日記など 2002年から

福祉の話題が多いです。東京都の西部・多摩地区が行動範囲です。

「裁判記録の閲覧」体験記

メンテナンス主義で3  

 とある役所に「裁判記録の閲覧」に行った。入口で警備員の荷物チェックを受けて、小さな部屋に通されて、そこで書類を読む。個人名などに黒いテープを貼って伏せられている。ここまでが長かった。最初に電話したときは「申請しても許可されないかも。何ヶ月も待たされるかも」と渋い対応。役所に行って、その裁判の関係者「の関係者」ということが伝わると話が進んだ。「理由書」を2枚作って付けて申請した。3ヶ月半が過ぎて、やっと連絡が来た。 

 「刑事」裁判の記録を見るのはややこしい。まず「保存期間」を過ぎていないこと。多くの、実刑になるような事件は5年が多い(重い罪ほど長くなる)。さらに裁判後3年過ぎると「原則だめ」になる。なのに早めに申請すると「未整理のため」何ヶ月も待たされるという。今回は3年過ぎていたが、裁判の(遠い)関係者であることと、「更生」が目的であることで通った。刑事訴訟法53条を読む。

何人も、被告事件の終結後、訴訟記録を閲覧することができる但し、訴訟記録の保存又は裁判所若しくは検察庁の事務に支障のあるときは、 この限りでない 

・弁論の公開を禁止した事件の訴訟記録又は一般の閲覧に適しないものとしてその閲覧が禁止された訴訟記録は、前項の規定にかかわらず、訴訟関係人又は閲覧につき正当な理由があつて特に訴訟記録の保管者の許可を受けた者でなければ、これを 閲覧することができない (以下略) 

 読んだ人を全員「法律嫌い」にさせるパワーがある。「誰でもOK」と見せかけて、実際は「原則NG」だし、「事務に支障あり」と言えば、断ろうと思えば全部断れる。対照的に、裁判中の「傍聴」は住所も名前もオープンだ。終わると急に閉じてしまうのはなぜか。調べると、憲法82条の「裁判の公開原則」にそって傍聴はかなり自由で、記録の公開もそれに基づく。ただ、その趣旨は「知る権利」のためよりも「権力が公正に行使されているか」監視すること。過去の「密室裁判・暗黒裁判」への反省からだ。なので、裁判が終わると出さなくなる。あまり中立とも言えない「検察官」が記録の扱いを判断している。昔は裁判所内に「検察部」があって事務処理を担当していた名残りだそうだ。2007年に、作家が鑑定医の調書を盗み見て、それを元に本を書き、メディアへの記録の公開は一段と厳格になったという(草薙厚子「僕はパパを殺すことに決めた」)。 

 2020年に日本弁護士会が出した意見書を読んだ。上の条文の一語一句すべてに否定的だった。閲覧者の守秘義務を厳格にすることを担保に「原則は公開」という改善案だった。検察でなく裁判所が保管すべきとも。今年になって、神戸の事件はじめ重大な事件の記録が破棄されていたことがわかった。弁護士会の意見でも、歴史的に重要とされる「特別処分記録」は「公文書扱い」にすべきで、その指定に第三者が入り「公文書館」で保存する提案がされていた。遅かったわけだ。 

 もう一つ、実際手続きしたことで判明した「裏の事情」がある。「黒テープ作業が大変すぎ!」書類は片面摺りとはいえ厚さ10センチ近い。数百カ所(おそらく千超える)切り貼りして、一つの漏れも無いように肉眼でチェックする。「何としてもやりたくない」気持ちは分かる。 人の仕事じゃないと思う。書記の段階でデジタルで情報が分類分け・タグ付けされていたら、あとは閲覧者の属性に合わせて微調整するだけだ。 

『対話』修復的司法がテーマの演劇 

 ネットの口コミで「演者の心にダメージが残らないか心配」と書かれるほど、役者のテンションが振り切っていて緊張感がありました。2時間のうち、半分は誰かが怒り叫んでいて、その他は重い沈黙、ほんのわずかに和む時間がありました。観劇から3ヶ月過ぎた今でも場面を鮮明に覚えていて、役者さんと演劇という表現の「力」を感じました。  

調停人・ジャック・マニングが今回取り組むのは、既に結審した事件の、服役者スコットサイドの関係者と被害者の両親との修復――「心を癒やすのではなく摩擦を減らす」試みだ。両家関係者のほか、服役者のかつてのセラピストの計7名が出席した住民会議の場で、ジャックはまず口を開くーー「目指すものは先ず何が起きたのかを聞き、みんながどんな思いをしたのかを掘り起こし、そこから何らかの理解が生まれないか、考えることです」と。加害者・被害者の狭間で、マニングは如何に耳を傾けるのか。(劇団俳優座 公演『対話』) 

  原作はオーストラリアの人です。歴史や背景が異なるためか、表現や更生に対する意識の違いを感じました。「ストレート、オブラートに包まない、対立から始める」という感じです。読んだ本によると、日本では「被害者と加害者が最初から真っ向勝負」というのはうまく行かず、時間をかけて準備するそうです。また「事件」が陰惨で救いの無いものでした(書けないくらいの胸糞事件。日本でなら「交通事故」にするのでは)。本来、何年もかけて少しずつ進めるものを2時間に押し込んだことによる違和感もあります。調停人ジャックは、取り乱した家族が部屋を出ようとすると「出ていったら全てが台無しですよ!いいんですか?」と繰り返す。2時間で収めるには誰かが「看守」をしないといけない。 

  フィクションの良さもあります。7人がそれぞれ異なる「背景・加害者−被害者への思い・罪悪感・怒り・葛藤」を持っていて、対話を通して7通りの変化をします。それは脚本のための単純化された配役ではありますが、実際の被害・加害の関係の中にも7つのどれか(または複数の組み合わせ)があるはず。実際の現場では、劇ほどストレートに表現されず見過ごされることも多い。たくさんの課題が出てきて関係を詳しく見ることができない。フィットの会の活動でも異なる関係・受け止めがあります。それでも「7つ」の関係を考慮するのはちょっと多い。支援の中の「問題解決」の側面からは単純にしたい。実際の支援の中でも、この作品を思い出して「最低でも7つの配役はあるはず、単純化しすぎないように」と立ち止まるのも、いいかも知れません。 

 7人の役に一言コメント。「建前〜本音〜変化」にまとめようとしましたが、コトはそう単純ではなさそうでしたのでA・B・Cというラベルで分けています。 

〇 加害者の母 〜 会議の発起人 

(A)「自分の育て方が悪かった。自分が全て悪い。それを伝えたくて来てもらった」 

(B)息子=加害者が、直前に刑務所内で暴行を受けた。個室に移らないとは命の危険があるが、被害者家族の承認が必要。感情がこみ上げ「承認がほしい」と口にし相手家族を激怒させる。 

(C)被害者母との交流を経て「苦しみを誰か一人が背負うものではない」と考え始めた。息子への「許されない愛情」を受け止められたことが救いになっていたように見えた。 

〇 姉 〜野党の政策コンサルタントだと最後に判明(オーストラリアの政治ネタみたい) 

(A)謝罪はしつつ「弟が異常・生まれつきの悪人」という意見には断固反対。被害者家族に語気強く突っかかることも。生育環境(地域・片親・貧困・・)が要因の一つだった、との主張は最後まで変わらない。(事件が悲惨すぎて、被害者家族に物申す姿勢が場違いに感じました) 

〇 弟 〜横暴な兄に虐げられてきた 

(A)序盤の超険悪な空気の中で「被害者家族に同意します。兄は極刑になればよかったんだ!」と声を上げたことで、対立していた場が動きだす。 

(B)事件直前、危険を報せられる機会があったと打ち明ける。だが被害者に、貧困地域出身の自分を蔑む態度をとられ躊躇した。自分が許せないが、その屈辱感も忘れられない。 

(C)告白がきっかけにもなり、被害者母が「娘にはそういう面もあった。完全な人間ではなかった」と話し始め、議論が「悪人が善人を殺した」というものから「名前のある個人の関係」という視点を含んだものに変わった。 

〇 被害者の父 

(A)加害者擁護の意見に対する反論を日夜調べている。被害者への憎しみだけの生活になっており、妻との関係は悪化して離婚予定。 

(C)怒りは変わらないが妻の変化を見て態度は軟化する。夫婦関係は修復された。 

(感想)憎しみは、娘が殺されたことだけでなく、家族関係を壊されたことも含む。娘は返ってこないが、家族関係は修復できる、ということかも知れません。 

〇 被害者の母(情緒の波が激しすぎて、とにかく役者さんお疲れ様です) 

(A)「娘の未来を奪っただけでなく、過去も奪った」と話す。娘の写真は「その先の結末を暗示」するので見られなくなった。ただし「楽しかったエピソードを話す」ことはできたし、むしろ話したい。夫はそれを聞きたくない。夫婦関係が悪くなった。 

(B)カウンセラーが「時系列のアルバムが良くない。ランダムに抜き出してはどうか」と助言。「帰ったらすぐにやってみる」。「誰も娘の話を聞きたがらない」という言葉に加害者母が「ぜひ聞きたい」と促す。夫は「こんな人たちに聞かせたくない」と後ろに下がるが、子供の頃のエピソードを話し続ける。 

(C)被害者母の共感を目にして、「最初に素晴らしい娘だと言ったけど、実際は育てるのが難しいことも多かった」と告白する。加害者弟の「被害者の差別的な態度」のエピソードに「それも娘の側面の一つだった」と話す。 

〇 叔父(母親の兄)車を出しただけで参加するつもりはなかった 

(A)妹家族を親身に支えた気のいいおじさん。加害者を一時期雇っていた。 

(B)中盤以降、妹家族から集中砲火を浴びる。別の犯罪で捕まった時にすぐに解雇したこと。女性へのモラハラ的な態度を容認・助長するようなコミュニケーションがあった。加害者にとって唯一といえる「尊敬できる相手」だったことで、同性同士の何気ない会話が、本人の価値観に強く影響したはず。 

(感想)社会と個人の間「職場など身近なコミュニティ」を代表しているように見えた。また、姉のように社会の責任を求めるのは、距離があって実感が薄いけど、その中間にいる叔父を責めることで、行き場のない加害者家族の苦しみが軽くなるようにも感じました。 

〇加害者のカウンセラー 〜中立の立場のプロフェッショナルという態度 

(A)会議について「参加者に良い結果を生まない」と調停人に対して反対していた。 

(C)実は大きな葛藤を抱えていて参加を躊躇していた。後半で「前の事件で、なぜ仮釈放に肯定的な判断をしたのか?」と、主に被害者父に繰り返し問われて、加害者の巧みなコミュニケーションによって「治療がうまくいって改善した」と誤った判断をしてしまった、と告白する。自信を失い休職している。仕事はもう続けられないと思っている。 

(感想)関わった専門職の苦しみという役どころ。加害者・被害者関係、双方から責められる立場で苦しむ。加害者姉・弟から「誰か一人に責任を求めるのはもう止めよう」という言葉。最後の「一人ずつ退場シーン」では調停人に「やって良かった」と感謝を伝える。 

(公演が終わると作品に触れる機会が少ないのでネタバレ御免で書きました) 

あらばしり13:春休みの自由研究「老後」  

 Mさんロスが続いている。こう書くと知ってる人を心配させてしまうかも知れない。一般的な意味で、仕事の大きな割合が急に空白になって穴があいたままになっている。前にも似たことがあった。10年くらい前に施設の利用者さんが事故で亡くなった時だった(前に書いたSさん)。「大変な現場」が、急になくなったことで思った以上に生活に影響が出た。当時は、急に仕事がつまらなくなって、逆に「職場の外」が魅力的に見えてきて転職への「転機」にもなった。

 大変な現場に関わっている、という「特別感・充実感」に依存していたんじゃないか、という指摘は合っている。逆に、それが全く無い人はいないと思うし「適量」あるといいと思う。また、「その人」へのロスでなく「仕事」の喪失感だなんて薄情だ、という指摘もその通り。それは別々に起きていて、Mさんのことは頭にあって何か考えるときに顔を出す。空いた時間は、朝起きて何をするとか何時に寝るという日々の行動に影響する。

 他の予定も入らなくて一月半ほど時間的にも精神的にも暇になった。「時間ができたらやろう」と思っていた勉強や作業はあった。あえて予定を入れず取り組もうと思った。「都内のアパホテルにカンヅメになってみる」ということもしてみた。結果としては全然進まなくて無為に過ごしてしまった。小学生の残念な夏休み終盤の気分である。宿題は手がついてないのに「思い出」作れてない。思い出を一発逆転するために、昨日生まれて初めて「スカイダイビング」に行ってきた。

 外から見ると「無為」に見えても実は「格闘」していることがある。完全に時間を自由に使っていい時に「自由に使える人」もいるらしいが、自分はできない。他人から予定を突っ込まれないと自分でエンジンを掛けられない。サラリーマンが合っている。業務すなわち他人の予定を入れられると、その期限までの「自由時間」が、そこで初めて発生する。遅刻ギリギリ・締め切り守らないで怒られてる人に「コイツは何がしたいんだ」と思うかも知れないが、本人としてはギリギリ行動に「生きている実感」を覚えている。期限がないと自由がなくて、何かと格闘して時間と精神を消耗して一日が終わる。贅沢な悩みだと分かってはいるけど、小学校からずっと困っていて、実は何も解決してなかったことが、この一ヶ月でわかった。宿題はしない、いつもギリギリ、休みに何やってるか聞くとアタフタする人、近くにいませんか?

 「老後の練習」だと思った。父親は酒飲みでストレス強めで60年近く働いて、血管破れかけたこともあったけど今も元気。気ままにやっている自分はいくつまで生きるだろう。人生100年時代がリアルになってきた。働いてごまかせない時期がやってくる。両親自慢ではないが、庭の草むしったり海辺を散歩したり、「お互いの時間を取り合って」楽しそうにやっていた。この先、時間を全部自分1人で使うことを考えると実はけっこう怖い。最近怖い話を聞いた。休みなく介助を入れていた仕事仲間が内臓の病気になって、それでも服薬しながら休みを取らない。「休みをどう使っていいか分からない」と言っていた。分かりすぎて首がもげる。独り身で寂しいからではない寂しいからではない2回目。昔から苦手なんだけど仕事でごまかしてたので今も休みが怖い。残念ながら研究途上で「仕事(笑)」がいっぱい入ってきて忙しくなった。残念だけどほっとした。

 ムツゴロウさん。老後だの貧しい発想でむなしい一日が始まって、ニュースで生前の規格外な人生が紹介されていた。プロ雀士でベストセラー作家、生物学者、映像ではアナコンダとライオンに殺されかかっていた。ファンではないけど、昭和生まれにとって「憧れの大人」は、ぼやけたブラウン管に映った、ネットの予備情報もなく何かすごそうなことを楽しそうに軽々とやってのけていた。ああいう面白いおじさんになりたかったこともあった。老後の前に「現在の中年」を研究しよう。

メンテナンス主義で(3) ギブ 運動 ア チャンス 

 タイトル『みんなで語る「燃えない」女性支援』というオンラインイベントを視聴した。この時期、とても「香ばしい」お題だ。火薬の匂いがする。障害者の「性介護」や性産業従事者の支援をしている「ホワイトハンズ」が主催。見つけたときは「やっぱり東京はすごい」と思った。東京には、プレゼンスキルの高い人たちがたくさんいて、難しいテーマもモノともせず日々議論しているイメージがあった。そういう議論に接するのも東京に出てきた理由の一つだった。今回のテーマは、主にネットで話題の「コラボVS暇空茜」のバトルについて。きっと、どっち側でもなく俯瞰して「これからの社会運動」を考えるんだろう、と期待していた。結果としては、支援団体同士の内ゲバや確執、各時代の抗争の歴史を振り返る「週刊実話・女性支援」みたいな感じになった。面白かったけど、期待したのとは違った。〜これからは「運動」から「支援=ソーシャルワーク」へ〜と、話をまとめようとしていた。それこそ運動の人から「権力に取り込まれるゥ!」とツっこまれるところだ。「これまで通り」で残念だった。 

   たこの木にいて、岩橋さんに文句を言いつつも「今の時代こそ運動の姿勢は必要」という気持ちが強くなっている。でも今のままだと「次のコラボ問題」が幾つも出てきて、直接関係ない市民運動が敬遠されてしまう気がしてる(コラボ案件については、双方について一部勝ってほしいし一部負けてほしい)。自分なりの運動の定義は「出来上がったしくみの【外】から問題提起する」こと。外にいる人でもいいし、意識的に外に出てもいい。ソーシャルワークが代わりになるとは思えない。言葉や理屈が物事を動かす今の世の中で、行儀は良くなくても、個人の「存在」を突きつけるアプローチはバランス的にもあったほうがいい。一方で、だからこそ居場所が減ってくのも分からないでもない。 

   辞典的な「市民運動」は「市民が民主主義を基礎に、権利意識を自覚し、階層の相違を超えた連帯を求め、特定の共通の目的を達成しようとする運動」だそうだ(コトバンクより)。耳にスッと入ってくるけど、実は、このあたりから検討してもいいのかなと思う。少し変形した「少数が声を上げ、周囲を動かし、やがて体制側を変えていった」という物語を聞いてきた。自分もそれに心を動かされた一人でもある。でも「内輪向けの言葉」だなと感じるようになった。情報の広がりが変わって、昔は声を上げても「内輪」にしか届かなかったのが、今はいろいろな境目を突き破って届く。体制側に少数派もいれば排除された人もいる。小さな声が抵抗をはねのけて大きな権力を動かした、それは魅力的なストーリーだけど主人公と敵しかいないのは自然じゃない。時代背景、世界情勢、経済のいい時期かどうかがない。普遍的な部分ももちろんあるから全て変えなくていいけど「神話」になってしまうと外の人には届かなくなる。 

   若者をオルグする宣伝文句としてはいい。ただ、使う人は「身もフタもない現実」も頭にあったほうが今の賢い若者には伝わるんじゃないか。労働保険の歴史をかじると、戦後一気に手厚い労働法が整備され(同時に労働組合は制限し)たのは「社会不安を除き、団結はさせない」体制側の強い意志があったからだと思う。共産主義ドミノへの恐怖。現行の障害福祉制度のスタートは大戦後の傷痍軍人のケアだと思う。その時代、人口も多く発言力の強い退役軍人に社会資源を向けるのはいかにも保守的なやり方だ。 

 結局、体制側の保守的な意志と、リベラルの人権を基にした改革は「共闘」、は言い過ぎか、少なくとも持ちつ持たれつで、どちらか抜きには成り立たないものだと思う。権利運動の大きな転換点だと思う「公民権運動」、法整備を進めたケネディ大統領は「人種的人権問題への取り組みが対ソ戦略という冷戦政策の一環であるとする認識を明らかにしていた(政治学者・安藤次男)」。連続講座で調べた「公教育の歴史(by コテンラジオ)」では、様々な思想家や教育者が子どもの教育の重要性を説き、一般市民の意識が変わり、大戦の前後で一気に公教育が整備された。それも、体制側の「富国強兵」のニーズと完全にマッチしてしまったからだという。・・今の時代を背景にした運動とは何かを考えます。いつか。。 

関わっていた人が亡くなること

 10年間働いた愛知県の法人を辞めるときに、自分がいる間に亡くなった利用者さんの墓参りをした。その5人のうち1人は、ご家族と法人の関係がうまく行かなくてお墓がわからない。一度手紙を書いたが教えてもらえなかった。辞めてすぐ引っ越す予定だった。業者が荷物を運んで、翌日くらいに自分の車で追いかけた。その前にお墓参りをして区切りをつけようと思った。退職は割と大きな決断だったので「儀式的なもの」を入れたかった。今はそういう感受性が枯れている。当時は「メモリアル」的なものが好きだった。

 Sさんは、正月に神社で「熊手」を買うのが恒例だった。亡くなった後、正月に熊手を買ってご兄弟に届けていた。東京に来ても続けていたが、去年は買わなかった。時間と距離が離れて気持ちも薄れた。あと、都会は「縁起物の物価」が高すぎて、同じ値段だとサイズが1/10になる。Sさんは、正月から何ヶ月か熊手を常に持ち歩いて、調子が悪いと、田舎の神社の重量のある立派な熊手で職員を襲うのだった。春が来る前に、没収されるか乱闘で壊れて捨てられるところまでが恒例行事だった。

 私の右手の小指が少し曲がっているのは、Sさんにかじられて骨折した名残りだ。伸びた爪で「目突き」をくらって、就職して3日目に眼科を受診した。亡くなってしばらくして、年末の大掃除のため屋上に登って高圧洗浄機をかけていたら、屋根の上に何年か前の熊手が落ちていた。室伏選手ばりの「職員怒りの熊手投げ」の記録である(近くに室伏親子のいた中京大がある)。

 2月10日にMさんが亡くなりました。葬儀もまだですので、通信に書くのはまだ早いと思いましたが、少しだけ触れます。

 墓参りをしながら考えた。自分のような物好きな職員以外は墓参りする人はほぼいない。葬式に居たのは法人職員と親族が数名ということが多かった。その人がどういう人で何をしていたかは、歴代の担当職員に聞けば、だいたい分かる。家族に聞けばほとんど揃ってしまう。Mさんの場合。Mさんが「どういう人で、何をしていたか」を考えると、分からなくなるし、その世界の広さに圧倒されてしまう。岩橋さんのように、一つながりの歴史を把握している人はいる。けど、関わる相手によって全く違う関係がある人だったから、関わった人の数だけ別々の世界があると思う。

 人間関係の乏しい入所施設と、豊かな自立生活。丸一日くらい、そんな図式に当てはめて納得していたが実際はそう単純ではないと思う。Mさんは別格だ。間違いなく「豊かな」人間関係だと思う。かなり乏しい方の自分の人間関係と比べたら、ちょっと凹むくらい豊かだ。(東京での人間関係の7割(質X量)がMさん現場関係だったと気づいて、現場がなくなって「中年の危機」を心配している)

 激しい行動で介助者・事業所の入れ替わりが多かったこと。一人ひとりの介助者と個別の関係・対話の仕方・それぞれの世界を作っていたのは、障害ゆえのコントロールの効かなさやトラウマの再燃を何とか回避しようと、自分の把握できる細かさに世界を区切って対処していたように感じる。苦しさをたくさん背負ったための、結果的な「豊かさ」とは、それは「豊か」なのか。「障害」とは何だろうと考えてしまう。底が見えないような深さや奥行きのある「豊かさ」もあるのかもしれない。

メンテナンス主義で(2)  「権力」疲れ

 数日前にあったこと。以前から関わっていた企画があって「また何かやろうか」という話になった。その中で「トラブルメーカー」的な1名の扱いをどうするか議論になった。・・と、第三者のフリをしてみたけど、実は自分が「一緒にやるのムリです」と言った人です(汗)。相談した友人から、すかさず「より良い福祉をめざす会で誰か1人を排除していいのか?」と問いかけられて、半日頭を抱えていた。

 まず「たこの木連続講座【出禁】の回でやったやつだ」と思った。「履修済み」なので気持ちに余裕がある。「トラブルが起きたのは、参加者に負担をかけすぎる企画の進め方に問題があったから。その不満が表面化してトラブルになったわけで構造的な問題。つまり運営が悪い」という分析(言い訳ともいう)を導きだした。自分も運営側だったので結局ダメなんだけど、排除する「差別者」から(ぎりぎりだけど)逃れられて上々である。

 最近の連続講座は答えの出ない課題が多い。意見も分かれる。テーマが大きくなるほど準備や本番の対応も大変になるけど、上の【出禁】のように、後から「やっといてよかった」となることも多い。先月の【インクルーシブ教育】もそうだった。以来、「権力」について考えることが多くなった。講演や、講師の野口さんの本では、「教育」そのものと同じくらい「多数派の特権を自覚しよう」の分量があった。

 ただ、一方で「また権力かぁ」と、うっかりため息が出て「今の聞かれてなかったか」と周囲を見回す自分もいた(゜Д゜;≡;゜Д゜)

 20年前に脳性まひの友人と知り合って「青い芝の会」の本を読んで『健全者は差別者であると自覚せよ』と書いてあった(と思う)。また、初期の自立生活運動の本を読むと、「差別者」とまでは書いてないけど「健常者が対価を求めずボランティアベースで介助するのも致し方ない」的なことが書いてあって、とてもシビれた。制度のない時代に生活を維持するためにひねり出した「理屈」だったはずだが、体系的に読んでないので30年前の本の内容が「今の福祉業界の現実」になっていた。そうか、健常者であることの「贖罪」のために奉仕しなければいけないのか。なるほど・・いやキツいよ。

 その頃は、権力や特権とは言われなかったけど同じことだったと思う。青い芝の横塚さんの「母よ殺すな」が再販されて、読んでみたら印象が違った。行動綱領の「信じ、且つ、行動する」みたいな直訳調は(そりゃもちろん)なく「温かさ」まで感じる文章だった。横文字や「運動用語」も少なかった気がする。伝わる言葉で、どうにかして伝えたいというのを感じた。今歴史を少しかじってみると、居ないと生きていけない支援者たちと対立関係にもなるという苦しい立場から出てきた言葉だったんだろう。とにかく、「激しい言葉」と、「激しさを秘めた、穏やかな言葉」があるってことを知った。

 その「健全者の原罪」を、自分なりに「克服」したのは自立生活の介助をしてから。贖罪も奉仕もしてない。CILの非常勤の介助者たちが、すごく弱々しく見えた。同僚のはずだが、集まることは少ないし、多くは顔を見ることもない。いつの間にか辞めていって、話題に上ることもない。自分の「底辺労働者性」に目覚めて、罪の意識が軽くなった。まー当事者はどうしたって大変だけどね。でも「絶対的な差別者」であるのと、一部「お互い様やん」と言えるかでは大きな違い。

 何が書きたかったかというと、自分が男性の健常者でいると、何かと「原罪」を意識してしまうけど、罪の意識だけでは続かない気がするから、自分なりの向き合い方を見つけた方がいいと思う。定期的に新しい「権力」が発見されて、その都度「再逮捕」されて留置所からなかなか出られない。態度や行動を見直しつつ、連帯し一緒に声をあげつつ、アラを探してたまには物申しつつ。自分の役割は、そういう「ゆるい原罪との向き合い方」を広めることかもしれない。

 ここまでは自分が権力=多数派に所属してる話。国や行政、大企業などを相手にした「権力との付き合い方」もある。「大きな構造に問題がある」という切り口では、どちらも同じだと思う。この「権力構造で世の中を見る」視点は、この仕事をしている以上、周囲にあふれている。運動で勝ち取った制度の上で自分はメシをくっているし、周りを見れば「運動」で溢れている。すこーし疲れてきた。

 たこの木での話を書きますが、他の人について書く勇気がなく、岩橋さんだと書きやすいだけです。「取り込まれるのはどっち」論争。ある運動体が「権力に近づいて影響力を持つが、権力に取り込まれて変質してしまう」、そういう問題意識。連続講座でもいろいろ実例を教えてもらった。でも外野の自分から見ると、ただでさえ少ないプレーヤーが、全部ではないけど、お互いに同じことを言っているようにも感じる。「あそこは取り込まれた。そっちは運動の本質を外れた」、そうして権力サイドから見て扱いやすいミニサイズにバラけてしまうことは似たようなものにも感じる。絵の具のように染まるか、印刷の目に見えないドットのように肉眼で見えなくなるかの違い。

 ウクライナ戦争、パンデミック地球温暖化、今もっとも理解して対処したい問題に「権力の視点」は機能しているか。突然何?という話だけど、一応つながってるつもりです。コロナ1年目、緊張感がずっと高かった時期に、「対策できない当事者もいるから、当事者に安心してもらうために自分も対策しない」的なことを岩橋さんが言う。国の画一的な指針、「できる人」からの同調圧力など「権力の視点」から見れば、その態度もありかもしれない。湧き上がる違和感。付けたくないマスクを付け、打ちたくないワクチンを打って、身近な人が苦しむことがないよう犠牲をはらった人が周りに何割以上いたから、健康で、そういうセリフを言うことができている。

 「それこそ権力側の思うつぼ」的な反論も可能だとは思う。でも、現代の課題の「重心」は変化していると思う。あらゆることが影響しあって、何万キロ離れて何の縁もない人々と、フェイクニュースとウイルスとCO2を介してつながってしまった。今も「一つの視点」ではあるけど、それでしかない。「ふつう・あたりまえ」を疑う、事象や個人でなく構造に問題を見出す視点は多くの不平等を正してきた実績がある。けど、権力=巨悪を設定して、その関係から理解していく方法は使いどころによっては「陰謀論」の人たちに近づく気もしてる。どうにも難問で不安にかられると、人はそっちに行きやすいと思う。

 でも、権力と戦ってくれた人たちのおかげで、ずいぶん生きやすくなった。昨日スーパーを歩いていて思った。昔は休みの平日に何かの窓口に行くと挨拶のように「今日はお仕事は?」と聞かれた。今は気兼ねなく平日にうろうろできる(通報されない程度に気兼ねはする)。パートナーの有無も年齢も聞かれなくなった。ああ、それは関心がないのか

メンテナンス主義で(1) たこの木連続講座の台本を考える

 利用者さんに「昭和の男」がいる。保育園の事故のニュースを見ると「子どもはお母さんが見てやらないと」とか言ってしまうし性的少数派の人たちにも偏見丸出し。「時代遅れ」だと分かっているので外では言わない。その一方で、私が失敗した焦げた料理を悪く言うことはない。「昭和の父親」に憧れてるんだろうね。「家族は同じ時間に食卓を囲むべし」というのと「ヘルパーは家族同然」という「家訓」が組み合わさって、食事介助しつつ必ず一緒に同じものを食べる。ダメなヘルパーも極力NGにしない、家族だから。

 「昭和ノスタルジー」の話ではなく、「悪い(古い)部分だけ変える」というのは難しいんだろう。良く見える部分も、古臭い価値観も、同じものを別角度から見ただけだったりして、1つ直そうとすると全否定されているように感じる。というか、実際は「古い価値観を直す」のは全否定を避けて通れないと思う。けっこう「暴力的」なのではないか。「自分は変わった、アップデートされた、目覚めた」という人は、たぶん変えるほどの質も量も持ってなかったから、何かふりかけて「味変」した程度で言ってるんだと思う。

 「世の中の価値観が変わっていく」と言うとき、個々人の変化は少なくて、人が入れ替わっているんだと思う。古い人たちは、一部の目立つ人を除いては、思ってても黙る、引きこもる、で見えなくなっているように思う。あとは、リアルな話で、お亡くなりになっていく。脱線だけど、平均寿命の伸びとか、人は死ぬという性質自体、社会の価値観に影響あると思う。「コテンラジオ」の「老いと死」シリーズを参考にすると、寿命は伸びるのに「社会的な死(隠居・定年)」は同じか早まる気もして、今後は厳しいなと思う。

 今週の連続講座は、たこの木にしてはチャレンジングな企画です。実行委員会式でなければ出会わなかった人たち、文化、価値観。たこの木だけなら出会わない・呼ばない。企画としては面白いのですが、やはりというか、かなり揉めました。岩橋さんはかなり弱ってそうです。最近頭がこざっぱりして「落ち武者」感がなくなった岩橋さんですが、Zoomのカメラ越しに目を細めて見ると頭に3,4本矢が刺さっているのが見えます(笑)

 最近の自分は、たこの木の「追っかけ」から「株主」みたいになって物申すことがある。変わってくれ、と思っていた。実際、今回のことで「変わる」だろう。期待していたものだけど「コレじゃない」とも思う。よく分からないまま、ただ「地雷を踏まないように」岩橋さんが黙ってしまうのでいいんだろうか。「変われ変われ」と言う人たちは、本当の意味で自分を否定して変わったことがあるんだろうか(自分に言ってます)。

 どうせ暴力的な力を使うなら「切り分ける」方に使うといいと思う。以前書いた持説をまた引っ張り出すと「理念」と「ふるまい」を分けてほしい。「昭和の男」のように、「分かち難い」ことはよく分かっている。でも、黙ったりフェードアウトしていくのはもったいないし、派閥が入れ替わるだけで進歩してない気がする。たこの木の核となる理念を切り出して、新たな「ふるまい」をくっつける。そっちへ持っていきたい。

 初参加組が9割で、多摩の運動やたこの木は知らない「無料で野口さんの話が聞ける」という参加動機の人たちの前で、冒頭の注意事項の説明で「たこの木の今後に向けて」何か表明みたいなことをする妄想をしましたが多分無理なのでここに書きました。