雨の日は本を読んでいたい

あの時の本を読み返したら、今はどう思うのだろう。いつか読み返すために、思いついたことを書いておこう。読みたい本が尽きなければ、雨の日だって、晴れの日だって、読みたい本だけ読んでいたい。

キャリア・アンカー/エドガー・H・シャイン

どこでおすすめされたのか覚えていないが、メモに残っていたので図書館で借りてみた。

自らのキャリアの指向性を考える上での助けになる本である。

が、これは30代の頃に読みたかった。

自らのキャリアプランについて、その頃、語ってくれる人はいなかった。

就職した会社に残るか、辞めるか、同じ業種に就くのか、異業種にチャレンジするのか。

二元論的な考えで、人生の方向を決めていたように覚えている。

そう思うと、今の若い世代は選択の幅も、事前の情報も溢れている。

それが良い事なのかどうかは、この先、20年ぐらいで結果が出るだろう。

その頃、私がそれを知ることができるかどうかは分からない。

 

知的生活の方法/渡部昇一

講談社現代文庫が創刊60周年で、その中でも最も売れた本が、この本だと聞いて図書館で借りてみた。

というのも、渡部昇一を読むのはこれが初めてである。

名前を聞き覚えがある程度で、ビジネスマンに人気がある保守系の論客という評判をどこかで仕入れていた。

実際のところこの本がそういった内容かどうかというと、全く違っていて、知的生活とは文人と言い換えても良いのではないかと思った。

どこぞの浮かれたダイバーシティサステナビリティに時間を費やすより、自分の価値判断基準をしっかりと育てることに注力したほうがましというのは理解できる。

書かれたのが1976年であり、PCなどない世界での話ではあるが、論点は変わらない。

書斎や飲物の話など、何の話だっけ?というぐらい話が広がっているのもまた面白い。

 

酒道入門/島田雅彦

何か読むものはないかと図書館の書架を眺めていて見つけた島田雅彦の随筆である。

思い返してみると、小説は読んだことはあっても、随筆は読んだことがないなと思った。

この本はタイトルの通り酒にまつわる随筆である。

酒そのものに関する蘊蓄というよりは、酒の呑み方、酔い方、絡み方といった面に関して、ああだこうだ御託を並べている、といった感じがした。

酒の飲み方なんぞ、他人に指図されるようなものでもないと思うが、酔っぱらいの戯言だと思えば、それもまた楽しい。

 

幽界森娘異聞/笙野頼子

久しぶりに、笙野頼子を読む。

いつ買ったのか覚えていないが、酔っぱらったときに買ったのではないはず。(確証はない)

この本は、ストーリーはほぼ無い。

森茉莉雑司ヶ谷から佐倉への引っ越しと猫たちについての、独白だと言い切ってみようか。

一人称の視点しかなく、主人公と作者はイコールのような気がしてしまうが、雑司ヶ谷での猫騒動や佐倉での近隣との関わりとか、何となく事実のような錯覚に陥ってしまう。

けれど、それが事実であろうと無かろうと、森茉莉にも、家ネコにまつわる問題にも興味が無いので、これは笙野頼子の言い回しを楽しむ小説なのかもしれない。

それを楽しめるかどうか、なかなか読む人を選ぶ小説かもしれない。

北園克衛詩集

北園克衛について語れるほど読み漁ってはいない。

今回読み返した思潮社「現代詩文庫1023」、中公文庫「日本の詩歌25」は読んだ。

沖積社から出ていた全集は、慌てて買い求めたものの、途中までしか読んでいない。

造形詩に着目した図書刊行会「カバンの中の月夜」は、それまであまり知らなかった雑誌「VOU」の様子も知ることができた。

知ったのは詩歌を読み漁っていた10代の頃で、日本におけるシュルレアリスム運動を追っていく中で、西脇順三郎北園克衛に惹かれた。

アンドレ・ブルトンの「シュルレアリズム宣言」が1924年に出ているが、日本におけるシュウルレアリストの宣言としては、北園克衛上田敏雄、上田保の連名で1927年12月に出されている。

日本におけるシュルレアリスムの受容と展開について、資料を基に語られているものは、ほぼ見たことが無い。

記憶で語ってしまうが、晩年の吉本隆明の詩に関する本の中で、モダニズム詩人の動きとして触れられているぐらいだったように記憶している。

吉本隆明の解説によると、日本におけるシュルレアリスムは、飯島耕ー、大岡信東野芳明らのシュルレアリスム研究会が高く評価されている。

自分が北園克衛の名前を知った頃、吉本隆明の言及も無かったので、モダニズム詩人としての評価であり、大正デモクラシーから派生した前衛芸術の流れに位置付けられており、先の大戦により沈黙したこともあったのか、評価は低いように思った。

詩というものは、誰かの評判によって読んだところで、自分にとっての価値と必ずしも一致しないし、むしろ一致しないどころかその差が大きいこともある。

世間一般の評価であろうと、親しい人の評価であろうと、自分の中の価値との差異に何の意味も無いので、あまり語る必要も無いと考えている。

それでも、詩を読み漁っていた10代の頃、自分は一体何を考えていたのだろう。

今のようにインターネットも無く、手当たり次第に本を読み漁り、詩に関する考えも定まっていなかったので、北園克衛の詩そのものに惹かれながらも、世間の評価とのギャップを感じていたのだろう。

詩の読み方なんて、人それぞれで良いんだと思えるようになったのは、20代の後半だったなと今になって思えるのだけれど、当時は自分の中での判断を保留していたように思う。(だからこそ、今でもこの本を持っているのだけれど)

改めて読んでみると、なぜ自分が北園克衛の詩に惹かれたのかが、ちょっとは言語化できるような気がした。

昭和初期のモダニズムの流れの詩は、言葉の持つイメージを組み合わせて、ある種の抒情であり描写なのだろうけれど、それがいつのどこでもない情景を描き出しているところに惹かれたのだろう。

何かリアルなものを言い換えていく、何か言いたいものを細分化していく、そういった言葉の描写から離れているように思ったのだと思う。

それは改めて読んでみても新鮮なイメージだと思った。

この現代詩文庫はほぼ編年で、詩集の抄録となっているのだけれど、その後、戦争中の頃の詩は残念ながら、良いなとは思えなかった。

手法としては同じく言葉の持つイメージから、日本の風景を描こうとしているのだけれど、実際にある情景を描こうとすることで、逆に想起されるイメージが弱まっているように思えた。

敗戦後の詩になると、接続詞と行替えにより、新たな手法を開発している。

名詞と名詞をつなぐ接続詞を意識的に違えたりする、と説明しても上手く表現できていないので、試しに書いてみると

の光

の中で輝く

みたいな用法である。(用法を真似しただけで、北園克衛の詩ではない。念のため)

これにより、言葉を追うだけではイメージが想起されず、文の区切りがどこなのか探りながら改めて戻って読んだりしなければならない。

これは新たな言葉の使いかたであり、初期の手法の否定でもあるように思った。

そこには恐らくだけれど戦争中の体験や思考や、戦後の世界情勢がうっすらと透けて見えているような気がする。

気がするだけで、それが正解かどうかは、何の意味も無い。

その後の作品を追っていくと、初期の手法と新たな手法を混合させながら、発展させている。

語から想起されるイメージ、文から想起されるイメージ、それらは階層構造と、接続詞によるコンテクストの生成と切断が組み合わされている。

詩の中で具象的な言葉が、具象性を失って、抽象となっていく。

北薗克衛の詩とは、そんな言葉による言葉の記号化と記号の無効化なのだと思った。

改めて、全集を読んでみる必要はあるだろうと思った。

雑誌「VOU」で展開していた写真による詩の試みも読み解いてみたい。

 

 

男の作法/池波正太郎

20代の頃は、池波正太郎なんて、一生読まないだろうと思っていたが、あれから月日が流れて、ついに買って読んでしまうことになるとは、自分の見通しの甘さに苦笑せざるを得ないのだが、酔っぱらった勢いで購入したと一縷の言い訳を残しておきたい。

どうやら晩年の頃の本のようで、編集者からの質問に答えて口述筆記したような内容で、食べ物やら女性のことやら話はとりとめがない。

食べ物に関する蘊蓄を語るのだけれど、どこかに逃げの言い訳がましい言葉が付け加えられている。

そばに関する蘊蓄も、鰻に関する蘊蓄も、すき焼きに関する蘊蓄も、「そうは言っても…」という、どこかの誰かに対する目くばせのようなものが、いささか蛇足のように見えてしまう。

あるいは、口述筆記だから、あまり推敲せずに言ってしまった言葉の回収なのかもしれない。

年を取るとは、断言をしなくなることなのかもしれない、なんてことを思ってしまう。

ただ、「死」については、迷いなく正鵠を得ているように思えた。

20代の頃の自分も、これは同意せざるを得なかっただろう。

 

頭の中がカユいんだ/中島らも

酔っ払って買ったのが、中島らもというのは、洒落にもならないセンスの悪い話なのだけれど、何となく読みたくなったのだ。

タイトルは記憶があったけれど読んでいなかったので、手に取ってみた。

一言で言うなら、八方破れのような小説だった。

あらすじを説明しても何の意味も無い物語なのでここでは書かない。

様々な固有名詞が並べられるのは、物語としては不要な装飾のようなものだと思うのだけれど、それを書かざるを得ない衝動のようなものも分からないでもない。

共感する本でもないし、頭で理解する本でもないし、だけれども何かが薄っすらと見えてしまう本だと思った。

ノン・ノンフィクションという売り文句だったらしいが、それは些かいただけない。