マイヤー『逃げるアタランテ』の楽曲がiTunes入り


販売元は東京エムプラス


神聖ローマ皇帝の侍医を務めたオカルティスト、ミヒャエル・マイヤーの"逃げゆくアタランタ"!
マイヤー:逃げゆくアタランタ(1617)〜17世紀初期の音楽、錬金術と薔薇十字団
アンサンブル・プラス・ウルトラ〔グレース・ダヴィッドソン(ソプラノ)、クレア・ウィルキンソン(アルト)、ウォーレン・トレヴェリアン=ジョーンズ(テノール)、ジャイルズ・アンダーウッド(バス)、スティーヴン・ジョーンズ(アルフ〔二胡〕)、スー・アディソン(サックバット)、マリー・ブルニジアン(ルネサンス・ハープ)〕、マイケル・ヌーン(指揮)
Maier:Atalanta Fugiens/Ensemble Plus Ultra、Noone(dir)
Glossa Platinum/GCD P31407/日本語曲目表記オビ付き
近日発売予定

■ミヒャエル・マイヤー(1568−1622)は、プラハハプスブルク家神聖ローマ皇帝ルドルフ2世の侍医を務め、薔薇十字団運動の熱心な提唱者として歴史にその名を残し、さらには錬金術師、哲学者としても高名だったドイツの奇才。
■1617年に完成した「逃げゆくアタランタ」とは、50のフーガと50の象徴寓意画、詩句が収められた紋章学に関する謎多き書物のこと。
紋章を音楽的、視覚的に記述した「逃げゆくアタランタ」の"50のフーガ"は50曲の2声のカノンであり、その声部は錬金術における三大元素、水銀、硫黄、塩を表すなど、ミステリアスなエピソード、雰囲気が漂う・・・。
ザ・シックスティーンのソプラノ、グレース・ダヴィッドソンも参加する声楽と器楽による古楽演奏団体アンサンブル・プラス・ウルトラはまさにルネサンス音楽の申し子。
ゲレーロやモラレス、ビクトリアなどのスペイン・ルネサンス、調和概論の著者ツァルリーノのモテット集で聴かせてくれた綿密な演奏は絶大な評価を受けている。
"オカルト好き"の神聖ローマ皇帝ルドルフ2世の侍医に上り詰めた"オカルティスト"マイヤーの不思議な50のフーガ。古楽系秘曲マニア必聴です!
※録音:2008年8月、セント・アンドリュース教会(グロスターシャー/イギリス)

Amazonでの購入はこちら。2008年の録音ですからけっこう前から販売されていたようですが、現状Amazonでは予約も試聴もできないみたいです。
BGMのでどころはよく判りませんがYoutubeでも『逃げる〜』の曲は聴けます。

iTunesはこちら→Maier: Atalanta Fugiens
リリースはなんと明日2011/5/3ですが、全曲30秒の試聴ができます。1曲1分半〜2分くらいとはいえ50の講話にひとつづつぜんぶですから、試聴だけでもけっこうなボリュームがあります。

いやあ、これは良いですよ。
これを流しながらぜひ、拙訳・逃げるアタランテを楽しんでみて下さい。
とてもバロックな気分が満喫できると思います。

グスタフ・ルネ・ホッケ 迷宮としての世界

もう去年末あたりのことになってしまいますが、グスタフ・ルネ・ホッケ『迷宮としての世界』が岩波文庫に入って再版されました。
90年代、陰りが見えていたとは言え、まだまだ出版界は元気で、華やかな書籍をたくさん出していました。売れるの売れないの色眼鏡をかけた今の尺度で思えば、無茶としか言いようのない本がちまたに溢れていて、そんな時代にユングだのバシュラールだのバルトルシャイティスに出逢っては白水社のヘルメス叢書なんかをむさぼり読んだりしていました。この頃に国書刊行会幻想文学全集だとか、思潮社平凡社、河出、青土社だとか工作舎だとか旧トレヴィルの美術書群なんかに出会わなければ、いまごろ錬金術文書の翻訳なんかしていないことでしょう。むろん、これらはもっと古い時代(70年代とか)に出版されたものの再版だったりもするのですが、良い本がしっかりと企画されて、高価ながらにふたたび綺麗な装丁をまとって世に流通していることが、まだ幸福だったわけです。

こういう時代でも多分、ホッケの『迷宮としての世界』は入手しづらかった本だったと思います。当時はまだネットで検索、みたいなことも出来ませんでしたから、古書屋の目録なんかで見かけると飛びついて買ったものでした。1974年の第八版ですが、再販はされなかったと思うんですよね、自分が気付かなかっただけかも知れません。ところがこの美術出版社の本がまたえらいひどいシロモノで、ところどころページがまっしろになって飛んでいるところがあったりするのです。長年気にしながら、やっと読むことができた本を手にしての、まっしろな見開きはかなり衝撃でした。しかも結構あるし…これで出版しちゃう70年代のダイナミズムみたいなものにヤラれました。さらに古書でしたから仕方ないのでしょうが、ずいぶん焼けて背表紙も剥がれており、かなりわるい状態の本でもありました。
すでにもっている本を新版でまた買うなんていうのはなんだか、とある商法に乗っておんなじCDを何枚も買う人々みたいですが、こういう本がそこらの書店でも平積みになっているのを見かけるとみょうに感慨深いものです。こうなると『文学におけるマニエリスム』も出るのかなっ!なんて考えたりします。しかし最近の出版物はあんまり部数をださないからいっとき市場を賑わしてすぐ消えてしまうんですよね、さすがに岩波だからといって油断は出来ません。ちくまなんかだともっとすぐ消えてしまうでしょう。

さて内容はろくなレヴューなんて出来そうもない迷宮ですが、基本的にはマニエリスム美術についての入門書です。しかしその特性からいって魔術や錬金術のアルスの感覚と切っても切り離せない世界ですから、その方面の専門書としてもひじょうに有益です。


ホッケ『迷宮としての世界』上巻
 緒言
 1最初の衝撃
 2優美と秘密
 3蛇状曲線的(セルペンティナータ)―痙攣的
 4〈イデア〉と魔術的自然
 5綺想異風派(コンチェッティスモ)
 6没落のヴィジョン
 7美と恐怖
 8不安と好奇
 9天使城(カステル・サン・タンジェロ)
 10時間の眼としての時計
 11人工の自然
 12奇妙な神話
 13迷宮としての世界
 14抽象的隠喩法
 15キュービスムの先達と後裔
 16イメージ機械
 17古今の構成主義
 18円と楕円

ホッケ『迷宮としての世界』下巻
 19ルドルフ二世時代のプラーハ
 20アルチンボルドアルチンボルド
 21擬人化された風景と二重の顔
 22夢の世界
 23装飾癖
 24狂気
 25汎性欲主義
 26倒錯と歪曲
 27一角獣、レダ、ナルシス
 28ヘルマフロディトゥス
 29マニエリスムと衒奇性(マニリールトハイト)
 30神の隠喩


翻訳は今は亡き種村季弘氏と、澁澤龍彦の最初のおくさん矢川澄子氏。現代岩波版には、今をときめく高山宏氏の解説がついているが、美術出版社版にある三島由紀夫(!)の推薦文が岩波版には無いのでご紹介。なんかこう、この時代のこの世界の人々の高いテンションが垣間見えます。

未聞の世界をひらく
 二〇世紀後半の美術は、いよいよ地獄の釜びらき、魔女の厨の大公開となるであらう。今までの貧血質の美術史はすべてご破算になるであらう。水爆とエロティシズムが人類の最も緊急の課題になり、あらゆる封印は解かれ、「赤き馬」「黒き馬」「青ざめたる馬」は躍り出るであらう。この時に当たってマニエリスムの再評価は、われわれがデカダンスの名で呼んできたものの怖るべき生命力を発見し、人類を震撼させるにいたるであらう。図版も目をたのしませ、訳文はきはめて的確、一読われわれは未聞の世界へ導き入れられる。

マニエリスムに関して以下もオススメ。
綺想主義研究―バロックのエンブレム類典
マニエリスム芸術論
魔術の帝国―ルドルフ二世とその世界

第4回 蒸留


 物質を明らかにした後、哲学者の最初の趣意は水を与えるべきことであるが、これについては多くの名前で註記が繰り返されてきた。なかでも「鋭い酢」というのが頻繁に語られた名のひとつである。二つ目は「溶解せる水銀」であり、第三は「沼沢の水」である。「溶解せる水銀」のもつ働きは壊死解体であるが、これが金属を自然な壊死に解体して霊気の力を活発化させるのである。けれどもこれらに活力が与えられるには自然力を掻き立てる必要がある。とはいえ「溶解せる水銀」が乾燥してしまえば自然の激情は期待できず、むなしい結果のなかに解決を期待することはできない。
 それゆえ「溶解せる水銀」あるいはこの沼沢の水を得るためにとられた効果的な方策があった。これらとともに蒸留をすることは、すなわち容器中に於ける水分蒸気の上昇であり、そのなかには高貴と野卑という石のふたつの部位が存することになる。そこには蒸留によって希薄になりゆく上等の部位があり、これはとりわけ、ふたたび地が閉じ乾き、水が清く洗浄になり、風と火が色彩をもたらすときに再興する。
 アーノルドが述べるところでは豊かな水と風が不可欠であり、というのも染色素の夥多は風の多さによるのだが水は除去であり医薬の構成要素のすべてを清める動因だからである。頻繁な蒸留というものが重要なる元素の洗浄とされる所以である。
 ゆえにこそ、蒸留のもとに石が四つの元素に分割されることが不可欠である。まずは、つよさを変えずに熱するよう加減された仄かな火をもちいて水を得るがよい。さらに火が火を受け入れ混じるほどに徐々に勢いをつよめるべし。容器の底に燃え残ったものは乾いた地であり、そこには結晶化した石の塩基が隠れている。下方に残る赤みから、火の存することが判る。上等の循環があれば、容器中に物質のあることが判る。煙霧がたちこめつつあり、蒸留するにしたがって煙が雲のように昇るのが見える。

車検なぞやっとりました


6年走ってまだまだ元気。今月3度目の車検が通ったCB400SuperFour sp.2です。職場まで近いので走行は3万手前ていどなんですけどね。

車検が通ったとはいえ、スプロケだのチェーンだのはガタガタ、でこぼこのディスクから鳴きのパッドまでブレーキ周りもマダマダこれからお金がかかる予定です。シートも亀裂が入っちゃったのを強力ボンドで埋めたり。もっと酷くなったら張り替えなんかせにゃならんなあ。

それでも転んだり擦ったりはしていないので、洗いさえすれば外見はかなりきれいです。6年も乗っててはじめての洗車に磨き上げ、だいぶ手間をかけてやっときれいになってうれしいので初御目見へ。いやあ、これからはマメに掃除してやらんとな、と思いますよ、洗いながら緩んだボルトなんかも発見したし、こんなのはバイク乗り失格だなあ、と。

CB400=教習車、と知っているひとでなければ、なんだあのバイク?と思うかも知れない、こういうストリート風の、ネイキッドらしからぬカスタムが入った状態で売られていたのを、5万も走ったオンボロShadowと引き替えにしたものでした。
今やスカしてドラムバッグなんぞぶら下げていますが、そういう風情は、もともと前に乗っていたアメリカンに合わせるべく手持ちの装備品がことごとくヴィンテージくさいものになってしまっていたからで、ほんとは単気筒に乗りたかったのに実用性・堅実性に押されて、さらには
――セル無しキックスタート? あんなもんは趣味のものだ!――
とさんざん友人にたしなめられたためにコレに乗っているなんて事情もありますから、思い返すにずいぶん妥協を重ねて乗っているバイクではあります。
それでもコレは毎日どんな気候だって働く、雪いがいは休ませて貰えない、実にエラいやつです。

第3回 術の根本たる化学物質としての土星

 土星は卓異の星であり、本質、位階、品格に於いてあらゆる同朋を凌いでいる。彼は自然の長男、知る者わずかな金属種の根と位置づけられる。
 ゆえに『角笛の響き』にはこうある。染色の霊気は哲学者の水銀であり、その赤や白は鉱洞や地の臓腑のなかで硫黄とたやすく結びつくものであるため、無造作に調合しても術師の正否は完全なる結合のときまで保留されてしまう。これは太陽についてのベリニュスの譬喩にあるとおり土星と呼ばれる精気であり、平易に言えば、あらゆる金属種の身体なかんずく金を、真に根源的な死滅崩壊によって染色分離させるものである。これについての彼の言説は『薔薇園』に明言されている通りである。「識れ。わが父である太陽は、あらゆる力を超越する力をわれにあたえ、栄誉の長衣でわれを飾った。そして世界のすべてがわたしを求め、われのあとに従う。わたしは、他を凌ぐ者。何者よりもたかく、わが前に平伏さぬもの無し。ただひとりを除いて、わたしを克服しうる従者はいない。その者には、わたしに抗うものが与えられておるがゆえ、その者はわたしを破壊する。だがわたしは根本から損なわれるわけではない、土星はわたしの身体を分解するのみであり、そしてわたしは母に救いを求め、散り散りにされた四肢を集めてもらうのだ。」
 トレヴィザンもまた同様のことを主張し、他ならぬ活ける水銀が他ならぬ「紅き従僕」の身体より抽出されうると述べる。これがベリニュスの呼んだところの造反する従者である。「従者」というのはすなわち自然のしもべであるからで、それは自然の鉱物中にあって金属種の生成に仕える。またそれは化学の術に於いて、聖なる石を生成することにも仕える。それは「紅」とされるが、調合の最終段階に紅い塵へと変わるからである。太陽にも造反するものとされるのは、それが根源から太陽を融解させ原初の物質へと還すためである。だが紛うことなかれ、わが子よ。これらの事物は、金属あるいは鉱物としての水銀に属する土星のこととして理解されるべきことではないのである。それらは我らの鉛、いわば眼に見えぬ可能態のなかに秘められている、金属を産する太陽や月にかかわるものである。あらゆる秘奥は鉛に存する、とピュタゴラスは述べた。
 最後に、一語を加えてこの輝かしい章を締め括ろう。わたしは、いとも正統なる哲学者らがこれを太陽という星、月という実体(太陽と水星)に位置付けたことを、ただただ一貫して断言することで表明するのみである。健康と富についての問題は同一ものであって、この論考でもこれら共々が扱われるが、学徒や悟達者が公然とこの場に現れても、我らはとりわけ医薬の問題を論ずるであろう、それが我々の関心の中核をなすからである。土星が隆盛をきわめ、他のあらゆる惑星がそれに追従し、一方で太陽と月がその足下におかれるのを見るならば、それは土星それ自体がふたつの染色素を内に秘めていることの徴である。これは、多くの者が求められながらも、真実に至ることのできた者は僅かである。ゆえに小さな太陽の星が月の中に、小さな月の星が太陽の中にあらわれるのは不可解なことではない。なんとなれば太陽と月はただひとつの同じ根から発しているからである。巧みなる造物主が短い時間に垣間見せるように、のちに赤くなる小さな白い雫が、ゆたかな染色素の徴となる。山麓にて樹木が繁茂すること、これがちょうど、土星が山岳地にのみ至ることの徴として相応しい。

第2回 太初の混沌について

 混沌は、未だ創造されざるところより初めて創造されし、最初の始まりである。全能の神が初めて創造したこれは、神の創世の術以前のものであり、それはかたちもない無秩序であった。けれどもその本質は、もっとも正統な賢者らによって後に明らかにされた。それは母であり世界の始まりの因であり、フィロンによれば自然であり、そのふところには数えきれない形相が秘められており、万能の建築者であり、偉大な術師であり、それは奔出の刻を命じる。未消化の物質中に最初に霊気を宿しているからである。混沌、それはある者は世界霊魂と呼ばれるべきであると断言し、ある者は形態の形状、またある者は創造者にひとしき糧とも呼ぶ。霊気が含まれているという恩恵があるゆえ、そこには隅々までも、神の最大の自由意思によって、万物が支度され、俯瞰されている。水から水のなかで分離はおこり、それによって万物は分かたれた。留意せねばならぬことだが、混沌の分離というものは、破壊的分解ではなく単に文節化であり、おのおのの節は生命と霊気に満ち、序列に従って隆盛し、すこやかに繁殖する。
 それゆえ事物の驚くべきちからは、化学の術における自然にかなって統御されるならば、人類の子孫たちによってひきだすことが、真の変成をもたらすことが、可能である。真の哲学者が思索したのも、自然そのもの、自然の可能態に他ならなかった。自然の平明さや純真さはまさに、そこに生きるものにとって充分なものであって、自然の営みのほとんどは、それ自身の能力と端緒に応じたところから為され、わずかの術の補助を頼りにして、歴とした作用を示すのである。
 混沌は、カバラ導師にとってふたつの意味がある。いわば知解と可視であり、ひとつは神からの直接の命令をうけての現象であり、もうひとつは同様の命の執行から即座に変化することの宣言とそれを知らされることである。
 さらに識れ。汝が白のなかにみるであろう点は地の中心に据えられ、白さは地それ自身の兆候であり、曲がった線は水の奔流の兆候である。それは自身の場所に在って地を覆い、いとも慈悲深き造物主の命をうけて、いくつかの部位だけを包んでいる。黒点に囲まれた白い円は風の兆候であり、同様に、黄金色の七つの小さな点は火を意味する。
 これらのことはこのように明かされ尽くし、次なるは七惑星が規則正しく混沌を巡ることについての思索である。これらの最初は土星であって、それゆえ土星は優勢をきわめ、しかもそれは他のあらゆる惑星を内包し、他のものたちは異なる命に従って休息している。こうしたことから、よく知られているのは、真の哲学者の意趣にしたがって、万物は万物の内に在るということである。土星それ自身は女性的で憂鬱質であり、木星は女性的であり粘液質かつ多血質であり、水星は女性的で粘液質であり、最後に月は女性的で憂鬱質である。

第1回 序文

1年半くらいブログを放置してしまいましたが、最近進めている作者不詳の錬金術文書『自然の王冠』をupします。『薔薇園』も頓挫しているのでどこまで続くか分かりませんが…。

『自然の王冠』は、バルヒューゼン Barchusen の編んだ論集『化学の元素 Elementa chemicae』に収められた有名な連作図版を含む文書です。
ファブリキウス『錬金術の世界』の巻末の紹介では

「バルヒューゼンはユトレヒト大学の巧妙な科学者で、数多くの著作はこの人物が薬剤師から新しい化学の分野、化学の教授へと成長したことを明らかにしている。バルヒューゼンが著作の序文で告げるところによれば、連作図版はシュワーベンのベネディクト会修道院にあった手書きの文書から写し取ったもので、これらの絵は一目見て哲学者の石の製法をあらわしたもののように思えた、という。本書の著者は10年にわたって調査を続け、1968年にニューヨークのシドニイ・M・エデルシュタイン協会の図書館で、この「手書きの文書」を見つけ出した。67点の水彩画から構成されており、書名は『自然の王冠、あるいは無名の作者によって67点の神秘的な図により明らかにされた至高の医療の教え』となっていた。……17世紀初頭のものだと考えられる」

『化学の元素』所収『自然の王冠Crowning of Nature』本文の英文テクストはこちらにあります。
 →http://www.levity.com/alchemy/crowning.html
尚、上のリンク先のテクストにつけられた図版はオリジナルのものからMcLean師が選定、着色したものですから、『化学の元素』に収められたものとは異なっています(テーマは同じです)。錬金術文書の図版は、色彩に重要な意義があるので、理解の点では極めて参考になるのですが、原色ばかり使われますから印象としてすこぶる明る気で可愛らし気のものになっています。
自然の王冠、Crowning of Nature についての書籍といえばまず Magnum Opus Hermetic Sourceworksのものしか流通していない様子ですが、これはMcLean師のサイトの内容と同じと予想されます。


 神の意志と勅命によって下される天界の作用は、上から降りて星々の性質と要素へと混入する。我らの種子の造出のはじめもまた、このような仕儀のもとにはじまる。汝はこれを、如何なる可燃性のものからも得ることはできないが、それがそれと偏見もなしに争うからである。だがこれは、造物主が金属種の生成のためだけに命を下した金属の根より発するものとして知られている。汝はこれを、その性質がそれを造出するところの、しかるべき性質の種子のなかにこそ探さねばならない。ベルナルド・トレヴィザンの書物は、魂の興る次第について記された、真実ただしく唯一のものである。地、水、風、火の四元素は、魂をうみだすその刻を迎えるまで、充分に制され調えられねばならない。われわれは四大元素を七惑星の一致によって集める。われらの術は物質を凝固させ溶解させ、霊気を定着させることに尽きる。万物に先行する神は、ただひとり原初の物質として唯一の実体を創造した。四元素はそこから造出され、神はこれより万物を創造した。われらの石もまた四大元素の精髄であって、諸元素から分離され、第五精髄へと還元されねばならぬ、原初の物質の実体から抽出されるべきものなのである。
 神に造られた自然は人為の技術とともにはたらき、そのようにして上述の諸元素は完全に改変され、しかるのちに結合術が施される。それらは第五としての、輝ける第五精髄、あるいは第五元素とよばれる霊気へと還元されて、神に創造された唯一のもののなかにみいだされる、輝かしき復活体に顕現する。金属種の霊、魂、肉の三位が存するところには、かならず水銀、硫黄、塩基があり、ここにこそ完全なる金属の身体が形成される。われわれはこのようなものを、太陽がとこしえにその眼を据えるいとも完全なる被造物から採取する。聖ダンスタンの著作『隠秘哲学』などには、天使の食餌、天来の聖体拝領、命の糧、疑いなく神の元に次ぐもの、真のアルコーダンあるいは延命剤、などと記されており、こうしたものを用いて死ぬ者があろうかという疑問や、それをもつ者がなぜ生きることを望むのかについての考えにさしたる注意も向けない者は、これら輝ける永遠性の顕現におのれの通俗的な眼を暴かれるのである。我らの石は二、三、四そして五より成る。五、それは第五元素であり、四は四大元素である。また三は遍く自然物の三原理、二は二重の水銀を象徴し、一は万物の根本原理である。それは世の創造のときより、清らかに清浄につくられ、神の勅命がそれを在らしめたところのものである。金よりもさらに高貴に創造されたものが存在し、真実がそれを見出すところに我らはそれを探し求めねばならない。それはあまりにも自然(性質)のなかに秘められたものであるので、作業のすべてを見るよりほかに、ひとはそれを目の当たりにすることはかなわない。われらの原初の父アダムは内奥深くその精神において、天使をかたちづくる物質因で神の似姿に造られた。なるほど偉大な名知識をも擁する人間界では、神が地の泥や粘土や塵から人間を造ったとまことしやかに語り継いではきたがこれは誤りである。人間が創造されたのは精髄の物質からであり、地と呼ばれこそすれ卑俗の土のことではない。
 原初のアダムは後のそれと比して懸け離れた肉体をもっていたのであり、純潔のもとにあったことを熟考すれば違いはかなりのものである。われわれは彼にすべからく賛嘆し、これを目の当たりにして戦かぬわけにはいかない。それは天使を目の当たりにするに等しく、かような肉体をこそ、神聖なる救い主が天より彼にもたらしたのである。そうした肉体とともに我々は再生し、かような肉体にこそ、肉と血とともに、我々の魂が授けられるのである。そうでなければ、人間は天使と違うことが無かったであろう。というのも、かような肉や血は聖霊によって我らに与えられるのであり、それが再生である。知るもの僅かなこの神秘についてはまだ語るべきことがあるが、斯術とともに恵まれて生きる者はその造物主を賛美することになろう。
 ミクロコスム、あるいは小宇宙としての人間、霊気を受けた星辰より来たり、その偉大な世界としての肉体より来たり、その魂はすなわち神につながり、ゆえにここには神聖なる三位一体の知覚が在る。さて、無から如何にして偉大なる世界が造出されたかについて語ろう。そのときそこには時間も空間も存せず、神は賢者らが質料、いとも遠きものと呼ぶところの、見えざる混沌を創造した。ここから彼はある抽出物を、あるいは混沌の第二因を造った。それは眼に見え触れ得るものであり、かつそのようなものであったため、賢者らが思弁によらずとも識るところである。そのなかに、あらゆる種子そして、それまでに造られた上より下に至るすべての被造物の形相が秘められており秘められてあった。このようなものから神は世に四大元素をわけ、天のものから地のものまで、天使、太陽、月、そして星辰にいたる万物を創造した。この混沌へと向けられた賢者の智と術は、かれらにあらゆる叡智をもたらし、かくて神に並んだ。汝これを探し、万智を見出すべし、まさに天使的叡智がこれによって達成さる。猜疑心は罰として世に与えられたものである。己じしんの探すところを知らぬ者は、見出すべきところをも失うであろう。

錬金術文書では見慣れない、聖ダンスタンという名前が出てきますが、ちょっと調べるとなかなか面白い人のようです。蹄鉄などをしていた経験科学者のような側面があるようです。
中盤〜後半の、アダムについての熱っぽい語りはナルホド頷かされるものがあります。とうとつですが『風の谷のナウシカ』の最終巻あたりに、汚染されきった世界に適応してしまった人類がもはや清浄な世界では生きられない…といった衝撃的な展開がありましたが、そういうのを思い出しました。
第5元素としての清浄無垢をめざすこと、あるいはその目標を据えること、これは確かに錬金術の根本ですね。