岸田総理のアメリカ訪問の際のスピーチ

なるべく気になっているスピーチ見ないなものは、全文、フルスピーチを見よう、聞こうと思っている。今は、それができる時代だから。メディアとか、仲介物を挟んでいると、全然違う誤解をしていることが多いってのが、長く生きているとわかってきた。あと、マスコミって、本当に印象操作に長けているんだよね。もちろん民意ってのは、いろいろな形で積層されて形成されていくわけだから、「そう言った仲介による操作」も含めてなんだろうとは思うけど。でも2020年代のアメリカを見ていると、二極化が進んできて、ポストトゥルースと言われるような「それぞれの陣営にとっての真実(事実無視)」が軸になるこれからの時代、ちゃんと「直接に見ること」で、自分がどう感じるかを見極めるのはとても大事なのではないかと思う。・・・あと、僕のようなパンピーが、歴史を動かす場面を全て「直接に見る」ことができるというのは、素晴らしい時代なんだと思う。民主主義とテクノロジーが発達している現代に生まれていなければ、このような贅沢は味わえあなかったと思うんだ。

www.youtube.com


“Boldly go where no man has gone before!”(誰も行ったことのないところへ果敢に行く)

この公式晩餐会でのスピーチが本当に素晴らしかった。広島が、これだけ連発するスピーチが、アメリカのこれほど公式な場所であり得たことはないんじゃないかって思う。ちょうど、今は2024年4月14日。最近オッペンハイマーを見て、ゴジラマイナスワンの思いを馳せていたわけで。いやー時代は、移り変わる。

eiga.com

petronius.hatenablog.com

なんだか、米国連邦議会上下両院合同会議における安倍総理大臣演説『希望の同盟へ』2015年4月29日(米国東部時間)以来、日米関係って、基本とてもいいよね。対中国という同盟国としての理由がはっきりしているのもあるし、日本側がこの同盟路線を明確に選択しているからだと思うんだよね。僕は、日本が同盟を結ぶべきは、英国、米国など海からの戦略を取る国だと思うので、やはりこの路線だと安心できるなーと思う。

www.youtube.com

『オッペンハイマー( Oppenheimer)』2023 クリストファー・ノーラン監督 米国保守派とリベラルの分断ポイントをえぐる途轍もない傑作

評価:★★★★★星5つ
(僕的主観:★★★★★星5つのマスターピース  

とてつもない傑作だった。会社半休取って日比谷の映画館に見に行ったのですが、頑張った甲斐がありました。

🔳2つ視点の対立で進む構成

かなり難解との噂を聞いて、予習をしていったのだが、オッペンハイマーキリアン・マーフィー)視点がカラー(FISSION(核分裂))で、対立するストローズ(ロバート・ダウニーJr.)がモノクロ(FUSION(核融合))で、異なる時系列(1954年の聴聞会と1959年公聴会)がシャッフルされながら、話が進むという構成の難解さを先に理解しておけば、話は、少なくとも僕には単純明快で、わかりやすかった。ストローズという対立軸を設定したことで、言いたいメッセージが、クリアーになったと思う。これがクリストファー・ノーラン監督か?と思うくらいに、シンプルで驚きだった。わかりにくくないわけではないので、難解なものを、彼のような時系列のシャッフルする演出する技術が円熟味を増しているのではないかと思う。

登場人物が多く出て誰が誰だかわからないとも言われていたけれども、基本的に、オッペンハイマーとストローズだけを柱で追っていけば、その他の登場人物は、彼らが描き出すテーマの背景に過ぎないので、無視しても何の問題もないと思う。もちろん、水爆の父であるテラーやアインシュタインやハイゼンベルグくらい知っていると、面白いかもしれないが、主軸ではないと思う。

ただなかなか日本人には馴染みがないだろう大きな理解に必要だと思うポイントは、劇中ではめちゃくちゃ指摘されていて英語で聞ければかなりクリアーではあるのですが、

1)オッペンハイマーとストローズが共にユダヤ人であること。

2)オッペンハイマーが裕福なボンボンで、ストローズが極貧から這い上がった成り上がりであること。

オッペンハイマーは、ヨーロッパに遊学して、神経を病んでフラフラできるぐらい、むちゃくちゃ金持ちのボンボンで、恵まれまくって裕福だからこそ、繊細で弱いものの味方に見えた共産主義ファシズム抵抗するスペイン内戦にシンパシーを感じたのですね。だから彼ははっきりとした民主党員(デモクラット)だったこと。その比較として、ストローズが、高卒で大学進学をあきらめて靴のセールスマンをしているところから這い上がってきた生粋の叩き上げの共和党員(リパブリカン)であることです。わかると思いますが、金持ちのボンボンのオッペンハイマーは、理想主義者です。苦学して辛酸を舐めてコンプレックスから成り上がったストローズは、現実主義者です。同じユダヤ人でありながらも、見ている世界が全く違うんです。こういう二人が、安全保障上の問題意識で意見が合わなくなっていくのはむしろ当たり前です。


とにもかくにも、この2つの対立する視点が、時系列無視で同時にシャッフルして、比較対立されながら物語が進んでいくというこの一点を理解できれば、とてもシンプルな映画です。映画を見慣れている人が、まずわからないとは思えませんが、ここは肝だと思います。鑑賞前に、先に知っていると、とても楽に物語に入れます。


🔳米国保守派の視点から見たとしてもシンパシーを感じられるところが凄い

この映画を評価する上で、最大のポイントは、米国が分裂の時代において、リベラル視点でも保守派視点でも、そのどちらが見ても、感情移入できるバランスを持っている点だと思います。ところが、この作品を揶揄するというか賢しらに批評するポイントで、


原爆の被害を描かなかった


点がよく挙げられます。真面目にこの映画を見るときに、そこが日本においては最大のポイントになるのは、仕方がないと思います。流石に日本において、被爆国の立場から、米国素晴らしいと素直にバンザイを叫ぶのは難しいと思います。しかし、この結論は、大抵「だからダメなのだ」という話に繋がります。完全な反戦、完全な戦争反対みたいな行き着いた「土下座謝罪」みたいなものが、多分観念の中にあって、そこまでいかないと評価できないと言いたいわけなんでしょう。


でも、これが全く話にならないのは、わかると思います。まず、そもそもエンターテイメントとして、面白くないでしょう。そして何よりも、米国の映画ですから、米国人に受け入れ難いでしょう。しかも、最初に2020年代のアメリカ社会の社会的前提は、二極化、分断です。2024年の現在は、トランプ元大統領とバイデン現職が、真っ向から戦ったいる真っ最中にあります。そもそも、ディープステイツ(DS)など陰謀論的なものが受け入れられるようなポストトゥルース的状況であることからも、ちょっとでも「それぞれの陣営の持つ真実」からずれているものは、相手の妄想だと切って捨てて無視する状況なんです。このなかで、原爆の開発は、アメリカの兵士を救い、戦争を終わらせたというアメリカの保守派が持つベーシックな神話への批判を書いたところで、半数は全く身もしない、宣伝映画に成り下がって終わることは目に見えています。

この状況下で、全般的に明らかに、オッペンハイマーは、原爆の開発を罪としてとらえて批判的な視点で、全体が構成されています。にもかかわらず、アメリカの保守派が、これは見るべき、感情移入できる映画だと人気を博したところにこそ、この映画の価値と意味があることは明白です。基本的に大量殺戮兵器を生み出すこと、使うことに強い違和感と疑念が理想主義者のボンボンのオッペンハイマーにはあるので、全体に疑念のあるトーンで描かれている。


これは、光と波の幻想的な映像、人々の足踏みの音に代表とされるイメージと音で、表現されています。この作品は、IMAXよりも、むしろ音こそが主役であると言ってもいい作品だと思います。オッペンハイマーが、原爆の開発に感じ取る罪と恐怖を、つねにこの音で表現しているからです。


しかしながら、たとえそうだとしても、この巨大プロジェクトを、マネジメントと経験のない若手の繊細なオッペンハイマーが、癖があり過ぎてどうにもならんだろうという知の巨人たちをチームとして機能させて、プロジェクトを完遂させたことには、驚嘆を禁じ得ない。正直、これが日本人で、被爆国である我々の視点で見ているから、視点が批判的にどうしてもなってしまうが、それを除いたら、こんな大成功、歓喜して叫びまくって自尊心肥大して、USA!、USA!とか怒号を叫びまくってもおかしくない、大成功だ。いやはや、アメリカという国のプラグマチィズム、底知れない潜在力に圧倒される。ナチスを止めるために使命を帯びた巨大プロジェクトを成功させたアメリカの凄さ!は、これほど不安が貴重低音で描かれながらも、それでも、胸にブッ刺さってくるほど、偉大さが圧倒してくる。


この二極化する分裂するアメリカの両サイドから、どちらもシンパシーを感じる形に攻めた構成になっていることこそ、この映画の真価だと僕は思う。であるならば、この背景において、単純に原爆の被害を描くことなく、その恐怖を音やさまざまなものでクリアーに(僕にはクリアーに感じる)原爆の被害の恐怖を伝えて、しかも、反対の神話を信じる米国の保守派にさえ伝えているところが、ものすごいのだ。まさにオスカー納得の作品だ。


🔳見る時のスタンス〜自分とは逆の立場に「自分」を連れ出してくれること

アメリカに住んでいるときに、『ミッドウェー』を見にいったときに、前の席のおばあちゃんが、日本の空母に爆撃する米軍の部隊が失敗するたびに「ああー」とか「あたれー」とか、ハラハラどきどき呟いているのを聞いて、あれなかなか微妙に気分になるのと同じ感覚を味わったことがあります。

https://petronius.hatenablog.com/entry/2019/12/07/032912

自分の祖父母の世代だものね。祖母は東京大空襲で死にかけてるし(死んでたら僕は今ここにはいない)、Jpaneseという言葉が出てくると、「ああこれはファンタジーでもただの空想の映画でもないんだ」と、不思議な気持ちになりました。巨大なプロジェクトの成功には、血湧き肉躍る高揚を感じるけど、それがすなわち、自分たちの国に向けられる大量破壊兵器なのだと突きつけられる恐怖。


こういう映画は、本当にいい映画だ。


🔳リベラルの視点から見た

日本公開が延期したとかいろいろ問題になったというが、よく理解できない。原作のタイトル、American Prometheus(アメリカのプロメテウス)もそうだし、

Prometheus Stole Fire from the Gods and Gave It to Man. For This, He Was Chained to a Rock and Tortured for Eternity.”

で始まるところも、とてつもないものを作ってしまったというオッペンハイマーの自らの罪への苦悩がテーマであるであると思う。配給を決めたビターズエンドには、感謝を。

それにしても基本的なアメリカの世論は、原爆が戦争を終わらせたというコモンセンスがある中で、批判的なメッセージで中和するハリウッドの大作をつくり、それがオスカーを受賞するのは、素晴らしいことだと思う。同時に、このような映画と同時に、『ゴジラ-1.0』のような反核のメッセージと共に育ってきたコンテンツがアメリカでヒットすることもまた、そういうのこそが大事なことだ、と思う。

またもしこれが、原爆賛成の映画だったとしても、それならば尚更日本で公開しなければならないと僕は思うけれども。日本も、アメリカと同じく、この硬直化して結果を何も考えられなり純粋リベラル派の浸透は根深いんだろうなと、なかなか頭を抱えます。この映画を見て、原爆さん生映画だと感じる人も結構見ます。いやはや、ちょっと信じられない。文脈を読む力無さすぎだろうと、お決まりの批判を言いたくなるけれども、多分そこではなくて、二極化した極端脳の世界に住む人々はエコーチェンバーの世界に閉じこもって世界を眺めているから、そもそも文脈を「読む気がない」のが基本なんでしょうね。


でも、『バービー』を見た時にも思ったんですが、アメリカ映画には、この二極化する社会の分裂に対して、いかにして「共通のものを見ている」感覚を抱かせながら、その両者に、「自分お立ち位置」の欺瞞性を、批判生を気づかせる仕組みになっているのが素晴らしい。仮に「気づかない」でも見れてしまうところが、素晴らしい。

petronius.hatenablog.com


この映画のポイントは、保守派には、大量破壊兵器が生み出す罪を突きつけるし、リベラルには、ナチスが原爆を開発しようとする時にどう対抗すべきなのか?、この争い合う人類社会で力を制御し、安全保障を考えるにはどうすればいいのか?と、そのどちらも、自分を「正しい」立場だけには置けない、しかし解かなければならない難問に直面させる。素晴らしい物語だと思います。


ちなみに、この2020年代の二極化の時代の米国の背景を知るには、この本がベストです。

キャンセルカルチャー ~アメリカ、貶めあう社会~


🔳米国の保守派もリベラルも、同じものを共有できることにどれだけの価値があるか!

note.com

www.youtube.com

ついに宝塚にいってきました!『RRR × TAKA"R"AZUKA ~√Bheem~』で礼真琴さんを見てきました!

人生で一度は、宝塚に行ってみたいと思いながら、なかなか機会を得ず、行けていませんでしたが、ついに、宝塚デビュー。3/26の午前のRRRの星組の公演に行ってきました。礼真琴(コムラム・ビーム)さん、舞空瞳(ジェニファー(ジェニー))さんの主演ですね。

チケットを取ってくれた友人は、暁千星(A・ラーマ・ラージュ)さんが、推しだそうで。

110年の伝統を誇る、日本のオリジナルコンテンツ宝塚。ついにデビューしました。一言で言って、最高でした。特に、ダンスシーンが圧巻で、ナトゥも当然素晴らしいのですが、その前の普通のダンスがあまりに見事で、このレベルのダンサーなんだと衝撃でした。友人曰く、宝塚は劇団四季に比べてダンスが上手いのですが、礼真琴はその中でもかなりのレベルなんですと、解説してくれました。

kageki.hankyu.co.jp

いつもは、有楽町の駅から日比谷のTOHOシネマズに行くのですが、その先に行ったことは、一度もなくて、ここにあったんだ!と驚きました。知らないと、視界に入らないものですね。

レビュー・シンドローム『VIOLETOPIA(ヴィオレトピア)』なんですが、RRRも1時間半であの長大な物語をよく見事に収めた脚本で、本当に素晴らしかったのですが、レヴューもまた、素晴らしかった。しっかし、3時間近く、あれだけ動き回って、息が上がっていないのがわかるので、一体どんだけなんだ、と感嘆の嵐でした。一緒に行ってくれた友人曰く、宝塚の出し物はだいぶ、???という感じの残念なものもあるので、いろいろ差が激しいとのこと。RRRは見事な出色の出来なうに、星組で、かつ礼真琴さんという最強クラスの布陣で、なかなかこのレベルは最高峰と言っていました。だけれども、伝統のレビューは、むしろこちらをメインで見にくる人もたくさんいるくらいで、良いですよとのことでしたが、本当に驚くほど良かった。

これとか、なんだよって(笑)。って感じですが、こういう遊び心は、いいですね。もちろん僕も食べました。しっかし、女性ばかりで、本当に女性に愛されているのだなという感じでした。僕の横に座られた、ご年配の奥様(僕から見てもなので還暦クラス)が、もう若い娘のようなはしゃぎぶりで、楽しそうで、ああこういう夢の世界に生きれたら、人生最高だなって思いました。近くにいると、とても楽しい気分の波動が伝わってきて。そんな中に、おっさん二人(笑)でしたが、こういうところに、誘ってくれる会社の同僚がいる自分も、ラッキーだなって思いました。

110年の歴史があるんですね。そういえば、松岡修造さんの娘さん(松岡恵さん)もいらっしゃるそうで、稀星かずとさんというらしいです。宝塚のトップにはどうすればなれるの?という質問をしていたときに、どのように選ばれていくか?というのが、不透明で何もわからないのが燃えると言っていました。ちょうど、会社の出世競争の話もしていたのですが、本当に何が基準かよくわからない。実力だけでもないし、ビジュアルだけでもないし、歌やダンスの能力だけでもないし、もちろん、松岡修造さんの娘さんのように血筋や実家の太さだけというわけでもない、、、、とのこと。話を聞いていて、ネットフリックスのドラマで相撲界を描いた『サンクチュアリ』を思い出していました。

応援する人は、ただ一人の推しを、卒業前から30年間くらい推し続けて、その人が卒業すると燃え尽きて、宝塚ファンもやめてしまう人も多いとか。何と深い世界なんでしょう。

創業者の小林一三

せっかくだからと、対面のビルで衣装展示をしているので見に行きましょうと。グッズもたくさん売っていて、いやーこれは購買意欲湧くんだろうなぁーと感心しきりです。友人曰く、関西の宝塚も一度は行くべきと力説されていました。また人生でやりたいことが増えてしまいました。

僕の宝塚の知識なんて、ほぼ全てマンガからなのですが、あらすじを説明したら、まんまですねって、すごい面白がってくれました。その友人は、舞台とか演劇の人なのですが、マンガを全く読んだことがないようで、同じ物語を好きで、かなりのオタク体質なのに、全く違う人生なんだなって感心してしまいました。自分の人生を振り返ると、マンガを読まないなんて、どうやって生きてきたのかまるでわかりません。

かげきしょうじょ!! 1 (花とゆめコミックス)

左翼の理想に溺れないバーニーサンダースは見事。

バーニー・サンダースのこのスピーチ素晴らしかった。バリバリの左翼なのに、理想に溺れない、このプラクティカルな姿勢は本当に素晴らしい。

政治学者のTweetが秀逸なコメントだった。

これまでも多くの政治体制が試みられてきたし、
またこれからも過ちと悲哀にみちたこの世界中で試みられていくだろう。
民主主義が完全で賢明であると見せかけることは誰にも出来ない。
実際のところ、民主主義は最悪の政治形態と言うことが出来る。
これまでに試みられてきた民主主義以外のあらゆる政治形態を除けば、だが。

ウィンストン・チャーチル 下院演説 (November 11, 1947)

もう既に82歳(2024年時点)。ルース・ベイダー・ギンズバーグは、87歳で、2020年に亡くなった。バイデンが、81歳(2024年時点)、トランプが、77歳(2024年時点)本当に高齢者が、アメリカ政治を支配している。とはいえ、大統領になることもなく、2016年のヒラリー・クリントンの対抗馬として登場して以来、有名になったが、きっと、これから30年、40年後には、あまり顧みられることもなく忘れさられてしまうのだろう。多分同時代にいなければ、またアメリカ政治に興味がなければ、この凄まじい存在感は、わからないだろうなぁと思います。

vimeo.com

劇場版『大雪原のカイナ ほしのけんじゃ』安藤裕章監督 巨樹「軌道樹」の上に「天膜(てんまく)」に住み世界を見下ろすビジュアルの未見性だけで満足できるくらい好き


劇場版
評価:★★★★★星5つ
(僕的主観:★★★★★星5つ)  

アニメシリーズから劇場版にかけてきちっと終わっている。とにかく素晴らしく好きだった。満足。そ、そんな大事なことがなぜ伝わっていないんだ!人類(笑)と僕も、叫び出しそうになったけど、過去に何か大きな出来事があって情報が断絶したんだろうなって思う。

www.youtube.com
アニメシリーズ
評価:★★★★★星5つ
(僕的主観:★★★★★星5つ)  

どんな作品かと言えば、エンターテイメントを追求してた頃のかつての宮崎駿の世界を弐瓶勉が描いたというノラネコさんの感想が、僕も同感。しかしかといって、オリジナル性がないわけでもない。オマージュを強烈に感じるのだが、かといってコピーやマネを感じない、見事な世界観がある。どうこれを説明すれば良いのかわからなかったけれども、最近のノラネコさんのTwitter(X)で言及している


未見性


という概念で、かなり説明できるような気がする。僕がよくSFに対して求めているのはセンスオブワンダーという言い方をするんですが、これの中身を分解していくと、「見たことがないものを見せてくれたかどうか」という部分で、これがまさに未見性というやつなんだと思います。そして、『大雪原のカイナ』で僕がぐっときたのは、巨樹「軌道樹」の上に「天膜(てんまく)」に住んで、世界を見下ろすビジュアルだと思うんですよね。風の谷をもっともっと小さくして、滅びる直前の最後の生き残りだけの村の若者のカイナが、食糧を狩るために、虫を狩り、食べるシーンから物語が始まる。もう、ここだけでノックアウトですよ。

ここで語られているように、物語のストーリーを楽しんだり、その整合性を気にしていると、未見性を楽しむというセンサーが薄れる気がするんですよね。SFのアニメーションや映画は、何よりもこの、「いままで見たことがないものを見せてくれること」ができているかどうかが、最も大きなコアの魅力だと僕も思います。評価をするのならば、物語性や、その整合性は、2番目だろうと思うんですよね。でも、これが許せないと主張する人は、なぜかネチネチいますよね。あれなんなんでしょう。僕も、どちらかというと、ストーリー性を評価しがちなので、たとえばギャレス・エドワーズ監督の『ザ・クリエイター 創造者』とかが、とても評価悪いです。でも、これもやはり「未見性」という評価軸で見ると、素晴らしい出来の作品なので、この辺りの「どの視点で自分は見る癖があるのか?」と「自分が得意ではない見方を育てたり感受性を高める」というのは、人生を楽しみため、映画を楽しむためには大事な意識だと僕は思います。僕も、初見の時に、『大雪原のカイナ ほしのけんじゃ』も『ザ・クリエイター 創造者』も、世界観の解説、説明が弱いよ!って不満を持って見ていましたし、終わったときのモヤモヤも基本そこでした。そういう意味では、典型的な日本の観客なんだろうと思います。でもこれを、未見性を体験させてくれたか?という視点で見ると、評価がガラリとかわる。ストーリーを追う分には、情報摂取なので、小さなiPadの画面で十分。しかし、SFの未見性のセンスオブワンダーを感じたいのならば、大画面の方がいいし、最終的には、映画館の方がダントツに良いだろう。この視点からは、両作品とも、かなりの水準に到達していると思う。

🔳ストーリーとしての評価

SF的には、「これだけ人口が少ない」滅びそうな村という設定から、この若者は世界の謎を知ろうと、そして家族を作るために女の子を探しに村を出るんだなとしか思えません。また、軌道まで大きな木があって、膜を張っているなんて、地球を浄化しているか、異なる星でテラフォーミングしているとしか思えません。最初の10分もしないで、この時点で、全て普通にわかるでしょう。水が軌道樹から出なくなって人類が滅びそうということは、普通に考えて、浄化プロセスかテラフォーミングが終わって、フェイズの変更しなければいけないのに、システムが狂っているとかなんとかそうとしか思えない。と考えましたが、ほぼ当たりでした。でも、この既視感のある設定だからといって、全然、このセンスオブワンダーの感動は損なわれなかったんですよね。


そして、地上から女の子が浮いて登ってくる!!!(笑)。ラピュタの逆じゃん!


構造的には、『シュナの旅』と同じだと思う。本当に宮崎駿ワールドなんですが、やっぱり素晴らしいよ。BOY MEETS GIRLって、「女の子が降ってくる」というラピュタガンダムUCで定型化したある種のご作法じゃないですか。それを、物凄い単純ですが、逆に地上から浮いて登ってくるって、素晴らしいです。「それを納得させる」世界観を作り出さなければ、ダメだからなんですよね。僕は、この最初の「軌道樹の虫の狩のシーン」と「アトランドの王女リリハが軌道樹の根元から登ってくる」シーンだけ、何度も実は見返しているんですよ。好きで好きで。


全体的に、ストーリーとして何かの新規性はないんです。とても骨太で、古典的。既知の世界観、ストーリーなんですが、これを緻密に練り上げて、それビジュアルで示す力は本当に素晴らしい。僕は大好きな作品で、これからも何度も見返すでしょう。

www.youtube.com

倉本圭造さんの「(右翼さん以外のための)『川口市のクルド人問題』まとめ」を読んで、相変わらずバランス良くて素晴らしい!とうなりました。

(右翼さん以外のための)『川口市クルド人問題』まとめ 倉本圭造


倉本さんの記事が相変わらずいい。

ペトロニウスは、アメリカに長期間住んでいたので、移民問題には、いろいろ思うところがあります。何よりも社会問題として抽象的ではなくて、「自分ごと」ととして感じるんですよね。こればっかりは、自分の国のマジョリティ(日本人であり男性の中産階級)であることと、マイノリティ(アメリカという異国の地で滞在資格を気にしながらアジア系のマイノリティとして生きる)であることを、両方経験しているので、その「差異」に敏感なんだと思います。


とはいえ、社畜リーマンであり、3人子持ちのアラフィフのペトロニウスには、時間がないので、あまり政治的なことには、関わりを持ちようがないし、事件を追っている余裕もありません。なんでこの問題を気にしてたかというと、映画のマイ師匠(←勝手に思い込んでる)のノラネコさんより、『マイスモールランド』をお勧めされてみたところ、めちゃくちゃ良くて、人に勧めまくっていたんですね。そうすると、結構な比率で、


「あークルド人問題ね、、、、それ背景わかっていないでしょう?。クルド人可哀想とかいうリベラルに騙されてはいけないですよ。」


という忠告を広範囲で観測したんですよね。はっきりいって、移民問題に関しては、だいぶ心情的に(自分も外国で住んだことあると、どうしてもそうなる)リベラル寄りの発想というのもあるんでしょうが、なんか歯の奥になんか挟まったいいようで、「リベラルに騙されてますよ」的に忠告されるのが、鼻についてムカついたんですよね。


その態度ってネトウヨ(=たいして事実関係も知らないくせに思い込む)じゃないの?という風に反発を感じてしまって。だから、知りたかったのですが、軽く調べるだけでも、基本的にイデオロギーに偏った視点での罵り合いしか(メディアでさえ)ほとんどないので、具体的な対応方法が全く思い浮かばなくて、、、それで黙るしかなくて、うーんとなっていたんですよね。自分の肌感覚や、あたりまえの自由主義に基づく近代国家としてのコモンセンスからこれらの報道や言説が、ぜんぜん腑に落ちなくて。


多分題材的に、「俺は真実を知っている」といいやすいやつなんだと思います。日本の大手メディアって機能していないので、事実関係からグローバルスタンダードな世論を組み上げるインフラを提供する機能が弱いので、こういう陰謀論的なものをいいやすい。特に、この



欧米の国でも普通にやっているような出入国管理上の当然の国家の権利を行使しているだけ



という部分は、


国家権力による秩序の維持


と、


人権をどのように守っていくか?


という右と左が対立するセンシティブな領域なので、この辺りの時系列的な大きな流れとファクトベースをちゃんと網羅しないと、話にならないんですよね。僕はこの記事を読んで、非常にフェアに情報が提供されていて、素晴らしく勉強になりました。こういう機能こそ、大手報道メディアが提供するべきで、NHK以外まともにできていないのが、よくわかります。ただ、もう少し踏み込んでくれないと、NHKだと、リテラシー高くないと、本当に伝わりにくいんですよね。まぁだからこその、NHKなので、それを要求するのは酷なんでしょうけど。でも、倉本さんという個人でも、ちゃんと調べれば、これらのデータは、いくらでも公開されているのが、自由な近代国家なんで、可能なんですよね。


記事の内容は読んでもらいたいですが、あっちゃんの入管法の話をすごく連想しました。ペトロニウスの感覚ではこの問題のイシューは、


入管法の問題なんですよね。


ようは、グローバルスタンダード、、、この言い方は手垢に塗れていますが、ペトロニウスが言うときは、西ヨーロッパ先進国と北米アメリカとカナダの基準と言い切っていいと思います。それ以外の国を参考しても、少なくともリベラルな市民社会と国家の維持を両立できているのは、ここしかないしょう、ここ数百年。その基準からして、厳格さと人権に関する対応が、両方とも甘すぎるんですよね。だから、右翼と左翼とのぶつかり合いの場になってしまう。


僕も倉本さんと結論は同じです。日本は、もっと移民に対して厳格になっていいと思う。同時に、人権に関しての管理があまりに甘すぎる。この「両方」を法律的に整備していくことは、自由で公正に開かれた近代国家の最前線の水準からして、当たり前のことであり、あまりに仕組みがザルだと思うのです。


これ左右両方の言っていることが、「それなりに」どちらも正しいことを示しているんですよね。


だったら、ちゃんと具体的に、そこを狙って、社会を漸進的に良くしていくように考えて行動しようぜ、って思いました。特に、この場合はリベラルがダメなのは、間違いないですね。リベラルサイドが、極端な陰謀論的な極右を生み出したくて動いているとしか思えない、「結果をまるで考えない」行動をしているのがよくわかります。


いやー勉強になりました。

petronius.hatenablog.com

www.youtube.com

www.youtube.com

www.youtube.com

『落下の解剖学』(Anatomie d'une chute)2023 ジュスティーヌ・トリエ(Justine Triet)監督 夫婦とは何か?

評価:★★★★☆4つ半
(僕的主観:★★★★★5つ)

親友のまぎぃさんと、2024年3月23日(水)の休日(春分の日)に、日比谷シャンテの15時15分の回を日比谷シャンテで見てきました。2月に公開されて、3月20日に見に行ったが休日だったからだろうけど、席は満席で、かなりの盛況だった。ちなみに、フィルマークスの記事とは違い「物語三昧」のブログは、常にネタバレ全開なので、ネタバレを避けて観に行きたい人は、読むのはやめた方がいいです。

第76回カンヌ映画祭パルム・ドール受賞作です。2024年は、メジャー級の作品でなく、マイナーなものもできるだけ劇場にみに行きたいと思っているので、行けてよかった。といっても、ハリウッド的大作じゃないだけで、今年の超話題作だけどね。ジョナサン・グレイザー監督によるホロコーストを題材とした『関心領域』(2023)とともに、ザンドラ・ヒュラー(Sandra Hüller)は、二つの話題作の主演女優ですね。東ドイツテューリンゲン州ズール出身のドイツ人の俳優ですね。今年(24)時点で45歳。顔立ちは、とてもドイツ人的に見えるので、それもこの映画の舞台であるフランス語圏のプレンチアルプスに住むということに意味を与えていますね。


🔳ミステリとして見ないことが鑑賞の作法

実は前情報ゼロで行きました。普通に見ていれば法廷スリラーとして観れるのだが、ハリウッド的文法を期待していると、肩透かしをくらう作品ですね。終わった時に、法廷ミステリーとは違い、結局のところ「彼女が夫を殺したのか?それとも夫の自殺だったのか?」の真実がわからないまま、物語は終わります。息子の証言によって、彼女は無実を勝ち取るのですが、結局、真実がどうだったかがわからないので、普通の観客はモヤモヤしてしまう。典型的なハリウッド的文法ではあり得ない様は、まぁ考えてみれば当たり前ですね。ちなみに、典型的な法廷スリラーでハリウッド的なものは、直近ではオリヴィア・ニューマン監督の『ザリガニの鳴くところ(Where the Crawdads Sing)』(2023)ですね。

www.youtube.com

まぁ、カンヌ映画祭パルム・ドール受賞作で、フランス映画とくれば、それは当たり前じゃないですか。この賞を取るのが、わかりやすいハリウッド的なカタルシスがあるわけがない(笑)。逆に、最後の終わらせ方で疑問が残るが故に、調べたり、考えたり、話したり、、、と、ヨーロッパ映画らしい作品だと納得。終わった後、いろいろ調べて、結局この作品は何が言いたかったのか調べまわりました。そして、そうやって、なぜ監督はこういう描き方をしたのか、何が言いたかったのか、と観終わった後に喚起させるエネルギーは、さすがの作品なんだと思う。ジュスティーヌ・トリエ監督の、キャリアベストの集大成が納得の作品。

🔳本質は、夫婦とは何かを問うこと?

初見で見ると、裁判の中で明らかになる夫婦の諍いを「想像」で再現した長回しのシーンが、迫力満点。だけでなく「夫婦という関係性の本質を抉っている」感じがして、胸に突き刺さってくる。これって夫婦のパワーゲームの赤裸々な闘争を描いていて、家庭の中に閉じ込められてるが故、誰もが体験しているのに、社会的に共有されていないモノだ。これが見事に可視化されている。

そして、これがあからさまで、胸がざわつくのは、通常は家父長制の男性優位社会の中では、こういったパワーゲームの強者の位置は基本的に男性で、搾取されるのが女性だったのに、このケースの場合は、立場が逆転しているので、変なポリコレやフェミニズム気分に惑わされず、この「パワーによる相手の押さえつけ」がどれだけ尊厳的に苦しいかが、ビンビン伝わってしまうからだろう。ドイツ人のちょっと強面のザンドラ・ヒュラー(Sandra Hüller)が、バイセクシャルで、2回浮気をしているんですが(いや実際はもっとか?)相手が女性ということ、また本人も女性であるけど、肉体関係だけなんだから、その程度許せよ的な雰囲気が、強者の立場(稼いで才能があるのは彼女の方)で言い放たれると、これは養われている立場の夫は、しんどいですよね。この関係性は、通常の男女では、逆ですよね。


このシーンこそが、ジュスティーヌ・トリエ監督が描きたかったモノなのではないかと思う。またこのシーンには仕掛けがあって、たしかに明らかに主人公であるサンドラ(ザンドラ・ヒュラー)は成功した小説家であり、一家の大黒柱として稼ぎ、性的にも奔放で、エネルギーも溢れて、夫より優位に立っているように見えるのだが、住んでいるここは、フレンチアルプスのど田舎の山の上。もともと、妻はドイツ人で、夫はフランス人で、元はロンドンに住んで英語で子育てをしてい国際結婚の夫婦だったわけで、夫のわがままに合わせて、フランスのど田舎で不自由なフランス語を使い暮らすサンドラは、かなり厳しくつらい譲歩を夫にしている。夫の故郷で、暮らしているわけだから。ドイツ人であるサンドラにとって、フランスの田舎で暮らす苛立ちは、裁判などでもフランス語の使用をしなければならなかったり、強く伝わってくる。それは、何度も彼女がいうように、夫を「愛している」からだろう。

ここで描かれているのは、「夫婦という関係性」の複雑さだ。

パワーゲームの観点では、すっかり冷めて、お互いの尊厳を傷つけあっていて、すでに抑圧的な関係になって、先がないのは、嫌というほどわかる。しかし、激しい喧嘩だけではわかりきらない複雑に絡み合った愛情が、夫婦関係というものの難しさだ。ここまでこじらせていても、愛しているということはあり得るのだろうと思う。この辺りの「難しさ」と抽象的に言ってしまえば簡単だが、それを具体的に見せ、体験させてくれるこの映画は素晴らしい。パルム・ドール納得の深みだ。


ちなみに、ジュスティーヌ・トリエ監督の意図からすると、フランスのポスターが「正」で、アメリカ、日本や他国で展開されている「死んだ夫が倒れている」ポスターは明らかにミステリー者としてミスリードしている。監督が描きたかったのは、「あの幸せで愛し合った夫婦」が「なぜここまで歪に壊れた関係になっていくのか」なわけだから、幸せだった二人の写真を打ち出す方が正しい。


描きたい本質がずれていないので、『La Bataille de Solférino』(2013)、『Victoria』(2016)、『Sibyl』(2019)と観たいところだが、見る方法がないかも。また、インスパイアされたと監督が語っている『A MARRIGED COUPLE』や『scenes from marriage(ある結婚の風景)』を観たいところ。参考に聞いた町山智浩さんの解説で、ジュスティーヌ・トリエ監督の興味は、「夫婦の姿を描き出すこと」がやりたいことなんだという視点は、僕も非常に納得。そこで出してくるクライテリオンで影響を受けた映画をジュスティーヌ・トリエ監督が挙げていて、彼女の興味がずっと一貫しているという指摘は、なるほどでした。

www.youtube.com


www.youtube.com


🔳結局どうだっのか?〜夫は自殺したのか?それとも、妻に殺されたのか?

いろいろ背景を見ていくと、ジュスティーヌ・トリエ監督自身は、この結論をつけていないんだろうと思う。だから主演俳優のザンドラ・ヒュラーに、演技の上で、明言していない。自分が実際、殺したのか、そうでないのか知らないまま演技させられるザンドラさんは、たまったもんじゃないでしょうけど(笑)。なぜなら、上で書いたように、夫婦の関係性を赤裸々に炙り出すことが、そのプロセスを白日の元に炙り出すことがやりたいことだとすると、このパワーゲームの激しさの中で、本質が炙り出されればいいわけで、ミステリーとしてのオチは、どうでもいいからだ。

ただし、僕個人のいろいろ背景を知った上で見ると、これは旦那の当てつけの自殺なんだろうな、と思う。でなければ、彼女を挑発して、激昂した夫婦喧嘩を全て録音して保管していたりしない。これで彼が死ねば、かなり有名な小説家である彼女の裁判で、このデータが公開されて、旦那を死に追いやった女として烙印を押されることは、間違いない。

ただしこう解釈してしまうと、この旦那が、本当にクズなダメ男に思えてくるので、、、、そこまでクズだったとは思えないんだけど、って感じがする。というのは、息子の事故の責任を背負って心に傷があって負い目があるから奥さんにも強く出れない、、、というのは、非常によくわかるはずで、それで男性としての尊厳を失っていくのは、決して彼がクズだったからではなく、よくあることだと思うので、、、彼がそんな激しい復讐をしようとするほどの怒りがあったとは思えないんですよね。

もう一つ言えば、息子との関係性だ。僕は、全編見ていて、息子は父親に心開いているように見えました。しかし、息子は、母親(ザンドラ・ヒュラー)とは面と向き合って会話していないように見えるんですよね。事故で弱視になった息子をホームスクールで、家で勉強を毎日教えていることから、そりゃ父親との関係性は深いだろうから。・・・だとすれば、母親を陥れるような自殺は、残された目が不自由な息子にとって、非常に苦しいものになるんですよね。それって、息子を切り捨てる行為なので、、、そこまでするかなぁって思うちゃうんですよね。


でもだからこそ、目の見えない11歳の一人息子の決断がよくわかる。


この作品は、最初からサンドラ(妻)の視点で話が進むが、途中から、息子に切り替わる。裁判を通して、両親がどれだけの内面の苦悩を抱えていたのかを知り、それについての決断を迫られることになる。この時に、父親の苦悩、男性性としての尊厳が失われている内面の煩悶を知り、もちろん状況的には、「母親が殺し方かもしれない」可能性は残るんだけど、母親と生きるということを「決断」するんですよね。母と生きるのならば、彼女が無実であるという「真実」を選ぶわけです。そして、多分、この息子も、考えたと思うんですよね。もし、父親が母親を陥れる自殺をしたのならば、もしくは、少なくともそれを告発するような録音データを残しているとしたら、それは、息子を切り捨てるということに違いない。その父親の尊厳よりも、母との関係を大事にすること「決断」するんですよね。これ、単純に、それが有利であるからという損得のメリットではないつもりで書いています。息子にとって、自分の事故が、両親の内面にそれほど深い亀裂をもたらしていたことがわかっていなかったんだと思うんですよね。それを知る過程で、彼は大人になっていった。そして、残りの母との「家庭」をどのように維持して、生きていくかを考えたのならば、どうせ結論が出ないのならば、自分で真実を捏造する(あの証言が嘘なのか本当なのかはわかりませんが)ことを決めたんだと思います。夫婦とは、家族とは何か、ということを深く考えさせられる映画でした。

🔳参考

ダニエルがピアノを練習している曲がいい。結構胸にざわつく。

Suite española No.1, Op.47 – V. Asturias (Leyenda)
スペイン組曲 第1集 作品47 – 第5番 アストゥリアス(伝説)

filmmusik.jp


www.youtube.com

印象派展 モネからアメリカへ ウスター美術館所蔵〜アメリカ印象派へ

親友と「印象派展モネからアメリカへ」に行ってきました。日本に帰ってきたら、なるたけ美術展や展覧会みたいなものは、コツコツ定期的に行こうと決めたのですが。かなりしっかり通えています。とても嬉しい。つきあってくれる友人がいることも嬉しい。

worcester2024.jp

本当はナイトミュージアムに行ってみたかったんですが、チケットが気づいた時には売り切れていました。印象派は、オルセー美術館には行ったことがあるけど(もうほとんど覚えていない)、オランジュリー美術館もいつかは行ってみたいと思っている。

アメリカのボストン近郊のウスター美術館の印象派コレクションを中心に紹介。フランスで生まれた印象派の技法が、日本や特にアメリカに展開していく様がよくわかった。光を描こうとする印象派の技法は発想が、それぞれの土地にローカライズされていく過程を見るのは、とても興味深かった。中には、印象をは日本に紹介し持ち込んだ黒田清輝の作品もあり、ああなるほど、こうやって世界にオリジナルな技法は広がって影響を与えていくんだと感心した。

最初の展示は、フランスのモネ、ルノワール、カサっト、クールベ、コロー、シスレーピサロからはじまります。彼らがなぜフランスの郊外の田園風景などを描いたか?。。ちょうど、いまコテンラジオでフランス革命の回を聞き直していたのがシンクロだったんです。

www.youtube.com

この時代は、ほんとうにメチャクチャな時代で、とりわけ大都市部は、産業革命の進展とも相まって、常に大混乱。そうした大都市部の混乱に嫌気がさして、郊外や田園風景に退避していく中で、ただ単に風景というか「そこにあるもの」ぐらいに思われていた田園風景の中に「美」を発見していくことになるんですよね。その時、時間お経過とともに、あたる光が異なっていくことで、それを捉えようとして、印象派の技法は生まれていくんですよね。

アメリ印象派の代表のチャイルド・ハッサムニューイングランドの風景、西部の風景などを、描いていく展開は、とても興味深い。何が面白かというと、ヨーロッパで郊外の田園風景の美しさを再発見していく流れと、ヨーロッパに留学した経験のない地元の絵描きが、アメリカのニューイングランドの田舎の自然をずっと描くようになってローカライズされていくところ。また、南北戦争の暗さを反映して、色調が暗いものが増えるなど、光だけではなく内面の陰鬱さや感覚なども織り込んでいく流れが垣間見えるところ。ああ、意外に、能天気そうに見えるアメリカ人って、こういう陰キャな暗いのが好きなんだなって、言い換えればアメリカ人って、伊賀に内面は暗いんだと感じるの面白かった。その後、アメリカの大自然を観光しようという観光ブームが生まれて、鉄道発達と相まって、宣伝の宣材としてこれらの画家たちによる絵画が描かれていくところも興味深かった。


ちなみに、いつも上野駅前のベンチで待ち合わせ。



昼ご飯は歩いてすぐなので、上野精養軒のランチで、伝統のビーフシチューを。