ラヴジョイとマッカーシー『ステラ・マリス』:異世界性とこの世性

先日からずっと、ラヴジョイ『存在の大いなる連鎖』の勝手な翻訳とまとめをやっているのはご存じのとおり。

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残った一つの章は、とっても大事なんだけれど長いので、仕上がるのはかなり先になるとは思う。が、それとは別の余談。

先日、コーマック・マッカーシー遺作『通り過ぎゆく者』『ステラ・マリス』邦訳が出た。

通り過ぎゆく者 ステラ・マリス

で、決してわかりやすい本ではないので、ほとんどの人はたぶんチンプンカンプンだと思う。これまでに出てきた感想を見ても、読点のない乾いた文体と残酷な世界が〜、原爆が〜、みたいな訳者あとがきの反芻みたいな感想文ばかりで、あんまりおもしろい書評は見ていない。これは別に日本だけではなく英語のレビューとかでも同様。

たぶんこのままだと、みんな敬遠してだれも何もきちんとしたことを言わないままになっちまうといやだな、と思ったんだ。昔、朝日新聞の書評委員だった頃、気楽に読めて書きやすい本だと、書評もみんな気楽に書くんだけど、重要な本、面倒な本となるとみんな敬遠して流れてしまいそうになり、宮崎哲弥が「これに書評委員会としてコメントしなくていいのか!」と怒って、じゃあやりましょうと山形が引き受けるようなことが何度かあった (そういや、なんでぼくばっかが引き受けたんだっけ。なんで宮崎さんが自分でやんなかったんだっけ)。だから、だれか何か言っておくべきだと思ったので、山形月報のほうでかなり詳しく触れたんだ。

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基本的なところは、天才妹の数学的世界観というのは純粋観念の世界で、物理学者だった兄の世界観は物質的なこの世が前提となっていて、そして両者はものすごく深く関連しあい、求めあっているんだけれど、最後の最後で相容れないんだ、というもの。「この世とは何か、それと人間の関係とは」というのを追求していたマッカーシーが、20世紀初頭にそれを任された数学/自然科学における世界観と自分の探究をつなげようとした作品で、必ずしも成功作とはいえず、咀嚼不足であまりに材料が向きだしだけれど、野心的な作品だよ、というのがこの書評のあらすじ。

そして考えて見ると、これって実はラヴジョイ『存在の大いなる連鎖』のテーマとまったく同じなのだ。

 

西洋哲学/神学は、プラトン以来ずっと、神様は完璧で自分で完全に完結している至高のイデア、この世の出来損ないの連中なんかとは無縁で、人間なんかそれを見ただけで目が潰れます、という「異世界性」の観念の神様と、でもなぜだかわかんないけど、こんなろくでもないダメな世界でも作った、この世と切り離せない存在という「この世性」の神様を併存させてきた。そしてその両者でなんとか折り合いをつけようとして、ずっと屁理屈をこねたけれど、二千年かけてそれがついに破綻しました。というのが『存在の大いなる連鎖』の主題だ。

そして、これと『通り過ぎゆく者』『ステラ・マリス』の対応は明らかだと思う。

妹の数学的観念世界は、『ステラ・マリス』の中でまさにプラトン的観念の世界とか言われている。完全に人間もこの世とも独立に存在する「異世界性」だ。

一方、兄は(元) 物理学者なので、この世と無関係の観念世界というのは容認できない。物理学は、この世に基づき実証できなきゃいけない。兄はこの世性を代表する存在だ。でも、数学的世界観とは切り離せない。物理学はますます数学の抽象観念的な入り込んでいる。ヒッグス粒子以上のものなんて、実証できないじゃん、数学のお遊びじゃん、という悪口がずっとつきまとっている。

それは、彼と妹の関係でもある。そして二人は強い絆を持ちつつ一線を兄が拒否し、妹が死に、そしてその後兄がその妹の世界に次第にとらわれる……

  その図式があまりに露骨なのが、この二部作の欠点であり、さっき「咀嚼不足」と書いた所以ではある。が、それでも個人的には、たまたま手に取っていた、ラヴジョイとマッカーシーという二つのものが、こうやって交錯したのがおもしろいなと思うし、ひょっとしたらマッカーシーも数学/物理以上の構想を持っていたのかも、と考えたりすると、ちょっと楽しくはある。小説としてもっと咀嚼しようとしたら、主人公をもう少し、マッカーシーらしい素朴な人間にして、それが存在の大いなる連鎖の通俗版をなんとなく口走り〜みたいな展開もあったのかな、とかね。が、それは妄想の域に入る。

この話は、山形月報のほうにも加筆したけれど、別建てでも書いておくべえと思ってここに書いた次第。もちろんこれが絶対正しいわけじゃない。ひょっとすると、ラヴジョイを訳していたので、その考え方にひきずられてこういう読み方をしてしまった可能性はある。小説なんていろいろ読み方はあるんだし。が、まったくピントはずれではないと思うよ。

ラヴジョイ『存在の大いなる連鎖』第7講:18世紀楽天主義

ラヴジョイ、短い章なのですぐ終わってしまいました。

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ラヴジョイ『存在の大いなる連鎖』(山形浩生訳)

楽天主義というと、ヴォルテール『カンディード』に出てくるパングロス博士の、「物事はすべて現状通り以外の形ではありえなかった」「現状はすべて最高よ、悪いことがあってもそれも含めて、現状が最高なのよ」というおめでたい論者のように思える。

なんかの芝居で演じられたパングロス博士。

そして、その通りなのだ。楽天主義はまさにそういう議論。

ただしそれは別に、その人たちが陽気で楽天的だったということではない。神は善で、善を最大化するように行動するから、現在以上に善の多い世界はあり得ない、という結論が先にあって、よって現状以外はあり得ず、悪いことも善を最大化するものだ、という議論。一歩まちがえれば、(いやまちがえなくても)「もう世の中どうしようもないよ、改善の余地はまったくないよ」という悲観論とまったく同じ。

そして、そのために存在の連鎖や充満の原理がどう出てくるかといえば、こう、人が争ったりライオンが獲物を獲ったりしないようにすればもっと優しい世界になりそうだと思うでしょ? でもそうなったら、ライオンや人の本質が変わってしまい、現在のライオンや人間が占める存在の連鎖の中の場が空いちゃうよね? すると存在の連鎖が切れちゃうよね?そうならないためにも、オメーら現状で満足してなさい、という話。

天地創造のことばかり考えるため、彼らにとっての「善」というのは、とにかく世の中をできる限り充満させることになってしまい、普通の人の考える善とはかけはなれたもの。そして世の中に悪が存在するのも、それをなくそうとすると、合成の誤謬で全体としての善 (つまり命や個体数や種の総数) が減っちゃうので、だからそれと戦うのは無駄どころか有害、と言い出す。

そんなふうに悪が正当化されると、普通の人が考える神様とか、人間の普通の意味での善行とか、幸福とか美徳とかはまったく意味がなくなってしまい、この楽天主義者たちの議論はどんどん異様になっていった、とのお話。

ヴォルテールはもちろん、パングロス博士をボケ役で登場させるだけあって、この楽天主義者たちをバカにしまくる。そして、まさにそのバカにされた通りの存在でした、という話。

本当に、ここに書いただけの内容なので、パワポは作りません。さて、あと残り1章になっちゃった。ここまできたら、いずれやっちゃいますわ。

ラヴジョイ『存在の大いなる連鎖』第5講:ライプニッツ&スピノザ

ラヴジョイ、ちょろちょろ続いております。

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で、第5章にやってきました。この章はライプニッツとスピノザという大物が登場するのでなんかすごい哲学的な大バトルが出て、存在の大いなる連鎖という思想そのものに関わる話になるんじゃないかなー、と期待していたら、意外につまんなくてちょっとがっかり。

(ライプニッツとスピノザ)

まあ、まずは訳を読んで下さい。もう章ごとに切るのは面倒だからやめた。全文あげておくから読んでね。

ラヴジョイ『存在の大いなる連鎖』(山形浩生訳)

パワポも一応つくりました。

しかしこれは、パワポ見るまでもなく実はかなり中身はシンプルです。この章の基本的な話は次の通り。

  1. ライプニッツは、充満の原理から、宇宙の万物は理由があって必然的存在するという「充分理由の原理」というのを編みだした。

  2. 理由があって必然ということは、偶然は存在しないということなので、これは宇宙決定論に等しい。

  3. これはスピノザの決定論的宇宙とまったく同じ。

  4. ライプニッツはそれを否定しようといろいろ屁理屈をこねたが、無駄。

最後の3分のは、その屁理屈をあれやこれやと解説しただけの話となっている。たとえばこんな具合:

実際に神が行った選択は最善のものである (そうでないと、神が二流のことをやったことになって、神は最高じゃないか、悪意あるかのどっちかってことになるから)

もちろん神はそうでない選択もできるし、それを心の中で考えることもできたので、その選択、ひいてはその総和である宇宙が必然だとはいえない。決定論じゃないぜ!

しかし神は最善の選択をするから、その選択が行われるのは確実だったのである

わっはっは。ラヴジョイも「ライプニッツさん、じぶんでも屁理屈だってわかってますよねえ」とツッコミを入れている。苦しい議論をニヤニヤして眺めるのは、おもしろいといえばおもしろいが、何のためにそんなことをするかと言われると……ぼくが嫌味なヤツだから、としか言えないねえ。

でも結局この手の話というのは、いまの自由意志の話とほとんど同じ。つい昨日、デネット他界の報が流れてきたけれど (合掌)、そのデネットの本では、「他の選択肢はあったのか」(たとえば、あのときアップル株を買っておけば……みたいな) という意味での自由意志の有無について、いやそれは頭の中でシミュレーションして、そのときの条件下で最善のものとして自ら選んだ結果なんだから、それ以外の選択肢はなかったのである、でも自由意志はそのシミュレーションとして存在したのだ、というような議論をしていて、苦しいなとおもったんだけれど、構造としてはまったく同じ。

ちなみに翻訳、というか翻訳協力したこの本は、その自由意志について非常におもしろい話をしている。

意志というか各種の判断力というのは、トップダウンの動きとボトムアップの動きとが一致しないときの調整役として生じるのだ、というのがこの結論。そしてその中で、その判断というのは決定論的カオスになっているので、決まっている=自由意志はないんだけれど、でもそれが何かを事前に知ることはできない、という結論になっている。

決まってるんだけれど、どう決まっているかはわからないので、自分の運命はよいほうに(=天国に行けるように) 決まっているかのようにふるまい最善をつくすべき、という話は、カルヴァン派の議論みたいで、まあ似たようなことを昔から考えてるのね、という感じはある。

 

あとこの章では、ライプニッツとスピノザの哲学についてざっとおさらいしてくれるのを期待していたんだが、もちろんそういうサービスはありませんですね。「当然知ってるよね!」で流されてしまう。昔の学生はちゃんと勉強してましたからね。

その付け焼き刃でウィキペディアのスピノザの項を見たんだが、要するに完全決定論的宇宙を説いたので、それは神の意志がまったくないという話で、無神論も同然じゃないか、ということで異端だとされて、ものすごく弾圧されたとのこと。で、そこではスピノザのお墓はないことになっている。「遺骨はその後廃棄され墓は失われてしまった。 」

ja.wikipedia.org

これを読んで、ぼくは??? と思った。というのもぼくのいまいるところの近所に、そのスピノザのお墓があるからだ。場所はデン・ハーグのNieuwe Kerk (新教会)だ。

https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/1/17/Nieuwe_Kerk%2C_The_Hague_%28DSCF1312%29.tif/lossy-page1-1920px-Nieuwe_Kerk%2C_The_Hague_%28DSCF1312%29.tif.jpg  お墓そのものはこれ:  https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/1/10/Den_Haag_-_Nieuwe_Kerk_-_Burial_Monument_to_Benedictus_de_Spinoza_-_Baruch_de_Spinoza_-_Benedict_de_Spinoza_-_Benedito_de_Espinosa.jpg/440px-Den_Haag_-_Nieuwe_Kerk_-_Burial_Monument_to_Benedictus_de_Spinoza_-_Baruch_de_Spinoza_-_Benedict_de_Spinoza_-_Benedito_de_Espinosa.jpg

気になって説明を読んだところ、なんでも1回教会内の集団墓地に埋葬されたんだけれど、その後異端とされ、その墓が暴かれてしまい、遺骨は教会の庭にまかれた、とのこと。だから上の「お墓」は、厳密には教会の庭の祈念碑だけど、この教会の庭すべてがスピノザのお墓、という解釈をする人もいる。

スピノザに対する迫害はとにかくひどかったらしくて、お墓をあばかれるばかりか、擁護者の友人がオランダ人信徒のリンチにあって殺されたりするくらい壮絶だった。ライプニッツが、スピノザの思想と同じだと言われたがらなかったのは、学者としてあんなヤツといっしょにすんな、おいらのオリジナリティこそ偉大だ、という自負のせいなのか、それとも墓を掘り起こされるほど毛嫌いされた異端哲学者と同じだと思われたら我が身がヤバいという保身の産物なのかは、興味あるところ。まあ両方なんだろうね。

ちなみに、ライプニッツは1回スピノザに会いにきているのだけれど、ウマがあわなかったとのこと。

さて、この本もあと2章か。しかもうち第7章はえらく短いから、そのうち終わるでしょう。

ラヴジョイ『存在の大いなる連鎖』第6講:18世紀の人間の立ち位置

はい、ラヴジョイの続き。

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今回は、18世紀に、存在の大いなる連鎖が流行って、それが人間の立ち位置についての考え方に影響し、格差社会の弁明まで出てきました、という話。

ラヴジョイ『存在の大いなる連鎖』第6講:18世紀の人間の立ち位置

比較的中身は薄いというか、言われていることはそんなに意外ではなく、ああ、こういう考え方も出てくるかねえ。というもの。全体として、存在の位階があってそれが重要なんだから、人間は自分が特別と思うな、自分のポジションだけ守ってろ、改善しようとするな、という現状肯定イデオロギーが出てきた、ということになる。それぞれについて、いろんな詩人や評論家があれこれ言っているのを引用するけれど、ざっと見ておけばいい感じ。それが18世紀社会の維持に決定的な影響を持っていた、という感じではない。

ただ、ラブジョイが社会格差正当化と努力しない議論を嫌っていたことはわかる。かなりこれらの議論についてのコメントは手厳しい (注も含め)。

それと、これは第二次大戦前だけれど、この章のような、人間を貶める発想とは逆の変な人間の傲りを煽るような発想が出てきていることへの懸念は、ロマン主義の章と同じくここでも出ている。

ラヴジョイ『存在の大いなる連鎖』第10講:ロマン主義と充満の原理

ラヴジョイの続きです。

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最後の第11講では、この存在の連鎖とか充満の原理、さらにその元になっている神様の異世界性とこの世性の両立が不可能だというのがあらわになって、それが一気に忘れ去られる様子が述べられていた。

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今回の第10講は、その一つ手前ということで、その解体の先触れみたいなのがロマン主義として出てきたか、あるいはこの世性みたいなのが嫌われて、全然別の世界を夢想する異世界性指向みたいなのがロマン主義になったとかいう話かなー、と思っていた。

結果で言うと、ぜんぜんちがった。むしろ、存在の連鎖と充満性を強調するような働きが、18世紀ロマン主義として出てきた、というのが主旨となる。まずはお読みあれ (ってきみたち読まないのは知ってるけど)。

ラヴジョイ『存在の大いなる連鎖』第10講:ロマン主義と充満の原理

啓蒙主義は、充満の原理からすべてを満たす原理がある、という信念を得て、普遍性、一般性を重視することで思考の広がりを獲得した。でも、それが硬直して、一般性がないものは全部だめ、個別性なんか無視、という硬直した考えに成りはてた。それは、シェイクスピアもゴシック建築も否定し、古いものだけが (時代を超えた一般性をもつから) よい、とするような不毛な思想になってしまった。

それに対して、神様はいろんなものを創る多様性が信条だろ、同じモノをコピーして複製してるだけじゃないよね、だから人間だって多様性を重視すべきだし、そこで神様が重視している個別性を大事にしようぜ、という発想になった。それがロマン主義の基本となる、というのが主旨となる。

詳しくはパワポのまとめを参照。

 

ロマン主義とは何か、という話については、通り一遍の解説しかないし、登場する哲学者や作家については、当然知っているものとして話が展開する。ふつうは、こういう解説では「ロマン主義とはご存じの通り〜」とか「ノヴァーリスは『青い花』などで知られたXXXを特長とする作家なのはご承知でしょうが」と、知らない人のためにサービス説明が入るけど、そういうの一切なし。これは頑張って付け焼き刃してください。ぼくも実はノヴァーリスとハイネちょっと読んだくらいでほとんど明確なイメージはない。

ここの見所は、ラヴジョイがこのロマン主義的な動き——というかそれが現代にもたらした影響——について抱いている、すごくアンビバレントな気分。彼は、ロマン主義によって多様性が評価され、それが文化や思想の大きな広がりをもたらしたことについては、ものすごく評価している。その一方で、それが安易な個別性を賞賛してしまったことで、愚にもつかないナルシストどものくだらない作品と称するゴミクズが量産されるようになったことも、非常に苦々しく思っている。

しかしそれはまた (この点ではもう一つのロマン主義的傾向とはまさに正反対で) 大量の、病的で不毛な内省を文学で生み出しました——個人のエゴの奇矯ぶりの退屈なひけらかしで、そうした奇矯さはしばしば、いまや悪名高いことですが、単に通常の習慣を裏返しにしただけのイタイ代物です。というのも人間は自分でそう思うだけでは、自然が作ってくれたよりも独創的になったり「ユニーク」になったりはできないからです。

そしてまた、それが非常にいやな社会政治的な傾向の温床となっていることも彼は指摘する。

それはあまりに安易に、人のうぬぼれに利用されてしまい、特に——政治と社会の面では——ナショナリズムや人種主義といった種類の集合的な虚栄に使われてしまうのです。自分の異質性の神聖さについての信念——特にそれが集団の異質性であり、したがって相互のお世辞で維持され強化されるものなら——それはすぐに、その優越性の信念に変換されてしまうのです。

ナショナリズムとかレイシズムとかは、しばしば多様性を否定するものだというような言われ方をする。でもそれが、安易な多様性や個別性賛美と同根だ、という指摘には、たぶん重要なものがあるとは思う。それが多様性と創造性を重視し、イノベーション万歳という思想の根底にある、というのもポイント。ここから現在への示唆をいろいろ読み取ることもできるとは思う。そしてそれ以前の、啓蒙主義の硬直化の話における、一般性や普遍性を求める思想が、世界の広がりをもたらすこともできる一方で教条化するとドグマとして抑圧的になり、貧困さをもたらす、というのも戒めとして非常に重要。

そして、ラヴジョイが途中で思わず吐露してしまう結論——こういう学者や詩人たちの、ナントカ主義とか普遍論とか多様性とか、それに依拠しようとすること自体がまちがっていて、人生は基本はごちゃごちゃしていて、その都度バランスをとりつつ中道を行くのが大事なんだ、という話とかは、ちょっと感動的ではある。

人生のデリケートで困難な技芸は、それぞれの新しい体験の曲がり角で、両極端の間でvia media [中間をとる] ことです——普遍的でありつつも没個性にならないこと;基準をもってそれを適用すること;一方ではそれがもたらす鈍感化、麻痺化の影響や、具体的な状況の多様性およびそれまで認識されていない価値に対する盲目化の傾向に対し警戒を続けること;容認すべきとき、受け入れるべきとき、戦うべきときをわきまえることなのです。そしてこの技芸においては、固定した包括的なルールなど定められないので、まちがいなく私たちが完成を見ることなどないのです。

あと、最後のウィリアム・ジェイムズに対する、チクチク嫌味を交えつつつも敬意を払っている部分の、大人な感じはいいなあ。というわけで、全体に非常に示唆的な章だとは思う。

しかしこれですぐに最終講に移るということは、この存在の連鎖とか、異世界性/この世性の対立というのは、なんか次第に崩壊していったわけではなく、ずっと抱えていた同じ矛盾があって、その行ったり来たりを二千年繰り返していただけで、それが19世紀になっていきなり「もうやめー、この矛盾は解消できないから丸ごと捨てるぜ」という話で一気に忘れられた、ということだわな。何か決定的な契機があったわけではない。ここらへん、その捨てられた経緯の話というのはなくて、いわば西洋世界がそれに飽きた、という話になっているわけか。うーん。

ラヴジョイ『存在の大いなる連鎖』第3講:中世の内部紛争

またラヴジョイ『存在の大いなる連鎖』の続きです。第3講。第2講で異世界性とこの世性/存在の連鎖の発端を説明し、4講でそれが天文学でいろいろ応用されたので、その二つの間の中世の話で、何かその天文学の前段にあたるひねりがあるかも、というのが期待だった。

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が、残念ながらそんなおもしろい章ではなかった。第2章で説明された、人間には及びもつかない自足した完全な神様という話(異世界性) が中世神学の基本教義だったんだけれど、じゃあなぜこの世はこんなダメなの、もっといい世界を神様は作れなかったの、神様無能やーいやーい、という批判に対して、「そんなことないやい、この世は最高の完璧なんだい!」という話をこじつけるには、充満の原理を持ち出さざるを得なくなり、トマス・アクィナスなどえらい人も右往左往して屁理屈こねてた、という話。

訳文は以下にあります。

ラヴジョイ『存在の大いなる連鎖』第3講:中世における充満の原理と内部紛争

例によって、パワポも作っておきました。中身は薄いんだけれど、これはこの章がつまらないせい。えらい神学者たちの屁理屈と言い逃れを見たりするのは、楽しいとはいえ、毎回話は同じなんで飽きる。ラヴジョイもネタがなくなったようで、途中からはずっと後世の詩人や神学者の発言の話ばかりしている。

そこにも書いたけれど、最後にさりげなく出てくる、なぜ中世キリスト教神学はこんな露骨な矛盾を放置したのか、というのはおもしろい問題ではある。ある意味でそれこそが、科学の発展などの後押しにもなったわけで、それを怪我の功名とすることもできるし、もっと強い主張をすればヴェーバー『プロ倫』みたいな話もできるんじゃないか。「現代科学と充満の原理」みたいな。

ただ、最終講の話でも書いたけれど、ラヴジョイはそこらへん、非常に禁欲的。充満の原理自体は破綻したもので、それが科学の後押しになったのは、あくまで副作用にすぎない、というのを強く述べている。

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そこらへんは、なんでもうわっつらの類似やつながりを見て喜んでる人たち (ぼくもそうだが、でももっと慎重であるべき学者どもの中にもこの手の連中はいろいろいる) が反省すべきところではある。

ラヴジョイ『存在の大いなる連鎖』第8講:18世紀生物学

はい、ひまつぶしにラヴジョイの続きですよ。前は天文学だったけれど、今回は生物学です。個人的にはオリバー君の話につながるのが楽しかったが、もうオリバー君なんて知らないよな、みんな。

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今回の話はとても簡単。18世紀になって、博物学ができていろんな人間や動物が観察されるようになると、生物種とかいうかっちりした分類ってウソじゃね? 細かく探せば間のもの、つまりミッシングリンクがたくさんが出てくるだろ、という話が有力に思えてきた。さらに顕微鏡ができると、これまで何もないと思っていたところにも微生物がウヨウヨしてるよねー、あらゆるところに生命が充満してるじゃないの、ほら充満の原理は正しいんじゃない? という話が出てきた、ということです。

翻訳は以下にあります。

ラブジョイ『存在の大いなる連鎖』第8講:18世紀生物学

そしてものぐさな読者のみなさんのために、パワポも作っておきました。

バーナムの話とかのネタっぽいところとか (「アリストテレスが現代にやってきたら、いそいそと駆けつけちゃうよねー」)、あと顕微鏡で微生物がウヨウヨしているのを知って、充満の原理バンザーイ、と言いつつも (でもなんかキモチワルイ) と正直に言ってしまう詩人の話とかは、とっても楽しい。(たぶん以前の翻訳ではそういう楽しさは完全に死んでると思う)

たぶん、ここいらは三中信宏の本とか読むと、その後の前後の展開とかについてもいろいろわかるはず。なぜか読もうと思って、読んでないんだよね。

あとこの章でもう一つ、個人的におもしろかったのが、顕微鏡のところ。やっぱ顕微鏡が出てくると、大流行した模様。そして「Microscopes Made Easy」なんて本が書かれている。いまなら「だれでもわかる顕微鏡入門」ですな。そういう本に対する需要があったということは、たぶん顕微鏡ホビイストコミュニティみたいなのができていたんだろうね。もちろん当時の学者なんて手すさびのアマチュアと大差ないとはいえ、この頃のこういうコミュニティの話となると知識人の知の共有が〜、というような高尚な話になっちゃうけど、実際はそれよりも軽い、ホビイスト集団の楽しいやりとりがあったんだと思う。

この本文で引用されているやつでも「顕微鏡すごいぜ。なんか原子論とかいって細かい物に限界あるとか言ってる連中がいるけど見下げ果てたバカね」 [ホントにそう言ってます] とか、書きぶりがほとんどファンジンの派閥抗争の罵倒合戦なみ。

最近、パソコン史で、ホームブリューコンピュータクラブとかを採りあげつつけなすような本をいくつか訳したんだけど、その著者たちはこうしたクラブのそもそもの原動力がわかってなくて、女性差別だとか白人だけのレイシストだとか富裕層の階級ナントカとか、それがハイテク資本主義の搾取論理に奉仕するものでしかなく云々とケチつけるばかりでちょっとうんざりしたのね。結果的に見ると、なんかそういう切り取り方はできるんだけど、でもそれが本質ではないのだ。こうした動きの根底にある好奇心やわくわく感みたいなものこそが本質なのだ。それが形を取りやすい社会経済的な環境や文脈はあるけど、それは結果論でしかない。ついでになんかそうした活動をベンチャー資本による経済的インセンティブで釣れるような見方というのは、かなり歪曲しているとは思う。

が、それはさておき、この18世紀の顕微鏡でも、そのようなホビイスト的なコミュニティの片鱗が登場していることが、ぼくはこの章で実はいちばんおもしろかった、というお話でした。

次は……ライプニッツの話にいこうか、これの続きの章にいこうか、ロマン主義の話を見てみようか。ま、まだ読んでいる人がいれば気長にお待ちを。