長野は日本のヘソなのか?

羊男の読書日乗

「子どもの王様」殊能 将之

子どもの王様 (講談社ノベルス) 新書 – 2012/8/7
殊能 将之 (著)
子どもの王様 (講談社文庫)
殊能将之
講談社
2016-02-12


子ども向けの企画により書かれた、殊能センセー最後の作品。
主人公の小学生の男子の視点から描写された学校や団地、そして登場人物たちがとてもリアルで、子ども向けではあるが、大人でも十分に読み込める。
おそらく子どもと大人ではこの物語の感想はだいぶ違うだろう。
殊能センセーが団地に住んでいたことがあるのは知らなかったが、どこか薄暗い団地の光景は私も住んだことのある団地ととてもよく似ていた。
そしてラストは非常に考えさせられる結末で、シングルマザーの家庭の現実や、いまのコロナ下のDVをいやでも連想してしまう。
「王様」という象徴は、庇護や守護でも残酷や横暴でもあり、常に両義的な存在である。
そんな世界の象徴に対して、殊能センセーがこの少年に託したものはなんなのだろう。
この閉塞的な社会に出て行く子供たちへのメッセージというより、著者が遠い少年時代に持っていた何かの投影なのだろうか。
作品が作品のすべてであり、作者には興味のなかった殊能センセーだから、そんな無意識的な作為ではないと思う。
遺作は物語を楽しむというより、とても考えさせられる物語りだった。

「未発表短篇集」殊能将之

「未発表短篇集」殊能将之

未発表短篇「犬がこわい」「鬼ごっこ」「精霊もどし」にデビュー作『ハサミ男』刊行に関して友人宛てに綴った「ハサミ男の秘密の日記」を収録。

「犬がこわい」
犬嫌いの被害者と殺人者の視界的な転回。
殊能将之らしい短篇ではあるが、犯罪小説として怖いほどの描写。
ホラー小説的なペーソスもまじえている。

「鬼ごっこ」
漫画的というか、初期の永井豪の疾走感を伴った、なんというか、狂気的な作品。
殺戮を殺戮と捉えぬ登場人物たちの正体を説明しないあたりが、殊能将之らしいというか、なんというか。

「精霊もどし」
ストーリー的には正統な英国のゴーストストーリー的な短篇。
日本の郊外や会社という特殊さを舞台に、正気と狂気の狭間を幽霊を通して描いているが、
それさえも、更に転回させようとする殊能将之らしいレトリックが続く。
これが三作のなかで、一番完成度が高いと思う。

「ハサミ男の秘密の日記」
デビュー当時の様子を友人に書き送った日記。
「Mercy Snow」を読んでいた頃を思い出す。また、アーカイブで読みたくなった。


「キラキラコウモリ」殊能将之

「キラキラコウモリ」殊能将之
「キラキラコウモリ」は、アンソロジー集「9の扉」に収録された短編。
リレー小説で、二人目の法月綸太郎さんが出したお題「コウモリ」を受けての約20ページの短編小説。
殊能将之さんの最後の作品らしい。
短篇といっても、その物語の舞台はくっきりしていて、でも重要な行動は書かれず、
主役の男女2人の人物像やその変な会話がこの短篇の面白さだと思う。
殊能将之さん目当てなので、ほかの作品は読んでいないけど、たぶんその中にあって、そんなに浮いてないと思う。
殊能将之さんらしさが適度に抑えられているような気がするので。
まあしかし、「不思議の国のアリス」に出てくるキラキラコウモリを「きらきら星」で歌わせるのには、笑ってしまう。

キラキラコウモリよ
いったいなにを狙っているの?

Twinkle,Twinkle,little bat.
How I wonder what you're at.

「巨匠とマルガリータ」

モスクワに出現した悪魔の一味が引き起こす不可解な事件の数々。」
クレムリンに拝跪している悪魔の一味が戦争を引き起こしている。
悪霊であった共産主義、あるいは独裁政権よりもたちが悪い。
悪魔たちは何者も恐れず、原発でさえ、攻撃する。
この時間にもたくさんのウクライナの人々が戦火にあり、負傷し、死んでいっている。
こんな惨憺たることが起きているなんて、信じられない。
この小説のように悪魔たちの行動は不可解であり、暴虐の際限がない。
悪魔たちに汚染された愚かな人間たちの世界。


「闇よ落ちるなかれ 」を読んでいる

「闇よ落ちるなかれ」L・スプレイグ・ディ・キャンプ / 岡部宏之

古代ローマの終末期にタイム・スリップしたアメリカ人がその現代科学知識を駆使しつつ繰り広げる歴史改変もの。すごくおもしろい。
ディ・キャンプはコナン系の人だと思っていたので、こんな歴史ものを書いていたとは知らなかった。
絶版になっているとは信じられない。
ヤマザキ・マリにせまる面白さと意外な展開、そして博学な歴史知識に裏打ちされた舞台構成。
いまでも、いきなり異世界に運ばれてうんぬんの小説、マンガは全盛だ。
その先駆けなので、料理とかゲームとか、いまのある特殊なテリトリー知識を共有するタイムスリップではなく、やはり歴史そのものが神の領域といった絵巻ものに通ずるものがある。
いやはや、まだまだ面白い小説はいっぱいある。

大雪ばかり

今年の冬は雪ばかり。というか大雪ばかり。
腰の痛みが癒える間もなく、次の雪が積もっていく。
ばかばかしくて、忙しくて、コロナどころではない。
というかこんな時期にコロナになってしまったら、日乗と家庭が成り立たない。
人間というのは、たいへんなことが目の前にあると、もっとたいへんなことなど、後回しにしてしまう、結構な仕組みとなっているので、いいのかわるいのか、とにかく大雪対策を毎日の仕事として考えて対応していく。いやはや。
それにしても疲れたなあ。

『巨匠とマルガリータ』ブルガーコフ


モスクワに出現した悪魔の一味が引き起こす不可解な事件の数々。
焼けつくほどの異常な太陽に照らされた春のモスクワに、悪魔ヴォランドの一味が降臨し、作家協会議長ベルリオーズは彼の予告通りに首を切断される。やがて、町のアパートに棲みついた悪魔の面々は、不可思議な力を発揮してモスクワ中を恐怖に陥れていく。黒魔術のショー、しゃべる猫、偽のルーブル紙幣、裸の魔女、悪魔の大舞踏会。4日間の混乱ののち、多くの痕跡は炎に呑みこまれ、そして灰の中から〈巨匠〉の物語が奇跡のように蘇る……。SF、ミステリ、コミック、演劇、さまざまなジャンルの魅力が混淆するシュールでリアルな大長編。ローリング・ストーンズ「悪魔を憐れむ歌」にインスピレーションを与え、20世紀最高のロシア語文学と評される究極の奇想小説」

ブルガーコフの代表作。1928年に書き始め、ソビエト政府の弾圧の時代に1930年に原稿を燃やした後に、記憶によってまた書き直したという。
このエピソードから推測されるような物語の展開もみられる。
とにかく冗長な小説で、はじめのうちはなにがなんだかわからないが、その混沌とした魅力から読み続けないといけないようなオーラにあふれている。
一体全体もの小説はなんなのか、よくわからないが、その印象から呼び出されるのは、ヘンリー・ダーガーだ。
このアメリカの引きこもりのような画家が、誰に見せることもなく、1万5000ページもの作品を描き続けたことに近い小説なのではないか。
ピラトの伝記を書いた巨匠とその恋人マルガリータの悪魔と契約したかのような「ファウスト」的な物語展開は、あまりにも紆余曲折しすぎで、ぐちゃぐちゃな展開な小説だ。
終わり近くに、話を大団円的に収束させていくが、それさえも冗長で、話の筋があちこちに飛びすぎていて、よくつかめない。
この苦渋さが共産政府を批判しているようでもないのだが、当時のソ連文壇に認められなかったのだろうと思う。
どのような評価を下すかは、あまりにも個人的な思惟では無理がありすぎる。
初期のピンチョンのような困難さと似ている。
ソ連アウトサイダーな小説として、どのように評価されているのか、知りたいところではあるけれど、ブルガーコフに関する日本語情報はかなり少ない。
まあ、この大部な小説を解読するのは半端なことではないし、まずもってなにが魅力で読み進めてしまうのか。
やはり「ファウスト」的な魅力なのだが、その外れっぷりが半端でないところをどのように解読すればよいのか。
いやはや、面白いけど、なんだかごちゃごちゃし過ぎて、カオスなまま読み終えたという読後感しか残っていないわな。

『一私小説書きの日乗』西村賢太

『一私小説書きの日乗』(文藝春秋2013年2月、2014年 角川文庫)

西村賢太が2月5日に死去。54歳。タクシー乗車中に意識を失ったらしい。

この人の小説は読んだことはないが、「本の雑誌」に連載していた日乗はなぜか面白くて読んでいた。ただの大酒飲みなのだが、その独語によくわからない魅力がある。

この一番最初であろう、文藝春秋版もその悪口やら行動と、宝焼酎とそのつまみを並べている光景が楽しかった。

合掌。

「邪神の神」高木彬光

「邪神の神」高木彬光を読む。

1956年に発表したクトゥルー神話もの。

ラブクラフトがはじめて訳されたのが1955年なので、日本ではじめてのクトゥルー神話作品のようだ。

名探偵・神津恭介が邪教の像をめぐって、推理劇を繰り広げる。

ホラーではあるが、変格ものに近い。

神津恭介は昔、「成吉思汗の秘密」を読んで以来なので懐かしい。

高木彬光というか、神津恭介ものをもう少し読みたくなった。


「吸血鬼」江戸川乱歩

明智小五郎もの。とってもギミック。
殺人事件の犯人の暗い心情がとても昭和らしい。
明智の恋人、文代と小林少年も活躍するので、ちょっとした活劇的な流れもある。
この小説は1931年(昭和6年)に書かれたらしいけど、その面白さは色あせない。
まあ読者を選ぶのだとは思うけれど、江戸川乱歩の永遠さは不思議なものだと思う。

しかし、何故、吸血鬼というタイトルなのか、いまひとつぴんとこない。
かなり念入りに吸血鬼という存在をオブラートにくるんでいる。
直截的な手法をとらないところが江戸川乱歩の魅力なんだろう。
まあ自分には吸血鬼のように冷酷な犯人だから、という説明よりも、未亡人であるヒロインの倭文子の描き方の方が女吸血鬼のように酷薄に感じた。


吸血鬼 (江戸川乱歩文庫)
江戸川乱歩
春陽堂書店
2019-03-01


「過去となつたアイルランド文学」片山廣子

いま私が考へるのは、ジヨイスがその沢山の作品をまだ一つも書かず、古詩の訳など試みてゐた時分、シングがまだ一つの戯曲も書かず、アラン群島の一つの島に波をながめて暮してゐた時分、グレゴリイが自分の領内の農民の家々をたづねて古い民謡や英雄の伝説を拾ひあつめてゐた時分、先輩イエーツがやうやく「ウシインのさすらひ」の詩を出版した時分、つまりかれら天才作家たちの夢がほのぼのと熱して来たころの希望時代のことを考へる。

『アシーンの放浪』The Wanderings of Oisin and Other Poems (1889)
ウィリアム・バトラー・イェイツ

「ダンセニーの脚本及短篇」片山廣子

Fifty-one Tales はことごとく短い物ながら、すべてが草の露のように透明な涼しい智とユーモアに光っている。誰にでも愛されるのはこの本であろうと思う。

底本:「時事新報」時事新報社
   1921(大正10)年6月8日〜10日 
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