ヘルモゲネスを探して

錬金術書を読む Si hoc est quomodo est, si non est quomodo non est [Avicennae ad Hasen Regem Epistula de Re Recta, c.1]

アテネの魔術的球体 7



コプト・グノーシス主義において、χαρακτήρという語は、神存在をあらわす幾何学的な図案を意味している。またより一般的に被造物をあらわすこともある(Schmidt, Kopt. gnost. Schr., p., 262, 263, 340, 341, 343, 358)。これらの図案はパピルス群やわれわれの球の謎文字によく似ている。『ピスティス・ソフィア』、遊戯の書の数々その他或る古い書にはこれに類した図案が溢れており、時に神的発出(τύποι)を、時に魂が諸天の権能の前に到達する時に署名せねばならない封印(σφραγίδες, p 261, 290, 322 etc.)を描いたものとされる。アプレイウス(273−1)も、イシスの諸玄義への入信儀礼に用いられた、この種のしるしに溢れる或る『聖なる書』について語っている。呪詛板(274−1)にも、魔術的な貴石その他のモニュメント(2)にも、錬金術師たちが秘蔵したアルファベート(3)にも、占星術師たちのアルファベート(4)にも、民衆的な医術(5)にも、ユダヤ教(6)にもこれは見つかる。その幾つかではこれらのしるしは秘密のアルファベートの類とされるが、それらには厳密な語義(発音)が帰属されず、諸ダイモーンに対する特別の力能だけが認められている。
それらのしるしのかたちから、おそらくに類の範疇に区分することができる。
大きな球の頂点もしくは三角をしるす図案。その幾つかはギリシャ文字の形をとり、それぞれの頂点の魔術的力能を示している。こうした類の文字の中には、大量のZがみられ、つづいてN, τ, χ, Γ, A, γ, Γ, ω。しかしわれわれのモニュメントにみられるような文字は他にない。その他の事例としては、四角、三角、円、半円、小さな円や三角の数々といった幾何学的な図案がある。
幾何学的図案−円、四角、破断線、特にzに近い形、錯雑した円孤の交錯等々。角頂のないもの。これらの図案は面をなす場合には通常等辺で描かれる。単純な線の場合には他の線分によって区画づけられている。われわれの球のしるしはおおむねこの範疇に類別できる。
これらのしるしの幾つかが異邦のアルファベートに由来するものではないのか、とすでに考えてみた。たとえばエジプト文字あるいはクレタのもののように用いられなくなった古アルファベート(1)。われわれのさまざまなしるし、四分された四角、上が開いた8等々はクレタのアルファベートに見つかる(2)。他にエジプト文字に見つかるものもあるが、これはどうやら純然たる偶然で、それではこれらの魔術的なしるしの淵源をばかりか意味−これは古ピタゴラス主義の幾何学において周知のものであった−を見出すこともできない。
これらの銘記やしるしが覆い隠している観念や教説の類型からみて、アテネの球は魔術的モニュメントの範疇に入るものである。まさに太陽崇拝−本来はギリシャの僅かの都邑に限られ、僅かな哲学体系からなっていたもの−こそ、この球が制作された時期にもっとも広まり流行していたものだった。ストア派の大きな影響力−知識階級(知的世界)にばかりでなく、民衆にも浸透したもの−のおかげもあり、ヘレニスム期の偉大な神性の多くは太陽神と化していった。ミトラ、アッティス、サラピス、ゼウス、オシリス、ディオニュソスはその個性を失い、いよいよ太陽と同一視されていくことになった。太陽崇拝は皇帝たち−アウレリアヌス、コンスタンス・クロレス、そして特にユリアヌスといったこれの宣揚者たち擁護者たち−のもとでさらにその威信を深めていくことになる。この時期のオルフィック教、ピタゴラス主義、プラトン主義の復活にあって、太陽はその宇宙誌および神学の中で、古代の宗教哲学体系におけるよりもずっと卓越した地位を与えられた。グノーシス派の多くにおいて、火の神性あるいはこの元素そのものの優越的な重要性が説かれた。そうしたもののひとつ、特にガリアやエジプトに広まったいわゆるヘリオグノースティ(太陽叡知(グノーシス)主義者たち)は、純然たる太陽崇拝を唱えた(1)。またミトラの諸玄義が東方世界からローマ世界までを征服し、ギリシャにも流行しはじめた。
太陽崇拝の影響がもっとも著しいのは魔術的文書群やそのモニュメント群だった。太陽はそこで第一の地位を占め、時にアポロンと、時にセラピス、ミトラ、オシリス、ホールス、アドン、セツ−テュポン等々と同一視され、あるいはその星辰のすがたで崇められた。パピルスの祈禱詞や魔術的召喚詞の多くはこれに向けられている。栄光の讃歌は彼に向けられ、そこに詳述される魔術実修の大部分は彼に関連したものとされている。ミモウ、ベルリン、ライデン・パピルス、パリ・パピルスの大部分はその神性を祝い、その創造の権能、世界の司としての権能を招請し、その意志的統率を祈願したものである。同様に、鰻足に雄鶏の頭(アブラクサス)、太陽蛇(クノウビス)、獅子、スカラベ、ホーロス、セラピス、セツ、オシリス等々、あれこれのすがたを取って彼は描出される。これらはグノーシス主義的貴石の多くに刻まれ、呪詛板に明瞭に記されてきた。
つまり、われわれの球もパピルスがその処方を載せ、護符(アムレト)とされた貴石に刻まれたものと同類の魔術的モニュメントの一つである。もちろん、これが私的な護符(アムレト)でないことは明らかで、館あるいは公的建築物の安寧を恃むためのφυλακτήριον(経札)であり、パピルスの書写者たちが記しているような魔術的実修のためのものであった。Wunschが検討しているペルガモンの魔術的器物の数々、三角の板、円板、釘、小板等々もこれに類したものであった。ライデン・パピルスの処方のひとつW, p.179, 15は、魔術師たちが召喚し、出現させあるいは行為を強要しようとする神のすがたを描出するだけでは満足せず、自らその帰属象徴を身につけることがその特別な魔術的力能を獲得するために有用であると考えていたことを示している。
έχε δε και εκ ρίζης δάφνης τον συνεργοΰντα 'Απόλλωνα γεγλυμμένον, ώ παρέστηκεν τρίπους καΐ Πύθιος δράκων γλύψον δε περί tόv Απόλλωνα το μέγα όνομα Αίγυπτιακώ σχήματι, επί του στήθους τούτο το άναγραμματιζόμενον Βαινχωωωχωωωχνιαβ, και κατά τοΰ νώτου του ζωδίου το όνομα τούτο Ίλιλλου Ίλιλλου Ίλιλλου, περί δε τον Πύθιον δράκοντα και τον τρίποδα ιθωρ μαρμαραυγη φωχω φωβωχ.(月桂樹の根も「微笑むアポロン」の共謀者で、ピュティアの龍の彫刻がアポロンをめぐるようにエジプトの偉大な名をもってあらわされ、その胸にアナグラム、バインコオオコオオクニアプ、そしてしるしの南側にイリロウ、イリロウ、イリロウ、ピュティアの龍の周り、三脚ithor marmaraugiにフォコ、フォボク(火よ、火よ)が記される)。
このモニュメントが発見された場所は、エジプトの魔術の流布にかかわる興味深い知見を提供してくれる。魔術的パピルス群は、この類の貴石の多く同様に、エジプトからもたらされた。これらの文書群やモニュメント群がギリシャ−エジプトの教説をもとに形成された宗教的折衷主義を示している。エジプトからこの魔術類型はローマやアジア−フェニキア(貴石)、小アジア(ペルガモンのモニュメント群からキプロスの呪詛板等々)、北アフリカ、イタリア、ガリア、ゲルマニア(呪詛板)へと広まった。どうやらギリシャそれも特にアッティカはこうしたものの浸食にかなり抵抗したようである。このアテネの球の発見は、どうやらこうした実修および教説がその地でも知られていなかった訳ではないことを示している。しかしこの孤立したモニュメントからあまり一般的な結論を引き出さないように注意する必要がある。この球はディオニュシオス劇場にその所有者によって据えられたものであったかもしれない。パピルス銀に記されたさまざまな魔術的実修のうちには、舞台の成功(Pap. Br. Mus. 46, 39)、競技会の成功(Pap. Mimaut, 20)をあてにしたものもある。運動選手や役者たちは迷信深いものだった。ミモウ・パピルスに載る魔術儀礼(v. 41)はこの同じ劇場(スタジアム)に由来するもの。この球はこの種の実修に用いられたと推測されるだろう。つまり劇場の中に隠されあるいは発掘された場所に埋められ、一種の土地の所有の証、勝利の保障とされたものだったのだろう。 

アテネの魔術的球体 6



Μερφερβερは対照のうちに数々見られ、なかなか興味は尽きない。同じ音節の繰り返しにより、はじめとおわりの子音を徐々に変えることで、数々の魔術的な言葉がつくりだされる。ディートリヒはこの経過をABC-Denkmalerで考察している。これらの名辞の多くはμερφερβερ(メルフェルベル)とよく似た響きとなる。ライデン・パピルスW, p. 182, 16 (cfr p. 176, 16 et 177, 2)では、太陽の名は次のようにかたちづくられる。ανοκ βιαθιαρ βαρβερ βερσι。別の文書(V, 4, 9)ではθαρ θαρ θαμαρα (cfr. 3, 17: βαρ βαρ αδωναι)。音節の反復はρでおわっており、これは太陽召喚において格別入念に努められている。Br. Mus. 125, 34; μενερφερ φιη; 121, 532: μερμερεω, μωρμαρησιο, αμαραμαστωρ etc. これに類した語は魔術的貴石にも見つかる。頻繁に観られる太陽の定式としては、σεσεγγενβαρφαραγγης: Pap. Br. Mus. 47, 34; 121, B, 7; Gemme di Parigi 2181, 2224, 2225; Pap. Berlino II, 108, 122 e 174. Mimaut, 12, 79, 110, 155; Audollent, tab. def. 16, 1, 9; 267, 14, etc. 他に、μαρμαραθαμ, βερβερετεγας (パリの貴石2211 e 2228)が太陽神に援用されている。また、μερφερβερに近いものとして、長い太陽の定式を引用しなければならない。ορουρμερφεργαρβαρμαφριουριτχςは太陽蛇クノウビスの貴石の数々に異文をともなってあらわれる。特にH. Kohler (1), nn. 24, 25)。あるいは呪詛板(Audollent, nn. 252, 24 et 253, 34)また、パピルス(パリv.1567)に。
魔術文書は、太陽の左側に置かれた円形の銘記のようなものを提供してくれない。通常、円形に記された銘記は指輪に刻まれるもので、アナグラムつまり特定の点から左右に読むことができるようになっている。多くの事例がパピルスに見つかる。たとえば、Br. Mus. 121, 311 et 717. W, 179, 19 (το άναγραμματιζόμενον)、貴石その他魔術的モニュメント群に(2)。これはここで取り上げるべき事例ではない。
獅子および蛇、また松明は銘記で蔽われている。これは貴石(たとえばパリn.2181)ばかりかパピルス(ベルリンII末尾、パリv.2427. W, p.179, 16 etc.)の処方や図像群の魔術的注記に慣用されたものだった。これらの銘記は残念ながら他の魔術的文書群とは接点が少ない。すでに述べたように、そこには同じ音節ιευ-ιευ, νχθανχθωが反復されている。蛇と獅子の間に置かれた銘記の二行目、大理石が毀損された部分には|NOI−のような文字が認められる。これは太陽の名として頻繁にあらわれる語ανοκと読めそうである (V, 7, 6: cfr. Χνουβις ανοχ , King, p.340の貴石の印刻, [α]νοχ φρη, in Audollent, 304, B, 9)。三行目は一連の母音で構成されており、占星術と関連のある魔術的なパピルスやモニュメント群にみられる類のものである。
松明に刻まれた語、ιξιδισιはおおよそアナグラムになっており、どうやらこれは偶然ではない。獅子の脚の銘記は、大きな三角の縁の一つのように、数から構成されていない。その配列は周知の体系のいずれとも対応しておらず、その子音系列には魔術的力能が認められたものだろう(cf. Pap. Br. Mus. 121, 940 et Audollent, n° 256, 4-10; 275, 1, 4, 11 etc.)。この類の定式はあらゆる類型にわたりディートリヒによってABC-Denkmalerで適切に検討されている。
三角を画する他の二行の銘記にも音節αξαξ, βενβενの反復がみられる。二つ目の行はοζωρουθενで途切れている。この語はοσορにはじまる魔術的な語と対照されるべきものだろう。οσορνουφι, Br. Mus. 121, 445 (nome di Osiride); οσορνωφρι, Br. Mus. 46, 353 (=il Sole), Parigi, 1077 (=Osiride) e 1628; οσοροννωφρις, Fr. Mus. 46, 101 e 114 (= dio solare), Audollent, Tab. nn. 22, 34; 24, 19; 26, 23 etc. これはオシリスという名が歪曲されたもので、これらの文書では頻繁に太陽神として崇められている。さらに、特にβίουに留意しておく必要がある。これは神の名としてベルリン・パピルスI, 239 (Χνουφι(太陽蛇)とともに)、またライデン・パピルスV, 3, 8 (βιβιου βιβιον, Eros-Horusの召喚詞として)、パリ・パピルス(v. 498)やライデン・パピルス(W, p. 197, 6 ανοχ(太陽神)とともに)、大英博物館(46, 484. Cfr. ベルリンII, 123: βιβια, βιβια)の太陽召喚詞にも見られるもの。また貴石としては、 アテネcoll. Dimitriou n° 1012 (Horusの裏面), Capello, n° 14 (鰻足の太陽神を描いたもの)、さらに呪詛板 (Audollent, n° 269, 14)。
あとは諸元素の小球上に記された銘記が残されている。これらの語の中で明瞭なのは、αιθαερで、一つ目の円輪を占めている。おそらくこれは第一元素の名であるアイテールの歪曲形だろう。二つ目の語もギリシャ語で、これについては二つの解釈が可能である。つまりεύπαγέςあるいはευ πάρες。Εύπαγές(αιθαέρの呼格の召喚詞)はアイテールにふさわしい添え名である。一方、Ευ πάρεςは、グノーシス派の者たちが死後の魂の歩みのうちに諸惑星のアルコンティに向けた祈願の召喚定式πάρες με Παρθένου πνεΰματι κεκννθαρομν; πάρες με σης μητρός φέροντα σοι σΰμβολον(わたしとともに清められた処女の霊を運びたまえ。わたしとともに象徴として汝の胎児を運びたまえ)(Origene, C. Cels., VI, 31)に較べ得るものかもしれない。これを祈禱詞とみることもできるだろう。いずれにせよわたしとしては前者の方を採りたいところ。
その他の名辞はその意味を解明するには並行句が見出し難く、書字方式がよく分からない。いずれにせよ、αχφει, αχφιφιωは大英博物館パピルス123, 3と対照できそうで、どうやら太陽神の姉妹の霊の名βαινχωωωχ,とαχθιωφι, 121, 317とみることができそうである。いずれにしてもこれは特的不能な本性をもつ別の霊の名であろう。Αναβπαはαχφειとともに、われわれの仮説としては、火の球をあらわしたものだろう。これはすでに分かっているανοκと対照してみなければならないもの。αναやανιにはじまる数知れぬ名辞のひとつ。BM. 123, 1の太陽の父ανι-βαινχωωωχのように。球の数々の下、同一行に記された大文字の数々は数かもしれないが、上記したアルファベート系列の銘記の範疇に入るものと考える方が容易だろう。
球の上に鏤められた奇妙な図案、あるいは太陽の足元に纏めて配置された図案も、異邦の言葉(異言)に由来するものとして説明されねばならない。まずこれらは星学的なしるしと考えられるが、占星術写本の数々にも錬金術師の文書群にも該当するものが見当たらない。一方、魔術的パピルス群の護符(アムレト)の記述にこれに類したしるしが溢れている。これらはアウグスティヌスの『キリスト教教義De doctr. Chr.』II. 30ではχαρακτήρες(カラクテーレス)という名で呼ばれている。魔術師たちはこれらに特別の効力を認めている(Pap. Br. Mus. 46, 311; 121, 193 et 195, 392, 413, 421, 462, 588, 860, 920, 925; 124, 24; 125, 2. Paris, 406, 1887. Berlin, II, 27 et 41. W (Leyden) p. 203, 24)。W, p. 204, 9 et 23には、太陽に関連したμέγας κύριος αφθεγκτος χαρακτήρ(大きく奇妙なカラクテール)がある。ベルリン・パピルスには、「健康にかかわる力能があるしるし」、ρυσπκοι χαρακτήρες(鄙びたカラクテール)が(ibid. 197: ρυστικήは或る護符(アムレト)の処方書の表題にもなっている, cfr. Paris, 9)。その魔術的な力能については神名ばかりでなく、άγιοι χαρακτήρες(聖なるカラクテーレス)と称される呪詛板の召喚詞に明瞭に記されている(Wunsch, Seth. Verfl, 16 A 26; 16 revers 74; 17 A 38 ; 23 C 22; 26 C 28; 31, 5)。

アテネの魔術的球体 5



哲学の幾つかの体系において、球形は諸元素のかたちとされる。おそらくこの教説はストア派に由来するものだろう。ストベイオスはこの語がクリュシッポスによって採用されたものであると言い(4)、ストア派の大多数はこの観念に忠実だったようにみえる。これはアリストテレスのDe mundo(c.3)にも見つかる。この著作はストア派に大きな影響を与えたものであることが知られている。一方、ストア派は諸元素の球を四つだけ認め、土、水、気、火に宛てている。しかしDe mundo(c.3)ではストア派の球のかたちにかかわる教説には五つの要素の教説が混淆している。これはアリストテレスおよび古ピタゴラス主義によって説かれたもの。πέντε δη στοιχεία ταύτα εν πέντε χώραις σφαιρικώς εγκείμενα, περιεχόμενης άεί της έλάττονος τη μείζονι (λέγω δε γης μεν εν ύδατι, ύδατος δ' εν αέρι, αέρος δ' εν πυρί, πυρός δ' εν αιθέρι) τον όλον κόσμον συνεστήσατο.(これら五元素(ストイケイオン)は球形に五つの圏域をあらわし、善宇宙の大エラットノスを含んでいる(つまり土は水の中に、水は気の中に、気は火の中に、火はアイテールの中に))。五元素の教説は新オルフィック教徒たち (266−1)および新ピタゴラス派の者たちによって再取され広まった。彼らの中には球形の観念を採用するものもあった(2)。
しかしなぜ太陽の傍らに五つの元素の球が描かれているのだろうか。新オルフィック教の魔術文書群(3)、特にライデン・パピルスW(4)の宇宙誌において、太陽は世界の創造者、諸元素をかたちづくり配置した神とみなされている。ここで関心のある句節は、Pap. Br. Mus. 46, 99 (cfr. 473); 46, 155; Pap. Parigi, 1200 ss., 1596 ss., 1168: δεΰρό μοι ό ενφυσήσας τόν σύμπαντα κόσμον, ό το πυρ κρεμάσας εκ του ύδατος και την γην χωρίσας από του ύδατος, πρόσεχε, μορφή και πνεύμα και γη και θάλασσα etc. Leyde, V, 8, 3 : ση δυνάμει στοιχεία πέλει καΐ φΰεθ' απαντά | ήελίου μήνης τε δρόμος νυκτός τε καί ήοΰς | αέρι και γαία και ύδατος καί πυρός άτμω. Fr. Mus. 46, 247 : ό τα πάντα κτίσας άβυσσον, γαίαν, πυρ, ύδωρ, αέρα και πάλιν αιθέρα (δ).(1168汝が万有宇宙の中で呼吸するところのわたしに驚嘆したまえ。汝は火を水から取り出し、水から土を分けた。気(霊)と土と海を慎重に採り出した等々。Leiden, V, 8, 3; 輝く月々と夜の道、また気、土、水、火の蒸気にかかわる知見を受け取ることができる。Fr. Mus. 46, 247: 創造のすべては土、火、水、気さらにアイテールの冥府への失墜による)(5)。
大英博物館パピルスBr. Mus. 122, 74 ss.およびパリ・パピルス(v. 437 ss. et 1958 ss.)(267−1)は、太陽と諸元素の関係を見定めている点で、特に興味深い。"Ηλιε, χρυσοκόμα, διέπων φλογός άκάματον πυρ | αίθερίοισι τρίβοισι μέγαν πόλον άμφιελίσσων, | γεννών αυτός απαντά απερ πάλιν εξαναλύεις, | εκ σου γαρ στοιχεία τεταγμένα σοίσι νόμοισι.(太陽、金髪の、消えることのない火の炎、誕生に当たり二重に絡まった三重のアイテールの極(?)を汝は読み解こうとするが、それらの元素は汝が定める掟によって配される)。プロクロスc.13の讃歌における太陽の役割もまた興味深い。στοιχείων δ' όρυμαγδός επ' άλλήλοισιν ιόντων | παΰσατο σείο φανέντος επ' άρρητου γενετηρος.(ホリュマグドスの諸元素は一にして他のアイオンで、さまざま(非限定)なものを誕生させる)。
魔術的パピルスやグノーシス主義哲学では、諸元素に著しい重要性が認められている。パリ・パピルスv. 713では、マグスが諸聖霊を召喚している。δέσποτα ύδατος, κατάρχα γης, δυνάστα πνεύματος(水の主よ、土の君主よ、気(精気)の支配者よ)。これに類する祈禱詞がν. Ι147屋、ミトラ教のάποθανατισμός (ibid. 487 ss.)に認められる。これらにおいてはアイテールが火と区別されている。これはPap. Br. Mus. 46, 247にも見られるところで、五元素の証しとも観られる。καί πνεύση εν έμοι τό ιερόν πνεύμα . . . ίνα θαυμάσω το ιερόν πυρ . . . ίνα θεάσωμαι το αβυσσον της ανατολής φρικτόν ύδωρ . . . και άκούση μου ό ζωογόνος και περικεχυμενος αιθήρ . . . etc.(わたしの息の内なる聖霊、...聖なる火を讃え、...わたしは東の奈落の恐ろしい水を観照する...わたしは賦活するアイテールを感じ、これに取り巻かれ...)。諸元素にかかわる崇拝はオルフィック教徒たち(2)、グノーシス主義者たち、哲学学派、占星術師や錬金術師たちばかりか、イシス崇拝(3)やミトラ教の諸玄義(4)においても認められる。特にミトラ教においては太陽崇拝と結びついて特別顕著である。しかし諸元素が球形であるという教説はストア派のおかげでたいへん拡がり、世界の創造者としての太陽は、頻繁に宇宙の諸元素との関係のもとに置かれる。五つの円輪が交錯しているのが偶然もしくは制作者の空想によるものでないとするなら、これは諸元素の混合と変容の象徴として観られねばならない。古哲学者のすべて、特にピタゴラス派とストア派は、諸元素がこの世界内では純粋状態ではあり得ず、継続的に混淆されていると認める。さらに諸元素の変容の教説は、イオニア派自然学をはじめとして哲学の諸体系の大部分において定説となっている。この球体を制作したマグスは、こうした信憑を交錯する諸円輪の象徴によってあらわそうとしたのだったかもしれない。
ここまで、われわれのモニュメントの委細を説明するために魔術的パピルスの教説をとりあげてきた。これはこの種の文書がおおよそこれと同じ時期に遡るものだからであるばかりか、その信憑の類同性をも見せているからであった。さらに、球の上にあらわれる理解不能の語について新たな証拠がみつかる。この種の異邦の詞(異言)の出自は不明であるが、あらゆる民の原始的な医術やあらゆる時代の魔術に見つかるものである。ギリシャ魔術にはこれについてさまざまな種類が識別される。
パピルスや魔術的貴石にみつかる母音の組み合わせ。これらにはおおむね諸惑星との関係がある。その各々がひとつの母音であらわされている。エジプト宗教ではこうしてこれが歌唱用として整えられた(268−1)。
アルファベート系列。これはモニュメント群に稀に観られる(2)。
異邦の言葉(異言)。その由来と意味はしばしばマグス自身からも忘失されている。
その他に神性もしくはダイモーンたちを描いたものもあるが、未特定である。いずれにせよその多くには意味なく、あるいはマグスによって創案されたか異邦の言葉が歪曲されたもので、άσημα ονόματα(意味ない名辞)、意味のない言葉である。われわれの球の上には、母音の組み合わせの事例が見つかる。諸他の銘記はアルファベート系列もしくは異邦の言葉(異言)からなっている。文字の甥差からしてもっとも重要な銘記はμουρβη μερφερβερ、これは太陽を指し示すようにこれの図像に向けて書かれている。Μουρβηは魔術的文書にはみつからないが、μουρενενε(呻く)の語幹にみつかる(Pap. Br. Mus. 121, 344, この召喚詞の中には太陽の名としてανοκ [Leiden V, 7, 6]), μουρκανα (ibid. 307), μουρρουρ (ibid. 357, これはまた別のダイモーンたちへの祈禱詞)もあらわれる。さらに、二つの貴石、一方はパリ(n. 2190)、他方はベルリン(Tolken, I, 183)。太陽蛇クノウビスを廻るように刻まれた文字の最後に、μουραι μουριραι (Cf ライデン・パピルスV, 10, 31)。

アテネの魔術的球体 4



いずれにしても、特にウロボロス蛇、円形に巻いて尾を噛んでいる蛇は明らかに太陽を象徴したものである。これは太陽の年間行路をあらわし、毎年出発点に帰還し、同じ行程を限りなく繰り返す。この象徴にかかわる解説はマクロビウスSat, I, 17, 68 (cf. 58 et 62 et 1, 20)およびライデン・パピルスV, 8, 26に与えられている。ήλιος γλΰφεται επί λίθου ηλιοτροπίου τον τρόπον τούτον δράκων έστω εγκύμων στεφάνου σχήματι ούραν εν τω στόματι έχων. έστω δε εντός του δράκοντος κάνθαρος ακτινωτός ιερός.(太陽は血石(ヘリオトロープ)に龍のすがたで刻まれる。これは孕んでおり、その口に冠を咥え、龍の中には聖なるスカラベが光を放っている)。ベルリン・パピルスI, 143ss.やライデン・パピルスW, p.175, 10; V, 6, 27、またBr. Mus. 121, 580(太陽の定型で)等々。ミトラ教のモニュメントの幾つか(n° 25, cfr. 81)、さらに大量の魔術的グノーシス主義的貴石の数々(King, C 5, M 2. Cabinet de Paris, nn.2170, 2176 ss., 2180, 2194 etc. )にも、太陽神をあらわす定式が認められる。
さらに、獅子頭の蛇のすがたも認められる。これは時に単独で、時に七惑星を象徴した七つの星辰を添えて、銘記はほぼつねにクノウビスΧνοΰβις, Χνοΰμις, Χνοΰφιςあるいは アガトダイモンAgathodaemon (King, p. 217)という貴石刻印(1)。
 Bonner, Magical Gems Database
http://cbd.mfab.hu/cbd/360
獅子頭とこれを取り巻く七本の光線その他の象徴は疑いなく太陽を指し示している。もっとも一般的な名であるクノウビスΧνοΰβιςはエジプトの神クヌムChnumのギリシャ語形で、一時期アンモン、ラー、太陽と混同された(2)。この表現はガリエンやマルケルス・エンピリコス(Galien, t. XII, pag. 207 e Marcellus Empiricus, I, 20)の医療用護符(アムレト)の制作法によってもよく知られている。
ここで、われわれの球の蛇は単純な鶏冠(ミトラ教のモニュメント群の幾つかの蛇のように(263−1))をもっているのか、問題の貴石やミトラ教のモニュメントn° 25 (2)のように頭の上のギザギザは光線ではないのか、と問うてみることにしよう。いずれにしても、こうした比較対照によって、太陽に捧げられたモニュメントにあらわれる蛇の意味が明らかにされる。太陽崇拝において蛇と獅子が同時にいる意味について。
円内に描かれた三角を説明するには、これと太陽崇拝との関係を探らねばならない。これは白羊宮の傍ら、北の領域にある星座Δέλτωτον(三角)を描いたものとは思われない(3)。もしもそうだとするならこれが円に内接するかたちで描かれることはなかっただろう。三角はフェニキアの宗教において太陽崇拝と結びついていた。この象徴は、三日月もしくは太陽の上に載る三角として、ほとんどすべてのモニュメントにあらわれる(4)。一方、ミトラ教の諸玄義にかかわるモニュメント群ではこれのかたちは明瞭で、三角はパトラクスの大理石浮彫ではミトラの頭の脇に刻まれている(5)。ヘデルンハイムのミトラ教集会所からは、三日月を載せた三角形の板(n° 253 c)が出土している。かなり毀損したこれに類した別の皿には、太陽、三日月、十字、雄鶏が認められる(264−1)。
はたしてこれは三つの門からなる三角形の図像であるのか。つまりワッロの注記によるなら、神秘家たちが天に据えた扉の数々。
unam ad signum Scorpionis, qua Hercules ad deos isse diceretur, alteram per limitem qui est inter Leonem et Cancrum, tertiam esse inter Aquarium et Pisces(ひとつは天蠍宮に、これはヘラクレスが神々のもとへ赴いた門で、獅子宮と巨蟹宮の境にあるものと互換的、第三は宝瓶宮と双魚宮の間)(Servius, Georg., I, 34)。おそらくこれは占星術の獣帯の三角相とみなされる。この天の三つの門は広く流布した教説だった。理論家たちはみな、三角を卓越した善の形象と考えている(264−2)。獣帯の三角相の中に描かれたこの図像構成は、諸惑星が描き加えられることによって複雑化し、占星術の諸体系において卓越した位置を占めることになる。この球の制作を指示したマグスはどうやら太陽崇拝と分離し難い占星術の教説に育まれた者であったろうから、わたしはこの仮説を唱えたい。獣帯の三角相はギリシャの占星術のもっとも明瞭な象徴である。一方、プロクロスの註によれば、太陽と三角の特別な関係は、ミトラ教モニュメント群やわれわれの球にこの形象があることをよりよく説明づけてくれる。Remp. II, p.58, 26;το μεν τρίγωνον αρχή της γενέσεως εστίν ης ό "Ηλιος δεσπότης.(生成(誕生)の三角の原理は太陽の支配(独裁)にある)。プロクロスはさらにこれに類した考察をもって説いている。天において三角の星座は、In Tim., p.30 a : άναλογον δέ εστί και προς την μίαν ζώογόνον πηγήν της θείας όλης ζωής και εν τοις εμφανέσι προς το ούράνιον τρίγωνον το πάσης όν συνεκτικόν της γενέσεως τω Κριω γειτνιάζων κτλ.(これは全生命(生涯)を賦活する唯一の源泉であり、天の三角の相(アスペクト)において、白羊宮の近傍に生まれることと一貫している)。この句節そのものがプラトンの『ティマイオス』の教説−三角が万有宇宙の諸元素の構成の基礎形象である(p.53ss.)−から採られたものである(265−1)。この観察は三角に帰属されてきた占星術的重要性に光を投じるもので、ここから太陽の右に据えられた五つの円輪の意味の考察へと誘われることになる。
第一の仮説として思い浮かぶのは、この図像が諸天球をあらわしたものであるという考え。諸惑星は時々太陽崇拝のモニュメント群、ミトラ教の浮彫や占星術的貴石にあらわれる。しかしこれは諸星辰のかたちをとって表現されるばかりでなく、十字や鮮やかな祭壇にもつねに七という数をもって表現される(2)。占星術においては諸惑星は二つの光球−月と太陽−とは区別されてきた(3)が、このモニュメントで讃えられる月天球また特に太陽天球がどうしてそこにあらわれていないか、と問うてみなければならず、そこでまた別の解釈を探らねばならない。

アテネの魔術的球体 3



魔術的貴石の数々には獅子が太陽そのものとして刻まれている。この同一視はさまざまな特徴込みで確かである。たとえば頭をとりまく光線(King, Gnostics, K, 1)、太陽に追随するスカラベ(太陽スカラベ)(ibid. J, 3)、諸惑星−恒星の存在(Cumont, II, p.450)。時に獅子は太陽と重ねられる(King, ibid. J, 5; Κ, 3 e 4; Kopp, Palaeogr. crit, IV, p. 78, p. 304, p. 293. Athens, coll. Dimitriou, n° 1729)(7)。さらに、太陽はその帰属(球、鞭等々)や銘記における光を発する頭によって識別可能となり、これが獅子頭のすがたで表現される(Re, L, 2, Capello, Prodr. icon., n° 111 ; Gemma di Gottingue (8); Cabinet de Paris, nn. 2168 e 2171)。この伝統は中世にもつづく。ウィーンとミュンヘンの二写本(1)には、四元素の図像が見られ、火の霊は獅子の上に坐し、片手に松明をもつ若者として描かれている。
魔術的パピルスの護符(アムレト)制作法のなかにはしばしば、獅子と太陽の関係が明瞭に記されている。
Pap. Paris, 2111 : έστι δε το εις τον υμένα γραφόμενον ζώδιον ανδριας λεοντοπρόσωπος περιεζωσμένος κρατών τη δεξιά ράβδον εφ' ή έστω δράκων τη δε αριστερά χειρί αύτοΰ όλη ασπίς τις  περιειλίχθω. εκ δε τοί στόματος του λεοντος πυρ πνεέτω.(盾の上に獅子頭の男のすがた。その右手には龍に向かってかまえた棍棒を、左手で盾をもち、口から火を吐いている) ibid. 2131 : ποίησον δακτΰλιον εφ' ω γεγλΰφθω λέων ακέφαλος. αντί δε της κεφαλής έχέτω βασίλειον (βασιλιον Pap.) "Ισιδος(指輪に頭なしの獅子を刻み、王イシス(イシドス)の頭を据える)(イシスの冠は太陽を象徴する円板)。ベルリン・パピルスI, 143(太陽召喚の準備); εστίν δέ ό γλυφόμενος εις τον λίθον τΰπος (ταύρος Pap.) άνδριας λεοντοπρόσωπος (λεωντοπρωσοπος P.)・ τη μεν αριστερά χειρί κρατών (κλαυων Ρ.) πόλον καί μάστιγα.(石(パピルスでは牡牛)に刻むのは、獅子の相貌の男。左手に笏杖と鞭を携えている)。パリの貴石(n° 2171)には獅子頭の神が鞭と球をもったすがたで刻まれている。これは上記の記述によく符合している。
獅子と蛇の特性およびこれらの太陽との関係は、パリのパピルスv.939ss.であらためて確証される。その書き出しは、χαιρε δράκων, ακμαίε λέων, φυσικαί πυρός άρχαί(龍、獅子、火の自然本性よ)で、そこで太陽のσύμβολα μυστικά(神秘な象徴)たちがスカラベ(衛星)のすがたで召喚されている。Porphyre, De abst, IV, 16 : και θεούς δέ τούτους δημιουργούς ούτω προσηγόρευσαν την μεν "Αρτεμιν λύκαιναν, τον δέ "Ηλιον σαύρον, λέοντα, δράκοντα, ίέρακα.(神々およびこれら創造者たちは「アルテミス、狼、等々」、ヘリオス、蛇、獅子、龍、聖なるものとして奇瑞をあらわす)。最後にパピルスの魔術的讃歌を二つ(Paris, v. 1667 et Mimaut, v. 190)つけ加えておこう。そこには太陽が引き受けるさまざまな形象が日中の時間ごとに列挙されている。獅子は第六時つまり日中のもっとも暑い時の太陽をあらわしている。これらの観念は東方の宗教ばかりかグノーシス派や魔術的な領野でも流通してきたもので、ヘレニズム期の夥しい獅子の太陽象徴の拡散状況を窺うことができる。
パリ・パピルスにあらわれる蛇は、上掲したポルフュリオスの一節から確認できるもので、この動物も太陽の火を象徴していることの証しである。こうした信憑はエジプトや東方だけのものではなかった。すでにエウリピデスも太陽を蛇のすがたで表現している(fgt.943)。
πυριγενής δε δρακών όδόν ηγείται τετραμόρφοις 
ώραις ζευγνύς αρμονία πολΰκαρπον δχημα.
(火から生まれ、龍は四獣を導き、時々に交わり豊饒で調和的なすがたを生みだす)。
しかしこれは上述したような理由により、特にヘレニスム期に広まったものだった。蛇と火の関係は特にミトラ教の諸玄義に証されている。ミトラの誕生を描いた場景において、しばしば光の息子に向かって蛇は頭をもちあげている(1)。火の神、獅子頭のクロノスは蛇に巻きつかれており、爬虫類のとぐろの間にしばしば獣帯の星座が見られる。ここで獣帯は格別、太陽の象徴である(2)。蛇は牡牛殺しのミトラ教浮彫の一部をなしていることは周知の通り。
魔術的グノーシス主義的文書群において、蛇は太陽そのものの象徴あるいは擬人化とみなされている。ライデン・パピルスの教説では、この星辰がそれぞれの枢要点で採るさまざまなすがたで記述されている。
V, 2, 15: εν δε τοις προς νότον μέρεσιν δράκων ει πτεροε. (南の龍は翼をもっている。)
ベルリン・パピルスII, 163では、εν δε τοις προς άπηλιώτην μέρεσιν  δράκοντα έχεις πτεροφυη βασίλειον έχων αεροειδή.(アペリオテスの龍は気中に翼を伸ばす。)
同様に、パリ・パピルスV. 1655 (cfr. Mynaut, v. 190 ss.: 欠落lacunes) の12時の枚挙において、太陽は第三時に蛇のすがたを採る。太陽は同じパピルスV, 1636でより一般的に、蛇と同一視されている。6 λαμπρός ήλιος αύγάζων καθ' δλην την οικουμένην συ
εΐ ό μέγας όφις ηγούμενος τούτων (πάντων?) των θεών. . .(この世のすべてに輝く太陽は昇る。この大きな蛇が(すべての)神々の頭)。
他の個所、例えばエジプトのモニュメント群では単なる旅の伴連れとして、蛇は太陽の船の中に居る。v.992: θεέ θεών, εΰεργέτα・ λόγος・ Ίάω εαηυ. ό διέπων νΰκτα και ήμέραν Άιαω. ηνίοχων και κυβερνών ο'ίακα, κατέχων δράκοντα αγαθόν ιερόν δαίμονα, ώ όνομα Άρβασανωψ(神々のなかの神、夜も昼も至高者としてはたらくイアオ、聖なる善ダイモーンあるいはアルバサノプスを領有する至高者)等々。
 
太陽蛇はまた、パリ・パピルスv. 2427の護符(アムレト)制作法に、εις δέ τον δαίμονα (le Serpent que tient Hermes) το όνομα του άγαθού δαίμονος (γράψαι) ό έστιν, ως λέγει 'Έπαφρόδιτυς, ό εστίν (sic) το ύποκείμενον Φρη (forme copte du nom egyptien du Soleil Ra) αν ωϊφωρχω etc.(ダイモーン(ヘルメスがもつ蛇)は善ダイモーンという名で、ヘパフロディトゥスはプレエ(コプト語でエジプトの太陽神ラーを謂ったもの)、卵等々)。同2111の護符(アムレト)上では、獅子頭の太陽神が二匹の蛇を支えもっている。δράκων αγαθός δαίμων(龍、アガトス・ダイモーン)(これは太陽を指して言った語。Pap. Paris 1596 ss.)は、パリ・パピルスv.944やライデン・パピルスV, 3, 3; 4, 28; 7, 32.では特別な召喚詞である。蛇頭の神はibid. 5, 19で言及されており(そこで祈禱詞は太陽を指し示している)、諸他にも、たとえばKing, Gnostics, fig.16, p.358の貴石ではこのすがたで太陽の円板をもつセラピスが描かれている。最後にグノーシス主義オフィティス派によって崇められた蛇神もまた、すくなくとも本来は太陽神であった(1)。おそらく、アポロンのピュティア祭の蛇伝説−教説や魔術的讃歌においてつねに太陽と同一とされる神性−はギリシャ圏ではたいへん好意的に受け止められ、この動物は太陽的な性格のものとみなされてきた。ライデン・パピルスW, p.179, 17の一節はこの仮説を証してくれそうである。

アテネの魔術的球体 図版

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アテネの魔術的球体 2



われわれの天球を個人のあるいは或る町の、あるいは何らかのモニュメントのホロスコープとみなすことは、一見するとそれほどおかしなことにはみえないだろう。というのもさまざまな文書からこの類のホロスコープが流行したことが分かっているから。二匹の犬は熱暑の到来を指し示しているのだろう。つまり(古代においては)七月二十四日から八月二十六日の間の時期を。獅子はまさにこの時期の星座である。松明は或る年にあらわれ、人々に深い引証を植えつけた彗星をあらわしたものかもしれない。しかしそうであるとするとそこには二つの占星術体系の混淆があることになる。ひとつは誕生時占星術とされるもので、獣帯星座の外にある或る恒星の占星術的影響を勘案するもの。もう一つは獣帯星座にかかわるものだが、こちらはここでは受け入れ難い。それだけでなく、これでは蛇の存在を説明できない。これまた星座のひとつであるが、これは獅子とも熱暑の到来とも関係がない。さらに三角もこれまた北の星座のことであるのか、あるいは獣帯の三角相のことであるのか、先述した五つの小さな輪同様、不可解なままにとどまる。つまりこれらは別の方向から眺めてみる必要があり、他の仮説をもって検討してみなければならない。太陽崇拝のモニュメントにみられる素朴さをもって。
この神は頭を七本の光線でとりまかれた髭のない若い神として表現される。これは彼の性格をしるすための符牒で、文芸にもモニュメントの数々にも、ミトラ教のうつわ絵その他の浮彫にも、彫刻、貴石、貨幣等々にも認められるものである。その添え名επτάκτις(七日)はカルデアの神学においては太陽の神秘主義的な名のひとつ(253−1)で、通常四頭立て馬車に乗り、槍あるいは鞭を手にした姿で描かれる。ここでは天を支配し、天球を司るものとして描かれている。これは稀であるにせよ、他の事例がない訳ではない。プロクロスの『太陽讃歌』にもこの立ち位置が認められる。
ν. 5: μεσσατίην γαρ έχων υπέρ αιθέρος εδρην | και κόσμου κραδιαϊον έχων εριφεγγέα κΰκλον | πάντα τεής επλησας έγερσίνοιο προνοίης.(アイテール圏に坐し、炎あげて廻る諸星辰の世界に、摂理をもってあらわれる)。
ここにあらわされた天球は世界の像であり、その主のすがたである。これは幾つかのモニュメントでは手にもたれた球としてあらわされる(254−1)。その添え名はαΐωνοπολοκράτωρ (Berlin Papyrus, I, 200)。Paris Papyrus, 438 ss.の句節(cf. 1959)にはαίθερίοισι τρίβοισι μέγαν πόλον άμφιελίσσων [ . . . . κόσμον απαντά τρέπων τε τετάρτιον εις ενιαυτόν. ファルネーゼ家のアトラス像の天球の北極近傍には玉座の跡が見えるが、この天球のこの部分は酷く毀損しており、そこに坐していた神が誰であったかは分からない。Thieleはそれがゼウスであったろうと考えている(2)。私見によればそれは天の諸星座の中央の玉座に坐すソルであった(3)と考えた方がよさそうである。
その片手に、ソルは鞭をもっている。この帰属象徴は彼に親しいものであり、さまざまなモニュメントや文書群に記載がある(4)。通常、太陽は四頭立て馬車を鞭うって全速力で疾走させる。とはいえ必ずしも四頭立ての馬車に乗ってあらわされる訳ではなく、ミトラ教の浮彫(5)や七惑星崇拝のモニュメント(6)においては、ソルは髭のない立像あるいは胸像として、いずれ鞭を手にして描写されている。われわれの浮彫では、玉座に坐したままこの道具(鞭)をもっている姿はさらに驚きである。これはまず、一般的な表現の残存とみなされるべきものである。さらにそこには神秘的著作家たちに帰される象徴的な意味が認められねばならない。これは以下のプロクロスの讃歌から結論づけられるところである。27ss. : δειμαίνουσι δε σεΐο θοής μάστιγος άπειλήν | δαίμονες ανθρώπων δηλήμονες, άγριόθυμοι | ψυχαΐς ήμετέραις δυεραΐς κακά πορσύνοντες.(有害な人々の邪悪な脅威の鞭を怖れることなく、魂は邪悪な者たちの淫乱に陥らず)。この特別な魔術的力能は邪悪な悪鬼たちに対するものとされ、この記念碑に刻まれた意味を説明してくれるものとなっている(255−1)。
太陽は左手で笏杖を握り、その上に三本の松明を載せている。数3の神秘的な意味はあらためて説くまでもない。ただ太陽にヘカテーセレーネに帰属される象徴がここに用いられている点には注目しておきたい。というのもこれは夜の光という観念を喚起するもので、一見驚かさせられるものでもあるから。通常、太陽の頭をとりまく光背のように描かれる光線は日中の光の輝きをあらわしている。いずれにせよ詩人たちの中には、松明を太陽光の象徴とみなす者もある。エウリピデスMedea, 353: εί σ' ή 'πιοϋσα λαμπάς όψεται θεοΰ (cfr. Suppl. 991); Ione, 1467: άελίου δ' άναβλέπει λαμπάσιν; ソフォクレス, Antigone, 879: οΰκέτι μοι τόδε λαμπάδος ιρόν όμμα θέμις όράν ταλαίνα, テオドクテス (fgt 10 ν.): ώ καλλιφελλή λαμπάδ' ειλισσών φλογος ήλίε、あるいは魔術的パピルスParis 1217: επικαλούμαι σε τον εν τω χρυσω πετάλω (Horus) ώ ό ασσβεστος λύχνος διηνεκώς παρακαεταιの讃歌にも、その他のモニュメント群−ヴィラ・ボルゲーゼの浮彫にも松明をもつ太陽が(2)、また青銅の小箱(3)、ナポリの貴石(4)、マドリッドとドレスデンの写本の細密画(5)−にも認められる。この特徴はミトラ教の浮彫の数々にもみられるもので、ミトラの誕生が太陽の光を象徴する松明であらわされている(256−1)。浮彫n.192bisでは四頭立て馬車を御す太陽神が松明を掲げている。別の事例(mon.70)では、松明は単に構図中に配置されている。また松明が太陽の象徴であることはミトラ教の浮彫の多くにふたりのdadophoresが描き出されているところに証されている。一方は松明を下に向け、他方は松明を掲げて、曙あるいは夏の強い太陽と、夕べあるいは冬の弱い太陽をあらわしている(2)。これが三つの松明を載せた笏杖をだけでなく、獅子の前に置かれた堂々たる松明をも説明づけるものとなっている。
天球に関する諸他の細部も太陽の帰属象徴として同じように解釈されねばならない。熱暑の象徴としての二匹の犬については明瞭である。古人たちは太陽光線がシリウスの旦出(ヘリアカル・ライジング)により (3)、つまりシリウスが太陽と同時に昇る期間(7月24日から8月26日)にもっとも激しくなることを知っていた。さらにシリウスには最古の占星術において驚くべき重要さが帰属されている。いぬ座の観察はエジプトの占星術(4)ばかりか、どうやらアジアに淵源するものと思われる特別な占星術体系−特にコス島の貨幣にみられ、ヘラクレイデス・ポンティクスが注しているもの(5)−の基礎をもなしていた。これはギリシャにおける太陽とシリウスの緊密な関係を証するものでもあり、古の詩人たちにおいては、太陽が時にシリウスと呼ばれてもいる(1)。さらに、ミトラ教の浮彫にはしばしば犬があらわれる。これはおそらく熱暑の到来を示したもので、太陽崇拝におけるこの星座の重要な役割を示唆している(2)。
太陽と獅子の関係はさらに緊密であるが、その由来と配置についてはたいへん異なった二つの動機がある。まず獣帯星座は当然ながら犬と太陽を結びつけている。実際、太陽が獅子宮にある時、これの旦出(ヘリアカル・ライジング)において熱暑が到来し、太陽の熱はもっとも激しくなる。古の占星術師たちは獅子宮と太陽の自然本性的関係を発見し、これがプトレマイオスの『四書』逸名註解のひとつで(in tetr. p. 36) : έστί καί άρχικόν καί βασικόν το ζώδιον καί θερμοτάτον ταύτα  δε πάντα και οίκεία καί συμπθή ήλιώ.(太陽は卓越した基本的なしるしで、気温はすべてこれに親和的に依拠している)と記している。またマクロビウスはSat. I, 21, 17 、Ellen, H. an. XII, 7、 Julien, Or. V, p. 167 b et 186 bで、テルトゥリアヌスAdv. Mare, I, 13で同じことを観てとっている。こうしたさまざまな動物誌と占星術の道理から、古人たちは獅子を太陽の宿(οίκος)と考えることになった(3)。
他方で、より一般的に獅子は−獣帯の獅子宮としてではなく−太陽あるいは火の象徴とみなされた。どうやらこの観念は東方あるいはエジプトに由来するものであり、早々にヘレニズム圏に普及したものだった。ミトラ教の諸玄義の中で火の神は獅子頭(1)であらわされ、これはバビロニアの太陽の熱の神であるネルガル−頭は人で翼ある獅子のすがた(2)−、エジプトの太陽神ラー−しばしば獅子頭であらわされる(3)−同様である。ミトラ教の数々のモニュメントには、タウロボロ(牡牛殺し)の情景に、通常火の象徴とされる獅子があらわれる。これは洞窟と蛇−諸他の要素を象徴している(4)−と三一をなしている。これはミトラやダドフォリdadophoresの諸他の情景にも認められる(5)。この太陽崇拝の諸玄義において、獅子は入信儀礼の一段階を示していた(6)。

アテネの魔術的球体 1



デラッテ『ギリシャ魔術試論』アテネ博物館の魔術的な球体(天球)
Delatte, ETUDES SUR LA MAGIE GRECQUE I. Sphere magique du Musee d'Athenes. (Dessins de S ven Risom: planches II et III).
https://www.persee.fr/docAsPDF/bch_0007-4217_1913_num_37_1_3134.pdf

アテネのディオニュシウス劇場近傍のロウスオポウロスRhousopoulosとペルヴァノグロウPervanoglouの発掘で、1866年、銘記や図像形象の浮彫で覆われた大理石の球が出土した。これは現在アテネのエピグラフィコ博物館(第四室n.1044)に収蔵されている。わたしはKeramopoullos博物館館長の好意によりそこでこれを落ち着いて実見することができた。このモニュメントの描像と意味については謎のままである。これについていまのところさまざまな会報に発表された発掘時報告の簡潔な記述(1)および考古学協会1866年5月の月報Πρακτικάに二点の粗雑で不正確な模写図(注釈なし)を見出すことができただけである。
 
この白大理石の球はかなり緻密な大理石で外周91センチ。主図像はかなり粗雑な浮彫で、頭から光線を発する髭なしの神(太陽)が正面を向き、玉座に坐して、両足を足台に乗せている。右手には鞭をもち(一部毀損)、左手には長い笏杖を握っている。その下部は床に着き、上部には三本の小さな松明が載っている。その足元左右に二匹の犬が坐しており、一方の頭からは光線が発しており、神を眺めている。神は平柱で支えられた半円天井の下に坐している。球の他面、太陽の右側には幾つか大きく副次的な形象が配されている。まず、蛇。その頭には髭と鶏冠がある。左を向いて、尾を何度も巻きつけている。これの先に同じ方向を向いた獅子が坐している。さらにその前には大きな松明が炎を挙げている。
四肢の頭と蛇の頭の上、円周約64センチの円輪内には、かなり規則的な三角形が描かれている。その各辺は15・1/2センチ、13・1/2センチ、17・1/2センチで、その各頂点は円周に触れていない。太陽の右側、また別の円周60センチの円内にさまざまな図像が描かれている。同じ順序(右から)で五つの小さな円輪が部分的に重なり合っている(それぞれの直径は56, 58, 49, 49, 46ミリメートル)。さらに了解不能な銘記と魔術的なしるしの数々が球面全体に散りばめられている。
 
https://www.amochilaeomundo.com/2015/05/a-misteriosa-esfera-magica-de-atenas-helios-alquimia.html

図1に二つの図を載せた。一方は五つの円輪とこれに添えられた魔術的なしるしの数々、もう一つは太陽の玉座のアーチの上にしるされたこれと類同なしるしの数々。また太陽の足下のアーチの左側、蛇の頭の上、獅子と松明の間にも幾つかのしるしがある。これらの図は研究II, IIIに収める。
銘記を可能な限り転写してみよう。大理石に刻まれたしるしはさまざまな箇所で欠損しており、正確に解読することは困難であるうえ、その言葉の意味も通常の銘記のように読み解くことができるようなものではない。
蛇と太陽の間、右側の平柱にかかるように太陽に向かって、μουρβη μερφερβερ。
この語の上に完全に閉じた円形に文字が配されている、λεθουνωμερχλλιευιευ。
蛇の体躯の上に、ειυ. λλμεμψουρφιβροφευ。
蛇と獅子の間、四行にわたり、νχθαν-χθωλεκρο | ανοκλερφροεραι | . ιεωευ | βλεφαροζη. —
四肢の胸に、θαδειητ。左前脚に、χχφφφα。右前脚に、πδδδδδη。
松明の頂に、ιξιδισι。
三角形の三辺に沿ってその外縁に、1°) αδαξαξβενβενβλωθνωμαζομοηρ. 2°) oζωρουθενααεξαβι-ουροαιλεμβραερ. 3°) □ χχχ ππππ φφφφφφφ δδδδ λλλλ ΛΛΛΛ。
五つの小円のそれぞれ、および二つの円輪それぞれに共通な部分に次の言葉が刻まれている。それぞれの言葉の文字は垂直方向に記されている。αιθαερ | ευπαγες | αναβπα | αχφει | αννιαευ | αθελα | εδεβωπι | (第四と第五の円の交差部の銘記は) απιοβι。その下に十一文字が水平線にほぼ一列に配されている。その文字はχχχ δδδδ ηηηη。
これらの銘記からすると、このモニュメントは二−三世紀のものであると了解される。
この球にはこれを吊り下げたような形跡は認められない。ファルネーゼ家のアトラス像の星学的天球やその他の浮彫にみられるようにアトラスの肩に乗せられていたとも思われない。他にもその展示形式は想像できる。ルーヴル美術館の石棺(1)には、神々の集会の中央、アポロンの鼎の上に球が据えられている。同美術館の或る浮彫(2)には、大きな壷によりかかった婦女(ムーサイのひとり?)の傍ら、翼のある聖霊が支える皿のようなものの上に球がある。
これを検討するうちさまざまな問題がもちあがる。これらのギリシャ文字の銘記あるいは了解不能な文字列にはどのような性格があるのか。そこに跡づけられる難儀な(カバラ的な)印にはどのような意味があるのか。さらに、これらと太陽と二匹の犬、獅子、蛇、松明、三角、五つの円輪はどのような関係にあるのか。解き明かされねばならない問いは謎ばかり。もっとも重要な問いはもちろんその意味であり、このモニュメントの役割である。球形は、太陽をあらわすものとして、動物たちの中央にあって星学的な意味をもつものかもしれない。するとまずホロスコープが想像される。二匹の犬がおおいぬ座(シリウス)と小犬座(プロキオンΠροκΰων)を指し示していることは確かなように思われる。これが太陽の近くにあること、その一方が頭から光線を発していることはその決定的な証拠であるだろう。これら二つの星座は二匹の犬のかたちで表現され、その一方は頭に七本の光線の光背をもっている。星学的写本のひとつ(Codex Vossianus)の細密画(1)、あるいはまた別の写本の天界図(Codex Filippicus)(2)のように。ファルネーゼ家のアトラス像の天球にも頭から光線を発する犬、アトラスの手に隠された子犬のすがたが刻まれている。さらに、小さな都の浮彫のアテネの暦(3)、コスの町の貨幣(4)でもシリウスはこれと同じ象徴であらわされている。
一方、獅子は十二の獣帯星座のひとつで、おおむね八月に相当している。松明も星学的に解釈できる。まず、この星辰は金牛(獣帯の五月の星座)の眼をあらわしており、まさにλαμπαδίας (1)と呼ばれる。しかしホロスコープという仮説からするなら、獣帯の星座が複数描かれることは考え難く、この事例では制作者はこの星座を獅子宮の四角相としての金牛宮を含意して描いたものだろう。すると四角相を完成させる第三、第四の星座が欠けていることになる。しかしλαμπαδίαςとλαμπάςは、尾を上に向けた彗星の一種をあらわすためのものかもしれず、これが気圏の諸現象を格別乱すことになるものとして、松明で描き出されているのかもしれない(2)。
たしかにホロスコープとみなすことのできるモニュメントはかなり稀である。われわれはアンティオコス一世エピファネスのホロスコープをもっている。これはフマンとプークスタインがコンマゲネで発掘したもの(3)。これは諸星辰を鏤めた獅子であらわされ、その胸に三日月、さらに惑星火星、水星、木星を描いた三つの星辰が認められる。これはこれら三惑星が太陽と月と合していることを示している。パルミラの神殿で発見された円形の獣帯では、諸惑星は特殊なしるしで記されており、どうやらこれらの惑星の配置はこの神殿の創建、あるいは創建者の誕生の時をしめすホロスコープのようである(4)。カペッロが公刊した貴石の表と裏には七惑星のそれぞれに獣帯星座が添えられており、これもおそらくホロスコープである。われわれはこの結論を一般化し、獣帯星座のひとつを刻んだ貴石のかなりの部分がそうしたモニュメントであると考えられる。スヴェトニウスは、アウグストゥスが星座磨羯宮を描いた銀貨を鋳たが、それは彼のホロスコープの星座であった、と語っており、これは古銭学(ヌミスマティカ)によって確認されている。
ホロスコープの計算法および表現法は数知れない(5)。時にそれは単に旦出(ヘリアカル・ライジング)する惑星を個人の誕生もしくは受胎の日(時)に探るだけ、あるいは誕生もしくは受胎の時のホロスコープの星座が太陽(あるいは諸他の惑星)のある獣帯星座とみなされた。しかし古代のうちでもより最近になると、ホロスコープは一つの星座でも一つの惑星でもなく、ずっと複雑な星図と化し、諸惑星の数々の合や相関係がみつかる幾何学的な場所となった。

中世の星学と二十世紀の研究 2

2.アブ・マセルの天球の翻訳がイブン・エズラ・アヴェナールの天球に他ならない。これをスカリゲルはマニリウスのラテン語訳に抄録している。トレドのユダヤ人アブラハム・イブン・エズラ(1093頃−1167)は、『叡智の端緒原理に関する序論Introductorium quod dicitur principium sapientiae』の表題のもとに占星術序論を著している。これはこの著者の他の占星術的著作群同様、フランス語訳をもとにペトルス・ダーバノによってラテン語訳され、1507年にヴェネチアで印行された。この序論の第二章は、ペルシャ人(テウクロス)、インド人、プトレマイオスの三つの天球をもとにパラナテロンタを主題的に取り扱っている。スタインシュナイダーによれば、彼イブン・エズラとアブ・マセルのもじどおりのかんけいせいはこの書とは別に、イブン・エズラのヘブル語テクストのLiber rationumの改定に明らかである。イブン・エズラには省略もあるが、他の要素の要約加筆は見当たらない。とすると、こうした欠落はフランス語訳者もしくはラテン語訳者にすでにみられたものかもしれない。しかしヘブル語テクストが知られていないにせよ、これらの省略の大部分はたしかにイブン・エズラによってなされたものとわたしは考えている。[420]スカリゲルによる翻訳は先行者(イブン・エズラ)を知らなかったとは考え難いが、オリジナル文書をもとにした校訂版を装っている。これによってイブン・エズラがギリシャ語の語彙および名辞のすべて、およびこれらにかかわる句節を組織的に排除していることがわかる。Eracle, Apollo, Arktos, Nereis, Eridanos, Neilos, Adonis, Ariadne, Musa, Heniochus, Centauros, Ofiuchus, Hippokrator, Kyknos, Eileithyia, Asklepios, Satyros, Bootes。これらの名はアブ・マセルではギリシャ語オリジナルのままであり、これらすべてが削除されたことは明らかである。ペルシャ語の語彙も、アブ・マセルがテウクロスの名で引用する句節もすべて削除されている。スカリゲルは可能な限りイブン・エズラからの翻訳にギリシャ語名を補綴している。そこで「ペルシャの」天球が稀にもちいられるだけであるのは、ここでギリシャの伝承が基礎とされているところからして当然である。イブン・エズラは基本的にギリシャ語の語彙を排除していたのだから。これを別に、アブ・マセルの文章が理解困難な場合、あるいは奇妙と感じられたところは、イブン・エズラによって訳出されていない。こうした事例は前註に引いておいた。その他については、キュノケファロス(犬頭)−この個所はアブ・マセルの不明瞭な難読箇所−、タラスTalasや鹿つまりエラフォスelafosに関する句節の省略に関してだけ引用する。これらがイブン・エズラが用いたアブ・マセルの写本に欠けていたとは思われない。それどころかここでもギリシャ語の語彙の場合と同様、これら理解できない部分が見逃しにされたのだった。
これはイブン・エズラによるパラナテロンタの翻訳にも当てはまり、スカリゲルがこれを訳し印行したことは後代の星辰の歴史(ものがたり)論議にとってどれほど影響があったか、とは別の問題である。この点でミュンヘン写本は格別優れている。これの奇妙な細密画はある種の驚きをもって見られてきたものだが、ここですこしばかりこれを眺めてみよう。この写本はClm.826で、ドイツ王ウェンゼルの蔵書で会った豪華写本のひとつ。所有者名WEがしばしば装飾文字で描かれ、王の他の写本群同様、手桶と手ぬぐい(?)Badequastをもった浴衣の娘のすがたがf.11に描かれている。
[Clm.826;
https://iiif.biblissima.fr/collections/manifest/0d9fd844ea67eef0253942f03a2edfa9803f5d1f?tify={%22pages%22:[60],%22panX%22:0.496,%22panY%22:0.705,%22view%22:%22info%22,%22zoom%22:0.374}
註2[p.420]
この図像ではこれに結びつく尊い伝説に格別の寓意的手法が採られている。
cfr. J. v. Schlosser, Annuario del Kunstsammul. dell'Aller. Kaiserh., Vol.14 (1893) pp. 214-317.
この論考ではラテン語『四書(テトラビブロス)』写本の記述が付加されている。これがウェンゼル王の蔵書(Vindob. 2271)であったことについては、H. J. Hermann, Mitt d. istituto per oster. storia XXI 162-165.参照。
1) これにかかわる知見についてはSchlosser,id.p.260,266sqq.参照。
2) 配置は正しいが、誤った序列になっている。
3) f.1r空白。f.1v 獣帯で取り巻かれた大地(牡牛は全身像、双子は枝を手にした裸の二人の若者、翼ある乙女、天から突き出された手で持たれた天秤、人馬は四つ足のケンタウロス、やぎ(磨羯)は一般的な山羊、宝瓶は壺を二つ持つ若者として描かれている)。その周囲に12の風が髭のある仮面として描かれ、四隅に豹、獅子、象、龍に乗った王たちがいる。その間にアラビア語を歪めてつくられた奇妙な記号(文字、カラクテール)がみえる。
f.2rは後代つまり十六世紀初頭に制作されたもの。'Hic sunt decani et fines planetarum secundum Jul. Firmicum'と注意書きがある。これは円輪の分割図で、これまた獣帯で飾られている(人馬が蹲る二本脚のケンタウロスで描かれているところに注目。f.2vは白紙。
f.3rは惑星の親和と敵対の表とそれらのさまざまな獣帯配置図表(逆位、三角相等々)を含むTabula de partibus planetarum。その獣帯図は小さな彩色画として描かれている(牡牛の全身像、双子は樹木の下に座した二人の子供、人馬は弓をもった髭のある小人、宝瓶は二つの壺、磨羯、処女、天秤は最前のもの同様に)。また縁には風の神々。f.3vには天の十二の家の図式(四角のホロスコープ)があるが、これは十六世紀につけ加えられたもの。
f.4r、5rには、円輪だけで図像はない。f.4v, 5v, 6r, 6v, 7rは白紙。f.7vには獣帯星座の特徴にかかわる一覧表。その書き出しの小さな大文字(イニシャル)に細密画が描かれている(金牛、双子、処女、宝瓶は最前と同じ。人馬は激情をあらわにした二本足のケンタウロス、磨羯は混合形象として)。
f.8rは獣帯星座が及ぼす諸効果についての一覧表。その中央には四分儀を手にして諸星辰を観察しつつ書写机に向かう星学者の姿がある。各書き出しの頭文字の場所に獣帯の12の星座が小さく描かれている(双子は樹木の下に立っており、金牛、処女、天秤、人馬は最前の通り、磨羯宮は憩う山羊、宝瓶宮は二つの水差しをもつ二本足のケンタウロス。私見の限り、これに類する表現はこの写本f.17v, col.2にしか見つからない。宝瓶宮は馬の体に縛り付けられた二つの水差し)。f.8v e 9rは白紙。
f.9vには獣帯と諸惑星の関係が三つの円輪によって描かれている。内側の円輪には月々の小さな図像、外側には獣帯星座の小さな図像がある(最善のものとは幾分異なる)。9v,10r−vは白紙。
f.34-41に描かれた星座は、小熊、大熊、龍、髭を蓄え赤い縁なし帽をかぶるケフェウス、髭のある牛飼い(ボーテス)が左手にまっすぐの大きな剣をもち、碗形の冠を被ったすがた、帽子をかぶった若いエンゴナシンが、左手に曲がった短剣をもっている(シュロッサーが鍛冶屋と言っているのは過ち)、竪琴は二つの取っ手がある壺として、鳥は雄鶏として。カシオペアは黄金の角(冠)をつけ、髪を梳き流して(?)、右手に奇妙な柄のある槍をもって。髭のあるペルセウスは公爵の縁なし帽をかぶり、右手で悪魔の頭をつかみ、左手で抜き身のまっすぐな剣を頭上に振り上げている。若い御者も縁なし帽をかぶり、右手に牛追い棒を握っている。若いオフィウコス(蛇使い)も帽子をかぶり、自らの背後に大龍を従えている。海豚は普通の魚のよう。鷲。そして仔馬は若駒の頭だけであらわされており、翼も見えない。ぺガススは翼ある馬として。個々の星辰からつくられる図像の数々は卓抜な図像となされており、ウェンゼル写本群の中でもこれは卓越したものである。ティエルはこれにはアラビア語写本の手本があったと考えている。これはペルセウス、鳥等々の表現の中にその特徴を見出すことができる。〕

このフォリオ大版写本はおそらく後代の所有者によって不完全で異なった束を寄せ集められたもので、表紙裏には略号(イニシャル)と1501年という記載があり、赤フエルト生地で装丁されている。その内容は頁をもとに区分するなら、
1)p.1—10(1—10,2−3,4−9,5−8,6−7)には占星術の一般的な図像と表が含まれている。
2)四つ折三束、f.11 + 11bis -17, 18-25, 26-33 にはイブン・エズラの『知恵の原理Principium sapientiae』(Incipit introductorius Abrahe Auennarre in iudicijs astrorum qui dicitur principium sapiencie) f.11 - 27rが収められている。つづくf.27v - 33rには'Dixit Sadan: Audivi Albumazar dicentem' とはじまる別書(この書はCod.Bruxelles n.1464にも収録されており、デュロフによればこれはイブン・アビ・ウサイビアIbn Abi Usaibi'a 1,207からの抄録で、フィリスト2,111に『サダンの書』として引かれているもの)。
3)四つ折束f.34-41にはプトレマイオスによる星辰指標一覧が含まれているが、これはアラビアにおける加筆をへて美しい大画面の図像が挿入されている。この断片には子熊からぺガススまでの北の18星座だけが含まれており、見出し銘記はない。四つ折二束の後、f.42−45は空白。
4)四つ折f.46-53には書き出しも末尾も欠けた断片。これは Liber novem iudicum in iudiciis astrorum、アラビアの編纂書の一部で、Petrus Liechtensteinによってヴェネチアで1509年に公刊された書のf.10v-22 と同じ。https://books.google.it/books?id=rCc8AAAAcAAJ&printsec=frontcover&hl=it&source=gbs_ge_summary_r&cad=0#v=onepage&q&f=false
これらの書写は十四世紀末から十五世紀初頭の同一人によるもので、卓越した書写である。各頁は三欄からなり、各章のはじめは装飾文字で飾られている。この写本f.1-10に描かれた図像およびf.34-41の北の星座群について少々註しておきたい。というのもこれはティエルThiele (Ant.Himmelsbilder p.150sqq.)にも何も記されていないから。
[422] 一方、イブン・エズラf.11-27vの装飾についてはより詳細に論じなければならない。その最初には大きな装飾文字Cがあり、その中に手帖を見る星学者が描かれているがその縁に先に触れた浴衣の娘が見える。[423]ひきつづき小さな章分けも装飾頭文字(イニシャル)で区切られている。これらは単なる装飾模様で描かれているが、獣帯の図像をあしらったものもあり、この写本の他の慣用と善く釣り合っている。さらに諸惑星も完全に中世後期の観念に基づいて頭文字飾りに用いられている。サトゥルヌス(土星)は鎌をもって黒い上着をまとっている。木星は司教として、火星は甲冑をまとった戦士、太陽は天球と錫杖をもった王、金星は花咲く庭にいる金髪の婦人、水星は商人もしくは学者として。ただ月だけが若い娘が手に二本の燈火をもち、月の鎌(三日月)を頭にして、その姿勢にはエンディミオンの石棺に見られるようなより古い観念が残されている。これらの頭文字以上に興味深いのは、第二章の12の3倍の彩色矩形で、緑、紺、黄金あるいは薔薇色の地色に各デカンのパラナテロンタのすべて、つまり三つの天球のすべての星座が奇妙な一体をなして描かれている。ここに原寸大で掲げた二つの図像はこれら矩形図の奇妙さを十分に見せてくれる。一つ目の図の本文は1507年版によれば以下の通り。Et ascendit in secunda facie (cancri) puella iuvenis, que simulatur nubi, et ibidem medietas canis et dimidium auricularum asini sinistri. Et Yndi dicunt ascendere in ipsa ancillam pulchram in verbis, super cuius caput inest de herasr (!) alias corona mixta rubeo corona (!), in manu eius baculus ligneus, ipsaque querit vinum et cantum. Et ascendit secundum sentenciam Ptholomei caput urse maioris et latus cancri posterius, venter quoque navis. 
この図(f.14r)はこの一文に隣接して描かれている。Iuvenis(若者であって乙女ではない)、犬の上半身、驢馬、これらはペルシャの天球に由来する。戴冠した妻はインドの天球から、さらに大熊、船はプトレマイオスの天球から。一方、半分の蟹は了解不能の四つ足獣の半身に替えられている。[424]次の図の傍らの文章。Et ascendit in tercia facie (cancri) ancilla virginum, que interdum discurrit inter oriens, aliquando versus occidens; et ascendit iterum geminonun posteriore medioevale seconda auricule asini sinistri et asinus itidem secundus meridianus. Yndorum quippe sapientes putaverunt illic ascendere virum, cuius pes pedi serpentis simulatur, et super eius corpus serpens; eiusque desiderium est navem intrare et mare navigare, ut aurum argentumque afferat, ut exinde mnulieribus suis anulos componat. Et ascendit secundum sententiam Ptholomei collum maioris urse eiusque manus dextra et cornus cancri et audacis caput ultimumque navis. 図には娘、裸の双子の下半身、驢馬の頭二つ、蛇を手にした蛇足の男、大熊の下半身(頭なし)、右腕(熊の脚の代わりに!)、蟹の爪(角!)、巨人の頭と船。右上と左上の光線に包まれた二つの頭はおそらく単なる装飾目的だろう。他の図像では組み合わせはさらに奇妙になっていく。たとえば、ある婦女の上半身、牛の背にはじまる文章には、混合した組み合わせ形象が創案されている。この写本の細密画家は、ウィーンのウェンゼル写本(Schlosser loc.cit.p.260sq.)の星学者と同じである。この論考を眺める者ならだれでも、ここで観ている写本の裸体とシュロッサー(p.261)が挙げるウィーン写本の図が同一であることに気づくだろう。これら裸体図がどちらも同じ、あるいは瓜二つであることに疑いはない。馬車引きの荷車もわれわれの写本とウィーン写本ではまさに同じように描かれている。金地に描かれたアラビアの図像もこれらの写本と同じ様式である。その他の委細についても列挙することができるだろう。もちろんわれわれの写本の画家が古いモデルを利用し、これを彼流に描きなおしただけであったかもしれない。テウクロスの書のペルシャ語訳には挿画が付されていたことは明らかである。というのも、ペルシャで編まれた辞書Borhan-i-Qati'−クウォルソンが詳細に報じ、グートシュミット(Kl. Sehr. H 677) が簡潔に要約しているところ、「テンゲロシュあるいはテンゲロシャとはギリシャの賢者にして卓越した画家の挿画入りの書の名である」という一節を説明する唯一の方策であろうから。それゆえ、ミュンヘンのウェンゼル写本の図像の数々の中に古いオリジナル図像の痕跡を尋ねることができるのかどうか、と問うてみなければならない。もちろんそれはずいぶん変形され曖昧となっているに違いない。というのもわれわれの写本のインドとプトレマイオスの天球の図像は、ペルシャの図像とケンタウロスの姿にいたるまで密接な関係を示している。これらはペルシャのオリジナル図像で、テウクロスの単なる訳書には欠けていたものに違いない。これらの図像の注意深い検討をなしてみても、一切アラビアに由来する典拠を見出すことができない。悪魔の首caput diaboliがアラビアの天球ではメドゥーサの首に挿げ替えられているにしても、これは西欧からの借用に過ぎない。衣装はほぼ想像によるものだが、f.12v col.2と13r col.2の甲冑を着けた騎士たちは西欧風である。f.17r col.1と25v col.3にはゴート風(ゴシック様式)の被り物がみられる。f.11bis vのオリオンは本文中の記述に従う伝承とは一切関係なしに描かれている。われわれの画家がここでもアラビアのモデルを自由に用いたとは考えられない。奇妙な画面系列はそこ(アラビア?)では途絶していたもののように見える。それは本文中の主題にかかわる「魔術と妄執の説明不可能な亡霊」などではない。ティエルが想定したようなエジプトやインドのモニュメントが用いられた痕跡もみつからない。いずれにせよ、ミュンヘン写本はわれわれの文書群にとってたいへん貴重な資料でありつづけるだろう。

中世の星学と二十世紀の研究 1

ボル『天球論』承前

XV 中世の星学と最近の研究
スカリゲルはマニリウスの第五書に先立って短い序を付し、そこでバルバリの天球の観念について論じている。そしてこの序に、イブン・エズラが伝えるペルシャ人、インド人、ギリシャ人の三つの天球にかかわるラテン語訳を付加している(1600年版印行書pp.371−384)。マニリウスとフィルミクスに採られた語彙の誤った解説に準じて、彼はバルバリの天球とはイブン・エズラの言うギリシャの天球のことにほかならず、そこにはプトレマイオスの48星座が含まれていた、と言う。しかしマニリウスに見いだされる図像(すがた)の数々はみなギリシャのもので、イブン・エズラによる第三の純粋にギリシャの天球こそ、スカリゲルにとってはこれにもっとも近いものだった。イブン・エズラの「ペルシャ」の天球こそ、もしもその本来のすがたを失っていないとするなら、この問い全体の解決にとって最も重要なものでありえた。ただこれはさまざまな経路を経て伝えられてきたものであり、じつのところこれは三つの言語とを介して伝承されたテウクロスの天球に他ならなかった。こうした誤りにもかかわらず、万有宇宙史の創設者(スカリゲル)は、イブン・エズラの三つの天球をマニリウスの天球と並べて彼のすばらしい洞察を正しく導くことになった。バルバリの天球は中世の東方や西方でもさまざまな経緯を経ることになったが、この最終章では私見の限りこれについて大枠を私見の限りで見通してみることにしたい。
1.アラビアのもっとも古くまた偉大な星学者はアブ・マセル(ラテン語役者たちはアルブマサルと称してきた)、コラサンのバルク出身で、886年に没した。彼は百年以上生きたと言われる。数多の著作を著したがその中に8巻からなる占星術の広範な著作もあった。ラテン語役者たちはこれの簡約な抄録に対して、この帯札を『大序Introductorium maius』と呼んだ。オリジナルのアラビア語写本が二本残されている。その他に中世には二種のラテン語訳がつくられた。その一方が1489年に印行され、版を重ねている。また本論に関係する章のギリシャ語訳も現存する。その中の一本がcod. Angelicanus 29。これらの委細については本書付録6参照。アブ・マセルのアラビア語『占星術序』VI,1にカール・デュロフによる独訳を収めておいた。
この章の序でアブ・マセルはこの章の意図を語っている。十二星座すべての各々のデカンのパラナテロンタを、三つの天球のそれぞれについて論じること。まずペルシャ人、カルデア人、エジプト人に共通した天球について。第二にインド人の天球について。第三にアラトスとプトレマイオスの天球つまりギリシャの天球について。占星術のこの部門の重要さについて彼が語るところはわれわれにはたいして興味がない。彼にとって不可欠なものおよび彼がこれに専念する動機も、アラビア占星術の教えの中ではたいして重要なものではない。占星術にパラナテロンタを援用するにあたっての典拠として、アブ・マセルはヘルメス、プトレマイオス、ドロテウス、ティンカロスつまりわれわれのテウクロスを、そしてアンティフォス、おそらくアウトリコスかアンティオコスを挙げる。
これら三つの天球のうち、ギリシャのものは僅かにしか論じられていない。そこにはプトレマイオスの48の星座に準じてパラナテロンタが挙げられる。ただ、計算と観察(実測)はアブ・マシャルの時代と場所に拠っている。[414]この序からすると、アブ・マセルは真正か副次的な著作か、いずれプトレマイオスの著作を所蔵していたようにみえる。これによって彼は獣帯の一々のデカンに昇る星座を推測することができた。ひょっとするとそれは『ファセイス』の第一書であったかもしれない(cfr. ed.Wachsmuths p.199,11)。 一方、アブ・マセルが解釈を発見したという書はわれわれには伝わらないか偽作されたプトレマイオスの著作の一つであったと想像される。アブ・マセルの著作は当時の星学者たちには大変役に立つものであったに違いない。ヒッパルコスの著作が彼の同時代人たちにとってそうであったように。しかし星座の歴史(ものがたり)についてはそこからは何も演繹できない。
そこではどうやらインドの天球にかかわる知見がもっとも貴重である。アブ・マセルはおそらくこれをインド人から修得したのだろう。彼のインドの天球の知見には信頼がおけそうである。われわれの文書が完成していたなら、アブ・マセルはここに唯一の典拠を引くだけでは終わらなかっただろう。しかし彼を書写したイブン・エズラはこのインドの叡智の典拠について。ラテン語訳の音綴から某ベネカBenekaを挙げているだけだが、スカリゲルはこれをカンデCandeとしている。スタインシュナイダーが論じているように、この名の背後にはおそらく不可解なインドの星学者カンカーKankahもしくはカンカKanka(フィリスト270参照)が隠されている。この人物のことはアブ・マセルの別の個所に引用されているところから分かるだけ。彼がインド人であったという知見がアブ・マセルから得られるにせよ、詳細にみてみるならこれの重要性は著しく縮小される。カンカから借用されたアブ・マセルのインドの天球は、パラナテロンの一々について36デカンに準じて描出されるだけである。つまりこれは現実の(実測された)パラナテロンタではなく、単に擬人化されたデカンのインド式の記述に過ぎない。わたしのカタログCat. H 152sqq.には、ペルシャ人アフメットによるこれのギリシャ語訳を収めてある。これはアブ・マセルのインドの天球と逐語的に照応しており、[415]この仮説を補完してくれる。この章はperi dekanon etoi peri morphes kai prosopon ton ib zodion と表題されており、アブ・マセルが描出しているのと同じ36のデカンの形象が描出されている。アブ・マセルが報じる「インドのデカン」と想定されるものには、インド人たちが見たであろう南北の星座の記述がまったくなく、カンカにみられるようなデカンの形象(図像)だけであり、これがギリシャ語典拠群によったものであるのは明らかである。
一方、アブ・マセルはパラナテロンタ系列について、これをペルシャの、カルデアの、エジプトの天球として記述しているが、後に特にペルシャの天球と特記する。この「ペルシャの」天球の全体配置の内容の九割はわれわれの手元にあるテウクロスの第一書の繰り返しに過ぎないことについては、すでに本書第一章で簡潔にみた通り。アブ・マセルはこの文書の著者としてのテウクロスを熟知していた。彼についてその序で触れているばかりでなく、本文に半ダースほどの言及がある。そこからすると、彼がオリジナルのギリシャ語文書の内容について知っていたのは確かである。たとえば、獅子宮の第二デカンについて、テウクロスはヘニオコスが手にしたひこばえ(鞭?)mtraqつまりmastix、あるいは処女宮がテウクロスではwdsnhと呼ばれている、あるいはデュロフによればdwstjhで、これは「イシス」に関連してのみ(一度だけ)用いられていること。ギリシャ語オリジナルの痕跡は他の観点からもしばしば明らかになる。たとえば処女宮の第二デカンには牛飼い(ボーテス)のギリシャ語名が僅かに改変された音綴で記され、天秤宮anhs = enoichosはギリシャ名でそのまま表現され、宝瓶宮には鳥キュクノスKyknosの名が与えられる。アブ・マセルはなぜこの天球についてペルシャの古賢たちから借用したのだろうか。そこにはペルシャ人たちアラビア人たちの名が繰り返し記されることになる。たとえば、金牛宮[416]の場合、「この形象(つまり犬頭(キュケファロス))はペルシャ語でsaksarと呼ばれる」。処女宮の場合、「この形象は(ギリシャ語で)bats (bootes)と、ペルシャ語でalbahjaと呼ばれる」。あるいは天秤宮の場合、「御者はペルシャ語でbwdasf、ギリシャ語でanhs」。ここからすると、アブ・マセルはテウクロスを直接ギリシャ語から知っていたのではなく、ギリシャ語の語彙をも載せたペルシャ語訳に拠ったことが分かる。これはA.v.グートシュミットが四十年ほど前に瞠目すべき論考で提起した推論を排除するものとなる。イブン・ワッシーヤーによってテンケロスの書(テウクロスとの関連性については本章3で論じる)と想定されるもののペルシャ語訳の末尾に付された一文について、タバーリが証言するところによると、このテンケロスの書はへジュラ暦以前約80年に公にされた、つまり542年に著されたという。グートシュミットは論じる。「タバーリの証言について私見を述べるなら、542年とはホスロー・アヌシルワンの統治時代で、周知のように彼はギリシャ語その他の言語で著された数多の書をペルシャ語に訳させた。イブン・ワッシーヤーによるティンケルス(=テウクロス)の書とは別に現存する僅かばかりの訳書の中、フィリスト・エル−ウルムがもっとも古くて重要で、これはイランの神話に属するペルシャとDzohhakの関係にとって決定的なものである(p.10参照)。それゆえティンケルスのギリシャ語原本は542年初頭にペルシャ語に訳されたものであり、この翻訳が後代の著作家たちにとってオリジナルとみなされることになったのだった。ティンケルスにかかわるすべての知見はペルシャ語の諸典拠から導出されたものでもあろう」。
[417]われわれはテウクロスのギリシャ語文書をレトリウスを介して間接的にしか知らない。アブ・マセルにみられるこれの並行訳は、このレトリウスの抄録者とは無関係で、好んで読まれたものと思われる。しかしペルシャ語を介しての脱線に起因する部分については慎重を期す必要がある。アブ・マセルの詳細な検討から、これを逐語的に典拠として用いることには用心しなければならない二つの理由が明らかになる。すでに何度か指摘したところだが(XI章)、まずアブ・マセルの内容の恣意性の証の数々を挙げるなら、TRの二つの燈火を掲げる犬頭が、アブ・マセルでは片手に燈火、もう一方の手に鍵をもたされている。これら二つの持物の違いは和解しがたいものともみなされるが、これがアブ・マセルの文飾であることは明らかである。アブ・マセルによれば、二つの燈火はオリオンの両肩にある−これらはオリオンの両肩をしるす明るい星辰である−。これらはそれぞれの名をもって呼ばれている。パルテノス−イシスは詳細に語られる。長い髪の美しい乙女で、詰め物をした玉座に座している。幼子の名は(イブン・ワッシーヤ同様に)ホーロスではなくイエス。一方、単にクオンkuonと称されているものについて、アラビア人たちは「さかりのついた子犬が首輪で後ろへ引かれるところ」とやら称している。龍や蛇は見るからに恐ろしいと形容され、一度だけあらわれる(双子宮に)ジャッカルは前脚にしるしがある。アブ・マセルによれば横笛は「ガゼルの角でつくられている」。天秤宮については、より東方的な想像力が窺われる。テウクロスのアゴラは薬種商や穀物商によって生き生きしたものとなっている。さらに、絹布、革袋、薬袋、赤い箱等々の文飾にも同じ性格が認められる。これらを読む者はそれがパラナテロンタ、あるいは星座のことであるなどとは思いもよらないかもしれない。これについてはアラビア人星学者アブ・マセルをよりも、これに加筆した逸名のペルシャ人編纂者が責められるべきであるのかもしれない。新たにこうしたことどもを詳細にイブン・ワッシーヤーが書き留めることになるのも、ひょっとすると彼はアブ・マセルに直属する世代で、アブ・マセルの大胆な創案をもとにしたのであったかもしれない。
[418]いずれにせよアブ・マセルの文書をわれわれが直接用いることは稀である。ただTRからの逸脱が認められる箇所により古い伝承の後が認められる場合、特にPLに信憑性が認められる箇所においてだけ。実際それは時々認められる。わたしはこれらの句節の大部分をすでにXI章で用いた。ここでは金牛宮の第三デカンについてだけ付記しておく。オフィウコスと呼ばれる「蛇をもつ男」について。これが沈みはじめると、双子宮が昇りはじめる(Arat v.725, Hipparch p. 182,10)。これはテウクロス自身の言明であったかもしれない。TRつまりレトリウスの抄録には欠ける記述。ペルシャ人たちもアブ・マセルもここにオフィウコスを挿入しておらず、彼らのうちの誰もパラナテレインの古の疑わしい意味づけを知らなかった。その一方で、アル・マセルはTRにも他にも見つからない星座群の名をも挙げている。たとえば、鵞鳥、蜥蜴、縫製師の鋏。諸星辰の形象にかかわるこうした名辞上の疑念を避けるためには、翻訳上の誤りの可能性について適宜疑ってかかるようにすれば十分である。
西欧近代のバルバリの天球に関する知見にとってアブ・マセルは最重要なものだった。ギリシャにおけるバルバリの天球の知見のほぼすべては間接的に彼に遡るもの。アブ・マセルの文書につけ加えられた数多の疑わしくまた誤った記述についてはすでにみたところだが、その一方で、そこには省略もあり、それらはペルシャ人にとっては宿命の影響にかかわる副次的な伝承として有用であったものかもしれない。省略された要素のうちで特にわれわれのTR文書に関連して興味深いのは、ドデカホーロス(十二区分)の観念と名辞。アブ・マセルにも十二の獣が名指されているとはいえ、一々のデカンへの配置は規則づけられておらず、十二の獣の円輪を意味し、そのものがたりを説くドデカホーロスという語も訳されておらず、規定されてもいない。同様に貴重な細部の幾つかも欠けている。[419]たとえば怒り狂う男と化したアイデス、通常乙女たちと記されるだけの三人のカリタスの名。またあらゆる種類の怪物たち、竪琴を奏でるムーサイは男と化し、カシオペアはカシオスという名の若者になる等々、われわれの写本(このギリシャ人訳者は改竄の跡に正しい判断をくだしている)、クオンkuonとキュノケファロス(犬頭)が混同され、馬車引きアルマarmaはおそらくすでに前テウクロス文書でarmata(山車)が誤読されていたものだろう。その一方でアブ・マセルの原文はおおむね了解可能である。ただアラビアの伝承ではないと彼が言明するヘブル人の伝承は、現在に至るまでテウクロスの天球をあらわしたものであったはずのギリシャ的性格をほぼ完全に壊してしまっている。

マニリウスとフィルミクス 9

9.ローマ圏ではバルバリの天球のものがたりはフィルミクスの最終巻(第8巻、序を除くなら第7巻)を閉じるものとなっている。これとマニリウスの関係を見極め、いくつかの帰結を取り出すために、これの詳細な検討が必要となる。
[395]この著者の著作の調子にはいまだポセイドニオスの信仰気質の最後の余韻が響いている。第8書も重々しい調子で、人間性の偉大さと星辰予言の観想のうちに魂の平静さと均衡を保つようにという庇護者マヴォルティウスへの忠告ではじまる。最後にこの最終書の真の主題であるバルバリの天球が語られる。ただそこにはわれわれに興味のない幾つかの章が含まれている。ホロスコープの90度の意味、獣帯星座を「見る」ことと「聴く」ことについて、一々の獣帯星座の30度への配分、さらに度数と星座の広がりについて。これらはバルバリの天球と関連があるからではなく、どうやら先立つ諸書ではまだ触れられていなかったから。彼がおおむね率直に典拠として名指しているのは、第一章ではペトシリス、第二章ではアブラハム、第三章ではネケㇷ゚ソ。この第三章にはかなり正確にテウクロスの書と並行した句節が見つかる。この書はわれわれの手元にある文書群の中で最初にこれを扱ったものであった。テウクロスもフィルミクスも、またおそらく両者の共通の典拠であったネケㇷ゚ソも、星学の一々の正確さを蔑ろにした空想の産物を提供していた。そこでは獣帯星座の数々はそれぞれ30度でなければならないというのっぴきならぬ苦境に面して、恣意的にゆがめられている。
第五章からやっとこの書の巻頭に予告されたバルバリの天球の教説がはじまる。フィルミクスではこれが三つの大きな項に分割されている。第一(cap.5-17 ed.Aldina)はパラナテロンタつまり獣帯の一々の星座が昇る時にその左右に昇るか沈む(?)星座。第二(cap.18-30)はホロスコープ(時の指示、東?)として十二の星座の各度数が何を意味しているか。[396]第三に唯一の章で、獣帯の星座の幾つかに見つかる「明るい星辰」について、その占星術的意味に関してわずかな知見が与えられる。つづく32および33章はこの広範な著作の結語となっており、一方で360度にわたる星座の考察の重要性が、他方でこの書を秘匿するようにというマヴォルティウスへの著者の忠告が語られる。これはローマ人読者たちに新たな知恵をもたらすものであり、俗人や敵からこれを秘匿し、ただあなたの息子たちおよび最も親しい友の手にしか渡してはならない、と。これは個人的な災難への恐れ、あるいは単に聖なる教説を疑念や過去の記憶からする愚弄から守ろうとする判断からのものだろう。いずれにしても、キリスト教の勝利が占星術を脅かすことはなかったに違いない。
フィルミクスのバルバリの天球にかかわる三項のうち、第一のパラナテロンタの教説だけがマニリウスと関連している。フィルミクスはこの項にたいへん壮麗な序を付している。
promette plenissimam huius artis disciplinam, Graecis multis et omnibus ferme Romanis incognitam, ad quam usque in hodiernum diem nullius aspiravit ingenium.
この称揚を別に、この書七書(序章を別に)のすべてがローマ人たちに対する新たな教えとして宣言されている。バルバリの天球についてネケㇷ゚ソもペトシリスもこのような言明をしてはいない。アラトスおよびラテン語のカエサル(ゲルマニクス)およびキケロは諸星座およびその出没について語っているが、占星術的な解釈を施してはいない。
sed nos onmium apotelesmatum ratione perspecta plurimum sibi invenimus etiam ha Stellas in genituris hominum vindicare.
ここで著者はこの書の独自性を強調している。パラナテロンタの項の最後(cap.17)で、この知恵の最新典拠を指摘している。 
Haec sunt, Mavorti, decus nostrum, barbaricae sphaerae principia, haec est Chaldaei operis disciplina. 
これについてはすでに第4書にこう記されている(IV 17,2)。[397]
Quae omnia tunc explicabimus,cum ad interpretationem venerimus sphaerae  barbaricae, haec enim omnia divinus ille Abram et prudentissimus Achilles verissimis conati sunt rationibus invenire.  
ここで上述してきたところに鑑み、omnia(すべて)の意味を十分に理解しなければならない。vitam, spem, fratres, parentes, filios, valitudines, coniugem, mortem, actus, amicos, inimicos, cetera omnia, quae in substantia humani generis requirentur。とはいえバルバリの天球でこれらがすべて取り上げられているわけではない。三つの項では主として生命の場所、新生児の配慮(占める場所)、死の様相、つまり生、活動、死(vitam, actus, mortem)が見定められているだけである。ここからして、アブラハムとアキレイウスがこのバルバリカの天球の三つの項すべての典拠であると想定される。第8書(VIII 6)の一節だけがこれを語ったもののようである。
In arietis parte tricesima, quae pars totum signum supra terram semper ostendit, exoritur capra, quam fabulosi poetae alimenta volunt Iovi immulsisse nutricia (in Skutach, Philol. 61, 194). 
フィルミクスはこれを直接、詩人つまりマニリウス(v.132officio magni mater Iovis. illa tonanti fundamenta dedit etc.)から採っている。ただし慎重に、彼の庇護者マヴォルティウスに向けて、特定不能な表現「寓話詩」とアラトスv.163; Aix iere (ten men te logos Dii mazon epischein).を参照したものと韜晦している。
ここでもまたその真の典拠は意図的に隠されている。幸いにもこの一節は保存されており、スカリゲルはこれをフィルミクスがマニリウスを散文訳したものであると認めている。マニリウス1600年版p.385の註解には次のようにある。
Hominem ingratum piguit profiteri per quem profecisset, ut ne nomen quidem eius memoraverit Ubi erravit Manilius, et ipse quoque cum duce suo erravit.Ubi partem signi non apposuit, ne ipee quoque.
一方、サルマシウスはこのスカリゲルの発見を激しく非難している(de ann. clim. p. 587)。フィルミクスはマニリウスの文書を使うことができたとはほとんど考えられず、De Manilii emendandi ratione p.18sqq.n.31aにもこれを想起させる註がある、と。[398]しかし最近ではフィルミクスがマニリウスが典拠に用いたものと同じ典拠からこれを引き出したものとする方に蓋然性があると考えられている。いずれにせよマニリウスとフィルミクスの関係についてはいまだ十分な検討がなされていないのだが、後者の無理解の多くも、マニリウスの文書にとっては大変重要なものであったに違いない。ここではバルバリの天球の歴史(ものがたり)に関連するものだけを取り上げてみよう。バルバリの天球にかかわるギリシャ人たちの知識についてここまででえられた新たな観点からして、フィルミクスとマニリウスの関係にかかわる根本的な問いのすべてを解消することができるものとわたしは信じる。
フィルミクスは諸星座の出について、6−17章に以下のように列挙している。
白羊宮の10度オリオン、15度壺、20度ハエドゥスhaedus (haediでなく)、27度ヒュアデス、30度山羊。
金牛宮の6度プレアデス、また度数の特定なしに牡牛の蹄fissio ungulae。
双子宮の7度兎。
巨蟹宮の1度Iugulae、20度アルゴン。
獅子宮の1度犬狼星、30度盃。
処女宮の5度冠、10度麦穂(スピカ)。
天秤宮の8度矢、15度ハエドゥスHaedus。
天蠍宮の1度祭壇(アルタイル)、12度ケンタウロス。
人馬宮の5度アルクトゥルス、10度白鳥。
磨羯宮の「最初の諸度in primis partibus」にオフィウコスOphiuchos、8度海豚、10度竪琴、15度ケフェウスKepheus。
宝瓶宮の12度鷲、20度カシオペア。
双魚宮12度アンドロメダ、20度ぺガスス('aes'ed. pr.)、「その末端部分にin extremis partibus」エンゴナシンと鯨
双魚宮と白羊宮の間つまり大地と天空のおわりとはじまりの間に大熊。そして熊たちの間に龍。最後にLignus、これについては後述される。この一覧をマニリウスのものと比べてみるなら、フィルミクスがこれを利用したかどうか躊躇なく判断することができる。フィルミクスはマニリウスが知る諸星座をまさに同じ順序で配列している、つまりマニリウスの誤った言及を繰り返しているばかりでなく、中天および天底についても勘案している。こちらはマニリウスが意図的になしたものではなく、たまたま付加相補したもの。もっとも重要なのはここで個人的思惟的な誤りが受け入れられる点にある。[399]マニリウスは白羊宮のペルセウスの場所にオリオンを据え、ペルセウスについては黙殺している。ドデカホロスのすべてを別にして、唯一ハエドゥスHaedusだけが山羊の供連れとされている。これが処女の冠を取り上げようとしているのは詩人の戯れである。ヒュアデスにつづくのがプレアデス。この無知な剽窃者は忠実にこれを繰り返している。これらすべてをマニリウスが典拠と挿げ替えたとみるのは不可能で、これと同じ典拠がフィルミクスによっても用いられたに違いない。ここでは星学の厳密さについてはたいして気を配らなかった詩人の想像力の奔放さが認められる独自の創案について探ってみなければならない。彼以前の星学に対して真率な散文文書群の中にではなく。フィルミクスの星学的にみてたいして意味のない脱線もまた、おおむねマニリウスと符合しており、示唆的である。ただ何か所か度数が異なり、詩人には欠ける度数が付加されていたりする。たとえば、アルギオン=プロキオンは巨蟹宮の27度(マニリウス)から20度に替えられ、天蠍宮のアルタイルは8度から1度に、人馬宮の白鳥は13度から10度に、磨羯宮のケフェウスは端緒から15度に、オフィウコス(フィルミクスでは磨羯宮の「はじめの部分」)、海豚(磨羯宮8度)、ケトス(双魚宮の「末端」)にはマニリウスでは度数が欠けている。つまりこれらの付加はフィルミクス独自のものである。彼が精確さを心がけたことに疑いはない。この修正によってマニリウスの数々の過誤が矯されたばかりでなく、いくつか最初にはなかった誤りを加えることにもなっている。ハエドゥスのはじまり天秤宮の15度とされている(マニリウスには度数は欠けている)が、これはおそらくたまたまフィルミクスが知り得た値だったのだろう(本書p.319参照)。星座の名に関しては、誤ってイゥグラエがアセッリ(子驢馬)に替えられている点についてはフィルミクスに責めがあるわけではない。[400]一方、フィルミクスが完全に見逃しているのはハエディに替えて白羊宮20度に据えたハエドゥス。またマニリウスがv.710に双魚宮に録している蛇(鰻)はここでは欠如している。またリグヌスLignus (これはv.365以下の人馬宮の白鳥Cygnusではない)という名はマニリウスにも語られていたものだろう。 lignusあるいはlygnus(写本の記述によれば)あるいはluchnosつまりバルバリの天球の星座のひとつは、TRのo ta luchna pheronと関連があるのかもしれない。この星座の占星術的解釈はみなluchnosにも当てはまる(conflagrabuntur etc.) 。フィルミクスに新たにあらわれる唯一の星座は獣帯の図像(すがた)の一部をなすもの、あるいは金牛宮の蹄fissio ungulae。証拠はないが、われわれの手元にあるマニリウス写本群のv.156以下には、この図像(すがた)を論じた部分に欠損がある。フィルミクスが録す美しい解釈が詩を誤解したものとは思われない。この図像は私見の限りギリシャ語典拠には見当たらない。実のところこれは唯一の星辰であったかもしれない−プロキオンの代わりにフィルミクスは巨蟹宮の20度にアルギオンArgionを据えている。スカリゲルはこれをプロキオンのことと考えた。しかしこの手稿からの論議はアイドラーの「星辰名研究Studien uber den Sternnamen」手稿が慎重な判断を要請しているように、たいして説得力はない。「アルギオンという語は他にどこにも見つからない。これは子犬Hundesの名であろうか、つまりアルゴスと関連して、ホメロスが犬に宛てた有名な綽名Hunden beymだろうか」。一方、ケトスketosのオルフォスOrphosはアルドゥス版における挿入で、Princepsにも写本群にも見つからない。さらにフィルミクスはマニリウスには竪琴が二度(天秤宮と磨羯宮)出てくることに気づいて、はじめてこれらを削除し、マニリウスの信頼性に幾分疑念を付すことになった。これらの背後にはギリシャ占星術のdusonumos luraがある(cfr.p.267,1)。また彼は南側の魚を取り除き、これを海豚に替えているが、これはマニリウスの同じ星座(磨羯宮)の数行後にあらわれるもの。こうした剽窃過程は典拠の占星術的予言を十分考慮してなされたことをうかがわせる。
フィルミクスがマニリウスに依拠したことについては、上昇(出)の占星術的解釈について観てみることで、より迅速になし得たかもしれない。[401]マニリウスが手品師や詐欺師、役者や詩人、狩人や漁師とうとうあらゆる社会階層についてなして見せた予言(占い)をフィルミクスは重々しい散文の中に反映させている。もちろんそこで魅惑は減じ、無骨な倫理主義に陥ることになっているとはいえ、彼は十分以上にことばを尽くし、創案を加えることなしにあらゆる類の話題を混じている。つまり、諸惑星が自らの責任においてその役割を果たすに任す、とマニリウスが語っていないことをもつけ加えている。こうした異文については、マニリウスの文書の劣化改竄の跡を見ることなしには探求することができない。ヘニオコス(山車、御者)に対する(の上の?)サルモネウスやベレロポン(Manilius v.91sqq.)も、ケフェウス上の老カトー(v.464)も、フィルミクスには記載がない。それはさて、フィルミクスは諸惑星の上昇についてマニリウスから借用したかどうかという問題は、スカリゲルによって決定的な議論がなされ、もはや新たに議論の俎上にあがることもない。フィルミクスには単に写すだけではない十分な修辞学的修養があったが、諸星辰の上昇にかかわる彼の解釈の中核部は特にマニリウスに遡るものであり、彼自身別の典拠を利用したと考えるのは皮相であろう。フィルミクスには折々語られる解釈成果を別にして、彼自身の著作である。しかしフィルミクスが十二星座とともに昇る星座群の配置については何と言えばいいのだろう。まず真っ先に言えること。こうした難破(没)はただマニリウスだけが、あるいはフィルミクスだけが観念したことだったのだろうか。というのも、星学にしても占星術にしても、その全体系はフィルミクスがマニリウスから借用した上昇(出)に密接に関連している。純然たるマニリウスの個人的な星学の過誤の全系列はここに繰り返され、下降(没)の解釈もまたそれ自体、マニリウスにおける上昇(出)の意味の逆の意味をもつだけとされている。ただこれはフィルミクスが新たな典拠を利用した可能性を排除するものではない。あるいはここでもマニリウスをパラフレーズしたか、その観念を引いているか。第三の道はないtertium non datur。
スカリゲル(ibid., p.385) は、マニリウスが上昇(出)について他の書を企図しただけでなく、これを著したという見解を述べている。そこで諸星辰の意味についても語られていた、と。 波間に沈むときcum merguntur in undasについてもまた。フィルミクスの時代、この書はまだ存し、第五書同様に彼によって散文訳された、と。[402]しかしこの見解はすでに完全に放棄されるに至っている。ただBechertが、すくなくともスカリゲルに道理があった可能性を認めているだけである。ここまでに引いたところからして、この見解はスカリゲルの論理形成に有効に反論したものではない。いずれにせよヴルガータにはスカリゲルを論難する道理があった。星辰配置(環境)の占星術的解釈から検討をはじめよう。その外見からしても、通常フィルミクスが上昇についてたいへん簡潔にしか論じていないことは明らかである。また彼は上昇に関して最大限、諸惑星を用いている。ここで特に気づかされるのは解釈の一貫性(単一性)で、フィルミクス自身、単なる便覧を提示しているだけである。これはパンカリオスに関連して先に見たところでもある。最初の白羊宮。Quia itaque diximus, quid in ortu hae stellae faciant, sequenti loco dicendum est, quid in occasu constitutae decernant. sicut enim contrariae sunt lumini tenebrae, sic vitae mors. vita igitur erit in ortu, mors reperitur in occasu.(これらの星辰は上昇(出)にあたり何をなすのかを述べたので、つづいて下降(没)において何を定めるのかについて語らねばならない。死が生につづくように、つまり生は東(出)であり、死は西(没)に見いだされる)。これらの難破(没)はすべて死への途を意味している。フィルミクスにとっては誰も寝床で死ぬことはない。難破(没)、山車の火災、狂犬、狂気、宗教的妄執、蛇毒、高みからの墜落、火と水は激しく人に襲いかかり、犬や鳥が屍を八つ裂きにする。諸星辰が好意的(吉)でない時には眠る者に冷徹に死が近づく。残虐非道な空想がこうした預言を見出すことになったものだろう。これと同じ主題が頻繁に見いだされる。会うリーガ(御者)、ケンタウロス、ぺガススは山車からの落下を意味し、蛇(鰻)や蛇の毒、また兎、アルギオン(=プロキオン)、犬狼(シリウス)、北の野生の獣の噛み傷Septentrio Bissの四つの図像。これらがマニリウスの第六書の内容であったと想像するなら、そこには第五書の想像力豊かな詩人のすがたは認められないだろう。天秤宮のもとにあるハエドゥスを個別の状況(配置)において記すことはなかなか困難である。これをマニリウスの遺産に求めるのはまったく不可能である。こうした死の解釈は、単純な転倒に他ならない僅かの例外を除き(白羊宮のハエドゥス、山羊、蹄(ungulae fissio)、司直(イゥグラエ)、角、ケフェウス、鷲)、マニリウスが第五書で提示した解釈の転倒像に他ならない。[403]マニリウス(v.121sqq.)によれば、ヒュアデスのもとに生まれる者たちは叛逆蜂起に、グラックス兄弟のような扇動者になる。フィルミクスにおいても、ヒュアデスの難破(没)に当たって生まれる者たちは狂気の庶民の叛逆によって死ぬ。昇る矢は高名な弓射手を指し示している、とテウクロスとフィロクテトス(Maniliis v.294 sqq.)。フィルミクスではこの星辰が没する時に生まれる者たちは戦争でもしくは剣闘士として死ぬだろう。才能あふれる詩人がこうした繊弱な反復によって彼の書の効果を壊したとも思われない。もしもマニリウスがフィルミクスのように一々の星座が上昇した(出た)後すぐ、その配置に関して語っているならそれもあり得たかもしれないが、限りない供物(生贄)がつづくこの祭祀がこれを題材とする別書の内容とされることなど考え難い。
別の考察からも同じ帰結が導かれる。フィルミクスは一々の星座の上昇下降(出没)を同じ星座(しるし)と度数をもって名指している。つまり彼の典拠がマニリウスであったとすると、その第五書の句節のすべてが第六書でも繰り返されていたことになる。「白羊宮の15度が昇る時、馬車引きは昇るか降る」という句節はたいして異文をなし得ない。マニリウスの第六書はそうした類のものではあり得なかっただろう。というのも白羊宮15度にそのような星座はあり得ない、つまり同時に昇りまた降るものはあり得ず、或る獣帯星座が昇るときに、逆位にあるものが沈むと言うべきである。たとえば馬車引きは白羊宮が昇るときにでなく、天蠍宮が昇るときに降る(没する)、と。フィルミクスはすくなくともこれに気づいている。というのもすでに引いたように彼は第六章で次のように記しているから。: Ortus itaque si in horoscopo est (sicut frequenter diximus) occasus in diametro horoscopi, id est in septimo ab horoscopo loco. マニリウスの第六書にヘニオコスHeniochosの没が録されたとするなら、これは天蠍宮とともにであって、白羊宮とともに記されることはなかっただろう。一方、それが白羊宮の周辺にあり、その他の星座配置がみな正しいとするなら、この星座はマニリウスの星座配置にも彼が手に取った他の配置にも列挙されることはなく、[409]その没だけが語られることで、出にかかわる問題を生じることはなかっただろう。マニリウス(v.28)においてこれらの主題群はすでに語られており、フィルミクスもこれを目にしていたことだろう。彼自身の冗長で多様な記録帖からして、この帰結は新たな教説をはじめてローマ人に伝えるもの感得されたのかもしれない。
フィルミクスのバルバリの天球の第一項からその諸帰結を要約するなら、当面の問題は次の通りとなる。マニリウスは諸星座の上昇(出)を録し、彼自身その配置を上昇(出)と密接に関連させる彼の発想そのものによって述べた。フィルミクスはマニリウスとは別の典拠から知っていたことがら(上記したような)によってこれをいわば段階的に(階層づけて)装飾した。また挿入に関しても興味深い点がある。天秤宮の8度の星座ステュクスStyxは矢の位置で述べられている。これはおそらくバルバリの天球のもので、XI章で論じたen Aidou(冥府)のことだろう。
フィルミクスのバルバリの天球の第二項は彼自身、Myriogenesisの序と対照している。獣帯の12 x 30度の各々について、それぞれの上昇とともに生まれる者の宿命(籤)、職業、性格(自然本性)が教えられる。白羊宮の初度は、偉大な王や将軍を生み、第二度は頑固者、泥棒、移住者を、第三度は聾、片目、愚者を、第四度はこれまた泥棒、つまり首吊りを、第五度は有能な官吏や判事を等々、双魚宮30度まで列挙される。ここでは頻繁に諸惑星の通過も、その自然本性が親和的か有害かによって宿命(籤)を緩和したり深刻にしたりするものとして語られる。360度に抽象され、諸星座とは関係のないこの難儀な問題にはわれわれは関心がない。もちろんフィルミクスにおいて、これらも獣帯の図像(すがた)の個々の要素と獣帯外の星座の一々が無関係というわけではなく、彼は一々の星座の論議の末尾に星座の各度数に見つかる指標を記している。そこには獣帯の図像(すがた)そのものの諸要素も引かれている。[405]
金牛宮30度=inter cornua tauriの斑
双子宮30度あたり=ultima linea geminoram、つまり双子宮と巨蟹宮を区切る星座(しるし)
巨蟹宮1度より前=inter ocolos cancri
同8度=In quarta parte nebula estつまりnefelio、揺り籠
獅子宮1度=grade (partes), quae in ore sunt leonis、これはテウクロスやアンティオコスのchasma leontosに相当するのかもしれない。しかしこれは巨蟹宮の2度、3度の明るい星辰とより密接な関係に置かれる。
処女宮7度および8度=スピカspica (テウクロスでもstachus).
同22度= extrema linea、これはフィルミクスがその図像と星座を区別していたことを示しているのかもしれない。
同23−30度についてもPrincepsには何もない。
天秤宮2度には数多の星辰がある
天蠍宮21度の右には3つ、22度には蠍の四本の左足が識別される
人馬宮30度の後、in extrema linea sagittarii, id est super caudam, e anche infra caudam.
宝瓶宮11度vertice urnae に星辰がある(刊本では誤ってcornuとされている。テウクロスではkalpeもしくはydria)−また詩句の下、章末にaquae effusoとありこれはギリシャ語のchusis ydatosの意訳となっている。
双魚宮30度の後、extrema piscium (o piscis?) cauda, ​​​​id est linea, quae dividit pisces et arietem'.
こうした凡庸な言辞よりも重要なのは、獣帯に言及したものではなく、北あるいは南の諸星座にかかわるもの。この類のものでフィルミクスが挙げているのは半ダースほどで、つねに章末に付されている。ここでもギリシャの天球とバルバリの天球の星座が混在している。これはわれわれの手元にある書他のギリシャ語文書群と同様である。
金牛宮の章の末尾に、Oritur etiam cum tauro navisとある。この知見はアンティオコスにもテウクロスの第二書にも見つかる(どちらもploion) もので、本書p.172ですでに解説したようにアルゴスで、おそらくエジプトの「オシリスの船」に相当するものだろう。
天秤宮の章末(c.25)には、特に説明なしに牛飼い(ボーテ)が語られている。[406]これはフィルミクスがすでにc.14でなしているように、これらの星辰名を機械的に書写していることの証左である。これは占星術的解釈とは関係なく、マニリウスが人馬宮のパラナテロンタとして、ここに上昇が完了するとしているもの。と同時に、ここにはc.14とは異なった典拠があることが確認される。
天蠍宮にはもっともパラナテロンタが多い。adiacet scorpioni in dextra parte ophiuchos et vulpes, in sinistra cynocephalus et ara. われわれの手元にあるギリシャ語文書のすべてで、ここの記述においてもオフィウコスは天蠍宮とともにある。しかしフィルミクス自身、これを先に、マニリウスの異なった解釈とともに磨羯宮に配している(c.15)。−星座の新しい名として「狼」がある。おそらくこれもエジプトかバビロニアの星座だろう。ホンメル(Hommel, Aufsatze und Abhandlungen, p.263)はフィルミクスの句節を知らぬまま、これを3 Rawl.53,66aからアダール月の幾つかの惑星とともに「魚星と狼星」と訳出している(これは或る惑星がこれらの恒星もしくは星座に到達するという意味)。 Pinche (Guide to the Nimrood Central Saloon, p. 54) の記述によると、Brit. Mus.103にバビロニアに関する言及があり、そこに狼が出るという(Hommel p. 245) 。もちろんフィルミクスが言うところから天に占める位置を決定することには注意を要する。いずれにしても彼は典拠を理解することなしに訳出しており、パラナテレインにも特定の意味を宛てていないようにみえる。フィルミクスが北の星座としているものの中にはこうしたものがいくつもあった。たまたまアラトゥス註解にも狼星がみつかり、これの天の配置もわかる。これは山車の幹棒の中央の星辰の上の騎士(?)である(p.391,3M)。(引用)
[407]つまりこれは小さいが目立つ星辰で、アラビア人たちがアル−スーハal-suha、「忘れられたもの」と呼んだもの。これは或る種の魔術的信仰と結びつき、またおそらく古代以来、視覚検査に用いられてきたものだった。「狼」はデンデラの円形獣帯にも「河馬」の右下、天秤宮の上に、つまり北の星座としてこの描かれている。この「狼星」というのはアラトスの註解のものと同じかもしれない。またこれがフィルミクスの狼とも同定されるかもしれない。しかしバビロニアの「狼」星がこれと同定できるかどうかには疑問が残る。上記した楔形文字の銘記に名指されたものが惑星(?)であるとすると、これを同じ星辰とみなすことはできない。というのもこの惑星(?)は北の圏域では見えないから。−天蠍宮の南にキュノチェファルス(犬頭)とアラ(祭壇)が昇る、という。わたしは先に「犬頭の狒々」という星座についてこれがたしかにエジプトの天空に存したことを論じた。テウクロスにはこの名の星座が二つあらわれ、ドデカホーロス(十二区分)にまた別の狒々(猿)がある(本書p.218、295参照)。フィルミクスの犬頭をこれらのいずれかと特定しようとする試みは虚しい。ギリシャ語文書群の天蠍宮のパラナテロンにはこの名の星座はひとつも録されていない。アラ(祭壇)はギリシャで有名な星座である。フィルミクスはこれも天蠍宮にある、と同様な解釈によって語っていた(13章)。いずれにしてもこのバルバリの天球の第二項では新たな典拠が用いられたことがここでも確かめられる。テウクロスの第二書やアンティオコスにも天蠍宮に「テュミアテリオンthumiaterion(薫香?)」が見つかる。先に論じた通り(p.148)これはただ長さの指標として解されるべきものである。
二つのパラナテロンタがその名を人馬宮から採られている。「人馬宮の右側にアルゴスの船が、左側に犬が昇るin dextra parte sagittarii oritur navis Argo, in sinistra canis」。ここで船(アルゴスの)の上昇はマニリウスの最初の部分(cap.6)に拠ったものであるが、誤って白羊宮に移されている。これまたフィルミクスのバルバリの天球の第二項が第一項とは完全に断絶したものである証左である。アルゴスを弓射手の足元のプロイオン(船)と混同したものと考えることもできる。しかしテウクロスの文書のどちらも[408]アルゴスを守護者と呼んでおり、これはDysis(西?)の中にある。フィルミクス自身ではないが、彼の典拠にはこれが録されていた。人馬宮のパラナテロンタ(つまりDysisの中)としてのアルゴスについて、フィルミクスは「交渉者たちは...ここで西に向けて航海しているnegoziatori. . qui ad occidentem navigent」と報じている。−フィルミクスによれば「犬」は弓射手とともに昇るのでなければならない。上述したように(p.139)テウクロスの両文書にも同じ星座が名指されており、Dysisの中のオオイヌの星辰のことと解される。
フィルミクスは宝瓶宮のパラナテロンタを五つ挙げている。Extra partes aquarii oritur falx, lupus, lepus, aquarius minor et ara. 最初の星座「鎌(ファルクス)」は疑いなくペルセウスの剣の切先(鎌)のことで、ギリシャ語のハープarpeにあたる。マニリウスも同じ表現を用いている(Perseus cum falce V 22)。これは僅かに誤って宝瓶宮のパラナテロンタに配されている。ヒッパルコスp.198,10のo en te arpe nepheloeidesは磨羯宮の25度にすでに昇っている。−ここであらためて「狼lupus」を宝瓶宮の下の星座として特定することができる。これはテウクロスの両書にあるlukosで、TRあるいはLによればヒッポクラトールippocratorの右手を噛んでいる。このヒッポクラテールと狼が上述したケンタウロスとテリオン(獣)therionと等置されるなら、フィルミクスの星座「狼」はDysisの中のテリオンと同定されることになる。−「兎」は、通常この星座として特定されるものと同一であるとするなら宝瓶宮の下Hypogeionに据えられる。しかし奇妙なことにこれもすでに天底を過ぎた後続星座である双魚宮に録されている。しかしテウクロスとアンティオコスでは、すでに述べたように、この星座は完全に無視されている。−またどこにも語られていない星座として、「小宝瓶」がある。おそらくこれはテウクロス(L)でへベHbeと呼ばれるものと特定できるだろう。これは宝瓶宮にみつかるから。−アラ(祭壇)は宝瓶宮が上昇する間、Dysisの近傍にみつかり、双魚宮のはじまりにまで至るもので、ここに引かれるのは誤りということになる。
最後にフィルミクスは双魚宮の三つのパラナテロンタを列挙している。In pisce septentrionali oritur cervus et lepus, in australi cetos, id est marina belua.「鹿」はelaphosと特定される。これはテウクロスとアンティオコスも双魚宮に挙げており、これについてはすでにXI章で語った。[409]しかしこの星座「鹿」はいずれの天球に由来するものだろうか。−「兎」についてはすでに先の獣帯星座で述べられている(しかし初版印行版ではその解釈が欠けている)。ここではフィルミクスにより北の星座に類別されており、これはおそらく思い違いだろう。−最後に「鯨」。フィルミクスはバルバリの天球の第一項でこれを双魚宮に配置しているが、ここで昇る(出る)ものとみなされたものだろう。
これがフィルミクスのバルバリの天球第二項で、『ミュリオゲネセイス』と称されるもの。彼自身が説くように(cap.18)、この名称は比喩的なものと考えるべきもの。現行の『ミュリオゲネセイス』の第八書の序の末尾に別著作として約束されているものはより複雑な構成であった。cap.18の後、各度数にとどまらず、各分、各度数に至るまで分割される。つまりその360 X 60 = 21.600の予言に付された名がまさに『ミュリオゲネセイス』だった。フィルミクスはこれらをIII 1,2でエスクラピウスの著作に探っている。一方、彼が『ミリオゲネーシス(ミュリオゲネセイス)』と呼ぶバルバリの天球の第二項では「その幾つかの部分をex aliqua parte imitatur」取り扱っているだけである。ただし占星術的な論議については分毎、度数毎にあつかわれる。この第二項の典拠は「堂々たるアブラハム」でも「造詣深いアキレウス」でもない。これらについてはIV 17でバルバリの天球の情報源として言及されている。すでにみたように、第一項に関してはこれらが用いられていることは明らかである。しかし第二項、第三項ではどちらが利用されたのか正確に言うことはできない。いずれにせよ第一項ではアブラハムという名がフィルミクスによって何度か引かれており、また第二項、いわゆる『ミュリオゲネセイス』ではpater tou logouとして後半に用いられたものだろう。パラナテロンタと見えるものはすでにみた通り、テウクロスやアンティオコスの天球同様、ギリシャの要素と異邦の要素の混淆物である。[410]そこにはほぼつねに詳細にわたるまでこれが録されている。ただ唯一「狼」という星座だけはギリシャ語の典拠群の中にはあらわれない。アブラハムはおそらくユダヤの長老として、テウクロスに類した観点から言及されているようにみえる。
アキレウスにはフィルミクスのバルバリの天球のもっとも短い第三項(c.31)だけが残されている。これは占星術の教えを偶々伝えているだけで、これを専門とする者ではない著作家にとってはなかなか好都合だった。フィルミクスは獣帯星座から際立った個々の明るい星辰lamproi asteresについて語っている。それが獣帯の中にある場合にも、その北もしくは南にある場合にも。これらのうち10を王の荘厳にも当たる輝きとして挙げ、これらが特に輝かしい宿命(籤)、君主の権勢、皇帝位をもたらすものとして語っている。これらの星辰の幾つかについては、フィルミクスが星学的にかなり正確な典拠を用いていることが分かる。獅子宮の2度に「輝く星辰」があり、これはen te kardia tou leontos(獅子の心臓)で、バシリスコスbasiliskos(王)とも称される、とゲミノスは言っている(III 5)。(引用)
プトレマイオスはこの星辰を正確にフィルミクスと同じ経度(獅子宮2・1/2度)に配している。フィルミクスが天蠍宮の13度に置いている星辰もまた明らかにアンタレスである。これはプトレマイオスでは天蠍宮12・1/3度。磨羯宮の3度にフィルミクスは成功を収める将軍を生む明るい星辰を配している。これの経度はプトレマイオスでは磨羯宮3・5/6度。フィルミクスは牡牛の蹄を金牛宮30度にすえ、プトレマイオスはこの星辰を北の角25・2/3度と南の角27・2/3度の先に置いている。白羊宮の11度にも明るい光が昇るはずで、これはおそらく「河」の災害部に当たる(プトレマイオス、白羊宮7・1/2度)。人馬宮の22度にも「明るい諸星辰limpidae stellae」があるが、[411]これは人馬宮の前左脚(プトレマイオス、人馬宮17度)と琴座の星辰(プトレマイオス17・1/3)だろう。フィルミクスは双魚宮の南の魚の明るい星辰を双魚宮10度に据えているが、これは獣帯の二尾の魚のうちの南側のものではない。これは必ずしも明るい星辰ではないが、一般に「南の」と言われるが、これではなく、双魚宮の三つ目の赤い星辰で、宝瓶宮10度の星辰ではなく、双魚宮10度の星辰のことだろう(プトレマイオス、宝瓶宮7度)。あと特定できないのは、天蠍宮19度と宝瓶宮1度の明るい星辰。つまりすべての事例のうち五分の四について、フィルミクスは悪くない典拠を用いている。ひょっとするとアキレウスではより完全であったのかもしれない。というのもゲミヌスは彼の星座一覧の中でバシリスクスの占星術的な意味への言及を蔑してはいないから。
これをもってフィルミクスの最終書の検討を終えることにする。その帰結は最終的な要約を必要としないほど単純なものである。ここで中世のバルバリの天球の歴史へ移行する前に、古代の推移を通覧しておこう。バルバリの天球の観念は当初、その名辞以上のものではなかった。異邦の民の星辰天の記述は、ギリシャの天球と対比されたもの。これを「バルバリの」と解釈するスカリゲルの試み、これをエジプトの緯度の天球とする解釈も支持しがたい。サルマシウスは後のラテン語のバルバリカリウスbarbaricariusに参照点を求めている。プロクロスやアキレウスが教えるように、バルバリによってバビロニア人たちとエジプト人たちが意図されていた。しかしバルバリの天球がギリシャの天球と完全に対比されているのはニギディウスの文書だけである。その他すべて、われわれが訳出したテウクロスもレトリウスも、アンティオコス、ヴァレンス、マニリウス、フィルミクスも、ギリシャ、バビロニア、エジプトの天球の混合物を提供している。ギリシャのものに属さない諸要素の組みこみは[412]「バルバリの天球」の特徴のひとつである。しかしこれとは別に、格別広く用いられたパラナテレインという語はただ四つのケンタkentaあるいは天の枢要点という占星術の教説によってのみ理解される。われわれの占星術的著作のすべてに見いだされるこの実修は、あらためて明瞭にプロクロスによってバルバリの天球の論議にまとめられた。この語彙のパラナテロンタあるいはパラナテロンテス(個々の星辰)がなす星座群という本来の意味はフィルミクスにおいてはなはだしく色褪せた。さらに獣帯の各度数がもたらすさまざまな効果はバルバリの天球のうちで分類された。前者では一般的なパラナテレインという語が正当化され、後者において数多の星座が副次的な要素として列挙された。その名の数々はバルバリの天球の語彙をもって説明可能となるものだった。

マニリウスとフィルミクス 8

8. ギリシャの天球はニギディウスの著作中にばかりか、おそらく彼以前、また確実に彼以降には、バルバリの天球と対立的な連結関係のもとに見られることになるが、すでにマニリウス以前に結びつけられていた。それゆえマニリウスを、そしてフィルミクスをよりよく理解するためには、ここで簡潔に古占星術師たちの他の句節を挙げておくのがよいだろう。そこでは先に述べたところとは違って、獣帯の外のギリシャの諸星座が占星術理説の中に導入されている。
プトレマイオスは『四書』第一書9章で古人たちの観察について録し、10章で個々の星辰の占星術的意味について語っている。そこには獣帯の十二の図像(すがた)が白羊宮から双魚宮まで配され、ギリシャの天球の北と南の図像(すがた)の数々がしるされている。その序列はただ二つの例外(南の魚とアルゴス)を除いて、彼の『シュンタクシス(アルマゲスト)』と同じである。ここでは彼に先行する者たちが考慮していない「仔馬」にも触れられてはいない。『四書』の他の個所でも、折に触れて獣帯の外の個々の星座について考察されているが、そこには常に『四書』II 8のギリシャ語名−白鳥、[391]海豚、アルゴスが鳥や海の獣あるいは航海にかかわる星座(しるし)として指示されている−が付されている。II 9 p.83,7および14にはaplanein asteres(恒星)の影響について、III 12 (p.142,18)には synanatellontes の影響が人体の形成に及ぼす影響を含めて語られている。パラナテロンタは死の原因(本性)の特定に用いるのも容易だった。球に乗る蛇(oi en te sphaira opheis)、アルゴス、ゴルゴネイオン、ケフェウス、アンドロメダ、ケンタウロスからの観念連合を見てとることは容易である(Tolomeo IV 9 p.200, 17.23; 201, 10.12.15)。しかし全般的にみて、プトレマイオスはパラナテロンテスの影響に関する古教説にはほとんど関心を寄せておらず、おそらくパラナテロンタにも無関心で、彼はそれが紛糾した実用不能なものであると言っている。III 1, p. 107, 3: Ton men archaion ton ptorreseon tropon ton kata to sugkritikon eidos ton asteron panton e ton pleiston, poluchoun te onta kai schedon apeiron, ei tis auton akriboun etheloi kata ten diezodon, kai mallon en tais kata meros epibolais ton phusikos episkeptomenon e en tais paradosesin anatheoreisthai dunamenon, paraitesometha dia te to duschreston kai to dusdiexdon. タルソスのディオドロス(Photios 218:1: oute allelois sunadouin) もまた、パラナテロンテスの教説の矛盾した性格について強調している。
プトレマイオス偽書『カルポス(百言集)』の著者は個々人の生と企図に関して(§95 sq.)、まさにテウクロスやマニリウス同様にパラナテロンタに大きな重要性を与えている。特に、予期せぬ大きな幸運はaplaneis asteres(恒星)(§ 29 e 46)によるものである。 獣帯の外の一々の星座のうち、『カルポス』ではただペルセウスのゴルゴネイオン(§ 63) だけが語られている。[392]占星術師パンカリオスPanchariosは間違いなくプトレマイオス以降の人であるが、パラナテロンタを観察するように指示している(Cat.I 127,25)。ai de anatolai symphoroi kunos te kai Orionos kai ton allon aplanon (この写本のkoinonは理解不能) asteron, asumphoroi de ai duseis.これと同じ方法がフィルミクスにおいては飽きるほど用いられている。獣帯の外のギリシャの諸他の星座はAneddotum Parisinumで語られている(付録5参照)。
おそらくコンスタンティノープルの皇帝の宮廷において禁じられた占星術著作の一覧(Cat.I 83sq.所収)にこれに関連した二著作の表題が載せられている。 e biblos tou artasestrou e periechousa ton paranatellonta ekastes moiras kai eurethenta dia peiras alethousとe biblos tou Oualentos peri ton paranatellonton ekastes moiras。後述することになるが、フィルミクス第8書にはミュリオネージMyriognesisが載せられている。これは獣帯の各度数の影響を論じたもの。しかし幾つかのパラナテロンタについては付録に引かれているだけである。一方、ここでは各度数のパラナテロンテンが取り扱われる。これらは単一の星辰(パラナテロンテス)で、星座(パラナテロンタ)ではない。すくなくともこれらは空想的な案出物ではなく、まったく根拠のないものである。これについては後にアラビア人たちが論証することになる。またアルタセストレスあるいはアルタセルセのo paranatellonを論じた書の表題に明言されているところでもある。もちろんフィルミクスのバルバリの天球の第二部について想いみてみるに、そこにも実用的な占星術的教説がない訳ではない。
マルティヌス・カペッラやイアンブリコス、またフィルミクス(ただし第8書ではない)にも認められる一つの名の意味については議論の余地がある。それゆえここで論じてみたい。マルティアヌスII 200で、フィロロギアがすがたをあらわす。「春の静穏な気のはかりしれぬ光の広がりを眺め、...デカンの形相(すがた)の相違に84のリトゥルゴスを見出して」'immensos luminis campos aetheriaeque tranquillitatis verna... ac nunc tot diversitates...formasque decanorum, tunc octoginta quattuor liturgos'さらに「輝く諸天球および交互に織物の溝をなす輪を'fulgentes crebrorum siderum globos et circulorum alterna illigatione texturas'.この84の司直(リトゥルギア)のうち7つは獣帯のそれぞれの星座に対応している。フィルミクスII 4のデカンに関する章の末尾はかならずしもこれと一致していない。'Quidam hunc locum volentes [398]subtilius explicare terna numina decanis singulis applicarunt, quos munifices appellandos esse voluerunt id est liturgos, ita ut per signa singula novem possint munifices inveniri, ut ternis munificibus decani singuli praeferantur. rursus novem munifices, quos singulis signis dicunt esse constitutos, per infinitas dividunt numinum potestates; ab his enim dicunt repentinos casus, dolores, aegritudinem, frigus febresque decerni et quicquid illud est, quod solet nec sperantibus nec scientibus evenire; per hos volunt monstruosos ab hominibus edi partus. sed hanc nos partem in isto Institutionis libro necessario praeterimus; nam et Graeci, qui secreta istius conati sunt disputationis attingere, in primis vestigiis constituti omnes (constitutionis cod., constituti Kroll, constituti Institutionis Skutsch) istum tractatum cum quodam dissimulationisfastidio reliquerunt.
つまりフィルミクスは、一々の獣帯星座に7つでなく9つの賜munificesあるいは司liturgiを見ている。つまり各デカンに3つづつ。すべてで108。さらに「数知れぬ神性」が相互にこれらの賜を分配している。イアンブリコスde myst.Aeg.IX 2, p.165 Gale)はたまたまこれについて次のように語っている。「個人のダイモーンに関して。自然の環境において彼らの業を実修(行使)する者たちは、通常、デカン、リトゥルギleitourgon、獣帯の星座、諸星辰、太陽、月、おおぐま、この世の諸元素すべてからはじめる」云々。グノーシス主義文書『ピスティス・ソフィア』の中にもレイトゥルゴイがデカンと一緒にあらわれる。'Archontes... perstiterunt facere rem synousias, progignentes archontas et archangelous et leitourgous et dekanous. Exiens e dextra Ieu pater mei patris ligavit eos in eimarmene sphairas.'。これらの句節のいずれからもリトゥルギが何を意味しているのかは明白にならない。ストベイウスが伝えるヘルメス・トリスメギストスの句節から、さらに蒐集してみる。ecl.I 21,9 (I p.192,14W)からypoleitourgoiについて、(引用)
ここに挟み込まれたことばは明らかに、ヒュポレイトウルゴイypoleitourgoiがすくなくともフィルミクス、マルティアヌス・カペッラ、イアンブリコスのリトゥルギliturgiと同一で、獣帯の外の諸星辰つまりパラナテロンテスを司っているものであることが分かる。Salmasius (de ann. climact. p.553)やBouche-Leclercq (l'astrol. grecque p.229,1)が言うように。またテウクロス−レトリウスから、パラナテロンタがデカンに下属させられていることが分かる。ポルフュリオスが伝えるケレモン(カイレモン)が引くkrataioi egemones(本書p.377参照)もレイトウルゴイleitourgoiと同一であることは確かである。
この占星術の秘鑰についてはこのくらいにしておこう。ここに引用した句節および第VI章で述べたところから、パラナテロンタが占星術の教説においてすくなからざる役割を果たしたものであったことが分かる。しかしそれはたいした意味をもたなかったものだろう。すでに記した通り、現存するホロスコープにこれがあらわれるものはない。その応用例をプロペルティウスV 1,93sq.に見出すことができるかもしれない。またルカノスI 665にはたしかにそれが見出されるが、これはおそらくニギディウスに拠ったものだろう(本書p.363参照)。とはいえ、全体を見渡して、獣帯外の諸星座はギリシャのものもバルバリのものも、後の占星術実修にはほぼ用いられなかったのだろう。予言には獣帯の諸星座と諸惑星の様々な組み合わせだけで十分だった。占星術師はマニリウスやテウクロスの諸規定に従ううち、占星術の予言にあたりパラナテロンタのあまりの多様性を考慮するのは困難で不都合だと気づいたに違いない。これは古い伝統で、その古さによって教説として伝承され尊重されたにせよ、実修の選択において無視されることになったものだろう。これの真の意味は占星術の歴史からは見えないが、星座のものがたりから浮かび上がってくる。

マニリウスとフィルミクス 7

7.テウクロスとアンティオコスに由来するバルバリの天球のギリシャ語文書の断片群は、マニリウスとフルミクスの間の時期のものである。先に見たようにテウクロスの著作はギリシャのものばかりか東方のバルバリの天球を纏めて伝承した豊富な情報源であった、テウクロスは単なる編纂者で、先に述べたように特に優れた編纂者ですらなかった。アンティオコスはこれに加筆したところがあったにせよ、明らかに彼に拠っている。本書p.246および221で見たように、バルバリの天球にかかわるたまたまの知見は、ヒッポリュトスやアレクサンドリアのクレメンスにも窺われる。ヴァレンスもまたバルバリの天球から、マニリウスに似た様相でいくつかの要素を取り入れている。フィルミクスのバルバリの天球の典拠となったものとしては他にわずかにアキレウス、アブラハムくらいしか伝わっていない。レトリウスはアブラハムよりも若い世代で、バルバリの天球の知見はビザンツ時代にはㇷ゚セルス(本書p.7参照)を別にするとヨハンネス・カマテロスJohannes Kamaterosにしか見つからない。[389]−ホロスコープを含むパピルスの数々には、フィルミクスやへパイスティオンのもののように、しばしばエジプトのデカンの名がみられるが、私見の限りバルバリの天球と関連したものは唯一、大英博物館蔵のティトス・ピテニオスのホロスコープ(81年以降の書写)だけ。そのv.104には「つばめうお」(本書p.196参照)が、v.135にはガニュメデスGanumedesがヒュドロコオスHydrochoosの名で出る。しかしここではただ獣帯の考察がなされているだけである。
バルバリの天球をマニリウスやフィルミクスのラテン語文書に跡づけることは難しい。プリニウス(N.H.II 110)は全天を72星座に区分している(patrocinatur vastitas caeli immensa discreta altitudine in duo atque septuaginta signa, hoc est rerum aut animantium effigies, in quas digessere caelum periti)。これはプトレマイオスが記録した48よりもずっと多い。つまり、プリニウスの挙げた数の多さからみて、彼の天球にはギリシャの星座と異邦の星座をあわせて採用されたものと観念される。いずれにせよタンネリイとともに、プリニウスは諸惑星を個々に−たとえば、プレアデス、ゴルゴネイオン、山羊(ジーゲ)等々を含む−名指したものをも用いたと想定した方がよいだろう。プトレマイオスが挙げる48星座が、ゲミヌス(cap. III)によって列挙されたもののようにこの類の名のすべてを挙げたものだとすると、プリニウスにはそのうちの半ダースほどが不足している。おそらく彼は星座には属さない諸惑星をも算えたものだろう。
ヴィルギリウスの『ゲオルギカ』I 227へのプロブスによる註解もたいして役に立たない。そこには次のような記載がある(Keil p. 38, 8): Bootes est Stella in arctophylacis, ut plerique putant, balteo, ut alii iudicant, in humero, dicta a bubus.nam  septentriones, quos  Graeci  duas  ursas  vocant,  Helicen  et  Cynosuram,  in  barbarica sphaera  plaustrum  esse,  quod  ducatur  a  bubus  iunctis.  cuius  rei testis  est  Gaetulicus,  cum  ait  de  Britannis: 

Non  aries  illum  vemo  ferit  aere  cornu, 
Cnosia  nec  geminos  praecidunt  cornua  tauri, 
sicca  Lycaonius  resupinat  plaustra  bootes. 
(牛飼い座(ボーテ)はアルクトフィラキスの中の星辰であり、多くの者たちがその帯と、他の者たちは肩とみなす。これは牡牛と称される。これはその北側、ギリシャ人たちが二頭の熊と称するヘリケンおよびキュノスーラが、バルバリの天球では軛をつけられた牡牛たちが引く山車のことであるから。これはガエテュリクスがブリテン人たち(ブリタニス)の言として次のように証言するところ。
白羊(アリエス)はその角で気を突かない。
牡牛の角は双子を切らず(貫かず)、
リュカオニウスの乾は山車と牛飼いたちをもとの場所に戻す。)
[390]このように、詩人ガエテュリクスは(カリゴラ帝時代)パルバリの天球については何も語っておらず、ただ二頭の熊の代わりに二輪荷車(山車、プラウストラ)を名指す証拠として引いているに過ぎない。奇妙なことに、プロブスはバルバリの天球についてプラウストルム(山車)という象徴的な名で語っている一方、大熊を名指したアマクサamaxaという名はすでにホメロスに見られるものでもある。つまりパルバリの天球を考えるためには、テウクロスとアンティオコスのようにギリシャの星座とバリバリの星座をあわせてみる必要がある。彼の著作の全体構成は、ニギディウスが考えたようにギリシャの天球とバルバリの天球を厳格に区分けしたものとして捉えられるものではない。マニリウスの第五書はその証拠を与えてくれる(v.19sq.)。
Illinc  per  geminas  anguis  qui  labitur  arctos 
heniochusque  memor  currus  plaustrique  bootes. 
(高みから二頭の熊の間を蛇が這い、御者が山車と牛飼いを記念する)
おそらくここにわれわれはマニリウスの詩的暗示を認めねばならない。そうすることでこの第五書にバルバリの天球の描写をさらに探ることができるに違いない。ガエトゥリクスはプロブスの一節に引かれており、これまたおそらく古い典拠に遡るものだろう。いずれにしてもこれとマニリウスのあいだの関係は不確かである。そこにギリシャ語文書が介在した可能性もあるのだから。

マニリウスとフィルミクス 6

6.ニギディウス以前のバルバリの天球にかかわる痕跡として伝えられるものは、以上に見たようにたいして多くはない。これを最初に広く伝えた者たちとしては、おそらくバビロニア側についてはベロッソス、エピゲネス、アルテミドロス、エジプト側に関してはエウドクソス、マネソがいた。プトレマイオス朝時代、エジプトの沃野に『サルメスキニアカ』が興り、つづいてネケㇷ゚ソ−ペトシリスの『アストロログメナ』が出来した。ギリシャの天球とその解釈も、時としてこのスパイライ・バルバリカイ(バルバリの天球)に並置され−ただしローマのニギディウス以前ではない−、ひきつづきすでにキリスト教以前の時代(紀元前?)に東方の天球の数々と混淆して、われわれの文書群にみられる奇妙な折衷物がかたちづくられた。ここで問うべきは、その初期に星辰譚がどの程度詳細に伝承されたのかという問題。ニギディウスもまたおそらく占星術の伝承にばかりかアレクサンドリアの土地詩編Katasterismendichtungから直接影響を受けたものだろう。現在にまで伝わる諸他の著者たちを観ても、根本的な伝承は失われてしまっている。さまざまな図像の占星術的解釈における神話的な下降という主題も、テウクロス文書2にみられるように、随伴的なものに過ぎない。[379]ローマの詩人マニリウスの場合も同様だが、その第五書を瞥見してみよう。ここにはすでにギリシャの天球とバルバリの天球の無差別な混合が完了した、幾分残念なすがたがある。第一書で、詩人は星学のもっとも重要な諸観念を、ギリシャの天球の記述によって提供する。第二、第三、第四書では獣帯占星術が広範に取り上げられる。そして第五書のパラナテロンタの教説につづく。序の堂々たる哲学的脱線および一々の歌の結語は別にして、この第五書は彼の詩作の頂点である。諸星辰のものがたりに加え、なにより諸星座の名に解釈が加えられる。プトレマイオス朝の占星術師たちの予言(占い)のすべてには苦い真面目さがあり、読者を憂鬱にさせるところがあり、これはこのローマの詩人とはまったく異なった観点で、人々の生ばかりかこの業を崩壊させるものとなった。この奇妙で愚かな欺き−占星術に熟達した者たちは靄は宗教的予言をなすことができなくなる−のせいで、この詩的戯れは陽気に美化されたものと化した。メナンドロスの登場人物のすがたもこの詩編v.470ssではたいへん魅惑的なものとなり、v.416以下のアンドロメダの拘束と解放に関連した泳者の業の記述も生き生きしたものとなっている。
[380]第五書のほぼすべてでパラナテロンタがあつかわれる。短い序(v.1-31)で詩人の意図が語られ、彫琢された数行の詩句でギリシャの星辰天の全体を飛翔しつつ、最後(v.710ss.)に余白を置いて、恒星の大きさを六区分し、北天に輝く膨大な数の星辰に魅了されている。いずれにせよこの書の要点は諸星座が原因となって起こることども、また諸星座の意味で、これらは獣帯の十二星座のパラナテロンタとして配分されている。われわれの手元にあるギリシャ語断片およびテウクロスの第二文書からだけ知られる占星術的解釈はマニリウスに近いもので、マニリウスはすべての星座を解説しているが、テウクロス−レトリウス(TR)はこれらをデカンに準じて分割している。テウクロスの第二書同様、われわれとしてはマニリウスの典拠を想定してみなければならない。マニリウスもまたかなりの数、これと類同の解釈を施している。アルゴス、ヘニオコス、リラ、アルタイル、ペガススにはこれらの星座の格別の意味を示す名からして同じ発想(観念)が認められる。effrenos animos violentaque pectora(鎮めることもできない激しい気質をかたちづくる) v.220の解釈(テウクロスもphoberous en polemoisと類同な解釈をしている)、水を満たした壺と葡萄栽培者v.236sqq.(テウクロスではkepourous amaregous apoplutas)、またアリアドネの冠。これは生の悦びとして解釈されるv.267sqq.(テウクロスではkomous, methas, anesin)。ケンタウロスはマニリウスに星辰薬(獣の薬)の探求を可能とするv.353sqq.。テウクロスではpharmakous...kai iatrikous。オフィウコス(蛇使い座)は蛇使いを生む(v.391)。テウクロスではtherophonous。イルカの場合には実質的に同一で、マニリウスv.417sqq.は水中の遊泳者が語られ、テウクロスはKolumbetasを引いている。鷲について、マニリウスv.491sqq.によれば追い剥ぎや盗賊を生み、テウクロスではieras (arpagas)の効果が語られる。しかし格別特徴的なのは鷲そのものにかかわる符合で、マニリウスv.502では王や将軍のもとに生まれた者たちは来るべき重臣となるとされるが、テウクロスはこの星辰のもとperi basileis ontasが生まれると言う。マニリウスが頻繁に記す諸星辰にかかわる伝説はあちこちで輝きを放っている。[381]カシオペアは明らかに迂闊さに関して責任があるv.516。テウクロスではgunaikas kallopizomenasを生む。アンドロメダは捕囚および死刑執行を示しているが、時として捕囚の救出を意味するv.629。これはテウクロスがアンドロメダを魚たちdesmophulakasの間に置いたことを是認するものだが、これらが完全に生まれた(胚胎した)後、白羊宮のもとでdesmotasが生まれる。エンゴナシン(跪く男)は悲痛なすがたで、マニリウスによれば凶徴v.648。テウクロスによればpolupatheisを起こす。こうした同一解釈が数多あるだけでなく、そこにはたいへん異なった解釈もみられる。マニリウスとテウクロスの典拠群には異なったものが含まれていたのかもしれない。ただ一例を挙げるなら、マニリウスはヒュアデスにsuculae (つまりet fidum Laertiadae genuere syboten)を考えているが、テウクロスはuadesをuein (つまりudragogous, perichutas)に由来する語と考えている。もちろんマニリウスは彼の創作を自らの想像によって恣意的につくりあげている。たとえばケフェウスは悲劇詩人を生む−おそらくケフェウスそのものの主題の取り扱いに由来してv.469−、これは詩人が自らの想像に戯れたもので、他にもこれに類した事例が数々あるのだろう。
詩人としてのマニリウスの奔放さは彼のparanatolaiの星学的な正確さを検討してみるとさらに明らかになる。スカリゲルはこうした検討を彼の註釈の中でなし、言葉を尽くして「マニリウスは自ら書いていることを理解していなかったManilius nesciebat quid scribebat」と結論している。これは現在の拡張されたパラナテレインにかかわる観念からしても道理ある言辞である。これは一々の言及からみて、マニリウスが用いた典拠にもすでにみられたところであったのだろうと推論される。アルゴスはただipogeionとして白羊宮に宛てられるのみであり、矢も(近似的に)天秤宮に、蛇使いが磨羯宮に、エンゴナシンが双魚宮に宛てられるのも中天においてのみである。マニリウスによれば、アルクトゥスは人馬宮の5度にあって「海を示している」、[382]つまりアレクサンドリアもしくはローマの緯度でやっと中天に至るときに姿をあらわす。さらに鷲は宝瓶宮12度に昇る時、ほぼ中天に近い。これらの事例から観ても、マニリウスが用いたパラナテレインという語はわれわれの手元にあるギリシャ語文書群よりも広い意味ですでに用いられていたものと思われる。いずれにしてもこの詩人はこの問題を十分明瞭に見通していない。マニリウスはギリシャの著作家たち同様に、これらを増大させたものに違いない。しかしそれも半ダースほどの事例でしか明快に語られていない。近似的に正しいのは、ヘニオコス、犬狼星、水差し、白鳥、鯨。さらに、子山羊と山羊。これらは相互に10度間隔で昇るので異論の余地があるにしても。Orione, Iugulae, Haedus, Fidesについては後述する。南天の兎、冠、麦穂(スピカ)、竪琴、祭壇、魚は早々に定められた。そのうちの幾つかはかなり早期に(緯度の特定においてcfr.本書p.150)。一方、プロキオン、ケンタウロス、海豚、ケフェウス、カシオペア、アンドロメダ、ペガサスが定められたのはかなり後になってからだった。ここでその証拠を挙げる必要はないだろう。それらはヒッパルコスやスカリゲルの註釈から、あるいは天球の観察から容易に識別できるだろう。われわれの手元にあるギリシャ文書群には、これらマニリウスの過誤の一部しか報じられていない。おそらくもっと深刻な事態について触れざるを得ない。マニリウスによればヒュアデス(つまり牡牛の頭)は白羊宮の27度とされ、プレアデスは金牛宮6度とされている。ここでマニリウスはプレアデスが白羊宮により近いこと、つまりヒュアデスよりも前に昇るのでなければならないことに気づいていない。これほど有名な星座であるにもかかわらず。
[383]この詩人の星学的事実に対する完全な無関心は、以上から見て明らかである。これはわれわれにとっては少々逆説的に響くが、星辰天に熱狂したこの詩人はおそらく真面目に点を眺めあげたことも、天球儀を用いたこともなかったのだろう。[384]こうしたことはわれわれにとってよりも古人たちにとってはさほど奇妙なことではなかったように見える。クロルは、キケロ(de orat. I 69) がまさにこの点について次のように語っていることを教えてくれた。Etenim si constat inter doctos, hominem ignarum astrologiae ornatissimis atque optimis versibus Aratum de caelo stellisque dixisse; si de rebus rusticis hominem ab agro remotissimum, Nicandrum Colophonium, poetica quadam facultate, non rustica, scripsisse praeclare: quid est, cur non orator de rebus iis eloquentissime dicat, quas ad certam causam tempusque cognorit? (占星術を知らぬ学者たちのうちでも高名な者として、アラトスは天と諸星辰をたいへん優雅な詩編にまとめた。また鄙から遠い人コロフォンのニカンドロスは無骨ならざる卓抜な詩才をもって農事について記した。弁論家特定の問題や偶々の議論においてはこれを知らずして論議を雄弁に語ることができなかったろう)。もちろんマニリウスが典拠群の不完全な論議をそのまま写したとも思わない。それどころか、彼はしばしば無頓着にそれらの度数を書き留めているだけにみえる。もちろん彼に不可欠と思われた数値についてはそれらが近似的に正しいものに取り換えてみせるのだが。アリアドネの冠一つとってみてもこれが処女宮にあるのは、これら二つの星座−dona puellaeとipsa puella−は明らかに molles tribuere artes (v.253sgg.)に二重にふさわしいからに他ならない。
ギリシャの天球の星座群にはマニリウスが挙げるパラナテロンタは欠けている。龍、三角、ペルセウス、ヒュドラ、烏、河。ヒュドラと烏が除外されることにはなにも驚くべきところはない。壺(クラテル)によってもっとも重要な個々の星辰ヒュドラ、盃、烏の三つの像を要約していることになるだろうから。上述した通り(p.135sqq.)、マニリウスは河を宝瓶宮のchusis ydatosにつづくものとみており、それゆえこれは別にすることができるかもしれない。龍は二頭の熊の間にあり、おそらくこれらにつづいて扱われていたのかもしれない。現行の詩編ではvv.709−710で脱線として語られている。[385]ほとんど意味をもたない三角のような星座を別に、一つ欠けているのがペルセウス。アンドロメダ、カシオペア、ケフェウスがこれほど広く取り上げられているのにも関わらず、これは不可解である。詩人は個々である過誤を犯しているのではないかという疑問が起こる。ペルセウスが語られるべき点、つまり白羊宮10度(v.57sqq.)で、彼はパラナテロンとしてまったく不可能なオリオンについて語っている。ここで彼がこの星辰の上昇に帰しているさまざまな効果からみて、詩人は典拠にペルセウスを見つけたものの、誤ってオリオンをその場所に据えたのだろう。この星辰は俊敏で、用意周到、疲れ知らずな人物をあらわしたもので、友のように毎日朝の挨拶をするために翔けまわるのでなければならない。これはペルセウスの翼あるサンダルに容易に見てとることのできる特性であって、狩人オリオンの権能ではない。実のところ、この星座について詩人は別の個所でも語っており、これはここにオリオンが録されていることが間違いであることの証左になっている。またフィルミクスから、またスカリゲルの註釈から、iugulae(飾り鋲?) v.174 はaselli(onoi)つまり巨蟹宮の二星辰でなければならない。マルティアヌスにおいてフィルミクスはeamaeとあるが、他の写本では欠落している。アルドゥス版ではiugulaeという語を躊躇なくaselli(子驢馬)に替えている。これはわれわれの辞書の数々にも採られており、iugula o iugulae = Orioneはすでにいたるところに認められる意味であり、すでにPlautus Amphitr. 275 に出るものであるとし、Schol. in Germ. p.162,20;163,1を参照、またIsidor orig. III 70 の異説(剣、喉Gula)をも載せている〔Iugulaにはclavicola(鍵、蝶番)の意味で三つの星辰Alnitak, Anilam, Manitakが帰属され、これらがいわゆる「オリオンの帯」をなしている。これを四角に囲む四つの星辰はBeltegeuse, Bellatrix, Saiph, Rigelで、伝統的にオリオンの両肩両足とされている(Plauto, Amphitruo, 275)。三つの星辰の下にみえる靄のようなものがIugulaをなすとされ、天の狩人の剣gladiusのかたちとされる。イシドロスはこの星座の恐ろしげな相貌とIugulaという名辞との連想からこれを喉gulaと観てgladiumという語で呼んでいる〕。より委細に見てみるなら、マニリウスもIugulaeを素朴にOrioneの意味で用いており、巨蟹宮の左つまり南に据えている。これを蟹そのものの一部と呼ぶことはできない。いずれにせよマニリウスはここにオリオンのヴィジョンを見ながら占星術的解釈を施している。[386]iugulaeのもとに生まれた者たちはMeleager, Atalante, Actaeonを崇める者となる。野生の獣をとらえるために罠を張り、溝を掘り、犬たちとともに追いかけ、槍をもって獲物を殺し、果ては海の怪物たちをまで追いかける。天の巨大な狩人という考えがその根底にある。またオリオンは海の巨人で、陸の上を歩むように水の上を進んだ。一方、aselli(子驢馬)の星辰説話にはこのような解釈主題はない。ただその嫌な叫び声で巨人たちを驚かせたことにより、天に挙げられたというだけ。iugulaeをaselliとする解釈はアルドゥス版フィルミクスの過誤に遡るもので、Thesaurus linguae latinaeには採用されるべきではないものかもしれない。星学的にみると、マニリウスによるオリオンの解説は十分是認できるものとみなすことができる。ヒッパルコスによればオリオンは白羊宮27・1/2度で昇りはじめ、巨蟹宮3度で昇りおわる。つまり巨蟹宮が昇るまでそのすがたを地平線上に完全にあらわすことはない。
マニリウスの第五書の星辰天は本質的にギリシャの天球である。マニリウスがそのさまざまな影響について記しているギリシャの天球の31の星座のうちには、バルバリの天球に属するものが二つしか挿入されていない。これらは天秤宮とともに昇るhaedus(v.312)と磨羯宮の下にあらわれるfides(v.410)。どちらの星座もテウクロスの第二書の同じ個所にみつかるもの。一方は本書XII章でみたように、tragos(山羊)でドデカホーロス(十二区分)の一つをなしている。他方はdusonumos luraで、おそらくヴァレンスのzeugma(対?)と同一である(本書p.266参照)。マニリウスの典拠とテウクロスの第二書の典拠の密接な関連性、およびわれわれの手元にある別資料群から、彼らが純粋なギリシャの天球でもバルバリの天球でもなく両者の折衷様式に拠っていることが分かる。では、なぜマニリウスはバルバリの天球の星座のすべてのなかから、どうして二つだけを録したのだろう。その答えは明白である。当然、それはこの詩人がその稚拙さから星辰グノーシス主義のもっとも単純な観念をすら知らなかったから。[387]彼が挙げるバルバリの天球の二つの星座はギリシャの天球の星座と完全に同じかほぼ同名である。fidesは、dusonumos lura(普通の竪琴)つまりラテン語でfidesあるいはfidiculaと呼ばれるものと、tragosあるいはhaedusに分割される。こちらに最も近いものを探すならeriphoi(haedi)や馬車引きの傘(礼拝堂?)、ラテン語でも haedus(子山羊)と呼ばれるもの。つまりマニリウスは誤って、典拠に見つけたこれら二つの星座をギリシャの天球のものとみなして取り入れることになった、と。彼の意図したところはバルバリの天球あるいはその混淆物ではなく、純然たるギリシャの天球であったに違いない。つまりマニリウスの典拠はじつのところ、われわれのギリシャの天球一覧に見られるギリシャの諸要素を混ぜたバルバリの天球であった。いずれにせよ、それはこの詩人の誤解にのみゆだねられるべきであり、彼がギリシャの有名な星座群を記録しようと考えていたのに、第五書に意図せずバルバリの天球の要素が含まれることになったものだろう。マニリウスの「バルバリの天球」のこうした性格も、これに拠ったフィルミクスについても、スカリゲルによる語彙の誤用に責任がある。大部分の天球というよりいかなるギリシャの天球もフィルミクスによって「バルバリの」天球と名指されていたもので、正確な説明のための準備なしにスカリゲルが求めた出口が誤っていたことについては前章を参照。
第五書の巻頭(v.28)、詩人は北と南のすべての星座を通覧した後、「(一々が)昇り、波間に沈む'quid valeant ortu, quid cum merguntur in undas'」ことを謳うと約束している。スカリゲル以降、この詩人は第五書に第六書をつけ加える意図があったという結論に到達する。つまりそこで星座の上昇とそれらの周辺配置が論じられ、第七書で諸惑星にかかわる教説が語られる予定であった、と。実際、つづきを謳おうと彼が考えていたことは詩中の数多の約束からしても明らかである(II 965; III 156sq.; 585sq.; V 4sq.)。彼が星座の配置にかかわる書を書こうとしていたことは確かである。[388]いずれにしてもすでにみたように、中天あるいは天底についての議論も第五書のあちこちに忍ばせてある。そこからして彼の典拠には、本書に引いた諸文書にみたようにあらゆる意味でパラナテロンタが混在していたものと思われる。上昇、中天に限らず、没(落位)に関連しても。マニリウスでは上昇が主役で、一々の星座が一度だけ示されるようにと意図されているが、詩人はこれを第五書で論じようとしていることに間違いはない。さらに第五書では一々の星座はその配置(位置)によって列挙されていない。おそらくマニリウスはこれについては別の書で扱うつもりだったのだろう。彼が典拠をより熟慮していたなら、出没を上昇位と下降位で識別することもできただろう。いずれにせよ、詩人が諸星座の配置について第六書を著層としていたことを否定するものではない。しかしこの思いは実現されなかった。本章第九項で明らかになるように、フィルミクスはこうした継続部分があったとは言っていない。天球およびマニリウスの著作はこうして未完に終わった。

マニリウスとフィルミクス 5

5.ペトシリスとネケㇷ゚ソに記される書の古さを強調することで、この著者はヘルメスやアスクレピウスに言及したわけではなかったように見える。数年前、クロルはテーバイのエフェスティオンのパリ写本の一節を印行した。それによると、ネケㇷ゚ソは『サルメスコイニアカSalmeschoiniaka』という表題の書を典拠としたという(Hephaist.II 18 in Paris. gr. 2417 f.112r)。(引用)
つまりこの謎の『サルメスコイニアカ』はペトシリスの書よりも古いもので、おそらくプトレマイオス朝の最初期に遡るものだった。これについてここで扱っておきたいのは、エウセビウスが伝える(Pr.ev.III 4) ポルフュリオスがアネボへの書簡の次の一節でパラナテロンタの教説を扱っているから。(引用)「ケレモンその他の者たちはまずもって目に見える世界(可視的世界)より他を信じず、原理にかかわる論議において、エジプトの神々はいわゆる諸惑星および獣帯をかたちづくる諸星座およびこれらとともに昇る(パラナテロウシン)諸星辰に他ならないと言明している。そしてデカン、東に昇るもの(ホロスコポス)、主たち(レゴメノウス・クラタイオウス・へゲモナス)の名がサルメニキアコイスに載せられており、東西からの苦患の治癒、未来にかかわる註が録されている」。
[377]神聖文字学者ケレモン(カイレモン)はネロ帝の家庭教師のひとりで、『サルメスコイニアカ』を引きつつ、彼らが用いたペトシリスの書の一部との類似を語っている。これはエフェスティオンによる年代特定と符合している。さらにケレモンはおそらく占星術的な著作を著し、彼の主著におけると同様そこで、エジプトの星座にも用いられたバルバリの天球にかかわるパラナテロンタおよびこれの効果についても語っていたものと想定される。『サルメスコイニアカ』そのものについては、ポルフュリオスの一節にそこでパラナテロンタがデカン同様に論じられ、これらの星座の名がその奇瑞とともにすべて列挙されていたことが証されている。イアンブリコスde myst. Egitto. VIII 4もポルフュリオスのものと同じ一節に言及し、それをより長く引いている。(引用)ヘルメスの教説Ermaikai diataxeisについては、「サルメスキニアカという著作にはヘルメスの教説の僅かの部分が含まれているだけである」と。これに関しては先に簡潔に触れたように、エジプトの祭司による大著作を想定しないわけにはいかない。『サルメスキニアカ』という著作はエジプトの伝統に基づくものの一つと位置づけられ、見知らぬ名の解釈についてはこれのうちに求められる他ない。[378]エジプト学者たちがこれを成し遂げてくれることに期待しよう。この問題に関心を抱いたアドルフ・エルマンにはZeitschrift fur agyptische Sprache (Jahrg.39)にわたしの要望を掲げてもらった。ここでK.デュロフの試みを紹介しておこう。デュロフはわたしにこう知らせてきた。「今わたしはs't-n-mshnwt(あるいはこれに類するもの)、「誕生の場所についての書」を想起しているところです。つまりこれがSanmeschoiniakaというギリシャ語形の原型となにか関連があるのではないかと。女神Mshntはエイレイテュイアの一種。Pap. Westcar 9,23 (この句節はErman, Agypten 581,その他に訳出されている)cf. Brugsch, Relig. d. Ag. 370sqq.。mshnt (mshn) の概念の論議にとってはかなり遠いものかもしれませんが」。つまりこの書の表題は半ば神話的なものであったのかもしれない。ギリシャのgenethlialogia(誕生占い)にも同様なことが言える。
〔*Eileithyia脱線 [p.212]へ戻る。
テウクロスの第二文書では東方の女神イシスがギリシャの女神エイレイテュイアEileithyiaに置き換えられている。その表象は全く同じである。彼女は椅子に座して赤子を抱いている。つまりここでは別称が与えられているだけである。イシスはしばしば産婦と赤子の保護者とされ、これがホーロスの母としての描写に与えられる主要な道理である。オウィディウス(Amor. II 13)で、イシスはエイレイスとともにまさに同じものとして取り上げられている。それゆえ、テウクロスは実際にはここでイシスをだけその特殊名としている(*L (pronoian, diken)の解釈によれば、エイレイテュイアはパルテノス―ディケーとも同一とされている)。
いずれにしても語根Eileithuiaをもつ図像の名はテウクロスに遡る二文書に見いだされ、その相違は書写上の問題に過ぎないものにみえる。
磨羯宮♑第二デカン 玉座のエイレイテュイアEileithuia epi thronon kathezomene TR; e Eileithuia L。ここでは赤子は語られていない。いずれにしてもこれは処女宮で、イシスと特定されるべきものだろう。これは磨羯宮があらわれる時にはすでに中天を過ぎているから。しかしテウクロスにあっては、間違って以外にエイレイテュイアが磨羯宮に配されることはなく、これはわれわれの文書の前史を想定するに格別の価値ある偶然の証拠をなしている。へパイスティオンI 21はエジプトの古老たち(パライオイ)つまりネケㇷ゚ソ−ペトシリスの『アストロログメナ』から長い句節を引いている(fr. 6 Riess)。この同じ断片について最近クロルは、この影響力のあった著作がすでに前二世紀には編まれていたものであったことを論証した。そこにはまた次のように記されている(Riess p. 339, 206): o de poliorkon ouden anusei dia to epikoinonein to aigokero to tes Eileithuias zodion akephalon on. 
p.81,1には、獣帯zodionはしばしば星辰をもってあらわされる、と註されている。いずれにせよ獣帯の最初の図像としてエイレイテュイアが勘案されており、エラトステネスのカタステリスム(p. 84 Rob.)に準じてテュケーの解釈がアセファロス(首なし)として示される。いずれこの文書ではこうした並置は捨てられる。というのはダイモーンもしくはサトゥロス・アケファロス(cfr. 本書 p.221)ばかりか、アケファロス・ぺリステラもしくはアケファロス・オフィスも磨羯宮から名を採っているから。これについてはアレクサンドリアのクレメンスばかりか、デンデラの神殿も類比的な事例を示している。つまりネケㇷ゚ソ−ペトシリスの、またテウクロスのエイレイテュイアを磨羯宮の近くに探さねばならないとすると、これは星座カシオペアの新しい名と想定したくなるところであり(cfr.たとえばArat v.654やKatasterismen cap.16)、テウクロス自身、文字通りカシオペアの名を付加しており(本書p.107参照)、これは完全にうまくいっている。なによりこの想定は天球にうまくあてはまる。カシオペアは磨羯宮の第二デカンとともに完全に見えるようになるから(cfr.ヒッパルコスp.192,26: Tes de Kassiepeias anatellouses sunanatellei men o zodiakos apo toxotou b kai k moiras ews aigokero ib.「カシオペア(黄金?)は人馬宮のβとκから磨羯宮のiβに生まれ...」)。逸名者Vが語るバシリッカbasiliccaはLに近く、磨羯宮に対しても同じ関係にある。つまりバシリッカはカシオペアの異名であり、ヴァレンスでも同じ場所に置かれている。[214]ここでアンドロメダ伝説について初めて異なった解釈があらわれる。これはエジプト由来のものかもしれない。というのもエイレイテュイアポリスの女神ネケブはこの玉座に祀られたものであったかもしれないから。しかしギリシャでは知られていなかった或る星辰にかかわる伝説の影響があったのかもしれない。そしてそこにエイレイテュイアが腕を広げるカシオペアに似たような姿で描かれていたのかもしれない。さらに第三の仮説として、バビロニアの天球には「懐妊した星辰(あるいは星座)」(Hommel Auss. p.413)が語られていたというが、これはバビロニアの星辰の名に由来するエイレイテュイアという星座の名として観念し得るもの。ここでは名にも確定的なことは言えない。ただ、神々の同じ名が二度異なった星座に用いられることはすくなくともエジプトではないことではなかった。デンデラではイシスは処女宮のもとに座した女神ソティスクフ、河馬の立像としてホーロスあるいはアピスのように複数のデカンにあらわれることについてはすでに述べた(p.209)。
脱線はこのくらいにして、イシスとホーロスに戻り...〕

マニリウスとフィルミクス 4

4.古代エジプトには占星術は知られておらず、後にバビロニアから伝えられたものであるというのは、レトロンヌ以来認められてきたところである。一方、カルデアの知識がいつ導入されたものかについては確認しようがない。ただたしかに言えることは、これがエジプトに到来したのはギリシャへよりも遅くはなかったということだけ。それが広まったのはアレクサンドロスの戦争につづく時代、前四世紀末から三世紀にかけてのこと。古代世界の凱旋行列については通常たいへん誤った観念が抱かれている。バビロニアの知識の旗印に貪欲な放浪詐欺師や弱小な預言者たちを抱け認めるとするならば。プトレマイオスのような学者ばかりでなく、ヒッパルコス派の者たちもその師とともに異教に改宗したという事態を勘案してみなけらばならない。エジプトのデンデラ神殿の壁面には占星術の恐ろしい権能について記されている。歴史的事実としてもっとも重要なのは、世界の民のすべてのうち最も保守的な祭司たちの威厳と近づき難さも、こうした後期には完全に異邦の信仰に屈していたという事態。それどころか彼らの神殿には異邦の神像が祀られさえしたのだった。おそらく彼ら自身バビロニアの教説の修得に努めたと想像される。ここから「エジプトの占星術」に新たな光があてられることになる。カルデア人に敵対したプトレマイオスにも、高名なネケㇷ゚ソとペトシリスの著作の区分についても。これを呼ぶに用いられてきた「いかさま本(蠱惑の書)」という名には新たな定義が必要になる。もちろん占星術がエジプト人たちの発明である、つまり彼らの神トート・ヘルメスによって創案されたというのは嘘である。この神の名はマネソの詩の偽作にも用いられ、伝説的な王の名として示されることになったものだった。しかしその内容は偽書とみなされるようなものではなく、ナイルの祭司たちによって大切に秘匿されてきたもので、これはバビロニア人たちの教えを僅かに改変し、デカンのような古代エジプトの要素を加えたものであったことに間違いない。いかなるギリシャ人でもエジプトの占星術を案出し、これを古代の賢者王の著作として提示することはできなかったに違いない。エジプトの占星術は、その内容が純粋に占星術的でかなり後代のものであるにせよ、彼ら独自のものであった。
このエジプトの占星術がギリシャやローマの文化圏に知られはじめたのがいつであったかを確定することは難しい。ただこれが前一世紀の中頃にローマで知られていたことは確かである。プルタルコスのロムルスの巻(XII章)には、L.タルティウス・フィルマヌスが友人ワッロの要請により、ローマの町のホロスコープを算定したことが語られている。レトロンヌはまさにこの計算がエジプト暦に拠ったものであったという事実を重視している。エジプトの占星術はこうした一般ホロスコープにも採用されていた。これの証が世界の誕生という主題(占い)thema mundiで、フィルミクスIII 1にはネケㇷ゚ソとペトシリスをもってれが説かれている。これについては先に引いたプロペルティウスの一節(V 1,78)を想起しておこう。同様にマニリウスI 44をも。唯一の問題は、ネケㇷ゚ソとペトシリスの書がすでにこの時に存し、ローマに伝えられていたかどうか。わたしはこの書の由来に関するE.リエスの主要論議のひとつを参照してみたが、リエス自身次のように認めざるを得なかったことが分かる。プリニウスがペトシリスとネケㇷ゚ソについてニギディウスから知ったという仮説は、偽りをもとに想定されたものであった。いずれにせよ、『アストロロゴウメナAstrologoumena』は西暦一世紀に編まれたとわたしが認めるにせよ、わたしに反論する者がわたしが提示した論議にこれを支持する証拠が提示されていないという点は是認しておかねばならない。[374]ペトシリスとネケㇷ゚ソが彼らの庇護者としてヘルメスを語るところ、実のところわたしが先に考えていたような、いわゆる後期ヘルメス主義的文書との密接な関係を証するものではない。トート−ヘルメスが往昔のエジプト人たちにとっては文字、文芸、魔術、知識(科学)、医術、星学の発明者で会ったことを疑う者は誰もない。そこからするなら、ペトシリスとネケㇷ゚ソがヘルメスを彼らの軍人と称したことは、ペトシリスの書が後代のものである証拠にはならない。つまりこの著作が紀元前のものであることを否定するものではない。タルティウスのホロスコープを見て、わたしはこれが後代の手法であるとみる方に蓋然性があると考えたのだった。ペトシリスとネケㇷ゚ソの二人の名のもとに伝えられた諸書は、クロルも言うようにおそらく同じ著者名による偽書で、エジプトの占星術をはじめてギリシャ人たちローマ人たちに知らしめたものであったに違いない。こう想定させるさまざまな指標がある。すでにタルティウスが『アストロロゴウメナ』を知っていたと想定することもできる。またW.クロルは間接的な証拠に直接的な証拠をつけ加えている。上述したNeuen Jahrbucher所収の論考(「占星術の歴史」)で、彼はペトシリスの書でとられている政治的立場が前二世紀にしかありえないものであることを示しているが、これはわたしには信憑性があるものに見える。とするとペトシリスの書はプトレマイオス朝の著作物ということになる。
しかしネケㇷ゚ソとペトシリスがバルバリの天球について論じていたかどうかはこれとは別の問題である。フィルミクスが言うところを信じるなら、これについてあらためて問う必要はない。彼はバルバリの天球の巻頭(VIII 5)で[375]多くのギリシャ人またローマ人の誰もこれについて語ったことはないと言い、付言している。
Neque enim divini illi viri et sanctissimae religionis antistites, Petosiris et Nechepso, quorum alter tenuit imperii gubernacula, cum  omnia, quae ad huius artis pertinent disciplinam, diligentissimis ac  veris interpretationibus explicassent,hoc, quod nos edituri sumus, invnire potuerunt. 
(これら神々しく至聖なる信心に反することもないペトシリスとネケㇷ゚ソは帝国を広くこの業(占星術)をもって治め、これを巧みに正しく解釈したが、彼らがそれをどのようになしたのかわれわれの得心するところではない)
フィルミクスが同所で彼の主要典拠マニリウスの名を伏せており、彼の言辞のすべてに信憑性があるわけではないにせよ、この証言には論駁の余地はないだろう。幸いにもこれについて判定することのできる幾つかの断片がある。ヴァレンスIII 2(Nech. et Petos. fragm. ed. Riess p.375)のo basileus(王)つまりネケㇷ゚ソはe tou Seth anatole(セツの上昇)。この「セツ」はサルマシウスのde annis climatericis p.113に見たように、「テュポン」つまり「おおくま」ではなく、ヴァレンスの文章が示唆するところから観ても、これは犬狼星(ソティス、シリウス)のことに他ならない。この星辰のエジプト名だけがネケㇷ゚ソ−ペトシリスに由来するものとされる唯一の事例ではなかっただろう。すくなくともデカンのエジプト名の数々を伝えたのが彼らであったことはフィルミクス自身が証している(IV 22)。しかしフィルミクス自身の言明にはこれに対する驚くべき反証もある。この一節はテウクロスの一節と正確に符合するものであるところからして、われわれにとってはたいへん重要である。テウクロス(TR;L)は、磨羯宮のパラナテロンタとしてエイレイテュイアEileithyiaという星座を名指しているが、これはわれわれのものではない(われわれには見知らぬ名である)。上述したように(本書p.213)、この星座について或る断片で、テーバイのへパイスティオンはparaioi Aiguptioi(古エジプト人)つまりクロルの精査が証している通りペトシリスとネケㇷ゚ソから引かれている。これは決定的な点である。というのもこれはネケㇷ゚ソ−ペトシリスの著作がテウクロスのパラナテロンタの一覧やニギディウスの書の前史にあたるたいへん古い伝承を含んでいたことを是認するものだから。ネケㇷ゚ソ−ペトシリスにはギリシャの星座以外のものも含まれており、それらがテウクロスが用いたのと同じ名辞で呼ばれていた。それらはあちこちでパラナテロンタとして獣帯の星座に配当されている。[376]つまりこれらエジプト人たちはテウクロス同様に星座(名)に影響を与えたものに違いない。フィルミクスは誤ってか、自ら偽ってか、「二人の神々しい人」にバルバリの天球の教説を帰すことをきっぱり否定してみせた。またこうした見た目に反してスカリゲルはフィルミクスの反証を道理をもって無視し、ネケㇷ゚ソ−ペトシリスをバルバリの天球の歴史の中に挿入した(スカリゲル監修マニリウス1600,p.368)。ニギディウスがこれをネケㇷ゚ソ−ペトシリスから採ったものか、他の典拠に拠ったものかを見極めることはできないにせよ。「パライオイparaioi」に関してバルバリの天球の像の数々をなす星辰のものがたりが語られていたものかどうか、われわれには知見がないから。いずれにしてもこれは彼の書のやや神秘的で時に詩的な性格に矛盾するものではない。

マニリウスとフィルミクス 3

3.エジプトの天球がギリシャの文化(文芸)に導入されたことに関しては、或る程度精確を期すこともできる。この地エジプトにもバビロニアのように或る種の星学的−占星術的著作があった。エジプト人にとってはこれがバビロニア人たちにとってのように重要性をもたなかったにしても。バビロニアにはサルゴンの時代、72枚の陶板に記された占星術の大著作があった。またエジプトでは祭司たちが星学に専念していたという信頼に足る証拠が或る。さまざまな証拠は別に、アレクサンドリアのクレメンスが[370]記しているところによれば、エジプトの聖なる諸書の中に星学に関する四書があったという。クレメンスは証言している(strom. VI 4 p.269 ​​A) 。(引用)
さらにテーバイの前十四−十三世紀の石碑の表(すでに本書第十章で何度も触れた)がある。著作としては『固定された星辰(恒星)の配置について』と表題されたものが最初の著作で、これには当然エジプトの星座群が列挙され、星辰の名辞も載せられていたに違いない。こうした著作群の内容は何時、ギリシャ人たちに知られることになったのだろう。エウドクソスのことを考えてみるならその『ゲス・ペリオドスGes periodos』はプルタルコスの『イシスとオシリス』の主要典拠であり、この主題はイシス−犬狼星(シリウス)、オリオン−ホーロス、テュポン―おおぐまの一節に近似している。しかしここにエウドクソスがどれだけ生かされているのか見極めるのは困難である。あるいは、プトレマイオス朝フィラデルフス王によって奨励された翻訳活動にみられるエジプトの知識(科学)にかかわる著作群を想定することもできる。「フィラデルフスは非ギリシャ語の書物をギリシャ語に訳させ、それらを図書館に収めたことが[371]シュンケロスp.271D (516 Bonn. Ed.)にカルデア、エジプト、ローマ人たちの名とともに証言されている。O.グルッペスの尊重すべき論議によれば、エジプトの聖なる諸書の翻訳者マネソがその訳者とみなされるべきであろう。彼はプトレマイオス朝の最初の二人の王のもとに生きた。ワックスムートスによれば、ラゴス(プトレマイオスの父)の時に採用された」。
おそらくエジプトの天球の最初の知見はカリマケアのヘルミッポスによる著作に跡づけられるだろう(彼であってもう一人の星学的進展を帰属することのできるヘルミッポスではないことについてはロバートの論考参照)。そこにはギリシャのボーテス(牛飼い座)が鍬(耕す人)として観念されている。先述したように(p.228sqq.)この牛飼いの描写はギリシャ人の著作にはどこにも見つからない。唯一想い出されるのは、アレクサンドリアの皇帝貨幣。文書の語彙としては牛飼い(ボーテス)が農夫(耕す人)としてあらわれるのはニギディウス、テウクロス、アンティオコスのバルバリの天球の中だけである。ここからして、ヘルミッポスがこれをギリシャの伝承に拠ったと考えることはできそうにない。また、ギリシャ人たちが触れることになったアレクサンドリアの一詩人がエジプトの神殿群の図像について影響を及ぼしたと考えることも不可能だろう。逆に、ヘルミッポスはこうした図像を直接眺めたか、あるいは文書の省察を介して牛飼い(ボーテス)という観念に到達したのだろう。わたしは後者に蓋然性があると考える。ニギディウスがヘルミッポスからこれを引き出したわけではないにせよ。後者においてはギリシャ語の星辰名があらわれるが、これは完全にエジプトの農夫にあたるものだから。これよりも少々遡る痕跡として、『カタステリスモイ』の内容をエラトステネスに帰属することができるなら、エジプトの天球はギリシャ人たちにとって確かにエラトステネスに帰されるものとなるだろう。いずれにせよ、『カタステリスモイ』のプロイオンploionにかかわる言及(本書p.170)はかなり早期のもので、ギリシャ人たちがエジプトの天球を録したものとして興味ある。

マニリウスとフィルミクス 2

2.バビロニアとエジプトの「異邦人(バルバリ)」の天球にかかわる後代のギリシャ人たちが得た典拠群について問うてみても、そこにはただバビロニアにかかわるものしか見当たらない。そのほぼすべてが仮説に則ったもので、実証的な証拠は完全に欠けている。まずなによりバビロニアの個々の星座について厳密に識別する必要がある。これらのうち獣帯星座以外のものについても、すでにギリシャ人たちに知られているものであったのかどうか。そしてそれらが何らかの変容を経てギリシャの天球にもすでに包摂されたものであったのかどうか−これについては現在、確実に証示することができる、あるいはすくなくともこれを否定することはできない−またさまざまな問題のうちでもわれわれにとって重要なのは、ギリシャ独自の天球が自覚的にバビロニアの天球に対比されていたのかどうか。これについてベロッソスは、「バビロニアカ」を特にバビロニアの星学知識と考え、ギリシャ人たちに新たに与えられたものとみなした。379年の逸名エジプト人は、パルコスの135章にはパラナテロンテスの記述があると記している。(引用)[368]
この一節はかなり破損しているが、ベロッソスがここで述べられている他の著者たちとともにバビロニアの天球の「ファイノメナ」に注目していることが指摘されているように見える。僅かばかり残された彼の著作断片中には、バビロニアの星座の名にかかわる痕跡はない。ただ蟹とアイゴケロス(やぎ、磨羯宮)だけはエクプローシスおよびエスダトーシス(脱水と加水?)の理説(Sen. Nat. Qu. m 29 - FHG II 510, n. 21 Muller)に関連して触れられている。ここからすると、この「吉(善)」の解説者はすくなくとも、これら獣帯の図像に付された同じ名をバビロニアの真正典拠群に見つけて用いたようにみえる。ベロッソスの断片群同様、最も重要なバビロニアの星学および占星術の古記録もほぼ残されていない。ディオドロスII 30sq.には獣帯外の24の星辰が語られており、そのうち12は獣帯の北、12は南のもの。dikastai ton olon(時の主)はこれが完全に占星術的な意味で用いられていることを証示しており、これはバビロニアから採用されたものに違いない。パラナテロンタつまり随伴する星辰はここにバビロニアの占星術の文脈で古い典拠に遡るものとして報じられている訳である。これら24の星辰はミュンヘンのアンシャル体写本の断片に明瞭に記されている。しかしパラナテロンタ、つまり獣帯とともに昇る星座やその名辞はディオドロスからは何も知られない。ミュンドスのアポロニウス、セネカN. Q. VII 17によればネロ帝の時代に生きた人物で、エピゲネスとともにカルデア人たちから学んだらしく、両人ともが説くところ(ibid. VII 3), からすると、それはバビロニアでは「吉(善)」を媒介するものとして知られるのみで、どれだけの人がこれを知っていたか、われわれにはわからない。アルテミドロスはパルクスについてミュンドスのアポロニウスにつづいて語っているが、これはおそらくパリオンのことで、セネカはI 4およびVII 13につづいて諸天体および彗星について記しているが、おそらくエピクロス派の人だろう。カウフマンが想像しているように、セネカが彼のことをポセイドニオスから知ったとすると、へレニスム期の人ということになる。[369]そしてパルクスの知見を与える文書に述べられているエフェスEphesについてもなにも知られていない。プロクロスには、こうした「バルバリの天球」の表題のひとつとして『クラトスKuratos』が挙げられている。ルドルフ・シェーネルはこれがクラノスのことではないかと疑っているが、おそらくこちらが正しいのだろう。コイラノスあるいはキュラノスつまり「娘」は、最近メリーによって校訂版が出された『キュラニデス』あるいは『ビブロイ・キュラニデス』はペルシャ王の伝承のこととされている。いずれにせよ、現在に伝わる『キュラニデス』はその完投でヘルメス・トリスメギストスに言及しており、シュンケロスはこの名をヘルメスのゲニカGenika(類、一族?)とともに、百の星辰の25周期からなる大年、つまりエジプトのひとつの教説の典拠として二度引いている。しかしここにはバビロニアの知識も算入される。メリーはそこにバビロンの大塔の記述を見出したものと考えている。『キュラニデス』はこうした折衷主義的な特徴をもつ著作で、古代世界の頽廃の最後の時期に横溢していた混沌を示す書である。『キュラノス』と表題された書はpater ton logon(ことばの父)とも解釈されたもので、おそらくこれと同類の書であったものとみえる。これはエジプト、バビロニア、それにおそらくギリシャのものを加えた雑纂書で、現存するテウクロスの句節と同類のものであったと想像される。もちろんこれをバビロンの天球にかかわるギリシャ側からの知見を伝える古典拠のひとつとみなすことはできない。これはその根がいまだ隠された樹木の後代の果実である。

マニリウスとフィルミクス 1

XIV. ニギディウスに先行するギリシャ人たちとその後の展開。マニリウスとフィルミクス

ニギディウスにとってと同様、他のバルバリの天球にかかわる論議からしても、これが占星術的に利用されていたことは明白である。それゆえ、占星術写本群に載せられた題材が何度も繰り返し用いられてきたことにも蓋然性がない訳ではなかった。ニギディウスによれば、バルバリの天球の歴史(ものがたり)においてすでにマニリウスとフィルミクスを一翼に、テウクロス、アンティオコス、ヴァレンス、レトリウスその他を他翼に幾つか確定的な議論がなされて来たことが分かるものの、へレニスム期に再興されるエジプトやバビロニアの星座の名についての知見はほとんど残されていない。わたしがこれまでに見つけたものを、本章のはじめに掲げ、つづいてマニリウスVおよびフィルミクスVIIIの検討をしてみることにする。
1.ニギディウスの書は、異邦の星座群に関するギリシャ語の伝承[364]が存したことを想定させるものである。また彼自身が「バルバリの天球」という語彙をつくったわけではなく、これはギリシャ人たちから採用されたものだった。ギリシャ語著作家たちの幾つかの句節からこれは確言できることである。これらがニギディウスよりもかなり後代の者たちによるものであったにしても。まず、もっとも明快で簡潔なプロクロスの『国家註解』からはじめよう(rempubl, Plat., II 318,11 Kroll)`。(引用)
この一節から二つのことが分かる。一つ目は、バルバリの天球という名辞はこれが示唆するように異邦の民、それも特にエジプトやカルデアの民の天球の記述を意味していること。二つ目は、Sphairai barbarikaiの事例としてプロクロスが眼前にしていた文書には星辰や獣帯星座だけでなく、これらの影響のもとに生まれた人の生に及ぼす影響についても録されていたこと。『クラトスKuratos』の書−この謎語については以下で触れる−はわれわれが知るテウクロスPの文書によく似たものであったに違いない。ここでkata tas moiras tou zodiakouは新生児の宿命(籤)を決定するものであった。プロクロスのまた別の一節はわたしが検討した文書群以前にこの宿命(籤)に関して用いられたものであったのかもしれないII 56, 15 Kr.(引用)
[365]この結論については、summesouranounta, antimesouranounta,sugkataduontaがパラナテロンタに付加された理由を明かすために、すでに引いた(VI章)。先の句節同様、ここでカルデアやエジプトの天球が占星術の典拠として語られている。これらの天球がギリシャの天球とは異なった図像をもつものであることを彼らは知っていた。文法学者アキレウス(三世紀)の『序論(エイサゴゲー)』は断片しか残されていないが、その末尾でギリシャの天球と異邦の天球の相違について触れられている−そこでスパイラsphairaという語も用いられている— (ed. Maass, Comment. in Arat. rell. p. 75, 7)(引用)
アキレウスの論考あるいはヨハンネス・フィロポノスが用いたものと同じ典拠には、ただカルデアとエジプトの天球をバルバリ一般の観念としてみせるかどうかの相違しかない(de opif mundi VII 14 p. 307, 17 Reichardt)(引用)
[366]
アリストテレス『形而上学』1093a13ではすでにピタゴラス派の数論の象徴主義に対する直接的な反論が述べられており、 そこに名辞の相違ばかりか、その表現形象の相違についても明快に語られていた。「母音は七つ(へプタ)あり、音階は七本の弦からであり、すばる星座(プレアデス)の星は七つあり、乳歯は七歳の時に脱落し、そしてテバイに向かった将たちは七人であった。こうした場合、この七(へプタ)という数がなにかこうした本性のものであるがゆえに、あの将たちは七人になったのであり、すばる星座には七つの星があるのであるというのか。あるいはむしろ、あの将たちの場合は、そこに七つの門があったがゆえにか、あるいはなにか或る他の原因によってそうであり、すばる星座の場合はその星を七つあるとわれわれが数えるがゆえにであろう(現に熊星座のはわれわれはこれを十二あるとみており、他の人々はどちらの星座の星をももっと数多くあるとみている)」。アフロディシアスのアレクサンデルはこの一節を註釈して(p. 832; 33 Hayduck) 、「われわれはプレアデスをこう算え、七つの星辰をもってこれを星座群の中に配し、おおぐま座は十二の星辰からなるものとする。一方カルデア人たちはこれらプレアデスにもおおぐまにも他の星辰を加える。プレアデスが七という数によって七であり、おおぐまが十二という数によって十二であるなら、誰もがこれらをギリシャ人たちのように算えたことだろう。しかしギリシャ人以外はこのようには算えず、カルデア人たちバビロニア人たちはこれとは違った星座配置を案出した」。シリアノスもこの『形而上学』の同じ一節を註して言う。(ed. Kroll, Comm. in Arist. gr. VI 1 p. 191, 19)(引用)
マルティンが論じているように、シリアノスはアレクサンデルを用いているが、そこにエジプトの天球との対照をつけ加えている。これらの句節に関してアキレウスのことばを勘案するなら、[367]彼は「カルデア」の天球にはおおぐまはなかったと言明している。ここで明らかなのは、アレクサンデルの場合もシリアノスの場合もギリシャ人とカルデア人が或る星座を同じ名で呼んでいたとは考えておらず、諸星辰の大部分の同一性からだけ、これらを彼らはそれぞれの星座の中に据えてみせ、異なった名を与えたと考えていたことは明らかである。
以上がバルバリの天球に関して、ギリシャ語著作からこれまでにわたしが得た知見のすべてである。ここでは一度ならず想起したヘロンの一節については何も言い得ない。というのも、いまのところこうした文芸の亡霊を放逐することができずにいるから。この天球(スパイライ)の占星術的な利用目的については、引用した句節の数々からも、獣帯の十二星座の度数あるいはデカンに準じたパラナテロンタの配置に明瞭に看てとることができる。プロクロスの文書もその他のものも「バルバリの天球(スパイライ・バルバリカイ)」は同じ内容からなっている。わたしが監修したものの目的と配列から見てもこれらは−すくなくとも非ギリシャの星座群に関して−バルバリの天球の観念のもとにある。

ニギディウスのギリシャの天球とバルバリの天球 6

5.すでに論じたように、ニギディウスのギリシャの天球とバルバリの天球の断片群には一切占星術的への援用の跡は認められない。にもかかわらず、一つならざる道理をもって占星術にかかわる議論がなされていたと想定される。ニギディウスは占星術その他のことどもに精通しており、naturae involutae videntur(錯雑して自然本性を洞察していた)。彼は同時代人たちからも後続世代からも尊敬されていた。カッシウス・ディオン45,1によれば、彼はオクタヴィアヌスが世界の支配者になるだろうとその誕生時占いで予言したという。arista gar ton kath' eauton ten te tou polou diakosmesin kai tas ton asteron diaphoras, osa te kath' eautos gignomenoi kai osa summignuntes allelois en te tais omiliais kai en tais diastasesin apotelousi, diegno.(彼は天球の飾り、諸星辰の差異あるいはそのものに通暁し、それらの合や間隔について(自らの議論にそれらを混ぜて)巧みに語り、それらの大きさについても識っていた。This man could distinguish most accurately of his contemporaries the order of the firmament and the differences between the stars, what they accomplish when by themselves and when together, by their conjunctions and by their intervals, and for this reason had incurred the charge of practising some forbidden art.)〔361,n.1;つまり彼は諸星座に通暁し、個々の星辰の大きさやクラ―シスについても熟知していた(cf.Ptol., Tetrab. I.9)。またアポテレスマータについても理解していた。アポテレインとは占星術を意味する特殊表現(専門用語)である。ディアコスメーシスとはおそらくエラトステネスの著作の表題の書き出し。これは羅訳でのみ伝わる〕[362]人々は彼が真の占星術師であるかのように彼に相談したようにみえるが、その党派的な信心をではなく政治家としてのあり方を批判する者も多くあった。それゆえ彼が意図的にギリシャ語典拠群についてマニリウスのギリシャとバルバリの天球にかかわる占星術論考以外に示すことを避けたものかどうか想定することは困難である。ひょっとすると彼の著作の遺失した部分に、占星術体系の詳細な記述が展開されていたのかもしれないのだから。新しい文書が発見されなければこれが解明されることはあり得ない。すでに述べたように、現存する断片群からは何も分からない。しかしそれの幾許かは内戦の詩人のうちに見出すことができるかもしれない。ルカヌスはカエサルがルビコン川を渡った後に天にあらわれた恐るべきしるしについて、ニギディウスの解釈を載せている(Pharsal. I 639sqq.):
At Figulus, cui cura deos secretaque caeli
(640) nosse fuit, quem non stellarum Aegyptia Memphis
aequaret visu numerisque moventibus astra, 
aut hic errat, ait, nulla cum lege per aevom 
mundus et incerto discurrunt sidera motu: 
aut, si fata movent, urbi generique paratur 
(645) humano matura lues.
(フィグルスは神々および諸天の秘密の研鑽に努めた者で、メンフィスのエジプト人でも諸星辰の観察および諸星辰を規則づけるその数的比率の知識において彼に比肩する者はなかった。彼は言った。「この世界は何の法則(掟)もなしに永遠にさまよいつづけ、諸星辰は不規則な運動をつづける。宿命たち(ファタ)がこれらを動かしているとするなら、町(ローマ)と人とは早々に崩壊するだろう。)
ニギディウスによれば、すべての星座が厳しい死を告げている。土星がその宿である宝瓶宮にあるなら、一般的なカパクルスモスkapaklusmos(カタプラスマ?)は正しいだろう。太陽がその宿である獅子宮にあるなら、エクプローシekpurosiは切迫している。ところがここで彼の家は戦いの徽章である天蠍宮が司っている。一方、木星は失墜deiectio(昂揚の逆位)にあり、金星は無能で、水星は留(motuque celer Cyllenius haeret)。惑星の配置はこのようになっている[363]。つづいて獣帯星座群を見てみるに、それらはその軌道を外れ、その輝きを失っているようにみえる。超え難いオリオンの光輝こそが宿命と化すとするなら。
(665) Ensiferi nimium fulget latus Orionis?
(剣をもつオリオンの傍らで過剰に輝きを放つなら)
第三に、そこには獣帯星座のパラナテロンタのひとつ、オリオン・クシフェフォロスxiphephoros あるいはクシフェロスxipheresがある。これはテウクロスによる呼称でもある。後続詩節では、
imminet armorum rabies ferrique potestas
confundet ius omne manu
(軍隊の熱狂と鉄の権力があらゆる正義(権力)を破壊するだろう)
オリオンの意味をPL(strategon, stratelaten, stratioten)に尋ねてみよう。ニギディウスの著作を知っていたこの造詣深い詩人がこのように語るところは信頼できるだろう。諸惑星および獣帯を一緒にした星辰天の威嚇の想像(図像)を無視するのでなければ、これが単なる詩的修辞的文飾であるとみることは難しい。ルカノスの詩作から、おそらくニギディウスのギリシャの天球およびバルバリの天球で展開されていた占星術的解釈を推測することができるだろう。それがテウクロスの文書によるものと類同なものであったと。

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yoohashi4

六年目、ということでまたプロフィル欄を更新しようと思ったのですが、もうその欄に触れられなくなってしまっていました。 さて、これからどこへ行くのか。 あと探しものといえば、Sanioris Medicinae。
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