days of cinema, music and food

徒然なるままに、食い・映画などの情報を書いていきます。分館の映画レビュー専門ブログhttp://d.hatena.ne.jp/horkals/もあります。

A Quiet Place

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話題のホラー『クワイエット・プレイス』(A Quiet Place)を公開2日目の9月29日深夜に鑑賞。
近未来。正体不明の何かに襲われ、人類は殆ど死滅したと思しき世界。その何かは盲目で音に敏感、かつ素早く人を襲うらしい。アメリカの林に囲まれた農家で、アボット家は手話を使ってコミュニケーションを取り、物音を立てないように注意を払いながら、ひっそりと生き延びていた。家族は技術者の父親リー(ジョン・クラシンスキー)、母親イヴリン(エミリー・ブラント)、聾者の姉リーガン(ミリセント・シモンズ)、繊細な弟マーカス(ノア・ジュープ)らだ。そしてイヴリンは臨月を迎えていた。

 


「音を立てたら、即死。」という日本版キャッチコピーが秀逸だ。だが実際に映画を観てみると、その言葉から受ける殺伐とした肌触りとはまた違う映画となっている。監督と共同脚本は主演の1人ジョン・クラシンスキー。実生活である妻エミリー・ブラントと夫婦役を演じている。彼らの親密さは映画の中でもよく出ていると思う。クラシンスキーはこれが長編映画監督は3本目だそうだ。私は役者としては知っていても監督としては初めて接し、感銘を受けた。台詞は最小限で殆どがアメリカ手話(どちらにも日本語字幕が付いている)、登場人物も殆どアボット家のみという少々変わった映画だが、SFホラー/スリラーの体裁を借りた優れた家族ドラマになっているのだ。しかもここには血の通った温かみがある。序盤で描かれる衝撃的な出来事が、この家族にどのような影響を及ぼしたか、小出しに丁寧に描かれているし、また彼らの反応は極めて人間らしいものだ。夫婦役の2人も好演だが、子役たちも良い。特に姉役ミリセント・シモンズは一見すると余り顏の表情が無いが、手話の動きなど含めてとても情感豊かに演じていた。エミリー・ブラントはスター女優の華やかさを消して、母であり妻であるイヴリンを魅力的に表現している。人物たちの行動はどれも納得がいくもの。それは説得力のある心理が描かれているからだ。また、不要に騒ぎ立ててかえって緊張感を台無しにする暗愚な者はいない。クラシンスキー、スコット・ベック、ブライアン・ウッズの脚本は優れたものだ。そして役者たちから優れた演技を引き出し、かつ簡潔に描いたクラシンスキーの手腕は素晴らしい。また、シャルロッテ・ブルース・クリステンセンによるフィルム撮影は、地味に見えて豊かな色彩をたたえ、このドラマの持つ温かみに貢献していた。

 


もちろん、この映画はホラー/スリラーでもある。映画は緊張感を持続したまま、中盤のイヴリンの破水というどう考えても絶体絶命の状況から転じて、二段構え三段構えの展開を用意している。ホラー映画初心者のクラシンスキーは、『ゲット・アウト』や『ジョーズ』といった古今のホラー映画を観て勉強したそうだ。その学習結果が反映されているのは喜ばしい。遠慮なくホラー演出大全開になるのに、焦らず1場面1場面を丁寧かつ素早く演出して行く胆力も見事だ。農家ならではの状況を有効活用した、これでもかこれでもかという展開と演出は、持てる技術を出し惜しみなく投入したものとなっている。この手の映画好きとしても十分に楽しませてもらった。

 


難を言えばマルコ・ベルトラミの音楽がやや多いことだ。無音も含めた効果音の使い方が絶妙だったため、音楽が鳴っている時間がもっと少なくても良かった。これは監督クラシンスキーのホラー映画初心者としての自信の無さの現れだろう。そんなところが初々しいが、結果は堂々たる仕上がりにもなっている。こんな良作を、『アルマゲドン』『パール・ハーバー』など騒々しいだけの、それこそ暗愚な監督マイケル・ベイが製作しているなんて! そんなところも含めて、非常に面白い映画だった。お勧め。

2001 :A Space Odyssey

”2001 :A Space Odyssey”
製作50周年記念『2001年宇宙の旅』70mmアンレストア版鑑賞@国立映画アーカイブ。デジタル上映が当たり前の昨今にフィルム上映、しかも通常のフィルム幅(35mm)の倍ある大型フォーマットの70mmフィルム上映とは、中々滅多にお目に掛かれない企画だ。私も70mm上映体験は1992年の『遥かなる大地へ』以来。しかもこのスタンリー・クーブリックの映画は私のオールタイムベスト1だ。大型フォーマットならではの高解像度体験が得られるに違いない。これは行かないと!


国立映画アーカイブは初めての場所で、事前に聞いていたようにスクリーンは4.6m×9.7mと小さい。小学生の時に観た渋谷東宝、20代で観た渋谷パンテオンファンタスティック映画祭)に比べると、遥かに小さいスクリーンだ。それでも今回の上映は私にとってとても楽しい映画体験となった。


映画が始まると、まずは近年見慣れているデジタルリマスターによるパッケージソフト色温度高めの色調(=白っぽく冷たい色調)とはまた違う、温かみのある映像に目が行く。フィルム粒子はあるが気にならない。これも大型フィルムの恩恵だろう。そして音の良さ。冒頭の「ツァラストラはかく語りき」ではパイプオルガンの重低音が響く。金管が鳴り、フルオーケストラが大音響で鳴る。場内を満たす音! いや実際、『2001年』70mm版は音の映画でもあった。「人類の夜明け」での風や虫の音といった自然環境ノイズ。敵対するヒトザルを骨で殴る際の鈍い打撃音。「木星への任務」での宇宙空間では、無音や宇宙服の呼吸音が緊張を持続させる。終章の「木星 そして無限の宇宙の彼方へ」でのグラスが床に落ちて割れる音。無音も含めて音が素晴らしくデザインされているのだ。オリジナルの音声トラックは破損していて再生不可能だったため、1980年代に作成され保存された素材を元に修正を加えず、音声データをCD-ROMに焼いてフィルムと同期させ、dtsで上映しているという。もちろん現代の大作映画に比べたら音域が狭いのは当然だが、分厚い音は今までにない『2001年』体験だったと断言できる。


幾度も観ている映画だけにディテールにも目が行く。宇宙ステーションのホテルがヒルトンだったり、ラストのスターチャイルドの眼球がゆっくり微妙に動いているのを発見したりと楽しい。特撮のアラを見つけるのは簡単だが、精緻なミニチュアの数々は全く素晴らしかった。そして文字通り息詰まるような宇宙空間の恐怖表現は、これが間違い無く最高峰だ。左右上下に限りなく広がる空間の恐怖という点において、アルフォンソ・キュアロンの『ゼロ・グラビティ』ですら遥かに及ばず、わずかに『ブレードランナー』が並ぶ程度ではないか。


よく難解と言われるが、私自身はオーソドックスなSFアイディアが詰め込まれた映画だと思う。宇宙旅行、コンピュータの反乱、異星人、超人思想など、SF好きならば触れた事のある数々の題材が案外丁寧に扱われている。それを説明が無く一見「難解」風に、且つ観客の想像力に委ねられている作りのために、敷居の高い映画とされているのだろう。あれこれ解釈するのもまた、この映画の楽しみの1つでもあるのだ。


今回の上映では、20前後含めて20代の観客の姿も目立ち、また同時に初公開当時にテアトル東京もしくは大阪OS劇場でご覧になった方々もいらしていた(場内の挙手による)。前者にはひょっとしたらこれが『2001年』初体験の人もいたかも知れない。両者の世代が同時に観るとは何て素敵なことなのだろう。そして前説として今回の企画実現に尽力された主任研究員・冨田美香さんの解説も明快且つユーモラスで、とても良かった。上映前の彼女に対して、そして上映終了後の映画に対して、重いフィルム相手に奮闘してくださった映写技師の方々に対して、場内から温かい拍手が自然発生的に湧いた。これらもまた、素敵な映画体験だった。


近々公開されるIMAX版は、恐らく色温度が低めの画調ではないかと予想している。だがそちらもこちらも、『2001年』体験でもあるのだ。IMAX版も楽しみに待とう。

Crazy Rich Asians

”Crazy Rich Asians”
クレイジー・リッチ!』鑑賞。生粋のニューヨーカーであるNY大学の経済学教授レイチェル・チュウ(コンスタンス・ウー)は、ある日、恋人のニック・ヤン(ヘンリー・ゴールディング)から春休みのシンガポール旅行に誘われる。ニックの幼馴染の結婚式に出席するためである。これでニックの家族に紹介されると喜ぶレイチェルだったが、現地に行って仰天する。なんとニックはシンガポールで一二を争う超大金持ち一家の御曹司だったのだ。しかもニックの母エレノア(ミシェル・ヨー)は、レイチェルに対して露骨に冷たく、見下す態度を見せつける。現地の女性たちの嫉妬と羨望を一身に浴びるレイチェルとニックの関係や如何に。


アメリカで大ヒットを記録した、登場人物が全て中国系というハリウッド製ラブコメは、少女マンガのような王道の内容ながらも、しっかりした脚本と手堅い演出、そして活き活きとしたキャラを演じたキャストたちのお蔭で、かなり面白く仕上がっていた。興味深いのは、華僑からすると中国系アメリカ人は中華系ではなく「アメリカ人」だということ。劇中のレイチェルは外見はアジア系だが、二世ということで中国語は不得意だし、中身は現代アメリカ女性だ。家族最優先の伝統を守るニックの母エレノアからすると、異人なのである。アメリカと中国、キャリアウーマンと家と伝統を守る女性、といった文化衝突がかなり前面に出ている映画だ。こう書くとかなり真面目な映画に聞こえるかも知れないが、映画自体はカラフルな色彩とテンポの良いショット繋ぎでノリのよい映像になっている。愛嬌があって笑える脇役たちも活き活きとしており、最初から最後まで面白い。


シンガポールの超富裕層たちの物凄い金持ちぶりや、マリーナベイ・サンズやマーライオン、ホーカーセンター(屋台村)といったシンガポールの名所など、見どころも沢山。ヘンリー・ゴールディングや従姉アストリッド役ジェンマ・チャンを始め、美男美女も目の保養だ。レイチェルがシンガポールに行くと、周りは皆、背が高くてスタイル抜群で高学歴の美女だらけというのも面白い。これが演技初体験というゴールディングは絵に描いたような理想の御曹司にはまっているし、ジェンマ・チャンはゴージャスな魅力を放っている。新婦役ソノヤ・ミズノは『エクス・マキナ』と真逆の陽気でお喋りで楽しい。対照的にレイチェルの親友ペク役オークワフィナや、便利屋としてヤン家に重宝されているオリヴァー役ニコ・サントス、ペクの父役ケン・チョンらは美男美女とは言い難いが、画面を明るく弾ませている。コンスタンス・ウーも熱演、でも少々シリアスに演じ過ぎたように思う。これは監督ジョン・M・チュウの演出方針もあったろうが、少し生真面目すぎやしないか。基本はシリアスで良いものの、ヒロインにもう少しコメディエンヌ振りを発揮させれば、と思う。知恵も度胸もすわっている主人公が要所で笑わせてくれても、問題無かった筈なのだ。


ともあれミシェル・ヨーの貫禄振りも含めて、冒頭からロマンティックな結末まで、かなり楽しませてくれる映画なのだ。お勧め。

Mamma Mia! Here We Go Again

Mamma Mia! Here We Go Again
マンマ・ミーア! ヒア・ウィー・ゴー』サントラ盤をゲット! 映画を観たら誰もが口ずさみたくなるアバの名曲がずらりです。前作よりかはややマイナーな曲もあるのですが、歌唱力は前作よりアップ! 踏ん付けられたヒキガエルのような声だったピアース・ブロスナンの出番がぐっと減った為、リリー・ジェームズアマンダ・サイフリッドら、若手による伸び伸びとした歌声が楽しめます。トリは貫禄のシェールだしね!


ご存知、アバの名曲を並べたジュークボックス・ミュージカルのはしりとなったミュージカル『マンマ・ミーア!』の映画版から10年後の続編です。前作でメリル・ストリープ演じたドナの若き日々をリリー・ジェームズが伸び伸びと歌って演じて、キャリア最高の演技を見せてくれます。前作で20歳だったドナの娘ソフィーは再びアマンダ・サイフリッドが演じており、過去と現在が交錯しながら進む構成です。彼女含めて前作のキャストは再集合なのも良い。ブロスナン、コリン・ファースステラン・スカルスガルドらは、歌も踊りも下手だけど、そこにいるだけで良い。加えてアンディ・ガルシア、シェールと言った良い役者が新キャラに配役されており、ちょっとしたオールスター・キャスト映画となっています。


映画としては前作以上の出来だし、鮮やかな撮影、全編の殆どがアバの歌曲を使ったミュージカルとあって、華やかで楽しい映画に仕上がっています。アルバムはそんな映画の追体験にもってこい。舞台版にあったが前作映画版からカットされた歌、前作に続けて再使用された歌もありますよ。そしてやはり「ダンシング・クイーン」のパワーは凄いですね!


マンマ・ミーア! ヒア・ウィー・ゴー ザ・ムーヴィー・サウンドトラック

マンマ・ミーア! ヒア・ウィー・ゴー ザ・ムーヴィー・サウンドトラック

Mamma Mia! Here We Go Again

Mamma Mia! Here We Go Again

On Chesil Beach

”On Chesil Beach” poster
追想』鑑賞。イアン・マキューアンが原作と脚色とあって、「痛い」映画だろうと身構えて観に行ったら、やはりそうであった。マキューアン原作ものにはジョー・ライト監督の佳作『つぐない』があって、あちらも観終えて胸が痛くなる映画だったし、小説では随分と前に読んだ『イノセント』がやはり痛い通過儀礼ものだった。などと書けば、私の身構え振りも多少は伝わっただろうか。


映画は1962年のイギリスから始まる。大学を卒業したばかりで歴史学者を目指すエドワード(ビリー・ハウル)と、ヴァイオリニストのフローレンス(シアーシャ・ローナン)の結婚初夜を起点に、過去との往復、そしてその後を描いた作品だ。曇天のチェシル・ビーチの下で、ローナンのハッとするような透き通った青い瞳とドレスが美しい。撮影監督はショーン・ボビット。湿り気を切り取ったかのような映像が美麗だ。


若い主人公らの人としての様やそれぞれが置かれた環境は、初夜における頻繁な回想場面で明らかになって行く。過去に行ったり来たりの構成だが、とっちらかることなく、むしろ観客の興味を持続させる作りになっていて、ドミニク・クック監督の腕は悪くない。ビリー・ハウルは若さならではの率直さと危うさを体現しているし、シアーシャ・ローナンは思慮深く愛情に溢れた知的な女性を好演している。まぁしかしだ、先日観たアメリカ人高校生役『レディ・バード』(グレタ・ガーウィグ脚本&監督の傑作!)と打って変わっての演技で、彼女の演技力の幅広さを実感する。むしろあちらのレディ・バード役の方が、彼女としては異色と言えたのだろうが、ローナンが現代最高の若手女優の1人なのは間違いない。そう言えば、前述の『つぐない』にも子役時代のローナンが大きな役で出ていた。
閑話休題。観客が2人を知るに連れて、いよいよベッドインと言うときのエドワードとフローレンスの性的興奮と緊張が高まった時、2人のみならず観客も奈落の底に落とされることになる。


ある意味、底意地の悪い映画である。観客の心を試すかのような映画でもあるのだから。後半で「あれ、映像が飛んでる。ヘンな編集だな」と思っていたら、その飛んだ部分が最後の最後にまた痛い描写として出て来るという、徹頭徹尾意地悪な映画だ。それでも私はこの映画を気に入った。


映画の後半は主にエドワード側から描かれていて、フローレンス側の心理はほのめかされる程度である。だがこの2人、初夜を越えても上手く行ったのだろうか。恐らく違うだろう。根本的な理解が違うのだから。古風な家庭に育ちながら、実は自立した大人でリーダー気質で先進的なフローレンスは、かつてモノ扱いされてトラウマとなっていた。それがエドワードとのベッドインで思い出されたのだ。自立したいのに、また自分はモノ扱いされるのではないか、と。果たして実は幼いエドワードにそれが理解出来たのだろうか。理解できるには時間が必要だったのではないか。


人生を後から振り返った時に、明らかに岐路と思える時間と場所があったとしたら。エドワードとフローレンスにとってはチェシル・ビーチだった。だがそれは、誰にでもあるかも知れない所なのだろう。あの時こうしておけば。あの時もっと知っていれば。あの時もっと相手に対して思いやりが持てたら。だが時間は無情にも過ぎて行くし、戻る事は叶わない。人生は続いて行くのだ。異色の青春映画とも言えるタッチで描きつつ、人生の残酷さ、時の残酷さを描きながら、だからこそ、その時その時を儚く美し捉えている映画だ。


今年観た『君の名前で僕を呼んで』にも、恋が終わった後に寄り添ってくれる父親がいたが、こちらにも知的で思いやりのある父親像があった。邦画では中々無い、ある種の理想像なように思えた。
機会があれば是非。

カメラを止めるな!

”One Cut of the Dead” poster
カメラを止めるな!』鑑賞。面白かった! 土曜午後のシネコンは満席という盛況ぶり。SNS中心に拡散されている話題作だものね。新宿で観られなかったので、近所で上映開始してありがたや。


この映画、あちこちで言われているように内容の紹介が非常に難しい映画である。何をしゃべってもネタバレになるからだ。予告編ですら観ない方が良いとまで言われているくらいである。取り敢えず「四の五の言わずに観てみて!」という映画なのだが、それだけでは伝わらないだろう。以下、微妙に内容に触れるので、全く予備知識なしに観たい方は読まれない方が宜しい。 『カメラを止めるな!』は、もし三谷幸喜に映画脚本家と映画監督としての才能があって、しかもゾンビを題材にしたら、こんな映画を撮っていたのでは?という娯楽作品だ。加速度的に盛り上がる集団劇の終幕には、身体ギャグと人物の名誉回復と成長と感動と綺麗なまとめがあって、そこら辺も三谷を想起させる。三谷映画との決定的な違いは、映画的リアリズムをちゃんと理解しており、それが映画の面白さに昇華されている点だ。


映画は3幕構成になっている。話題になっているのは37分間ワンショット長回しゾンビ映画パートだろう。ここは本当にワンショット撮影で行っているようで、スタッフもキャストもかなり頑張っている。間が抜けているのはご愛嬌だが、正直に言ってそんなに面白いかどうかは微妙だ。おまけに全編手持ちカメラの手振れ撮影で、私はあやうく画面酔いしそうになった。だが観ていて「?」「??」となる箇所が幾つかあり、これがまた後で効いて来る。映画が映画らしくなるのは2幕目以降だろう。ここでは丁寧な脚本と演出と無名の役者たちによる好演があり、脚本と監督をした上田慎一郎という人は中々の腕前だと思う。そして待ってましたの3幕目。ここで映画は一気呵成とばかりに畳みかける。この集団劇を上手くまとめる手さばきはかなりのもの。それまでの人物描写や伏線が効いて来て、劇場内は爆笑に包まれる。そして多くの観客は、登場人物らに対して内心で応援を送っていたに違いない。如何にピンチの連続を乗り切るのか!? 緊張と笑いが団子になって転がっていく様を見守りながら、各人たちの火事場の馬鹿力に声援を送りたくなる。場内が明るくなってから、あちこちで笑顔と笑いが起きていた。この一体感こそが、映画館で『カメラを止めるな!』を観る醍醐味だ。


超低予算の自主製作映画だからと言って侮るなかれ。この機会に是非、予備知識なしで観て頂きたい。お勧め。

Streets of Fire

Streets of Fire
ストリート・オブ・ファイヤー』デジタルリマスター版を鑑賞@チネチッタ
十数年振りのチネチッタでの映画鑑賞は、大好きな映画なのに劇場での鑑賞は初めて、かつライブザウンド初体験というものだった。1984年の映画なので大音量だと音割れなどしていないかと思っていたが、杞憂だった。冒頭でのライ・クーダーによるガンガン鳴るロックギター音楽の音色は、時代を感じさせるものの威勢が良く、特に中低域の太さが好ましい。高域だって時代を考えたら立派な物。この「ロックンロールの寓話」には、ライブザウンドの大音響は似つかわしかったと断言できる。


このウォルター・ヒルの今や代表作に数えられる映画は、劇場公開当時は世界的ヒットをした訳ではない。にも関わらず、未だにこうして根強いファンがいるのは不思議なものだ。今回のリバイバルで劇場で初めて観た人も多いはずだ。ギャングたちにさらわれたロッククイーンを取り戻すべく、元恋人で流れ者のガンマンが、仲間たちと一緒に救出に向かい、取り返しに再び街を襲ってきたボスと対決し、最後は去っていく。プロットはこれだけだ。よく言われているように、現代版アクション西部劇+恋愛もの+ロック映画という、ジャンルをまたがった作りになっている。そのどれもが定番のジャンルなのだが、それらが融合した映画は他に余り例が無く、それがこの映画を独自のものにしている。青春映画の側面もあるにはあるが、主人公の凄腕ガンマンで流れ者のトム・コーディが、20代の若者の割に常にストイックで冷静沈着なので、「青春」の持つギラギラ感は希薄だ。マイケル・パレは表情に乏しく、台詞も棒読みに近い。それでも結果的にトムという映画史に残るカッコ良い男になったのが面白い。とにかくスリーピング・アイの顔だけでも美しいのだ。


対する悪役であるギャング暴走族のリーダー、レイヴンを演じるウィレム・デフォーは、今や名優なのに、肌の艶以外は余り変わっていないように見えるのがまた凄い。デフォーはガリガリのイメージだが、ここでは胸板なんて分厚くてかなりガタイが良いし。瞬きをせず、常に不敵な笑いを浮かべて落ち着き払っており、威圧感満点だ。


もちろん、34年も前にダイバーシティを先取りした兵士マッコイ役エイミー・マディガンの好演は抜きに話せない映画だ。今回大画面で観て気付いたのは、彼女が映画に明るさをもたらしているということ。常に軽口をたたき、自らの怒りを隠さず、率直な女。いざとなると度胸満点で頼りになる女。この映画で1番人間味があり、かつ魅力的な人物だと言えよう。マッコイ役は当初はエドワード・ジェームズ・オルモスが想定されていたとのこと。もしオルモスが起用されていたら、それはそれで魅力的だったろうが、映画史には残らなかったろう。それだけマッコイという相棒は、革新的な人物だったのだ。


これが映画デヴューとなったリック・モラニス演ずる、ロッククイーンの現恋人兼マネジャーのビリー・フィッシュも、意外に男気があって印象に残る。趣味の悪いゴージャスなスーツと言ったら! この生地、柄の悪趣味さは、劇場の大画面ならではの発見だ(トムのアルマーニの衣装も、ラストで着ているシャツの襟が擦り切れているのを発見。これも大画面の恩恵である)。 彼ら彼女らに比べると、ダイアン・レイン演ずるロッククイーン役エレン・エイムは勿体無い。女を描けないヒルらしく、またヒル自身も彼女に余り興味が無いと見え、一本調子の描き方だ。単に上昇志向の身勝手な女に見えなくもないのだ。しかし、だ。この映画のダイアン・レインはひたすら美しい。役は20代前半か半ばの設定だろうが、実は撮影当時17歳の彼女が画面に映っているだけで、自然と目が行ってしまう。この美しさが映画に彩りを与えたのは間違いない。マイケル・パレダイアン・レインの美男美女カップルは、正に眼福なのだ。


ヒルの演出は端正でストイックでアップテンポ。全てが一筆書きのようにさっと描かれている。ドラマもアクションもそう。例えば映画冒頭。姉リーヴァが経営するダイナーに、街に戻って来たトムが入る。カウンターに着いて、ウェイトレスが淹れたブラックコーヒーをすするトム。リーヴァは他の客を相手にしていてトムに気付かない。そこにゴロツキどもが店に入って来る寸前に、リーヴァはトムに気付き、お互いに目と目を交わす。ここには一切の台詞がない。だがこの姉弟の関係を見事に描いている。この後、ゴロツキども相手にトムが腕っぷしの強さを発揮する、胸のすく活劇場面が描かれるのだが、これも時間にして数十秒だ。中盤にある敵のアジトに乗り込んでのエレン救出劇、終盤のレイヴン対トムの一騎打ちも、迫力はあるが、近年のアクション映画では考えられないくらいあっさりしている。アクション映画なのに人が1人も死なない、というのも理由としてあろう。だがヒルは元々こういう瞬間的なアクションを描く監督だし、思い返してみれば70年代80年代のハリウッド活劇の多くはこんなものだったのだ。特にこの映画は、アクション場面だけではなく、映画全体が停滞することなくアクションして活劇しているのだ。不足はない。


そしてそのあっさりは、映画の冒頭とラストに用意されている素晴らしいロックコンサート場面の布石だろう。冒頭の「ノーホエア・ファースト」、ラストの「今夜は青春」。大仰でドラマチックなジム・スタインマンによる2つの名曲は、それぞれ数分ずつある長めのもの。引っ張って引っ張って映画全体を盛り上げる。特に「今夜は青春」は映画のクライマックスに相応しい盛り上がりを見せてくれる。同時に街を去っていくトムを描き、彼には幸運にも相棒が出来たようだ。こういった明るさが映画を悲壮感とは無縁の仕上がりにしていて、映画の後味も良くしている。


大画面と大音響で是非楽しんでもらいたい傑作だ。