hence, thus, therefore

  • 「浮気」についての哲学的考察ー③

    (続き)

      さて、これまで見てきた九鬼の分析は「いき」という現象であり、「浮気」そのものとは幾分か隔たりがある。まずあげられるのが時代的制約であろう。九鬼自身、『「いき」の構造』執筆において、「いき」という現象の普遍性を説いているのではなく、あくまでそれが江戸文化における日本民族に特殊の現象であると認めた上でその現象の解明を解釈学的に進めているのである。ただし上の記述を見たかぎり「いき」という現象は死んだ現象ではないことが分かる。そう言いながらも「いき」という言葉そのものはほぼ死んだと言わざるを得ない。少なくとも我々が日常的に用いていないかぎりにおいて、それは過去の言葉であろう。したがってその意味で、「いき」は我々が知っているところの「浮気」という現象ではない。しかしそうはいっても九鬼の「いき」の分析は現在の「浮気」という現象を開示する頼りとなる。
      まず何よりも「いき」の根柢に据えられた「媚態」という二元的可能性は、「浮気」という事態の根源性にも通ずるものであろう。

    しずかな日常を壊す、突如現れた他者。それはとりもなおさず「媚態」の出現であろう。

    私にはこの事態は「まなざし」ないしは「視線」という契機によって現れるものと思われる。男が女に、もしくは女が男に「視線」を送る。それを相手が返すか返さないかは、媚態が成立しうるか否かと同義である。つまり視線を返した場合、二人の間に媚態が形成しはじめる。しかし視線を返さなかった場合は、一方通行の無念な切望で終わるのである。「まなざし」と言えばサルトルの他者論の基本概念である。サルトルにおいて他者の「まなざし」は私を他へと開かれた存在性から、「モノ」のような存在性へと固定して自由を奪ってしまうという、どこか恐ろしい側面を持っていた。惹かれる相手に視線を送ることは何も相手の自由を奪おうとした行為ではない。それでもその「視線」はやはり相手を自分の欲望の対象としているかぎりで、相手を「モノ」にしてしまう。もちろん、人は机や携帯電話のような使う目的のはっきとした道具的な「もの」でないのは確かだ。我々は欲する他者をそのような道具的対象とは見ない。

    いや、本当にそうだろうか。

    そうはっきりと意識していなくとも、欲望の対象として相手を見ることは、相手を道具として扱う非人格的行為に等しいのではないか。しかし媚態の形成においては、この「視線」は一方的ではありえなかった。視線を送られた相手が視線を返すとき、そのとき媚態は形成されはじめる。この「視線を返す」という行為は、あたかも単純な対象化に抵抗するような、自由の剥奪を拒むような、そんな自己防衛的意味を持っているのではないかと思う。あるいは奪われた自由を奪い返すような、そんな抵抗のあらわれかもしれない。

    だから私は男と女のこの視線のやりとりに、人間の根本的な自由の争奪戦を見るのである。

    「遊び」を目的とした男女のやりとりの間で、まさかこんな壮絶な闘いが繰り広げられているとは誰もが疑うことであろう。しかし、男のまなざしを前にして恐怖と危機と憤りが入り交じったような、そんな複雑な感覚を覚えた女はいないだろうか。女は「モノ」じゃない。「視線」とは人間の最も単純なコミュニケーション手段でありながらも、時には武器にもなるということをどれほどの男が自覚しているだろうか。
      話が少しずれた。ともあれ「媚態」は視線を返すところからはじまる。いわば「やってやろう」という宣戦の受諾である。そして媚態が形成されると同時に、ある男とある女との間でその二人が結ばれる可能性が胚胎する。この可能性をはらんだ妙な緊張感は甘ったるいものではない。闘いの場としての、男女双方の緊張感なのである。ここで闘いは終結へと向かうのか、それともそのまま冷戦へと持ち込むのか。終戦は「付き合う」という双方の合意でもたらされる。なるほど、闘争心むき出しで、常にあの戦場特有の緊迫感を味わっていたいというそんな男(もちろん女も然り)はこの終結を「倦怠、絶望、嫌悪」と感じるかもしれない。それゆえ、あえて冷戦を選択するものもいるであろう。また、必ずしも終戦が闘いの終わりではない。それが新たな闘いの始まりを呼び起こすことにもなりうる。

    「浮気」という事態が「形」として結実するのは、「付き合う」ことで一つの闘いが終結し、その後に新たな闘いに火がついたときであろう。

      つまり、「媚態」という男女の緊張状態は「付き合う」ことで解消されてしまう。そんなことを言うと、生涯彼氏との熱々な関係を宣言する女友達らがいっせいに私に抗議してきそうである。しかし私はそれを否定しているのではない。生涯熱々でいればいい。私がここで「解消」と言っているのは、あの妙な緊張感としての「媚態」なのである。それは付き合うことで必然的に解消されてしまう。というのも、付き合うということは二人の間にあったあの妙な緊張感をはっきりとさせよう、すなわち「もう遊びはやめよう」と両者が合意することに他ならない。遊びをやめてしまうなんて、つまらない。

    遊びは「遊び」だから楽しいのである。

    だから遊びを求める者は、恋愛関係にある相手(付き合っている相手)では絶対に満足できない。「媚態」と「付き合う」という事態は相容れないのである。付き合っている相手の浮気に悩む人にとって、これほど絶望的な事実はないであろう。しかし別にあなたに問題があるのではない。問題があるとすれば、それは遊びを求めてやまない相手にあるのだが、しかし子供に遊ぶのをやめろということほど不健康なことがないように、遊びを好む相手に遊びをやめろと言うことほど不自然なことはない。
      さて、新たな闘いとしての「浮気」という事態は、九鬼の言う「いき」の二つ目の性格、すなわち「意気地」とつながるように思われる。意気地とは強がる心持ちであった。「冷戦」を自ら進んで選んだ「浮気をする人」は、その長引くかもしれない闘いに耐え忍ぶだけの「心の強さ」がなければならない。それが本当のところはどうなのかは、さしあたり問題ではない。見かけだけの強がりかもしれない。見せかけであろうがなかろうが、二元的可能性を可能性のうちにとどめさせておく、それを貫き通すほどの覚悟がなければならない。それほどの覚悟あって浮気をしている人は、果たしてどれほどいるだろうか。遊ぶならとことん最後まで「遊び」であることを貫け、と私はそう言いたいのかもしれない。
      さらにここでは「浮気相手」の覚悟もなければならない。なんの覚悟か。それはやはり二元的可能性をどこまでも二元的可能性のうちにとどめておく、そういった心持ちである。これもまた見かけだけの強がりであってもよい。ただそれをどこまでも貫かなければならない。特に女はそういった覚悟を持っていない場合が多いように思われる。どこかでうっすらと、「浮気」の二元性を抜け出して一緒になりたいと、そう願っているのではないか。だから女は厄介だ。やはり、遊ぶならとことん最後まで「遊び」を貫け、と私はここでもそう言いたいのだと思う。
      「いき」の三つ目の特徴として九鬼があげている「諦め」は、もしかしたら「浮気」にとって最大のポイントなのかもしれない。というのも、仏教的な「諦念」とはいかなる執着も捨てることを意味している。それは、いわば相手を自己のものにしたいという所有欲を捨てることである。媚態の二元的可能性がどこまでも可能性であり続けることを受け入れることで、すっきりとした心持ちで晴れて「遊び」を心置きなく楽しめるのである。九鬼はこのような心持ちに「無関心」という言葉をあてがっている。「媚態」とは相手に惹かれるからこそ形成されるものであるのに、それが「遊び」であるためにはどこまでも無関心を通さなければならない。これも難しいことであろう。先に言ったように、平行線がどこまでも距離を保ちながら絡み合うのである。その絡み合いはしかし、距離を前提としているということ、そのことを「浮気をする人」と「浮気相手」とが相互に自覚していなければならない。そういった逆説的なあり方を理解するためには仏教的・宗教的な境地にでも達していないかぎりは難しいような、そんな気さえする。果たしてそういった心持ちで浮気相手になったり、浮気をしている人がどれほどいるであろうか。

      こうして九鬼周造の「いき」の解釈学的分析を通して、「浮気」という現象を明らかにしようと努めてきたわけだが、気がつけばそれは「浮気」の現象理解ではなく、「浮気」が「浮気」として成り立つならばこうあるべきである、というような規範的な叙述になってしまった。「浮気とはこうあるべきである」とは、あたかも「浮気」が善であると肯定しているかのようだが、「浮気」がもし現象として成り立つのであれば、こういうものでなければならない、とそう言っているだけである。しかし私はこの結果は、それはそれで必然的な結果だったのであろうと思う。我々ははじめに和辻哲郎の考察をヒントに「浮気」とは空気のようにあたりに充満したものだということを見た。しかしそれは可能性としての「浮気」であった。問題としての「浮気」、ないしは形としての「浮気」はいくつかの前提のもとで形成された。一つは恋愛関係にある二人である。

    誰と付き合うわけでもなく、ただ「遊び」を好みとする人においては「浮気」は形としては現れない。したがって何の問題にもならない。

    「浮気」が問題となるのは、すでに付き合っている二人がいるからである。いわば付き合うことで「浮気」は可能性としての浮気から一挙に現実性を増すのである。そして第二の前提は、「媚態」であった。男と女が惹かれ合う、それは仕方ないことであろう。しかも「媚態」は付き合うことで解消されてしまうため、付き合っているものが「媚態」を求めたとき、すでに「浮気」を現実のものにしようとしているのである。

    「付き合う」ということと「遊ぶ」ということは矛盾ではない。

    付き合っていながらも遊ぶことは十二分に可能である。可能であるどころかそれが「浮気」の形をとって問題と化すのである。しかし付き合っている相手に遊びを求めることは、絶対的な矛盾と言うほかない。
      ここまでの考察はまだ「現象理解」の域にとどまっている。しかし問題はここからである。「浮気をする人」と「浮気相手」の双方には、「心の強さ」と「諦めの境地」がなければ成り立たない。闘いを挑んだ者も、挑戦を受けた者も、終わりなき闘いを引き受けたのである。軽い気持ちで引き受けて心折れたり、諦めつかなかったりするのは勝手だが、現実となった「浮気」とは本質的に終わりなき闘いなのである。問題は、終わりなき闘いを引き受ける人がどれほどいるだろうか、ということである。「心の強さ」も「諦めの境地」も、どちらも理想ないし非現実に過ぎないのではないかという疑問が残る。どちらか一方が折れた時点で、闘いは何らかのかたちで幕を閉じてしまうのである。そこで「浮気」の形は消えて再び単なる可能性へと戻っていく。そもそもなぜ、闘いの内部へと自ら足を踏み入れようと思うのだろうか。私はここで、「なぜ浮気するのか」という問いに対してこれまでの考察を手がかりに一つ答えを与えてみたいと思う。
      
      「遊び」をただ楽しみたいという人は、付き合わずにただ遊べばいい。しかし人は「形」あるものを求めてやまない。「媚態」にはさしあたって輪郭のはっきりとした「形」はない。「媚態」の内的可能性が現実のものとなったとき、それは「付き合う」という形をとる。しかしそこでは一つの形を得たと同時にそこにあったはずの美しさを失ったのである。「媚態」の美しさは、まさにその無形にあろう。逆説的にしか捉えることのできないその「媚態」は、無形であるがゆえに美しいのである。無形の美を、ありのままに楽しむことのできる人こそ、真の「遊び」を知っている「遊人」なのかもしれない。

    しかし大抵人は「形」を求める。だからこそ、苦しむ。

    付き合うことで得たはずの「形」に満足できずに、無形の美を再び追求するのである。「媚態」という美を。しかしすでに「付き合う」という形を得た者は、「浮気」という形でしか「媚態」の美しさを知ることができない。そうして二つの形を得た者は、果たしてしあわせなのだろうか。それだけの「心の強さ」と「諦めの境地」があれば、しあわせなのかもしれない。むしろそれらがなければ、形をとった「浮気」はただの虚しい、なんの楽しみもない闘争になってしまうであろう。だから「浮気」を本当に楽しめる人は、ある意味現実性を逸脱した偉人なのかもしれない。ほとんどの人は二つの形に挟まれて結局は苦しむことになる。哀れにも自分にはそれだけの「心の強さ」と「諦めの境地」がなかったことを知り、もはや媚態を諦めて一つの「形」に戻っていくことであろう。そこで逆に「媚態」の無形の美に生きようとする者は、無形の美の美しさが真に理解できる広い意味での芸術家くらいであろう。


      
      形なきものの美を謳歌するか、それともどこまでも形を求め続けるか。
      人は多くの場合は後者を選択する。だから苦しむ。



      「浮気」とは空気のように我々を囲むもので、他者の出現によって時に可能性が結実して形としての浮気となる。しかし「浮気」の形は「付き合う」という形の相対でしかない。あたかも黒い四角い紙から丸い形を切り取って、そこに出来た穴によって黒いふちが出来るように。一つの形が新たな形を生むように。男と女は白と黒のように対照的だ。コントラストはコントラストだから美しい。あえてそれを一つの色に染める必要はない。

      だけど形を求めてやまないのが人間である。だから苦しむ。



    (完)
  • 「浮気」についての哲学的考察ー②

    (続き)
      
      さて、ここで一つ指摘しておきたいことがある。今我々が問うている「浮気」は日本語の「浮気」だが、今ここで問題としていることは日本語の「浮気」に限られているのだろうか。英語で「浮気」にあたる単語でまずもって思い浮かぶのはcheatという動詞である。この単語は「(人を)欺く、だます、ごまかす」という意味とともに「浮気する」という意味がある。他にもflirtという動詞も思い浮かぶ。両者の違いは、感覚的にはflirtが「火遊びする」程度のものである一方で、火遊びが転じて「一歩踏み込んだ関係性になること」がcheatである、というようなところであろうか。しかしcheatやflirtは動詞であることから明らかなように、動作としての「浮気」を意味しているため、動作の主体が前提されていることになる。だが上述のように「浮気」という事態をあたりに充満した、いわば「空気」のようなものと考えると、もはやそのような主体は前提とされてはいない。そういったニュアンスを捉えるのであれば英語のcapricious(「移り気な、浮気な」)という単語がある。そうすると我々がここで問うている「浮気とはなにか」という問いは、“What is cheating?”という問いよりは “What is capriciousness?”という問いに近いことが分かる。しかし、今我々が問うているところのものは我々が知っている「浮気」という言葉であり現象であって、それは英語で言うところのcapriciousという事態ではない。それらの共通性及び差異性は差し当たって今は答えを導くことはできず、したがって問題外である。それゆえ、ここでの我々の問いは日本人が日本語で「浮気」と表現しているところの浮気現象であり、容易に他の言語や文化現象と混同してはならないことに気をとめなければならない。

      さて、上では、「浮気」とは我々の可能性としてあたりに充満している事態だということを述べた。しかし「浮気」は単なる可能性ではない。単なる可能性に過ぎないのであれば、「問題」とはならない。付き合っている二人の間で取り立てて喧嘩の要因となるのは、可能性としての浮気、つまり単なる浮ついた気持ちではなく、浮ついた気持ちがなんらかの「形」をとった場合である。我々は「浮気<を>する」「浮気<を>される」という表現をする。そこでは浮気の対象化が働いている。浮気が「形」となる。そこではじめて可能性が現実性として実現されたことを意味している。

    つまり、それまでは浮遊した形なきものであったものが具現化して形あるものになったとき、可能性としての浮気が「形」としての浮気として自覚される。

    しかし、いったいなにによって可能性は現実のものと化すのであろうか。それは紛れもなく「相手」の存在である。「浮気」という事態には「浮気する者」と「浮気される者」、つまり恋愛関係にある二人が前提とされている。そしてここで言う「相手」とは浮気相手でもあり、恋愛関係にある相手でもある。したがって浮気という事態には少なくとも三人が関係しているということになる。しかし三人は並列的関係にあるのではない。あくまで恋愛関係にある二人が基底にあり、そこに「問題」の発端となる相手が現れるのである。それまで円滑にいっていたはずの二人世界に、それを妨害する他者があとから現れるのである。

    しかし、当然二人世界は最初から閉じた世界ではない。それは常に他者に開かれた関係性であり、常にすでに「浮気」の中にいるのである。

    そして第三者の存在が転じて、あるとき「形」としての浮気として結実する。しかしそれはいつ、いかなるときか。なぜ日常の安定した均衡状態が突如壊されてしまうのか。
      ここで九鬼周造の『「いき」の構造』における論述を先に見ておいてからその後で「浮気」現象の記述的分析をすすめていきたい。九鬼は江戸時代の「いき(粋)」という文化的現象について、その民族的特殊性に即してそれがいったいどういった事態を意味しているのかということを分析している。私なんかが「いき」と聞いても正直ぴんとこない。現代人は「そいつはいきだなー」というような言い回しをほとんど使わなくなっている。それほども馴染みのない「いき」という言葉だが、九鬼の明快な分析と記述によってそれはまさに今なお現代の日本人の生活において生きた言葉であることが分かる。

    私は『「いき」の構造』は下手にan・anなんかよりもずっと参考になるように思える。なんの参考かと言うと、それは男女間の「遊び」の参考であろう。

      九鬼は「いき」という事態に三つの契機を見ている。「媚態」と「意気地」と「諦め」である。他の二つのものの根柢にあるのが「媚態」である。ではまず、「媚態」とはなにか。それは互いになんらかの可能的関係を措定した男と女の二者間に漂う妙な緊張感である。媚態とは「媚びる態度」であるが、現代人は「媚びる」という言葉で何を浮かべよう。少なくとも私はいいイメージを抱かない。かわいい子ぶったり、女の色気をむんむんに出してあからさまに男の視線を自分に集中させようとする、いわゆる「ぶりっ子」や「男好き」の部類の女を思い浮かべてしまう。しかし、九鬼がここで言う「媚びる態度」とそういったものではない。九鬼はここで「媚態」とうい事態は「なまめかしさ」「つやっぽさ」そして「色気」のある状態だと言う。そしてその微妙な出し方によって「いき」であったり、そうでなくなったりする。たとえば上品すぎても派手すぎても「色気」はない。さらに九鬼は言う。

    「媚態の要は、距離を出来得る限り接近せしめつつ、距離の差が極限に達せざることである。」

    なるほど。たしかに「遊び」を得意とする人を想像したときに我々は「うまく距離を保っている人」を思い浮かべないか。つまり、二人の関係性はあくまで「遊び」であるという現実性のうちに、一応は「付き合う」という目標ないし到着点を可能性として含ませつつ、しかしあくまで可能性のまま実現しない。

    そのまま二人の距離が永遠に交わらない平行線のように、一定の距離に隔てられながら、絡まり合う。交わらないはずの線が、絡まり合う。

    この逆説的なあり方が、まさに「媚態」であり、「遊び」の本質でもある。無論絡まり合っても、「一つ」にはならない。否、なりえない。なぜなら「媚態」は二元性をその条件としているため、その二元性ゆえの緊張間が失ってしまわれると、たちまち「媚態」も消えてしまうからである。九鬼は明治時代の小説家、永井荷風の言葉を引き合いに出しながら言う。「永井荷風が『歓楽』のうちで「得ようとして、得た後の女ほど情無いものはない」といっているのは、異性の双方において活躍していた媚態の自己消滅によって齎らされた「倦怠、絶望、嫌悪」の情を意味しているに相違ない」と。倦怠?絶望!嫌悪?!女からすれば、いったいどういうことだと憤慨したくもなる言い草だが、しかし現に付き合ってしまうことが一種の堕落になるという側面も完全には否定できないであろう。私のまわりには「付き合う前の方が楽しい」と言う女友達だってたくさんにいる。それは言うまでもなく付き合う前のはらはら、ドキドキしたあの緊張感がたまらないという感覚であろう。それを「倦怠」はともかく「絶望」や「嫌悪」とまで言えるかどうかは首をかしげてしまうが、ともあれ「媚態」とは誰もが少なからず感じるであろう、あの妙に楽しい男女間に張りつめる感覚のことと言えよう。
      「いき」の第二の契機は「意気地(いきじ)」である。九鬼によればこれは江戸っ子の気概、すなわち意欲をあらわしている。そしてそれは元来、「武士は食わねど高楊枝」と言われるような武士道的な強がり、やせ我慢という一種の理想主義に由来するという。つまり緊張関係に耐えうるだけの心の強さが「いき」という現象には含まれているのである。「媚態」の二元的可能性をどこまでも二元的可能性としてとどめさせようとする、そんな持久力が「いき」なのである。
      そして第三の契機が「諦め」である。九鬼はこれを仏教的な「諦念」に遡るものであり、「運命に対する知見に基づいて執着を離脱した無関心である」という。どうやら「いき」とはあっさり、すっきりした心持ちがなければならないらしい。つまり、二元的可能性が仮想的目標としていた合一を断念してしまうことで、かえってさっぱりとして「恋の束縛に超越した自由なる浮気心」が開示されるという。これは非現実主義と呼ばれる。
      「意気地」の理想主義的性格、そして「諦め」の非現実主義的性格は、いずれも現実性からの解放を含意していよう。現実では男と女が交われば楽しいことばかりではない。そういった現実性を背にして「遊び」を求める。腹を括って二人の関係性を可能性にとどめんとし、そして妙な執着をいっさい捨てて無関心という態度で相手にのぞむ。これぞ「浮気」の達人!しかも、この事態が「いき」なのである。
  • 「浮気」についての哲学的考察ー①

    —浮気している人、されている人、浮気相手になっている人へ。


      どこからが浮気か。浮気は許せるか。なぜ浮気するのか。
      浮気についての哲学的問いは、これらの問いを直接的な問いとはしない。むしろ、他の哲学的問いと同じように、事柄の根源に迫ろうとする問いが哲学的問いであり、ここではそのような問いを引き受けようと思う。

      「浮気とは、なにか。」

    しかも浮気を外延的に定義しようとすることをここでは目的としない。つまり「○○は浮気であるが、○○は浮気でない」というように浮気という事柄の事例をあげることでその事柄の意味範囲を特定しようとする方法である。今仮にそれを目的とすればその問いは「どこからが浮気か」という問いとほぼ同義となってしまう。また、ここでは浮気を内包的に定義しようともさしあたって思わない。「浮気とは○○である」と、浮気という事態にあてはまる性質を列挙していく手法がそれにあたるが、それは一見魅力的な方法と思われるが、だが浮気の一般的性質をあげることは別段「哲学的」とも言えない。
     ここでは「浮気」という事態が現に「ある」ということを認めた上で、その現象の有り様を単なる概念の羅列という方法によってではなく、できるだけ事態に忠実に記述的に行ってみたい。つまり、浮気の現象にあてはまる概念系列を並べてあたかもそれで浮気現象が分かった気になるのではなく、事態を既成の枠の中で思考せずにできるだけ自由に考えてみたい。
      といっても文学的記述とは違う。私はそんな技法を持ち合わせていない。もちろん絵の具でキャンバスに写実するのでもない。

      概念分析的でもなく、文学的記述的でもない。説明するのでも、写像的に描くのでもない。ではなんなのか。

    一応目指すものは「概念に頼らずして概念を用いた記述」とでも言えよう。

    それは言葉を用いて絵を描くような試みかもしれない。読んでいて、ふわ〜っと「浮気」という事態が開けてくるような、そんな感覚をしてもらうのがとりあえずの狙いである。その意味では文学作品に似たところはあるが、しかしあくまで記述的にして分析的であるところが哲学的と言えるのかもしれない。
      よりどころは最近少しばかりかじった和辻哲郎と九鬼周造の哲学。本当にかじった程度なのでその深みまで理解しているとは到底言えないが、ヒントをもらうという程度で利用させていただく。本当はまだ自分のものにしていない思想を一面的に拾って適用することにはかなりの抵抗があるのだが、でも発展途上の思索においてはそういう思い切ったことをしないとかえって何もおもしろいものは生まれないとも思っている。それに深みまで理解することを待っていたらいつになるか分からない。

      まず、和辻さんから。
      和辻は「寒い」という事柄について現象学的に記述することを試みている。私が寒いと感じたとき、「寒さ」が外から私に向かってくると思うのはある意味自然である。冬場において一歩家の外に出たときに突然「寒さ」が私を襲ってくる。外から襲いかかってくる。そう思うのがある意味一般的ではあるが、しかし和辻は言う。私が寒いと感じたとき、そのとき私はすでに「寒さ」の中にいる。「我々自身が寒さにかかわるということは、我々自身が寒さの中へ出ているということにほかならぬのである。」ここで和辻が注目するのはハイデガーの自己開示性というもの。ハイデガーはexistence(存在)の語源であるラテン語のexsistereを「外に(ex-)出ていること(sistere)」と解釈した。つまり我々の存在は外へと開かれたものだ、と。我々が自分の存在を何らかのかたちで知ったとき、そのとき我々はすでに世界の内にいるのだ。

    世界-内-存在(being-in-the-world)なのだ。私はこの思想は二十世紀最大の功績なのではないかと思う。

    我々が世界の中、世界の内に存在しているということは一見自明のように思えて、しかしまったく自明ではない。少なくとも自明ではなかった。デカルト以来の西洋近代的思考は「我」と「世界」を対峙させる。我の外に世界がそびえ立っている。それがデカルト的思考だ。それによって世界、そして自然は人間が支配しうるものとなった。そういった思考は何も西洋に限ったことではない。東洋にも、そして日本にもいつの間にか浸透していた。近代以来の思考枠となった。だからこそハイデガーの世界内存在という思想はかなり画期的であったし、今なお画期的であり続けるのはそういった十七世紀以来の思考枠を破る可能性を持つものであるからであろう。我々は世界に対しているのではなく、世界の中にいるんだ。こんな自明のことを取り立てて強調しなければいけないのが現代である。それはともかく、和辻の話に戻すと、我々は「寒さ」の中にいる。「我々は寒さを感ずることにおいて寒気を見出すのである。」だから寒気がどこか我々の外にあって我々を襲ってくるのではない。「寒い」という現象と「寒気」ないし「寒さ」という事態を区別して前者は主観的な感覚、後者は客観的な「もの」という捉え方は当の「寒い」という事態を抽象して出来上がった構図にすぎない。外気中の分子が我々の肌に触れて体温と外の気温との差で身体に鳥肌が立って、筋肉が収縮して脳がそれを感知して引き起こされる「感覚」が「寒気」なのではない。そういった科学的説明は物事を一面的に捉えているに過ぎない。「寒気」を感じると言っても、それは文法的に対象化・目的化させているだけであって実際にそういった「もの」が我々と離れて客観的にあるのではない。
      こういった和辻の現象学的記述を、私はそのまま「浮気」という事態にも適用できるのではないかと思う。「寒気」と「浮気」の「〜気」という表面上の類似による安易な類推と思われるかもしれないが、しかし同じように浮気という事態を捉えてみることもおもしろいと思う。もちろん一筋縄に行かないところもある。「寒気」は感じるものだが、「浮気」を感じるとは言わない。だから我々が「浮気」を感じたときすでに「浮気」の中にいる、と言ってもよく分からない。だが上述の現象学的記述から、「浮気とはなにか」という問いで我々は何を問うていて何を問うていないのかということをまずもって伺える。「男はなぜ浮気するのか」という問いに対して、男は本能的にたくさんの子孫を残したいと思っているから、ということをよく耳にする。そういった因果論的説明、進化論的説明は「男は浮気する動物なんだ(だから仕方がない)」という正当化作用が少なからずある。しかしもちろん男でも浮気をしない人はいるし、浮気せずにはいられない女だっている。そういう人はこういった説明では「例外」として排除されていく。もう少し洗練された説明となると、たとえば浮気という現象は、一種の拘束性からの解放を望む人間の自由の表現である、といったものがあげられよう。これは一見洗練されたものに見えて、しかしやはり前述の因果論的説明とほぼ変わらない。こういった説明は浮気という事態の裏に潜む「なにか」を求め、そこに一つの答えを与えることで事態に根拠を与えている。しかし「浮気とはなにか」という問いは必ずしも根拠への問いではない。根拠への問いは物事の根源的理由を求めてやまない人間の必然でもあるが、しかし「浮気とはなにか」で問うている問題は現象そのものに他ならない。

    無根拠かもしれないこの現象を、現象しているただ中で捉えてみようという試みが今我々の課題なのである。
     
      さてここで和辻が着目するもう一つのポイントがここで重要となる。
      和辻は、「私」が寒さを感じるというところを「我々」が寒さを感じるといっても差し支えないという。つまりそもそも私が寒さを感じたときにすでに寒さの中にいるのであれば、「寒さ」といういわば場所のようなところに、私であれ、あなたであれ、すでに開かれていることになる。我が先か、場所が先かと言ったところであろう。デカルト的に言えばもちろん「我」が先になるが、現象学的(つまり事態に沿って忠実)に言うと、場所が先に開かれている。

    目を開いたとき、まず言えるのはそこであなたが見ているということではなく、物事があなたに対して開かれていることであろう。

    そこであなたが見ている、ということは誰かが指摘してくれないと本来はむしろ気づかない。和辻はこの開示された場所性を「間柄」と呼ぶ。親と子の間柄。人と人との関係性。それはすでに独立に存在している個人がいて、個人と個人が出会うことで築かれる関係性を言っているのではない。間柄を問うとき、個を直接問題としているのではない。関係性を問題としているのである。関係性と聞いてすぐに「個」を思い浮かべるのは近現代人の悪い癖であろう。関係性、間柄は「われわれ」を問題としている。話を戻すと、「寒気」を感じているのは「私」である以前に「われわれ」である。我々は「寒気」を共同に感じている。つまり、「寒いねー」「うん、寒いねー」という共有できる基盤、つまり「間柄」がすでに成立していなければ、「寒い」ということは、ない。「いや、寒くないよー、あったかいよー」という事態だって「寒さ」という基盤がそもそもなければ成立しない。
      この「間柄」という基盤がいかにして「浮気」の現象理解に結びつくか。まず「浮気」という事態を了解する基盤が出来上がっていなければ、そもそも「どこからが浮気なのか」「浮気は許せるのか」「なぜ浮気するのか」という問いも成立しないということが分かる。

    いわば、「浮気」はわれわれのまわりに充満しているのだ。

    それがどういう事態なのかということを我々は知らぬ間に共有しているのだ。だから我々は「浮気」の中にいる、と言えるのである。ただ、寒気の中にいても寒いとまったく感じていない人にとって「寒気」の中にいるということはいまだ自覚せぬ可能性にすぎないように、浮気もいわば「われわれ」の可能性の一つであろう。寒気とか眠気とかは不意に突如襲ってくるものだが、ともすれば浮気も突如襲ってくる潜んだ可能性なのかもしれない。
  • 言霊

    最近不思議に思う。
    言葉というもの
    それはどこからともなくやってきて
    気付いたら根をはっている。

    自分の発する言葉、言い回し
    それが自分の言葉というよりは
    ある特定の文化、時代、場所の言葉。

    思想というものは、
    哲学も含めて、
    人々に通じる言葉を操るものであるかぎりは
    生きて居る場所をうつしているんだなー。

    今改めて、日本語で哲学するということ、
    日本語で思索することの意義を噛み締めている。

    ことばに魂が宿るという言霊思想は
    正鵠を得ているものだとものだなと。
  • 粘土のようなアイデンティティー

    我々の「日本人としての自覚」は、日常生活の一つ一つの行為をそれとして自覚したときに形作られるんだと思う。

    日常の中の行為はふつうは取り立てて自覚なんかはしないけど、その「日常の行為」に矛盾を感じたとき逆に自覚するopportunityとなる。


    帰国子女であるという立場はそういった矛盾を人一倍感じる。


    自己のことを内省して自覚できる年齢になったとき、アメリカにいた私は「日本人」という目で見られていることに気付いた。否、正確には「アジア人」という目で。

    人の外見は自己のアイデンティティー形成に関わる第一条件のようなものだと思う。

    そういった意味でそれは逃れることのできない制約。

    だけど我々は行為的自己である。

    私が「アメリカ人」のようにふるまったとき私はむしろ「アメリカ人」として見られる。

    私がユニフォーム着てサッカーをしているとき、私は「サッカープレーヤー」として見られる。


    人のアイデンティティーはそうやって自分や他者からステータスをあてがわれてはそれにそぐうように、またはそれを否定するかのようにふるまうことで、形作られてはまた新たに形作る。


    帰国子女として帰国した私はどんなに「日本人」としてふるまおうと私の行為はどこか「外国人」のようだった。

    自分のふるまいが文化的、社会的な意味を持っているということをそこで改めて気付かされた。


    「私」という確固たるものを探そうとして苦戦した日々もあったけど、「私」とは粘土のように、形があるけれど決まった一つの形がない、流動的で不確定で形成的なものなんだと今は思う。


    矛盾は解消するものではなくむしろ自覚するものだと。


    矛盾があるところにこそ自覚あり、と。


    帰国子女のみならず人は皆、多かれ少なかれ自分のふるまいに矛盾を感じながら生きている。

    そういった矛盾を
    見過ごすのでもなく
    解消するのでもなく
    矛盾として自覚して生きる。


    何か一つのアイデンティティーにあてはまるように生きるのは、らくなようで本当は一番むずかしいと思う。

    だけど私はアイデンティティーなくして生きるのではなく、いろんな形をとりうる柔軟だけどねばりのある、 粘土のように生きたいと思う。

    (過去のmixiでの日記より)
  • お金がないと学べないなんて。

    哲学はお金にならないとよく言われるけれど

    お金になる、ならない以前に、お金がないと学べない

    それが悲しくてそして厳しい現状。


    勉学に励むためにお金が必要な社会って
    お金で学ぶ機会を買う社会って

    一体どうしたものかね。


    「お金にならない」と言われている学問ほど
    奨学金が取りにくいから余計お金が必要。

    なんでもお金で回る社会は嫌だね。
  • 個から普遍、普遍から個へ

    物事の全体像と、ズームインしたときのより具体的で詳細なローカル像という視点を、相互に切り替えて考えることの意義を最近よく感じる。と同時にそのことの難しさも。

    でも哲学する上でそれは特に大事だと思われる。

    人はたいていgeneralizeすることが好き。というか一般化することはひどく簡単だから。「日本人は親切だ」とか「女は涙もろい」とか。

    だけど当然どんなgeneralizationも誰かが経験して得たある直観から導かれているもので、したがってどんな一般化も必ず誰かしらの具体的な経験に基づいている。

    「個」と「普遍」の関係のように、どんな一般化された命題も具体的な個別の経験なくしては内容を持ち得ない。

    だからこそ、哲学者とはある個人であることを決して忘れることなく、人々の直観に訴えるような普遍的な答えを見出そうとする者である。

    でも個的な経験の内実に忠実であろうとすればするほど
    普遍性からは遠ざかるような、そんな気がしてしまう。


    そうは言っても歴史的にみて哲学者であれ文学者であれ芸術家であれ、たくさんの人々に多大な影響を与えたものは、いずれも自身の経験なり直観をどこまでも真摯に追求した人であった気もする。


    むしろ偉大なる人は、個の表現が即普遍的な表現であり得ている
    そんな人なのかもしれない。


    そんな優れた個性を持ち備えていない私は、ひたすらzoom out/zoom inを手動で切り替えていくしかないんだけどね。
  • (no title)

    今更だよね、でも始めてみた。

    日々の哲学的思索から、どうでもいいようなことまで
    自分のメモ用ってな感覚で、
    でもどうせなら誰かに読んでもらおう
    というかんじで、綴っていこうと思います。
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