種子島より

更新できないにゃあ。しないにゃあ。
んー。↓のメモからも類推できるが、
やはり「書く」というのがかなり生活から離れていっているようだ。
まぁそれ自体はよいこととも悪いことともいえないが。


小説を読むときに、ファッション用語って
今までほとんどの場合飛ばしてきたのだけれど、
(せっかくお金も使えるようになったことだし、)
もっといろいろ調べながら読んでったほうがいいのかな、と思った。


で、ここのサイトが役に立ちそうだった。


http://kw.allabout.co.jp/glossary/g_fashion/


とりあえずここで調べて、
あとは実物をイメージ検索で見つければ、よかと。

memo

今日のダーリン

「しゃべる」ってのは、なにかね?
なんなんだろうね、「しゃべる」ってことは?
昨日は、ざっと計算すると、
7時間くらいしゃべり詰めだったようです。
高倉健さんがかっこいいとか言いながら、
なんてオレはおしゃべりなんだと、思う次第です。

しかし、酒をのむ人たちも、
あれは、結局、しゃべりに行ってるみたいなものでしょ。
「ちょっとお茶でも」にしても、「しゃべる」んですよね。
ひさしぶりにともだちに会っちゃって‥‥
どうしたかと言えば、「しゃべった」わけでしょう。
親しい人といっしょの時間を過ごすにしても、
いろいろすることはあるのかもしれませんが、
中心にあるのは、「しゃべる」のようにも思えるんですね。

家庭をつくっちゃって、夫婦になっちゃうと、
「しゃべる」時間は、減った
ような気がするかもしれませんが、
実は、それなりに少なくもないんじゃないでしょうか。

いろんな「遊び」があるのですが、
それは「しゃべる」とセットになってるような気がします。
旅、スポーツ、食事、酒、その他いろいろ‥‥
無口でもくもくとそれをしていても、
ま、いいんでっすけどー、味気なくないですか。
ぼくがおしゃべりだから、そう思うのかなぁ。
とてもたくさんの人の「おたのしみ」が、
「しゃべる」なんじゃないかと思ったら、
ちょっと、いろいろいいことが考えられそうな
気がしてきました。

ジャジャンクー Q&A メモ

三峡は古来から山水画に描かれてきたような場所。そういう、自然の雰囲気を出すため
に、全体的にポスプロで緑色に着色してある。
男たちの挽歌を使ったのは、うつりゆく三峡の街の人々の雰囲気が、渡世の雰囲気によく
似ていると思ったから。
あの男の子はもともとは街の物売りか客引きか。ある日、「役者もできるから使ってく
れ」と言いにきたので「じゃあなにができる?」と聞いたら「歌が歌える」と。だから
歌ってもらった。
劇映画を取ろうと思ったのは…
この作品の前に十日間ドキュメンタリー映画を撮っていた。(そちらも完成して、
(「東」?)一緒にベネチアに出した)それから三日で脚本を書き上げ、劇映画をとりは
じめた。
そもそもは知り合いの画家が三峡の人々を絵に描こうとしていて、自分はそれにくっつい
ていった。そのうちに自分もその人々を撮りたくなって、ドキュメンタリーをとりはじめ
た。
最初ドキュメンタリーとして取ってて、撮り終えたあとに、出演者たちが煙草を一服しは
じめた。それを見て、「ああ、この人たちはこれからそれぞれの家、それぞれの生活に
帰っていくんだな」と感じた。
どんなに密着してドキュメンタリーを取ろうと思っても、やはり人々は本当にプライベー
トな部分というのは見せてくれない。だからその部分は劇映画で撮ろう、と思った。
建物はだいたい五日でひとつぐらいのペースで壊れていった。うつりかわってく街。
あの独特なモニュメントは移住記念のもの、しかし金がなくて未完成なまま放置されてい
て、それがこの街にあまりに不似合いだったのでロケットにして飛ばしたいと思った。
UFOは、最初はニュースに大々的にとりあげられてた三峡ね街が、だんだん人々に見向き
もされなくなっていって悲しかったので、宇宙人に来てもらいたかった。

久しぶりに

ゲームを買った。そしてクリアした。
なにかといえばもちろんMOTHER3なわけです。
そもそもゲーム自体も久しぶりだなぁと思いつつも、
失われた青春を取り戻すべくその直前にクロノトリガー(やり逃していた)
やってたりしたので、実は久しぶりでもなかったりするんだが、
しかしそのクロノトリガーの前はRPGなんて2年ぐらいやっていなかったわけで、
ゲームに熱中していた子供のころを懐かしむとともに、
生活だとか時間間隔だとかが変わっていることを痛感するのでした。


で、ネット上にあった蓮実重彦のワイズマンに関する講演の採録を見てて、
映画作家とは、その作品がビデオで撮られたかフィルムで撮られたかに関わらず、
『テレビジョンでない作品』を撮る作家のことだ」という言葉に、深く納得。
「テレビジョンは、無声期を経ていないから、はじめから言語を根幹に据えている。
 そこにおける映像はあくまでもつけたしでしかない。
 だからこそ、テレビジョンにおけるドキュメンタリー番組は、
 常にナレーションや字幕のようなものを必要とする。
 これはそもそもが非常に言語的な手法である。」
と。たしかにその通りであると思う。
だからこそ映画が目指すべきは「言語的でない」「言語の『意味』に頼らない」ものであるべきだ・・・と。


「私は確かにマルクス主義者ではある」
「もちろんそれはグルーチョの方だが」
最高ですね。

春爛漫

この春休みにもっとも衝撃を受けたものが、
都築響一の『賃貸宇宙』と、
ルー・リードの『Black Machine Music』だったあたり、
ちょっと「どうなんだろうそれは」みたいな感じがしないでもない。


実生活上の一番の変化としては、やっぱり本をあまり買わなくなったことなんだろう。
まぁ、買う本の内容が変化しているせいもあるのだろうけど、
学術書や、実用書(といっても自転車の本とか登山技術の本とか地図とか)が多くなった)
絶対量としてみても、激減している。
必ずしも悪いこととは言い切れないが、「自分が好きなものに」「自分が好きなように」
時間をつぎこめてはいない、のはたしかだろうな。


神保町行ったり、早稲田行ったり、家のまわりの古本屋を自転車でめぐったりして、
ひたすらに古本を漁ってた時代が懐かしくもあり。


そろそろまた学校が始まる。2回生になった。
今年はどんな一年になるのやら。

めも(自分のための)

この日記に書くことがないのは、
きっとこの一年、自分が、好奇心の赴くままに行動してこなかった
(あるいは、できなかった)から。
好奇心だとか、興味のあることを、ひたすらに、次から次へとやっていくことでしか、
拡がらないのが、生活、というもの。世界、というもの。


やりたいこと、だとか、
何を行動原理にするか、
どういう生活を送りたいのか、
ということの手がかりにするために、
自分が生活の基盤に据えようと思っていること、
および、興味のあること、を、
B5の紙の裏表に書き尽くしてみたら、
一杯あって、とりあえずこれを手始めに、
時間を生活として左から右へ送りながら、
やれることを広げていけばいいのかな、と、思った。
「やれることを広げていく」というのは大事なこと。
フットワーク。行動力であり、実行力。
いろいろ試しながら。