3つ数えて目をつぶれ

映画と本の感想のみを綴ります。

『ゴールド・ボーイ』

 東昇(岡田将生)は大企業の経営者である義理の両親を崖の上から突き落として殺害した。完全犯罪のはずだったが、3人の少年少女がその現場を偶然撮影していた。その少年少女たち、安室朝陽(羽村仁成)、上間夏月(星乃あんな)、上間浩(前出耀志)は、それぞれ複雑な問題を抱えていた。そこから抜け出す為、3人は東を脅迫して大金を手に入れようと計画する。原作は紫金陳(ズー・ジンチェン)の小説『悪童たち』、監督は金子修介。
 原作は中国では大ヒット、日本でも結構売れて、中国ではドラマ化もされた。その舞台を日本に置き換えて日本で実写映画化したのが本作。これが予想以上に原作に忠実でミステリ映画としてとても面白かった。もちろん舞台の置き換えや設定のアレンジ等改変している部分はあるのだが、かなりうまくいっていると思う。何より舞台を沖縄にしたのが正解だったと思う。地域経済の構造のいびつさや、そのいびつさにも起因する貧困が末端にある家庭内、特に女性にとって何を持ち込んでくるかという描写が、それほど深く掘ってくるわけではないのだが子供たちの行動の動機の一部として活きてくる。
 一方で東ははっきりとサイコパス設定なので、その対比も面白い。更に2者の関係が敵対関係に留まるものではないというツイストが生む奇妙な味わいがある。映画としての組み立てや語り口は特にトリッキーなわけではなく、むしろオーソドックスなのだが、所々でこの奇妙な味がじわじわ染みてくるのだ。東を演じる岡田の演技もいい。どこか心のない人間の演技が抜群に上手くて、キレのよさに笑ってしまう。また羽村、星野、前出も好演で役柄にとてもはまっていた。本作、宣伝上は岡田の主演作のように見えるが、実際は彼らの主演代表作になっていくんだろうと思わせられた。
 本作、原作との最も大きな違いはラストの落とし方だろう。大人はこれをやらないといけないのだという監督・脚本からのアンサーであるように思った。


『野生の棕櫚』

ウィリアム・フォークナー著、鹿島祥造訳
 1937年、夫と2人の子供をもつシャーロットと恋に落ちたヘンリーは、2人だけの世界を求めてさまよい、海辺の別荘地にたどり着く。しかしシャーロットの肉体は危機的な状況にあった。1927年、ミシシピイ河の洪水に遭遇した囚人は仲間とはぐれボートで漂流する中、妊婦を助ける。「野生の棕櫚」「オールド・マン」2つの異なる物語が章ごとに交互に配置されるフォークナー中期の長編小説。
 フォークナーてこんな作品も書いていたのか!当時(1939年)としてはかなり実験的だったのではないだろうか。巻末の解説によると、当初「野生の棕櫚」を執筆していた所、どうもこれだけでは何か欠けていると考え、「野生の棕櫚」をより際立たせるために「オールド・マン」を対比させる意図でこういった構成になったそうだ。執筆過程としても、最初から順番に、つまり「野生の棕櫚」の章を書いてから「オールド・マン」の章を書き、また「野生の棕櫚」を書き、という読者が読むのと同じ順番で進めていったようなので、制作の過程でもはっきりと対比・呼応させあうという意図があったと思われる。とは言え2つの物語は場所も時代も登場人物もストーリーも全く別物だ。男性と女性、妊娠、(規模は違うが)放浪、といった共通のモチーフはあるものの、物語としてリンクするわけではない。なぜ著者はこういう構成にしたのか釈然としないまま読んでいたのだが、徐々に対比の意図が感じられてきた。
 「野生の棕櫚」の主人公であるヘンリーとシャーロットは2人の情熱のみで純化された世界を生きようとする。世間や社会的な規範からは遁走し続けるのだ。しかし生きている以上衣食住は必要で、貨幣の世界からは逃れられない。同時にヘンリーの場合、シャーロットとの関係にのみ生きたいのと同時に、いわゆる社会に適応して生きる、労働することへの恐怖と抵抗感が色濃く感じられる。2人のロマンスは時代がかっているのだが、ヘンリーのこの動けなさみたいなものは妙に現代的で面白い。そして、社会的な規範から逃れようとするのにシャーロットの妊娠と中絶をするか否かというもろ社会的な規範をはらむ問題に直面し、肝心な所で規範に拘ってしまい、ついにそこからも逃避し続ける(リミットがあることなので逃げてる場合か!と現代人ならずとも突っ込みたくなるだろう)。一歩間違えるとヒモ小説だ。いやヘンリーはヒモになる開き直りすらできない、中途半端な存在のままだ。
 一方で「オールド・マン」の主人公である囚人は何らかの情熱や強い意欲を持っているかというとそうでもなく、危機を脱するのは生存本能と運、道中で妊婦を助けるのもたまたまで特に道義心に駆られるわけでもない。また脱獄のチャンスなのにちゃんと刑務官らのところに戻ろうとしており、社会の規範からずれた所にいるのに規範の中に戻ろうとする。彼は行くべき所ややるべき仕事があると安心し、世間をあまり拒否しない、というよりもそういうものだという納得の中で生きているように見えた。ロマンチシズムが皆無なのだ。この姿勢が2つの物語を対称的なものにしているように思えた。著者が当初重点を置いていたのは「野生の棕櫚」の方なのだろうが、通して読むとむしろ「オールド・マン」の方に妙な魅力を感じた。「野生の棕櫚」における妊娠と中絶の扱いが時代背景があるとはいえかなりひどくて、現代の視点で読むと退くいうのもあるのだが、こういうロマンチシズムとその敗北というモチーフが現代にはもう通じないという面もあるかもしれない。

野生の棕櫚 (中公文庫)
フォークナー
中央公論新社
2023-12-28


エミリーに薔薇を (中公文庫 フ 17-1)
フォークナー
中央公論新社
2022-04-20


『闇夜に惑う二月』

アラン・パークス著、吉野弘人訳
 建設中のビルの屋上で惨殺死体が発見された。被害者はサッカー選手で、グラスゴーを仕切るギャングのボスの娘と婚約していた。刑事マッコイが捜査を開始した所、ギャングの右腕が容疑者として浮上するが、取り逃がしてしまう。一方、教会で男が首つり自殺をする事件が起きた。一見無関係なように見えた2つの事件だが、マッコイはある共通点に気付く。それはマッコイの過去にも関わるものだった。
 グラスゴーを舞台とした刑事ハリー・マッコイシリーズ2作目。サイコパス的連続殺人を追うが、殺人事件そのものよりも、それを追うマッコイの精神状態の方にハラハラする。1作目でも少々危うかったマッコイだが今回はそんな彼の精神状態に追い打ちをかけるような事態が次々と起こる。マッコイは少年時代に受けた虐待の傷が深く、トラウマに苦しみ続けている。彼と過去を共有するギャングのクーパーとの破綻しそうでしない、根っこの所でお互いの力に対する信頼があるという関係性も、今回更に深まる。とは言えクーパーはれっきとしたギャングであり、警官としての矜持を持ちつつ清濁併せ呑む、というと聞こえがいいが、マッコイの生き方はどんどん「濁」の比重が高くなっていく。殺人事件の凄惨さ・救いのなさとマッコイ個人の救われなさが呼応していくような展開だ。
 マッコイの唯一の拠り所は警察の上司でありかつての養父であるマレーだ。マレーに褒められたくて頑張ったり思ったように褒められなくてへこむマッコイはちょっとかわいいが同時にかなり危うい。本当に味方と思える人がマレーしかいないということだろうから。とは言えマレーもいつまでもマッコイを守れるわけではないだろう。続きが心配です。

闇夜に惑う二月 (ハヤカワ・ミステリ文庫 HMハ 34-2)
アラン・パークス
早川書房
2023-10-18


血塗られた一月 (ハヤカワ・ミステリ文庫 HMハ 34-1)
アラン・パークス
早川書房
2023-06-17




『ゴジラ-1.0』

 太平洋戦争直後の日本。元特攻兵の敷島浩一(神木隆之介)は東京の自宅にたどり着くが、家も両親も空襲で失われていた。空襲の中で他人の赤ん坊を託されたという大石典子(浜辺美波)と共に細々と暮らしていたが、戦時中に空軍基地があった島で目撃した怪獣「ゴジラ」が出現する。監督・脚本は山崎貴。第96回アカデミー賞視覚効果賞受賞作。
 まさか米アカデミー賞で受賞するとは思わなかったので驚いた。じゃあどんなものか見てみるかと今更のように見たのだが、VFXは確かに良いように思う。リッチだというのではなく、作品の意図に効果がうまく落とし込まれているという方向での良さ。クレジット上監督がVFXも手掛けているのだが、やっぱりその分野をよくわかっている人がやると違うということだろう。盛る所と盛らないでいい所の判断が的確という印象を受けた。
 本作、物語はシンプルでわかりやすい。見るのがこんなに楽な映画は久しぶりでむしろ拍子抜けした。何も考えなくても全部説明してくれるし登場人物の感情表現もシンプル。今マスに受ける娯楽映画とはこのくらいの感じなのかと逆に新鮮だった。ここまで全部提示しないとだめなのかという気もしたが、ここまでやるのが今の映画にとってのサービス精神なのだろう。
 本作でゴジラに立ち向かうのは日本軍(時代背景的にはもう解体されているが)ではなく民間の有志の人々。ソ連への警戒からアメリカは介入せず旧日本軍の軍事力も使えないという設定なのだが、官僚映画だった『シン・ゴジラ』の真逆なのは興味深かった。ただ、本作での有志の盛り上がりには少々危ういものも感じた。せっかく戦争から生き残ったのに何で自分たちが、という声も出るが「誰かが貧乏くじをひかなければならない」と引き受けていく。しかしなぜ自分が貧乏くじをひかないとならないのかという疑問は残るし、結局自己犠牲を飲み込ませていく流れになっているのではないかと。このあたりは太平洋戦争下(に限らずありがちだろうが)で一般人が戦争に消極的に加担していく流れに重なるものがあるように思われ、落ち着かない。また敷島の判断も結局「ちゃんと死ぬ」精神に乗っかっているようで微妙だ。終わり良ければ総て良しというわけではないだろう。「終わり良し」にするための帳尻合わせが結構強引、というか唐突なのも気になった。
 なお、ゴジラの設定については自分とは解釈違いだった。本作のゴジラ、人間を認識しすぎている。パーソナリティが人間でも理解できる範疇というか、キャラがありすぎるのだ。明らかに人間をどうこうしようとしているので、えっそんなにうちらに興味あったっけ?!と思った。


ゴジラ
志村 喬
2014-04-23



『オッペンハイマー (上・異才、中・原爆、下・贖罪)』

カイ・バード&マーティン・J・シャーウィン貯、河邊俊彦訳、山崎詩郎監訳
 1904年にユダヤ系移民の子としてニューヨークで生まれたロバート・オッペンハイマー。子供の頃から聡明さを発揮し、芸術と哲学に親しみ育った彼は、物理学者としての道を進む。第二次大戦下、ナチスに対抗し原子爆弾開発を目指すマンハッタン計画に参加、陣頭指揮を執り1945年7月16日ついに核実験を成功させる。戦後、オッペンハイマーは時代の寵児となるが水爆事件や核拡散には反対し、かつての研究仲間や政府との溝は深まっていく。そしてソ連のスパイ容疑によりFBIの監視下におかれ、とうとう保安委員会の聴聞にかけられる。原爆の父と言われた天才物理学者の評伝。
 オッペンハイマーについては原爆の開発者だというざっくりとした知識しかなかったので、クリストファー・ノーラン監督『オッペンハイマー』公開前に予習のつもりで手に取った。これは予習をしておいて正解かもしれない。関係者の数が大量なので、なんとなくでも事前に把握していた方が映画を理解しやすそうだ。逆に映画はこの分量をどうさばいたんだという興味もわいてきた。最近出た文庫版で読んだのだが、文庫化に際しては登場人物一覧、また用語解説一覧をつけてほしかった…。
 オッペンハイマーはもちろん天才レベルに頭がよく、しかも物理だけでなく文化芸術も造形が深かった。両親が絵画のコレクター(上巻で所有作品の作家名がちらりと出てくるのだが相当いいものを持っている)だで、環境の影響も大きかったのだろう。おそらく物理の道に進まなくともそれなりの仕事を残せた人なのでは。理解力が非常に高く(そして理解が早く)、またそれを人に説明するのも上手かった。スピーチが流暢で説得力があったという。同時に彼は大変魅力的な人で、びっくりすくらいモテる。老若男女に好かれたが特に女性を惹きつける力が強力だったそうだ。特に若いころには女性との関係、女性観には少々問題があったように思える。妻キティとの結婚の経緯とその後の関係もかなり強烈。ともあれ非常に頭がよく弁が立ちかつカリスマ的な魅力がある人というのは、置かれた場や扱いによってはかなり危険な存在になる。後々政府や彼のライバルたちは彼をそのように見なし、権力から遠ざけようとする。
 本著はオッペンハイマーという個人の伝記ではあるのだが、同時にアメリカの核兵器に対するスタンスがどのように変化していく(というかしない)かがよくわかる。当初は対ナチスという大義名分があったが、実は原爆完成ごろにはナチスは実質的敗北しており、日本についても情勢として近々降伏するのは固いだろうと思われていた。そういう状況で広島、長崎に原爆を投下したということは、これは何とか終戦までに試してみたかったということだろう。その後のオッペンハイマーに対する処遇からも、軍縮、核廃絶に国として乗り出す気はまずないと思われる。また当時の赤狩りに見られるような極端な共産主義廃絶が恐ろしかった。科学的リスクと政治的主義主張は別物のはずだが、更に言うなら当時すでに本来の共産主義とソ連という国家とは別物になっていると思われるのだが、色々一緒くたにされている。
 オッペンハイマーが愛国者であったというのはまず間違いないだろう(さっさとアメリカに見切りを付ければいいのにとアインシュタインにも指摘される)。水爆開発への反対を主張したのもアメリカという国家の未来を慮ってこそだが、それが反国家的な行為とみなされる。原爆開発にしろその後の経緯にしろ、大きな体制が一方向に動き始めると個人の理知や良心では押し留められない。その勢いが恐ろしかった。

オッペンハイマー 上 異才 (ハヤカワ文庫NF)
マーティン J シャーウィン
早川書房
2024-01-22


オッペンハイマー 中 原爆 (ハヤカワ文庫NF)
マーティン J シャーウィン
早川書房
2024-01-22


オッペンハイマー 下 贖罪 (ハヤカワ文庫NF)
マーティン・J・シャーウィン
早川書房
2024-01-22


『屍衣にポケットはない』

ホレス・マッコイ著、田口俊樹訳
 ローカル紙「タイムズ・ガセット」の記者ドーランは広告収入重視で報道をないがしろにする会社に愛想をつかし、自ら雑誌を創刊する。きわどい告発記事を連発し多くの読者を獲得するが、なかなか黒字にはならない。一方彼に対して古巣の新聞社やスキャンダルをすっぱ抜かれた大物たちからの圧力が強まっていく。
 ドーランは強くいわゆる「大人の対応」や忖度を拒否する。時にまっすぐすぎる彼の行動は危なっかしい。彼は正義感は強いが品行方正というわけではなく、そこそこ遊んでおりむしろ女性癖は悪い。更に借金癖があり、いつもすかんぴんだ。政経界の有力者に勇敢に向かっていくが、決して世慣れているわけではない。告発記事が当たり雑誌が話題になっていく半面、はたから見るとどんどん墓穴を掘っていくようでもある。色々と無謀で長期的戦略がないのだ。彼の若々しさ、それ故の思慮の浅さには時に愚かに見えるが、こういう人が無謀に物事の口火を切っていくことで大きな動きに繋がっていく面もあるだろう。だから、馬鹿だ甘ちゃんだと切り捨てられない。
 私は著者の『彼らは廃馬を撃つ』が悲惨な崖っぷち青春小説的でとても好きなのだが、本作で描かれるのは『彼ら~』とはまた別種の悲惨さだ。『彼らは~』の登場人物たちは何も持たず起死回生を賭けて博打に出るが、本作のドーランは金はないものの雑誌創刊という博打にはとりあえず勝っているし、記者としての名声も手にした。それでも自分のやり方でやり続ける以上彼は転落していくだろう。彼の疾走と転落の予感が最後までスピードを緩めない。

屍衣にポケットはない (新潮文庫 マ 34-1)
ホレス・マッコイ
新潮社
2024-01-29


彼らは廃馬を撃つ (白水Uブックス)
ホレス・マッコイ
白水社
2015-05-09


『デューン 砂の惑星 PART2』

 「香料(スパイス)」の産地である砂の惑星デューン。アトレイデス家はハルコンネン家との闘いの末滅ぼされた。母と共に生き残ったアトレイデス家の後継者ポール(ティモシー・シャラメ)は、砂漠の民フレメンと共にハルコンネン家の圧政に反旗を翻す。ポールがフレメンのチャニ(ゼンデイヤ)と心を通わせ彼女と共に生きようとする一方で、彼を予言された救世主として民を率いていく存在として期待する派閥も出てくる。原作はフランク・ハーバートの小説。監督はドゥニ・ビルヌーブ。
 PART1を見た時実は2部作だと知らなくて、最後の方でえっ続くの!?と衝撃を受けたのだが無事第2部が公開されてまずはほっとした。1作目を見ていないとさすがに厳しいのだが、うろ覚えでも大丈夫ではある。ただ、見ていて飽きはしないがすごく面白いかというと少々微妙ではある。これは1作目と同様なのだが、ストーリー自体は非常に古典的な異世界ファンタジー(本作、ジャンルはSFとされているが話の枠組みはむしろファンタジー寄りだと思う)で、突出したオリジナリティがあるわけではない。むしろ現代まで続くファンタジー、SFのひな型、祖先みたいな話なので、まあどこかで見た話だなという印象になるのはやむを得ないだろう。そもそも原作がもう古典の域なんだろうし。本作の面白さはやはり砂漠が広がるデューンの風景やそこで発達した航空機、戦闘機等のガジェット類等のビジュアル面だと思う。
 王道のストーリーと言っても、王道故の安定感、盛り上がりみたいなものは実はあまり感じられない。本作の特徴は、主人公が人生を切り開くという話とは微妙に違う所にあると思う。運命は既に予言されており、予言、予知が作品内世界の中で大きなウェイトを占めるのだ。ポールは自身の運命を既に予知し、それを受け入れる覚悟を決めるかどうかという話なので、未来に対して個人の自由意志みたいなものが介入する余地があまりない世界観と言えるのでは。それ故、ポールの成長物語ではあるがどこか温度が低いというか、諦念と共にあるように思えた。そもそも本作のラストは、この先まず間違いなく血みどろの歴史が始まるだろうというものなので爽快感はない。進むことは何かを捨てる、置き去りにしていくことだと受け入れるかのようなポールの人生はこの先過酷そうで余韻は不穏だ。

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ジョシュ・ブローリン
ワーナー・ブラザース・ホームエンターテイメント
2022-10-07


『英国式庭園殺人事件』

 画家のネヴィル(アンソニー・ヒギンズ)は、広大な庭園のあるハーバート家に招かれる。ハーバート夫人バージニア(ジャネット・サズマン)は、外出中の夫が旅から帰ってくるまでに屋敷と庭園の絵を12枚描いてほしいと依頼。報酬は1枚8ポンドに寝食の保証、そしてセックスに応じるというものだった。ネヴィルは契約を交わし絵の製作を始めるが、絵の中には段々奇妙な異物が混じってくる。監督はピーター・グリーナウェイ。1982年製作。
 ピーター・グリーナウェイレトロスペクティヴにて鑑賞。17世紀末、英国南部ウィルトシャーを舞台にしたミステリー…なのだが、ミステリーとして見ると拍子抜けするだろう。ネヴィルの描く絵には妙なものが混じりこむが、それはそこにあるものを描いているだけだ。そしてそれらが何を意味するのかはっきり明示されるわけではない。いわゆる事件が起きてその謎解きをするわけではなく、事件自体はなかなか起こらない。そして起きてもほぼ自白みたいな感じだ。ミステリ「ぽさ」に終始している。ただ本作の場合「ぽさ」で良いのだと思う。何か思わせぶりな雰囲気を楽しむ作品で、厳密なミステリを目指したわけではないと思う。
 冒頭から、貴族たちの世界の狭さと下世話さがこれでもかと表される。露悪的かつ実利主義的で身も蓋もない。見栄や傲慢ももちろんあるが、一番肝心なのは財産と家の存続(これも財産保持の為だが)。一見優雅で美しい世界だが、一皮むくと全くそんなことはなく滑稽でもある。ネヴィルは貴族たちの世界に外から入ってきた闖入者なのだが、彼が見るのは貴族たちの表層の部分で、彼の絵もまた写真のように正確な表層を記録するものだ。ただ、表層=見たままを記録してしまったことで逆に何かが起きていると露呈してしまうという皮肉さ。そもそもなぜ画家を呼んだのかとつい突っ込みたくなってしまう。

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『リトル・リチャード アイ・アム・エヴリシング』

 1955年、デビュー曲「トゥッティ・フルッティ」が大ヒットし、ロックンロールの創始者の1人に挙げられる黒人アーティスト、リトル・リチャード。デビュー以降ヒット曲を連発するが、突然キリスト教教会の活動に転身。5年間の教会活動を経て復帰した後は無名時代のビートルズやローリング・ストーンズに大きな影響を与えていく。本人および親族・関係者の証言、研究者の見解や多数のアーカイブ映像、さらにミック・ジャガー、ポール・マッカートニーを筆頭とした有名ミュージシャンのコメントを通し、リトル・リチャードの人生を追うドキュメンタリー。
 リトル・リチャードの作品を良く知っている人にも知らない人にもおすすめできるドキュメンタリーで、アメリカの音楽シーン、アメリカという国の変化、そしてロックンロールの歴史を見るという意味でとても面白かった。エルヴィスはもちろん、ストーンズやビートルズへの影響は知識として知ってはいたがミック・ジャガーやポール・マッカートニーご本人の発言が裏付けていると実感としてわかってくる。ポールのシャウトはリトル・リチャードからの学習だったのか!また映画監督ジョン・ウォーターズの特徴である髭はリトル・リチャードオマージュだそうで、なんだか微笑ましい。
 作中で挿入されるアーカイブ映像を見ると、リトル・リチャードの音楽や自分の考えについての発言は時代時代で結構矛盾があったりするのだが、彼としては嘘を言っているというわけではなく(自己演出は多々あるだろうが)、その時々で彼の様々な面が出ているということなのではないかと思った。本作を見ると音楽とはまた別に、彼のアイデンティティの多面性、矛盾をはらんだ複雑さが強く印象に残る。当時のアメリカではいうまでもなく人種差別が激しく、彼の出身である南部では猶更だった。さらに彼はゲイを公言するクィアだった。そういう人にとって生きることは相当困難だったろう。ただミュージシャンとしてはクィアであることを大っぴらにしていたことで、白人男性からの加害をむしろかわすことができた側面もある(自分たちの狩場を荒らす=女性を横取りする存在ではないと思われるから)というからまた複雑だ。
 一方で彼はキリスト教教会の影響が多大にある環境(土地柄に加え、父親が教会の仕事をしていた)で育っており、教会の教義と自身のセクシャリティ、音楽性との矛盾を抱えていた様子も見受けられる。弟の死をきっかけにいきなり敬虔なクリスチャンとしてふるまうのもそういった素地があったからだろう。自分のクィアとしてのアイデンティティに忠実だと教会からは疎外されてしまう。自身が割かれていくような要素を持ちつつ生きてきたのであろうことが垣間見えてくる。教会の活動にのめりこんだ彼が自分はクィアではない、ヘテロセクシャルになったと公言したことで当時のクィアの人々はとても困った(「治せる」ものだと思われてしまうから)というがそれはそうだろう。リトル・リチャードはクィアとして何ができるかという部分にはあまり興味がなかったのかもしれないけど。
 本作を見て、私はそういえばリトル・リチャードの曲は本人のパフォーマンスではなくカバーバージョンの方を主に聞いていたことに改めて気付いた。これが作中でも言及されてている問題なんだと。黒人歌手のヒット曲を白人歌手がカバーして大ヒットになる。しかしオリジナル版のことは忘れられていく。往々にしてよくあるパターンだと思うのだが、リトル・リチャードが折に触れて自分はすごい、自分がロックンロールを始めたと主張するのは、そうしないと自分の作品であることが忘れられていくからだ。主張し続けた彼がようやく公の場で評価される様にはやはりぐっとくるが、もっと早くに報われていればとも。ただなんだかんだでずっと音楽活動を続けていたところはやはりすごい。

Very Best of Little Richard (Dig)
Little Richard
Specialty
2008-08-21





『書きたい生活』

僕のマリ著
 エッセイ集『常識のない喫茶店』でデビューした著者の第2作。前作の続編であり、著者が喫茶店勤務を卒業し文筆家として新しい生活に乗り出す様が綴られる。
 『常識のない喫茶店』で鮮烈なデビューをした著者とのことだが、申し訳ないが『常識のない~』私読んでいないんですよね…。ただ前作を読んでいなくても大丈夫だった。転職し、結婚もし、人生の新しいステージに移った人の不安、高揚感、そして喫茶店の仕事にもこの先本業となる文筆業にも真摯であろうとする姿勢が瑞々しい。やはり新生活を始めようとする人にお勧めしてみたくなる1冊だった。本著のような日記エッセイが近年すごく増えたなという印象があるが、じゃあ似たような日記本のうちでどういうものが面白く感じられるのかというと、基本的な文章のスキル高低はもちろんあるのだろうが、何より正直かどうかという所ではないかと思う。日記と言えど他者に向けての表現として出版するわけだから当然何らかの演出・編集はされているわけだが、自分自身のコアな部分に対して正直かどうか、変な装いをしていないかどうかで振り分けている気がする。

書きたい生活
僕のマリ
柏書房
2023-02-28


常識のない喫茶店
僕のマリ
柏書房
2021-09-15



『ソウルメイト』

 済州島に転校してきたミソ(キム・ダミ)は、画家になって世界中を旅したいと願う自由な少女。彼女と親友になったハウン(チョン・ソニ)はミソの生き方に憧れつつも堅実な人生を築いていく。ずっと一緒に過ごしてきた幼馴染の2人だったが、医師志望の青年ジヌとの出会いをきっかけに2人の関係は急激に変化していく。香港のデレク・ツァン監督『ソウルメイト 七月と安生』を韓国でリメイクした作品。監督はミン・ヨングン。
 物語は大人になったミソがハウンとの関係について問われる所から始まる。ミソはもうずっと疎遠だと答えるが、それは嘘であることもわかる。なぜ彼女がそう答えたのか、2人に何があったのかということが時間をさかのぼって描かれ、一つの答え合わせのようなミステリ的側面がある。本作、女性2人男性1人がメインの登場人物で一見三角関係に見えるが、実際はそうでもない。あくまでミソとハウンの関係についての物語であり、ジヌは2人と深く関わるが触媒的な存在にすぎない。愛があるのはミソとハウンの間であると明言されるのだ。
 しかしミソとハウンの関係は成長してからはすれ違いの連鎖で、距離は離れてしまう。進学先、仕事、家族、経済状況など、様々な要因が2人の環境を離してしまうというのは、特に女性の場合はよくあるケースだと思うのだが、経済的に厳しい環境にあるミソのそれを悟られまいとする振る舞いはいじらしく、見ていて苦しい。ミソとハウンは性格も家庭環境も対称的でお互いに憧れがあるのだが、その憧れが本当のことを言いにくくする。お互いに助け合う・向き合うことを徐々に妨げていくのだ。
 ただ本作、この対称的な2人がある地点から同一化していく所が面白い。お互いに影響し合うというよりも、あなたの人生を私が生きる、私の人生にあなたがなるというような一体化なのだ。これを愛、友情と言えるのかどうかがよくわからない。相手の意志を確認できないかなり一方的な愛の在り方のような気がするのだ。これが私にとってのあなたへの愛だ(あなたもそれを知っているはずだ)と断言できるほどの強さということなのかもしれないが。

ソウルメイト/七月と安生[Blu-ray]
マー・スーチュン
Happinet
2022-02-02



『落下の解剖学』

 雪山の山荘で、視覚障がいをもつ11歳の少年ダニエル(ミロ・マシャド・グラネール)と愛犬が、家の外で血を流して倒れていた父親を発見。少年の悲鳴を聞いた母親サンドラ(ザンドラ・ヒューラー)が救助を要請するが、父親はすでに息絶えていた。当初は事故による転落死と思われたが、前日に夫婦ゲンカをしていたことなどから、サンドラに夫殺しの疑いがかけられていく。ベストセラー作家のサンドラとやはり作家志望だった夫の間には溝が出来ていたのだ。監督・脚本はジュスティーヌ・トリエ。
 同業者がパートナーだと、お互いの性格によってはものすごくめんどくさく葛藤の絶えない関係になりかねない。サンドラのヒット作は夫が破棄した構想が元になっていたし、夫はサンドラとの口論を録音して自分の小説の素材にしようとしていた。相手の技量がなまじわかってしまうだけに、お互いに疑心暗鬼や嫉妬が絶えないのでは。わからないから平穏でいられることもあるのだ。
 更に、夫婦関係が対等であることの難しさが露呈していく。本来双方が協力しあって生活を維持していくはずなのに、より稼いでいる方は自分が稼いでいるんだから多少奉仕してもらって当然だろう、パートナーの仕事より自分の仕事の方が重要だと錯覚してしまう。これは男女関係ないだろう。サンドラは家事や子供の世話で自分の作品に取り組む時間がないと訴える夫に、それはやる気がないからだ的なことを言う。彼女の仕事量は家庭内での夫の働きの上に成り立っているのだろうが、そこはスルーされる。
 ただ、裁判の中ではこれらのエピソードは夫が気の毒だったという文脈で使われるのだが、もし男女逆(多数派であろう男性が稼ぎ手寄り、女性が家事寄り)だったらそんなに同情的に受け止められただろうかという疑問もわいてくる。もしサンドラが男性だったら検察官がセクハラまがいの発言をすることもなかったのでは。サンドラは決して品行方正というわけではないが、男性だったらここまで追求されるだろうかという場面がしばしばある。女性であること、そしてフランス語が母語ではない異国人(舞台は夫の母国であるフランスでサンドラはドイツ人、2人の会話は英語、裁判はフランス語)であることが、彼女の訴えのハードルを上げている。母国語以外の言語で裁判で証言するのってかなり負担なのでは。裁判のあり方がそもそも彼女にとってフェアではないとも言える。
 本作で提示される事件当時、また事件に至るまでの出来事は、あくまで関係者の法廷での証言の内容ということになっている。実際に何があったのかは実はわからないままだ。裁判とは原告と被告がそれぞれのストーリーを提示し合いぶつけ合う、あるいは落としどころを探るもので、真実を究明する場ではないということが露呈していくのだ。ただ、それは当たり前と言えば当たり前で、実際に何があったのかなんて他人には知りようがない。本作、シナリオは確かによくできているのだがこの当たり前さを額面通りにやっている感があって、よくできているが今一つ面白みがないという印象だった。

サントメール ある被告
グザヴィエ・マリ
2024-02-01


ありがとう、トニ・エルドマン(字幕版)
ザンドラ・ヒュラー
2018-01-06


『ハリケーンの季節』

フェルナンダ・メルチョール著、宇野和美訳
 村のはずれに住む魔女の遺体が川で見つかった。何者かに殺され死体を捨てられたのだ。魔女は村の男たちからは恐れられ、女たちからは恐れられつつも頼りにされていた。魔女の過去に何があったのか、また魔女に関わった人たちに何があったのか。
 章ごとに中心となる人物が入れ替わり、人間模様と事件の全容が見えてくる。魔女も彼女のところに来る男たちも女たちも、皆暴力とセックス、欲望に翻弄されている。女性たちの多くはセックスを商売とし、男性たちはそれに群がる。また男性たちもまた自分の体を売り物にする。魔女は望まぬ妊娠をした女性たちの堕胎を助け、男性たちのセックスを買う。そのセックスは土着的な家父長制の価値観の中でのセックスであり、女性に対する抑圧は強い。自分の欲望を示せば不道徳扱いされるが相手の欲望に応じないとこれまた否定され、望まぬ妊娠というリスクも高い。義父から性的に搾取され望まぬ妊娠に途方に暮れる少女のパートが(他の章では彼女に向けられる視線がむき出しになることもあいまって)あまりに痛々しい。
 一方男性側は、いわゆる「強い男」「モテる(が1人の女性に拘泥しない)男」という男性像にあてはならないと「男」として認められず群れから疎外されていく。肉体的な強さ粗暴さとは距離感がある、あるいは欲望がクィアなものであった場合、群れの中では死活問題になる。マチズモの強い社会の中で女性がどう扱われるかという面と合わせ、男性にかけられる圧には女生徒は違った形でのきつさがあることが描かれている。魔女がトランス女性であるという要素が、魔女と関わる男性にとっての意味を更にひねったものにしている。改行や、会話をくくる括弧がなくつらつらと続いていく語り口はグルーヴ感を生むと同時に呪詛のようでもある。

ハリケーンの季節
フェルナンダ メルチョール
早川書房
2023-12-20

女であるだけで (新しいマヤの文学)
モオ,ソル・ケー
国書刊行会
2020-02-27



『トゥルー・クライム・ストーリー』

ジョセフ・ノックス貯、池田真紀子訳
 マンチェースター大学の女子学生、ゾーイ・ノーランが失踪して6年。作家のイヴリン・ミッチェルはこの事件に興味を持ち、関係者への取材と執筆を始める。同業者のジョセフ・ノックスとメールでやりとりして原稿の進め方について相談していたが、決定的な情報を入手後、死亡する。ノックスは残された原稿を元に犯罪ノンフィクションを完成させるが。
 サスペンスはサスペンスだが、イヴリンとノックスのメールのやりとりと、関係者への取材内容のみで構成されているという変化球。先日読んだミシェル・ビュッシ『恐るべき太陽』に引き続き叙述トリックミステリと言えるだろうが、どうせやるなら本作くらい大がかりにやってほしいね!メールにしろインタビューにしろ、言葉を発する側は何らかの意図があって発しているわけで、何かをあえて伏せる・あえて言及するという演出が当然含まれている。全ての発言が必ずしも信用できるわけではないのだ。関係者たちのインタビュー内容は全員なんだか怪しい、同時に決定的な疑惑もかけにくいというグレーなもの。更にイヴリンとノックスとのやりとり自体にも黒塗りにされた部分や妙に思わせぶりな部分があり、信用できない語り手たちが二重のレイヤーで語るという構造になっている。ノックス本人が関係者として登場しこれまた怪しげで、サービス精神旺盛だ。事件の謎を解くというよりも、インタビューを重ねる中で関係者の発言の祖語と、それに隠されたものが徐々に見えてくるというものなので、いわゆるフェアな謎解きではない。ただあの時のあれはこういうことだったか!という伏線はきちんと提示されている。そして作中で生じる2つの殺人のうち、1つは解決したと言えるだろうがもう1つは果たして、という余韻をあえて残す。
 ゾーイの家族や友人たちは彼女について様々な意見を言うが、本当のゾーイはどういう人だったのかはなかなか見えてこないままだ。見えてくるのは関係者たちの嘘と、なぜそのような嘘を言ったのかというそれぞれの事情、そして彼・彼女らの人となりだ。ゾーイ自体は空洞のまま物語は閉じていく。そこが少々不気味でもあるし、もしゾーイが「こういう人」とはっきりわかる・表明できるような人だったらそもそもこの事件は起きなかったのではと物悲しくもある。

トゥルー・クライム・ストーリー (新潮文庫 ノ 1-4)
ジョセフ・ノックス
新潮社
2023-08-29


ポピーのためにできること (集英社文庫)
ジャニス・ハレット
集英社
2022-07-07



『恐るべき太陽』

ミシェル・ビュッシ著、平岡敦訳
 仏領ポリネシアのヒバオア島に、5人の作家志望の女性たちが集まった。人気ベストセラー作家のピエール=イヴ・フランソワが主宰するワークショップ<創作アトリエ>が開かれるのだ。しかし作家が突然姿を消し、女性たちも何者かに殺害されていく。
 作品のあらすじの時点で連続殺人ものかつクリスティの有名作をなぞったものであることが明かされているのだが、そこはネタバレにならない、本作の醍醐味はそこにはないという自信ゆえか。なお個人的にはクリスティに対するオマージュという側面にはあまり重きを置いていないじゃないかなと思う。本作はワークショップの参加者が記した原稿、参加者のうちの1人の娘の日記、参加者のうちの1人の夫の視点という3種の視点で構成されている。となればこれは叙述トリック(ということまであらすじ紹介に掲載されているので…)だが、読んでいるうちにその奇妙さ、ちぐはぐさが気になってくる。これはもしや、と思っていたらなるほどやはり、と。この仕掛けであれば連続殺人であることがわかっていてもミステリ要素にはあまり影響ないか。ただそれ以外の部分で結構作りが雑な所があり、全体としては面白いことは面白いけど大味といった感じ。フランスと仏領との関係が垣間見えるあたりはご当地ミステリ的味わいも。観光客が天国天国と持ち上げても、現地の人はそりゃあ醒めているよね…。

恐るべき太陽 (集英社文庫)
ミシェル・ビュッシ
集英社
2023-07-06


黒い睡蓮 (集英社文庫)
ミシェル・ビュッシ
集英社
2017-10-20




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