金曜の夜に風邪を引く

決まりきらない想像の旅

失う寂しさの向こう側

引っ越す前、自宅近くのバーに良く通っていた。通い始めた頃に働き始めたバーテンダーの女の子のキャラクターに癒されて、いつしか常連になった。他のバーテンダーも良い子ばかりで、通えば通う程、自分の居場所の一つになっていった。だから、引っ越す時は本当に惜しかった。ギリギリまで、そこに住み続けられないかと思った理由の一つだった。

遠くはなったものの通えない距離では無かったので、定期的に顔を出していた。だが副業の頻度が上がり余暇に使う体力が減ると、段々と足が遠くなってしまっていた。

「私、辞めるつもりです。」

その言葉を聞いたのは、もう一年近く前だった。お世話になったお客様だから、最初にお伝えしたかったと。その言葉が嬉しかった。でも、足が遠くなってから本決まりの連絡をもらったのは、何とも申し訳なかった。そして、覚えていてくれた事がまた嬉しかった。

久しぶりに店に行くと、いつもの笑顔で迎えてくれた。決してお給料の良いお店では無かったせいもあって、誕生日や店の記念日など、折に触れプレゼントがてらハンドクリームを渡していた。消耗品が一番助かるんです、といつも喜んでくれた。もうそれを渡す必要は無かった代わりに、昼間の仕事を始めると言う彼女に、高いものではないが目覚まし時計をあげた。私、目覚まし良く壊すんですよ、良いんですかと言うので、消耗品なら尚良いじゃないかと返した。

昔話に花が咲いて、帰る段になった時、「またお待ちしていますね!(笑)」と笑顔で送ってくれた。元気でね、何かあったら連絡してねと言うと、お世話になりました、と深々と頭を下げられた。これが最後なんだな、と思いつつ、何となくではあるけれど、この店自体とも一区切りがついた気がした。

元々足が遠くなっていた。それは決して、忙しいせいだけではなかった。結局は距離のせいなんだろうけれど、私のその店に対する情熱は距離を超えなかった。環境は行動を決める要素としてとても大きいにせよ、それがとても寂しかった。

昔、似た寂しさを経験した事がある。以前はBUMP OF CHICKENの大ファンで、BUMPに興味が無い大人にはならないとさえ思っていた。でも万物と同じようにいつか熱は薄れ、気が付けば全く聴かなくなっていた。気持ちが離れるきっかけはあったけれど、それが理由でファンを辞める程重大なものでは無かった。でもそれが、最後の決定打であったのも事実だった。

この寂しさは執着だ。かつての熱が薄れて行く事への寂しさだ。それは命にも似て、自分の力で引き止める事は出来ない。情熱の残り火で、それが消えて始めて忘れたと言う状態になるんだろう。大好きだったものを好きでなくなる訳ではないけれど、心の中の居場所は後ろに下がる。思い出と言う薄い縁で繋がる存在に変わる。それ自体が今、とても寂しい。

彼女の前途が幸多きものでありますように。きちんとした区切りをくれた彼女に、ある意味感謝している。

報われるかは時の運でも

現在の職場で、外国人の雇用使用中止が決まったために、通訳職が総じて切られる事になった。ただ解雇通告は1ヶ月以上前にしなければならないという法律があるらしく、通告の日からほぼ何もしないまま、在籍だけする1ヶ月が始まる事になった。

申し訳程度の作業が与えられているものの、いつ次が決まって抜けるか分からず、また通訳作業自体はほとんどなく、こういう状況を作ったという申し訳なさからか上からの監視も緩く、通訳職の勤怠におけるモラルハザードが容易に起きてしまった。

昼休みを2時間取る、何がしかの理由をつけて仕事でもないのに1時間以上席に居ない。今までは通訳職は仕事がある時は基本的に席にいなかったので、不在が自然なのもあって、半ばやりたい放題になっている。

自分はと言うと、 振られた作業をさっさと終わらせて、でもそれを言うと次の作業が結構なボリュームを伴って速攻で飛んで来るので、現在の作業をこねくり回して品質を上げている。広いシマでぽつんと作業を続ける中、すごい集中力で作業を続ける別の通訳職の方がいらした。

私よりもはるかに難しくボリュームの大きい作業を、何の文句も言わず淡々と続けている。みんなどこ行っちゃったんだろうねーと笑いながら特に非難もせず、作業に対する質問ばかりが飛んで来る。環境に引っ張られてだらけそうになっていた自分の背筋が伸びる。混在する環境なら、取捨するのは自分だ。

因果応報なんて偶然の産物でしかないといつも思う。明確な因果関係を見出す事なんか出来ない。でも、この環境の中淡々と責務をこなす彼女の背中を追って行きたいと思う。報われる事と耐える事とに因果関係はなくても、それが自己満足でも、最低限の矜持は失わずに仕事をしたい。報われるかは、時の運でしかないと分かっているけれど。

正しさの分かれ道

先日会社で、パソコンにログインする際に使うワンタイムパスワード発行機を紛失した方がいた。自分が持っている常識からするとこれはとてもとても大事なもので、まず紛失などはあり得ず、万が一起こってしまうと多方面に多大な迷惑をかけてしまうという代物である。

一悶着はあったものの、正規の手続きを踏んで再発行がされるまで、その紛失した方とパソコンを使い回すように、との指示が上司から出た。これも自分が持っている常識からすればIDとパスワードの使い回しと言うコンプライアンス違反で、指示した人よりも実際にやった人の方が罪に問われる。ただ上司の言う事なので逆らえない、と言う二律背反の状況で考えた結果、その紛失した方にパスワード発行機の不要なパソコンがある別の拠点で働いてもらうのはどうか、と上司に提案した上で、使い回しの算段を立てていた同僚に、自分はそれには加わらない、と勝手ながら告げた(要は、遠回しに逆らった事になる)。

結局の所、その方は別拠点で働く事になり、自分達はコンプライアンス違反から逃れられた。別の同僚にこの話をしたところ、そんな事(使い回し)しちゃいかんよね、と即座に返って来たのだけれど、この「上司から言われたから特に疑わずに言われた通りにする」ことと、「事実は事実としてダメな場合にはダメと判断して行動する」ことには、どんな差があるんだろうと思う。ただの知識の有無だけでなく、知らない事に対して倫理的判断を下す時に、結果的に間違わない何か。常に自分の頭で考えているかどうかという事なんだろうか。判断力の差、と片付けてしまうのは何も生まない気がする。

そんな場面で、基本的に間違いを起こさない人は一定数居る。やはり、生まれ持って場合によっては鍛錬して来た判断力の差に由来すると考えるしか無いのか。それを鍛える方法を知りたい、今の自分には分からない。

構ってちゃんでも良いかしら

最近、会社で仲良くなった方と、映画の話を良くする。勧めてくださった映画を観たと言う事実そのものを伝えたくてその旨を言ったら、感想の伝え合いになったのだけど。

私が勧めた映画は、あれも観た、これも観たとサラッと言ってくださった後に重かったねー、と言われて、それだけで終わった。でも何だか、コミニュケーションにおいては負けた気がした。私は観た事実を先に伝え、彼女は感想を先に伝えた。私は、観た事実をコミニュケーションの道具にしてしまったのに対して、彼女はあくまでも内容を尊重した。自分がなんだか構ってちゃんに見えて、恥ずかしくなってしまった。

でも、それだけ彼女が好きなんだな、とも思った。なんだか子供っぽいけれど、大事に続けば良いなと思った。

【映画レビュー】美女と野獣

ディズニーと名のつくものは基本的に好きだ。アニメ映画版美女と野獣はその中でもトップランクに好きだ。二桁回は観直した映画で、初めて観た時にまだ高校生だった自分は、留学してディズニーアニメの声優になるんだと規模だけは壮大な夢を描いた事がある程度には好きだ。

その映画が実写化されると聞いて、半ば冷めた気持ちで楽しみにしていた。きっとあれ程の事はない、それなりに再現してそこそこの満足が得られるんだろう、別物として観よう、と変な覚悟をしていた、が。

正に「実写」化だった。アニメ版そのまま、本当にそのままの世界が3Dで広がり、落胆など微塵もする事もなく、テンポの良い見せ場が続いた。主人公は実写化以上の実写化美しさで、見とれるしか出来なかった。

ただ一つ、ガストンに愛嬌が感じられなかったのが悔やまれた。アニメ版と違う描き方で、その描き方から、「実写のガストンは徹底的な極悪非道」と設定している明確な意図を感じた。アニメ映画版ガストンはもっと、ヒロインへの一本気な愛ゆえの憎めなさがあった。ガストンの極悪非道さ故に物語が分かりやすくなった部分はあるのだけど、アニメ版は基本的に子供対象、映画版は大人対象と言う事なのかもしれない。あんな大人、子供は知らなくて良い。

アニメ版を観ていなくても好きでなくても、きっと楽しめる。観終わって、とても長く良質なアトラクションを体験した気分になれた。プロの本気がそこにはあった。あの大好きなアニメ版が実写化されてこうなって、本当に良かった。

【映画レビュー】あの頃、君を追いかけた

あの頃、君を追いかけた[Blu-ray]

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誰の言葉かは知らないが、「私があなたを好きな事に、あなたは関係が無い」と言う言葉がとても好きだ。好意は単体だとどこまでも自己満足で、そこにいる「あなた」は心の中にいる「あなた」でしかない。相手の気持ちが自分に向いて初めて、恋は恋愛となり始める。

ただ、恋が恋で終わった時、その結晶が心に何を残すのかは、相手の反応によって変わってくるようにも思う。こっぴどく振られて嫌な思い出になるか、叶わないながらも気持ちを大事にされて昇華出来るか。

余程運の良い人でない限りは、叶わなかった恋の一つや二つ心に残っていて、何かの折に思い出す事もあるだろう。この映画は、その「何かの折」となって、それをとても優しく思い出させてくれる映画である。

思い合ってもタイミングが合わなかっただけの2人だと言ってしまえば情緒は薄れてしまうけれど、そこには確かに想いがあって、それはとても大事だった。思い出の一つ一つ、その頃感じていた事の一つ一つ、冒頭から遡って語られる形で物語は進んで行く。不器用さはすれ違い、道を違えたままにしてしまうけれど、若さとは悔いが残るもので、それも含めて縁なのだろう。

コミカルとシリアスの振れ幅が大きいからこそ、今までに見た事の無い種類のラストの優しさが際立ち、誰かの「あの頃」がこんな終わり方だったら良いんだろうなと思わせてくれるようなファンタジーだった。もうきっと会える事の無いあの人が、ヒロインのようにきっと笑っていてくれますように、願わくば、自分にも優しい気持ちを抱いてくれていたんだと思えますように。観る人の「あの頃追いかけた想い」への優しさに満ちている映画だった。

そこにある距離

先日、本当に偶然に、昔とてもとてもお世話になった方のお身内の方にお会いする機会があった。その方とお会いした場所から千キロは離れた場所で、偶然と言うには珍し過ぎる出来事だった。

その方にいただいた言葉で、今でも心に留めているものが沢山ある。時々思い出して、心を引き締められるもの。それがあるから今があるんだと、人生を救ってくれた方の1人です、とお身内の方に間接的にではあるけれど、お伝えする事が出来た。

当時からもう十数年以上抱えていた、通訳になるという夢を叶える事が出来た事も伝えられた。伝えられる機会がある事自体がありがたく、奇跡みたいな偶然に感謝した。

SNSで簡単に繋がれる今だけれど、それは曖昧な距離を分断し、繋がっているか繋がっていないかという状態のどちらかに明示的に分けてしまう。その二つの間にある、連絡は取ってはいなくても何となく相手を思っているような、そこはかとないありがたさを塗りつぶしてしまう。もちろん、こんな偶然をありがたがる事も減ってしまう。

SNSの便利さを否定はしないけれど、これまで通り、繋がりを求め過ぎない姿勢を続けようと思った。またいつか今回のような、素敵な偶然があるかもしれない。今ある繋がりを大事にして、遠い昔のそれを懐かしみ、いつか伝えられる言葉があるかもしれないと準備をしておく。距離を明示化しないこと、そこにある曖昧さ。それを改めて、大事にしようと思った。

あまり変わってない私を見て、あの方は何と仰るだろうな。その方の今の写真を拝見する事が出来たけれど、変わらない優しい笑顔だった。いつかまた、お会い出来たら良いな。同じような距離にある他の人にも、いつか言葉を届けられて、今を知る機会があると良いな。願わくばそれが、幸せなものでありますように。そう思わせてくれた、素敵な出来事だった。