妥当な点は感覚に依存するよね

上手く言葉に出来ないんだけど書く。
例えば自分が主張したいことを述べるとき、ポジションを明確にすると思う。私は「こう思う」と、言葉に表すと(実際はつらづら説明するんだけど)一言に集約されることになる。でもその時に本当ははっきりと自分の主張に織り込めない、対極の考え方とのもやもやした境目があることがあるし、よくよく考えるとそういう事は結構あるものな気がする。
逆に、主張を分かりやすくするために単純な問題にして語ったけど、本当は、どちらかといえばこっち、とか、ここまで極端な話じゃないとか、十把一絡げにすんなと思ったりするわけですよ。
それでも意見が対立したときは、いきなり着地点を見つけることはないから、大抵はその境目を天秤にかけたり、優先度を振ることで綱引きをしたり、あえて互いを極論にしてぶつかりあったりするし、まぁ議論とか対話ってそんなもんだとは思ったりする。
ただ、稀に、本来は分かりやすさのために単純化・極論化したのに、主張がそのまま極端な方にシフトすることがある気がする。または相手に極論化されて引き摺られて、本当は妥協点を探るのが目的だったのにいつの間にか主張がガチンコでぶつかって、外から見たらどっちもどっちみたいな扱いをされたり。
これは会話でも文章でもよくあることなんだろうけど、なんとなく文章のほうがよく起こる気がする。なんでかなと想像してみた結果、考える「間」が見えないからなのかなと仮説を立ててみた。
意見と意見がぶつかり合う境目、場合によってはもっと曖昧な何かが双方の間にある。境目なので、どちらかが悩んだり考えたりはっきり言えなかったり、場合によっては妥協することがあるはず。会話ならそこが互いに掘り下げるべきポイントとして認識されて、話が進むはず。(双方が答えを用意していてぶつかると平行線だけど)でも、文章はどうしてそう考えたかの過程は見せても、本人も気付かない揺らいだポイントや引っ掛かったところをカットしてるから、極論vs極論になりやすいのかなと。

どうすればいいのかについてはまだ考えられていないけど、とりあえずここまで。

特異である恐怖と当たり前である恐怖(書きかけ)

ブックマークでミスリードしてしまった感があるので、ちょっと書いてみる。

発端となった事件
http://mainichi.jp/select/wadai/news/20090328k0000e040073000c.html

ブックマークした元記事
2009-03-28

自分のブックマーク内容

例えば自分は先生いじめを見た事ないけど、それが自分の時代に先生いじめがなかった証左にならないというか、体感したかどうかでそれが「よくある事」かどうかが個人毎に違ってくるのが話をややこしくしてるのでは。

100文字制限の中で記載した「良くある事」という記載が色々失敗したなと思った。

発端となった事件に対するリアクションをものすごく大雑把に抽出すると、

    1. 先生いじめ自体は昔からあった
    2. 先生いじめ自体はあったかも知れないが、自分が中学生の頃ならそこまで酷い事をしようとは思わなかった

という一見相反する意見がある。

まず、ここの感覚差は自分が思春期の時代に「先生いじめ」というのをリアルタイムで認識したことがあるかどうかがあると思う。

ブクマに書いたとおり、私は先生をいじめたケースというのにはお目にかからず育ったから、先生いじめというのはドラマか何かの話のように感じてしまう。その場合、今回のような事件で感じるのは、「昔の自分」という座標とその事件との距離感に違和感や恐怖を覚えるのではないかと思う。または先生いじめを経験しつつ、その内容の差異・距離感に「こんなに残酷ではなかった」という思いを持つのではないかと思う。
ただ、「昔の自分」という座標は「もし当時の自分が先生いじめに直面したら」「もし当時の先生いじめの標的である先生が、妊婦さんだったら」というIFが基になっているので、おそらく実際の「昔の自分」より精神面というか情緒の部分が成長した視点で俯瞰して考えている部分があるので、当時の自分が本当にその状況に巻き込まれた時、自分が非情な選択をしないとは限らない、という事は意識すると別の視点が見えてくるのではないかと思う。

一方、「昔から変わらない」「いかにも中学生らしい」と感じた人は、自分の経験から思春期の無邪気な残酷さを覚えている方なんだと思う。じゃその人が、そんなの良くある事だよ、と思っているかといえばそうじゃないと思う。「昔の自分」という一番身近で一般的に感じるモデルケースを座標として事件を考えたときに、当時の自分が考え方や行動の延長線上に残酷な事件があるという、なんというか陸続き感が怖いのではないかと思う。イメージするなら、取り返しのつかないミスをしそうになった瞬間のゾッとする感覚のような怖さ。または陸続き感に安心している面もあると思う。陸続きであれば、「理解できない故の恐怖」というものはないので。

ちょっと急用ができてしまったので、一旦アップ。

コンビニバイトなめんな

なんとなく挑発的なタイトルつけてみたけど、実際は大したことを書く気もなく。
某コンビニの偉い人が、バイト3ヶ月やったら経営について考えるようになるって言ったとかなんとか。
それを読んで自分のバイト時代を思い出すと、実際はもっとしょぼいレベルではあるんだけど、色々と考える事はあったなと。
陳列で見た目を意識してみたり、レジを素早くこなす術を研究してみたり。
でも発注はやらなかったなぁ。
確かにコンビニって仕事の内容が色々だから、「真面目にやれば」奥が深い。
中には遅刻常習でクビになった同い年とか、バックヤードの冷蔵庫に飲み掛けの飲み物置きっぱにして(当然、お金払ってない商品!)やはりクビになった人もいたけども。
真面目にやっていればそれなりに楽しくて、わいわいとポップ作ったり、誰かのお気に入り商品が入荷したら目立つ位置に配置して、よく話しかけてくれるおばあちゃんに勧めてみたら喜ばれたとか、なかなか良い経験だった。
それに「仕事ってなんだろう」ということ、もっといえば「社会人になったつもりの学生気分」みたいな「仕事してるつもりのおままごと気分」と決別する機会になったと思う。
そんな感じでコンビニバイトが懐かしい私からすれば、コンビニバイトは良いバイトだと思うし、「コンビニバイトなめんな」と胸張れるくらいやれる仕事だと思う次第。

ちなみに、コンビニの仕事が全部マニュアル・システム化されてるかといえばそうじゃない。
例えばバイクの自賠責って一応マニュアルがあるけど、実際はちょっとめんどくさくてマニュアルだけじゃ分かりにくい。
しかも滅多に来ないんで、引き継ぐにも誰かが見守りつつ実際にやって覚えるというのが困難。
宅急便も用途で渡す伝票違うけど、あるのは宅急便側のマニュアルだけ。
複雑だけどよくお世話になるポイントというのをバイト業務全体で一元的に押さえたマニュアルができたらいいなとよく思った。
思ったついでに手書きイラスト入れつつ新人教育用に作ったら、バイト辞めた今でも現役で置かれてるとバイト仲間からネタにされる。
恥ずかしいので、コンビニ会社さんは現役バイターの意見を取り入れて、マニュアルにもう少し力を入れてくれればいいなと思います。

アレルギーは常識になったのか

最近はてなを賑わせている蒟蒻ゼリーの問題について、はてなブックマークで多くの星をいただいた。

アレルギーですら、与えて慣れさせろ的な誤解が年配者を中心に未だに残ってる。新たな社会的常識が発生した場合、それを完全に浸透させるには時間がかかるという事なのかも。

蒟蒻ゼリーについても色々まとめたいんだけど、元アレルギー持ちとしてはまずそちらについて記載したかったので、とりあえず書いてみる。携帯からだから読みにくいのはご容赦を。

・ アレルギーの昔話
今から約20年前、小さい頃の私は卵と牛乳のアレルギーだった。他にもお肉とかチョコとかもダメだった。ついでに妹もアレルギー持ち。母はアレルギーについてはかなり頑張ってくれたので、顔や露出する肌に湿疹ができることは稀で、当時の痕等は全くない。
母がアレルギーに対応できたのは、従姉弟が重度のアレルギーで、今考えると良く助かったと思うくらい危ない状態になったり、食べられるものが少ないくらいの中で叔母が奮闘しているのを見ているからだと思う。
母方の祖母も、私達姉妹や従姉弟が家に来る際は食べ物に気を遣っていたのを覚えてる。嫁姑問題がなかったわけではないだろうけど、少なくともアレルギーについては理解があった。

自分の記憶や母の証言を纏めると、無知と無理解だったのは幼稚園や保育園、学校の先生だった。「少しずつ食べて体を慣れさせる」という無知の先生もいたし、好き嫌いと混同して食べさせられたこともあった。たしか、蕎麦アレルギーの子に教師が無理矢理食べさせて死亡させた事件が報道されたのもこのころだった気がする。
ただ、先生に全く理解がないわけではなかった。小学校は校内に給食室があって、よく私達姉妹向けに「卵が入る前の炒め物」とかを取り置きしてくれた。牛乳飲めないからとお茶を持ち込む私をからかった男子を厳しく諌めたのも先生だった。越した先の給食センターは、材料まで細かく載せたメニューを事前にくれたので、母はそれを元に代替品を持たせてくれた。本当に多くの人にお世話になったから今の自分がいるので、先生全般に対しては感謝の方が大きい。

個人的な話ベースで申し訳ないけど、「先生が無理解だった」とかの先生批判ではなく「教職ですらアレルギーに無理解・無知であった時代がある」という事のエピソードとして捉えていただきたい。
今でこそアレルギーは社会的な常識としてかなり定着したけど、じゃあアレルギーに対する無知が消えたのかと言えばまだまだ残っているのが実情ではないかと思う。20年も経ったと言えるし、20年しか経ってないとも言える。

・ 「常識」の難しさ
常識の定着化という視点で考えると、子育ての「常識」というのは厄介だと思う。特に乳幼児期の子育てについては昔と今で全く反対の事が言われる事も少なくない。
身近な子育ての先輩である両親も20年から30年のブランクがあるのだから、いつの間にか常識が非常識になっている可能性もある。自分が年を取った時を想像すると、自分の中の常識を無意識に適用してしまいそうで怖い。
問題は個々の問題じゃなくて、常識化すべき問題を如何に啓蒙すべきかという問題な気がする。

・ 余談
そういえば、振り込め詐欺も似た問題な気がする。知識として知っていても身に降りかかると行動できない事はままあるから、振り込め詐欺にひっかかった人を責められないよ。
あと蒟蒻ゼリーに話を戻すと、あれはゼリーって形状が話をややこしくしてる気が。バイキングか何かのデザートコーナーに置いてあったら、蒟蒻ゼリーか普通のゼリーか見分けつかない気がする。ナタデココとなら区別つくんだけどなぁ。そいえば、ナタデココの誤飲事故ってあるのかな。ないのなら、逆に固くしてコロコロサイズにするのはダメなのかなぁ。

好き嫌いについて

唐突でなんだけど、一つのお題に関して長期的に考えることが好きだったりする。この前書いた「個性について」も色々と考えていて、連想が「好き嫌い」に(何故か)行き着いたので、記載してみる。携帯からなんで、読みにくいのはご容赦を。

好き嫌いについて色々連想すると、食べ物なんかの好き嫌いは割とはっきりしてるんだけど、有名人や抽象的なものについては「でも好き(嫌い)」というものが結構多い気がする。
本人達には色々あったんだろうけど、事情を知らない自分からは好きなアーティストの相手と不倫→略奪婚したようにしか見えないから好きになれない有名人とか、
好きな芸能人が逮捕されて、罪は罪だと思うけど、本人に直接会ったこともないのに昔のインタビューを思い出して「辛かったんだろうか」と思ってしまったり、
同じ罪でも、なんとなく好きじゃない有名人についてはちょっと冷たい事を考えてしまったり。
最近また時の人になりつつあるホリエモンの事を、会社が昇り調子なのに株主に配当しなかったのが気に入らなくて、彼の論に対してメタな視点ばかり探してしまったりもしてる。
ホリエモンについてもよく考えると、そもそも嫌いになった当時の自分は若かったし、何となくで気に入らない扱いしてる自分に問題があるし、ホリエモン氏には申し訳ないんだけど、ご容赦頂きたい。
(当時は教科書レベルの株知識しかなかったから、配当は株式のルールだと思っていたなぁ。今もよく分からない。株主優待は知ってるけど。株については改めて調べてみよう。)
要は具体的な内容に対して「でも」と言いたくなる事が好き嫌いなんじゃないかな、と考えてみた。

と思ったんだけど、「でも」とか何とか言っちゃってる部分というのは逆に、単に自分が自分の好き嫌いを認知した段階で、それに対するメタ視点に切り替えてるとも考えられる気がする。
なんだろう…好きとか嫌いに対する後ろめたさや、自分に反する意見への言い訳や予防線のような。
言い訳+「でも」→主観
みたいな感じ。
それを言い訳と取るか、配慮か譲歩と取るのかは読み手・受け手の「でも」に繋がるかどうかなのかも知れない。

                • -

書いていてごちゃごちゃして分からなくなってきたので止め。
やっぱ箇条書きだと整理しやすいね。
箇条書きだと部分的に消化不良起こすのが難点だけど。

あと、メタ視点についてはもう少し膨らませそうな気がする。
もう少し考えてみる。

個性とか競争とか社会とか(たたき台版)

昨日、注目ブクマを見ていたら、久しぶりに「世界に一つだけの花」ベースの個性論のお話を見つけた。
『使えない個性は、要らない個性。』 - シロクマの屑籠
ブクマの文字制限に押し込むべき内容をうだうだと考えているうちに携帯片手に寝てしまって、気付いたらブクマ数が伸びてた。
結局その後もうだうだしつつ、以下のようにブクマした。誤字脱字はご愛嬌。

個性やオンリーワンの一人歩き。あの歌は、まず今の自分の許容する事を推奨。その上に何を積み上げるかはその人次第。個性は競争の対極でない。/他人と全く違うオンリーワンを求める事はナンバーワンと変わらないよ。

その他にも色々纏めたかった考えもあるし、p_shirokuma氏と意見は違っても否定する気はないのに、ちょっと言葉足らずだったなと思ったので、思った事を思いつくまま書いてみることにする。
今は自分の中で意見を多方向に発展させすぎちゃっているので、自分の中のまとめも兼ねて、たたき台としてのエントリにとどめておく。

前提

  • 私は槇原氏のファンである。
    • 今日の雪を見て「北風」の鼻歌を歌うくらいには好きだけど、最新曲が分からないくらいのレベル。
    • 曲から感じる槇原氏の人柄も好きである為、槇原氏批判には擁護したくなる人間である。

頭の中にあるネタ

  • 個性とは何ぞや
    • 個人的には「素の自分」。他人向けの自分も内面も全部ひっくるめて「自分」を形成しているもの。
    • 自分という「個」を指しているのみで、「人と違う・自分特有の何か」ではないという認識。
  • 「個性」を大事にするとはどういう事か
    • 今の自分を許容(肯定?ニュアンス的に微妙)すること→自分の軸というか、土台の再確認。
  • 個性は競争と対極であるか
    • 個人的にはNO。相対的に求めたり探したりする「オンリーワン」は、土俵が違うだけで「ナンバーワン」でしかない。
    • 今の自分がスタート地点で、「どうなりたい」「どう変わりたい」という目標・願望がゴールなら、競争は自己実現の方法・選択肢の一つである。
    • 競争と個性は横軸と縦軸の関係かもしれない。
    • 多様性はあくまで「多様性」であって、競争から降りるという選択肢は提示しても、降りる事自体を推奨しているわけじゃない。
  • 競争社会のメタとして提示されてしまった個性とオンリーワン−なぜ「個性」が誤解され始めたか
    • 自分の記憶的には、偏差値教育の否定に「個性」「アイデンティティ」を持ち出したからややこしくなった気がする。
  • 自分が考えるあの歌のポジション
    • 競争で自分(スタート地点)や目標(ゴール)を忘れてしまうくらいにテンパってる人の肩を叩きつつ、「まぁまぁ少し落ち着け」と言ってるイメージ。
    • ちょっと深呼吸して落ち着いて、今の状況に疑問があるなら別の可能性に目を向けるのも良いし、やはり追いかけたい目標なら、その気持ちを忘れずに頑張れという感じ。

余談

  • そういえば、昔は「世界に一つだけの花」があんまり好きじゃなかった。
    • イメージが変わったのは槇原氏のカバーを聞いてから。拡大解釈してる事に気付いた。
      • 「作り手としてのメッセージと歌い手としてのメッセージ」(個性とかと別の話になるから詳細は省略)
      • 「槇原氏の曲はなぜ拡大解釈されやすいのか」(個性とかと別の話になるから詳細は省略)
        • シチュエーション・ストーリー要素が入っている為、感情移入がしやすい云々
        • ミュージカルまたは、ドラマとBGMの関係に近いとか云々
  • 時々、「花屋」が舞台である事にツッコミが入るけど、2番で野花を使った比喩は出てくるんだよね。
    • あの歌自体が「たとえ話」化しちゃって、想定外の部分に要素を持たされまくった結果、話が混乱してる気がする。

さすがに眠くなってきたからとりあえず中断。また書き足すかも。

初心と幼心を本当の意味で忘れないって難しい

「フック」って映画が、まだ子どもだった頃から好きなんですよ。
ストーリーとしては、ピーターパンがネバーランドを出て大人になった後、ネバーランドの事も忘れて、典型的な仕事人間で現実主義者なパパになっちゃっていたというところからスタートし、彼の子ども達がフック船長にさらわれちゃったから、ティンカーベルに連れられてネバーランドに行って…という展開。ネタバレしたくないので後は省略。

昔は大人になったピーターパンを見て、すごく失望した。某ウォルトさんのピーターパンをビデオで何度も何度も観て育ったからか、彼が「嫌いな大人像」そのものだったからかは分からないけれど。ともあれ、若いなりに「子どもの頃の感覚や気持ちを忘れない大人になりたい」と思ったことは覚えている。
でも、いざ大人になってしまうと、子どもだったころを忘れていない「つもり」ではあっても、実際は結構忘れていたりする。現代の子どもを見て「自分の子どもの頃はもっと◯◯だった」と思っていても、よくよく考えると無意識に「もう少し成長した後の自分」と比較していて、実際はやはり同じくらいの年頃の自分も同じくらい世間知らずだったり愚かだったりしたのだと思う。

最近、未成年被害者に対する自己責任論を読んで、ぼんやりと自分の子ども時代を思い返して、ふと「フック」を思い出した。
あの映画は「子どもの頃の気持ちを忘れるな」とは言ってるけど、「子どものままでいろ」とは言ってないんだよなぁということに、「大人」と呼ばれる年になって気付いた。
もっと早く気付いていれば、自分が大人であることの自覚がもう少しできたのだろうかと少し反省しつつ、仕事の事を思い出して「こんな大人になりたくない」と思っていた大人になってるよなぁと少し憂鬱になった。

まぁ、そんな感じ。