★そのニ:西安事変★

第14課(2) 西安事変

                                                                                                            • -

日本軍の東北占領後、さらに華北地方へとその邪悪な侵略の魔の手は伸ばされる。
中華民族の存続にかかわる重大なるこの件に関し中国共産党は「全国抗日民族統一戦線」を作り上げることを主張し、国民党政府に対して直ちに内戦の停止し共に日本と戦うように要求した。

国民政府-東北軍司令官「張 学良」と十七路軍司令官「楊 虎城」はこの中国共産党の主張を承諾し紅軍(赤軍)に対しての進攻を停止すると共に「蒋介石」にも同様に共に日本と戦うように幾度と無く呼びかけた。


しかし「蒋介石」は彼らの提案を受け入れ無いばかりでなく、さらに兵力を増強し紅軍を包囲し攻撃を仕掛けたのである。

1936年12月初頭、蒋介石は重要な司令官とその軍を西安に集め、「張 学良」「楊 虎城」らへ陜北の紅軍への進攻のための出兵を命じたのである。

                                                                                                          • -

12月9日、西安の一万人の学生が蒋介石の居る駐屯基地に向け、内戦停止・抗日戦線への協力を求めて大規模なデモ行進をした。
それに対し蒋介石は軍隊を配備し機関銃で迎え撃つ準備をしさらに「張 学良」「楊 虎城」らに武力鎮圧を命じた。
デモを迎え撃つために立った「張 学良」は「我々は国を救うためなら死を恐れない!前進せよ!」と武力を恐れず叫び名ながら進む学生を見、その姿に感銘を受け抗日戦線に参加することを彼らに約束をした。

                                                                                                                • -

12月12日、偉大な愛国者「張 学良」と「楊 虎城」は蒋介石を抗日戦線へ同意させるため彼の身柄を拘束し、「兵諌」を実行した。そして中国全土に内戦停止の通知を出し共に抗日戦線へ参加するよう要求した。これが内外を震撼させた「西安事変」または「双十二」(12月12日)事変と呼ぶ。

                                                                                                                • -

引用;
あの日、張学良の部下、「孫銘九」(孫=こどもへんに小)は兵と共に蒋介石が駐屯する臨潼華清池へ向かい、蒋介石親衛隊の武装を解除した。銃声に目を覚した蒋介石は着る物もまともに着ないまま裏の垣根を越え大きな岩の陰に身を潜めていた。蒋介石の寝室へ侵入した東北軍の兵士たちは蒋介石を探したが、軍服、帽子、入れ歯までそのままであった。布団に手を当てるとまだ暖かく即座に捜索を開始した。日が昇ったころ兵士たちは蒋介石を山の中で捉えた。同時に十七路軍は蒋介石と共に西安入りしていた国民党政府要員の身柄をすべて拘束した。

                                                                                                          • -

西安事変の後全民族の利益を考慮して平和解決を主張し党中央派「周恩来」を調停及び各方面の協力を得る爲に西安に派遣した。

周恩来が提議したものは;必要な物は蒋介石の抗日戦線への協力の同意だけであり、そうすれば彼を釈放する、そして全力で日本の侵略と戦うと言うものであった。
中国共産党の各方面での努力の結果ついに蒋介石に内戦停止、共同抗日戦線の主張を受け入れさせることが出来た。
「張学良」は蒋介石を釈放、そして西安事変は平和的解決を迎えた。
このときまさに十年来の内戦に取り合えず終止符が打たれ「抗日民族統一戦線」の第一歩となった。

                                                                                                        • -

討論しよう!
十年の内戦中、何万人もの共産党員や革命群衆が(国民政府に)殺害されたにもかかわらず西安事変で蒋介石を捕まえた際に、なぜ中国共産党は彼を殺さないと主張をし、平和解決を望み、彼を釈放したのでしょうか?なぜなのかみんなで考えて見ましょう?

@;蒋介石の軍隊は協力で有ったため共産党は殺さなかった・・・?
@;もし彼を殺してしまえば当時の中国は・・・・・

                                                                                                        • -

(())「兵諌」=軍の基本方針、方向性を修正することで西安事変の事を言うようである。その半ばクーデターのような行動の意味

★その一:九一八事変★

第14課 忘れ難き九一八

九一八事変(日本名;満州事変:1931年9月18日勃発

                                                                                                                                      • -

私の家は松花江上流にある。
其処には豊かな森林と石炭がある。

さらに山野を埋め尽くす大豆と高梁もある。

私の家は松花江上流にある。
其処には私の仲間がいる。
さらに年老いた父母もいる。

九一八、九一八

あの悲惨な時から私は家を離れた。
多くの大切な物をおいてきた。

さすらいさすらい、いまだにさすらう。

あの年、あの月、またあの恋しいふるさとに帰ることが出来るだろうか?


あの年、あの月、あの無尽の宝を取り戻せるであろうか?

父よ母よ、ああ父母よ。いつになったらもう一度一緒に暮らせるのか?<<松花江上>>
当時中国のあちこちで歌い継がれた歌である。九一八事変以降すむ所を失い、家を無くした
人々の悲痛を歌った物である。

そして「野蛮な我が国の東北地方侵略」に対して日本への怒りをこめて中国全土で歌われた。

                                                                                                                                                  • -

1931年9月8日夜、瀋陽の北のはずれ、空高く月が上り、星がまたたいていた。

突然大きな音、南満州鉄道柳条湖の一部の鉄道が爆発した。東北の大地の静けさを突き破る・・・
日本軍の陰謀で柳条湖事件が作り上げられた。

中国軍が謀反を起こし鉄道を破壊したという口実を創り中国東北に軍を進め北大営(司令部)攻略し、瀋陽を手に入れる為であった。
九一八事変の勃発である。

引用:日本の計画した柳条湖事件の首謀者の一人、花谷少佐が戦後、回想録の中でその真相を語っている。
「島本大隊・川島中隊の河本末守中尉は鉄道巡視の名目で部下数名を引き連れ柳条湖方面に向かった。
北大営(北司令部)のキャンプを見張らせる一方、部下の一部にはキャンプから800メートル南の場所に配置させた。
ここで河本自ら騎兵の使用する小型爆弾をレールに仕掛け点火した。時間は10時頃である。爆音と共にレールや枕木が四方へ飛び散った。
同時に爆破地点から北4KMで待機していた川島中隊長はすぐさま兵を南下させ北大営への攻撃を開始した」

                                                                                                                                                  • -

九一八事変勃発当時瀋陽に駐在する東北軍に対して日本の侵略者に抵抗するよう呼びかけたが蒋介石が抵抗せぬようにと命令を下した。二日目には日本軍は瀋陽を占領してしまった。

その後引き続き日本軍は東北三省を攻撃し続けた。東北軍10数万人が撤退したった四ヵ月後には東北の百数十万平方メートルに及ぶ野山が全て的の手に落ちた。

全国の人民が蒋介石に対し不抵抗政策に反対の意を表し、(国民党と共産党の)内戦の停止を要求し日寇の侵略に抵抗するよう要求した。
東北に残った東北軍の一部と人民により抗日義勇軍が組織され日本の侵略に抵抗した。中国共産党 楊靖宇 等が遊撃隊を組織し抗日遊撃戦争を展開させた。中国人民の局地的抵抗が始まったのだ。

                                                                                                                                                  • -

しゅう江橋の戦いは九一八事変以来、東北の抗日戦線で日本軍に最も打撃を与えた戦いであった。
馬占 将軍の率いる中国守軍命がけの覚悟で日本軍に血戦を挑み強敵を幾度と無く撃退した。

しかし多くの犠牲を払ったにもかかわらず、まもなくして黒龍江省チチハルが陥落した。
東北陥落後、1932年日本は当に退いた清朝の末代の皇帝 溥儀を長春にて建国した満州国の皇帝に仕立て上げ傀儡政権を作り上げ東北を中国から分離させる企てをしたのである。

日寇の策略の元、三千万の東北の同胞が屈辱的な亡国の生活を強いられた。


*1

*1:*注意1:北大営=中国軍の東北司令部と思われる

*注意2:東北軍蒋介石の率いる国民党の軍隊と思われる

*注意3:教科書の文面で日本の事を幾度と無く「日寇」と呼んでいる。
      

寇=外部から侵入してくる敵。外敵。賊。あだ。かたき。

Kokugo Dai Jiten Dictionary. Shinsou-ban (Revised edition) ゥ Shogakukan 1988.国語大辞典(新装版)ゥ小学館 1988.