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ブロマガ

  • 庭について:その75(1,655字)

    大名庭園は徳川家康が江戸に幕府を置いたことによって始まった。 家康は、もともと駿府(静岡市)に本拠地を置いていたが、豊臣秀吉が1590年に小田原を本拠地とする北条氏を滅ぼしたため、北条氏が管轄していた関東の土地を家康が管理しなければならなくなった。 そこで家康は、太田道灌が1457年に築いた「江戸城」に本拠を構え、部下たちを周囲に住まわせた。そうして「大名屋敷」が、江戸城下にいくつも作られたのだ。 ところが、後に江戸幕府が開闢し、しばらく経った1657年、明暦の大火という大火事が江戸で起こり、多くの大名屋敷が燃えてしまった。これをきっかけに、幕府は大名たちに「第二第三の屋敷」を持つことを許可した。再び火事が起きたときの避難場所として使うためだ。 そうして、江戸城に近い屋敷を「本屋敷」、第二の屋敷を「中屋敷」、第三の屋敷を「下屋敷」と呼ぶようになった。江戸城から近い順に「上・中・下」で、下に行くほど屋敷の面積が広い。 当時の江戸は、江戸城周辺以外は何もないところだった。西にはいわゆる「武蔵野」が広がり、東側には隅田川などたびたび氾濫する川がいくつかあって、湿地帯が広がっていた。そんな自...

    1日前

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  • 1994:その13(1,737字)

    1994年を語る上では1980年代がだいじになってくる。 ところで、ぼくは1980年に12歳になり、1989年に21歳になっているから、ティーンエイジャーの青春時代を丸々80年代で費やした。そして、当時は分からなかったが、そのときも歴史は動いていたのだ。抗いがたい力が社会に作用して、人々を右往左往させていた。 当時ティーンエイジャーだったぼくには、そういう意識は全くなかった。自分が時代の流れに翻弄されている意識すらなく、ただ毎日をがむしゃらに乗り越えようとしていた。日々をどうにか耐えしのぐことで精一杯だった。 だから、極めて近視眼的だった。俯瞰できていなかった。メタ的な視点がなかった。自分が今どこにいて、どこに向かおうとしているのか、分からないだけではなく、そういう考え方が存在するということすら知らなかった。 井の中の蛙とはこのことだ。周囲を壁のようなもので目隠しされているので、そこが「時代という大河」だとは全く気づかなかった。小舟に揺られ、大きな力で押し流されているなどとは想像もつかなかった。 しかし今は違う。今は俯瞰的な視点を得ることができて、「時代という大河」を意識できるようになった。だ...

    2日前

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  • [Q&A]なぜ新NISAはブームになったのか?(2,163字)

    [質問] noteの『これからの資産形成』という記事を読みました。「安い畑があったら買い取っておくこと」と書かれていましたが、以前から、農地(地目が田畑)が欲しいと思っても、農業従事者でないと買うことができないので仕方がなく山林を購入して自分で開拓して農地を作りました。自治体によっては空き家バンク制度で、狭いですが農地付きの家を購入する事ができます。ハックルさんは農業従事者の資格は持っていないと思われますが、何か農地を購入する手段をお持ちでしょうか? それと、もし農地をお持ちでしたら、効率的な農地の維持管理方法など知っていれば教えて下さい。 [回答] 実はぼくも知らなかったのですが、去年に農地法の一部が改正されて、取得条件が大幅に緩和されたんです。 「農地法関係事務に係る処理基準について」の一部改正について 上のリンクには明記されていませんが、実は「専業農家」でなくとも、「兼業農家」あるいは「家庭菜園者」として一定時間農作業に従事してくれるだろうと地元の農業委員会が判断すれば、取得が許可されるようになりました。 そのため、普通の不動産サイトに、農地が出るようになっています。 例...

    3日前

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  • 劣化する人:その20(1,942字)

    劣化する人が増えたのは、結局勉強に向いていない人に勉強をさせてきたからだ。今から60年前の1960年代までは、勉強に向かない人は勉強をしなかった。しかしそこから勉強社会、受験社会に移行し、全ての子供にほとんど強制的に勉強をさせるようになった。 その結果、勉強に向いていない子供も勉強をするようになった。だから、心に不調をきたす子供が増えたのだ。 それでも、中には勉強ができないのに、心に不調をきたさず、学校の成績を上げられる人々も現れた。いわゆる器用で、モノマネが上手い人たちである。彼らは、勉強ができる人のモノマネをすることで、学校時代を乗り切った。そしていい会社に就職し、最初はできる社員のモノマネをすることで好成績をあげた。 ところが、30代後半からきつくなった。10年くらい前まで、「プログラマー40歳定年説」というのがあった。プログラマーは若い人にしか向いていないため、40歳が限界である。そこを越えるととたんにパフォーマンスが下がるから、引退せざるを得ない――というものだ。 しかし今、この説はあまり囁かれなくなった。理由は、40歳を越えても活躍するプログラマーが目立つようになったからだ。 ...

    4日前

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  • 石原莞爾と東條英機:その45(1,708字)

    満州事変で石原莞爾が激動の中心にいた頃、東條英機は何をしていたのか? 彼は東京にいた。歩兵第一連隊長として、出世街道のほぼど真ん中を順調に歩んでいた。 一方で、東條は一夕会でもど真ん中を歩いている。一夕会のトップは押しも押されもしない永田鉄山だったが、東條はその直下のナンバーツーだった。そして、忙しい永田に代わって、一夕会の中心的な役割を担っていたのだ。いうならば「幹事役」だった。 ここまで見てきたように、一夕会は静かなるクーデターを目指した反逆者たちの集まりだ。彼らの目的は二つあって、一つは陸軍の合法的な乗っ取り(と改革)、もう一つは満蒙問題の解決である。 そうして一夕会のうち板垣・石原ラインが満蒙問題――すなわち満州事変の中心的役割を担っていたため、東京にいた永田・東條ラインが静かなるクーデター――すなわち陸軍の改革を担うようになっていった。 そこで東條は、歩兵第一連隊長という役職に就いた。歩兵第一連隊は、東京の中心を守る第一師団の中心連隊だ。通常は東京近郊の警備を担うが、戦争時には外地へも赴く。かつては後に陸軍の英雄となる乃木希典もこの役職に就いていたため、非常に栄誉あ...

    5日前

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2014/01/30 11:01

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