蒸気装甲戦闘工兵開発史(4):英領サツマ

前史

1854年
クリミア戦争に於いてロシアと対峙している英国は、ロシア艦隊がナガサキに寄港し補給を受けていることを確認、日本幕府に対し対ロシアの局外中立と英国艦隊の寄港許可を求めた(日英和親条約)。これは外交権を持たない英国東インド・中国艦隊司令ジェームズ・スターリングの独断で行なわれたものであったが、後に本国からの追認を得、1858年には改めて日英修好通商条約が結ばれた。条約には函館、神奈川、長崎の開港および食料・飲水・薪の補給、公使館の設置、居住権、および海底ケーブル敷設権が含まれた。

当時の英国は、海底ケーブルの防水に不可欠な樹脂ガッタパーチャの独占により世界規模での通信事業を掌握し、英国領および主要各国を結ぶ電信網を構築しつつあったが、1842年の阿片戦争勝利に伴い南京条約で得られた香港租借地および上海租界への開通は遅れていたため、英領インドから英領マラヤ連邦・英領サラワク(現マレーシア)を経由し台湾、そして沖縄諸島伝いに九州で海底ケーブルを中継させたいという意図があった。
条約締結後、海底ケーブル敷設は急ピッチで進行し、1961年には薩摩まで、1962年には長崎から香港および上海までが通信圏内となった。

第一次薩英戦争

1862年、江戸付近で英国人が薩摩藩大名行列を横切って切り殺された(生麦事件)。英国側はその賠償と責任者の処罰を幕府に求めたが、既に政体として弱体化しつつあった幕府はこれに対し明確な対応ができず、英国は薩摩藩との直接交渉に移った。ここで幕府が主権者としての責任を曖昧にしたことは、のちになって大きく響いてくることとなる。

英軍は艦隊を押し立てて薩摩藩に圧力をかけることで交渉を有利に進めようと企てたが、これに対し薩摩藩は態度を硬化(通訳に当たった福沢諭吉が英国の要求を誤読、現場の責任者ではなく薩摩藩当主の処罰を求めていると誤解したのが一因であったとも言われる)、攘夷を掲げ対立した。
1863年8月14日、英軍側は要求が受け入れられない場合は実力行使に出るとの通告を行い、薩摩藩は開戦不可避と判断、ただちに艦砲の射程圏内と目される鹿児島城を出て、千眼寺境内に陣を布いた。
翌15日未明、英艦隊は湾内に停泊していた薩摩藩の船舶を拿捕する。これに対し薩摩藩は英国の攻撃と見做し湾内7ヶ所の台場に据えた砲台で砲撃を開始。英艦隊の砲よりも劣る旧式砲ではありながら、揺れる船上砲に対し安定した地上砲の利を生かし高精度の砲火を浴びせ、英艦隊は8隻中3隻が中大破という大損害を被った。
翌日、予想外の痛打を浴びた英軍は体勢を立て直し単縦陣を組んで湾内に進入、市街地を砲撃炎上させ、また砲台2ヶ所を撃破する。しかし薩摩藩の猛攻は止まず、上陸戦に移ることは叶わなかった。艦隊の消耗を鑑みた英軍は戦闘の継続を諦めて撤退。

この敗北は海底ケーブルを通じて英国本土に電信で伝えられ、精強たる大英帝国軍が「極東の未開国」を相手に勝利できなかった屈辱もさることながら、海底ケーブル設置拠点たるサツマが外国勢力の排斥を掲げたことは情報戦略的にも重大な問題と受け止められた。英国議会はただちに派兵を決定、1年後の7月初頭、英軍最新鋭の戦力がサツマへ到着する。

第二次薩英戦争

それは異様な船だった。乾舷は水面すれすれにあり、甲板の中央には艦橋が低く蹲まっている。屋根から2本の煙突が突き出し、マストに帆はなく英国旗が翻るのみ。艦橋を前後から挟むのは巨大な円筒、その切り欠きからは2門の砲が突き出ている。
H.M.S.デヴァステーション。アメリ南北戦争に於ける装甲砲塔艦U.S.S.モニターの成功を目にした英国が、急ぎ作り上げた最新鋭の装甲砲艦である。
船体のほとんどを海中に沈め、海水を天然の舷側装甲と為すことで装甲範囲を限定して重量を軽減しつつも防御力を高め、旋回砲塔により少数の大口径砲を柔軟に運用できる。それは最新の戦訓に基づいて設計され、最新の戦術をもたらす、最新の兵装を備えた最新の艦であり、まともな海軍力を保有しない日本へ差し向けるには明らかに過剰な軍備であった。逆に言えば、それだけサツマでの敗北は「大英帝国の威信を傷つけた」わけだ。

英軍はまずアームストロング式後装砲による素早い装填と大口径砲の火力を以て薩摩藩の砲台を粉砕し、海岸に接近して薩摩勢を威圧した。海岸から運用可能な可動砲ではデヴァステーションの射程を逃れることはできず、また敵艦の装甲を撃ち砕く火力がない。
次いで英軍は輸送艦を岸に寄せ、上陸を開始する。

砲艦も異様なら輸送艦も異様であった。乾舷は高く、窓は一つもない。船体は全体として矩形を成し、他の船のように中央を通る竜骨がなくジャンク船のように見えないこともない。その船首からは厚い平板が斜め上方に突き出しており、左右に結び付けられた鎖が後方へと伸びる。
船は真っ直ぐに浜へと乗り上げると、ガラガラと鎖の音を響かせながら船首をゆっくりと下げ始めた。先端が地に着いて斜面を成し、その奥には黒い荷が蹲っている。

その荷は船よりも更に異様だった。人の背丈の倍以上もあるそれは、前後に長い胴の前方から黒い煙を噴き出し、左右に突き出した脚でゆっくりと歩き出した。見ようによっては身を屈めた巨人のようでもある。
全身を黒鉄で覆った巨人が、槍刀はおろか種子島さえ通じない相手だろうことは明らかだった。砲ならば撃ち倒せもしようが、それは沖合の砲船が許さない。
数機の鉄巨人は進路上のすべてを薙ぎ倒し、踏み潰しながらゆっくりとした歩みで薩摩軍の本陣へと迫った。
薩摩藩士は起死回生を期して鉄巨人に肉薄戦を試みた。だがモンティニー蜂窩砲は驟雨の如く弾丸を撒き、近付くことさえ許さない。
わずか数時間のうちに薩摩藩は降伏し、英軍の占領下に置かれた。
これが、蒸気装甲戦闘工兵グレイヴ塹壕戦以外で使用された初めての戦争であった。

戦後

薩摩藩の降伏後、もはや幕府が日本の主権を有していないと見做した英国は同地を薩摩の支配下にあった琉球王国ともども英領サツマとして大英帝国の版図に組み込んだ。
面積こそ小さな領土ながら東シナ海黄海を押さえる場所であり、北太平洋方面への寄港地、またユーラシア北東部方面への海底ケーブル中継地として、英国の戦略的要衝となった。

日本は薩摩を取り戻したがったが、サツマに駐留するグレイヴと砲艦は生半可な兵力では打ち破れない。だが、それに対抗する装備を模索しようにも英国以外にグレイヴを作れる国はまだなく、また艦砲射撃によって制圧しようにも旧式の木造艦では英軍の装甲砲艦になす術もない。
結局、明治政府の樹立後も薩摩の返還は叶わず、サツマはその後長らく英国領として、日本の軍事的意図を制する楔として、また日本と英国の交渉窓口として機能し続けた。軍備の増強を図る日本を抑えるようにサツマ駐留英軍も都度増強されたが、それは現地の負担増加とともに英本国からの資金流入ももたらし、同地の経済をすっかり軍事従属的に組み替えるに至った。かつて同地にて醸造されていた蒸留酒、所謂「泡盛」は英軍の持ち込んだラムに駆逐され、多くの蔵元がサツマおよびリュウキュウにて広く栽培されるサトウキビの廃糖蜜から醸造されるラム酒の製造へと乗り換えた。
また基地から流出する西欧文化を日本政府は警戒し、国境地帯に鉄柵を巡らせ情報の出入りを制限したが、やり取りされる物資の緩衝材などに紛れて持ち込まれる英字の冊子類や国境を超えて届くラジオの電波などは防ぎようがなく、九州南部を中心に徐々に英国文化が受け入れられていった。

塹壕戦のために開発されたグレイヴはその後、機動砲戦力としての側面を強くし、他国のグレイヴ開発が英国に追いつき始めた第一次世界大戦以後はかつての騎兵に代わる独立した機動打撃戦力として運用されるようになってゆく。

なお、最終的に英領サツマがその帰属を日本へと戻したのは第二次世界大戦後、大英連邦の影響力が低下し加盟国の独立脱退が相次いで後のことである。


蒸気装甲戦闘工兵開発史 - 妄想科學倶樂部
蒸気装甲戦闘工兵開発史(2) - 妄想科學倶樂部
蒸気装甲戦闘工兵開発史(3) - 妄想科學倶樂部

Amazonのデジタルコンテンツが保証期間1年(かもしれない)件

はじめに:この件、予想外に拡散されてしまったが私の誤認およびサポートとのやりとりの齟齬による誤解の可能性があるので後半を確認されたい。

発端は、2018年発売のSF小説を再ダウンロードしようとしたことだった。なぜかKindleのライブラリ内を検索しても当該作品がヒットしない。

買わなかったはずはない。確かに読んだ記憶はあり、しかし私は2013年にKindle導入して以降、「電書であるものは紙で買わない」ようになり、また借りに行くより買った方が早いので図書館も利用しなくなって久しい。
2015年には講談社が「書籍と電書を同時に発売」宣言したのを皮切りに各社とも電書を同時発売するようになってゆき、2018年頃にはすっかり同時発売が当たり前になった。同作もKindle予約購入で発売当日に入手した1冊だ。
購入履歴にも残っており、商品ページにも「お客様はこの本を購入しました」と出る。しかしライブラリにはなぜか表示されず、「コンテンツと端末の管理」で検索しても出てこなかった。

この作品は当初ハードカバーで出版され、その時点で電書を購入したのだが、のちに文庫化された際に上下巻に分割され、その形で再電書化されている。
通常、書籍から文庫化などされた場合でも「同じ本」として扱われることが多いようで、表紙が差し替えられたりはするものの読めなくなるようなことは経験がない。しかし2冊に分割されたとなると同じ本としては扱えまいから、書籍版が絶版となってkindleもデータが消されてしまったのかもしれないと考えた。
電子書籍は厳密には「販売」ではなく、ユーザはデータそのものの所有権を持たない。そのため販売側の都合によって購入した電書が読めなくなるケースがあることは認識していたが、まさか再読したいぐらい気に入っている本がそれに該当しようとは思わなかった。
1冊だけならば諦めもつくが、この本から連鎖的に思い出された別作家の何作かを調べたところ、同様にkindleで出てこなかったものが複数あったため、慌ててAmazonのサポート窓口を探した。

チャットで状況を説明する。
しかし最初の担当者は「購入した商品がKindleのライブラリや『コンテンツと端末の管理』に表示されない」旨とそうなった注文番号(の一部)を伝えた後なんの応答もなく、そのままタイムアウトしてしまった。判断しかねる内容で相談により結論が出なかったのだろうか。
そのまま次の担当者がログインしてきたので同じことを説明したところ、「過去1年以内に購入されたものに限り復元および再送ができるが、2018年の購入であるため不可」との回答を得た。
「1年以上経過したコンテンツが表示されない場合は再購入するしかないのか」「そうです」とのことであった。

以上が「Amazonのサポートから得た回答」であるが、これが「Amazonの公式見解」とは限らない。あくまで「サポートセンター(の、担当者)の見解」である。まあ「半公式」ではあるけれども、正確な回答でない可能性はある。
Amazonのチャットサポートは24時間対応だが、国内に24時間体制のサポートセンターがあるのではなく世界中の複数地域にサポートセンター(たぶん委託)があり、今この時間に応答できるところが応答するような仕組みなのではなかろうか。
今回の担当者は名前から判断するにアラブ系の方かと思われるが回答は明瞭な日本語の文章で、これが「日本向けサポートは日本語に堪能な担当者が行う」のか「非常に高度な機械翻訳処理を挟んでいる」のかはわからない。パッと見には機械翻訳を挟んでいるようには見えない自然なやりとりに思われたが、実際にはなんらかの齟齬を生じている可能性も否定はできない。

ともあれ、本当に「購入から1年以内しかコンテンツの維持が保証されない」のだとすれば由々しき問題である。今回はKindleのコンテンツについてのサポートを受けたが、窓口はPrime VideoやAudibleなどデジタルコンテンツ全般を担当しているらしく、他のデジタルコンテンツすべてに及ぶ可能性がある。

そもそもKindleは購入したデータをすべて保持し続けるように設計されていないものと思われる。
2014年1月現在、発売されているKindle端末の中で最大容量はおそらく64GB。電書データは活字だと5MB程度(200冊/1GB)、モノクロ漫画だと1冊50MB前後(20冊/1GB)なので64GBならば理論上は漫画で1200冊程度までは保持できる計算となる。タブレットならばもっと容量の多いものもあるが(iPad Proなら最大2TBがラインナップされている)、専用端末でないものはKindle以外にも写真や音楽、ゲームなどに容量が割かれるので、実際に保持可能な量はそう大きくは違わない。
そしてKindle内のデータはバックアップできない。端末を入れ替えたり、不具合で初期化する場合などはデータを復元してもKindle内のコンテンツは空で、都度ダウンロードし直すしか方法がない。最初からそういう運用なのだ。

またKindleアプリは経験的に、2000冊程度を上回ると動作が怪しくなってくる傾向がある。ページがうまく表示されなくなって白いままになったり(ピンチイン/アウトなどで再描画させると正常になるが、ページをめくるたびこれをやる羽目になる)、見開きで左右に同じページが表示されたり。したがって端末に十分な空き容量があったとしてもライブラリ内の全てのコンテンツを端末内に保持できるとは限らない。
こうした現象について過去にサポートを受けたが「コンテンツを削除してデータ量を減らしてくれ」ということだった(これはおそらくKindleに限らず他社電書でも似たようなものだと思われる)。

「2000冊もあれば大丈夫だろう」?
たしかに、総務省の2017年統計に拠れば、世帯あたりの平均書籍購入額は1年で1万円程度だそうで、そういう人ならば200冊もあれば多い方なのかもしれないが、こちとら本に埋もれて生きてきた本の虫共である。なんなら学校図書室の年平均購入費用より本にお金を使っている。2000冊でも収まるものではない。
そういうヘヴィユーザとしては、買ったものを保持し続けられない可能性は看過できない。

まず、先に重要な点を確認しておく:結論から言うと、当該コンテンツは再ダウンロードできた。
当初はライブラリに表示されず、検索しても出てこず、Amazonの「購入履歴」から「コンテンツと端末の管理」で検索してもヒットしなかった(サポートにもそう伝えた)ので消えてしまったのかと考えたのだが、履歴を150ページほど遡り購入時期の履歴に辿り着いたところ、当該作品が出てきた。
そこから端末への配信を行ってみた結果⋯⋯なのかどうかは謎だが、とりあえずKindleのライブラリでも再検索するとヒットし、ダウンロードできたため私個人としては当初の問題は解消した格好である。私の勘違いだったのであれ、なんらかの不具合だったのであれ、ひとまず2018年の書籍が文庫化によって消されたようなことはなく、データは再ダウンロード可能であった。

ただ、「1年以上経過したデータが消えたら買い直し」というサポート見解がAmazon公式なのか、という問題は残る。
こちらは公的な再回答を得ていないのであくまで憶測となるが、サポート担当者の勘違い──というか、私の説明を誤読したという線が濃いのではないかと考えられる。

当初問い合わせを行った時点では考えもしなかったし、私もそのように伝えはしていないのだが、ライブラリの管理上コンテンツの削除には「Kindle端末からの削除(ライブラリには残り、随時再ダウンロード可能)」と「ライブラリからの永久削除(購入した事実は残るがコンテンツを手放す。ライブラリにも残らず再ダウンロード不可能)」があり、後者を復活させる(間違ってライブラリから削除してしまった時の救済措置)期限が「購入から1年」ということではないか、という指摘を何人かの方から頂いた。

サポート担当者が(私が説明したつもりの)「端末から削除されたコンテンツの再ダウンロード」を「ライブラリから削除したコンテンツの復活」と勘違いした、という可能性は否定できない:というのも、チャットのログを読み返すと「削除されると、現在は復元できません」「本は永遠に残りますが、削除すると消えます。1年前の本しか回収できません」という表現があるのだ。
私はこれを(自らの質問趣旨に沿って)「端末から削除したコンテンツを再ダウンロードできることが保証される期限が1年以内」と読んだが、サポート側は「ライブラリから削除した本を購入履歴に基づき取り戻す期限が1年以内」と回答してきたのではないかと、一晩経って/コンテンツが無事ダウンロードできて冷静になった今としてはそのように感じられる。

だとすれば「コンテンツのダウンロード保証期限は1年」というのは誤解であって、「ライブラリから削除してしまった場合でも」1年以内の購入履歴であれば復活対応してもらえるが、1年を過ぎたものは買い直すしかないということになり、おおよそ納得できる話ではある。

(結)

現在のところAmazonへの再確認はできていないため、明確な結論はないが、この件でAmazonに問い合わせをなさった方がおられるので引用しておく。

謎解きバッグを作る

謎解きが好きで、夫婦でよく周遊型の謎解きイベントなどに出かける。謎解きキットを購入し、その指示に従ってあちこちを移動しながら謎を解いてゆくものだ。

街歩き謎解きを経験された方ならお解りかと思うが、謎解き中はしばしば、移動先で情報を書き込む必要が生じる。情報はたとえば碑文であったり看板であったり、街中にあるものから見つけることになるが、そうした場所の周囲に都合よく座れる場所があるとも限らない。そのため、立ったまま手に持った紙に書き込む場合もある。
そうした都合上、両手はなるべく空けておきたいので、謎解きキットは可能ならば鞄にしまって、 必要に応じて都度取り出すことになる。

謎解きキットは一般的に冊子類や封筒、カードなど複数の紙で構成されており、それらをまとめて袋などに入れて販売されている。もっとも一般的なスタイルは「切り離すとA4クリアファイルになる」手提げバッグ型で、長辺のサイズが33.5cmほどのもの。
もちろん中身の方はもっと小さいのだが、しかし謎解きでは「入っているものはすべて使う」ように作られており、袋が邪魔だからといって捨ててしまうわけには行かない。
さほど重いものではないから手に持ったまま紙を持つことも不可能ではないのだが、クリアファイル型では持ち手部分が帯状ではなく、薄く硬いクリアファイル素材に穴を空けたものだからあまり持ちやすくはなく、できれば腕か肩にかけられるようにしたい。

また、謎の中にはその問題に書かれた情報だけでは解くことができず、これまでに目にした別の情報を組み合わせて解くようなものもある。そういう場合に他の紙を素早く参照するには、さっと中身を取り出しやすい構造が望ましい。蓋の開け閉めに手間がかかったり、都度下ろさねばならないようではイマイチだ。
そうすると、両手の空く肩かけ鞄で、できれば蓋のないものが好ましい。
もちろん、謎解きの最中に出し入れするのは紙類だけではない。筆記用具にスマートフォン、乗車券や財布なども使うだろう。まあそれらは上着のポケットに収めておくという方法もあるが、いずれにせよ内部にはいくつかポケットがあって小物を整理できた方が、目的のものを取り出しやすいはずだ。

つまり謎解きに最適な鞄とは、

  • いつでも両手を空けておける肩かけ式で
  • 横幅33.5cm以上のものがすっぽり収まり
  • 中身がすぐ取り出せる蓋なし、内部ポケット付き

といった条件のものということになる。

そういうわけで「内寸33cm以上のショルダートート」を探してみた。
それがこちらである。

横幅34cm、マチ14cm。内部コーティングされ簡易防水性を備える。前部にポケット2、内部は横幅一杯の大ポケット1に2:3ぐらいに仕切られた中ポケット、その内側に折り畳み傘程度を差し込んでおける縦ポケットと小ポケット。

実際にこれで東京メトロの「地下謎への招待状2023」をやってみた。


この写真でお判りのように、「クリアファイルになる手提げバッグ」がすっぽり入る。とはいえトートバッグの大きさは外寸が34cmなので内寸は33cm程度、そこに33.5cmを入れているので若干無理はあるのだが、曲がる素材を幅のあるポケットに入れているのでどうにか収まる。
小さな紙類などは複数のポケットに分けて入れることもできるので必要に応じて取り出しやすい。また私は外出時はカメラを携行してゆくのだが、中ポケットにすっぽり収めることができた。
総じて今までにない快適さであった。フラップがないため雨には若干弱いが、濡れを心配するほどの雨では周遊謎解き自体が難しいので、そう大きな問題にはなるまい。

ついでにオプションとして、背面には「台のないところで薄い紙に書く必要が生じた」場合を想定したクリップボードを取り付けてみた。

バインダーとトートバッグの固定にはマネークリップを使用。ただこちらのバインダーには閉じておく方法が用意されていないため、ゴムバンドやクリップなど、何らかの工夫が必要になるので注意。
とりあえず地下謎では使う必要を生じなかったので、有効性は不明。

また、地下謎ではキット付属のペグシルに消しゴムが付いているが、そうでない謎解きキットの方が多いので消しゴムは携帯しておいた方がいい。
ペン型の消しゴムや、大型の消しゴム付きシャーペンがあると便利。

ただシャーペンを使う場合、謎解きキットの紙がコート紙だったりすると黒鉛の食い付きが悪いので、芯は2B以上の濃いものをオススメする。

神戸・大阪 古建築巡り

神戸・須磨の洋館

神戸といえば北野の異人館が有名だが、もう少し離れた須磨にも実は素敵な洋館がある。
須磨離宮公園向かいにある「神戸迎賓館」(旧西尾邸)である。

www.nishiotei.org
大正8(1919)年の洋館で、レストラン/ウェディング場としても運営されている。


至るところにステンドグラスが嵌められており、室内を柔らかく彩る。


古い館だけあって流石に室内は暗く、窓からの光を背に受ける席だったのでライティング的には厳しかったが料理も撮ってみた。

おせち風前菜
真鯛と野菜の包み焼き
牛フィレ肉のステーキ
春色デザートの盛り合わせ

大阪・中之島〜北浜

中之島といえば明治時代のルネッサンス様式「中之島図書館」、辰野金吾設計の赤煉瓦建築「中之島中央公会堂」が非常に有名だが、実はこの近辺には他にも多数の古建築が残る。

中之島図書館
中之島中央公会堂

まずは淀屋橋に面する日本銀行大阪支店。東京の日本銀行本店と同じく辰野金吾の設計。

日本銀行大阪支店(辰野金吾設計)

中之島に架かる橋もまた古いものが多い。
水晶橋は昭和4年のもので、元は河川浄化のための可動堰だったものだそう。

水晶橋

難波橋は大正時代のもので、昭和50年に掛け替えられた際も当時の部材を残してその姿を保っている。

難波橋

中之島を南へ抜け、土佐堀通り沿いに東へ進み難波橋を過ぎたあたりに、明治時代の古い建物を利用した「北浜レトロビルヂング」がある。
元は証券の仲買業者の社屋だったものをカフェとして利用しているものだそう。2階からは川向こうのバラ園が一望できる。

北浜レトロビル

ビルを挟んで2軒隣りには大正時代の見世蔵を利用したカフェとカレーハウス。ゆるくカーブを描いた屋根が特徴的である。

見世蔵

難波橋のたもと、土佐堀通りを挟んで向かいにあるのは昭和初期の外観を残した大阪取引所。

大阪取引所

アール・デコ調の直線的装飾枠を透かしてステンドグラスが見える。

大阪取引所の窓枠

アール・デコ風といえば「ぢ」の看板で知られるヒサヤ大黒堂のビルも入口が謎にアール・デコというかフランク・ロイド・ライト風というか、そんな感じの装飾になっているのだが(ビル全体はごくシンプルな現代建築)、これは何なんだろう。

ヒサヤ大黒堂ビル エントランス部分

古建築風といえば光世証券ビル、煉瓦積み壁面に鍛鉄の装飾格子というクラシックな外見ではあるが2001年の建築とのこと。

光世証券ビル

難波橋からの堺筋沿いには古建築がいくつも立ち並ぶ。
まずは大正時代の「新井ビル」。

arai-bldg.com

次いで高麗橋野村ビルは昭和2(1927)年の鉄筋コンクリート造りで、1階のみ煉瓦装飾が施されている。7階は1964年の増築。

高麗橋野村ビル

その向かいにはギリシャ神殿を模した新古典様式の三井住友銀行大阪支店中央支店ビル、1936年竣工。

三井住友銀行 大阪中央支店

実はこの近くにもうひとつ、1926年の大阪本店ビルもあったらしいのだが、そちらは見そびれた。

また少し先には1903年の和風建築、接着剤メーカー「コニシ」創業者の屋敷がある。

旧小西家住宅

ここからやや逸れるが、近くには日本の近代医学の祖である緒方洪庵の私塾跡も。

緒方洪庵

もう1区画先には1930年の生駒時計店ビル。フランク・ロイド・ライトの影響著しいスクラッチタイル張りのアール・デコ様式である。

生駒時計店ビル

www.ikoma.ne.jp

さて、ここからは西へ。平野通りを2ブロックほど進むと、1930年の「小川香料 旧大阪本社ビル」が見えてくる。

小川香料 旧大阪本社

次の三休橋筋を北上すると、見えてくるのはヴォリーズ(「メンソレータム」で知られる近江兄弟社の創設者)の設計による日本基督教団 難波教会(1922年)と、辰野金吾による赤煉瓦建築、旧大阪教育生命保険ビル(1912年)というものすごい取り合わせ。



これを見ただけでも来た甲斐があるというもの。

更にもう少し北へ行くと、グランサンクタス淀屋橋
辰野金吾と片岡安により設立された設計事務所による、1918年の旧大阪農工銀行ビル外観を残すいわゆる「腰巻ビル」なのだが、上部の意匠もよく合っている。

三休橋筋の入口まで戻ったあたりには、特に保存建築の指定などはないが古い長屋の名残りが。
そのうち一軒、吉田理容所を紹介して終わりとする。

届かない靴

楽天に出店している石川県のショップで靴を注文したところ、数日後にショップから連絡があった。
「佐川急便から、年末キャンペーン期間中は荷物が殺到し、新入社員が伝票の貼り違いで間違って配達された可能性があります」とのことで、間違った荷が届く可能性があり(届いてしまった荷はどのように処分しても良い)、正しい荷が届かなかった場合は返金もしくは再出荷を受け付けるとのことだった。
私は足に合った靴を見つけるのが難しい都合があり、せっかく見つけた靴を是非とも入手しておきたかったので再出荷を希望。
それから10日ほどでようやくショップの注文ステータスが「出荷済み」となった。

ところが数日待っても荷は来ない。
ショップからの出荷情報にある伝票番号で追跡すると、荷はなぜか大阪のセンターから出荷され福岡の配達店が担当することになっている。うちは関東なのでこれは何かおかしい。
配達店に問い合わせてみたが、「その番号は宛名が違うし福岡県内宛」とのことで、おそらくショップから連絡のあった伝票番号は私の荷のものではないということになる。

そして注文した覚えのない靴が届き、これは例の「佐川のミスによる誤配」のブツなのかも知れなかったが、荷主はなぜか「注文したこともない大阪の個人名」であった。
なんらかの詐欺的手法、たとえば「架空の注文を装って適当な荷を送りつけて料金を請求する」みたいなのを懸念して荷主の住所で検索してみたところ、どうやら実在する住所のようではあり、また氏名からは住所のほぼ一致する個人店舗らしきものが出てきた。しかし靴屋というわけではなく店舗外観からすると青果店、しかし同名同住所でそろばん塾とそろばん通販なども出てくるようで、よくわからない。
ただ、この誤配荷物の取り扱いセンターは荷主住所と同市内であり、ここから配送されたという記録とは符合する。また偶然なのかどうか、私の荷物として伝えられた(が実際には違っていた)伝票番号も、同センターより出荷された荷ではあった。
また、誤配荷物の伝票に記された電話番号は10年前に解約した古い携帯電話番号であり、通販サイトでこれの登録が残っていたのは楽天のみであった。したがって、この不明荷物は「私の注文分ではないが、楽天経由で購入された荷ではある」ということなのだろう。
楽天のユーザ情報が流出している」という可能性もゼロではないが、おそらくは「楽天からの委託を受けた佐川のミス」ではないかと想像する。


ごく一般的な通販形態として想像されるのは、「ショップが自社内に在庫を持ち、注文を受けて伝票を作成・梱包したものを、配達業者が集荷・配送する」という形だが、このやり方ならば伝票はショップが作成し荷物もショップが用意しているので、「佐川の新人が伝票を貼り間違える」ことはない。
配送センター間で荷を移動するための管理ラベルを貼り間違えて、たとえば東京のセンターに送るはずだったものを福岡のセンターに送ってしまったというようなことはあるかも知れないが、その場合でも「伝票は正しく貼られている」ので福岡のセンター側で気づいて正しい配送センター宛に転送することになるだけだろうし、いずれにせよショップが作成した伝票の通りの宛先に届けられるはずだ。
したがって、「佐川が伝票を貼り間違えた」ということはつまり出荷にあたり「ショップではなく佐川が伝票を作成、貼付している」ことを意味する。

前述の通り、記載されていた電話番号は楽天にしか登録されていない古い電話番号であるためデータの出元が楽天であることは疑いないが、それが注文したことのないショップ名義の荷として出荷されたということは、

  • 楽天から佐川に送信された情報が間違っていた
  • 楽天から送られた情報を、佐川が処理する時点でミスして荷主と配送先の組み合わせがずれた伝票を作成した

のいずれかということになろうかと思われる。
そして、「間違って届いた荷物」も「私のものではなかった伝票番号」も同じセンターから出荷されていることを鑑みるに、おそらくは「ショップは自社店舗内で在庫を持たず倉庫内の商品を自社ページで陳列販売し、注文を受けるとデータが佐川に流れて伝票作成・出荷が行われ、その伝票情報がショップへ送られる」のだと思われる。楽天が出店者向けにそういうサービスを展開しているのか、それとも佐川がやっているのかはわからないが、私の注文した石川県のショップも「販売者の住所は石川県だが商品の発送元は大阪」なのではなかろうか。
もしくは、倉庫にストックしてあるのでさえなく「注文が入ると中国あたりの業者に発注、大阪のセンターへ送られてきたものを国内へ発送」という可能性もある。

私の元へ誰かの注文した靴が届いたように、私の注文した靴も誰か知らない人の元に届き、不用品として処分されるのだろう。もしかしたら福岡に行ってしまった荷物こそが私の受け取るはずだった商品なのかもしれない。


ところで当該商品は最初Yahooストア内で発見したものの履けるサイズが存在せず、Amazonで同じ商品のラージサイズを発見したので注文したら「そのサイズは在庫がありませんでした、代わりにこちら(ぜんぜん違う靴)はどうですか?」と言われ、「別のカラーで同じサイズの在庫はないのか、あるいは注文した商品の取り寄せは可能か」と質問するも取りあわれず注文キャンセルとなった経緯があり、「本当にこの商品のこのサイズは実在するのか」疑っていたところ楽天でもラージサイズを発見して「本当にあったんだ!」と注文したら誤配のうえ再配送も届かないという、なんですか私には絶対買えない呪いでもかかってるんですか⋯⋯

シーリングスタンプ:ワックス溶融炉とハンドルを作る

シーリングスタンプのヘッドを作ったので、そのテストを兼ねてシーリングスタンプ用品を色々と揃えた。

シーリングスタンプというのは、手紙などに蝋を垂らしてスタンプを捺す封印のことだ。
古式では火の点いた蝋燭から溶けた蝋を垂らして捺したようで、今でも棒状で芯のある蝋燭型のワックスが使われるが、最近の流行りは粒状のワックスをスプーンに乗せ、炙って溶かすやり方である。
粒型の良いところは溶かす量を調節しやすいこと、そして複数の色を混ぜるのが容易であること。様々な色のワックスが販売されており、複数混ぜ溶かせばマーブル模様を楽しむことができる。

(余談ながらこれら粒状ワックスはワックスと言いながらも蝋ではなく、グルーガンで使われるのと同じ低温融点のEVA樹脂であるため蝋よりも柔軟で、割れの懸念がない。)

ワックス溶融炉

ワックスを溶かすのに特別な道具は必須でなく、手持ちのスプーンを使いガスコンロなどで炙るだけでも問題ない。が、持ち手が金属だと熱伝導によって火傷する懸念があるので非金属製の持ち手があるスプーンが必要だし、注ぎ口があった方が使い易い。また、溶けるまで手で支えるのでなく置いておける場所があると楽だ。
そういうわけで「ワックスウォーマー」とか「ワックスメルター」などと呼ばれる「専用スプーンを加熱してワックスを溶かすための炉」が売られている。

多くはスプーンを置く穴の下に蝋燭を設置し火で炙る、シンプルな方式である。蝋燭なので危険性は少ないが、「部屋の中で火を使う」ことに抵抗を覚える人もいるようだ。また全金属製でなく周辺部が木製のものでは「燃えた」という話も聞き、若干懸念がある。
もちろん、火を使わない電熱式のものもある。が、なぜか形状が「アヒル」「猫の肉球」⋯⋯⋯⋯

いや、ファンシーな可愛さが悪いわけではないが、少なくとも私の好みの路線ではない。もっとシックで、アンティークめいた雰囲気のものが欲しい。
なので自作することにした。

まず、電熱式のウォーマーを分解する。

シンプルな構造だ。電源からパイロットランプと発熱体に線が繋がっており、間にスイッチを挟んでいる。発熱体は金属板でスプーンを納める金属パーツに押し付けられており、ここを介してスプーンまで熱を伝える。
これなら筐体の自作に問題はなさそうだ。

むしろ問題はその筐体の素体である。アンティーク風のデザインを考えたいが、なにぶんこうした炉自体が近年の粒状ワックス以後に登場したものなので、そもそもアンティークの実物など存在しないのだ。
炉のイメージで色々考えてみたものの、丁度良さそうな大きさとデザインで、かつ加工が可能な素材のものを探すというのは容易ではない。
そこで炉にこだわるのを止め、アンティーク雰囲気の小物としてどう機能を収めるか考えてみた。
要はスプーンを置いて加熱する場所が収められれば良いわけで、ならば箱型でもいいのでは?

スプーンの長さは10cmほど。周囲のマージンを考慮しても、幅15cm程度に収めたい。
そのサイズで適当な箱を探したが、なかなかこれといったものが見付からない。アクセサリケースでは小さすぎ木箱の類では大きすぎ、あるいは素材が鉄やガラスで加工できない。数日悩んでいたが、ふと見た百均のマグネットフラップ付き紙箱がちょうど内寸155mmと手頃なサイズだったので、これを使うことにした。


板材に線を引き、部品を載せて配置を検討する。
スプーンは手前中央部。箱の奥行き方向は105mmだがスプーンの直径は40mmしかないので、周辺部に10mmのマージンを取っても奥側が半分空いてしまう。なのでスタンプヘッドを置く穴を作ろう。
制作したスタンプヘッドが2種類なので、左側に穴をふたつ。右半面が余るので、そこにワックスを入れた瓶を収める穴を作る。発熱体は左下側に来るので使用中もたぶんワックスが溶けてくっついたりはしないはずだ。
箱の内寸は高さ50mmしかないので、50mmに収まる小瓶を探さねばならない。最初は円形の小瓶を入れようとしたのだが、材質にガラスとある瓶を注文してみたら樹脂製で、安っぽくなるので採用を中止、代わりに空のインク瓶を採用した。

今回は丸く穴を空ける加工が多いので、ホールソーを購入する。スタンプヘッド軸を収めるための15mmと、スプーンヘッドを収める40mmのふたつだ。

ホールソーというのは要するに「刃を円形にした鋸」である。中央に軸があってドリルに取り付けて回転させることで板を切り抜く。
丸く穴を空ける道具としては他に「座ぐりビット」というものがあって、こちらは「回転させて板を削る」鉋のようなもので、穴を抜くだけでなく「円柱状に掘り下げる」ことができるのだが、その分だけ削るパワーが必要で、かつ木屑も多く出る。今回は穴を空けられれば充分と考え、ホールソーの方を採用した。

ホールソーとドリルで穴を空け、円形以外の部分は糸ノコで切る。端材で穴の後ろを塞いだので座ぐりビットで良かったのではという気もしたが、それだとスプーンの軸を受ける部分の削り出しが面倒になっていた気もする。
スプーンの受け部分は金属用のエポキシパテで接着。がっちり固まり耐熱性も高いので、発熱部の接着には丁度良い。

裏面に部品を配線してゆく。流用元のワックスウォーマーは電源コード直結だったが、箱からコードが出ているのもちょっと邪魔な気がするのでメガネ型ケーブルのコネクタを埋め込むことにした。
配線は単純な直列繋ぎかと思っていたら実は発熱体とパイロットランプLEDは並列だった。どうも発熱体はPTCヒーターと呼ばれるもので、温度上昇に伴い抵抗が増大し発熱量が下がる、自発的温度維持特性を持つ代物らしいのだが、つまり直列にするとLEDの分だけ抵抗が増え発熱しなくなってしまうようだ。
結線部分をハンダ付けし、熱収縮チューブで絶縁。

パイロットランプとスイッチは雰囲気がイマイチなので、ラインストーンを貼り付ける。
オイルステインで着色しニスを塗って、箱に収めて出来上がり。


箱の内張は黒のストライプでちょっとモダンに過ぎ雰囲気が合わないので、後からアンティークペーパー風の紙を貼った(トップの画像)。

ハンドル

最近のシーリングスタンプはヘッドにネジ穴が刻んであり、好きなハンドルを取り付けられるものが多い。
ということはネジの規格さえ合えば、ハンドルは任意ということだ。木のハンドルがもっとも一般的だが、金属や樹脂のハンドルなども販売されている。

⋯⋯自分でネジを買えばハンドルを自作できるのでは?

アンティークの鍵(風の金属チャーム)を購入し、これを改造してハンドルを作ってみる。

スタンプヘッドのネジ規格を調べてみたところ、M7だという情報を得た。これはネジの共通規格で外径が7mmであることを示す。日本ではM6以降は2刻みなのでM7というサイズはあまり使われないが、シーリングスタンプが主に海外の文化であるためそういうサイズ規格が一般的なのだろうか。
というわけでM7x10mmのボルトを購入した。

⋯⋯のだが、何故かこれで嵌まるヘッドと嵌まらないヘッドがある。
どうやらヘッドのネジ径にもM7とM8の2種類があるようだ⋯⋯
(というか一部のヘッドでなぜか「M7でもM8でも嵌まる」ものがある。径は違うがネジのピッチが一致していて嵌まってしまうんだろうか⋯⋯)

M8ならば手に入れやすい。

イモネジを使えばネジ頭の鍔部分がないので見た目もシンプルにできるだろう。

金属同士の接合用にはエポキシパテを使用した。

これは2液混合式で、強力ではあるが固まるまでは粘液状であるため支えを必要とする。流し込んで固めるなら良いが、形を整えるには不向きだった。
粘土のように練って使うタイプの金属パテをおすすめする。

鍵の先端をネジの穴に合わせてパテで接着しただけであるが、そこそこ雰囲気良くまとまった。
金属風とはいえ質感が異なるので、パテ部分は塗料を塗ってカバーしている。

栃木:蔵の街

栃木市内を観光してきた。全国で唯一の「県名と同名の市名でありながら県庁所在地ではない」、県内第三の都市というちょっと微妙な立ち位置ながらも意外に見所の多い街である。

栃木県の観光名所といえばまずは日光、鬼怒川温泉那須高原、あるいはあしかがフラワーパークなどが有名だが、実は栃木市も隠れた名所で、江戸時代の廻船問屋として栄えた栃木市には古い蔵造りの家屋が今も多く現存し、「蔵の街」と呼ばれている。
同じく江戸時代〜大正頃の建物が多い埼玉県川越、千葉県佐原と並んで「小江戸」と称される地域である⋯⋯のだが、どうにも知名度は今一つのような気がする。

8月の半ばまでで会期が終了となる足利市美術館の展示「顕神の夢」を覧に行きたかったので、ついでに栃木市で一泊して観光してきた。

宿泊

栃木市内のホテルはそう多くないが、駅すぐ横に真新しいホテルが1軒あったので、そちらに宿を取った。
business-activity-chanvre.com

アクセス性は抜群、1階はデリレストラン「FARMDELI」が入っているので食事にも困らない。




向かいのアンテナショップ「蔵なび」では栃木名産の土産物が買えるほか、ジェラートなどもやっている。

アクセス

栃木駅はJR両毛線東武日光線の接続駅であり、交通の便は悪くない。とはいえJRは、小山までなら上野東京ライン=宇都宮線で1時間20分程度、なんなら東北新幹線を使えばわずか40分で到着するものの、そこから栃木へは単線である両毛線での接続となり、その運転間隔は1時間に1〜2本と非常に少ない。対して東武日光線の方は少ない時間帯でも1時間に3本、多い時間ならば7本が運行されているので、これを使うのが賢明だろう。都内からは浅草・北千住から東武伊勢崎線、もしくはJR 宇都宮線栗橋駅から接続できる。
なお日光線両毛線も、ホーム停車時にドアが自動で開かないため乗り降りの際はドア脇のボタンを押すことを忘れずに。

今回は一泊したが、日帰りも充分に可能な距離ではあり、気軽に足を運びたい。

観光

駅からの大通りが「蔵の街大通り」である⋯⋯が、最初の500mぐらいはまったくその気配がない。だいたい700mほど進んで「文化会館入口」交差点を過ぎたあたりでようやくそれらしい建物が現れ始めるだろうか。




見世蔵の並ぶエリアの入口付近には「とちぎ山車会館」があり、隔年で行なわれる「とちぎ秋まつり」に使われる人形山車が常設展示されているそうだが、このときは臨時休館中であった。
そして、その先700mぐらいで蔵の街大通りは終わってしまう。
実は蔵の街大通りは街のメインストリートではあるのだが、観光名所としてのメインはこの通りではないようだ。

大通りの西側には「巴波(うずま)川」という小さな川が流れている。川にかかるたくさんの橋から水面までも2mあるかどうか、川幅は広いところで10m程度か、水深もごく浅く、澄んだ水を通してたくさんの鯉の姿がよく見える。、小舟しか通れそうにない穏やかな川であるが、「渦巻く」を語源とすることからもわかるように、かつては幾度も氾濫した荒れ川であったらしい。

江戸時代には徳川家康の遺骸を駿府久能山東照宮から日光東照宮へと改葬するにあたり御用荷物をこの河岸へ水揚げしたところから舟運が始まり、江戸時代には運送のハブとして大いに栄えたという。今でも川沿いに蔵が立ち並び、そのうちいくつかは資料館などとして公開されている。

また当時を偲んで観光用の小舟で川面を行く遊覧船が運行されている。

この川沿いの散策路が、まず駅からほど近い観光スポットの中心となる。
川岸にはガス灯を思わせるレトロデザインの街灯が立ち並び、夏場は灯籠が置かれ水面に灯りを映す。だいたい18:30〜19:00頃から灯り始めるようだ。



一方、大通りと川の間には「蚤の市通り」と名付けられた通りが走っている。ここは終戦まもない1953年から2011年まで定期的に蚤の市が開催されていたらしく、通り沿いには古道具屋などをはじめとしてちょっと洒落た店が立ち並ぶ。



なお蚤の市は2022年に復活し、今年も10月末に行なわれるそうだ。

通り沿いで見かけたこちらのお店は蔵を改装した、ええと⋯⋯シルクスクリーンプリントによるアパレルデザインやヴィンテージ品販売、キッチンカーまで幅広い謎の店。
bpljbplj.com




店内にはまめしば氏の姿も。大変おとなしい子で、ゆっくり撫でさせてもらった。

大通りも川沿いの散策路も蚤の市通りも、しばらく北へ進んだところで県道と交差して途切れる。
これで終わりか、と思いきやその北側になにやら古い洋風建築が。

実はここから先に伸びる「日光例幣使街道」こそが重要伝統的建造物群保存地区、古い建物がもっとも密集する地域であった。
日光例幣使とは江戸時代、朝廷から幣帛を奉献するために京から東照宮まで遣わされた勅使のことで、この道が当時の主要な街道であったらしいことが伺われる。







(余談ながら日光例幣使は道中で沿線住民に朝廷の権威に基づいた下賜品を配る見返りに金銭を得ることで金策に窮する公家の収入源となり、ときには勅使が駕籠を揺すって「朝廷の使いに失礼な」と担ぎ手に因縁を付け金銭を巻き上げるなどの狼藉をはたらく者さえおり、それが金品を強要する「ゆすり」の語源になったのだとか⋯⋯)


途中に小さな喫茶店のようなものを見付けた。シェアキッチン「Chidori」だそうだ。

walkworks.co.jp
古いとはいっても昭和初期ぐらいの小さな民家をシェアキッチンとして、曜日ごとに違う店が入っている。たまたま木曜日に訪れたのでTwilight Coffeeというコーヒー店だった。

「くらもなか」は栃木市の象徴である蔵の形をした最中皮に各店で独自の具を詰めるものらしく、Twilight Cofeeさんでは小豆餡と胡桃というシンプルな組み合わせ。香ばしさと甘味がコーヒーによく合う。

「カスカラのソーダ」はコーヒーの果肉シロップのソーダ割り。ちょっと他では見たことのない珍しさに注文してみたが、甘酸っぱく香りの良い飲み物だった。

お手製のパウンドケーキでいただく。

実は栃木市コーヒー店が軒を連ねる「コーヒーの街」なのだそうで、多くの店でコーヒーチェリーあるいはカスカラの名で果肉ソーダを提供しているようだ。


そのうち一軒、悟理道珈琲工房では夏らしくクリームソーダエスプレッソアフォガートをいただく。

コーヒー店だけではなく、大正時代の洋館を改装したレストランのメニューにまでコーヒーチェリーソーダがあった。



巴波川から更に西、県立栃木高校は明治時代の旧制中学を前身とする、創立120年近い由緒ある学校で、大正時代に天皇行幸を記念して建てられた図書館「養正寮」は国の有形文化財に登録されている。

その向かいにあるのは市立文学館、こちらも大正時代に建てられたもので、初代栃木町役場庁舎だったもの。




1階は入場無料で、2階が文学館となっている。



栃木出身である日立製作所の創業者、小平浪平と初の国産電動機が展示されていた。

この奥には市立美術館もあり、そちらは2014年まで同地にあった二代目市庁舎の跡に建てられている。
なお現在の市庁舎は大通りに面した、元福田屋百貨店の建物に入っている。同店が撤退したとき、ちょうど庁舎が築50年を越えて建て替え時であり、また平成の大合併の結果として手狭となり複数の建物に部署が分散していたことから新庁舎が求められていたが、既存建物の改築ならば新築に比して1/3の費用で済むと見積られ、また地元住民から百貨店の撤退に伴う人流減少への対策要望もあったことから百貨店の建物を改築し2階以上を市庁舎とし、1階には東武百貨店を誘致したとのこと。

川沿いに宿へ戻る道すがら、洋館を発見。

登録有形文化財に指定さた大正時代の医院であった。「栃木病院」の看板があるが、なんと現在でも現役の病院として営業中である。

実は蔵の街大通りより東にもいくらか古い建物があるのだが、そちらにも大正時代頃のものと思しき古い医院が。



残念ながらこちらは文化財としての登録はなさそうで詳細不明、また営業中かどうかも不明であった(入口付近の改修状況などから見て、少なくともごく近年までは現役であったと思われる)。