副題は「ミリシアがもたらす分断」。「ミリシア」と言っても多くの人にはピンとこないかもしれませんが、これは「民兵」と訳される事が多い言葉です。ただし、アメリカでは州軍も「ミリシア」と呼ばれています。
本書はアメリカにおける2つの「ミリシア」について説明しながら、人民武装の歴史と、それが2021年の連邦議会襲撃事件につながっているさまを描き出しています。
州軍に関する歴史的な説明が中心であるため、もう少し近年の民兵の動きについても知りたいという人もいるかもしれませんが、州軍の歴史を追うだけでもアメリカという国の特殊性が十分に見えてきて面白いと思います。
目次は以下の通り。
はじめに第1章 現代アメリカの暴力文化――2021年米国連邦議会襲撃事件の背景第2章 人民の軍隊――合衆国憲法が定める軍のかたち第3章 デモクラシーが変貌させたミリシアの姿第4章 転機としての南北戦争第5章超大国アメリカのミリシアおわりに――問い直される人民武装理念
アメリカ合衆国憲法修正第2条には「よく規律されたミリシアは、自由な国家の安全にとって必要であるので、人民が武器を保有し携帯する権利を侵してはならない」(vii p)とあります。
銃規制をめぐる問題でよくとり上げられる条文ですが、この条文が想定しているのは個人として武装と言うよりはミリシアを組織して武装する権利を認めたものです。
このようなミリシアは基本的に州軍に吸収されていき、州軍も次第に連邦政府のコントロール下に置かれることになるのですが、一方で、90年代から極右的な民兵(ミリシア)の動きも活発化しています。
本書の第1章がとり上げるのは、このような極右的なミリシアです。
2021年1月、トランプ大統領に扇動された人々が連邦議会を襲撃するという衝撃的な事件が起こりました。
トランプは選挙後にエスパー国防長官を解任しており、そのために軍の行動は遅れ、州軍が出動していたものの効果的な対処はできませんでした。
アメリカの中には政治的暴力を許容する風潮があるといいます。
連邦議会襲撃事件を起こしたのは右派ですが、こうした風潮は左派にもあり、BLM運動の中で、シアトルのキャピトルヒル地区では抗議者との衝突を避けるために警察官が撤退してしまい、地区の治安が悪化するという事態も起きました。
ただし、民間ミリシアの多くは民主党を敵視する極右団体です。
この極右の民間ミリシアが数多く創設されるようになったきっかけは1992年にアイダホ州で起こったルビーリッジ事件です。
鉄砲の不法売買の疑いをかけられたランディ・ウェヴァーが連邦保安官やFBIの捜査官と銃撃戦になり、連邦保安官やウェヴァーの息子や妻が亡くなった事件でしたが、実はFBIのおとり捜査がきっかけで、ウェヴァーの息子の死についても捜査機関側に問題があったことが明らかになったのです。
この事件から2ヶ月後、コロラド州のエステスパークに右派の集団が集まり、政府の不法行為に対抗する「小規模の武装ミリシア」を全米各地につくっていくことが呼びかけられます。
こうした動きはクリントン政権が同性愛者の軍勤務を認める政策を打ち出したことや、銃規制を行うブレイディ法が成立したことなどにより、文化闘争的な色彩を帯びながら加速していきます。
この民間ミリシア創設の動きは、1995年のオクラホマ連邦政府ビル爆破事件の犯人がミリシア団体員であったことや、2001年のブッシュ政権の成立によって下火になります
しかし、2009年にオバマ政権が成立すると再び活性化します。そして、「反民主党」という要因が大きいのであれば、2017年のトランプ政権の成立によって再び下火になってもおかしくはなかったのですが、ミリシア団体を煽るようなトランプの発言もあって緩やかな減少にとどまりました(25p図1−4参照)。
このような民間武装ミリシアの拡大に関して、著者はナチスや共産党の党員が武装していたワイマール憲法期のドイツを想起させるとしています。
こうなるとこのような武装ミリシアの取り締まりが必要ではないか? となるわけですが、先述のように憲法修正第2条がある以上、武装は合法ですし、政治家や裁判官の中にもこうした民間ミリシアの活動に理解を示すものが多いです。また、警察の予算不足や、警察の中にも理解者がいることもミリシアの取り締まりが鈍い原因です。
第2章以降では、こうしたミリシアの来歴を合衆国建国前からたどっていきます。
アメリカに軍隊が設置されたのは1636年12月13日だとされています。現存する最古のミリシアが創設された日付です。
もともとイギリスは植民地の成年男子にカンパニーと呼ばれる100人程度の戦闘集団の設置を義務付けていました。1630年に成立したマサチューセッツ植民地において、複数のカンパニーを連隊(レジメント)としてまとめて運用するようになりますが、これができたのが先述の日付というわけです。
第2代アメリカ大統領ジョン・アダムズは日記の中で、ミリシアを住民自治、学校教育、キリスト教会と並ぶ共和主義の支柱と記しています。
このようにミリシアは共和主義を体現するものとして考えられていましたが、同時にミリシアが先住民に対して強硬な姿勢を取るように総督府に圧力をかけるような事件もありました。
17世紀後半以降、植民地の人々はイギリス本国が行う戦争などに巻き込まれることになります。
こうなると小規模な部隊では足りなくなり、植民地軍が組織されました。ミリシアは自衛のための組織であり、長期の遠征には向いておらず、新しい戦術をとることも難しかったからです。
独立戦争において、ミリシアは愛国派(イギリスに抗議する者)と忠誠派(イギリスを支持する者)に分裂して戦いました。
革命思想に対する賛否とともに、官職をめぐる争いなども含む形で多数派工作が行われることになります。
ジョージ・ワシントンのもとで大陸軍が結成され、苦戦しつつも、フランスなどの助力を得て独立を達成しました。
この大陸軍は独立を勝ち取るためにつくられたものでしたので、独立後に大陸軍の存続が問題になりました。ハミルトンは一定規模での存続を求めましたが、結局は一連隊700名規模となり、その定員も十分には満たせませんでした。
合衆国憲法でも、大統領がミリシアの最高司令官であると規定されたものの、ミリシアの士官の任命権などは州政府に留保されることになりました。
このようなミリシアについて、1872年にアメリカを訪れた岩倉使節団は「我が消防仕組に彷彿たり」(73p)と書いています。
ただし、1812年の対英戦においてミリシアの限界は露呈していました。この戦いで活躍したアンドリュー・ジャクソンは「ミリシアが役に立つと感じられるのは、つなぎとしてだけです」(76p)と述べています。
それでも、常備軍が政府によって悪用されるという警戒心は強く、常備軍の整備は進みませんでした。
一方、ミリシアの訓練も形骸化するようになり、1820年代のペンシルヴェニアでは夏の集中訓練日が家族ぐるみのレクリエーションの機会になっていたといいます。
都市部ではミリシアを負担に感じる層も増え、1838年にボストンでは今までのミリシアに代わって警察業務を担う初の警察署が誕生しています。
18世紀後半、アメリカではウイスキーへの課税に抗議したウイスキー反乱などが起きますが、1820〜30年代になって普通選挙が広まると政府への反乱は減少していきます。
しかし、市民間の騒乱はおさまらず、奴隷制や宗派対立や反英主義などを原因とする暴動が起きました。
こうした中で、州政府もすべての白人男子をミリシアにするのではなく、一定の人々を選ぶようになってきます。ただし、選び方は独特で有志の団体を州政府が公認するというものでした。
1846年から始まったメキシコ戦争においても、ミリシアがその主力となりましたが、このミリシアは志願兵であり、さまざまな人が志願兵を募る形で人を集め、それが公認されていきました。
当時にアメリカが不景気だったこともあって、生活に困窮した者や、特に移民してきたばかりで米国籍をまだ持たない者が数多く志願しました。メキシコ戦争では兵卒の半分が米国籍をもたない移民だったといいます。
この志願兵の部隊は虐殺事件などを起こすこともありましたが、部隊の指揮官が地域の有力者であることも多かったので、処罰をすることも難しかったといいます。
志願兵の士官から政治家になるケースも多く、正規軍としては扱いにくい存在でもありました。
こうした軍のあり方が問い直されたのが南北戦争です。
例えば、北軍の将軍として名高いシャーマンやグラントは、士官学校の卒業生でしたが開戦時は民間人でした。こうした士官学校の卒業生などが政治家などに伝手で正規軍やミリシアの指揮官になっていきました。
地域によっては奴隷制への賛成派と反対派が入り混じっており、ミリシアの動員が難しいこともありました。
政治的な駆け引きもさかんになされており、南軍に対する容赦ない戦いぶりから「野獣(ビースト)」との異名を取ったベンジャミン・バトラー将軍も元は民主党員でありながら、ミリシアを率いてリンカンのもとに馳せ参じ、軍務の経験がほとんどないにもかかわらず少将の地位を得ています。
このように南北戦争時のアメリカにおける軍は非常に雑多な寄せ集めのようなもので、ガリバルディが率いる外国人義勇兵もいましたし、今までミリシアから排斥されていたドイツ系の移民やアイルランド系の移民も、自分たちの地位向上のために戦争に協力していきます。
戦争はそれまでの差別の構造を変えていった面もあるのですが、そこで大きな役割を果たしたのが先ほど紹介したベンジャミン・バトラーです。
バトラーはアンドリュー・ジョンソンから「これほど怖れ知らずで破廉恥なデマゴーグに、私は出会ったことがない」(132p)と評された男ですが、マサチューセッツではミリシアからアイルランド系が除隊されそうになったことに反対し、南北戦争では自由黒人の部隊を認め、さらに奴隷主から逃げてきた黒人たちが加わることも認めました。
リンカンよりも奴隷廃止に積極的で、軍人としては無能でグラントから更迭されたものの、奴隷解放の道を切り開いた人物となりました。
南北戦争後、南部では黒人ミリシア部隊も誕生します。南部占領が終わるとその数は減っていきますが、それでも黒人ミリシアがなくなることはありませんでした。
ミリシアは労働争議の鎮圧などの治安維持に用いられましたが、軍事組織としては限界もあり、徐々に軍服や武器を州政府が与えたり貸与するようになりました。
次に大きな転換点となったのが第1次世界大戦です。
アメリカが参戦へ向けて動き出すと、元大統領のシオドア・ローズヴェルトは準備してきた志願兵師団を率いて出征することを大統領のウィルソンに願い出ます。
しかし、ウィルソンは連邦政府主導で兵士として適切な者を強制的に徴用した組織が望ましいとしてこれを断ります。これには軍事上の理由もありましたし、共和党のローズヴェルトが戦場で華々しい活躍をすればウィルソンの民主党は不利になるという政治的な理由もありました。
ただし、軍の改革自体はシオドア・ローズヴェルト政権のときから始まっていました。
ローズヴェルトは欧米や日本と戦える大規模な軍の建設を目指し、弁護士だったエリフ・ルートを陸軍長官とともに改革を行います。
1903年にはミリシア法が成立し、それを基礎に1916年国防法が生まれたことでミリシアの予備軍化が完成しました。ミリシアの予備軍化のために巨額の連邦予算が投下され、ミリシア予算の殆どが連邦政府の負担になりました。
ただし、1910年のメキシコ革命時にはこの予備軍はうまく機能せず、9万5千人いるはずの常設ミリシアのうち、集まったのは4万7600人と半分程度に過ぎず、その半数ほどが身体検査で兵役不適格となりました。
そこで、ウィルソンは1917年に選抜徴兵法を成立させます。ヨーロッパに29個師団130万人の兵員を送ることとし、その2割は州の常設ミリシアから派遣されました。
しかし、派遣される州軍の部隊編成も指揮官の選任も正規軍が行うこととなり、複数の州軍による混成部隊もつくられました。
第一次世界大戦後も、州軍は定期的な訓練を受けるほかは別の生業を営む人々で構成されていましたが、予備軍としての服務が徹底され、命令に従うことが求められました。
ウィルソンが志願兵部隊を拒否した背景には人種差別の問題もありました。
ウィルソンを支えていた南部の民主党の政治家は黒人士官を排除しようとしており、1917年に将軍になることが期待されていた黒人のチャールズ・ヤング中佐は健康問題を取り沙汰されて退役させられてしまいます。
ローズヴェルトの師団案には黒人連隊も存在しており、師団の幹部としてヤングを起用しようとしていました。
こうした要因もあってローズヴェルトの志願兵師団は退けられ、黒人兵は主に労役を担当し、軍事施設でも人種ごとの隔離が進みます。
選抜徴兵法は1940年に第2次世界大戦の勃発を受けて復活し、1972年まで続くことになります。
第2次世界大戦のときのフランクリン・ローズヴェルト大統領は北部出身であり、軍の人種隔離的な政策を撤廃していきました。
1960年代になると州軍は人種暴動の鎮圧などに使われるようになります、一方、徴兵から逃れる手段として州軍への志願が選ばれるようにもなりました。ベトナムに出征しないための手段として州軍が利用されたのです。
結局、徴兵の不人気と軍事技術の高度化のためにニクソン大統領によって徴兵は取り止められ、志願制の軍になります。
福祉制度が貧弱なアメリカにおいてもっとも福利厚生が整っているのが軍であり、これによって志願者の確保を図っています。
このようにアメリカの軍は20世紀になって他国と変わらないような仕組みになっていくのですが、ミリシアの伝統が消えたわけではなく、さらに2008年のヘラー判決で、個人の自衛権行使のために銃が持てるようになり、銃規制が難しくなりました。
こうしたこともあり、民間の武装ミリシアをつくる動きは続きますし、それを規制することも難しいのです。
このように本書を読むと、アメリカにおける「軍」がかなり特殊なものだということがわかると思います。
銃について独特の考えがあるのはよく知られていることですが、本書を読むと、さらにその背景には軍(ミリシア)についての独特の考えがあることがわかります。
民間の武装ミリシアと全米ライフル協会の関係など、もう少し近年の民間の武装ミリシアの来歴についても知りたかった感はありますが、アメリカという国の来歴を知ることができる本ですね。