エアーメールこない。こちらから住所教えたにもかかわらず……
 さて、中1のとき、1学期くらいはかけてだったか、星新一の宇宙人物の短篇を読み込んだ、メガネをときたま掛ける女性教諭でありました。かわってたな。あの中学、小学校も、まあ定時制高校もそうなるのだけれど、あ、通信制もね。
「校長に見つかるといけないから」って自分に言い聞かせるようにうつむいてさ、教室のカーテン締め切って真っ暗にして、ぼくらに観せたのが、なんと『インディージョーンズ』2作目だったり『スーパーマン』の何作目かだったり、たしか太陽かなにかとてつもなくデカイ!ってかんじのもの宇宙空間で持ち上げてさ、投げつけたり、群がる坊主頭がじゃまっけでなにがなにやらわーわーいっとりました。
 あと急に教壇の上に正座しはじめて落語はじめっちゃったり、歴代天皇の名前を暗誦しはじめて、ときたま板書を交えつつ「学生のころ、ヒマだったからさ、つい」って、あんたなんの思想もなしによくそんなことできんね!って突っ込みたくなるどころか、いったい「学生」という生き物はなんなんであろうか、と、まだ生徒だったぼくはおもったものでした。
 さらに『デモンズ2』を観せる先生も! だったらファーストからもってこいよって突っ込みたくもなりますが、ぼくがもっとも苦手とした教科であったので…… 急に目の前の教務机を蹴り上げる先生もいたし、おれを殴れ!って生徒一人ひとりに平手打ちをさせる(強制的に)ひとも…… 下駄箱で遊んでいただけでぴしゃーんってそこにいた全員平手打ちされたこともあって、ぼくに「Mははじめてたたいたな」ってすっとした顔でいったかたも。ぼくは個人的にはその先生にもっとも親近感を抱いていたのですが、まあ、記憶はさだかじゃございやせん。
 あーあ。馬鹿馬鹿しいなあ。
 もちろん不登校の原因はそういった夢心地な学校生活のせいではなかったのですが。
 もちろん不登校児(体験者からいわしてもらえば、こちらの言葉は大変こころが傷つくので御遠慮を)時代にミスター・エドワード・サコヤンと会うことになるのですが…… どうやらフランスのかの人は「メルキド」も買わず(その当時は創刊号のみの発売)飛び立たれたご様子。けっ「鳩よ!」落選したくせに!ってその原稿、渋谷の映画館のまえでみせてくれましたよね。すごく隙間アキアキのフォントでさ。なんだったんだろう。もう小説は書かず、映画で、ベルリン国際映画祭の学生参加企画みたいなのに去年行ってきたらしいけど…… そういえばM君ドーバー海峡渡ってルーヴル美術館にも行ってきたっていってたっけ。あーあ、なんど2人は違う世界の人間だと自分にいいきかせていたことか。ぼくは原付の免許しかもっていないのにもかかわらず、にだ。

ぼくは長嶋ジャイアンツが最下位になったとき生まれた

 阿部の「電脳空間のジーザス・クライスト」とはいったいどんな内容のものなのであろうか。考えるだに恐ろしく、おそらくはぼくの人生のうちで、それはおおきなおもいテーマとして圧し掛かってくるものにはちがいはないのだ。あー、これには絶好のテキストとして『シリアルエクスペリメンス・レイン』があてはまることは、まずまちがいなかろう。

 さて、おかしなもので今日がぼくの30歳の誕生日である。今日倉庫から昔書き散らした断片を、東京に向かう前に取りまとめたお手製の冊子をほこりだらけのぼろぼろの車庫で、懐中電灯をかざしながら、もちろんぼくは非常に喉が弱いので渋谷の映画館で『百一夜』を観たときに、これがぼくが上京後はじめて観た映画とあいなったわけではありますが、ともかくその女物のハンカチーフをしっかり、この陸の孤島から毎秒毎分噴射され続けている穢れきったおぞましい粉塵を防備しながら、慎重に捲っておりますと、2000年には死んでいるオレという文字がこのまなこにとびこんできたのであります。

 しばらくたって、ぼくは横に閉ざされているアルミサッシの引き戸を開けてみようかどうか、そこでひさしぶりにおもいたったわけです。ぼくはまえの日記で述べましたとおり、原付の免許しかもっていないのではありますが、じつは無免許で何度も、この先にあるトヨタマークⅡを、深夜こっそり、うちの実家の蒲団屋で寝たきり生活を送っているジイサンを乗っけて、村はずれの記念病院まで配送しているのです。その病院長とうちのジイサンは昔からよく付き合いがあったらしく、ぼくはいつも深夜営業のレストランでくだらない雑誌なんかをコンビニで山と抱えるほど買い込んでは時間をとにかく無駄に捨てることで、そのジイサンと病院長の会合があわるのをまっているのですが、今日誕生日プレゼントということで、まあこうして毎夜毎夜、雨の日も風の日もきっちり定刻どおり、一分一秒と時間をロスもせずに送り迎えをしているのですから、まあ当然の、いや、値段のほどはそうみあってもおりませんが、最新型のノートパソコンを頂きまして、いまこうしてぶらぶら退屈に田舎のくだらないしけた商店街を散策するぐあいに、指のおもむくがままにキーボードを撃ち鳴らしているのです。

 その閉ざされたままになっている、えらく醜いその戸の先には、くだらない人生を生きたうちのジイサンの死体があるのです。あとはアナログTVを撮りためたヴィデオテープが、その周囲をグルッと一周何段にも層を分けてうずたかくつもって、白のマークⅡを、まるで冷えた溶岩でできた自然の穴ぼこに突き落としてしまった具合になっているのです。ですからぼくはえらくながいあいだ、その戸の前に立ち尽くしていました。それは傍目からみれば、パウロⅡ世が嘆きの壁で永遠を思わすほど永く尊く立ち尽くしていたのにも通じるものがあったかもしれませんし、またこの戸の先のうずたかく積もる黒光りしたヴィデオテープの山の一角を発掘さえすれば、そのときのヴィデオ映像が拝めるのかもしれませんが、日々の労苦に励んでいる町の衆は、だれひとりとして興味をしめさないであろうし、所詮はカーネル・サンダースとでも見間違えて、陽気にこちらに手をふって、「よっ! ヒサシブリ! 元気してたかい?」なんていうくだらない挨拶をしながら、ただたんに他人の家の事情をただただ覗き見したいだけのスケベ根性で、そら携帯が鳴り出しでもすれば、驚喜して、振り向いてその満面の小学校の運動会のとき、かれがみせたファイナル・ランさながらに、さわやかに駆け抜けおおせて、一等でテープを、その張り出した胸できり、係りのおばさんの賞賛の賛辞を無視したときのニヤケ面をここに再現するのが、そもそもオチでありましょうから。

 などどうつつをのべている矢先にぼくの携帯電話が鳴り出してしまった。
「もしもし」それは音信不通になっていた妻からだった。妻とは東京で出会い、そのまま住んでいた浅草のアパートで学生結婚しようかと、セックスをするたびに明るく語らっていたのだが、どうやらとてもいそいでいるらしく、ものすごい勢いでまくしたててくるのだ。

いいえ、わたしはイタリア人じゃありません

 エレヴェーターに乗ったりコンビニに行ったり、これが私たちの映画を観た後にする事。
第一章 法王(無責任・無能力)
 今日わたしたちは語りあかす。三本の映画をみた。地下の映写室で。タイトルは順に『死霊のはらわたⅢ キャプテンスーパーマーケット』『ツインピークス』全シリーズ『うる星やつら2 ビューティフルドリーマー』。わたしたちが知っているコンビニは『うる星』でしか観られなかった。わたしたちが行くコンビニは店長も店員もいない。失踪したのか、はたまた全自動にしたのか。店長をコンビニの屋根まで捜しに行ったがやはり誰もいなかった。商品は幾ら消費しようが何者かによって補充されている。ロボットなりタイムマシンなりを捜してみたが何もなかった。ただ待ってみたりもした。来る日も来る日も。わたしたちは頭にヘルメットをつけて長い棒を持って自己防備をした。わたしたちは朝も夜もコンビニにいることにした。長い月日がながれた。わたしたちは商品の生体研究にとりくみだした。
「腹がへった」
「幽霊、対幽霊のために訓練をしようぞ」
 商品の研究にとりかかってから、わたしたちの意識はかわってしまった。死ぬものもいた。はじめての出産をもコンビニの中で経験した。カップラーメンは増えつづけ、新しいわたしたちに喰いつづけられ減りつづけた。タバコはわたしたちに吸いつづけられ減りつづけ、増えつづけた。わたしたちは、わたしたちのほかは誰もいないコンビニにヴィデオデッキを持ちこんだ。そこで映画を二本みた。
第二章 戦争の放棄
 誰もいないコンビニにヴィデオデッキを持ちこんだ。そこで映画を二本みた。タイトルは順に『2001年宇宙の旅』『惑星ソラリス』。わたしたちは人類の記憶について学んだ。わたしたちは大切なものの記憶について学んだ。また一人、死んでしまった。わたしたちは墓をコンビニの中でつくった。外は雨がふっていた。死体の口をわたしたちが開けると口の中も雨がふっていた。いつしかコンビニの中も雨がふっていた。わたしたちの目の中も雨がふっていた。わたしたちはあまもりの修理をすることにした。この時わたしたちはみんなという表現をはじめてつかった。みんなのもとに待ちにまった商品研究の報告書がとどけられた。しかし製作者は見もしらぬ者だった。
第三章 国民の権利及び義務について
 報告書は光だし消えてしまったという。製作者の名すら覚えているものは、いなくなってしまったという。いつしか噂が流れはじめたという。報告書の製作者はイタリアだという。みんな消えた報告書を模造する作業をすると決めた。コンビニの電気は消され非常灯と外から持ちこんだスタンドだけが光っていた。青白い光の中、みんな話しあって雑誌をつくることとした。この雑誌はすべて色鉛筆でかかれており金釘流文字がびっしりとうまっていた。
「一ページ目をひらこうぞ」
「そうとも、そうとも。ひらこうぞ」
 みんなで真っ赤な表紙をひらくことにした。そこにはアルカイックスマイルの日本人の顔写真があった。
「わたしたちは岐路にたたされている。感覚的知覚も理性的認識もない現代において『MOVIE CULT』とは、はなはだしいかぎりである。どうにかして現実に着地しないと行けない。その方法は”MOVIE”自体にしかない。しかしそこでわたしたちは驚愕するのである。わたしたちは気づくのである。わたしたちのとりとめのない生活が”MOVIE”世界であることに。まさにこの世は生き地獄である。世の中には沢山の”MOVIE”が同時間に違う場所同士が違う物同士が流動している。”MOVIE”に本質はない。この現象は表象じゃない。この”MOVIE”を脱するには”MOVIE”をわたしたちでつくるしかない。答えは現実で勝利するほかないのだ。わたしたちでフィクションをつくるのだ。それが現実(”MOVIE”世界)」を撃つ唯一にして最良の策なのだ。”MOVIE”世界の法王(無責任・無能力)を撃つすべはそれしかない。(もりた)」
「『MOVIE CULT』から”MOVIE”そのものへ……」(『MOVIE CULT』春昼号よりの抜粋)
 そんな本を閉じた。みんな泣いた。
「”MOVIE”自体には、どうやっても近寄れない」
「なぜなら、中身は、からっぽだから」
「”MOVIE”自体は、みんなの思考だ」
「わたしたち一人一人は価値というものだけであって、思考は一つだ」
「わたしたちは騙されている」
第四章 国会
”聖なる報告書”の探索隊が結成されたそうだ。実をいうと近頃コンビニの商品の数が減りつづけている。食べれば食べるだけ減っていく。雑誌やコミックも古いままで新刊もなにもなくなってしまい、CMで流されている新発売の商品も店頭で見かけることはなくなった。探索隊がコンビニの外に出てからは、消費してないものまで消費され、ひとりでにレジスターが作動しレシートを作成し、その分の商品は確実に姿を消していった。おしまいには、見知らぬ客まで姿をあらわした。そしてどうしたことか、みんなの中から店員になりすまし、なにくわぬ顔でレジスターを打つものまでもが登場した。さらにショーもないことはそのニセ店員の上司、ニセ店長までもがみんなの中からでてきて、みしらぬ客からマネーをうけとりはじめたのである。みんなの中から進んで客になるものがいたが、いかんせんマネーを持っておらず途方にくれている。が、中にはレディースコミックを万引きするやつがでてきた。そいつはコンビニの中につくられた牢獄にいれられることになった。わたしはその牢の番人をやることになった。店長・店員とは別に彼らは、映画を撮り始めたそうだ。かれこれ月日がたって第一回目の上映会を開くことになったそうだ。わたしも招待されたが、囚人が脱走しまたもやレディースコミックを万引きしたので上映会には行けず、逃げまどう脱獄囚をコンビニ中をおっかけまわしていた。上映のスクリーンはお茶などが並べられている冷蔵庫に設置されていたので、脱獄囚をおっかけながらチラチラと観覧することはできた。しかしそれが災いして脱獄囚をコンビニの外に逃がしてしまった。わたしは協力者と一緒にコンビニの外に出ようとしたが脱獄囚の方がこっちにつっこんできたのでおどろいた。
「外をみろよ、外をみてきたぞ。外も、外はコンビニでいっぱいだ」
 わたしたちは脱獄囚を一人一発づつ殴り倒した。外をみると脱獄囚のいったとおり、コンビニが沢山、道路でつながれていた。むこうもこっちをみていた。わたしたちもむこうをみた。みんなこっちをみた。
「わたしたちは全然ちがうけど兄弟みたいだね」
 わたしの好きな子がいった。わたしは旅に出た。わたしは映画のスタッフや役者をしていたが、どうもこの世界を強固にしてしまうだけのような気がしていた。一時の救いは感じたが次の瞬間は、まえよりもこの世界は”MOVIE”世界になりすぎていく。わたしは世界の真ん中で思考に出会った。
「わたしたちはみんなを疎外している」
 思考はいった。
「なーる」
 僕はいった。僕の好きな子にいった。
「わたしたちは宇宙レヴェルで故郷を喪失しないといけない」
「それからだ」
「それからね」
「ところでいま何時」
「ドゥーピー・タイム」
「いつか思考をやっつけて、物を救済してやるよ、物を思考に独り占めされてたまるもんかい、なーみんな」
「うん!」
「みんなの中にいるからたのしいね」
「いつかもどってこれるさ」

ぼくは一週間ダンボールいっぱいのミカンだけで外に一歩もでなかった

 湘南でなんかしらないけど連れられて、よくわかんない映画のカメラとか手伝ったなあ。いい思い出だなあ。ちかくに結核療養所みたいな施設があって、なんか帰り際に500円玉拾ったりね。ソクーロフと渋谷でタクシーに乗り込むとこ捕まえて、窓越しに握手したなあ。いい思い出だなあ。劇場のドアの隙間から蓮実重彦の眼がチラチラ光って見えたっけ。かなりたってから『愛の世紀』も日比谷シャンテに観にいったなあ。広末涼子も『黒猫・白猫』ここで観たのかなあ。『共同生活』みたいな小説書いてたけど、あれどこいっちゃったのかなあ。
 浅田彰の講演を早稲田に観にいったんだっけ。というかあれは偶然だったんだけどもね。なにしにいってたのかな。なにかのゼミナールの展示を観に出かけていたのでしたっけ。なんか馬鹿馬鹿しいことがたくさんあったなあ。
 どうして「ロベール・ブレッソン」特集上映観にいかなかったのかなあ。当日券あったのかなあ。『バルタザールよ、どこへ行く』がアテネで観れたから善しとしたほうがいいのかなあ。なんかいろいろ映画観たんだっけなあ。『日曜日の人々』とか『非情の時』とか『恐怖のまわり道』とか? 『幸福』や『これがロシアだ!』は何度も観たよなあ。あーあ、あそこでうじゃうじゃいたひとたちっていまなにしてんのかなあ。わざわざ神奈川から原付飛ばして観にきてた学生とか就職したのかなあ。『出発』をネタにナンパしてたやつとかいまどうしているのだろう? なんで「アトム・エゴヤン」特集上映観にいかなかったのかなあ。あーあ、『アララトの聖母』は名古屋の名演小ホールで観たんだっけかなあ。なんか時間がたつにつれその恐ろしさがジワジワ押し寄せてきたものだなあ。しばらく映画怖くて観れなかったものなあ。『コンタクト・キラー』は観てしまったけど。
 淀川長治の講演会も行ったんだっけなあ。これも偶然の産物で大隈講堂大ホールであったんだろうかなあ。そもそも金井美恵子の『圧殺の森』のイヴェントで行ったんだっけ? 高橋源一郎もいたなあ。「いつ『ゴヂラ』はでるんですかあ?」なんて質問しなくてほんとよかった! 
 作家のへんなうら話もさんざん聞いたんだっけ。なんだったんだろうなあ。すべて夢幻のごとくなり…… 全部なかったことになんか到底できませんよねえ…… ナンマンダブ、ナンマンダブ……
                   ※

「おおきくなったらデリダみたいになって地球を救うんだ!」っていうような子供たちがうまれてくるためだけに生きていきたいですよ、ほんと。『アタラント号』や『とべない沈黙』を観て嗚咽が止まらなかった、あのころのオレは、いまどうしているんだろうか?

 うえの文におおよそ関係していたMくんが、『安吾の挑戦状』に載っているみたい。ぼくは未だに無職無収入……東京にいた5年間でつぎ込んだ1000万円のうち、1年目は稼ぎが500円、2年目は5000円だったなあ。あはは。3、4がなくて5年目くらいでも年収50万円くらいだったような…… あとはみなさまのありがたーい税金にてまかないさせて頂きましたうえ、ここに、こころより御礼申し上げる次第でごさいます。ほんとうにありがとうございました。と、いったところで、なんにもフィードバックできていないこのありさま、そういったことで、1年目にはM君同伴のもと、中谷彰宏の著作を火刑に処しましたうえ、一応は、そこはそれなりの覚悟のようなものはあったのではありますがね、へへ。

 30手前のシネフィルの無残な現在をドキュメントでお送りいたしました。あしからず。

                   ※

 とーちゃん、かーちゃん、上司の清水さん! 21歳のとき正社員蹴って東京の下降生活者になったぼくを、もう働くことができないからだでかえってきたぼくを、どうか、おゆるしください。中学生の時の夢、国家公務員になることはもうできそうにありません、小学生のときの夢、漫画家になることもどうやら無理みたいです、高校生のときのゆめ特車2課にはいることはもちろんのこと! どうやら年少時の頃の夢、ねずみ男になるという夢しかかないそうにありませんで! あしからず!

福永さん、出番ですよ!

 桃井かおりアンナ・カリーナで、石野真子ソフィー・マルソーで、ジュリーがジャン・ピエール・レオーで、ショーケンジャン・ポール・ベルモンドなのかなあ。そうしたら長谷川和彦トリュフォーで、ゴダール鈴木清順? わかんないけど。でも邦画で、まあ、小津・黒澤・溝口っていう大巨匠は抜きにして考えてパーフェクトな映画っていったら『裏切りの季節』かなあ。まあ、完璧だからいいってことではないんだろうけど、中平康とか? 才能がないっていうのもひとつの才能ですよねえ。大島渚とか? 
 まあ、いいや。「座長と道化の登場」(「文学界」04年12月号)未だ読めず。とにかく福永信は特別な存在だ。21世紀の日本文学のはじまりは彼にかかっているといっても過言ではない。いうなれば21世紀の漱石だ。むかしは高速でグングン読み進めていたが、最近は読むのが怖い。ストリートノべル大賞にも応募したなあ。落ちたけど。あの原稿いまどうなってるのかな。原本は引越しを重ねるうちにいつのまにか消失…… でもリトル・モアでも焼却処分だろうけどさ。まあ、前編ほどんど引用のありがちな頭でっかち観念爆発系のしょーもない小説でしたけどね、実際。
 そういえば「リトルモア」で阿部×福永の対談とかあったなあ。なんで買わなかったのかなあ。ほとんど立ち読みだったからなあ。『批評空間』に連載してた「プラスティック・ソウル」も全部立ち読みだったなあ。「公爵夫人邸の午後のパーティー」とかも新宿の紀伊国屋で全部立ち読みしたなあ。いい思い出だなあ。いや〜。

「文芸」でも平野×黒田晶×福永の対論があったなあ。なんで買わなかったのかなあ。なんかもーどーでもいーやっていう感じがあったのはたしかだよね。もう彼らにまかしとけばいいやっていう? それで引きこもり生活ですよ。バイトしてても学校いってても、精神的引きこもりってありますよねえ。いまじゃあ、全国民がそういう感じなんじゃないですか? 

 なんか『希望の国エクソダス』みないだなあ。でもほんと出版系が不調とかいってるのって、まあ、ケインズの近代経済の大失敗ってのもあるのでしょうが、ただたんに雑誌がつまんなくなったんじゃないですかね。それもこれも人材カットするからでしょうけど、ああ悪循環。

 でも「EYESCREAM」とかはやってる編集の中にはそりゃあ馬鹿な人もいるだろうけど、毎月買いたいなっておもわせますよねえ。「CV」とか? でも、どんなひとでも馬鹿で才能がないっていうか、生きる才能がないひとが文章とか映像とかで、生活できたらなあなんていう、ひどく生命の根幹にかかわる倒錯的な病に犯されているとおもいますがね。全部栗本慎一郎の受け売りですがね。あーあ、クリシンいまなにやってんのかな。リハビリしてんのか。「蕩変木三号」ってすごいですよね。ぼくも一時期はヘゲモニーに押されてクリシンを小ばかにしてたこともありましたけど、かれは偉大ですよ! ポランニー兄弟ですよ! あー、昨日からやっているNHKの「世界遺産ドナウ」みたいな番組、彼も観ているのですかね。クリシン、カムバッーク! ついでにマーシーもカンバッーク! 才能がある人が生き抜くい世の中にドロップキッーク! ぎゃー。
                 ※
 法律がひとを殺す。遡及効。新カント派の悪しき歴史認識。一般でなく個別の歴史をみよ!

 ジャン・ヴィゴ山中貞雄沢村栄治山中貞雄
                 ※
 なんか昔が懐かしいなあ。名古屋大学の南部生協にさ、『アカシア』買いに行ってさ、さんざん迷った末に『ソドムの映画市』とか買ったなあ。おかげで『アカシア』いまでも読んでないけどね。がはははは。あー、懐かしい。アテネ・フランセで『黒い神々』観たとき、中原昌也がお客でいたなあ。あーあ。なんかすごい眼光で睨みつけられた記憶があるけど、あれはなんだったんだろうか? 中上健次寺山修司とかもニアミスしてたのかなあ。谷崎潤一郎坂口安吾とかも? 巨泉も? そんなこといったら坂本竜馬だってあの坂下ったり上がったりしてたんでしょうかね。がっくし。
 渋谷のパルコブックセンターの洋書コーナーに中原が佇んでたなあ。懐かしいなあ。あんとき22歳くらいか…… いい思い出だなあ。あのとき一緒にいたひとはいまごろパリ大学でなにやってんのかなあ。シネマテークとかいってんのかなあ。デカルトパスカルの墓参りでもしているのかあ。ドゥ・マゴでお茶した後に? 前に? まー、いいや。海外なんかいきたかねーよ!  
 さ〜て、そろそろ寝ようかしらね、ネットは広大だわ。結局、福永新作読めず……

はじめての「波状言論」

 読もう読もうとしていて、ようやく「波状言論」00号をプリントアウト。あー、ページ数が半端ねえ。ついでに13号も阿部和重×法月綸太郎めあてにドロップ。45ページ…… 用紙がすべてなくなりました。とほほ。むかしのパソコン通信みたいなレイアウトで郷愁というかタイムトラヴェル感があって不思議であるものの、もうちょっとレイアウト工夫できないものでしょうか? でも月2回も発行じゃあ、こういうのでもますます手作り感がでて、リアリティが増強される、みたいな。まるで大学のレジュメ読んでる疑似体験。なんか研究しているなという、自己陶酔。いかん、いかん、まず読まないとね。
 さあて、読むぞ〜。そういえばこういうWebマガジンやっているのって個人とか小さいコミュニティとかだと、まあ文学系でいうと、ほかに保坂和志とか中村航とか、あとだれかいるんですかね? なんか保坂和志ってけっこう芸能人というか業界人というかミュージシャンというか、そういった方々に愛読されていますよね。海外とかどうなんでしょう? 翻訳物ってあるんすか? あんまり思想系のひとって保坂に言及しているの読んだことないんですけど。ぼくもなにか書こうとしてはいるのですがなんか途中でやめちゃうんですよね。「それは保坂和志からはじまった」とかいう評論を書こうとはしたんですが、ある日ウィルスメールが飛ばされてきてパソコンがおじゃんになり、それ以来手をつけていませんので。
 保坂文学をドラマや映画化すればおもしろいとおもうのにな。なにかあるんですかね。しりませんけど。お金もかからなそうだし。ていうか、保坂文学こそ読もう読もうとおもっても読みあぐねているのですが。「この人の閾」は読んだけど。ああ、これは確実に翻訳出てるでしょうね。芥川賞だし。芥川賞なんて、そういった機能ぐらいしかいいことありませんものね、実際。だから選考委員の責任は重大かつ深刻だとおもいますよ。けっして馬鹿が務めてはいけない役職ですよね、あれは。
 あーあ、だから使えない奴は首にしろっていっても、まあ虚しいだけですよね、そんな覇権闘争じゃあなんにもかわりませんよ、バタイユもそんなことおっしゃっていませんでしたか? もういまじゃあ、みててかわいそうにおもうだけですよ。なんでこんなに馬鹿なんだろうかってネ。お互いにそうおもっていても、もっと馬鹿馬鹿しいだけではありますが、まあ仕方ないのではありませんか、もう国の機能と一緒でシステム自体腐っているのでしょうから……
 すべてモブ・ノリオでおしまいってことでいいのじゃないですか。これで御破算だと、三島さん、川端康成先生、どうも才能がなくてすいません、どうも生まれてすいません、才能がないひとはこういったことをするしか生きる道はないのです、それだけこの世界は厳しくも恐ろしいものなんだってね。そういうことですよ、総理大臣と一緒ですよ、馬鹿な3世はああいったパフォーマンスでもしなけりゃ生きていけないのでしょう。でも、そういうのはもう終わりってことでいいんじゃないですか。もうなにも期待しませんから。
 だまされるのはうんざりです、むごい死を肴に金儲けする輩はもういやです。せめて、せめてそういった死をああいう腐った連中から開放するためだけにいきていきたいですよ、ほんと。
                  ※
『恐竜・怪鳥の伝説』観ました。渡瀬恒彦かっこよすぎ! 石原軍団の知性をまったく感じさせない連中とはやっぱり違いますね。裕次郎には感じるけどさ、あと峰竜太とか。もう2人とも離れているわけですがね。
《愛をこめて殺しあう》《疲れた歴史に……》《海と大地と太陽のシンフォニーは終わった》とか挿入歌の歌詞がすごすぎ。いや〜、映画ってほんとすごいですね。
                  ※
『青春の蹉跌』を観る。すごいすごいと聞きはしていたが、やっぱりすごかった。これをちゃんとある意味学術的に捉えとかないと21世紀の日本映画はない、とも断言できるのかも。もうだれかやってはいるのかね、石川達三ね、壇ふみね、それだけでかなりすごい力が働いているんだけども、いやー、日本もすごいよ、やっぱり、ぜんぜん捨てたものじゃないよね。いまはひどいけど。映画『風の歌を聴け』も相当よかったけど、この文脈で観てくとより判るね。でも90年代とかだとアニメとかにとってかわられるのか、でもギリ『キッズ・リターン』があるといえるのかも。もしくは『トーキング・ヘッド』までいってしまうとか。で、いまは『ユリイカ』か。まあ、そうなるけど。

波状言論』って原稿募集しているのですね、こういうのはもう割り切ってどんどん送っちゃったほうがいいんじゃないですかね、ほんと、小説のことばっかし考えていると死にたくなりますよ。デビューの場というよりは研究とか情報交換の場としてね。映画のことくらいしか書かないとおもうけど。いやー、やっぱり慎太郎の気持ちも判るね、小説小説、文学文学っていっているとほんとああいうふうに無責任放題いってしまいたい欲求にもかられないでもないけど、もっとほかのとこでできることなら発散して小説書けないものかね、ほんと。
                  ※
 満月の夜なので興奮して眠れません。けっこう『シンセミア』って女性層にも読まれているんですね。知り合いの知り合いの人がパルコブックセンターでバイトしている女性の方でしたが「アベカズシゲキラーイ」ってなんかの小説読んでいったとかそうな。それにしても3日も日記を書いてきてほとんど女性の名が挙がらないなあ。壇ふみくらいか。でもほんと最近おもうのはたとえばアイドルのラジオ番組とかってほんと男性のディレクターが仕切っているのって聴くに耐えませんよね、マジで。ただ、ぼくがアイドルに異様にお熱を上げすぎているだけの嫉妬の感情とかじゃないような気がするんですが。でも、ほんと男だけの職場とか組織とかなんてほんとぜんぜんだめだとおもいますけどね、相撲とか歌舞伎とかみるにたえない。宝塚とかも。べつに同性愛者を差別するとかいうんじゃなくてひとつの団体としてね、貧弱な感じがするというだけのはなしですが。だから、ばんばん文学とか映画とかもね、女性の力がいまもっとも必要な媒体だとおもうんですが、どうも、なんかね、読めるのは金井美恵子笙野頼子松村栄子多和田葉子清水博子、猫田道子くらいかなあ。だからそもそもこうやって女性って枠でないとでてこないような、状況がね、馬鹿馬鹿しいと。ぼくは福沢諭吉の男女同数論(だっけ?)を断固支持する口ではありますが、ほんと男性作家と女性作家の数がおんなじくらいになんないかなあ。おんなじくらいいるのかなあ? でも映画監督とかは圧倒的に男がおおいような。
座頭市』マジですごかったね。なんか怖くていままで観れなかったけど。なにせぼくは北野映画を観て映画を撮り始めた口ですから。はじまりはまさにビートたけしのリハビリみたいな感じで淡々と進んでゆくっていうふうですがね。だんだんやばくなっていきまさーね、これ。この編集のカットの切り換えの鋭さっていったいなんなんですかね。なにか見ちまったんですか? 武は。あのバイク事故で。スタッフの、まあ小川プロなんだからそうなんでしょうけど、スタッフの総合力では青山真治が上なんでしょうけど、作家としては武のほうがまだまだ全然上ですね。うん。『ユリイカ』と『菊次郎の夏』でも、カメラワークとか音声とか照明はそりゃかないませんよ、小川プロには。でも終わらしかたとか、作品全体のバランスでは、というか作品がもつ根底的なメッセージでいけば武が上でしょ。あきらかに。予告編とかは両方ともクズでしたけど。なんで最近の映画のコマーシャルってああもつまらないのでしょうか。おそらく人材の問題でしょうね。昔の奥山和由の武映画のコマーシャルとか最高だったんだけどな。最近は才能をないのをウリにするのがはやっているんですかね? それを観て、あーあ馬鹿だなぎゃははははってさげずんでればいいんでしょうか。やな世の中だ。
ダンサー・イン・ザ・ダーク』と較べても『座頭市』はいきますね、まじで。これを「可視と不可視」というテーマで『波状言論』に送ろうかしら。でも阿部とかがもうやっているのかな。がく。後発世代はつらいっすね。上が有能だと特に。だから武も伊丹十三というモンスターと格闘してね、あそこまでいったのだとおもいますよ。実際。文学ではやっぱり大江健三郎という難攻不落の化け物がいますがね。まあ大江に無視されたここ10年間の文学状況はとっても厳しいものでしたが、そんななかで阿部・中原という天才がうまれたことはほんと喜ばしいことでありますわね。でも、また下の世代がね、阿部・中原に総すかんされるというこの状況。純文は厳しいなあ。でも川端・三島の悪夢がありますからね。ほんと呪われていますよ。映画も文学も。野球とかもそうでしょうけどね、まあそれだけ文化っていうか、なにかを継承してゆくというのは逃げ出したくなるほどおっそろしいものですけどね。実際問題。でもそれが生きていく意味だともおもいますけども、いろいろなアブストラクトなゆーわくがあるんですよね、この煉獄。あーあ、だからもう阿部・中原もそろそろ文学について熱く語ってほしいですよ! 映画ばかりじゃなくって。賞も獲ったんだし、蓮実重彦男爵にも接見できたんだし、もういいじゃないですか! 新しいものについてさ、どんどん口出ししてくださいよ! ぼくの世代の代表作家は平野啓一郎だけじゃないんですよ。ごろごろいるじゃありませんか! これからもいっぱいでてきますよ、うじゃうじゃと。そういったときに島田雅彦保坂和志だけじゃたりませんよ! わあー。

近所に「群像」が売ってません!

 方々歩けども、わが町に「群像」はなく、わざわざ注文までして読んだ阿部和重グランド・フィナーレ」。中原昌也のWeb小説「ワイルド番外地 樹海の虎」もようやくプリントアウト。あとは阿部の「20世紀」(こちらもWeb)が読めればなぁ。
 さて、ぼくもWebで小説発表してみようかしら。でも、紙媒体みたく何千年も残ったりすることはないだろうから安心して気楽にできるのかも、相当な人でない限り、知りもしない無名の作家の作品をわざわざ有限なPC用紙とかに印字するわけもないだろうから……
 だとしたら、1メガくらいのゲームソフト感覚がお手軽に楽しめるような小説を書いてみたいなあー。やっぱり2メガになった「バンゲリング・ベイ」あたりから、ゲーム特有の馬鹿馬鹿しさ感は、そこを頂点として下り坂になっていったような。ゲームは映画とかとも違うものだし、ということは小説とも違うものだけども、でもまっ、いいんじゃない、1メガ感覚の小説とか映画とか、ゲームが映画なんかそのモデルにしてきたみたいに、こんどはそういったメディアが逆に後進メディアの模倣をしていって、どんどん文明が同一化していき、挙句の果てには文化が死滅して、人類も滅亡して、ピテカントロプスに成る日も近づくってことでさ。
 そこんとこ、ヨロシク!(映画『ピンポン』のペコ風)。
 あーあ、でも、ぼくは悲観的ではないですよ、デリダが《幸福がすべてを腐らせ毒するということを》っていってたらしいのですが、昨日の『報道ステーション』で観ただけなんですけどね、いや、デリダかっこいいね! ほんと、自動車で砂漠みたいな荒れ果てた土が剥き出しの土地を車でかけてゆく哲学者って、ほんとからだのそこのそこのほうからみるみる力が漲ってきますですよ、はい。べつにニューアカとかじゃなくてああいう大人に憧れちゃいますよね、実際。
 よし、これから先週100円でレンタルしてきたヴィデオを観て、小説のことなんか全部忘れちゃおう、はははっ(福山風)。
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「ワイルド番外地」読みました。読んですぐ感想を書いてしまうのは条件反射的になにか大きな力に飲み込まれてしまって、ひどく抗いたくもありますが、まあ、そこはそこWeb小説ってことで、といってもあまり細かいことは思い浮かばないのですが、とにかくWebで小説を発表する意味ってあんのかな、というえらく根本的なことだったりして。
 この小説は第1章で中絶してしまった長編小説なのですが、そこらへんの事情は知りませんが、とにかくかなり過激な小説だとおもいます。こういった紙媒体で当然のように発表されている凡百の出版物よりもより過激な読み物が、いってみれば子供でも誰でも読めるインターネット環境で読めるという環境は、ネット上のほうが深夜番組などより無節操な表現がまかり通っている状態でありながら、誰でもいつでも、まあ、その検索の取っ掛かりさえあれば拝読できてしまうという状態と相通じながら、それはいわゆる表現の自由に対する自主規制への大いなる不満足が呼び起こしているムーヴメントというか、集団無意識的な動向というか、行動原理というか、まあ、なんというか。
 つまり、どこでもだれでも好きなときに読めるものの代表として、戦後民主主義は教科書という輝かしい書物をつくったとして、それが筒井康隆の「無人警察」をめぐる断筆宣言騒動で、ああいった小説を教科書から締め出してしまった哀しい教育現場や哀しい国に対する、哀しい抗議としての一連のインターネットをめぐる惨劇の数々……
 いまではもっとも才能がない小説家が国際的にも発言力を持ってしまい、もっとも才能がある作家の言葉は果たして国際社会にどのていど届いているのかな? そういったことに対する異議申し立てが、特にネットから沸き起こりつつ、まあ、それはひどく醜く、できることなら目を背けてしまいたいものが多いのですが……へへ。
 はたして、いま教科書に安部公房とかって載ってるんですかね? いろいろ事件はあったでしょうが、そういうものは、そういうものが極端に不足してしまっている窒息状態から起きるものであって、逆に抑圧したり、そういうものをなかったことにして一部のオッサンが読む物ということにしてしまってはこの国の滅亡は、加速度的に早まってゆくとしかおもえないのですが、載ってるんですかね、「棒」とか。ぼくは『密会』くらいしかまともに読んでいるものはないのですが、中学とか高校とかで『壁』とか『他人の顔』とかね、まあ、ぼくは生粋の不登校児でして、そういった危険分子なのかもしれませんがね! はははっ(福山風)。
 だから、そういう……代償行為としてですね、ネットの災禍は今後も続いて、といってもなんかヨイショするみたいでなんですが、この「はてなダイアリー」はいろいろ、ここ2日ででしかありませんが、観てみたところ、クリーンな感じでいいですね。ほんと東浩紀が日記やめちゃったのは残念ではありますが、いろいろ可能性があるような。
 とにかく「ワイルド番外地」はともかく過激ですが、それを筒井的・安部的、あるいは大江健三郎の『同時代ゲーム』風にアジャストし直しているのが、いまの「文学界」「新潮」に連載している作品群なのかなぁってね。あれ、それは『シンセミア』があくまでスノッブなフレームをつかって神々しくもやっちまったのかな。わかんないけど。
 ということで、Web小説のある意味失敗から現在の作家はしっかり創作していると、でも、まあ彼らの作品が教科書に載ることはないのでしょうが。やっぱりこれから教科書は衰退の一歩でしょう、ですからこういったネットの重要性は高まってきて、だからWeb小説の可能性もそこにあるのではないかと。
 そこんとこ、ヨロシク(『ピンポン』の窪塚風)。