まただ

 ありがたいことだ、と喜んだのもつかの間、またブクマコメントを削除された。
 http://d.hatena.ne.jp/toronei/20080427/Mのブクマにていただいた反応の片方は、

http://s04.megalodon.jp/2008-0428-2151-48/b.hatena.ne.jp/entry/http://d.hatena.ne.jp/toronei/20080427/M

http://s03.megalodon.jp/2008-0429-2203-54/b.hatena.ne.jp/entry/http://d.hatena.ne.jp/toronei/20080427/M

と変化し、http://d.hatena.ne.jp/toronei/20080427/Iのブクマにていただいたもう片方の反応も、

http://s03.megalodon.jp/2008-0429-0953-19/b.hatena.ne.jp/entry/http://d.hatena.ne.jp/toronei/20080427/I

http://s02.megalodon.jp/2008-0429-2207-42/b.hatena.ne.jp/entry/http://d.hatena.ne.jp/toronei/20080427/I

と変化した。一体何をやりたいんだろうか。
 「再批判されるような反応をした」という事実そのものを消したいのか。反応を消したところで、事実が消えるわけでもないのに。
 2ちゃんのウォチスレで知った情報によると、ブクマコメントが消えるのと前後して、mixiで私に対する非難を始めているとのこと。
 それが事実だとするのならば、私からの再批判を避けるためには、ある意味合理的な方法だろうとも思える。ただ同時に、http://d.hatena.ne.jp/toronei/20080417/Dで表明した

主張したい事があるのなら、反対される事をおそれて書かないという事だけはしない。

というご自身の主義と矛盾してないかという気もするが。まあ、私の美学的には、「コロコロと言うことが変わり、自家撞着を起こすのは非常にみっともない」というものがあるのだが、toroneiさんにはそのような美学はないのだろう。

ありがたいことである

 またもブクマに反応をいただいた。
 「関わるつもりは一生ない」のではなかったのだろうか、などと野暮なことは言わず、せっかくの機会なのでありがたく応答させていただく。

発端

 今回の発端は、http://d.hatena.ne.jp/toronei/20080427/Iのエントリ。
 toroneiさんが、ぜんじろうさんの現場主義を賞賛し、

 自分がぜんじろうは偉いなあと思うのは、興味の幅が依然として広い事と、こうして現場取材していることなんですよね、現場に行って見てきたい感じたいという欲求が強い、これが世間の人が言うように、例えぜんじろうは元々才能の器が少なかったり、もうそれも枯れてしまったとしても、この部分だけで十分に評価されるべきだと思うんですよね、だっていまの芸人って、ここまで好奇心の幅が広くない人が多いし、絶対に芸人としてこの場にいたら得る物は大きいんですよね、だから見習って欲しいなと思うんですけどね、

とした文章に、私が、http://b.hatena.ne.jp/entry/http://d.hatena.ne.jp/toronei/20080427/Iにて

ぜんじろうさんの現場主義を「偉い」と思うなら、toroneiさんも見習ったらどうですか?安全圏から物を言うだとか、見てもいないのに物を言うだとかをやめて。

とコメントしたというもの。
 そうしたところ、toroneiさんより、

素朴な疑問なんですが、素人でアマチュアで本職があるブロガー風情に何を期待されているんですか? ぜんじろうさんというプロに対して、あなたがそれを僕と比較するのは失礼ですよ

と返答があった、という流れ。

最初に

 最初にちょっと指摘しておきたいのだが、私は「自分(=toroneiさん)は、『安全圏から物を言う』『見てもいないのに物を言う』などの行為はしていない。それなりにきちんとやっている」と反論が来るかと想定していた。しかしtoroneiさんは違っていた。自分が「安全圏から物を言っており、見てもいないのに物を言っている」ことは否定せず(=認めた上で)、「そうなっても仕方ないじゃん」(大意)と回答する。これはなかなかできることではないだろう。

素人でアマチュアで本職があるブロガー風情に何を期待されているんですか?

 さて、本題に入るが、まずは

素人でアマチュアで本職があるブロガー風情に何を期待されているんですか?

の部分について。
 最初に指摘しておくが、何も私は、toroneiさんに「ぜんじろうさんと同程度にやれ」などと言っていない。「そう読んだ」というのなら、毎度の如く想像力の働かせすぎである。私が言っているのは、「ぜんじろうさんを『偉い』と思うのなら、自分なりに見習ってやればいいのに」と言っているだけである。
 また、この文章は、toroneiさんが(これまでと同様に)非情に単純な世界観をお持ちであることが反映されているように思われる。toroneiさんの想定する世界は、「きちんとやらなければいけないプロ」と「別にきちんとやる必要はないアマチュア」とに、きれいに二分されるのだろう。で、toroneiさんは、しばしば何も調べずに(=論じるための準備ゼロの状態で)物を言うことがある。そうした、「ゼロ状態」をも「素人でアマチュアで本職があるブロガー風情」であることをもって正当化するおつもりらしいので(そうしないと、批判を回避できない)、toroneiさんがお持ちの「プロ/アマチュア」をめぐる世界観は、次のようなものになる。すなわち、「100やらないといけないプロ」と「0でもいいアマチュア」。そして、自分は後者に位置するのである、と。
 しかし、ちょっと考えれば

1.「プロ=100」と「アマチュア=0」の2種類しかいないわけではなく、レベルが多様な中間的存在が無数にいる。
2.ゆえに、論じる対象への関わり方も、「プロ的に関わる」「アマチュア的に関わる」の2種類しかないわけではなく、いろいろな関わり方がある。
3.またそもそも同様に、アマチュアであろうとも何だろうと、それなりの物の言い方・それなりの調べ方はある。

といったことは分かるだろう。
 つまり、「アマチュアだから」ということで、ゼロ状態を正当化することなどできない。アマチュアであっても、アマチュアなりの物の言い方や調べ方はある(後述)のである。
 したがって、まとめると次のようになる。
 ぜんじろうさんなみにやればいいのに」などとは私は言っていない。「『偉い』と思うなら、せめてアマチュアなりの水準でやればいいのに」と言っているだけである。

toroneiさんのふるまいは仕方ないのか?

 それでは、toroneiさんの振る舞いは、「アマチュア」であれば仕方がないのだろうか。
 決して「仕方がない」わけではないと思えるので、そう思える根拠を二例あげたい。
 まず、1つめ。「安全圏から物を言う」について。toroneiさんは、長野で行われた聖火リレーに対して、

とにかくこの五輪はは絶対に失敗させなくてはいけない、そしてその象徴として聖火リレー、開会式、閉会式だけでも、特に中国政府が政治利用してくる場所に関しては、とことん張り合わなくてはいけない。どうか長野で行動を起こそうと考えている皆さんには、なるべく犯罪者にならない方向で、しかし国際社会に強くアピールできるようなパフォーマンスを展開してもらいたい。
(略)

こんなバカな事を抜かしている奴ら(長野市職員ら:Body注)に、冷や汗を流させなくては日本人の沽券に関わるよ。なるべくみんな犯罪者にならない方法で、ドカンとやってほしいし、聖火ランナーに決まっている人たち、特に著名人には重大な決意を持って挑んでもらいたいです。

と(http://d.hatena.ne.jp/toronei/20080409/CHINA)書いておられる。
 これにはブクマでも指摘しのだが、

なるべく犯罪者にならない方向で、しかし国際社会に強くアピールできるようなパフォーマンスを展開してもらいたい。

だの

なるべくみんな犯罪者にならない方法で、ドカンとやってほしいし、

だのと言うくらい思い入れが強いのならば、安全圏から人を煽るだけではなく自分も行動を起こせばいいではないか。
 今回の聖火リレーでアピールをした人たちの多くが、「素人でアマチュアで本職がある」人々だっただろう。toroneiさんができないわけではない。
 しかしtoroneiさんは、安全圏から口で「やれやれ」と言うだけで、自ら行動することはない。この一件だけならばまだしも、こうした例(自分は動かず人を煽る)が散見される。たとえば、私がtoroneiさんのことを知った、「ライブに行きもせず、人の感想に基づいて誤解をし、誤解に基づいてライブ関係者を散々非難する」(http://d.hatena.ne.jp/Body/20080415#p1http://d.hatena.ne.jp/toronei/20060228/J)などもまさにそう。過去、サッカーのことでは比較的行動しておられたらしいtoroneiさんに、一体どのような変化があったのか不思議である。


 続いて2つめ。「見てもいないのに物を言う」について。これも枚挙に暇がないが、最も典型的な例は、http://d.hatena.ne.jp/toronei/20050410/Bであろうか。toroneiさんのことを知り、toroneiさんがどういう人なのか、ウォチスレの過去ログとtoroneiさんのブログを参照していたときに知ったものなのだが、以下のような出来事があった。
 toroneiさんは、『クイックジャパン』(確か59号)でお笑い特集がなされていることを知り、以下のように非難を浴びせた。

だいたいサブカル雑誌のお笑い特集なんて本気で読んでる人いるの? あんなんは藤本義一の漫才評論とかと同じというか、まだ藤本義一の方がマシと思うこと多数だと思うんですけどねえ。

あいつらはラーメンズとかバナナマンとか笑い飯とかを、分かったと勘違いしてエリート意識を自己満足させていれば良いんですよ、くだらない。安田大サーカスを真正面から取り上げてから言ってみろってんだ、矢野・兵藤の漫才がどんな形で完成しているか分析してみろちゅうねん

しかし、実際には、安田大サーカスはこの号で取り上げられていた。そのことがコメント欄で指摘をされ(現在はコメント欄が閉じられているが)、先日と同様に(http://d.hatena.ne.jp/Body/20080427#p1)変な方向への訂正文が入れられた、という顛末があった。
 これなどは、実際に『クイックジャパン』を読んでおけば避けられたミスであろう。批判対象を読まずに批判をするという、toroneiさんの悪癖が典型的に表れた例である。これは「素人でアマチュアで本職がある」人間には無理なことであろうか。言うまでもないが、そんなわけはない。『クイックジャパン』は大抵の本屋においてある。誰が・どう取り上げられているかを把握するなど、本を手に取れば誰にでもできることである。
 また、これもやはり、同様の例が多くある。マーティ・フリードマンに関する誤解(というよりもうほとんどデマ)(http://d.hatena.ne.jp/toronei/20080422/AA)も同様である。さらには、ここのところ批判が多くなされている「調べずに物を言う」も同様だろう。少しくらいネットで検索でもしてみればいいのに、それもせずに(あるいはわざわざ間違ったソースに飛びついて)何かを論じるのは、toroneiさんの得意技である。が、これもアマチュアであろうとなんだろうと、クリアできるレベルの水準である。また、私がtoroneiさんのアフィに引っかかっているのもこれと関連していて、どうも実際に目にしていない(だから言及がない)のに、タイトルの関連性だけで掲示されているアフィがある(たとえば、http://d.hatena.ne.jp/toronei/20070120/Eでは、森巣博森達也の本を掲示しているが、これなどはtoroneiさんの思想とまったく相容れない本であるはずだ)。こうした点からも、同様の指摘が導かれる。


 以上より、私は、toroneiさんが「素人でアマチュアで本職がある」人ができる範囲のことすらしていないと判断したわけである。ぜんじろうさんの行動を賞賛しているにもかかわらず、である。したがって、「なら見習えば?」と指摘したのである。

まとめると

 つまり、上を簡単にまとめると次のようになる。
 「素人でアマチュアで本職があるブロガー」であろうとも、できる範囲のことはある。(こんなことを一々言わなければいけないのも大変なことであるが)私は、「プロと同程度にやればいいのに」と言っているわけではなく、「せめて少しでもやればいいのに」と言っているのである。世の中0か100かの2種類しかないわけではない。が、toroneiさんは、「プロ」を100に、自分を0に置き、「何で100しないといけない」と言っている。「せめて(現在0なレベルのこともあるから、各事象に対して)10くらいはできるでしょう。ぜんじろうさんを偉いと思うなら、それくらい見習えば?」というのが、私のブクマコメントの含意するところである。

ぜんじろうさんというプロに対して、あなたがそれを僕と比較するのは失礼ですよ

 以下は余談だが、

ぜんじろうさんというプロに対して、あなたがそれを僕と比較するのは失礼ですよ

ここもものすごい勘違いをしておられる。私はぜんじろうさんとtoroneiさんを比較などしていない。つまり、「ぜんじろうさんと比べてtoroneiさんは」などと言っていない。
 ぜんじろうさんのような「プロ」との比較などしなくても、「素人でアマチュアで本職があるブロガー」の中でも群を抜いて、toroneiさんの非現場主義・調べもせず物を言う主義(これをまとめて反知性主義と言ってもいいかもしれない)は突出しているから。
 これで、ぜんじろうさんを見て、「現場に行かなくても物は言えるのに」と言うのならば(その物言いのおかしさはおいておいて、態度として)一貫しているが、そうではなかった。toroneiさんが、ぜんじろうさんの現場主義を「偉い」とおっしゃっておられたので、「なら見習えば?」と指摘させていただいた。

最後に

 このエントリの最後に、toroneiさんの無責任さを指摘しておきたい。
 toroneiさんの、

素人でアマチュアで本職があるブロガー風情に何を期待されているんですか?

という文章からは、ご自身の言論への責任を回避しようという姿が見える。 
 つまり、「素人でアマチュアで本職があるブロガー風情」の言うことに何かを期待するのは変だ、という主張(で、その反語的表現として疑問文となっている)と読める。
 しかし、上にも書いてきたように、「素人でアマチュアで本職があるブロガー風情」であっても、動きうること・調べうる範囲のことはある。それを、さも「素人でアマチュアで本職があるブロガー風情」は何もできないかのようにして、自らの言論へ責任を取るまいという姿(あるいは自らの言論への批判をかわそうという姿)は、大変みっともない。
 toroneiさんは、ブログ上で、他者を批判・非難することが結構多い。他者に言及する以上(というよりも、論を外部に発信している以上)、言論には責任が発生してくるものなのだが。もう少しこの辺も(正当化とはまた別の方向で)考えてみられたほうがいいのではないだろうか。もちろん、プロの文筆家と同程度の責任とは言わないが、それなりの責任はある。上述したことと繰り返しになっているが、為念。

反応をいただいたので

 またも反応をいただいた。
 しかしこの人の応える/応えないの基準が本当に分からない。
 

発端

 反応をいただく発端となったのは、私が、toroneiさんの(http://d.hatena.ne.jp/toronei/20080427/M)というエントリにおける

そう移転反対の人たちは、いま問題になっている賃料とかについて、全く回答をしていないんですよね、相手の指摘している問題について、何も回答していない以上、この人たちの運動は反対側の意見の人たちには、何も届かないと思います。

僕としても、ワッハの資料館を安価で残す道が出来た方が良いと思うし、正直あの場所で維持するお金や、ワッハホールや小演芸場なんていう民間や市営の施設でも代替えが効く施設を維持するお金があるのなら、「大阪府立国際児童文学館」の維持の方にお金を回して欲しい。

という文章に対して、

相手の指摘している問題について、何も回答していない以上」って、ご自分のことですか

とブクマ(http://b.hatena.ne.jp/entry/http://d.hatena.ne.jp/toronei/20080427/M)にて指摘をさせていただいたもの。
 それに対してtoroneiさんから、

 ↑言われている意味がよく分からないです、僕はあなた方に、なんの要求もお願いもしていませんが? 僕は貴方と関わるつもりは一生ありませんので、貴方の要求に応えないし、私も貴方に何の要求もしていません

とお返事をいただいた、というもの。

言われている意味が分からないとのことなので

 意味が分からないとのことなので、説明をさせていただく。
 toroneiさんは、私が引っかかった「相手の指摘している問題について、何も回答していない以上、この人たちの運動は反対側の意見の人たちには、何も届かないと思います」という問題について、

1.焦点となっていることを、「何らかの(この件では施設移転反対の)要求」に限定している。
2.「相手」を、その「何らかの要求に反対する人間」という限定をかけている。

という前提に立っておられるのだろう。
 別にどのような前提に立とうがそれは自由だが、toroneiさんが施設移転反対派の人に対して、本文で書かれている批判(「相手が指摘していることに何も回答してなければ、説得力がない」(大意))は、上記1、2のような個別特殊事例に限定されることではなく、より一般的な話にも共通するものであると私は考えた。その上で、ブクマコメントを付けた。
 つまり、「要求した者が自分に向けられている批判を無視している」という事態に限定することなく、こうした自体をより抽象的に考えると、

4.ある論aを主張する論者Aがいる。
5.論aには瑕疵があると論者Bから批判bがなされている。
6.しかしAはbに応えようとしない。

という構造が取り出せる。そして、こうした構造は、この件以外の議論にも共通する話であろうということである。
 その共通性を念頭に置いた上で、私は、

7.toroneiさんは上記4〜6の論者Aに該当するような振る舞いをこれまでも何度も繰り返しており、
8.ゆえに、同様の行為をする「移転反対の人たち」に対して、「相手の指摘している問題について、何も回答していない」などと批判するのは「自分を棚上げ」にした振る舞いである

と指摘したわけである。 
 もっと簡単に言うならば、頭の上に蝿がブンブン飛ばしている人間が、頭の上に蚊をブンブン飛ばしている別の人間に、「うわ、蚊なんか飛ばしてやがる」と非難するようなものだ、となるだろうか。「あんたも似たようなものじゃん=人のことを言うなら、まず自分をどうにかしたら」という話にしかならないだろう。
 意味がご理解いただけたであろうか。「自分が何かを要求している人間なのか(移転反対派)」「自分が何かを論じているのか(toroneiさん)」かなどというのは、「蝿」か「蚊」かといった程度の違いしかなく、「何かを要求しておきながら/論じておきながら、自らの要求/論にされている批判を無視して主張だけする」という根本的な構造は全く一緒なのである。

僕はあなた方に、なんの要求もお願いもしていませんが?

 というわけで、この「僕はあなた方に、なんの要求もお願いもしていませんが?」という文章も、完全に齟齬をきたしている。

僕は貴方と関わるつもりは一生ありませんので、貴方の要求に応えないし、

 続いて、「僕は貴方と関わるつもりは一生ありませんので、貴方の要求に応えないし」という文章もなかなかいい。
 「僕は貴方と関わるつもりは一生ありません」と、「貴方=Body」にコミュニケートしようとする矛盾。「今既に関わってるじゃないですか」って指摘が来ることくらい想定しましょうよ。さらに言うと、「私の批判や指摘に応答をして、私から再批判され、逃げる」という過去は(現在もそうだが)どうなったのか(拙ブログ参照)。toroneiさんの「一生」から、私が批判してきた過去、あるいは私の批判から逃げた過去はなかったことにされたのだろうか。この「一生」という単語には「今後の人生」という含意があるだとか、あるいは「自分の一生はまだ始まっていない」といった個性的な思想をお持ちだということならば、まだ理解できるが。ともあれ、言葉はきちんと使われた方がいいのではないだろうか。このような矛盾に満ちた記述を平気でやれるのは興味深い。
 これは若干冗談交じりだが、以下からはちょっと真面目に指摘していく。
 まず、関わるつもりがあろうとなかろうと、ブログのような不特定多数の目に留まる場で何かを論じる以上、toroneiさんの想定しないところから批判や議論が生起することは絶対にあるわけである。したがって、「関わるつもり」の有無が、批判(後述するように「要求」はやってないので知らないが)を抹消することの理由として成立するわけはない。
 さらに、「貴方の要求に応えないし」などとおっしゃって、私がブクマで「要求」をしているように勝手に話を進めているが、それは違う。私がこのブクマで提示しているのは「要求」ではなく、toroneiさんの論にある矛盾等への「指摘」と「批判」である。また、何も発端となったこのブクマに限らず、その他のブクマや拙ブログにおいても、toroneiさんに「主張や決定を変えろ」といった「要求」をしてきたつもりはない。
 もっとも、一度だけ、私がtoroneiさんに「〜してください」と「要求」したことがある。しかしそれは、toroneiさんが私を不当に謗ったため、「それはやめてほしい」としたものである(http://d.hatena.ne.jp/Body/20080414#p1)。つまり、そもそもtoroneiさんが私に対して行った誹謗が発端となって、私の「要求」は提示されているわけである。
 最後に、toroneiさんがやっているのは、「要求(などしていないので、議論や批判と読み変えるが:Body注)に応えない」などという行為ではなく、自分への懐疑的な議論や批判をなかったことにする=抹消するという、言論封殺に近い行為ではないか。このような行為が、「関わるつもり」の有無で正当化されるわけもないのは、言うまでもないだろう。批判に応えず逃げるくらいならともかく、批判的トラバをはじき、そうでありながら別の場でちょこちょこと*1自己正当化を図り議論の相手を非難するようなやり方を取っておきながら、こういうことを言うのは不誠実もいいところである。
 したがって、

僕は貴方と関わるつもりは一生ありませんので、貴方の要求に応えないし

などというのは、過去から現在に至るやり取りを無視した、非常に自分勝手な逃げと自己正当化だと指摘しておきたい。

最後に

 どうでもいいが、

僕はあなた方に、なんの要求もお願いもしていませんが? (略)私も貴方に何の要求もしていません。

などと、同じことを何度も繰り返すくらいの文字数的・時間的な余裕があるのなら、もう少し建設的なことを書かれたらどうか(これは提案)。
 また、もう1つ。「あなた方」って、私は1人ですよ?誰と会話をしているのですか(卓越した「想像力」で、私の背後に誰かを見られても困ります)。

*1:2ちゃんのウォチスレ経由で知ったが、Twitterなどで。

何か妙なことを書いておられる

toroneiさんの訂正文

 2ちゃんのtoroneiさんウォチスレで、本村さんのエントリ(http://d.hatena.ne.jp/toronei/20080422/F)に何か追記がなされているとの指摘がされる。
 そこで見てみたところ、以下のように訂正が入っていた。

誤解を恐れずに言えば田舎の高卒(一部のソースだけで書いていましたが、大卒ですね失礼、というか当日に訂正コメント書いたはずなのに投稿きちんとしていなかったようでスミマセンその日に直したというか、訂正文入れたつもりだったのに不思議、でもまあ色々と釣れたと思うべきなのかな、釣りたくもないんだけど)の一介のサラリーマンが、

強調部分が追記された部分。強調は私が行った。
 とことん逃げようとする人だと感じさせられた。
 

訂正文も変である。

 しかし、この訂正文も変であろう。
 まず、多くの人が反応したのは、訂正が出されたこの部分だけではないだろう。反応(それも批判的な)が出ていたのは、この間違い部分に代表される、

1.きちんと調べていないこと*1
2.にもかかわらず何かを語ろうとする無責任さ
3.事件や他人にかこつけて自己主張をするひどさ

だったのではないだろうか。
 また、「釣れたと思うべきなのか」と感じるのは勝手だが、それをわざわざ訂正文に入れる了見にもあきれる。toroneiさんは、「想像力」の重要性を説いていたのではなかったか。人が殺された重大な事件に関して何かを論じようとし、誤認の訂正ついでに「釣れた」などと表現することが、当事者にどのような思いを抱かせるか。(当事者の意思を、勝手かつ過剰に忖度して行為を制限するべきではないと個人的には思うが)toroneiさん的な「想像力」が欠けているのであろう私ですら、気持ちが悪くなる。何が「想像力」だ。
 最後にもう1つ。多くの反応が出た中で、しかも一度は「一存では紹介できない」などとわけの分からない逃げを打っておきながら、なぜこの一部分だけ反応し訂正しようとするのか。(toroneiさんが最近乱用する言葉を流用させてもらうなら)toroneiさんの記事に対してなされていた批判の「本質」はそこではないだろう。
 「自分が何を言われているのか理解して」というのは、もしかしたらtoroneiさんには過大な要求なのかもしれない。しかし、せめて「自分が何を書いているのか(自分の文章が結果として何を言っているのか)」くらいは理解してほしいものである。

*1:しかし、一部のソースだけで何か書くって、「メディアリテ“ア”ラシー」的にはどうなのか。

光市の事件について

 toroneiさんの書かれた、http://d.hatena.ne.jp/toronei/20080422/Fにブクマを付けてコメントしたところ、http://d.hatena.ne.jp/toronei/20080423/Oという新しい日記で

前回の件へのブクマのネガティヴ反応については、色々と面白い意見を貰ったけど、さすがにそれを自分の一存では紹介できないので、その人たちがブログエントリーなどにしてくれるの待ちます(笑)。

と書かれたため、ここを使って、再度指摘をしていこうかと思う。もしかしたら、私の意見は「面白い意見」の中に含まれないのかもしれないが、「面白い意見」の内実が示されていないため、私のものも含まれている可能性が排除できず、「そうおっしゃるなら」と思ってここを使う次第である。

最初に断り書き

 最初に以下のことを断っておく。

1.事件に対する判断そのもの(判決は正しかったのか、そうでなかったのか)を争う気はない。
2.私個人としては、今回出された判決は理解できる(と言うよりも、「そうだろう」という感想を持った)。
3.弁護団の弁護には、信じがたい部分はある(ただし、だからと言ってしてはいけない弁護とはならないと考えるし、被告が望んでいるのならば、ああした弁護を取ることもありうるだろうと思う)。
4.問題としたいのは、裁判や判決に対するtoroneiさんの理解のしかたであったり、裁判や判決の背後にある世界へのtoroneiさんの解釈の部分である。

 以下からは、ブクマコメントで分けた項目それぞれについて補足を行う。

1.本村さんは「田舎の高卒」ではなかったはず

 toroneiさんは、本村さんを以下のような人間と見なしている。

 おそらく国立大とか出てる可能性が高い、アサヒの女がこの程度の見識で、田舎の一青年がここまで渡り合える、というか完全に勝っているんだから、立派と言うしかないです。

 本村さんは、本当によく頑張ったと思います、誤解を恐れずに言えば田舎の高卒の一介のサラリーマンが、日本のトップクラスの法曹界の人間はもちろん、マスコミ人、知識人などとこの九年間渡り合ってきたのは、どれだけ大変な事であり、それらの壁を突破するというのが、どれだけ困難な事であり、決して「愚鈍な大衆を上手く煽って、感情的に流れるようにし向けた」なんて単純な事ではない。

 まとめると、

1.本村さんは、「田舎の一青年」「田舎の高卒の一介のサラリーマン」である。
2.「法曹界の人間」「マスコミ人」「知識人」と渡り合うことは「大変」「壁を突破する」のが「困難」とされていることから、本村さんはこれらの人々に知識の面で引けをとっても仕方がない。
3.しかし、そうした部分を突破して努力した人。

とtoroneiさんは解釈していると理解できる。
 しかしこれは、1については単純に誤っている。http://www.shinchosha.co.jp/writer/3016/に明らかなように、本村さんは広島大学(国立です)出身。高学歴の部類に入るだろう。
 したがって、前提となる1が誤っているため、2や3も成立が難しくなる。「知識の面で引けをとっても仕方がない人」と位置づけられていた本村さんが、(むしろ本村さんと対比されていた)「国立大とか出てる」側に位置を移してしまうためである。
 なお、toroneiさんは、こうした論法を見て、「学歴で知識・知性を判断するなんて差別的だ」と言うかもしれない。誤解してほしくないが、学歴(あるいは出身地・職業)で「知」の量を測っているのは、toroneiさんである。それは、「『田舎の高卒の一介のサラリーマン』であるにもかかわらず『国立大とか出てる可能性が高い』相手と渡り合えることは立派である」と論じていることからうかがえる。この論の背景には、「本来なら負けても仕方がない」という前提があることが明らかであろう。私は、toroneiさんのこうした論法に乗っかっているにすぎない(この論法自体のおかしさは後に述べる)。以前、似たようなことで、こちらに「差別者」のレッテル貼りをされたことがあるので(http://d.hatena.ne.jp/Body/20080414#p1)、注記しておく。

知識をひけらかす以前に、調べもせず適当に語ることの方が問題。

 2点目に移る。
 toroneiさんは、

想像力の欠如を持って知をひけらかして被害者家族を苦しめている姿は、許せないという感情がありました。

と語り、(具体像が誰なのか不明だが)「想像力を持たずに『知をひけらかして被害者家族を苦しめている』」相手を非難している。
ということは、「toroneiさん自身はこうした人間に該当しない立場である(だから非難することができる)」と考えられる。これについては、後で触れる。
さて、話を戻して、上で引用したtoroneiさんの文章を見ると、「想像力の有無」と「知の有無」という別個の要素が組み合わせられ、「許せない」相手が提示されていることが分かる。ここで試しに、「想像力の有無」「知の有無」を用いて、4つの類型を作ってみる。すると以下のようになる。

第1類型:想像力あり―知識あり
第2類型:想像力あり―知識なし
第3類型:想像力なし―知識あり
第4類型:想像力なし―知識なし

 つまり、toroneiさんが非難しているのは、第3の類型に該当するような人間であることが分かる。
 ここで気になるのが、「それでは、toroneiさんは、第3類型に位置する人を非難することができるのか?」ということであろう。
 結論から言えば、私は、toroneiさんの依拠する立場の方がより問題のあるものであると考える。
 上の4つの類型を、許容できる順に並べると、最も求められるべき立場は第1類型、次に(ここは順序が人によって変わるかもしれないが)第2類型と第3類型が来て、最も許容できないものとして第4類型が来る、というものになる。
 自分自身ができていないくせに他人を非難すると、「お前が言うな」となるので、第3類型を非難できるtoroneiさんは、第1もしくは第2類型に位置しているということなのだろう。
 しかし、toroneiさんが第1類型に位置しないということは、きちんと調べもせずに本村さんを「田舎の高卒の一介のサラリーマン」などと誤認している点から判断できる。この方に知識はない。
 また、第2類型に位置するかどうかというのも――「知識」とは違って「想像力」は判断が難しいが――個人的には難しいと思われる。なぜならば、自分がきちんと知りもしない・調べてもいない・指摘されても直しもしない(3つ目は問題の時制がずれるが)ような人(=toroneiさん)に、本村さんに対する(あるいは事件に対する)「想像力」があると言えるだろうか。「きちんと調べた上で語るのでなければ、かえって対象を傷つけるかもしれない」というのが、私が持つ想像力である。こうした点から、toroneiさんが第2類型に位置するとは――真っ当な「想像力」をお持ちだとは――、個人的には思えない。
 第3類型に属しているわけがないことは、言うまでもない。今回非難対象とされているのがこの第3類型であるがため、toroneiさんがこの類型に属していたら、「自分で自分を非難する」というわけの分からないことになる。そんなことは、論理的にありえない。また、toroneiさんに知識がないことは既に述べたため、ここに位置するわけはない。
 そこで残ったものが第4類型である。先に、toroneiさんには知識がないこと、また個人的には真っ当な想像力もないと考えられることを述べているので、この類型に位置することは既に明らかとなっているのだが、消去法を用いても、「toroneiさんは第4類型に位置する」と言える。
 となれば、toroneiさんは、より問題のある立場から、「自分よりはまだまし」な人間に対して非難を行っていたということが言える。きちんと調べもせず、事件の被害者家族についてどうこう述べ、後述するように自論の補強として用いるなど、真っ当な「想像力」を持っている人間にできるわけもない。つまり、toroneiさんは、真っ当な「想像力」も知識も欠如した自分を棚にあげ、「知識はあるが想像力が欠如している人間」を非難しているのである。それは、たとえると、強盗犯が、万引きした人間を非難するようなものである。「あんたの方が、もっとひどいじゃないか」と言われるのは当然であろう。
 これが、ブクマコメントの含意するところである。

自分語りが紛れ込んでいるが、牽強付会では。

 これについては、以下の流れを引用すれば分かりやすいのではないかと思う。

 でもこの人はおそらく人一人を自分が死刑に追い込んだ事を一生背負っていく、でもそういう人だから世間は彼を後押ししたし、感情だけではない部分で、司法や世間を動かすことが出来るだけの、冷静な合理性もそこにはあった。だから裁判を「世間の感情が裁判の結果を左右する」なんて、したり顔で批判している奴は物事の本質を全然見れていない。
 僕はこのブログを始めてから、一つだけ仮想敵にしている集団がいて、それは「知識だけを武器に攻撃してくる想像力に欠けた連中」であり、言葉を変えると「大衆を馬鹿にしているインテリ」ということになるんでしょうか? 僕はそういう連中が感情とかまた違う、想像力の欠如を持って知をひけらかして被害者家族を苦しめている姿は、許せないという感情がありました。
 そんな中で本村さんは、本当によく頑張ったと思います、誤解を恐れずに言えば田舎の高卒の一介のサラリーマンが、日本のトップクラスの法曹界の人間はもちろん、マスコミ人、知識人などとこの九年間渡り合ってきたのは、どれだけ大変な事であり、それらの壁を突破するというのが、どれだけ困難な事であり、決して「愚鈍な大衆を上手く煽って、感情的に流れるようにし向けた」なんて単純な事ではない。それは全く物事の本質を見つける事も、想像力も働かす事も出来ていない。

このように、引用文は3つの段落から構成されている。
 第1段落は、本村さんが冷静であり死刑判決を受け止めるであろうこと、(誰だか分からないが)「『世間の感情が裁判の結果を左右する』と批判する奴」への批判、そうした人間は(何だか分からないが)「物事の本質」が分かっていない(逆に言うと自分はわかっている)、という3パート。
 第2段落は、唐突にtoroneiさん自身のブログにおける「仮想敵」が述べられ、それは先の類型で言うと第3類型に当てはまる人間であり、言い換えると(想像力なし―知識ありだったものが)「大衆を馬鹿にしているインテリ」であることが述べられる。(そこから話が変わり、仮想敵の話だったのに)こうした「仮想敵」に該当するような人(誰だか分からないが)が被害者家族を苦しめている姿は許せないと思っていたと述べられている。
 第3段落は、第2段落を受けて(「そんな中」)、toroneiさんが「仮想敵」とした相手と同様の相手に本村さんが頑張って渡り合ってきたこと、それが「田舎の高卒の一介のサラリーマン」である本村さんにとって、とても困難なことであることが指摘される。その上でどう関係するのか分からないが)この話は、「愚鈍な大衆を上手く煽って(略)」といった話ではなく、それはやはり(何だか分からないが)本質の把握にも、想像力を働かすこともできていないと結論付ける。
 要するに、

この判決は感情で決定されたものではない。そんなこと言う奴は本質がわかっていない(自分はわかっている)

自分は想像力に欠けたインテリを仮想敵としてこのブログで戦ってきた

本村さんも同じ敵と戦ったんだよね(想像力作動)

高卒である本村さんには大変だったろう(想像力作動)

だから、「煽られてる」なんて論は本質的に間違ってる。

という流れである。
 「toroneiさんと本村さんの『敵』は同じである」、「本村さんは非情に冷静に合理的に頑張って戦ってきていてそれが成功した」、「これを認められない奴は本質が分かっていない」という3つのことが述べられているとまとめられる。toroneiさんと本村さんの「敵」が同じであるかどうかなど、根拠も何もないのだが、そこは「想像力」によって補っているのだろう*1
 しかし、こうした論法が、どういった機能を帯びるか、toroneiさんは自覚しておられるのだろうか(自覚しててやっているのならなお悪いが)。本村さんの戦いが実を結んだことで本村さんの戦いの正当性が成立した(と思われている)今、toroneiさんと本村さんの「敵」が同じであると述べること(簡単に言うなら「僕もあなたと同じ奴と戦っているんですよ」とすること)は、自分の位置や言論を無根拠に「正しいこと」としてしまうことになる。
 ,strong>要するに、自覚があろうとなかろうと(自覚しててやっているのならなお悪いが)、本村さんの戦いを引きながら、自分の「仮想敵」との戦いを正当化しようという構図になっている。これを指して「牽強付会」としたのである。
 なお、個人的には、長い戦いを経てようやくひと段落した人(しかも、ひと段落しても、救済されるわけでもない)に寄っていって、「僕も同じ敵を『仮想敵』にしています」とする文章を書く人間に真っ当な「想像力」があるとは、やはり思えない。

論の図式が単純すぎ。

 最後である。
 ここまで、toroneiさんが、「本村さん=知識人ではない人」と位置づけ、本村さんのやり方や判決を批判する人々を「想像力を欠いた知識人」と位置づけてきたことを見た。
 しかしことはそう単純ではない。ここまでは、この構図に乗っかって私も批判してきたが、この構図そのものがおかしい。
 まず、「本村さんが知識人ではない」という論が、おかしい。学歴(それも誤認した)によって本村さんを「知識人ではない人」と位置づけておられるようだが、学歴で知識や知性は図れない。理想論ではなく、中卒だろうが高卒だろうが、学校とは別の場で身につけられる知識や知性もあり、そのことによって「知識人」となる人も存在する。本村さんは、裁判や弁護に関する知識をそもそも持たない人であったろうが、経験を通して知識を身につけていったと捉えるべきであろう。同様に、「田舎」出身であろうと、「サラリーマン」であろうと、自らが暮らしてきた経験の内から「知」を形成することは可能だし、そうした「知」をもって「知識人」(とtoroneiさんが位置づける人々)と議論することは可能である。
 また、(実体が不明なので困るのだが)本村さんのやり方や判決を批判する人々(あるいは、弁護活動を擁護する人)を「想像力を欠いた知識人」と位置づけるのはおかしい。toroneiさんは、ご自身が持っていると思い込まれている「想像(妄想)力」のみが、「想像力」だと思われているのかもしれないが、世の中には想像力は(それこそ妄想や空想のレベルまで)無数にある。どういった方向に、どう想像を向けるかという意味において「無数」と述べていると理解してほしい。つまり、世の中に「想像力」を持たない人はいない。
 こう考えると、なぜtoroneiさんは、特定の人々を「想像力を欠いた」と位置づけられるのだろうか。このようなことを述べるからには、「この点で、誰に対する、どのような想像力を欠いている」と指摘しなければいけないはずなのだが、それをしない。要するにtoroneiさんは、自分の意に沿わない「想像力」の持ち主を、「想像力を欠いている」と非難しているだけなのである。きちんと書くならば「自分と同じ想像力を欠いている」ということになろう。しかしそれならば、「そりゃそうだろう」「何であなたと同じ想像力を持つ必要があるのか」という反論が返ってくる。したがって、本来ならば「なぜ自分の(良いと思う)『想像力』が良いのか」「対する相手の『想像力』がダメなのか」を論じなければならないが、それはされていない。
 以上のように、toroneiさんの論法においては、人々の位置づけや対比が単純すぎるし、人々の論を批判する時の論理性や根拠が全くないのである。

書けなかったこと

 最後に、字数の関係でブクマにはかけなかったことを箇条書きで。

  • (既にブクマで指摘されているが)「卑劣なやり方」の弁護とは一体何か。何をもって判断したのか。
  • 弁護を受ける権利を認めておきながら、特定の形の弁護を「正しくなかった」「卑劣」と排除する根拠は何か。今回の弁護も、荒唐無稽であったにせよ、それが取りうる方法として限られたものの一つ(あるいは弁護団の良心の表れ)であったことは、多く指摘されているし、今枝弁護士らも認めるところである。その「戦術」や「良心」が自分に合うかどうかという論点はあるにせよ、特定の形の弁護を「正しくなかった」と否定することはできないだろう。この点についても、知らないことを知っているかのように語る姿勢が現れている。

おわりに

 以上である。ご要望に応えて、エントリーで指摘をさせていただいたので、応答をお待ちしたい。

*1:余談だが、根拠のなく人と自分の立場を同一視するような「想像」は、「想像」ではなく、通常は「妄想」と呼ぶ。

今回もやられた

 toroneiさんが、またもブクマコメントを削除された。http://d.hatena.ne.jp/Body/20080414#p2にて触れた

感情だけで物を言ってはいけないの? あと自分の感情=庶民感情、何が間違い? 「庶民を代表して」と言っているのならともかく(笑) 多くの反応はその通り、でもあえて言わなきゃと思った、こういう声はあるとね。

というものだが。
 ご自分の反論自体をなかったことにしようという意図が、よく分からない。ご自分で「この反論は、ずれている」と気付かれたのだろうか。しかしそうであるならば、また違った反応をする方が(たとえば拙ブログにてコメントをする等)まだ理解できるのだが。