「セロリを投げないで」英チェルシーがファンに呼び掛け(ロイター)
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20070318-00000620-reu-ent
サッカーのイングランド・プレミアシップ、チェルシーは16日、試合中にセロリを投げないようサポーターに求めた。観戦中のスタジアムでセロリを投げるのは犯罪行為だとしている。
なぜにセロリ限定?(笑)
「セロリを投げないで下さぁーい、セロリを、セロリ・・・セロうわっ、こ、こらっ! セロリを投げるなぁーッ!」
すいません、思わずこんな場面を想像してしまって、ニヤニヤしております。
それはそうと、これじゃあまるで、ニンジンなら良いかのよう――って、まあさすがにそんなことは無いでしょうが(当たり前)・・・
チェルシーは「サッカーの試合でセロリを含む何かを投げることは逮捕の可能性もある犯罪行為です」と警告。さらに「今後、スタンフォードブリッジ(ホームスタジアム)にセロリを持ち込もうとする人は入場拒否される可能性があります」としている。
・・・でもやっぱり、単に「物を投げ込むこと」じゃなくて飽くまでも「セロリを含む何かを投げること」(笑)
それに、セロリを持ち込もうとしたら入場拒否ってことは――やっぱりニンジンだったら良いんじゃん! ニンジンの方が当たったら痛いと思うぞ。それなのに飽くまでセロリなのはなぜ? ・・・あ、そうか、むしろ当たっても痛くないように、ニンジンじゃなくてセロリなのか――って納得できるかっ! 当たっても痛くないものという限定を付けたって、やっぱりセロリである必然性はないはずです。もしかして、セロリはみんなの嫌われ者だから? 当たっても痛くないけど嫌がらせには最適ってこと? そうか、だから、「食べ物を粗末にしないように」なんていう普通ならするであろう呼びかけはしないで、いきなり「犯罪行為」なのか。
ちなみにセロリ、もちろん(?)僕も嫌いです。でもちょっぴり、セロリに同情してしまいそうです・・・。
AP BANG! 東京環境会議 vol.1 (Day 2)
http://creators.apbank-ecoreso.jp/
ちょうど前回、鬼束ちひろ復活のニュースで更新がストップしていて、良いキッカケなので、(一旦)再開です。
前回の更新後、「東京環境会議」なる堅っ苦しげなタイトルのイベントに彼女の出演が決定したことを知り、急遽チケットを取って行って来ました。会場は新木場のSTUDIO COAST――マイケル・ジャクソンが例の40万円イベントを開いた所です。
僕が行ったのは3Daysの内の2日目で、出演者は、オープニング・アクトの銀杏BOYZを筆頭に、KREVA、AIR、絢香、鬼束ちひろ、倖田來未、CHARA(順番は一部うろ覚え・・・)といった豪華メンバー。それぞれがだいたい3曲くらいづつなんだけど、オール・スタンディングだったので、正直腰に来ました・・・。全メンバーのパフォーマンスの感想を書いているとまたイヤになっちゃいそうなので、鬼束パートだけ。
小林武史の紹介で登場した彼女は、会場からの声援(「おかえりー!」、「復活おめでとう!」、「待ってたよー!」)を受けてもニコリともしなかったんですが、そこへいきなり「月光」の前奏です。ピアノはもちろん、(新プロデューサーの)小林氏。会場の興奮は一気に高まります! しかし・・・ああ何ということでしょう。久々のステージだからかどうかは分からないけど、肝心の出だしからいきなり音程を外してしまいました・・・。しかも声もあまり出ておらず、むしろ上擦っている気さえして、基本的に何だか妙に歌いづらそうでした。敢えて厳しいことを言ってしまえば、そう、まるで彼女の「ものまね」をする人が歌っているかのような・・・。しばらくはそんな感じが続いたものの、後半になるとようやく、若干ではあるけど、彼女なりに感覚を取り戻して来たような印象を受けました。ただそれでも、往年の迫力はさすがにまだ戻って来ていなかったかな・・・。それから新曲(!)を2曲続けて。タイトルは不明です、CD発売(発表)を待ちましょう*1。だって、結局MCは一切ナシだったから・・・。最後、ちょっとよろめいた後に思わず苦笑いするような表情を浮かべて、片手を下の方で振りながら足早に舞台裏へと去って行きました。相変わらずと言ってしまえば相変わらずなんだけど、そこはやっぱり、復活を待ちわびていたファンに向けて一言くらいあっても良かったのでは?
以上、まだ色んな意味で「完全復活」とまでは言えない感じではありましたが、取り敢えずは、現に公のライブイベントに出演できるようになったという状況自体を喜ぶべきでしょうか。
*1:追記:あ、『ROCKIN'ON JAPAN』ですでに新曲名って発表されていたんですね、知らなかった・・・。
「鬼束ちひろ、約2年半ぶりに復活」(スポーツ報知)
http://hochi.yomiuri.co.jp/entertainment/news/20070221-OHT1T00039.htm
おお、待ちに待ってたこのニュース、ようやく聞くことができました!
ただ・・・
初夏までにシングル、その後アルバムを発売予定。
これは確かに(充分過ぎるほど)嬉しいんだけど、
小林武史氏(47)がプロデュースする。
これは、果たしてどう転ぶことになるやら・・・。彼の(人間性うんぬんは抜きにして)プロデューサーとしての実力(客観的な実績)には抜きん出たものがあることは確かだろうけど、だからこそ逆に、彼の「力」が彼女に及ぼす影響の程が心配。是非とも良い方に出てくれることを願うばかり・・・。
いずれにせよ、今はただ、彼女の再復活を純粋に喜ぶことにします。
「永遠の抱擁」、5000年前の男女か=イタリア発掘調査(ロイター)
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20070207-00000154-reu-ent&kz=ent
野暮な僕でもさすがにグッと来てしまいました。若くして亡くなった(と見られる)5、6千年前の男女が、抱き合ったまま埋葬された形で発掘されたとのこと。ポンペイの場合とは違って、この場合は飽くまでも「埋葬」(文字通り「第三者」の意図が介在)という所がポイントですね。
2人は心中したのか、あるいは、どちら一方が何らかの理由ないし原因で死んでしまった後を他方が追ったのか、はたまた二人は実は兄妹ないし姉弟なのか――いずれにせよ、そんな2人のためにこんな形での埋葬をしてあげた(新石器時代の!)人たちの思いが数千年の時を経て僕らに伝わって来るようで、(男女の思いそれ自体よりもむしろ)そっちの方がちょっと感動的です。そして、それは結局、埋葬した人たちの思想的にもかなり高度なものがあったことになるのかもしれないと考えると、いわば二重の感動(人情レベル+学術レベルでの)が味わえたりするかも。
ただもちろん、これからの調査・研究の結果、こうした推測がことごとく見当ハズレであることが判明する可能性だったあるわけですけどね・・・・・・。
いずれにせよ、柄刀一あたりが題材にしてくれても良いかもしれない、そんな古代ロマンでした。
『どろろ』
「ファースト・デイ」を利用して鑑賞。「日本映画の歴史が変わる!」だなんて全く思わなかったけど、千円なら、「妖怪退治の末の、父親との対決」というごく典型的なストーリーものの伝奇映画としてはさほど文句もなく。とはいえ、特に他人様にお奨めしたくなるほど満足出来たわけでも無いのが何とも悩ましい。
全体の印象としては、残念ながらこの作品もまた、他の「超大作」邦画同様、スケール感が希薄。どんなに大金をかけようと、ニュージーランドでロケをしようと、CGを駆使しようと、そこはやっぱり「島国根性」ならぬ「島国気質」が出てしまうんだろうか? また、原作漫画は未読だけど、このなかなかハードな(?)設定は恐らくちゃんと原作の流れを汲んでいるんだろうとは察っせられるものの、やっぱりどうも、そこんところの活かし方や詰め方が甘いと言うか何と言うか・・・・・・。ラスト、この映画の一番の見所であるはずの百鬼丸と父親との対決が、それまでの妖怪たちとの対決と比べても一番地味っていうのは、あれはもしかして「わざと」なんだろうか(まあ、相手=父親が一応人間だから、仕方が無いと言えば仕方が無いのかもしれないけど・・・・・・)? 「残り二十四体」と出たように、やっぱり本当のクライマックスは続編に持って来るつもりだったりするのかな(もしそうなら、この映画だけの観客には失礼だけど・・・・・・)? ただいずれにせよ、その父親の心の変化があまりにも唐突過ぎで、そこがまた、この映画の「物語」としての弱さになってしまっている気がする。要するに、映像的にも物語的にも、この種の映画に必須だと思われる何らかのカタストロフィが無いのが最大の欠点か。
ただ、ミスチルのエンディング・テーマはさすがに格好良かった。
京極夏彦『邪魅の雫 大磯・平塚地域限定特装版 (講談社ノベルス)』(講談社ノベルス)
榎木津の縁談相手が破談の申し入れをして来たことと、その相手の妹が大磯で変死体で見つかったこととの間の関係は? その他にも、大磯や平塚ではいくつもの殺人事件が発生。それらは「連続」なのか「非連続」なのか、それとも――。「雫」によってもたらされる、幾人もの人々それぞれの「世界」における「出来事」と「変化」が、交錯し、すれ違う。そして最後に、例によって京極堂がそれらを重ね合わせた時、見えて来る「世界」とは・・・・・・?
ようやく読了。いやあ長かった。いや、ページ数はいつものことだから良いんだけど、それより何より、読了までの期間が(三ヶ月半!)。文字通りチビチビ読み進めてはしばらく中断し、ということを繰り返し、一体物語の中で何が進行しているのかを見失いつつも、何とかこの日を迎えることが出来ました。なぜかいつも以上に、妙な感慨があります。読了後、「何が進行しているのか」が分からなくなったのは決して僕自身の記憶力や読解力(だけ)の問題ではなく、ちゃんと理由があったことが判明して、ちょっとホッとしました。以前にあった某事件(シリーズ中の某作品)の構造との対比が作中でも何度か為されているように、それこそが正に今回の作品のポイントだったわけですね。その某作品はともかく、少なくとも前作『陰摩羅鬼の瑕(おんもらきのきず) (講談社ノベルス)』(の関連箇所)だけはパラパラと読み直しておいた方が仄かに良かったかも・・・・・・。
毎度お馴染み京極堂による憑き物落とし、今回のその要素の一部についてはこうまとめられるでしょう――世界とは自分の世界であり自分が死ねば世界は終わるという、いわば「独我論的気分」とでも言うべきものを否定し、そうした気分を持つ人物に対して、自らはそうした「世界の淵」としての「形而上学的主体」ではなく飽くまでも「世界の構成要素」としての「人間主体」に過ぎないんだということを気づかせる。もちろんこのまとめ方にはあるバイアスがかかってはいるけど、こうした「気分」ていうのはやっぱり、いわば純粋な「議論」によってではなく「憑き物落とし」によってしか(どちらも「言葉」によるものであることに変わりは無いけど)拭い去れないものなのかなあと、漠然と思ってみたり。
原倫太郎/原游 『匂いをかがれる かぐや姫 ~日本昔話 Remix~』(マガジンハウス)
「一寸法師」、「かぐや姫」、「桃太郎」といった誰もが知ってる昔話を、複数の翻訳ソフトにかけて英語に変換、さらにまた日本語に変換してみたら、誰も知らない、読んだことの無い、とてつもなくシュールな世界が広がっていた!
本屋で見つけたら、とりあえず一度立ち読みしてみて下さい。絶対すぐさま恥ずかしくなって本を閉じちゃって、でもやっぱり続きが読みたくなるから速攻でレジに持って行ってしまうはず――そう、もうとにかく吹き出し放題なほど面白過ぎるんです! これだけ薄くてこれだけ立ち読みを阻む本も珍しいです。
『匂いをかがれる かぐや姫』というタイトルの由来はもちろん、「かぐや姫」が、"As soon as it smelled, princess"→「匂いをかがれるとすぐに、プリンセス」と変換・変換されることから。ちなみに、「桃太郎」は「桃タロイモ」、「一寸法師」は、これがまた傑作で、「少量法律助言者」。
本文からもいくつか紹介したいんだけど、あんまり長いと色々問題でしょうから、各話から一箇所ずつ。その前の状況説明からして意味不明でしょうが、それもまた本文通りなので悪しからず。また、拡大フォント部分も原文のままです。
- 「少量法律助言者」より。
プリンセスを突然説明して攻撃する2人のオバケに向かって言う、少量法律助言者のセリフ――
「失礼なオバケ、この少量法律助言者がパートナーである、気構えマージン!」
どんな効果がある呪文ですか、それ? ちなみに「気構えマージン」って、どことなく、森博嗣が使ってもおかしくなさそうな言葉の組み合わせのような気がします。
- 「匂いをかがれるとすぐに、プリンセス」より。
ラスト、もうとにかく説明しようもないほどトンデモなくスットンキョーな状況で、匂いをかがれるとすぐに、プリンセスが言うセリフ――
「おじいちゃん、おばあちゃん、忘れないライフタイム、この好意。無期限にさようなら。エネルギッシュ・・・」
別れの言葉がなぜか歌詞調で、何より最後の「エネルギッシュ・・・」がダメ押し。「エネルギッシュ」という言葉がこれほど切なくフェードアウトしていくセリフないし歌詞は見たことがありません。思わず、食べていたお菓子を吹き出しました。
- 「桃タロイモ」より。
桃タロイモによってピンで留められた後の怪物のチーフのセリフ――。
「ちょっと人生に関しては、ヘルプ」
もう、これで1分間笑い転げました。こんな命乞い聞いたことありません。史上最も軽薄な命乞いです。実際にこんな命乞いされたら、殺す気がなくても「殺しても良いかな」と思ってしまいそうです。正に、殺意を呼び起こす命乞い。
原游氏の挿し絵も本文に負けず劣らずの「味」とシュールさで、本文を引き立てています。