『抵抗への参加』

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この本は、すごく大事なことが書いてあると思った。

僕から見て、ポイントになるのは「解離」という言葉だ。著者は、家父長制の構造をとっているわれわれの社会では、人間は成長の早い段階でそのシステムへの参入を強制されることになり、そこから苦悩と抵抗、そしてシステムに参入しつつも自分として生きていく為の手段を身に付ける、ということが生じる。この手段というのが、自分の意識や思考を、自分の身体と経験から切り離すということ、つまり「解離」である。

著者が「解離」の分かりやすい例としてあげているのは、テネシー・ウィリアムズの戯曲『欲望という名の電車』の中で或る登場人物が口にする「あなたの言っていることを信じたら、私は夫と暮らしていけなくなるわ」という言葉である。この人物は、夫が妹に性暴力を振るっていることを妹に打ち明けられるのだが、夫婦生活(それに安住したい自分の心理)を守るために、その事実を「信じないふり」を自分自身に対しても装うことを選ぶのである。これが「解離」であり、家父長制社会を、そして(著者の言う)民主主義を否定する社会構造を支えている核心的なメカニズムだということになる。

 

 

『(前略)起こったことを信じないこと、知らないことが、抑圧を要求する文化に参加するためには必要なのだ。(p130)』

 

 

「解離」がもたらすのは、人間が本来持っている関係性を希求し不可欠とするような生き方から、われわれの生存が遮断されてしまうという事態である。この遮断によって、階層構造にもとづく非民主主義的な社会の構築が可能になる。

 

 

『階層構造を確立するためには、その妨げとなるつながりを解離によって断ち切らなければならない。相互理解は構造的には水平であり、本来的には民主主義的だ。この水平構造から、上位と下位、善と悪といったさまざまな分断をともなう垂直構造へ転換することが不可欠なのである。もし相互理解の能力、すなわち共感し、相手のこころを察し、協働する能力が生得的なものであるならば、それは破壊するか、少なくとも周縁に追いやる必要があるということだ。これが家父長制による通過儀礼の仕事であり、これが効果的に行われることで、人間本性とは異なる要素を精神に植えつけることができる。(p82~83)』

 

 

重要なのは、こうした家父長制への「通過儀礼」が強要され、「解離」が余儀なくされる時点には、男女で大きな違いがあるということだ。男の子の場合、それは幼児期に到来するが、女の子にそれがやってくるのは思春期になってからだ(この違いは、社会システムに由来するものなのであろう)。それゆえに、(一般的には)家父長制への強制に対する葛藤と抵抗は女性の心の歴史の方に、より大きな痕跡を残すことになる。男の子は、まだ自己が形成されていない段階で家父長制の仕組みに飲みこまれてしまう(「ヒーロー=男らしさ」への同化など)が、女性は自己がある程度形成された段階で、この強制の圧力に直面することになるからである。そこには、男性に比べてより強烈な抵抗と、深い苦悩や屈折が生じてくる。

この、家父長制システムへの参入を強いられる時期の男女間における違いが、関係性を重視する人間本来の(非解離的な)あり方への志向(「ケアの倫理」)が、フェミニズムと特に関連づけられる理由なのだ。

 

 

フェミニストのケアの倫理は、わたしたちの人間性をかたちづくる能力を育み、その能力をおびやかす慣習に対して警鐘をならしてくれる。わたしは「家父長制」という言葉を、男を女からだけでなく男からも引き離し、女を善と悪とに分けるような態度や価値観、道徳規範や制度を表すのに用いてきた。心理学者としての経験から、わたしは家父長制を心の断片化、すなわちトラウマと結びつけてきた。人間の特性が男らしさと女らしさに分断されているかぎり、わたしたちはお互いに疎外しあうだけでなく、自分自身からも疎外されてしまう。わたしたちの共通の願望である愛と自由は、これからもわたしたちから逃れ続けるだろう。(p217~218)』

 

 

つまり、著者の思想は、男性と女性との間に本質主義的な違いがあることを前提にするものではない。そうした違いをもたらすのは、ひとり家父長制システムのみであって、それを解体し、「男らしさ」「女らしさ」へと分断されない人間本来のあり方(関係性、ケア重視の生存)を回復するための絶対条件だということになる。

 

 

『家父長制的な枠組みのなかでは、ケアは女らしさの倫理である。民主主義的な枠組みのなかでは、ケアは人間の倫理である。(p27)』

 

 

以上のような著者の思想は、現実の社会を支える核心的なメカニズムとして「解離」の仕組みを提示している点で、僕には特に重要なものだと思える。

著者は、家父長制システムの強制に直面した思春期の少女たちの様子や言動を観察しながら、「解離」がどのように生じてくるのかを見極め、詳述している。その記述が、本書の最大の魅力だともいえるだろう(解離からの回復の様子の、ドラマティックな記述と共に)。

本当は「知っていること」「経験していること」を、「知らないこと」であると、最終的には自分自身に対しても装うことで、人はこの社会に参入し適合していく。思春期の少女たちは、その過酷な現場を生きているが、それは実は、私たちすべての内面で常に生じている葛藤でもある。

 

 

スウェーデンのジャーナリスト、〔スヴェン・〕リンドクヴィストが言うように、「わたしたちに欠けているのは、知っていることを理解し、結論を導き出す勇気だ」。抵抗のための土台は、わたしたちのなかにある。(p219)』

 

 

ただ、本書を読んでいて気になったのは、関係性への希求を人間本来の(非解離的な)傾向として重視する著者の思想には、それが生物学的な知見と結びつくと、別種の本質主義、関係性を絶対視するような排他的な考え方に陥る危険もあるのではないか、ということだった。例えば、次のような箇所がある。

 

 

『進化は、共感、相手の心を察する力、協働という、相互理性をうながす特性を選択したのだ。人間にとって核心的でほとんど人間を定義するようなこれらの主要な特性を欠いたこどもたちは、自閉症と呼ばれる壊滅的な発達障害のなかに見ることができる。(中略)わたしたちの遺伝子に組み込まれているのは、核家族や母親による排他的なケアではなく、相互理解や拡大家族に向かう能力なのだ。(p64)』

 

 

相互依存の重視や、「家族」の拡大(非血縁的なものを含むのであろう)という志向は良い。言い換えれば、普遍的なものとしてケアの倫理を強調する著者の議論には同意する。だが、「関係性」は、それほど生存にとって絶対の前提だろうか?

非常に分かりやすく書かれていて感心させられるフロイト精神分析の歴史に関する章のなかでは、女性たちのヒステリー症状に着目することで「トラウマ」の真実、つまりは解離に抵抗する生存のあり様の真実に肉薄していた初期のフロイトが、やがてエディプス・コンプレックスの理論を構築することで自らこの発見を抑圧し、家父長制的な知と社会の体系の執行者へと変質していったことが批判されるのだが、こうした「初期フロイト」の称揚は、「初期マルクス」への称揚に似ているのではないかと思った。どちらも、疎外論(失われた本質の回復)に陥るおそれがあると思うのだ。

どちらにおいても、「関係性」に重きが置かれている(広松哲学を想起されたい)。今日の社会において、そのことの意義はどれほど強調しても足りないだろうが、しかしそれは、生存よりも常に重いだろうか、あるいは生存や自由を賭けた「抵抗」よりも?

『素足の娘』

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佐多稲子『素足の娘』。

想像以上に強力な小説だった。

自伝的作品とされているが、そのことをまったく抜きにしても、戦前の日本(1940年発表・出版)において、性暴力をテーマとしてこれほどの作品が書かれていたことには、驚くほかない。

同時に、サルトルヴァージニア・ウルフの小説と同じく「大戦間期」の作品としての、時代的な刻印を帯びていることも確かだろう(最も核心となる場面に書きこまれた、恐らく検閲による「削除」の文字は、行使された暴力の複層性をまざまざと刻んでいるとも言えよう)。

ここで描かれた「男性」による支配や暴力のあり方は、暗に、戦争に向かう国家の(ドメスティックな)暴力と二重映しにされている。そのとき、単純な「加害・被害」の枠組みを越えて、「人を暴力へと差し向ける力」あるいは「暴力を国家の利益に回収する力」といった事柄についても、問いが生じてくる。この作品は、そのようにも読まれるべきだと思う(作家の戦争協力についても、当然ここで思い起こさざるをえない)。

また、佐多文学の最大の魅力は、常軌を逸するほどに繊細・鋭利な心理描写であり、この作品でもそれは遺憾なく発揮されているが、緊張のとりわけ高まる幾つかの箇所では、その筆は「分析」の域を越えて、それ以前の領域に遭遇してしまっている感すらある。一言でいえば、実存的だ。

題名の由来は、主人公の少女が、足袋も履かず野山や港町の街路をしきりに歩き回っていることだが、それは、主人公の「自由」や「野生」のメタファである。

常軌を逸した分析力は、男性たちや家族や世間(それに恐らく国家)による支配や抑圧から脱しようとする思いの表れだが、その分析する理性の力自体も桎梏になり得るとすれば、自由を求める野生の歩みは、ここではその限界さえも突き破っている。性暴力と国家による暴力のみでなく、理性の暴力もまた、ここでは抵抗の対象とされるのである。

 

 

『私は私の身体のこまかく慄えるのを、対手に気づかれるのが厭だったけれど、どうしても、慄えはとまらなかった。(以下四行削除)

 私には、何の感心もなかった。ただ私には抵抗するなど思いも及ばぬような失われた意志があるばかりだった。感覚的には嫌悪の戦慄が身内を走っていた。 

 彼はもう、私に言葉などかけなかった。(以下四行削除)

                             (p105~106)』

 

 

『私たちは素足になって、浅瀬を選って川を渡り始めた。水は私たちの足に打っかって小さい波を立てた。早い流れを横切る時、私は自分の身体が斜めになるような錯覚を起した。川瀬はもう手を引いてやろう、とは言わなかった。川瀬の白い脚に、黒い毛の見えるのを、私はちらりと見た。妙に男のほっそりした足は私に美しかった。足の裏に、砂と小石の水底を踏みしめながら、私は真裸になって水を浴びたい欲求を感じた。(p107~108)』

 

 

『私はあの時の、ぽかんとした自分の気持をときどき考えることがあった。あんなに取り澄ますことも知っていたし、人の軽蔑を感じることも出来た私だったのに、何故、あの瞬間は、何かに射竦(いすく)められたように、全感情がぽかんとしてしまったのであろう。あの山のしーんとした空気が私を魅了してしまったのであろうか。川瀬と二人きりでいるということが、私を不思議な雰囲気に縛りつけたのであろうか。そしてあの時の川瀬のくるくるっと変ったあの表情が私を射すくめたのであろうか。何故私は逃げ出しては悪いだろうなと思ったのであろうか。(p126)』

 

 

『川瀬がひとりだと知った時から、すでに私の心はもうそのことだけに傾いていたものだったかも知れない。

 機会の陥穽というものは、思いがけないほどの強い力を持っているものなのであろう。私は、目前の雰囲気の中に、もっと、もっと、深入りしたい欲望をふつふつと感じた。川瀬の奥さんが帰ってきたら、ということは私の慄える胸にもあったけれど、それに対する罪悪の意識などは何にも働きはしなかった。

 何かを待っている。その戦くような感覚だけになった。私はそういうものを全部、川瀬の前にさらけ出していた。私は自分の、ごくっ、と唾をのみ込む音を聞いた。その音は川瀬にも聞えるだろう、と思った。聞えても構わない、と思うのだった。私の足の平はじっとりと汗ばんでいた。(p171~172)』

『近代朝鮮文学と民衆』

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珍しく、出版されたばかりの本についての記事です。

書名の「近代朝鮮文学」とあるが、1919年の三・一運動から1945の日本の植民地支配からの解放に至るまでの時期に、朝鮮人によって書かれた(主に朝鮮語の)文学作品が論じられている。

「日本近代文学」という言い方をよくするが、「近代朝鮮文学」と「日本近代文学」とは、ずいぶんかけ離れた言葉だと思う。前者が近代というグローバルな枠組みのなかに置かれた朝鮮文学を考えようとしているのに対して、「日本」が語頭に来る後者の印象は、帝国主義国家のどこか偉ぶった感じがあるという、語順から来る印象の差異もあるが、その根底にあるのは、他ならぬ朝鮮を植民地支配することで成し遂げられた日本の「近代」と、その日本の支配に苦しみ抗いながら希求され、もしくは希求された朝鮮の「近代」との、同じ概念でありながら気の遠くなるような内実の隔たりだといえよう。その距離の大きさを思うと、茫然となる。

では、その近代朝鮮文学に描かれた、あるいは描かれようとした植民地時代期の民衆の姿は、どのようなものだったか。民衆を理解し、表象し、あるいは働きかけようとした朝鮮の文学者(知識人、表現者、運動家でもあった)と、対象とされた現実の民衆との関係性はいかなるものでありえたか。本書の著者の大きな関心は、そこにあるといえる。

 

 

本書は著者の博士論文をもとに、それを日本語に訳し、また大幅に修正を加えたものであるという。文学テキストそのものや、資料情報についての、きわめて綿密な読みこみが全体の眼目であることは確かだ。とはいえ、僕が興味深く思うのは、植民地時代の作品について論じられたこれらの(所収の)文章のなかに、現在のこの社会に対する著者の視線が感じられるところだ。

たとえば、「感覚」を重視することで、正統的な「プロ文学」(プロレタリア文学)が取り逃した現実の「民衆」に接近し、あるいはそこに介入することで展望を切り拓こうとした朝鮮人文学者たちについての、以下のような文章。

 

 

『既存の関係の延長でも、党に指導されるのでもない、別の形式で民衆と出会う為の模索としてプロ文学批評を読むことが求められるのだ。このような読みのためには、プロ文学が既存の「思想」では見えない、つまり感覚が変化することをもってようやく見えるようになる民衆を提示しようと模索したということを確認しなければならない。(p78)』

 

 

『林和にとって芸術の歴史的成就と大衆化は、最後までともにあるべきものだった。(中略)大衆化とは、民衆がもつ既存の感情の延長線上にあるものではなく、民衆の感覚的土台自体が変化することで可能になるものだからだ。林和は芸術を通して民衆の感情自体に介入し、芸術の歴史的成就を得ようとするのだ。(中略)大衆化とは李光洙歴史小説を読む大衆と出会うことに留まるのではなく、いまだ見えてはいないが確実に存在する民衆と新しい関係をもつことなのだ。(p116~117)』

 

 

啓蒙的な態度によっては出会うことのできない「民衆」に関わっていく為に、作家(知識人)自身の感覚の改変が要請される。また、そうしてこそ、「民衆の感覚的土台自体」の変化という、芸術の目指すべき目標も成就されるという議論がなされていたのだ。これらの思想は、現在に通じるものだと思う。

さらに、作家蔡萬植の作品について、こう書かれる。

 

 

日中戦争以前、蔡萬植の描きだした民衆は政治的目標や当為をもたず、ただ負債返済に追われている。蔡萬植小説の登場人物たちは負債返済を通してのみ、つまりそれを達成することの先にのみ、未来の想像が可能になる。主体的な生き方はこの経路しかないのだ。プロ文学は到来する肯定的な未来を想像しようとしたが、蔡萬植の登場人物たちは負債ゆえにそのような未来を見ることができない。負債は債務者たちの未来に対する想像力を統制する。換言すると蔡萬植はプロ文学が展望した革命という明るい未来とは全く異なる、負債返済を経由するしかない未来を想像したのだ。それはプロ文学が見ることのできなかった民衆の心性を描きだすことである。(p88)』

 

 

『蔡萬植はプロ文学のように前衛の目をもって小説を構成したわけではない。また労働者そのものを描いたわけでもない。むしろかれは植民地朝鮮で労働者が存立しえない条件を生きる民衆を、単に受動的存在ではない形で、その意識と存在の様式を描いたのだ。しかしそれは、負債によって現在とは異なる生を想像することを徹底的に禁じる、つまり自らの力すら卑下する民衆である。(p101~102)』

 

 

こうした、芸術的・運動的な(相互)関与の対象としての「民衆」を捉える為の苦闘というテーマも、間違いなく現在の社会とも重ねて考えられていると思うのだが、関東大震災による瓦解と虐殺、そして「復興」(再秩序化)の暴力について書かれた以下の文章では、その重なりがさらに鮮明になっていると言えるだろう。

 

 

『日本人の不安は朝鮮人を殺すことを正当化するほど高まった。「復興」はこのような秩序崩壊の不安を「克服」し、それを「過去」にすることでようやく可能になる。(p153)』

 

 

『ここまで論じてきたように、東京を舞台とした朝鮮文学が描きだした民衆にとっての新しい課題は、レイシズムを内面化した日本民衆のなかで生きていくことであると確認できる。これは序章で論じたようにレイシズムを含みつつ移民を産出する資本主義・帝国主義の下における民衆の姿だ。(中略)日本人にとってヒエラルキーが再び打ちたてられた不安から解放されるということは、他方で朝鮮人にとって再び虐殺されうるという意味の不安を呼びおこすのだ。換言すると日本人にとって不安を解消してくれる「復興」が、朝鮮人にとっては不安の源泉なのだ。(p156~157)』

 

 

『民衆の力を抑える秩序と「復興」には、民衆に対する不信と蔑視が根底にある。廉想渉が民衆によって秩序が途切れる情景を描きつづけたのは、ともすれば現在とは異なる民衆像を探しだそうとしたからであろう。それゆえ日本民衆についても、朝鮮人虐殺を通して秩序を回復させるのとは異なる現れ方を求めたのだ。

 日本における朝鮮民衆の生活を考えるさいに、日本民衆という要素を除外することはできない。きわめて否定的な形である虐殺の遂行者という形態をとったり、それを「過ぎ去ったこと」として蓋をしたりする日本民衆とは異なり、そのようなヒエラルキーに合流しない日本民衆を描くことは、朝鮮民衆の暮らしを肯定するために必要なことであった。卞チャンギルは「復興」の上で条件闘争をするのではなく、絶対的平等性への関係形成を試みているのだ。(p170~171)』

 

 

「絶対的平等性への関係形成」は本書の重要テーマである。日本人と朝鮮人のみならず、それは知識人と民衆、運動家と大衆の間でも、永続的に試みられなければならない課題だろう。そのために必要不可欠なのは、国家や制度に基づく強固な鎧から自分を解き放って他人の前に立とうする態度だろうが、「日本民衆」は概ねそれを忌避し続けてきた。

 

 

第四章の「動員される民衆」では、「転向」して日本帝国の動員政策に合致する作品を書くようになった李箕永という作家の、その時期の作品について考究されている。

まず著者は、この作家の「転向」(日本の国策・戦争への協力)という行為を、いったん政治的な善し悪しの問題としては括弧に入れた上で、そこに次のような意味を見いだす。

 

 

『李箕永の転向は、かれがプロ文学において示したプロレタリアートブルジョワジーという敵対性から、さらに多くの民衆の力を生かすことができる別の敵対性へと移行することとして読み解くことができる。それはプロレタリアートブルジョワジーの敵対性よりも現実に立脚すると判断される新しい敵対性を構築することによって、民衆との関係を再編成することなのだ。李箕永の転向は図式的に言えば、敵対の構図を、階級の敵対性から日本が遂行する戦争の敵対性へと移動させることだった。(p209)』

 

 

『動員は、積極的に参与する市民たちの民主主義では絶対に表象されえないような民衆を表象の舞台に引きあげることを可能にする。動員を通して見えるのは、参与しようとする市民たちの民主主義よりも数的にはるかに多い人口を対象にして民衆を描きだすことなのだ。(p210)』

 

 

『一九四〇年代初の文学を推動した力は、まさしく多数の民衆を言説的に形成しようとした試みであったと言える。動員はこれまで論じてきたどの試みにおいても対象になりえなかった民衆と出会おうとする文学的な民衆に対する呼びかけだ。(p212)』

 

 

 

李箕永のこうした態度は、転向以前の社会主義的な傾向(プロ文学)とつながるものとしても論じられているが、僕はむしろ、ここでいう「動員」される民衆は、「扇動される」民衆と重なるものでもあるのでは、と思った。それは、圧倒的多数を占めながら、民主主義によっても、運動によっても、プロ文学(及びその他の文学)によってもアプローチしえないような存在としてある。

そうした、いわば接近不可能な「民衆」への接近の試みとして、著者は、この時期の李箕永の作品のなかに元来は積極的な意図が含まれていたことを掬いだそうとする。

だが実際には、その作品に描かれた民衆の姿は、現実の朝鮮の民衆のあり方とは無縁な、理想化された虚像でしかなかった。そのことを著者は、外村大『朝鮮人強制連行』の記述なども参照しながら、克明に暴き出し批判していく。

 

 

『むしろこのような言説的な平等性と同質性の強調は、実際の状況を見えなくさせる。民衆なき民衆の形成はこのように登場する。このように現れる民衆なきままに描かれる民衆は、理想的な民衆像を提示すると同時に、理想的ではない実際の民衆はイデオロギー下にあるものとして扱う。理想的民衆像を提示することは「あるべき姿」を頂点にヒエラルキーを作りだすものなのだ。理想的民衆の姿のみを描くことは、認識主体と認識対象が相互的に影響を与える平等な関係を成立させるという方向性が存在しないことを意味する。(p240)』

 

 

したがって、次のように結論される。

 

 

『その安定的構図の反復を通して、李箕永は植民地朝鮮における朝鮮文学の諸表現において「人口数」的に最も多くの民衆を表象することに成功したと言えるが、その方法は認識主体と認識対象の相互的な出会いとして民衆を描く場から遠ざかるやり方を通してであった。敵対性を絶えず変化させることができるならば、認識主体である作家もまた民衆の力によって変化することのできる可能性をもつ。しかし植民地期の李箕永が到達した場所は互いの関係を固定化することをもって変化の可能性を塞ぐ地点であった。(p248)』

 

 

認識主体(作家)が自ら変容することを放棄した、啓蒙的・操作的(マーケティング的と言ってもいいか?)な姿勢の産物であることが、李箕永の動員文学の実態だった。つまり、まさしく日本帝国の政策を文学の形で遂行することになってしまったのである。

これはしかし、現在の私たちも、常に起こしうる過ちではないだろうか。平等的な関係性を投げ捨てた他者との関わりにおいて、私たちは日々、悪しき「国策」に加担していないか?

本書の問いの射程は、そういうところにも届くものだと思う。

『小さき者たちの』

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今の日本や世界の状況を見ていると、少なくともあと数百年ぐらいは、今よりまともな世の中になることはないだろうと思う。

もっと悪くなる可能性ばかり考えられ、良くなる可能性は、なかなか考え難い。

もし良くなるとすれば、それは高度な知性を持つ宇宙人が突然地球にやってきて、「はい、全部やり直し!」と命じるようなケースしか考えられないが、それはしかし、起きるはずのないことだし、それ以上に、起きるべきではないことだ。

なぜかというと、宇宙人であれ、神であれ、AIであれ、われわれ人間以外の超越的な存在が外部からやってきて、われわれの社会を変えてしまうということは、それがたとえ正しい変化であったとしても、われわれ(人民)にとっては残念でしかないことだからだ(われわれ以外、たとえば動物にとっては話は別だが)。

そう思うのだが、われわれ人間は、そういう「神頼み」的な発想に傾きがちであるということは、ベルグソンも強調している。

特に日本の場合は、天皇という格好の存在があり、時の政治権力が最悪で、しかも自分たちで変えられそうにもないとなると、どうしても天皇に頼ろうとする。人民であることを自ら放棄し、臣民であることを選んでしまうのだ。

そんなことを考えているとき、この本で引用されている、次のような文章を読んだ。これは、水俣病闘争の最も名高い闘士の一人であった川本輝夫が酒を飲みながらつぶやいていた言葉について、その息子の愛一郎が回想したものである。

 

『「水俣にも、水戸黄門とか月光仮面とかおらんかねえ。パッーと走ってきて、パッと裁断をしてもらえんもんかな」と。そういう意味では、日本でいちばんの権威、存在として、天皇を求める気持ちはつよくもっておったんです。石牟礼さんもよく言ってるんですが、私たち患者や家族のなかで、やっぱり御上(おかみ)ちゅうのは、ものすごい存在なんですよ。御上が来てくれるだけで問題は解決すると、ずっと思っていたんです (p124 高山文彦『ふたり 皇后美智子と石牟礼道子』からの孫引き)』

 

この引用の後、著者の松村圭一郎はこう書いている。

 

『いっこうに救済に動かず、どうやってもその悲痛な叫びの声を受けとめてもらえなかった企業や行政に募る不信と絶望感、そのなかで「御上」に一縷の希望を見いだそうとする心情がよくあらわれている。(p124)』

 

天皇という超越的、宗教的な権威にすがりたいという心情は、特定の教育を受けた世代に限定されるものではないようだということも、われわれはよく知っている。

上に書いたように、それは現実世界の不正義や理不尽に直面した時に、人間だれしもが持つ心理的な傾向の一種ではあろうが、言うまでもなく「天皇」という存在は、(ここでの事例に結びつけて言えば)水俣病を生み出した日本という近代国家や帝国主義や資本主義と不可分のものだから、そうした諸々を否定しておいて「天皇」という存在だけを救い出すということは不可能だろう。

それが分かっていても、人はそういう権威にすがろうとして、(こうした場合)政治的な罠にはまってしまう。川本輝夫石牟礼道子、あるいは中村哲などを加えてもよいが、こうした無比の傑出した個人においてすら、そう言えるのだから、まして、この愚かな私においてをや、である(用法、これで合ってます?)。

そう考えたとき、ふっと思ったことは、私は日本国憲法を初めの部分に天皇について専ら書かれていて、天皇制を正当化しているみたいだから駄目だという風に思っていたが、それには逆に、天皇の政治への関与を違憲と定めることによって、こうした「神頼み」の現実的な害悪を抑止するという積極的な意図が込められていたのではないかということだ。実際、そういう「神頼み」の政治介入をお願いする人は今もあとを絶たないのだから。もしそうだとすると、そんな明らかなことに今頃気がついたことになる。

もっとも、そういう「意図」が本当にあったとして、それが効果をあげてきたのかどうかは、判断が分かれるところだろうが。

『オーウェルの薔薇』

オーウェルの薔薇 - 岩波書店

 

オーウェルというと、ディストピアを描いたペシミスティックな作家というイメージが、欧米でも強いようだ。だが著者は、オーウェルの思想と文学の根本には、経験的な生の肯定があることを強調する。その生涯は、薔薇をはじめとする無数の植物が茂る庭園作りへの情熱と、泥まみれになっての農作業への熱中、そしてオーウェルより先に30代で亡くなった妻との間には子どもが出来なかったが、引き取った養子に対する(妻の死後は)熱心な育児など、未来に向けて生命を育てていく意志に充ちたものだったという。

実際、本書で描かれる、オーウェルの自然に対する知識と愛着の深さ、庭作りや農作業への熱中ぶりは度を外れたものである。このオーウェルの自然愛好と、彼の政治(反全体主義)的な文学との関係について、著者はこう書く。

 

 

オーウェルはその本(『一九八四年』)の別のところで言明する。「党は自分の目と耳から得た証拠を拒むようにと言う」。それだから、感覚でとらえられる物質世界において直接に観察し直(じか)にものに出会うことは、同様に抵抗の行為となる。あるいは、少なくとも抵抗可能な自己を鍛えることにつながる。こうした直接経験でもって頻繁に時間を過ごすことは、思考を明晰にすることであり、言葉の渦巻きとそれがかき立てうる混乱の外に踏み出す方途となる。嘘と迷妄の時代にあって、庭は、成長の過程と時の推移、物理学、気象学、水文学、生物学といったものからなる王国を、そして五感の王国を、みずから学ぶためのひとつの手立てなのである。(p58)』

 

 

つまり、全体主義権威主義の欺瞞及び支配と対決したオーウェルの思想を支えたものは、大地や生命に密着した生の経験の尊重と、そこにおいて未来を信じ育もうとする希望の精神であったということだ。

本書の巻頭に、米国の偉大な黒人女性SF作家オクティヴィア・バトラーの『さまざまな可能性を見極めるために先を見据えて、警告を示そうと努める行為そのものが、それ自体で希望の行為なのである。』という言葉が掲げられているのも、それゆえだ。

 

 

生の経験を重視するということは、欲望を断罪する超越的な立場に立つのではなく、欲望にとらわれて生きる存在でもある自分自身の現実から目をそらさず、どのようにしてその生をより良いものに変えていくかに取り組むという、内在的とも言える社会変革の態度を選択することでもある。

 

 

『すべてが汚染され腐敗している以上、われわれはつねに一からやり直すほかないのだという厳格な(かつ広く受け入れられている)立場と、善は種子のようなものとして存在しているのだから、われわれはもっと精力的にそれを育み、広く普及させなければならないという立場には、当然ながら意味深い違いがある。(p232)』

 

 

 この一文は、著者ソルニットの政治と人生への対し方をよく示していると思う。現実の生を真に豊かに生き抜くことこそ闘争の最重要課題だという、その考えは、たとえば有名な運動スローガン「パンと薔薇」(「すべての人びとに<パン>を、そして<薔薇>も」)についての次のような注釈にもよくあらわれている。

 

 

『パンは身体を養い、薔薇はさらに霊妙な何かを養う。心だけではなく、想像力、精神、五感、アイデンティティをだ。これは綺麗なスローガンだが、激しい主張でもある。生きていて身体的に満たされるだけでなく、それを超える何かが必要で、その何かを権利として断固要求しているのだ。(p105)』

 

 

こうした点で、特に印象深かったのは、著者のソルニットが若い頃、奇しくもオーウェルの代表作の題名と同じ1984年前後の自分の欲望のあり方を回顧・分析している箇所だ。当時の彼女は、上流階級の美的好みを模倣することで消費社会を席巻したラルフ・ローレンの、薔薇をはじめとするデザインのファッションに憧れていたという。

 

 

『(前略)でも一九八四年に現れた薔薇は、もろもろのくっきりとした連想を引き連れながら、ふんわりと漂ってきた。

 これらが単に薔薇や花や生地をめぐる問題ではなく、カントリー・ハウスや遺産や地位をめぐるものだと、あのころ、私たちはどのようにして知ったのだったか。時はアメリカ史におけるひとつの節目で、ある種の平等主義的理想や未来に対する信頼といったものがこぼれ落ちていき、ホワイトハウスにはレーガン家がいて、少数のための上流エリート主義をみずから実践しつつその他大勢のためのセーフティネットを解体していたのだった。(中略)

 薔薇柄の作品を欲するときに私が求めていたのは、製品よりもっと多くのもの、もっと別のものであり、私が欲しかったのは製品がまとう意味だったのだし、のちに製品が約束するものを嫌悪するようにもなった。(中略)それらは遠くから手招きし、みずからが属する場所について約束してくれた。(中略)だが楽園とは壁で囲われた庭園のことであり、部分的にはそれが締め出すものによって定義されているのだった。(中略)

 そうした製品が真に望む値打ちのあるものだったというよりは、私たちの欲望が剪定され、整枝、中耕された結果、ひまわりが太陽の方を向くようにその製品に差し向けられたのだ。その起源がでっち上げであるにせよ、欲望の強度は真正のものなのだ。(p206~208)』

 

 

こうした(現象学的とも呼べそうな)書き方には、レベッカ・ソルニットいう文筆家・思想家の魅力が、特によく示されているだろう。

この時代は、日本では新自由主義の本格的な到来はまだだったが、バブル直前にあたり、消費社会の雰囲気は、ここに描かれているものと共通したところがあったと思う。いずれにせよ、新保守化時代の幕明けと呼べる頃だった。その後の時代の流れは、ある点ではオーウェルの予想をはるかに超えるような深さと精密さで、欲望を含めた僕たちの生の経験の全体を内部から浸潤し支配していくものとなった。

ソルニットが、オーウェルから学び受け継ごうとするのは、もちろんその政治的支配への抵抗の態度である。『一九八四年』に書かれたビッグ・ブラザーのスローガンを引用しながらこう述べられる。

 

 

『「過去をコントロールするものは未来をコントロールし、現在をコントロールするものは過去をコントロールする」。残虐行為を可能にするのは、真実と言語に対する攻撃なのだ。(中略)戦争の最初の犠牲者は真実だ、という古い言いまわしがあるが、国内でも地球規模でもあらゆる権威主義を支えるのは、真実に対して仕掛けられる永久戦争だ。結局のところ権威主義とはそれ自体、優生学と同様に、権力は不平等に分配されるという考えに根ざした一種のエリート主義なのだ。(p174)』

 

 

嘘と欺瞞による権力の支配に抵抗して、奪われゆく生の経験の真実を固守し、生命の未来をあくまで信頼してそれを育んでいこうとする態度。そのことへの素朴な希望を失わなかったところにこそ、オーウェルの文学の力の核心があるのだと、著者は述べるのである。

47歳で結核のため亡くなった時、釣りが好きだった彼の病床の枕辺には、一本の釣り竿が立てかけられていたそうだ。

 

 

『その釣り竿は、彼が植えた樹木や薔薇のように、彼が養子に迎え入れた息子のように、そしてもしかしたら、病院のベッドからの結婚の船出のように、希望の身ぶりであるように見える。未来が確かなものだというのでなく、未来が手を伸ばすのに値するものだという、それは希望の身ぶりなのだ。(p316)』

 

 

結局、オーウェルが最後まで語り続け、守り続けたのは、生に対する信頼と希望だった。

ディストピア小説の見本のように言われる代表作『一九八四年』についても、主人公の生に関して著者は次のように論じている。

 

 

『彼は打ち砕かれた。彼はまず生きることをしおおせて、それらの勝利は消え去りつつあるのだけれど、勝利であるのは変わりない。つかのまのものでない勝利なんてあるだろうか。この本にはもうひとつの物語が含意されている。ウィンストン・スミスがいかなる規則も破らず、いかなるチャンスもとらえず、いかなる喜びも見出さず、愛を交わすこともない、そんな物語だ。その物語のなかでは拷問も監獄もない。というか、拷問や監獄があっても、党は彼をもっと効果的に支配する。彼が反逆したあとで単刀直入に彼を監禁して責め苛むのでなく、彼がそれを避けるために体制に従順に従うようにさせる、そういう物語である。(p311)』

 

 

現実の人生において、この「もうひとつの物語」の主人公になってはならないということこそが、著者レベッカ・ソルニットの、同時代を生きるわれわれへのメッセージの要諦だろう。

『兵役拒否の問い』

兵役拒否の問い/イ・ヨンソク – 以文社

 

韓国の兵役拒否運動や、徴兵制の実情について全く知らなかったので、大変勉強になった。韓国では2000年以後に兵役拒否運動が大きな広がりを見せ、その結果、2020年に良心的兵役拒否者への代替服務制(軍務に就く代わりに、現役服務の二倍にあたる36か月間、刑務所で合宿生活を送りながら福祉施設などで働くというもの)が遂に実現した。

長らく、兵役拒否という行為はありえないこととされてきた(例外は「エホバの証人」の信者たち)韓国の社会において、これは大きな出来事だった。このような成果を、なぜ達成できたのかという経緯が、今後の課題と共に語られている本である。

本書が提起している事柄については、出版社のサイトに、韓国の運動事情に詳しい論者による詳細な書評が載っているので、そちらも参考にして欲しい。

http://www.ibunsha.co.jp/contents/kagemoto2/

 

 

2000年代に入ってからの兵役拒否運動で特徴的であったのは、兵役拒否という行為が、信仰やイデオロギーから離れて、(脆弱でもある)個人の良心の問題として捉えられるようになったことと、フェミニズムの強い影響ということであったのが、この本からよく分かる。そうした運動の体質的な変容が、「兵役拒否」という行為を通して「軍事主義からの脱却」という根本的な課題を社会に問いかけ広げていくという方向性(運動の展望)を見出させ、またその為のアプローチの方法の創発に結びついていった経緯が、実践的に書かれているのである。

それは、植民地責任を放棄することと相即的に確立された日米安保体制(より正確にはサンフランシスコ体制)の下で、沖縄に(また自衛隊についてはアイヌモシリにも)基地を押しつけたのと同様に、朝鮮半島や台湾に軍隊と「戦争」をアウトソーシングすることで、見えざる軍事主義≒家父長制の構造を温存するどころか強化さえしてきた日本社会の読者にとっても、重要な示唆を与えるものとして読まれるべきことだろう。

 

 

著者のイ・ヨンソクは、この運動の中心的な役割を担ってきた人物だが(ただ、本書中にも書かれているように、この運動ではチェ・ジョンミン等女性たちが中心的な役割を果たしてきたことも特記すべきだろう)、自身2000年代の初めに兵役を拒否して刑務所生活を送っている。

前半では、その体験の回想が綴られるのだが、その内省的な雰囲気が、今世紀に入ってからの社会や運動の変化に対応した、この運動の性格をよく表していると思えて、僕には印象深かった。

 

『だが本来、良心は弱くて脆いものだ。民主主義国家において良心の自由が保護されねばならないのは、個人の両親が民主主義の核心的な要素だからでもあるが、国家が保護しなければ良心の自由があまりにもたやすく砕け散り、侵害されるからである。(中略)あとから結果だけみると、監獄をも辞さない強固な決心を固めていたかのようにみえるかもしれないが、決してそうではなかった。比較的淡々と兵役拒否を決心したわたしでさえ、数百回は逡巡した。(p37~38)』

 

 

『わたしは、恐れこそ勇気の最も重要な要素であると考えている。暴力を恐れないひとは、勇敢な人間なのではなく、勇敢なふりをしている人間だ。かれらは自分のなかの恐れを隠すために、むしろ暴力的な態度を取る。本当に勇敢なひとは、自分に降りかかる暴力のみならず、自分が行使する暴力をも恐ろしいと感知し、その恐れをとおして暴力について考察することができる人間であり、恐れを感じながらも、その恐れ自体を真正面からみつめる人間である。恐れを認めることは、暴力に対する省察を可能にする最も重要な力である。(p69)』

 

 

『出所直後、わたしの家族や友人は、わたしがかなり変わったという話をした。他人をおもんぱかり、関係を省みる感情労働の重要性を悟り、変わろうと努力したからだろう。(p82)』

 

 

『過去の社会運動は構成員間の同質性を基盤に強力な力を発揮する反面、非同質的な人びとに対しては排他的な側面をもっており、そのせいで新たな集団やアイデンティティをもったひとたちが社会運動に入り込みにくい問題があった。それに比べ、兵役拒否運動は同質性を基盤にした組織の目標よりも、個々人の良心が重要視される社会運動だった。自分の良心が組織の方針と相反するとき、みずから進んで自分の良心を重視するひとたちが兵役を拒否するからだ。(p112)』

 

 

また、フェミニズムの影響については、

 

『兵役拒否運動が代替服務制の導入という変化をつくりだすことができた(国際的な連帯とならぶ)もうひとつの大きな要因はフェミニズムにある。(p172)』

 

 

フェミニズムは、兵役拒否運動を平和運動として位置づける際にも多大な影響を及ぼした。わたしも軍事主義と軍事安保に対する批判の言語をフェミニズムから学んだ。軍事主義は二分法にもとづき機能し、たえず二分法を強化する。軍隊にいく「正常な」ひとと軍隊にいくことのできない「異常な」ひと、友軍と敵軍、保護者と被保護者、勝利と敗北。こうした世界では「正常な」ひと(健常者、異性愛者、男性、そして軍人)が「異常な」ひと(障害者、セクシャルマイノリティ、女性、移民、そして兵役拒否者)を保護する。これこそが軍事主義的な安保意識であり、これは必ずしも軍隊のなかだけで機能するものでもない。(p174)』

 

 

最後に、圧倒的に敵対的もしくは無関心だった社会に問いかけていく運動のあり方については、ここでは次の一節だけを引いておこう。

 

『わたしたちは兵役拒否者に対する嫌悪を扇動する政治家やメディアに断固として立ち向かうとともに、たえずいろいろな人びとに会い、対話した。兵役拒否は宣言であると同時に声かけであり、それがわたしたち独自の生存方法だった。(p128)』

 

 

なお、巻末に付された詳細な訳者解説も、韓国での運動の歴史や現状が見通せる優れた内容である。

『ユダヤとイスラエルのあいだ』(新装版)

www.seidosha.co.jp

元は2008年に出版された本だが、今年の8月に出た新装版。僕は初めて読むと思う。イスラエルパレスチナの問題の背景というか、本質がどこにあるのかということを、思想的な面から追求しており、ちょっと難しいところもあるが、やはり今広く読まれるべき本だと思う。

ここでは特に、イスラエルと日本とを対比して書かれた箇所に着目して、紹介しておきたい。

まず、「まえがき」のなかで、このように書かれている。

 

『事実、ヨーロッパで先行していた国民国家の発展との強い影響関係において、急速に近代国家建設を進めたという点で、イスラエルと日本とは類比すべき点が多い。どちらもヨーロッパを頂点と仰ぎ、そして周囲に植民地や占領地を保持することで階層構造をつくり、その内部において国民化の圧力を強めてきた。(p9~10)』

 

第二次大戦後の米国の国際戦略との関わりにおいて、イスラエルと日本とが類似した位置を占めてきたということは、よく指摘されることだし、僕もそのように思ってきた。

だが、植民地支配という観点から、日本の近代史全体をイスラエルシオニズム)に重ねる発想は、自分の中では希薄だったと思う。例えば沖縄に対して、米国は第二次大戦後になって「占領者」として振る舞うようになったが、日本国の方は(少なくとも)明治の初めから沖縄の「占領者」だったことを忘れてはならないだろう。その支配者としての眼差しは、「軍事化」にせよ、観光開発におけるものにせよ、もちろん今も変わっていない。

さて、続く序章では、1990年の「改訂入管法」を例証として、戦後も一貫して変わらない日本国家の、その体質が批判されている。敗戦(帝国の解体)に伴う旧植民地の解放を経ても、この国の体質がなんら変わっていないという事実を、私たちは確認せざるをえない。

 

本質主義的な国民主義はむしろ強化されたと言っていい。戦中から戦後へという転換のなかで、「本来的国民」という思想はいささかも揺らぎはしなかったのだ。(p40)』

 

今年2023年、さらなる「強化」と言うべき入管法改悪が成立してしまったことは、あらためて書く必要もなかろう。

「新装版あとがき」では、今年が1993年のオスロ和平合意から30年にあたることから、ほぼ「平成」の期間と重なる日本の政治状況との対比(類似)が、次のように総括される。

 

『同時期にイスラエルで「和平プロセス」の名の下に、人種主義的シオニズムも軍事的占領も強化されていったのと同様に、「平和主義的な平成天皇」の時代に、血統主義と男尊女卑の天皇制は深く根づき、かつ軍事大国化も進められていった。(p342)』

 

これ以上の推論を行なうのは、パレスチナの現状に対しても、沖縄や東アジアの現実に対しても適切でないだろうが、このような過程の帰結として、いまのガザの状況があるということは、少なくとも言えるのだ。

 

 

ところで、ハンナ・アーレントを論じた部分のなかで、著者は『全体主義の起源』におけるその考えを要約して次のように書いている。

 

『周知のように国民国家は、「民族的帰属と国家機構とが、相互に融合し国民的思考において一体化される」ことによって成立した。だが、この「民族的帰属」の意識が、法的な平等を崩壊させる。それは「国民」が「民族」に取って代わるときに、国民の統一体に属することのできる者と排除される者とを産み出すからである。(p160)』

 

そして、亡くなるまでイスラエルに対する擁護的な沈黙を破ることのなかったアーレントの願望には反するものであった現実を、次のように書く。

 

『結局のところ、イスラエル国家はヨーロッパ的な国民国家の反復、「飛び地」にすぎなかった。いや、たんなる反復どころか、ヨーロッパから排除された民族が、排除されたがゆえにかえっていっそう純粋な民族主義・人種主義に基づいて「建国」をしてしまったために、矛盾が極限的な形で露呈してしまっているのだ。(p162)』

 

シオニズムという民族主義的な思想(情念とでも呼ぶべきか)とリベラル(啓蒙主義的)な国民国家の理念との齟齬という、イスラエル支持のリベラル主義者にとっては残念な現実は、イスラエルでは今なお憲法が制定できずにいるという結果となって現れているという。

 

『近代的民主国家でありたいと同時に排他的なユダヤ人国家でありたいという矛盾した欲望を、近代的憲法で体系化することは困難であった。(p297)』

 

だが、僕がここで思ったのは、「民族主義国民国家とは相容れない」という理由から、いまだに憲法を制定できずにいるイスラエルと、天皇という、どう考えても民族主義的・宗教的としか思えない存在を最重要部分に置く憲法を、さしたる葛藤もなく成立させてしまった「戦後」の日本とは、果たしてどちらが、よりまともな国民国家と言えるのか、ということだ。

もちろん、「まともな国民国家」なるものが実際に存在しうるとしての疑問であるが。