シャンタル・ムフのラディカル・デモクラシーについて

今更ながら『政治的なるものの再興』と『民主主義の逆説』を読んで、最初は面白いなぁと思っていたんだけれども、やっぱりいまいちかなぁ・・・

確かに、カール・シュミット自由主義批判を引用しつつ、自由民主義体制に刻印されている敵対性とそれに伴う排除という機制に政治的なものの本質を見て取る点はもっともだと思うし、そういった政治的なものを主体の合理性やコミュニケーション的理性といった普遍的概念を措定することで消去しようするロールズハーバーマスリベラリズム的思考は早晩行き詰るというムフの指摘は鋭いと思う。また、個々人の善き生の基盤たる共通善の発見を目論む共同体論者の企ても古代ギリシャ的なものへの懐古主義以上のものにはなり得ないというのもそのとおりだ。

しかしながら、彼女の提唱するラディカル・デモクラシー論は、政治理論というにはあまりに漠然としすぎているような気がするんだよなぁ。要するに、政治的なものの敵対性を消去しようとするのではなく、それらを「自由」と「平等」の解釈をめぐる集団的アイデンティティ間の闘技的関係へと変換する諸条件を整えることが自由民主主義の重要な役割であり、そこでの合意は常に一定の排除を伴う暫定的なものであるから、最終的な絶対的真理としての合意ではなくそうした排除への絶え間ない異議申し立てこそが民主主義の存立条件であるということなんだけれども、どっちの本に収録されているどの論文でもこの主張が何度も繰り返されるだけで、ロールズの正義論やハーバーマスの討議的民主主義論に比べると定式化が不十分ではないかと。

この定式化の不十分さのせいで、たとえば闘技的関係にある集団的アイデンティティは「自由」と「平等」の重要性それ自体への理解は共有していて「民主主義的等価性」に貫かれているという考え方とリベラリズムの考え方との差異が良く分からなかったりするんですよね。ぶっちゃげ、どっちも普遍的基礎付けを要求してるんじゃないかと、おつむの弱い僕は思ってしまんだよ(ボム)。

まあ、とりあえず、今後のCDTで『政治的なものについて』も読む予定なので、そこでどういった議論が展開されているかにもよりますが、ムフの議論自体がロールズハーバーマス以上に行き詰ってる感があるんだよなぁ・・・(苦笑)。

政治的なるものの再興

政治的なるものの再興

民主主義の逆説

民主主義の逆説

政治的なものについて ラディカル・デモクラシー

政治的なものについて ラディカル・デモクラシー

大型自動二輪免許を取りにいくお( ^ω^)

自分の父親の時代なんかは、免許試験場にくそ難しい一発試験を受けに行かないと取得できなかった大型自動二輪免許だけど、時代は変わり、今は10万程のお金を払って教習を受ければ誰でも免許を取得できるようになった*1。まあ、この免許制度の改正の裏には、ハーレーダヴィットソン等の海外バイクメーカーからの圧力があったとかなかったとか、そういう話があるらしいけど。

自分の愛機のCB400SB(通称、フーコリオン弐号機)も走行距離が4万キロに迫り、来年の8月には車検を控えているため、もろもろの消耗品の交換や各部位のOHをして乗り続けるか、乗り換えるかの決断をそろそろしないといけないのだけれども、良い機会なので大型自動二輪免許を取得してもっと大きいバイクに乗り換えることにした。今週末から、4年ぶりの教習所通いだお( ^ω^)

一応、1月中には免許を取得して、2月に色々ディーラーを物色して参号機の建造を開始し、年度末決算が落ち着く4月に納車というのが今考えている流れです。候補の車種は以下の通り。

・HONDA CBR1000RR http://www.honda.co.jp/CBR1000RR/

・HONDA CB1100 http://www.honda.co.jp/CB1100/

・YAMAHA FZ1 FAZER http://www.yamaha-motor.jp/mc/lineup/sportsbike/fz1-fazer/

基本的にはこの3台かなぁと思っています。全部CB400SBと同じ直列4気筒エンジンですが、CB1100だけは冷却方式が空冷ですね。

もちろん、国内メーカーでは他にもKAWASAKIとSUZUKIがありますが、僕は「オイルが漏れるのはオイルがきちんと入ってる証拠だ!」とか許容できるほど人間ができていないですし、また鈴菌には感染していないので、どちらのメーカーのバイクにも乗ることができません(笑)。また、DOUCATIやBMWのような海外メーカーの高級バイクは階級闘争の観点から乗ることが許されません(ボム)。

元々はCBR1000RRが第一候補だったんですけど、最近はCB1100が結構有力になってきてますね。ネットとかでは割かし年配のライダーが乗る「おっさんバイク」扱いされてるみたいですが、買った後、色々いじって自分仕様にする楽しみがこのバイクにはありそうで、それはそれで面白そうだなぁと。CBR1000RRや今乗ってるCB400SBは、どちらかといえば元々完成されていて後からいじる余地が少ないようなバイクだと思いますし。

それに、CB1100は父親が昔乗ってたKAWASAKIのZ1000というバイクに良く似てるんですよね(笑)。

まあ、とりあえず免許を取って、色々試乗してみてから決めることにするお( ^ω^)

*1:普通自動二輪免許を保持している場合。

2012年夏帰省計画

今回は、25〜26日のゼミに間に合うように帰福するために、男のロマン、東京〜九州高速道路一気走りに挑戦するお( ^ω^)*1

(1)シナリオ

24日(金)は定時ダッシュ。恐らく寮に着くのは19:00前くらいなので、速攻で風呂に入って飯を食って、20:00には就寝*2

24:00起床。1時間で身支度及び荷物の積載を済ませ、1:00には出発。

2:00過ぎ、海老名SAで最初の休憩*3。ここからが本当のスタートだ。

7:00過ぎ、亀山JCTから新名神へ。以前、さびれた正義さんのいた四日市に遊びに行ったときは、寮から東名経由で大体6時間くらいで着いた(しかも、12月のくそ寒い時期に走ったので、休憩をしまくりながらの6時間)ので、多分このくらいには着くはず。今回は、走り易くて時間を稼げる新東名経由で行くつもりだし。

9:00過ぎ、吹田JCTから中国道へ。この辺の距離感はあんまり分からんのだけれども、Google先生曰く、100kmちょっとなので、2時間もあれば行けるだろう*4。まあ、個人的には、遅くとも正午前までに中国道まで行ければ問題ないと思っているので、この辺は焦らず安全運転で。

14:00過ぎ、中国道経由で山口突入。個人的には、岡山・広島がかなり長いイメージがあるため、この辺りが今回の旅で一番つらい時間ではないかと思う。まあ、しんどくなったら、SA・PAのベンチで仮眠すれば良いお( ^ω^)

17:00過ぎ、福岡IC着。ここまで来れば、もう着いたようなもんだお( ^ω^)

17:30過ぎ、箱崎着。疲労は、ビールと黒霧が何とかしてくれる!(ボム)

正味、16〜17時間というところか。google先生曰く、寮から箱崎までは大体1,150km程らしいので、平均時速は70km/時というところか。普通、それなりの頻度で休憩を入れながら走ると、こんなもんになるので、妥当な積算ではないかと思われる。

(2)懸案事項

○24日に定時で上がれるか?

この辺はもう自分で調整して仕事をしとくしかないんだけど、この間のGWの時は、定時ダッシュをする10分前くらいにハレーションが起こって、結局事務所を出たのは8時半過ぎだった・・・みたいなことがあったので、それだけは勘弁して欲しいお( ^ω^)

○バイクのトラブル

GWに帰省した時は、静岡付近でパンクして5時間足止めを食らったが(それでも、その日の夕方5時ごろには兵庫の三田に着いたんだけど)、今回それをやってしまうと、かなりやばい状況に陥るだろう。

一応、先日定期点検に出して、プラグ・エアクリ・タイヤそれからブレーキフルードの交換をしてもらったので、基本的には大丈夫なはず。週末には、洗車と各種部位の注油をやって、あとオイル・オイルフィルターの交換もディーラーでやってもらう予定なので、ここまでやればとりあえずは万全だろう。

後、出発前までにJAFに入っときます(笑)。

○天気

雨が降るだけならまだ良いのだが、台風が来るとかなりつらい。場合によって高速道路が通行止めになる可能性があるし、そうなるともうお手上げだろう。

後で、てるてる坊主でも作っておくかお( ^ω^)


まあ、こんなもんかな。因みに、長い時間走行するのには慣れているので、その辺はあまり心配していません。普段のツーリングでも基本ソロだから、14〜15時間走り回るのはざらだし、今回は高速道路の走行だけだからワインディングを走りまくる通常のツーリングよりもむしろ疲労感は少ないんじゃないかと思います。

(3)テキスト

自治体のアウトソーシング

自治体のアウトソーシング

イマテルの『自治体のアウトソーシング』。今日帰りに買ってきて、電車の中で30頁くらい読んだけど、この手の地方自治論がネオリベラリズムの「小さな政府」論と親和的でしばしば利用されてきたという感覚が色濃い自分としては、なんだかなぁ・・・

まあ、とりあえず読まんことには始まらんですが。

*1:ただし、絶対無理はしない。いつも通り?安全運転を心がけるし、体力的に無理だと思ったら、その時点で諦めてどっかに宿泊をする。

*2:恐らく、wktkして眠れないことが予想されるが、ここでは横になって休むことに意味がある。

*3:これまでの経験上、湾岸線→保ヶ谷バイパス経由で東名に乗れば、1時間程度で到着できる。

*4:ただし、都市部なので混雑する可能性もある。GWに福岡から東京に戻る際、かなり混雑していたし。

GWもまた、

ぶーんと飲んでくれた方、ありがとうだお( ^ω^)

自分は、5日の朝一に出発して、その日は京都のビジネスホテルに宿泊。翌日にTSUDANUMAゲットーへと帰着する予定です。

往路は新東名を走っている時にパンクしたこともあって、あまり寄り道できなかったんですが、その分、復路は「ツーリング」を楽しもうと思ってます。連休が2日しか残ってないのは憂鬱だけれども、僕らにできるのはその2日を思いっきり楽しむことしかないんだお( ^ω^)

では、また会う日までさらば!

バイクを駆る全ての人々へ

「我々は、バイクの危険性を考える」
http://bikedanger.blog81.fc2.com/

去年1年間立ちゴケも含めて無事故だったので完全に緩んでたけど、やっぱり安全運転は大事だよなぁ・・・

そして、どれだけ気をつけても防げない事故があるし、その結果として最悪な結末を迎えるリスクを我々ライダーは常に抱えている。この事実を受け止める覚悟のない人間はバイクに乗らない方が良い。

僕はリスクを抱えてでもバイクを駆ることには換えられない価値があると思うから、これからもバイクに乗ろう。その価値が「不幸」へと変わらぬよう、安全に。

酒井隆史(2001)『自由論 現在性の系譜学』青土社

自由論―現在性の系譜学

自由論―現在性の系譜学

2009年11月23日のエントリー酒井隆史について「このブログでも書評を書いた」と書いていましたが、実は書評自体は以前に書いていたもののアップしていなかったということが判明したので、取り急ぎ作成致しました。どうぞご参照ください。

私たちが自らの経験を構築するさいに用いるイディオムや語彙は、ここ十年あたりをとってみても大きく変わってしまった。その多くは「ニューライト」「ネオリベラリズム」と呼ばれている知の問題設定に属するものである。しかもそれはサッチャーレーガン「革命」のように多かれ少なかれドグマティックな教義による「一撃」として経験されるよりは、「なし崩し」の連続を重ねながらじわじわとヘゲモニーを掌握してきたように見える。そのヘゲモニーの移行と、そのイディオム、語彙の怒涛のような攻勢に、いつのまにかなし崩しに「無効」とされてしまった理念や理論は数多い。……こうした「なし崩し」の積み重ねは、きっと私たちの無力あるいは無力感を高めるよう機能しているにちがいない。/本書では、そのような無力感を少しでも解きほぐしたかった。端緒の発想は単純なものである。外から押しつけられた力にわけもわからず転がされ右往左往する、といった事態はやっぱりいやだ、というものだ(転がされるにしても少しは転がされる意味がわかっていたほうがいい)。いま私たちの身体をどのような力が貫いているのだろうか、私たちの身体はどのように変容を遂げようとしているのか?*1

重田園江、金田耕一、斎藤純一、渋谷望など、数々の著名な研究者を輩出してきた藤原保信門下の若手フーコー研究者の著作。特に、『魂の労働』の著者でもある渋谷望とは大学院時代の同級らしく、本書のテーマは『魂の労働』に重なる部分が大きい。

本書の試みは、「いまなにが起きているのか」「いまの私たちを構成し、諸々の経験を自明なものとして定着させている力とはいかなるものだろうか」「私たちはどうしてつい最近まで自明ではなかったかくかくのことを自明のものとしてしまったのだろうか」といった問いをめぐって、権力論の視点からアプローチすることである。そして、このようなアプローチにおいては、必然的に「ニューライト」「ネオリベラリズム」「ポスト・フォーディズム」といったタームが中心的なテーマに据えられることになったと酒井は述べている。

上記のような目的の下、序章では戦後イタリアの〈運動〉の系譜を辿ることにより、1960年代頃からしだいに生じ始めたテーラー・システムの揺らぎに乗じてフォーディズム的労働の拒否を展開した労働運動に対して、資本側がそれに応答する形でポスト・フォーディズムを進展させ、従来の規律・訓練=福祉国家体制とは異なる、管理=ポスト福祉国家体制とでも呼ぶべき新たな権力のダイアグラムが立ち現れつつある現状を描写している。

続く1部では、従来「主権−規律」という対立軸の下で捉えられてきたフーコーの生-権力論やそこから派生してくる統治性論を、「法−ノルム(動態として捉えられる社会の平均値)」という対立軸の下で捉えなおし、ネオリベラリズムのテクノロジーがまさにノルムの肥大化とそれにともなう法のノルムへの従属を背景としていることを明らかにしている。

最後に2部においては、?部において検討された法のノルムへの従属という視点から現代社会において進展しつつある「セキュリティの上昇」を主にアメリカの刑事政策を例に挙げながら具体的に分析して現代の管理社会の相貌を描き出し、絶望的状況における自由の新たな地平を模索している。

本書の論の鋭さはやはりフーコーの権力論を緻密に検討している?部において際立っているだろう。生-権力や統治性といった概念を、「法−ノルム」という独自の視点から分析し、その相貌を鋭く描き出す酒井の論文の重要性は、『監獄の誕生』や規律権力論に射程が限定されていた1990年代当時の日本のフーコー研究の水準を考慮すれば、一目瞭然だろう(従来、「主権−規律」という対立軸から生-権力論が捉えられていたのも、このような当時のフーコー研究の潮流を反映したものと考えられる)。

ただ、一つだけ苦言を呈すとするならば、酒井特有の「悪文」、そして青土社特有の誤字・脱字・誤植の多さ、これらは改善すべきなのではないかと思う。特に、後者については僕が今まで読んだ本の中でもっとも酷い水準であった(苦笑)。青土社がいろいろと面白い本を出しているのは分かるし、その点については僕もすごく評価しているけれども、せめて本書の定価である2940円分の編集作業くらいはやって欲しい(ボム)。

*1:本書13頁。