生活

 生活が苦手だ。昔からずっとそうだったし、これからもそうなんだろう。朝起きること。出かける準備をすること。家を出ること。生活に必要なものを買っておくこと。掃除。洗濯。炊事。お風呂に入ることも、夜眠ることも。全部全部、苦手だ。

 高校生のとき、遅刻を連発して担任に呼びだされ、「そんなんやと社会でやっていかれへんぞ」と注意された。私は過呼吸になった。遅刻をしない自分がどうしても想像できず、「じゃあもう、無理やん」と思ったのだった。

 あれから15年経ち、私はまだ生きている。遅刻してもさほど問題にならない仕事に転職し、生活における心配事をひとつ減らすことができた。自分で決めた時間に間に合わないとやはり自己嫌悪にはなるけれど、「このままだと生きていけない」という焦りはなくなった。

 私は生活が苦手だ。けれど、このままなんとか、やっていけそうな気もする。だってもう何年も、こうして生きてきたのだから。

 

 毎日ぐちゃぐちゃなこの暮らしを、「これが私の生活だ」と、そろそろ思ってもいいのかもしれない。「私は生活ができない」と思う代わりに、「私の生活はまあ、こんなもんやろ」と割り切って、こんな自分を許してしまっても、いいのかもしれない。

 怠惰な考えだろうか。でも、日々やり残しているさまざまな家事を、本当はやらねばならないのだと毎日毎日考えていると、それだけでもう、しんどい。苦手科目を毎日毎日履修しなければならず、永遠に卒業できないなんて、どんな地獄だろうか。

 この生活への後ろめたさを、もう捨ててしまおうか。どうせ、ずっと大事に持っていても、なんの役にも立たなかったのだ。自分を責めることでちょっとだけ許された気になって、アウトプットは何も変わらないまま。自分で自分に鞭打ってできるようになることなら、もうとっくにできているはずなのだ。

 30代。追いかけてきた夢を諦めることも増えてくる年齢だ。「ちゃんとした生活」は、私にとってはきっと、叶わぬ夢だったのだ。

 さようなら、私の夢。これからは、この荒れた部屋、睡眠時間がばらばらな日々を、「私の生活」と呼ぶことにします。

返事が来ない

 仕事のメールの返事が来ないので、悶々とした日々をすごしている。

 相手のことをよく知らないので、どんなつもりでいればいいのか、わからない。ただ忙しいだけかもしれない。それなら待っていられる。季節の変わり目で、体調をくずされたのだろうか? もしそうなら、私への返事のことなど忘れて、お大事にしてほしい。ひょっとして、細々としたタスクを後回しにしてしまうタイプの人なのかも。私にもそういうところがあるので、その気持ちはよくわかる。

 あるいは、私が何かまずいことを言ってしまい、仕事相手として不適格だとみなされたのだろうか。だとしたら、この仕事を紹介くださったかたに申し訳ない。

 それとも、私の送った問い合わせ事項が、想定よりもはるかに厄介なことになっているのだろうか。いまこのときも、私のメールに回答すべく、奔走してくださっているのかも。

 

 わからない。ひとことも返事が来ないので、相手の状況がまったく見えてこない。

 不安や心配がつのっていく。ひとつひとつは、薄くて軽い、大したことのない不安でも、時間がたつうち、いつのまにか分厚く積み重なって、息が詰まりそうになってきた。

 

 ひとことだけでいいから、返事がほしい。状況を知らせてほしい。そうすれば、安心できるから。

 でもそれは、私の都合。相手の都合は、私の手の届かない場所にある。

 

 リマインドメールを送って、それにも返事が来ないので、もはや打つ手がなくなった。あとは待つしかない。いや、本当は電話をかけることも出来るのだけれど、できればやりたくない。私はよく知らない相手への電話が大の苦手なのだ。これは、私の都合。

 不安に埋もれながらすごす日々。返事がきた夢をみて、起きて、メールボックスをチェックする。来ていない。私が送信に失敗したのかも? 何度も確認する。送信済みになっているし、宛先に間違いもない。何度かやりとりしている相手なので、私のメールが相手の迷惑メールに振り分けられている可能性は低い。もちろん、こちらの迷惑メールボックスにも、相手からの返事は届いていない。何度も何度も確かめるうち、不安が苛立ちに変化しそうになる。

 

 このままだと、いっこうに返事をよこさない相手を恨みはじめてしまう!

 そう思ったので、いったん不安な気持ちを手放すことにした。スケジュールアプリを開き、数週間後の適当な日に「〇〇様に再連絡」の予定を登録する。そこに今抱えている不安をぜんぶぶち込み、「閉じる」を押してふたをする。

 これで、しばらくは大丈夫。その日が来たら、その日からまた不安になればいい。

 それまでは、さようなら。私の不安。

 

 

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パピヨン

 フランス語には蝶と蛾の区別がなく、どちらもパピヨン(papillon)というらしい。もし区別が必要なときには、蝶のことを昼のパピヨン、蛾のことを夜のパピヨンと表現するようだ。

 日本語だと、なんとなく蝶は華々しいイメージを、対して蛾は禍々しいイメージをもっている気がする。「ガ」という音からして、なんだか耳がざらつく。フランス語はどちらも同じ可愛いひびきで、なんだかいいなあと思う。

 

 人の認知と言語とは、相互作用する関係にあるようだ。認知、つまり物事の捉えかたが言語(語彙や文の組み立て)に影響することもあれば、その逆に、言語が物事の捉えかたに影響することもある。

 そして、物事の捉えかたは、人の心理状態にも影響をおよぼすらしい。心理学には詳しくないが、「リフレーミング(Reframing)」という、物事の捉えかたを変えることで心に働きかける手法について、耳にしたことがある。

 言語が認知に作用し、認知が心理に作用する。目の前で起こっていることは同じでも、それを表現する言葉が変われば、感じかたが変わりうるということだ。

 

 これには、いい面と悪い面とがある。いい面は、人はどんなに悪い状況にあっても、それを表現する言葉や捉えかたを変えることによって、前向きでいられるということ。そして悪い面は、言葉を巧みに操る人たちによって、私たちがいだく印象を操作されてしまう恐れがあることだと思う。

 

 ひとつの物事を表現するのにも、さまざまな言葉を当てはめられる。どの言葉を、どのような順番で、どのように繋いでいくかによって、言葉を発する自分自身も影響を受けるだけでなく、言葉を受けとった人たちにも、何らかの形で作用する。

 言葉が人を救うこともあれば、言葉が人を殺すこともある。言葉をあつかう者のひとりとして、まずはそのことに自覚的でありたい。

 そして、他人の言葉に騙されないようにしたい。これはなにも、「他人の言うことを信じない」というのではない。その人の言葉は、その人の見方でもって組み立てられたものだ。立ち位置を一歩ずらせば、光の当てかたをすこし変えれば、また違ったものが見えてくることもある。そのことを忘れずに、さまざまな立場の人の言葉に耳を傾けるようにしたい。できるときには、実際どうなのかを自分の目で確かめることも大事だろう。そのうえで、最後には自分自身の言葉で、その物事をとらえなおしたいと思う。

 

 言葉の使いかたが巧みな人は、自分の見方を色濃く印象づけるためにあえてセンセーショナルな言葉を使ったり、反対に、ほんとうは加害の意図があるのにその意図を隠しつつ相手を傷つけるために、優しい印象の言葉を使ったりする。言葉には力がある。だからこそ、ときには警戒が必要だ。

 さまざまな言葉が飛び交うSNSを見ていて、そんなふうに思った。

 

最近読んだ本:

山羊と水葬

山羊と水葬

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自由自在

 きっかけが何だったのかは、もう思い出せない。物心ついたときには、算数が好きだった。4〜5歳のころ、私のお気に入りのひとり遊びといえば、計算ドリルを解くことだった。問題があって、答えがあって、正解するとうれしかった。

 小学校にあがってしばらく経ったころ、母といっしょに書店に行く機会があった。私は『自由自在』という名前の、ぶあつい算数の参考書を母にねだり、買ってもらった。あとで倹約家の父に見つかり、「そんな高価な本を買うな!」と怒られたが、勉強の本なのだからいいではないかと、母が言い返してくれた。

 

 あのときの『自由自在』のおかげで、今の私があると言ってもいい。

 内容が直接的に役に立ったのは、小学校卒業までの、長い人生のなかで見ればほんの短い期間だけだった。中学で方程式を習ったときは、『自由自在』でさんざん慣れ親しんだ逆算との考えかたのちがいに、むしろ戸惑った。

 『自由自在』が教えてくれた、今の私にとっても大切なもの。それは、独学の楽しさだ。

 

 幼稚園生のころ好きだった計算ドリルには、計算問題が羅列してあるだけだった。未知の法則(たとえば、くり上がりのある足し算)に出くわしたときは、母に教えてもらわなければ、先に進むことが出来なかった。

 負けず嫌いだった幼少期の私にとって、それは屈辱だった。自分が母より劣っていることを認め、教えを請わなければならない。悔しかった。はやく母を超えたくて仕方がなかった。

 『自由自在』を手に入れてからは、それをしなくてよくなった。問題を解くために必要なことは、全部本のなかに書いてある。わからないと思ったら、数ページ戻って読みなおせばいい。しかも、学年ごとに配られる教科書とちがって、算数のことならたいてい何でも書いてあるのだから、便利なことこの上ない。

 大人に教えてもらわなくても、自分ひとりの力で、本に書いてある範囲のところまでは歩いていける。視界が大きく開けたような、爽快な気分だった。

 

 それから私は、参考書というものが大好きになった。とくに『自由自在』のような、ある分野のことが体系立ててまとめられた辞書のようなぶあつさの書物を見ると、心がときめく。私にとってそうした書物は、未知の世界を歩いていくための、たよりになるガイドブックだ。

 ぶあつい専門書を読み切ることは、大人になればなるほど、むずかしくなってきた。仕事に直接かかわりのない分野のものであれば、なおさらである。買うだけ買って、本棚にならべたまま何年も経ったものも、めずらしくない。

 それでも、そうした本がそこにあることがうれしい。「次の冒険」にいつでも出かけられる準備ができているということだから。

 

 予定のない休日。今日こそ新たな冒険に出るべき日ではないかと、本棚を見る。そこには、ぶあつい本の背表紙が並び、こちらはいつでも準備万端ですよというふうに、しゃんと背筋を伸ばしている。今か今かと、読まれるのを待っている。

 

 

最近読んだ本:

 

玉虫色

 何か意見をたずねられたとき、「それは場合による」と返してしまう。なんの情報もあたえない発話だ。場合によるのはあたりまえなのだから、はじめから「こういう場合はこう。私の場合はこう」という話に踏み込んだほうがいいのは、わかっている。わかっているけれど、まずワンクッション、「場合による」という玉虫色の発言を、会話の場に出しておきたくなってしまう。

 子どものころ読んだ本のなかに、「玉ねぎの皮をむきすぎてなくなってしまう話」がしょっちゅう出てきた気がする。あまり頻繁に出くわすので、「また玉ねぎか」「どうせむきすぎてなくなっちゃうんでしょ」と、うんざりしていた覚えがある。そんなにその「玉ねぎネタ」が当時流行っていたのか? と、今思うと信じがたいけれど、とにかく、私の記憶のなかではそうなっている。

 玉ねぎには、キャベツみたいな芯がない。外側からぺろぺろとむいていくと、最後にはなくなってしまう。私の心もおなじではないか、と思うことがある。一層ずつ「私の心」とやらを掘り進めていくと、その先にはとくに「本心」あるいは「本質」のような確固としたものがあるわけではなく、おなじような「皮」がずっと続いていき、最後にはなくなってしまうのではないか。

 そう思うとなんだか怖くて、あまり自分というものを掘り下げたくない。「場合による」という返答は、おそらく時間稼ぎだ。私が私から目をそらすための。

 好き嫌いや意見をはっきり言えるひとたちが、まぶしい。「私は〇〇な□□が好きだから、△△は絶対にはずせないんだよね〜!」と、自己分析まで添えて自信ありげに話すひとたち。私は私がよく分からない。「××が好き」と私が口にするとき、それは祈りに似ている。きっと自分はこうであるはずだ、こうでありますように、という祈り。

 

 でも、こうも思う。そもそも、本心や本質は私の内側にあるものなのだろうか。外から押されたときの反発。あるいは、引き剥がされそうになったときの抵抗。それこそが私をあらわすものなのでは。

 私には私の心がわからない。だから、主観を問われたときはまず、玉虫色で塗ってみる。そのなかで気に入った色、しっくりくる色を塗り重ねていくうちに、「これが私だ」と思えるようになるといい。

 そう願いながら、日々、祈るように色を選ぶ。淡く塗り重ねていき、私自身の反応をじっと待つ。

 欲張りなのかもしれない。手近にあるよさそうな色を拾うのでは飽き足らず、思いつくかぎりの全色をまず並べてみて、そのなかから選びたいのだ。

 そうなると、私にはまだしばらくのあいだ、玉虫色が手放せそうにない。

 

最近読んだ本:

磁石、あるいは惑星のように

 私はちぐはぐである。私の一部はあっちに行こうとするのに、私の別の一部はそっちに行こうとする。結果、どちらにも行けずにぼーっとしていることも多い。

 優柔不断であるのとは、すこしちがう気がする。ひとりの私が、決めあぐねて迷うのではない。私のなかに複数の意思がある。あっちをやりたい私と、やりたくない私。そっちをやりたい私と、やりたくない私がいる。そのままでは喧嘩になるので、たいてい途中で仲裁役の私が出てきて、「まあまあ、とりあえず珈琲でも飲みなよ」と、その場をおさめている。

 毎日が、私と私の綱引きでできている。昨日はあっちの勝ち。今日はこっちの勝ち。明日はどの私が勝つかわからないけれど、どれかが勝てば、どれかが負ける。私のぜんぶが勝つことはない。

 いや、絶対にないわけでもない。

 ごくたまに、私の気持ちが「そろう」ことがある。それは、推しを見るときだ。

 

 推しという存在は磁石のようだと、私は思う。いつもちぐはぐな私の気持ちが、推しを見るときにはバシッとそろう。細かな砂鉄のN極がいっせいに同じほうを向くように、私の全細胞が推しのほうを向く。

 そのときは、私のぜんぶが「勝つ」。

 オタクの言葉に「優勝」というのがある。ほかのオタクがどんな感覚でこの言葉を使っているのかはわからないけれど、私にとっての優勝は、この「そろう」感覚だ。私のぜんぶがそろって同じ方向をむき、同時によろこんでいるときが「優勝」。ほかの何でも得られないこの感覚が忘れられなくて、私は何度でも推しを見に行く。

 

 推しがもつ力は、磁力だ。あるいは、引力と呼んでもいい。推しが磁石、あるいは惑星だとしたら、私は鉄屑、もしくは、宇宙にただよう塵である。推しが近くにくると、ぎゅん、と引き寄せられる。そこに人の意思は介在しない。それは宇宙の摂理なのだ。

 

 

最近読んだ本:

 

珈琲が飲めること

 数年前、珈琲が飲めなくなった時期があった。胃が荒れて、カフェインを受けつけなくなってしまったのだ。好きだった珈琲、リフレッシュのおともだった珈琲なのに、飲むと気持ちが悪くなってしまう。裏切られたような、あるいは私のほうが裏切ってしまったような気持ちになった。

 同じころ、会話ができなくなることがあった。もともと私は口数が多いほうではない。それでも、なにか話しかけられたら、平凡な返答くらいはできるはずだった。「そうですね」とか、「それはいいですねー」とか。

 ところが、話しかけられても「あー……」とか「えー……」と言ったまま、あとのことばが続かないということがあった。ことばをすくいあげようとしても、ゆですぎたうどんのように、ぶちぶち切れて落ちていってしまう。手のうえにのこるのが「あー」とか「えー」だけなので、それしか発することができない。さすがにやばいと思った。私は疲れすぎている。おかしくなりかけている。

 それで仕事をやめた。我ながら英断だったと思う。あと1か月遅ければ、どうなっていたかわからない。

 

 もうここに来なくていいんだ。そう思うだけで、随分と気持ちが軽くなった。それでも、すぐに元どおりになるわけではなかった。どろどろに溶けて形がわからなくなった自分というものを、好きだったはずのものを支柱にしてぺたぺたと貼り付け、形をつくっていくような日々をすごした。私はこれが好きだったはず。私はこんな人間だったはず。

 はじめのうちは、何度も形がくずれた。やめたはずの仕事の夢を見て、みじめさのぬるま湯に浸かったような気持ちで目覚めることも多かった。そうすると、また自分が溶けだしている。わからなくなっている。それでも希望を失わなかったのは、私の好きなものたちが、こっちに来れば大丈夫、といつも言ってくれている気がしたからだ。

 

 去年くらいから、自分というものがしだいにくっつき、乾いてきて、形が保てるようになってきた気がする。動けるようになってきた。元どおりかどうかはわからないけれど、とにかくまあ、そこそこ動ける。本も読める。うれしい。

 珈琲もまた飲めるようになった。

 飲めなかった時期があったのが嘘みたいに、おいしい。飲むと気持ちが落ち着くし、カフェインで頭がすっきりする。私は取り戻したんだ、と思う。

 

 

2022年最後に読んだ本:

 

2023年最初に読んだ本: