2024年4月14日日曜日

みちのくいとしい仏たち⑥(青森県五戸町毘沙門天像)

 

この展覧会コンセプトは民間仏の紹介だが、青森県五戸町に伝わる毘沙門天像はいかにも名もなき僧や職人によって造られた、遊び心満載の仏像だ。大きな兜と大きな兜と重そうな衣装をまとい、型抜きの枠の中に造形毘沙門天の姿は玩具のようにさえ見える。帯を締めた獅子がみは獅子でなく鬼の顔になっていて、足元に踏みつけられながら笑っているような邪鬼の顔に繰り返されている。青森県南部地方に残る民間仏の中でも出色の像である。東京ステーションギャラリーの学芸員はその邪鬼の表情に注目して「仏教図像よりも土地の共通理解が優先された見本といえ、踏んづけられた邪鬼さえかわいさ満点です」とのこと。雪国の厳しい自然環境の中ユーモラスをもって人々に寄り添う仏像の姿であろう。

2024年4月7日日曜日

みちのくいとしい仏たち⑤(青森恵光院の女神像)

 

2015年に東博で「みちのくの仏像」が開催され2008年の夏から東北の仏像巡りをして来た私には再会した仏像や初めて見る仏像に出会ったいい展覧会だった。その会場の片隅に置かれていたのが、この青森恵光院の女神像だった。東博の図録解説によると「青森県三戸郡の南部町にある恵光院はもと長谷寺といわれ、霊峰・名久井岳の麓に位置しています。秘仏として尊ばれている十一面観音菩薩像は県下で屈指の古像として知られますが、ともに伝わった女神像は最近の調査で見いだされたものです。女神像は、頭からすっぽりと衣をかぶって座り、腕前であわせた両手を衣に包んでみせないため、全体のずんぐりとしたシルエットが際立ちます。衣からのぞく顔は、のびやかな円を描く眉に、目尻を下げた優しいまなざし、厚い唇とゆたかな肉づきの頬が印象的で、東北にに根差した母なる大地の神にふさわしい姿です。」とのこと。この女神像は古像だが、内繰りを施していないと思われたが背面に亀裂を施して正面の干割れを防いだという製作技法にまで触れている。本展の図録では「ふっくらした身体に大らかであたたかい表情は、幸福に包まれることを願った表れです。」と女神像とそれを祈った人々の思いに言及し「くらしに寄り添う仏像」というコンセプトで解説しており味わい深いものとなっている。いつか青森を訪ねることがあったら、恵光院を訪ねたいと思った。







2024年3月30日土曜日

祝重要文化財 南禅寺伝来諸像

 


南禅寺伝来諸像との出会いは今から12年前の2012年5月のことだった。「ふるさとの仏像に会いに行く」に掲載された静岡県河津町にある南禅寺(なぜんじ)にある仏像に仏像クラブで会いにいった。町の世話人の方に訪問日を告げ、河津桜は終わり新緑が眩しいよく晴れた日に古びたお堂にある26体の仏像に出会った。二天像やガラスケースに入った薬師如来・十一面観音・地蔵菩薩が印象的だった。今年の重要文化財に指定されたのが南禅寺伝来諸像で26体一括の指定となっている。解説文によると「南禅寺堂と呼ばれる堂に伝来した26躯からなる木彫群で、堂の本尊、薬師如来像をはじめ、大半が10~11世紀の製作になり、仏・菩薩・護法神など当時の堂宇に安置される主要な尊格が揃う。いずれも一木造で仏像は基本的にカヤ材、神像はクスノキ材を用いる。各像の作風や製作技法に共通点が認められることから、同系統の工房が当地において継続して造像をおこなったことが推定される。平安時代の地方における造像のさまを如実に伝える遺品として重要である。また十一面観音像の一躯は素朴な作風ではあるが、カヤ材の一木造で各所に古様を示すことから、奈良時代に遡る製作とみられる」とのこと。町の世話人が必死に守り河津町が展示館を立てて守った仏像群がこうして国に評価されるのが喜ばしいことだ。関係者にお祝い申し上げます。


2024年3月23日土曜日

祝国宝 「大報恩寺六観音・地蔵菩薩」

 
今年の国宝彫刻の部は京都・大報恩寺の六観音・地蔵菩薩が指定された。この六観音と快慶の十大弟子、行快の釈迦如来を何度も京都や上野の展覧会でも出会った。見るたびに感動した仏像群だが、六観音がまだ国宝になっていないのは驚きだった。文化庁の解説によると「准胝観音像の銘文に名が記される肥後定慶を統率者として六人の仏師により造られたとみられる六観音で、像内銘や納入品から貞応3年(1224年)に制作されたことが判明する。克明な写実を踏まえて情感に富んだ菩薩像の様式を造りだし、鎌倉時代彫刻の一つの到達点を示した仏師として、運慶次世代の中で最も注目されている定慶の代表作であり、当代の壇像彫刻の代表的な遺品である」と肥後定慶をほめちぎっている。山本先生の「鎌倉時代仏師列伝」によると私は各地で肥後定慶作品に出逢っていることがわかった。京都では大報恩寺像と鞍馬寺の聖観音、岐阜県では横倉寺の金剛力士像、鎌倉で明王院不動明王と展覧会で鎌倉常楽寺阿弥陀三尊と多い。山本先生によると大報恩寺准胝観音は「運慶が完成した興福寺北円堂弥勒仏に通ずる。しかし、髪筋の一部を天冠台に配した花形飾りの中心の孔に通すなどの細工をした髪型や、やや複雑で変化にとんだ衣文の形は古代の壇像彫刻の一部をとりこんだと思われるが、独特のはなやぎがある。」それから肥後定慶はよく言われる運慶の息子ではなく、運慶風を基本としたが古代壇像彫刻も作風に取り入れられた独立した仏師だと結論ずけている。とにかく国宝指定はめでたいことだ。まだ文化庁より令和六年度国宝・重文展の発表はないが、大報恩寺の出展があるかどうかが注目されるだろう。

2024年3月16日土曜日

特別展「中尊寺金色堂」⑤(二天像)

 

特別展「中尊寺金色堂」の仏像展示の最後を飾るのが、二天像だ。持国天は目を瞋らして口を結び、左手を高く上げて右手を強く振り下ろし、これに呼応するように袖が大きく翻る。増長天は口を開き、増長天とは逆に右手を高く上げて左手を振り下ろし、袖を大きく翻す。激しい造形は左右対称形に破綻なく造形する。口の開閉、身体の色から判断すると本来像名が逆で、安置位置も現在と左右逆であった可能性が指摘されている。前回の地蔵菩薩のブログで書いたようにもとは当初基衡壇にあったものと推定される。白水阿弥陀堂や鎌倉大善寺の二天像のように本像を模したと思われる仏像も安置され規範性のある著名な像であったと推察される。おそらく源頼朝も目にしており、鎌倉永福寺に同じ像を運慶に造らせたであろう。台座は後補でユーモラスな邪鬼があてられているが荒々しい奥州にある中尊寺にふさわしいのは岩座であろう。そのような想像をめぐらしながら会場をあとにした。