母の四十九日法要を終えた。
五月の終わりに母が肺腺ガンであることを聞かされた。まだ自覚症状も全くなく元気で検査を待っていたのだが、その1週間後に軽い脳梗塞を発症し、ガンもステージ4まできていることがわかり入院することになった。そこから坂道を転がるように容態は急変し六月の後半に母は逝った。私はまともな会話も交わすことができず、昏睡状態に陥っていく母の姿を見守っているだけだった。
元気な姿で最後に会ったのは子供たちの中学の入学式の日。入学のお祝いを受け取り、一緒に中華料理を食べに行った。五目麺を平らげる母の姿に体の異変など露ほども感じなかった。
最後に会話をしたのは母の日。膝の悪い母に新しく贈った杖に対してのお礼の電話だった。30秒ほどの会話で、「はいはい、じゃあね」といつも通り淡泊なやりとりだった。新調した杖を使うことが出来たのは3週間程度だったことになる。
母の意識が混濁し始めた六月上旬。実家に行くと家の至るところに生けてあった花が、ことごとく萎れていた。大阪から、東京から、私は毎週末病院へ見舞いに行ったが、すでに会話をすることは叶わなかった。ただし呼び掛けには辛うじて動く左足と右目で、懸命に応じてくれていた。
亡くなる十日前。まだ耳は聞こえているであろう母に、ふたりきりの病室でお礼とも報告ともつかないような話をした。
まともに育ててもらったこと。いい孫たちが揃っていること。私のいまの境遇について。そしてあなたが育てた姉弟三人、仲が良いこと。
それらはあなたのお蔭です。ということを伝えた。生まれて初めて母にお礼らしき言葉を述べた。聞こえているかのような反応はあったが、実際はどうだったのかわからない。とにかく、優しい言葉を掛けてあげるには遅すぎた。
亡くなった、という報せを受けても、もう悲しくはなかった。あんな姿の母をこれ以上見続けることのほうが余計につらかった。
このところ病院で会っていた母よりも、棺のなかで穏やかな顔で横たわっている亡骸のほうがむしろ私の知っている母の姿だった。
私はそれからも人前で涙を流すことはなかった。母がつよい男の子として育ててくれたからだ。
親戚からは、やさしい兄や面倒見のいい姉と比較して、冷たい次男だとみられたかもしれない。
父も気丈に振る舞い、通夜、告別式ではみごとな挨拶だったが、ふと弱気な言葉も漏らすことがあった。
気持ちの準備もつかぬままの、85歳、男ひとり暮らし。さぞ不自由ではあるだろう。さびしくてたまらないだろう。
四十九日で実家に帰って、あの声が響かないこと、家のあちこちに生けられた花がないことに母の不在を感じた。
これからは正月の雑煮も、春の山菜づくしの料理を楽しみにすることもできない。そうやって、我々は生活の変化を受け容れていくしかないのだろう。
確かなのは、どうあがいても手に入らなくなるものが、人生にはある日訪れるということだ。
もう少し、丁寧に生きてもいいのかな。
うだるように暑い夏の日のなかで、そう考えさせられた。
さて、来週は夏休みだ。