January 29, 2006

安藤裕子「Merry Andrew」



久しぶりに新譜のCDを買いました。CCCDだったら買わなかったけど。
安藤裕子のニューアルバム。携帯電話のCM曲「寂しがりやの言葉達」や、日本酒のCM曲「のうぜんかつら(リプライズ)」などを含む全14曲。通して聴いてみてものすごくバランスのよさを感じた。ポップになりすぎず、ソウルに偏りすぎず。彼女の声がうまくそのバランスをとってなおかつ懐の広さを感じさせる、そんな一枚。収録曲が多いのも貧乏根性な自分には丁度良い。(苦笑)

この一枚で安藤裕子の安藤裕子たる「立ち位置」とうか、「彼女だけの世界観」を獲得したな、
と思わせる一枚。

  

Posted by yuichi5310 at 23:43Comments(3)TrackBack(0)音楽 

January 26, 2006

DVD『雲のむこう、約束の場所』



買ったはいいが、放置していて一度も見ていなかった「雲のむこう、約束の場所」を見た。あらすじなどについてはこちらを一読して欲しい。

何年か、何十年か前、僕らと彼女が信じていたたった一つの世界。その世界の中で、僕らはやれるんだって、無根拠で、だけど自信に満ちたころがあった。この映像の中だけでなく、誰にでも。けれどその世界は否応なく彼らの成長とともに変化を始め、雲のむこうに描いていた夢は消え、あの日約束した場所も消えて、彼らはそれぞれの道を歩むことになり、離れ離れになる。

そうして過ぎた3年後。

彼らは、あのころの夢が打ち壊されてしまった絶望を抱えて、大人になろうとする。そして彼らは、3年前に諦めた約束を果たすため、再会する・・・。

新海誠監督の作品は、まず、話を追うよりも、ディテールを見て欲しい。風になびく草、初夏の湖、廃墟、あの日に忘れてきた「故郷」「田舎」の風景・・・。
そんなものを追っているうちに、話の流れがわかってくるのではないだろうか。

目覚めない原因不明の眠りを続けるヒロインは、
「でも、さびしくてさびしくて、不安で、わたしだけが世界のいろんな暖かさや優しさや楽しさから、遠く遠く離れていく。そんな気がする」と、孤独を恐れる。

それに対し少年は、「強くない自分がちゃんと強くなりたい。」と思い、「そこにある日常に受け入れられるだけの強さを欲しいと願う気持ちと自分の弱さと心細さ」を自覚し、それでも「誰か一人にでも受け入れてもらえれば自分は強くなれるのにと思う気持ちと、 受け入れてもらえるようになるためには自分が強くならなければダメなんだ、と思う気持ち」を感じ、「何もかも、今度こそ取り戻すんだ」と決意する。

そして彼女を夢から目覚めさせるため、彼らはある計画を実行する・・・。

台詞とカットのシンクロしていく様子とか、フラッシュバックの記憶とか、新海監督が見せたいものは、言葉やSFではないのだと思う。その中で展開されていく少年の成長、失っていくもの、そういった一種ノスタルジーを感じさせるものへの思いうを、本当に伝えたいのだと思う。

一度だけではなく、日を置いて二度三度と観かえして見て欲しい。どんどんと、作品の色に、ゆったりと浸りながら見て欲しい作品。  

Posted by yuichi5310 at 02:36Comments(0)TrackBack(0)

January 19, 2006

俳句。

ハイクブログというものに参加しました。
サイドバーに、最新の投句をリンクさせるよう設定をしてあります。
まだひとつだけですが、日々折々の想いをたくさん俳句にできればと思います。  

Posted by yuichi5310 at 01:20Comments(3)TrackBack(0)本・雑誌 

January 17, 2006

内田樹、春日 武彦『健全な肉体に狂気は宿る―生きづらさの正体』



つまりは、ディテールにこだわって自己決定を絶対とする社会が煽ってきた「三十代女性」「負け犬」「ひきこもり」が盲信し追従させられてきた「自分探し」「自己実現」の否定、と言うとなんだか流行りのメッタ斬りみたいだけど、「そんなのとっとと諦めてのんべんだらりと時代の変化を待ちましょうや」っていう内容ではない。「自己」を今までとは視点を変えて眺めてみて、この社会は何でこんなにも「生きづらい」と思う人が多いのかを考えて、何が悪いの、どう変えていけばいいのかを語った一冊だ。

両氏が提唱しているのは「自分の使命を持つ」「自分だけの秘密を持つ」「身体感覚を取り戻す」ということ。自分なりに描いたビジョンを信じて、健康でいることで、そこではじめて自分の力が試されるし、未来の自分を楽しめることができる。人間は本来、というかいまでも「謎」の残る生き物だ。つまり「自分が自分のことを理解する」とか「本当の自分を見つける」なんてことは永久にできるわけがない。だって「未来の自分」なんて不測のものでしかないんだから。それよりも今できることをやって、自分に何ができるのかを考えて、「からだ」と「ことば」を信じて行動する。そして、社会が自分に向かって「開いていく」のを待つ。つまりはそういうことなのだろう、と思う。

確かに本書の述べるとおり、「自己」というのは単独では絶対に存在し得ないものであって、人間の社会的ネットワークの中でこそ決定されるものである。ひょっとすると、今の時代で「自己」と騒いでいる人は「個人」と「自己」を混同して考えてはしないだろうか。個人を中心的に考えすぎ、「自分は世の中のためになにができるか」という謙虚な問いを忘れてはいないか。これらが今の社会で「生きづらい」と思わせる人を多く生み出しているのではないだろうか。「個人」というのはただの「単位」であり、社会の中では無価値なものである。今こそ「自己」を問い直す時代なのだと、そう思う。  

Posted by yuichi5310 at 17:24Comments(0)TrackBack(0)本・雑誌 

January 12, 2006

ニュースにひとこと

松下、石油温風機事故で6千万カ所にはがき

どんどん恐ろしいことになっている松下のニュース。
この費用って50億じゃ下らないよなー。

縦並び社会・格差の現場から:時給は288円
縦並び社会・格差の現場から:やり直すために

久々にいい特集記事だったなという印象。
上の記事についてですが、コールセンターで働いて身体壊した人間から一言。
今だと地方だと一番給料がいいのは正社員契約社員問わずコールセンターという実情の中で、ここよりいい条件で働けないから仕方なく働いて、身体が壊れてもしがみつくということがある。けれどもこのライブドアのように、コールセンター自体をもっと賃金の安い海外に持って行って日本人をそこでこき使うという方向にシフトしつつある。逆に中国の現地スタッフを雇用して日本の顧客向けのコールセンターで働かせるという事例もどこかで聞いたことがあるので、コールセンターがどんどん地方から海外へと移転してしまい地方で働く人はある日勤務先を失って生活のお先真っ暗、という事態も十分考えられる。秋田や札幌のようにコールセンターを積極的に誘致して助成金まで出している地域だと、被害はもっと甚大になり得る。

>記者は加藤さんに「使い捨てになるとは思いませんか」と尋ねた。
>「はい。それでもいいんです」

このコメント、どんな表情で答えたんだろうか。


下の「やり直すために」の記事も身につまされる。自分もなんの取り柄もないまま三十路目前まで来てしまったわけで、30越えたら「ツブシがきかない」よなと思う。それでもあがきながら働いていくしかないわけで、「もう逃げたくない」と思うのも自分だって同じだ。社会には逃げる場所なんてない。いろんなものを奪われて追い詰められるだけなんだろうな、と思うよ。社会の底辺に近い所にいる自分が言えた身分でもないけどね。  

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January 10, 2006

こうの史代『夕凪の街 桜の国』



このマンガで描かれているのは、「ヒロシマ」の話。
だけど今までの「ヒロシマ」を描いたものとは違う、「非戦」「反戦」といったものとは違う、新しい平和への思いが湧き上がる名作だ。

表題作「夕凪の街」は原爆から10年後、バラックに暮らす親子の話。主人公の平野皆実は原爆で父と姉二人を亡くし、母と二人でバラックに住んでいる。幼い頃水戸に疎開した弟・旭がいるが、彼は水戸でそのまま養子となった。広島の日常と会社の同僚との恋が緩やかに描かれる中でフラッシュバックする原爆の記憶、被爆者への差別、悲しみ、憤りが穏やかなタッチでありながら、すぐそこに迫ってくる。

そしてその後の話は続く「桜の国(一)・(二)」へと受け継がれていく。時代が変わっても変わることのない原爆症の恐怖と、被爆者差別。新しい時代の「戦争の記憶」を描いている。この作品を通じてのレビューはこちらこちらに詳しいので、一度読んでみて欲しい。

何度でも何度でも読み返すたびに、新しい発見と、新しい感情が生まれてくる。
それほどまでにマンガとして面白く、すばらしい作品だ。  

Posted by yuichi5310 at 00:24Comments(0)TrackBack(0)本・雑誌 

January 09, 2006

雪の降る街を

函館線が一時不通 降雪で交通機関に影響

旭川に帰っていた3日間、札幌はずっと雪が降り続けていたらしい。自宅に帰るために乗ったタクシーの運転手が言っていた。確かに、いつもなら4車線あるはずの幹線道路を通ると1.5車線くらいしかない。その脇に積み上げられた雪の量も相当な高さにまでなっている。小樽と札幌を結ぶ高速道路はほとんど通行止めの状態が続いているともいう。そんな話をしているうちに、タクシーのフロントグラス越しに見える手稲山はにわかに霞み出し、今にも雪をこっちに降らせそうな勢いだ。たまんねえやってことでそそくさと家に逃げ込んだ。

実家で見ていたテレビで札幌市の除雪・排雪の問題について報道されていた。除雪する機械はあってもそれを運搬するダンプが足りない。保有している業者が、経営状況を改善するためにやむなく減らしているのだと言う。また、市が除雪にかける予算も破綻寸前の財政状況では大幅に改善は見込めないため、手が回らないところもある、というのが実情らしい。

そこでひとつ考えた。
「登録制の公共除雪アルバイト」制度というのはどうか。
手の回らない、もしくは機械の入りにくい地区において人力で除雪・排雪を行う制度だ。
一人暮らしの高齢者や、地域住民だけでは手に負えない雪が降ったときのためにまず除雪して欲しい市民は雪かき依頼の登録をする。そして、実際に雪かきする側(つまり「労働者」)は、登録型の派遣サービスを活用して依頼された地域に行き、除雪作業を行い賃金を得る。賃金の支出源は依頼側の登録料のほかに、現在の事業を民間化して得られるコストダウンの中から賄えばよい。除雪派遣サービスも、もちろん民間の人材派遣業者が実際の業務を請け負う。派遣会社の多い札幌だからこの事業ができる可能性はある。ボランティアという概念ではなく、ビジネスという概念で事業を展開し、ひいては札幌を中心とした北海道の市民収入が増加し、それは消費の拡大や失業者率の低下にも繋がるのではないか。

財政がなければどんどんビジネスとして民間を活用する−−そんな大胆に変革していく気持ちがなければ、未来の札幌市、北海道は成り立てないのではないか。  

Posted by yuichi5310 at 00:46Comments(0)TrackBack(0)雑記 

January 08, 2006

ことしの初詣

3が日も過ぎてさすがにそんなに混んでいないだろう、ということで先日北海道神宮まで初詣に行ってきた。家からだと徒歩で20分ほどの距離で、散歩するには丁度いい。天気も無風快晴と心地よい。

手水を済ませて境内に入ると、以外に人が多かった。冬休みの小学生、部活帰りの高校生、子供たちを連れた家族、カップル、会社で連れ立って来た人々、などなど。
その人ごみの中に僕はぽつんと交わって、空く順番を待つ。前にはおばあさんが立っている。そろそろだな、と僕は500円玉を取り出し、どう祈ろうかと思いをよぎらせていた。おばあさんがゆっくりと礼をするのが見えた。
考えがまとまって前を見たとき、まだおばあさんは手を合わせて何事かをつぶやいていた。時間にして3分か5分ほども経っていただろうか。早くお祈りを済ませてしまった人達はおばあさんを避けて後ろに下がり、おみくじや絵馬など買いに行くのか社務所へと向かっていった。僕が一通りその姿を見てから再び拝殿に向き直ると、ちょうどおばあさんが祈り終わったようだった。そろそろとした足取りで去ってゆく。
僕は再び正面を向き、静かに周囲に目配せをして、一歩前に出て、お賽銭を投げ込み、ふうっ、とひとつ深呼吸をしてから、ゆっくりと、二礼、二拍手、静かに手を合わせ、一礼しつつ祈る。ぼくもあのおばあさんには負けるけど、祈る時間は長いほうだ。何かを願うのではなく、向こう側にいる自分を想像して自己と対話し、煩悩にはちきれんばかりのこの頭を平明にする、それが僕にとってのお参りというものだ。
長い祈りでも対話でもある時間が終わり、僕はゆっくりと拝殿を降り、おみくじを買う。かじかむ手で開くと、生まれて始めての「大吉」の文字が、そこにあった。

病はどうだ。「必ず治る 信神せよ」。
夢はどうだ。「叶う 地道に努力せよ」。

ああ、ありがとう、神様。

僕はそのおみくじを木に結ぶと、もう一度拝殿に向かい、賽銭を再び投げ入れ、さっきよりもぎゅっと強く手を合わせて「大吉運、ありがとうございます」とお礼の気持ちを祈った。「これからも、私をお助けくださいませ。お支えくださいませ」と、そう祈ろうとも思わぬうちに、みずから呟きが漏れる。
お支えください、お支えください、お支えください・・・。と、僕は強く強く願った。

私をお助けください。
倒れないようお支えください。
倒れても立ち上がる勇気を、お助けください。
前に進む勇気を生む心の主になれるよう、私の心をお支えください。

強く強く強く念じて、拝殿を去る。
振り返った鳥居までの道のりは、さっきまであんなに蒼々としていたのに、
冬の夕暮れが茜色の帯を早くも空と地の間に解きほどかれていた。  

Posted by yuichi5310 at 00:17Comments(0)TrackBack(0)雑記 

January 07, 2006

帰省しています

連休明けまで特に予定もなかったので、旭川の実家に帰ってきた。
日曜日の朝には帰札予定だけど。

旭川まで特急で一時間半、そこから富良野線に乗り換えて30分弱。
待合室以外になにもない、美瑛に程近い駅に降り立つ。ここまでくると旭川の土地特有のきんっ、と澄まされた空気が頬に当たる。一瞬で、列車の暖房にまどろんでいた僕の意識は覚醒させられる。待合室の外には見覚えのある車が一台。
父が迎えに来てくれていた。

家に着くと真っ先に僕を迎えてくれたのは、犬だった。
シーズー犬の「ボギー」はきゃうんっ、と短く吼えて尻尾をぶんぶん振り回している。それに応えて僕もぎゅっと抱いて頭を撫でてやる。こいつは本当にかわいい奴だ。
ええ、親バカといわれても仕方ない。

自家製の飯寿司をつまみに近況報告。病状についても報告。
こればっかりは報告しかできない。

親には申し訳ないと思っている。
巻き込んだ周囲の方々にも申し訳ないと思っている。
でもそれを受け止めて、許して、だまして、やっていくしかないんだろうなあ。
いつかは恩返ししたいと、思ってるんだけどね。
(貴様の恩などいらん、とお怒りの方もいらっしゃるだろうけど)

そんなことを思いながら玄有宗久「アブラクサスの祭」を読む。
この本の中でも、主人公はもがいている。
そして僕もまた、もがいている。

  

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January 06, 2006

一年後の自分へ

「一個人」という、ちょっと大人の世代向けの情報誌がありまして。

年に一度くらいしか買わないのだけど、最新号をこないだ買ってきた。
「特集 『書く』って、楽しい?」という見出しに思わず手が伸びてしまった。「書く」ことに関するお気に入りの場所とモノ、「海辺のカフカ」に出てくる幻の図書館を探す旅、などが大変興味深くて風呂に浸かりながら読もうとしていたけど、家に帰ってはさまれていたレターセットに目が留まった。

「一年後のあなたに宛てて手紙を出しませんか」と題するその企画は、出した手紙を「一個人」編集部で預かり、自分が出したことなどすっかり忘れているであろう一年後のある日に、突然届く。その突然さが気に入って、手紙を書いて出してみることにした。手紙なんて、ほんとうに、数年出してないし。

一年後の自分は何をしているのだろう、どんな仕事をしているのだろう。病は癒えているだろうか。他人に必要とされているのだろうか。大事にしたい人がいるだろうか。そうやってとめどもなく考えていたらちょっと気分が沈んだ。
でも沈んだ気持ちのまま、今の気持ちを正直に書いていこうと思う。一字一字、ていねいに、一年後の自分のために、心を込めて。

それを別としても、一年後の自分、半年後の自分、3ヵ月後の自分、3日後の自分を考えて行動しろ−−とは、社会に出たらよく言われる話だ。至極そのとおりだと思う。
でも、果たして、それをいま自分はできているかと言われれば、まったくダメです、と諸手を上げてうなだれて降参するしかないのが現状だ。感情の浮き沈みが激しい現状では3日先の自分も思い描くことすら難しい。けれどせっかくの機会だ。とっくりと自分の内面を見つめ、目標を立て、希望をペンに走らせようと思う。

一年後、この手紙を読んだ自分は、何を思うだろう。
  

Posted by yuichi5310 at 01:04Comments(0)TrackBack(0)雑記