグハグだったといいます。
 特に90年代には需要刺激策が十分な効果を上げる前に財政が引き締められるストップ・アンド・ゴー政策が続けられ、結果的に財政は悪化しました。この財政引き締めのショックの緩和を担ったのが金融政策ですが、このチグハグな組み合わせによって、財政健全化、経済成長のいずれの目標も達成できませんでした。

 本書ではこのあとにシムズが言及して話題になったFTPL(物価の財政理論)のモデルが紹介されています。数式なども使った解説がなされているので、ここは本書をご覧ください。
 FTPLによると、物価=現在の統合政府債務/将来財政黒字の実質現在価値+将来マネタリーベース増加額の実質現在価値(139p)という式が導きだされ、ここから物価を上昇させるために分母である「将来財政黒字の実質現在価値」を縮小させるという方法が示唆されます。つまり、政府が財政収支に無責任になることが現時点の物価を上昇させることにつながるというわけです。

 ただし、財政に無責任なることがデフレ脱却の方法と言っても、財政の維持可能性についても考えておく必要があります。
 ただ、政府は一般の企業とは違います。企業は手元に現金や資産がない状況で負債の支払いを求められたら倒産してしまいますが、政府は100兆円の負債の支払いを求められても、現金や国債を発行することで支払うことが可能です。
 ここから、いわゆる「財政破綻」になるというケースは国債や現金の価値がなくなる、つまりハイパーインフレになるような状況を指すことがわかります(経済学でのハイパーインフレの定義は月次のインフレ率が50%を超える状況(物価が1年間で130倍になる)という定義が用いられることが多い)。

 本書では、財政維持の条件として、①「政府債務の増加率が金利よりも低い状態が維持される」、②「国債金利よりも経済成長率が高い(r-g<0)」(ドーマー条件)という2つのものをあげています。
 r-g<0というと、「ピケティはr>gって言ってなかったっけ?」と反応する人もいるかもしれませんが、ピケティのrはリスク資産も含めたもので、ドーマー条件のrは安全資産である国債の金利です。ですから、「ドーマー条件のr<経済成長率<ピケティのr」というのは十分に成り立ちますし、実際に1870〜2015年の長期データを概観すると多くの時期でこの不等式が成り立っているそうです(155p)。

 このドーマー条件のrと経済成長率gの関係は非常に重要で、r−gが1.0%であれば、プライマリ・バランス対GDP比が−6.07%でも国債残高対GDP比が250%で安定しますし、逆にr-gが−1.0%であれば、プライマリ・バランス対GDP比が6.19%でないと国債残高対GDP比を250%で安定させられません(158p3−3参照)。
 この試算を見ると、プライマリ・バランスの黒字化よりも、r-g<0を維持できるような済の条件を維持していくことが重要だとわかります。

 最後の第4章では「高圧経済論」が紹介されています。
 需要については金融政策や財政政策でテコ入れすることができるが、供給能力の拡大については企業の競争や技術革新しかないないと考えられがちです。ところが、高圧経済論では需給をタイトにすることで生産性を上げることを狙います。
 
 生産性の向上には、①「労働者の能力向上や設備の導入などによる純粋な向上」、②「労働者が労働生産性の高い職場に移動することによる向上(デニソン効果)」、③「労働生産性の高い産業のシェアが高まることでの向上(ボーモル効果)」の3つがあります。
 もし、好景気になって人手不足になれば、失業者が職についてOJTを受けることになり(①の効果)、賃金上昇とともに生産性の高い職場に人が移動します(②の効果、生産性の低い職場は賃金を上げられない)。

 このように高圧経済論では需要を高めることで供給能力の向上も狙うわけですが、これによってクラウディング・アウトが起こる可能性は十分にあります。
 また労働力についても、今の日本で賃金の上昇に伴う農村から都市への労働力の移動は起きそうにないので、低生産性部門から高生産性部門への移動となるでしょう。かといって、政府が特定の産業に肩入れする産業政策はうまくいくとは限りません。
 そこで、減税や現金給付などが考えられるわけでですが、一般的な家計ではそれらは貯蓄に回ってしまうことが多く、著者は若年層向けのものなどがいいのではないかと述べています。
 また、国土保全や安全保障などの一見すると経済には結びつかない支出も重要だといいます。

 高圧経済では需要を刺激する政策が行われますが、それは企業や産業の新陳代謝をスピードアップさせます。成長する企業とともに退場を余儀なくされる企業も出てくるでしょう。

 このように本書は財政政策と金融政策の基礎的な部分を押さえつつ、近年になって変化してきた部分について解説しています。
 冒頭でも触れたように、近年では財政政策をはじめ、マクロ経済学において今までの常識を問い直すような動きがあります。
 そういったことをふまえた分析を行っている本書は、日本の今後の経済運営などを考えていく上でも非常に有益な本と言えるでしょう。

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名前:山下ゆ
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