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bowjackmoore – 日記的雑感

ジャニーズ問題考察

ジャニーズ問題、相変わらずネタにしているマスコミの変わらない体質にこそ、
問題の原点があると思っている。

しかも、3つある問題をごちゃ混ぜにして報じているからわかりにくい。

問題点は3つ

①ハラスメント
②性加害
③マスコミ側の忖度とタレント事務所側の圧力

に整理できる。

①ハラスメントは生殺与奪権を持った事務所とタレントの間に存在し、
「売れない時期に食わせてきた」という論理で
個人源泉タレントのギャラの半額以上を摂取したり、
「仕事を取ってくるから」と普通の人間関係ではあり得ない要求を求めたりするのは、
業界では暗黙の了解だったりする。

②性加害は言わずもがなで異性間性加害は当たり前にあるだろうし、
接待道具として使われている事は週刊誌などで色々と報じられてきた。
ジャニーズ問題は同性間性加害である事がエキセントリックで、
パワハラ的・日常的に行われていた事にソースバリューがあるだけの事。

③マスコミ側の忖度とタレント事務所側の圧力については、
マスコミ側の知性の低さと河原者を率いる感覚でいるタレント事務所側に存在する問題で、
事務所に所属しないと売れない現実を突破する方法や存在が少なかった時代を、
そのままに引きずって成り立っている業界体質が大きいのだ。

「士・農・工・商・代理店・プロダクション」と揶揄される差別社会が
マスコミと言うよりはTV業界にあって現場の制作陣はその社会の下にいる感じだったから、
代理店(スポンサー関連)やプロダクション(タレント事務所)に逆らうのは
局Pと言われるTV局社員プロデューサー以上のクラスで無いとできない、
という慣習すらあったのだ。

その結果、独占禁止法にも抵触しそうな商習慣は根強く、
タレント事務所の経営者は亡八さながらに振る舞ってこれた時代はあったと思う。
 

 
「タレント」とは「才能」もしくは「才能がある人」を指す。
その才能を食い物にしている業界は「タレント」と呼ばれる存在を人気力だけで判断し、
人間性そのものを否定しているとさえ感じさせられる。

小劇場で活躍する役者の能力の中に「何人客を呼べるか」という尺度はあって、
見世物を業務として営んでいく上ではタレントの人間性は大切にされない現実は、
商行為である以上消えそうにない。

ジャニーズ問題の解決策として私が考えるのは、
①タレント事務所は解散
②デビュー前のタレント養成校の新設
③継続所属を望むタレントの受け口としての新規事務所を作る
といったところだ。

1年間マネージメント料を取らない?
マネージメントで動いている人達はただ働きですか?
ジャニーズという名がそれほど強いと、まだ信じていますか?

「名前を残せ」という意見は
それだけジャニーズという名の影響力が大きかった証明であり、
タレント事務所の強権が残っているという幻を信じているタレントが多い、
という事に他ならない。

だからこそ、タレントの人間性とタレント自身の尊厳を大事にする事を、
業界各位にもタレント自身にも求めたいと思ってしまう。

2023

本年もよろしくお願いいたします。

ありがとうございます

いつもスタッフに恵まれてきて、
今の自分があると思っている。

仕事に対してはどこか独善的で
特に仕上げ方については誰の言葉も要らない
というスタンスがある。
 
だからスタッフについてくれた人は
かなり面倒なヤツって思っているに違いない。
 
だけど何故か、
皆面倒見が良くて助けられる事が多かった。
 
 
自分の中には「仕事」というスイッチがあって
それを入れれば自動的に「個人感情スイッチ」がオフになる。
 
多分それは、
若造が自分より年上で経験豊富なスタッフを
自分の手足のように使う仕事に就いてしまった経験で
学んだ事なのだと思う。
 
同時に、一緒に働く人達には
仕事がやりやすいようにしたいという思いも強くて、
だから恣意的な行動や感情的な動きを抑制し、
仕事の完成度を一緒に上げていくことだけど自他共に意識する方向へ
導くのが大事だと思ってきた。
 
でも自分、
安定した仕事を淡々とこなし、
ひたすら守っていく事は苦手だ。
 
それはきっと、自分の仕事のやり方が雑で、
「終わりよければすべてよし」と信じて疑わないからって事なのだろう。
  
 

 
 
「実は、早いんですけど定年のお祝いをお渡ししたくて」
 
「え・・嬉しいな」
 
「定年の日より前に、スタッフ全員が集まれるのは今日だけだったんで、
 皆の気持ちでこんな物を、私の独断で選ばせていただきました」
 
 
今の職場のスタッフが私を呼び出して、
定年記念の酒器をプレゼントしてくれた。
 
結局、今の職場で今の立場のまま再雇用となるので、
特に何かが変わるのでもなく、自分自身も今ひとつピンと来ていない定年。
 
会社としても初のプロパー定年者を出す事から
何かこうしよう・・・という考えも無いようで、
気付けば雇用形態が変わっているだけ、なイメージで捉えていた。
 
だから、虚を突かれた感さえあったのだけど
素直に嬉しくて、ちょっと言葉に詰まる。
 
今のスタッフは全員が個性的で、
ある意味、正直過ぎる言動やマイペースな仕事っぷりが
組織の中では浮きやすいタイプに見える。
 
勿論、私のマイペースなやり方はさらに強力なので、
合わせるのは大変だろうと想像するけど、
そんな彼らが考えてくれたプチイベントは、
今まで一緒に仕事してきた全ての仕事仲間に対する
感謝の気持ちを膨らます効果が絶大だった。
 
「これからも、よろしくです」と言える歳だからまだ良いけど、
契約が満了する時にはどんな気持ちで最後の日を迎えるか、
未だ想像ができないでいる。
 
ありがとうございます。
4月からも、よろしくお願いいたします。

空不異色

「たぶん、その言葉が欲しいんですよ」
 

彼はそう、呟いた。
 
どちらかと言えば人見知り。
笑顔を作る事も苦手。
 
だけど仕事のスイッチが入れば
どうにかできる。
 
そんな性格の話を挟みながら、
親との確執の話に話題が流れた頃、
彼は仕事とは別に何かの言葉を求めていることを
言外に匂わせた。
 

なるほど
この人は答えを求めて彷徨い
未だ答えを得る事ができないまま
生きているのだね。
 
私自身の経験を少しだけ話したあと、
「絶対謝らなかった人が『ごめんね』と事も無げに吐いた」
と伝えた時、彼の中に1つの行先案内板が立ったように感じた。
 
 

 
 
「まだ、答えは出ないんですけど。
 きっと欲しい言葉を聞ける事も無いと思いますけど。」
 
 
求める物が何かわかるだけでも、良いと思う。
  
私自身はそれがわからなかったし、
受け取って初めてその意味や重さを知っだけど、
相手にとってはあまりに軽い、という事も見えている。
 
その軽さ故に、立ち止まってしまった恨みをはあっても、
明日へ向けて軽やかに歩けそうな気分は生まれたのだ。
 
そしてそれが、
乗り越えていく力に変化する事も、予想できる。
 
 
そんな会話を、初めて会った人と交わす。
 
その奇跡的な時間がある事は、
表現を続けてきた意味を裏付ける。
 
   
答え合わせは、大事なこと。
それがお互いにできる関係は希有なこと。
 
ふと、そんな瞬間があったことを思い出したけど、
だから今も、構えもなく引き出しから出す事ができるのだろう。
 
これも役目の一つなら、
新しい役を担うだろう厄年も捨てたもんじゃないね。

枝垂れ桜

国花と言えば桜と菊。
菊は皇室の象徴でもあるため、どちらかと言えば桜がイメージしやすい。
 
大島桜と江戸彼岸の交配によりできた染井吉野は
現在日本ではもっとも有名な桜ではあるけど
その全てはたった1本の桜のクローンだという事がわかっている。
 
韓国の済州島に咲くエイシュウザクラは染井吉野の起源と言われた事もあったが、
瀛洲桜(エイシュウザクラ)は江戸彼岸と大山桜の種間雑種であり
染井吉野は江戸彼岸と日本固種である大島桜の種間雑種の雑種である
との論文が出され、科学的には似て非なる物として現在は考えられている。
 
でも、正直言って、花の色や枝振り等に大きな違いが無ければ
自分には同じ桜として見てしまう。
 
 
自宅前にあった一軒家に咲いていた桜は、
染井吉野より1〜2週間早く咲き、散るのにも時間がかかる
見事な桜だった。
 
その桜が葉桜になりだす頃に、近くの公園の染井吉野が一斉に開花する。
すると、窓には幾重もの桜が見える贅沢な借景が楽しめたのだが、
ある日その桜はばっさりと切られ、そこには3階建て住宅が建築された。
 
その結果、遠くに見えた公園の桜も見えなくなり、
春の一時の贅沢は夢幻となってしまう。
 
日本人は桜を心待ちすると言われるけど、
実際、桜をどこか心待ちにする気持ちが自分にもある。
 
窓から見えたろう桜が今は黒っぽい壁になってしまって
寂しい気持ちが訪れる春になってしまったのだけど、
ならば美しい桜を撮るのも良いな、と、昨年はしっかり撮影してみた。
 
 

 
 
枝垂れ桜は江戸彼岸の枝垂れ品種と言われているけど、
この桜は1993年に仙台から移植された物と聞いている。

山下公園にこんな桜があると知らなかったのは、移植された時期には
山下臨港線の高架が残っていて目立たなかった事と、
そもそも桜を見るなら山手でしょ?ってイメージが自分にあったからだろう。

染井吉野よりは早く咲き、その花は長めに咲き続けるので、
旅行者が山下公園で桜を愛でるには良い選択だったのかも知れない。

ぱっと咲いてぱっと散る桜は
義のために命をかける武士の生き方や、
死ぬ事が武士道と言われるが故に潔く散る桜の様をなぞらえるが、
花は散っても木は残り、また来年再来年と新たな花をつけていく姿は
どこか庶民の暮らしを想像させる。
 
だからこそ、花は美しくあって欲しいし
その花を咲かせる社会は、美しさより強かさが大事なのだ。
 
昨今、政治の世界や社会の流れが、
表面的な視界でしか動いていないように感じるのは、
花の美しさだけを見続けたいと願うような無理を
深く考えずに信じる人が増えたという事なのかも知れない。
 
育ち過ぎた枝垂れ桜は、
枝を支えてもらわないと自立できない状態になるが、
名木とされると折れる事も許されなくなる。
 
美しく派手な姿を維持するよりも、
花をさかせる木の方を大事にすべきと思うのだが、
それでも時に、花に目を捕られてしまうほどの美しさは
人を惹きつけて放さない魔力を持っているのだろう。

今年もまた、桜を撮ろう。

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