0000の活動を復習!!!

京都にギャラリーやショップを構える平均年齢24.5歳の0000(ゼロ4つでおーふぉーと読みます)が、中野ブロードウェイ内に村上隆氏が構えるギャラリーHidari Zingaroで約1ヶ月に渡って4つの企画展示、0000festを行うことになりました。第一企画が0000初の個展「We are 0000!」、第二企画が90年代生まれの油彩画家を集めた「オイルショック!―90年代生まれのオイルペインター」、年明けの第三企画が京都のアーティストを集めた「アートどすえ―京都芸術物産展」、そして0000がBLに仕立て上げられる「0000! OH,HOT!― 0000 BL Anthology」です。村上氏によるTwitterでの告知などですでにご存知の方も多いと思います。年末のアート界の話題をさらいつつある(?)0000ですが、彼らのこれまでの活動についてまとまったテキストはないようです。そこで、私の目から見た0000のこれまでの活動について振り返ってみようと思います。
0000ウェブサイト
Hidari Zingaroウェブサイト


■結成−SUPER ART PARTY
彼らの出会いは2009年8月に福島県いわきで行われたSUPER ART PARTYでした。83年生まれの最年長メンバー緑川さんが自らの出身地で開催したパーティーです。ここでは、4日間若いアート関係者が集まって夜通しアートを語りつくされたそうです。残念ながらこの企画のウェブサイトは見れなくなっているようですが、参加されたアーティスト久恒亜由美さんのブログには参加者として以下のメンバーが挙げられています。

遠藤 一郎 / 金暎淑 / 栗山 斉 / 坂川 弘太 / 谷口 創/ ダビ / Nam HyoJun / 帆苅 祥太郎 / 原田賢幸 / 久恒 亜由美
久恒あゆみさんのブログ

ダビという名前は0000メンバーの緑川さんが使用しているアーティスト名なので、ここで緑川さん、谷口さん、Nam HyoJunさんの3名が出会ったことになります。そして、2010年2月にNam HyoJunさんと上海でともに働いていたKim okkoさんを加えて0000結成となります。


■初企画−waiting for voice
彼らの初企画はギャラリーOPEN前に東京恵比寿のMAGIC ROOM???で開催されたwaiting for voiceです。私は実際に展示を見ていないのですが、以下のような内容だったそうです。


入るとホワイトキューブのつき当たりにループする0000ロゴ映像そこから聞こえる4人のざわざわ。でも誰もいない。目の前に机とマイクとベルがあってそれを鳴らしてマイクにこんにちわって言うと4人が反応して会話ができるシステム。
0000の四人が私の声を欲してると共に迎え入れてくれたような気持ちになった。ほぼタイムラグなく向こう(京都)と声でつながってるので普通に会話をしたよ。これからのことなど。
久恒亜由美さんのブログから抜粋


「声だけ」「Skypeで東京と京都をつなぐ」
このように一目見て作品と分かるモノを展示しない方法はのちの「壁を白く塗る」に、また自分たち自身を見せるという点はHidari Zingaroの展示で販売される彼らのポートレイト・ポスターにつながります。このときすでに彼らのスタンスが発揮されていたということになるでしょう。
シブヤ経済新聞の記事


在日コリアン−NEW VILLAGE
2月に京都五条に0000 galleryをオープンした彼らは通常のgallery運営と同時に独自の企画をいくつも開催していくのですが、ここで注目したいのは、3月に開催されたNEW VILLAGE展です。メンバーの二人Nam HyoJunとKim okkoは在日コリアン三世です。Nam HyoJunは0000結成以前の個人活動で、バービー人形にチマ・チョゴリを着せる作品や、VOGUE誌のファッション・フォトの上からチマ・チョゴリをペイントする作品を制作していました。その流れを拡大させて若手の在日コリアン・アーティストのグループ展として0000ギャラリーで開催されたのがNEW VILLAGE展です。とはいえ、在日コリアン・アーティストだからと言って在日をテーマにした作品だけを集めたわけではありません。確かに、在日コリアンなど政治的なテーマは現在のアートにとって重要なテーマではありますが、それを基準にした展示ではありませんでした。彼らはアイデンティティをテーマにした作品が得てして行き過ぎた主張になってしまいがちなことをよく分かっているのです。
私がここでNEW VILLAGE展を取り上げたのは、むしろ在日コリアンでも三世になると私たちとリアリティが極めて近いのではないかということです。Nam HyoJunさんやKim okkoさんの話を聞いてみると、彼らも私たちと同じようにときに朝鮮半島の政治情勢を「ネタ」にして笑い、ときに真剣に国家やアイデンティティの問題を語ります。しかし、彼らが私たちと異なるのは、私たちが普段意識していない問題を彼らは常に意識せざるを得ない状況に晒されているということです。だからといって、私たちと彼らが異なることを強調したいのではありません。むしろ、彼らは私たちが意識していない問題を明確に意識しているだけで、直面している事実は変わらないということが大切だと思います。そして、その事実に対する反応は結果的にとても似ているのです。彼らと私たちはあまり違わない。だから同じVILLAGEに住むことができるのです。彼らと緑川さん、谷口さんがともに活動をしていることがその証左になるでしょう。彼と私の境界ではなく、「私たち」がどのようなVILLAGEを築くことができるのか、そうした問いがNEW VILLAGEという展覧会名に現れていたのだと思います。

NEW VILLAGE
Nam HyoJunさんの個人ウェブサイト


■(わたし的に)話題沸騰−ART FAIR FREE
彼らの名を一気に広めた企画が毎年4月に開催される日本最大のアートフェア、アートフェア東京と同時期に原宿のVACANTで開催されたART FAIR FREEです。0000はART FAIR FREE実行委員会のメンバーとして、VACANTを運営するnOideaとMAGIC ROOM???スタッフ(当時)の新宅梓さんとともにこの企画を主催しました。私もTwitter上でのやりとりを除いて彼らと始めて会ったのがこの企画でした。
アート市場では当然ながら「お金」で作品を売買します。ART FAIR FREEでは、この「お金」による売買という制限が外されました。展示された作品を手に入れたいと観客(購入者)は、自分で考えたsomthingをアーティストに提示します。そして、アーティストが観客の提示を受け入れればそのsomethingと作品の交換が成立するという仕組みです。お金という制限を外す代わりに、観客(購入者)とアーティストの「交渉」を加えたということになります。
様々なメディアで取り上げられたこの企画ですが、お金「ではない」交換による新しいアートフェアとして紹介されていました。しかし、この点は大きな間違いだったと思われます。彼らのステートメントに誤読の原因があるのですが、その目的はアート市場を批判することではありませんでした。「お金」という制限を外すことによって、アート市場という閉鎖された市場を開くことだったのです。キャプションとともに価格が提示されている通常のアートフェアでは、鑑賞者(購入者)は価格という基準を元に作品を鑑賞します。しかし、その基準を外してしまえば、鑑賞者は作品と直接向き合うことになります。結果的に、作品を自らの目だけで判断しなければならないので、鑑賞者にとっては重荷になる可能性もあります。しかし、このような意見はアートを見慣れた人たちの意見です。アートを見慣れていない人たちにとっては、価格がつけられていないことは負担の軽減になるかもしれません。例えば、1億円の値段が付いている作品を前にして、なぜ1億円の値段がついているのかその理由が全く分からない場合、自分はその市場から弾きだされた気持ちになるでしょう。このように、価格の理由が分からないことが作品鑑賞の障害になっている場合が多いのです。むしろ、彼らは価格なしで素直に鑑賞することを「許可されている」と感じるようになるのです。このように、0000は一貫してこれまでアートに興味を持たなかった人々を巻き込もうとしています。

さて、結果はどうだったのでしょうか。正確ではないのですが、100点程度の展示作品のうち約半数が交換成立となったのではないかと思います。では、購入者はどのようなsomethingを提示したのでしょうか?一言で行ってしまえば、それはコミュニケーションでした。例えば、お寿司をおごる、応援する、という内容のものが多かったように感じました。結果的に鑑賞者が求めているのはコミュニケーションだったということになると思います。もちろん、展示の機会を与えるといった具体的に活動をサポートする提示もあったのですが、少数でした。「お金」という制限を外すことで鑑賞者や作家の求めているものがコミュニケーションであることが分かったことになります。アーティストや鑑賞者が何を求めているのかを明らかにした点ではとても価値のある企画でした。
しかし、お金という制限を外したところでアート市場が崩れるわけではありません。鑑賞者と作家が求めているものが分かった今、それでも「お金」による売買が継続するアート市場を開かれた魅力的な場にしていくために何が必要なのかを考えださなければならないということが、この企画が問うたことだったのではないでしょうか。

ART FAIR FREEウェブサイト
出品者鈴木携人さんのブログ記事



■大人気−2010円展
ART FAIR FREEとともに0000の代表的な企画となったのが全ての作品を2010円で販売する2010円展です。この企画は前述のART FAIR FREEとは逆に、2010円という制限を設けることで、アートを手に入れる人を増やそうということが目的でした。2010円という価格設定は、同時期に開催されていたアートフェア京都の入場料2000円にプラス10円で作品が買えてしまう!ということと、今年が2010年であることに由来します。
この企画は2010円という制限が分かりやすかったためか、大人気の企画となりました。初の企画は0000単独での企画でしたが、その後、同時代ギャラリーと大丸心斎橋店との共催という形で計3回開催されました。大丸心斎橋店での展示ですでにfinalと銘打たれているため、この企画が継続されることはありません。
この企画で最も問題になるのは2010円という異常に安い価格設定です。谷口さんの言葉を借りれば、この価格設定は購入者本位の価格設定であるとうことになります。確かに、3回の企画で約450点もの作品を売り上げたことが、需要があったことを証明しています。ギャラリーでの個展では一点も作品が売れないことも多々あることを考えれば、この販売数は驚異的な数字です。そして、多くの購入者が始めてアートを購入する方だったそうです。価格設定が低すぎたとしても(当然、低すぎます)これほど多くの人にアートを購入するという行動に移させたことはアートをより一般的に広めていくという彼らの目的に適ったものです。しかし、この価格設定では低すぎることも明らかです。それゆえに、彼らは3回目にしてfinalと銘打ち、この企画を封印しました。
では、作家の視点から見ると2010円展にはどのような意味があったのでしょうか?まず、2010円では利益が出ないでしょう。それにも関わらず、総計200名以上の作家がこの企画に参加しました。これほど多くの作家が2010円であっても作品を展示し誰かに購入して欲しいと考えているのです。そして、450点もの作品が彼らの希望通りに誰かの手に渡りました。2010円という価格は明らかに低すぎたとしても、交換を成立させたという点は評価されるべきです。
さて、先にこの企画を2010円という制限を設けた企画だとまとめました。一方、ART FAIR FREEでは逆に制限を外していました。彼らはこのようにアート市場の制限を外したり、新たな制限を加えたりすることで、一つの制度を作っていると解釈できます。そして、彼らの企画が制度である限り、その制度を破ることも可能なのです。0000が求めていたのは彼らが作った制度によって、作家が創作のヒントを得ることではなかったかと思います。そして、2010円展ではその制度を破った作家もいました。植田はるきさんはキャンバスだけでもゆうに2010円を超えるだろう100号のキャンバス作品を出品しました。100号のキャンバス作品は別段めずらしくはありません。しかし、2010円という制限の中ではなぜ彼女がそのような作品を出したのか?と疑問に思われます。つまり、0000が敷いた2010円という制度を問い直す作品となるのです。ただの100号のキャンバスが制度という文脈のもとで、新たな意味を持ってくる、0000の企画の醍醐味はこの点にあります。つまり、大きな物語の終わった現代において、文脈を作り出す契機を与えているのです。

¥2010 exhibition -Spring 2010
¥2010 exhibition -Summer- @同時代ギャラリー
¥2010 exhibition-Final at 大丸心斎橋店
阿部和壁さんのブログ記事



その他にも0000はトーキョーワンダーサイト本郷でのグループ展ART BATTTLE ROYALE(村上隆氏との出会いの場ともなった)でスペースの「壁を白く塗る」だけの作品?や、京都のアートシーンを盛り上げるための京都藝術という活動など結成1年を経ずして様々な活動を行っています。
ART BATTTLE ROYALEウェブサイト
(これで0000を知った人も多いと思いますが、私も関係していたのでここでは細かく触れませんでした。)
京都藝術ウェブサイト


彼らの目的は「「日本のアートシーン」を総合的につくり上げていくこと」です。ここでいうアートシーンとは村上隆さんの言葉を借りればルールと言うことができます。彼らは日本のアートシーンに新しいルールを提案しているのです。彼らの活動に掴みどころがないように思われるとすれば、それは誰のルールにもよらず自分たちでルールを創りだそうとしているからです。例えば、ART FAIR FREEでは「お金」というルールをのぞく代わりに「交渉」というルールを設定し、2010円展では固定価格というルールを設定しました。
0000festでは企画に加えて、0000初の個展があります。これまでは彼らが作ったルールの中にアーティストや鑑賞者を巻き込む活動をしてきました。個展では、彼らのルールに従って、彼らのクレジットが入った作品が提示されることになります。OPEN前から話題になった「ギャラリーの壁を広告にする」など、どのような展示に仕上がっているのか。楽しみです。

Chim↑Pomの〇〇じゃないほうメンバートーク@velvet sun

2010年5月1日に荻窪のvelvet sunで行われた「Chim↑Pomの〇〇じゃないほうメンバートーク

USTのアーカイブは公開されていませんが、アフタートークYouTubeで公開されています。よろしければ御覧下さい。

Chim↑Pom所属の無人島プロダクション ウェブサイト
荻窪velvet sun ウェブサイト

『Chim↑Pomの◯◯じゃないほうメンバートーク』


2010.5.1(土)ART!
Chim↑Pomの◯◯じゃないほうメンバートーク
リーダー卯城氏、紅一点のエリイ以外の4人が終結
start19:00 charge¥1000 + 1D¥500
場所:velvet sun(JR荻窪駅徒歩5分)
Chim↑Pom:林靖高 × 水野俊紀 × 岡田将孝 × 稲岡求
司会:花房太一

■予約(当日飛び入り参加も可能です)
【 メール 】
メールのタイトルを「チンポム予約」とし、氏名/メールアドレス/予約人数を明記したメールを下記のアドレスまでお送りください。24時間以内にこちらから予約確認のメールをお送りいたします。予約をキャンセルされる場合は事前にご連絡を頂けますようお願い致します。

hanapusa0504(at)hotmail.com
※「(at)」を「@」に変更して、以下を明記してお送りください。

=======================
 <メールのタイトル>
 チンポム予約
 <メールの本文>
 (1)氏名:◯◯◯◯
 (2)メールアドレス:◯◯◯◯@◯◯.◯
 (3)参加人数:◯人
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司会:花房太一からのご挨拶

Chim↑Pomというアート・グループをご存知でしょうか?
彼らは2005年にアート界の異端児としてデビューしました。彼らの見た目はシブヤのギャルとギャル男そのもので、作品もシブヤに生きる自分達を題材としたものでした。
先に異端児と書いたのは、このように彼らの容姿と作品が、それまでのアートとは程遠いものだったからです。
さらに、広島の原爆ドーム上空に「ピカッ」という文字をスカイ・ライティングした作品『ヒロシマの空をピカッとさせる』では、
アート界だけでなく新聞や美術館をも巻き込んだ議論を発生させてしまいました。
アート界のみならず社会の異端児として、様々な人から怒られてしまったのです。
しかし、その後もChim↑Pomは次々と作品を発表し、ついには日本の若手アーティストの代表として、Asia Art Awardに選出されるまでになりました。
アート界、いや日本社会の問題視は日本の代表にまで成り上がったのです(とはいえ、Asia Art Awardを受賞することはできなかったので、未だアジアでは異端児なのかもしれません)。
以上のように、彼らは日本では、若手のホープとしての地位を確立しつつあります。私たちは様々な場所でChim↑Pomの作品を見ることができます。
Chim↑Pomは6名のグループです。そのうち、紅一点のエリイは雑誌SPAやNumeroなどで取り上げられ、「アート界のミューズ」として存在感を増しています。
また、度々招かれるアーティスト・トークでは、リーダー卯城竜太のシンプルかつ説得力のあるプレゼンテーションを見ることができます。
では残りの4人はどこにいるのでしょうか? 作品の中ではよく見かけます。しかし、Chim↑Pomメンバーとしての彼らを私たちはほとんど何も知らないのです。
今回のトークでは、皆さんご存知のエリイと卯城氏を除く4名のメンバーがChim↑Pomの作品について語ります。
恐らく、4名の間で自らの作品の価値をめぐる激論が交わされることになるでしょう。
アメトークの「〇〇じゃないほう芸人」ならぬ、「Chim↑Pomの〇〇じゃないほうメンバー」トーク
このイベントで、私たちはChim↑Pomの新しい側面を発見できるでしょう。
この機会に是非、トークにご参加頂き、Chim↑Pomを裏の裏までほじくり返し、大いに笑い、大いに考えてみませんか?

Chim↑Pomプロフィール

Chim↑Pom---チンポム作品集

Chim↑Pom---チンポム作品集

なぜ広島の空をピカッとさせてはいけないのか

なぜ広島の空をピカッとさせてはいけないのか

JOY TO LOVE:Chim↑Pom

JOY TO LOVE:Chim↑Pom

Chim↑Pomポストカードセット「BLACK OF DEATH 東京」

Chim↑Pomポストカードセット「BLACK OF DEATH 東京」

Camp Ustreamトーク『「ART FAIR FREE」解体』

アート関連のトークイベントを開催されているCampのイヴェントとして、2010年4月13日(火)21時〜23時に、初めてUstreamのみでのトークを開催しました。

今回のテーマは「ART FAIR FREE」です。本来アートフェアはギャラリーが集まった展示即売会ですが、今回のアートフェアフリーでは、鑑賞者がアーティストにsomthingを提案することで、作品を交換するというフェアでした。

このフェアが様々な問題を定期したことは間違いありません。2時間弱のトークですが、よろしければご覧下さい。

Camp
ART FAIR FREE
0000gallery(オーフォーギャラリー)


Beuys in Japan ボイスがいた8日間@水戸芸術館

1月24日(日)17時〜18時
ボイス展に合わせて開催されている遠藤一郎さんのパフォーマンスの最終日の祭り!が決行されるそうです。当日は甘酒やおしるこがふるまわれるそうなので、水戸の近くにお住まいの方、そしてまだ展覧会を見ていない人は是非!


「遠藤一郎がいた42日間、と残り4日」

現在、水戸芸術館で『Beuys in Japan ボイスがいた8日間』という展覧会が開催されています。展覧会は、現代美術のスーパースター、ヨゼフ・ボイスが1984年に日本に来日したときのパフォーマンスや講演会の映像、及び日本の美術館やコレクターが所蔵しているボイスの作品、そして日本の美術業界人のボイスに対する見解を集めたインタビュー映像で構成されています。


この展覧会に対して、最近の日本ではめずらしく議論の応酬が勃発しました。ウェブ上で展開された、美術批評家の福住廉さんの批評*1と、それに答えた水戸芸術館のキュレーターで展覧会のキュレーションを担当した高橋瑞木さんの応答*2です。

福住廉さんは本展覧会を以下のように総評します。

本展の展示の重心は、私が見たかぎり、ボイスの現在的な意義を考えるというより、ボイス個人のカリスマ性を再生産するほうに大きく傾いていた*3

福住さんが上記のように述べるのは、展示されている「作品」がボイスの活動の本質的な目的とずれていると考えているからです。例えば、学生との対話のために開催された東京芸術大学での議論で使用した黒板をアクリルケースに入れて展示した「作品」を取り上げて痛烈に批判しています。そして、総じて展示品から以下のような印象を受けるのだと言います。

もちろん、それらがボイスのいう「拡大された芸術概念」の現われだといえなくもないが、それにしてもフェティッシュな物神崇拝の匂いを拭い去ることはなかなか難しい。*4

このような福住さんの批判にたいして、高橋瑞木さんは福住さんの指摘した問題はキュレーターも、そしてボイス自身もすでに織り込み済であり、またそもそも美術館がそうした問題を回避できないと言います。その上で、以下のように反論しています。

アドルノの発言を今さら引き合いに出すまでもなく、美術館は美術品の墓場です。それだからこそ、シンポジウムやトークといった関連イベントのようなライブが開催されます。*5

つまり、福住さんの指摘した批判を踏まえた上で、それを超えた議論をする場として本展覧会を企画したということです。

このような議論は近年の美術業界ではあまり見ることができませんでした。一方的な批判に終わらず、しっかりと応答した高橋さんの行動は内容に関係なく評価されるべきだと思います。まず、こうした議論がより活発に行われるようになって欲しいと思います。


では、ここから若干の私見を述べてみたいと思います。

私はどちらかと言えば、高橋さんに賛同を示す者です。福住さんはカリスマとしてのボイスを再生産してしまっていると言いますが、ボイス自身が「もしそのことが他人の役に立つのであれば、私はスーパースターであることを引き受ける」という趣旨の発言をしています。また、素朴に考えてみれば、ボイスの作品を見ることは非常に面白いのです。それは、黒板であっても同じです。さらに、実は私たちは再生産され続ける作家のカリスマ性をどのような作品からも読み取ろうとしているのです。例えば、理解はできないけれどもセザンヌの作品を見に行くという行為は、セザンヌのカリスマ性を再生産する行為となるでしょう。「これはセザンヌという偉い人が描いたのだから、何かすごいものがあるのだろう。」大抵の場合、私たちはこうした見方をしています。もちろん、作家のカリスマ性と作品を結びつけて見ることに対する疑問を、私も持っています。しかし、そのような批判はボイスに対してだけ成されても意味のないことです。

しかし、福住さんの指摘した批判は的確です。そして、批判した後に福住さんは現在の私たちにとってもボイスの価値を論じています。福住さんが捉えるボイスの価値と私の見解は異なりますが、それでも福住さんの論は説得力のあるものです。(私のボイス論は、また他のところで書きたいと思います。)福住さんは、展示品がボイスのカリスマ性を再生産しているだけだと指摘しました。確かに、ほとんど無意味と思えるモノや、やたらと長い映像を展示することはボイスのカリスマ性を再生産していると言えます。この点に関しては、福住さんの指摘は的を射ています。今回の展覧会は、ボイスのモノとしての作品ではなく、ボイスの対話や行動(アクション)を重視したキュレーションになっています。その中で、ボイスの作品や彼の講演会を記録した映像は無意味なのではないかと思われます。極限すれば、そうしたモノは不必要に思われてくるのです。

それでも私が高橋さんに賛同するのは、福住さんが展覧会のキュレーションの一部を取り上げて批判しているに過ぎないと考えているからです。では、福住さんが取り上げなかった展覧会の残りの部分とは何でしょうか。


それが、『ボイスのいた8日間』と同時に開催されている、遠藤一郎さんの「愛と平和と未来のために」です。

遠藤一郎さんは水戸芸術館が『ボイスのいた8日間』のために開館している間、水戸芸術館の前の広場と会場内をただひたすらに、ほふく前進するというパフォーマンスを続けています。水戸芸術館の開館時間は9時30分から18時までですから、実に10時間半もの間、ほとんど毎日ほふく前進をしていることになります。

私は『ボイスのいた8日間』は遠藤一郎さんのパフォーマンスと合わさることで始めてキュレーションとして成立するのだと考えます。つまり、ボイスが求めたような対話や議論を遠藤さんが代替し補完しているのです。

遠藤さんのパフォーマンスはただひたすらにほふく前身を続けているだけで、そのアクション自体には全く意味がありません。しかし、遠藤さんの周りには実に多様な人々が毎日集まっています。

一緒にほふく前身をするために鹿島からやってきた母子。学校の授業の合間を縫って毎日訪れる女子高生。展覧会を見に来た学芸員。掃除の(?)おばちゃんたち。毎日、お昼のお弁当を届けてくれる近くのお弁当屋さん。通りすがりの鑑賞者たち。広場で遊ぶ小学生たち。

これらの人々は1日だけ訪れた私が実際に出会った人たちです。この中の何人かとは広場で一緒に昼食を食べ、ギターを弾きながら歌いました。私がその人たちと出会ったことも無意味かもしれません。しかし、そこに何らかの対話が生まれたということは紛れもない事実です。

遠藤さんはボイスほど雄弁ではありません。しかし、その「作品」の本質はボイスと同様なのではないでしょうか。どちらの「作品」も無意味です。しかし、どちらも対話には成功しているのです。

ヨゼフ・ボイスはもうこの世にいません。私たちは彼の映像や残されたモノを見て、想像の中でボイスとの対話を疑似体験するだけです。しかし、遠藤さんの対話に加わることはできます。ボイスのいない今、遠藤さんが対話を始めているのです。


私たちはボイスの「作品」を見ることができるのです。


ここにおいて、高橋瑞木さんがボイスの展覧会に遠藤一郎さんのパフォーマンスをぶつけた意味が分かるようになります。福住さんの言葉で言えば物神崇拝的な展示品、それに加えて遠藤一郎という生身の「作品」を展示することで、このキュレーションは初めて成立するのです*6*7


ボイスがいた8日間。そして、遠藤一郎がいた42日間、と残り4日。



「Beuys in Japan ボイスがいた8日間 」展
会場: 水戸芸術館現代美術センター
スケジュール: 2009年10月31日 〜 2010年01月24日
住所: 〒310-0063 茨城県水戸市五軒町 1-6-8
電話: 029-227-8111 ファックス: 029-227-8110


ボイスについてはほとんど何も書いていませんが、いずれどこかできっちりとしたボイス論を書きたいものです。。。

*1:福住廉「死者を呼び出し、送り返すこと──シンポジウム「21世紀にボイスを召還せよ!」レポート2009年12月15日号」

*2:高橋瑞木「artscape掲載の福住氏によるレポートについて」

*3:福住廉、同前掲論文

*4:福住廉、同上

*5:高橋瑞木、同前掲論文

*6:実際、『ボイスのいた8日間』の展示の途中に、遠藤一郎さんの作業着と写真、そしてやたら長い映像の展示された部屋が、唐突に配置されています。

*7:参考レポート:伊藤悠「BEUYS IN JAPAN−ボイスがいた8日間」関連イベント「愛と平和と未来のために」橋本誠「ボイスがいた8日間と対話と行動」

朝まで生テレビ「若者論」

朝生を見たのですが、私にとって一番大きかったのはベーシック・インカムが実現可能かもしれないと思い始めたことです。

もともとはベーシック・インカムなんか無理だろと思っていたのです。BIを導入するとあまりにもシステムが複雑になりすぎるし、財源もないし。とか思っていたのですが、全然違いました。要するにBIってのは社会保障をBIに(とりあえず)一元化するということなんですね。これなら可能です。しかし、そうとう大きな改革ですから、その分賛同者が多くてはならないでしょう。そして、賛同者が多いということが朝生で見てよく分かりました。雨宮さん、赤木さんも賛成みたいです。実現可能ならやるべきだと思います。シンプルになれば、年金がどうとか言って世代論に偽装されることも少なくなります。早く次の議論しようよ、ということにもつながりそうです。

それから、朝生以来突然twitterが面白くなってきました。朝生出演者の東浩紀さん周辺、ised参加者たちがいっぱい議論し始めているんですね。井庭さんとか懐かしいです。井庭さんの授業でルーマン読んだな。彼のルーマンの読み方はとっても刺激的でした。

とにかくtwitterにはこういう使われ方があるんですね。面白いです。私たちの世代でtwitterしている人ってすぐやめちゃっている人が多いような気がしますが、ちょっと上の世代、濱野さんとかになるとめちゃくちゃちゃんと続けていますね。ところがほんのちょっと下の私たちになるとみんな放置です。飽きやすいのかな。私たちははじめっからインターネットってあったよね、って感じだからですかね。
ised周辺twitterまとめサイト  http://togetter.com/li/399


あと、東浩紀さんの次の著書として執筆中だという「一般意志2.0」も始め何言ってるか分からなかったのですが、わかってきました。ルソーの『社会契約論』を読むと一般意志ってむちゃくちゃぶっとんでいてわけわからなかったんです。すっげぇ、やっべぇ、いっちゃってるなぁ、って読んでました。すいません。

でもインターネットとその場における技術革新によって一般意志がボワ〜っと立ち上がってくるのと同じことが起きているのだから、それを政策決定に使うことは可能でしょってことですね。とりあえずイメージはできるようになりました。

なぜか直接民主制って言葉が一人歩きしていますが、単に衝撃的だったからでしょうね。データベース民主主義っていったらよく分かりますが、友達にデーターベース民主主義ってありえるじゃん、とか言っても絶対通じないな。なぜか東さんの出身大学にも東読者は少ないという変な状況があります。一部の研究室では全員読んでるみたいな状況になっているのかな。私のまわりでは東浩紀って名前出しても分かってもらえないこととかあってびっくりするけど、びっくりしているのは私だけかもしれない。とにかく闘技とか熟慮が難しいのは確か。ただ、データベース民主主義になればむしろ闘技や熟慮が小さい集団では確保されるってことになって、それとは別に意志決定があるってことだからいいじゃんみたいな感じでしょうか。


とか言ってすぐに自分の周辺の話と結びつけてしまうのが悪い癖です。とにかく、BIに賛成と『一般意志2.0』が楽しみだ、ということです。



社会契約論 (岩波文庫)

社会契約論 (岩波文庫)

染野夫妻陶芸コレクション@東京国立美術館工芸館

河口龍夫展に行くなら工芸館にも行きましょう。

近代工芸の良品が一気に見られます。文句なしにすばらしい作品群ですが、何しろ展示が。。。

工芸館は展示室の使い方が難しいですね。近衛兵の建物で歴史もあるし、美術館よりもいいのですが、内部の空間をどうにかしてほしいと思ってしまいます。今回は200点ほど展示されていますが、もっとぐっと作品数を絞って作品を全ての角度から見られるディスプレイにしたらもっといいと思います。

しかし、工芸にはすごい人たちがたくさんいます。


「染野夫妻陶芸コレクション」展
会場: 東京国立近代美術館工芸館
スケジュール: 2009年09月04日 〜 2009年11月03日
住所: 〒102-0091 千代田区北の丸公園1-1
電話: 03-3211-7781 ファックス: 03-3211-7783